テーマ:遠賀川

筑前国 嶋郡 宗像郷

むなかた電子博物館 紀要 第2号 2010年4月1日 【研究論文】 宗像地域の古代史と遺跡概説   論文末尾 P95  より Google で検索してください。 【   d-munahaku.com/culture/kiyou/files/kiyou_100401/46-98.pdf   】 「 さらに…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

邪馬台国は北九州市 若松区

万葉集の歌のルート は、 津屋崎の宮地嶽⇒宗像市(神湊、東郷)⇒宗像市名残⇒靡山⇒若宮町役場⇒宮田町役場⇒遠賀川の木屋瀬⇒中間市役所⇒折尾駅⇒本城の相坂池⇒県道277号⇒頓田⇒安屋の八幡神社⇒芦屋町の山鹿 安屋の八幡岬は隋書倭国伝の邪靡堆かもしれない。 安屋に小字 「童子ヶ浦」 という場所がある。 「童子」 は、 ① …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

万葉集2727  夏身の浦

万葉集2727 酢蛾嶋之 夏身乃浦尓 依浪 間文置 吾不念君 酢蛾島の 夏身の浦に 寄する波 間も置きて 我が思はなくに 酢蛾嶋 若松区は江川があるため、昔は島郷と呼ばれた。 所在地未詳の遠賀郡宗像郷は所在地未詳の酢蛾嶋で、 解答は若松区でした。 夏身の浦 芦屋町の観光名所 夏井ケ浜 芦屋町…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

北九州市 若松区  小石比売命 (古事記)

淡海 は遠賀川の下流だった。 万葉集の淡海は石走りで鯨が泳ぐ海である。 また、志賀の海人が製塩をしている。 北九州市で製塩遺跡がある場所は若松区と小倉南区 曽根。 瀬戸内の周防灘沿岸は鯨が泳ぐ海ではない。 「石走り」 という地名は露出した石灰岩の白い崖が見られる裏門司と田川に多い。 若松区の二島にも 「石走り」 と…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

淡海 は遠賀川下流の立屋敷

万葉集1715  楽浪之 平山風之 海吹者 釣為海人之 袂変所見 この歌では楽浪の平山は海辺にある。 万葉集3236 青丹吉 常山 ― 宗像市名残は常世村 山代 管木之原 血速旧 于遅乃渡 隴屋之 阿後尼之原 山科之石田之社之 須馬神尓 相坂山 山科の 石田の社の須馬神 とは中間市の磐瀬行宮で…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

むなかた電子博物館

むなかた電子博物館 で、宗像市を知ろう ! http://d-munahaku.com/index.jsp むなかた電子博物館 文化財  より 名残遺跡群 は名残 ・ 冨地原 ・ 徳重 の3地区にまたがって20万㎡以上に分布する遺跡群の総称です。 ここでは昭和60年度に実施した3つの遺跡についての報告です…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

汐井掛遺跡

汐井掛遺跡  鞍手郡若宮町沼口、宮田町上有木 山口川が山間から平野部に入る辺りの左岸、靡(なびき)山から延びる丘陵上に立地する弥生時代後期から古墳時代中期の墳墓群。 昭和49年 - 52年 (1974 - 77) にA-C の墓地群、集落跡、古墳群が調査された。 A墓地群からは土壙墓77基 ・ 木棺墓151基 ・ 箱式…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

三野 の場所

万葉集3242 百岐年 三野之国之 高北之 八十一隣之宮尓 日向尓 行靡闕矣 有登聞而 吾通道之 奥十山 三野之山 靡得 人雖跡 如此依等 人雖衝 無意山之 奥礒山 三野之山 この歌の場所は、 ① 考 三野より、和名抄の蓑生郷(「蓑」の正しい字は「艸カンムリ」に「衣」)で、福間。 福間の滝は古賀市 薦野(こもの)の清瀧…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

遠賀川文化

遠賀川文化 弥生時代前期の西日本の文化を遠賀川文化と呼んでいる。 遠賀川文化は福岡県 立屋敷 (たてやしき)遺跡の遠賀川の川底からみつかった遺物に基づいて名づけられた。 遠賀川文化の指標は遠賀川式土器であり、へら先につけた簡素な模様を特徴とする。 遠賀川式土器は、壺・甕(かめ)・鉢・高杯(たかつき)からなり、このセッ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

方城町周辺の小字 

(小字の一部を抽出) 赤池 正ノ下 正ノ辻 生刀(とね) 神崎 火焔ヶ浦 金田 早瀬 櫛町 光り 市津 奈良原 草場 増財(東光寺のあたり) 奈良原 鋤木田 天郷 弁城 弁天 八幡 久留寿 上照り 照ヶ瀬 畑 丸山 高天 見六天 金山 広谷 榊尾 尼ヶ渕 石町 壱ツ町 瀬戸…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

「真」がつくもの

真鹿児矢 真床追衾 真床覆衾 真名鹿 真坂樹 真賢木  真経津鏡 真木の灰 真火 真神原 天真名井 真人 真鋒田高天 真砥野比売命 真若王 御真木入日子 御真津比売命 真梶繁貫き 真気長く 真鉇持  1385 真櫛用  1233 真葛 真葛原 真田葛原 真杭…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

方城町の記紀伝承 3

『福岡県の地名』(平凡社) より 畑(方城町伊方) 伊方川上流の広谷川流域に位置し、南は下伊方村・上伊方村。 江戸初期に開発された畑銅山がある。 畑銅山 現方城町伊方の広谷を中心とした銅山。 竜ヶ鼻という山の斜面に存在する銅・硫化鉄鉱の鉱山。 銅山としての開発は小倉藩の細川時代にさかのぼる。  ・ ・ ・ ・…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

方城町の記紀伝承 2

『方城かたりべ』(平成6年) より P20 耳だれ鼻だれの話 いつのころか、岩屋権現さんの洞穴には「耳だれ鼻だれ」という赤鬼が住んでおった。大きな大きな奴だった。 夜になると久留守池の横から、盗っ人道を通って、赤池の方へ降りていった。 何をしているのか、朝帰ってくるときは手ぶらで何も持ってはいなかった。村人達はこっそり…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

方城町の記紀伝承 1

方城町は福岡県田川郡にありましたが、現在は合併して福智町の一部です。 『方城かたりべ』(平成6年 方城町教育委員会 発行) より 方城町の名の由来 伊方 仲哀天皇の時代に熊襲の反乱平定のため、九州に兵を送ったことがあった。 その時この里の土民が弓矢に長じているのを聞かされ、召されて先鋒の軍に加わったが非常に強かったとい…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

糸田町史 より 3

『糸田町史』(平成元年) より P904 郷土に住む者の中で最も古くから多数を占めていたのは農民で、農民生活につながりを持つ神社が多く、人々は神社を常に霊地としてまた生活慰安の場所として崇敬してきた。黄金の波が平原一杯にただようころ、農民は老人も若人も神社に集まり、五穀豊穣を神に感謝し、一日の慰安を過ごすことが、江戸時代から…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

糸田町史 より 2

糸田町の泌泉について 糸田町史 より P46 中元寺川と泌泉の清流に育まれた糸田の地は、土地は越え、気候にも恵まれ、暮らしの良い土地ではなかっただろうか。農作に必要な水利の便が良かったことは、「糸田」の地名の起こりともされる泌泉の伝説からも知られる。 すなわち斉明天皇の時代(西暦655~661年)、この地に来た大連大…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

糸田町史 より 1

糸田町は福岡県田川郡に位置する。 『糸田町史』(平成元年)  より P35 霧は山口等瀬戸内海地方に比べては、発生日数は少ないが、県内各地に比べると、盆地性気候による霧発生が多い。 終戦前後から昭和35年ごろまで、筑豊炭田採掘中は炭塵浮遊のため霧発生日が大変多かった。昭和29年ごろより年間100日以上も発生し、特に彦山川…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

田川市・糸田町の小字

『福岡縣史資料』(昭和11年)に載る「明治十五年字小名調」で小字を調べる。 一部を抽出。 下伊田 石走り 五郎瀬 赤加利(あかり)町 上糸(位登) 七夕 金国原 真田 中国 乙女 ※万葉集では七夕が歌われている。 下糸(位登) ソフリ 乙女 上弓削田 有身 雨降 泌 諌山 無言々々(むごむご) イ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

高天原筑豊説

高天原が筑豊にあったとみるなら「天の真名井」を探して、糸田町の泌泉になる。泌泉については糸田町ホームページを見るのが早い。 糸田町役場の辺りの地名を「原」という。 糸田町~田川市弓削田が高天原だろう。 天岩屋戸をネットで検索して探すと、田川市に関山(関ノ山)洞窟遺跡がある。 場所は関の山鉱山と思うがよくわからない。 田…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

熊襲=高天原か

岩波文庫 日本書紀1巻 神代より P50 天八十河中に所在る五百箇磐石 ※安河(P42 5行目)の流れ方は八十河である。 遠賀川の流れ方は八十(やそ)河である。 P56 大綾津日神 ※「綾」は福岡県京都郡 豊津町の綾野、山口県下関市の綾羅木 赤土命は築城町の赤幡か。 P90 是の時に、素戔嗚尊、天より出雲…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

仲哀峠  熊襲  高天原

①考 日本書紀 仲哀紀 神功皇后が若松の江川を通る、で考える。 日本書紀の仲哀紀を読むと、神功皇后は若松の江川を通っている。熊鰐は遠賀川河口の豪族とされている。熊鰐が天岩屋戸と同じ儀式を持っていたことは特筆に値する。 高天原の所在地は岡県である芦屋町・遠賀町・岡垣町付近にある。 遠賀郡誌によれば、仲哀天皇一行は中間市底井野…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

遠賀川の記紀伝承 44

『遠賀郡誌』 総論  P76~77 瀑布 鮎返りノ滝 岡垣町大字手野の南16町荕原と云所にあり、高2丈余、幅2尺余、細流岩上を伝ひ灑き落るさま頗る美観なり、水源葛城山より出て流末を篠間川と云ふ。 音(イン)滝 香月村大字畑の東大場床より18町許山奥にあり、3段に分る、一は高1丈9尺幅6尺、一は高3丈5…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

遠賀川の記紀伝承 43

万葉集 153 鯨魚取 淡海乃海 1062 名庭乃宮者 不知魚取 海片就而 ・ ・ ・ 海石之塩干   万葉集は(株)おうふう の原文萬葉集を必ず使用し、通常の訓み下し文は読んではいけない。万葉集の訓み下し文は学者によって歪められている。 万葉集1062では難波の海に鯨がいる。大阪湾には鯨はいない。 「海石」(いくり)は…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

遠賀川の記紀伝承 42

遠賀郡誌(P715~716)によれば、芦屋町に姫ヶ田圃石窟がある。 「田圃」はタンポとよむ。姫がたんぽ である。 姫ヶ田圃石窟 姫田圃  山鹿区字百姓町の北三町余にあり、山の東に大岩の出﨑あり、其崖下に穴二つあり、一は高2尺5寸横4尺、一は高3尺余横5尺余、深さ各5・6尺、窟内より土器の類出し事あり、乱世に人の隠れ住みし所と云…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

遠賀川の記紀伝承 41

『遠賀郡誌』  嶋門村 嶋津は、古へ嶋門の駅趾にて、延喜式にも載せられたる著名の地 鬼津も古へ太宰府より京に上る官道にて、官津(オンヅ)の由なるを後に転訛せしもの也。 ここを西の若松といへり。 尾崎昔は大崎と書けり。 広渡昔は島門の渡口にて、川幅広潤なりし故に大済川と云ひしを後、広渡とも唱へし。 別府昔は太宰府の官人出張…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

遠賀川の記紀伝承 40

『遠賀郡誌』  芦屋町  勝地 古歌に水茎の岡湊とも読めり。 貝原翁云水茎とは水の入る所を云、近江国にも同名あり。宗祇の指南抄に水茎の岡のやかたとよむは近江なり、只水茎の岡とは筑前なりといへり。 此入江そのかみは底井野村埴生村のあたりまで遠く江水堪へて渡口甚広かりし由続日本紀に見えたり、今広渡など云村名あるも其名義の残れる…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

遠賀川の記紀伝承 39

『遠賀郡誌』  芦屋町  神武天皇社  岡松原の中に在り。    ・ ・ ・ ・  編者按ずるに、昔が原は古へ岡田宮の趾なれば里民其御徳を慕ひ奉りて社殿を建てて奉祀し、社殿の頗る宏壮なりしに乱世に及て度々兵燹に罹り僅かに小祠のみ残り居けるに、後世仏法盛になり宮址を寺とし芦屋寺という梵刹となし(今の観音寺)、境内に彼の小祠を移…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

遠賀川の記紀伝承 38

『遠賀郡誌』  芦屋町 芦屋は筑前国中広邑の一にして、又東郡中第一の広邑也。・ ・ ・ ・ ・ 此地上古より岡湊と称し著名なることは既に述ぶるが如し。中古に至りて旅船の出入次第に頻繁となり、遠賀、鞍手、嘉麻、穂波及び豊前の田川郡よりも米殻薪炭其他諸物品を持来り、又下関、博多等の各港よりも入津する船舶の積来る商品を交易し、或は其商品…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

遠賀川の記紀伝承 37

『増補 水巻町誌』 より P74・75 4~5世紀代の集落は、 水巻町の苗代谷遺跡 岡垣町の高丸遺跡 が知られている。 遠賀地域でのカマドの初例は5世紀後半の墓ノ尾遺跡一号住居跡(岡垣町)である。カマドとともにオンドルという炊事暖房施設をもった住居跡であり、朝鮮半島との交流が考えられている。 6世紀代の集落遺跡…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

遠賀川の記紀伝承 36

『増補 水巻町誌』(平成13年)   P39より さて、町内の立屋敷遺跡は、初期に稲作農耕を受け入れた可能性がある遺跡のひとつであるが、ほぼ弥生時代の全期にわたって集落などが営まれたもので、その立地は遠賀川の低地帯にある。この立地は、遠賀川の自然堤防の後背湿地の開発に適し、そこより人口を拡散させていった。さらに沖積の進展による後…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more