対馬 → 沖ノ島

沖ノ島の山 一ノ岳 「一」は道家の「一」
隋書俀国伝 都斯麻国からして一支国 だから、一支国は沖ノ島であって壱岐ではない。

宗像 海の北の道の中 主貴 
この「道」は道路、航路海路かもしれないが道家の「道」(タオ)とも考えられる。

荘子 秋水篇 北海若、井の中の蛙 東海にすむ大亀 

空蝉
空蝉の世(うつせみのよ)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/空蝉の世-2011383

空蝉の(うつせみの)の意味 - goo国語辞書
dictionary.goo.ne.jp › 国語辞書 › 品詞 › 枕詞

空蝉は仏教思想ではなく荘子 知北遊 の委蛻(いぜい)である。
空蝉は土井ヶ浜の人骨を連想させる。


岩波文庫 列子(上) 天瑞篇
P47‐7行目 旅人 大伴旅人  十 晏子曰く...
P48 十一 虚を貴ぶ  万葉集1 虚見津 山跡乃国


鳰の海(におのうみ)の意味や使い方 Weblio辞書
www.weblio.jp/content/鳰の海
「鳰の海」の意味は琵琶湖の別名のこと。

「鳩」角島大橋下の鳩島だ。


漢神信仰の祭祀
鎌倉時代 土井ヶ浜南遺跡 牛の 骨を使った卜占跡が出土

「牛」には何かある! | 神旅 仏旅 むすび旅
ameblo.jp/taishi6764/entry-11860261830.html


神功紀 歌謡
神酒の神 常世に坐す いはたたす 少御神の
いはたたす 土井ヶ浜遺跡の標石

瀛洲には積み石多し 土井ヶ浜遺跡の石囲み墓か


天智天皇  Wikipedia
漢風諡号である天智天皇は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる[5]。
森鴎外「帝諡考」による説。

福岡市東区香椎の御島 に地名対応
筑前国 嶋郡川辺里 戸籍 肥君猪手 占部が多い
筑前国=肥前国=越前国=淡海国
琵琶湖の竹生島=天孫降臨の竹島
摂津三島=香椎の松原=穴門の引島
松浦の仙姫
これらはみな土井(土肥)ヶ浜である。

記紀・万葉、古代史の謎は土井ヶ浜遺跡の謎である。
土井ヶ浜は東海、東夷で中国神話の場所だ。

北海 豊北町土井ヶ浜、和久古墳
南国 有冨 字「中村畔」、ハンドウ山、竹生山



『山口県風土誌』  阿武郡 大井村  P325
萩市 大井
海外にもはやく聞えたる地名にて図書編に倭委と見えたり。

大→倭 大国→俀国、泰山 蒲生野山田の大池、有冨の大迫池、大歳池
井→委 

葛洪 「淮南王 劉安が仙人になった」

西京雑記 Wkipedia
『西京雑記』(せいけいざっき)は、前漢の出来事に関する逸話を集めた書物。
著者は晋の葛洪ともされるが、明らかでない。

『西京雑記』は歴史書として見ると不正確な点が多すぎ、『漢書』匡衡伝の顔師古注では、『西京雑記』を大いにけなしている。
淮南王 劉安が仙人になったなど、正史と矛盾する話が多い(もっとも劉安の登仙の話は王充『論衡』道虚篇で批判されているぐらい古くからある伝説である)。

その一方、『西京雑記』に書かれている事柄が出土文物によって裏づけられることもある。
漢の皇帝のなきがらが「珠襦玉匣」を金縷でつづったもので覆われるという記述は、1968年に劉勝墓から金縷玉衣が発見されたことによって実証された。


中国神話伝説ミニ事典 図書編 神仙伝 - 草野巧のフランボワイヤン・ワールド
flamboyant.jp/prcmini/prcbook/prcbook063/prcb063.html
葛洪は『抱朴子』の中で、仙人になるには煉丹術によって不老不死の丹薬を作り、それを服用するのが一番だと主張している。『神仙伝』はその証明のために書 ... 巻四:劉安(りゅうあん)、陰長生(いんちょうせい)、張道陵。 ・巻五:泰山老父(たいざんろうふ)、巫 ...

点と線 推理小説

真南に位置する 経度が同じ ネットの国土地理院地図で計測
向津具(むかつく) 本郷山崎遺跡 板付式土器が出土
  ↓
狗留孫山 山頂のやや西側
  ↓
種子島 広田遺跡 130.967202


土井ヶ浜遺跡 130.886049
  ↓
北九州市小倉 城野遺跡 130.886071
重住 銅矛出土地 130.886430

測量術
淮南子 天文訓 「乗ずる」「除する」より掛け算、割り算ができた。

万葉集には九九の歌がある。
出雲風土記 楯縫
「此の天御量持ちて、天下造らしし大神の宮を造り奉れ」


点と線 松本清張 交通公社『旅』1957年2月号から1958年1月号に連載
西鉄宮地岳線 香椎駅 御幸町 大伴旅人
土井ヶ浜遺跡 英雄 大国主命
城野遺跡 墳丘墓 11歳前後の子供2人 事代主命、建御名方命
建御名方命は重い石を運んで玉作りしていた。
長崎県型弥生人骨 少彦名命

『モンゴル帝国が生んだ世界図』宮 紀子著 日本経済新聞出版社 2007年
P50
クビライが日本に派遣した有名な国使趙良弼の知り合いでもあり、いわゆる蒙古襲来の顛末を大元ウルスの側から「況海小録」という一文の中で比較的詳細に書き綴った王惲でさえ、対馬、壱岐と志賀島、大宰府の間に三神山があってそこに徐福の子孫が住んでいると、まことしやかに述べている。

元寇時、元の使者が下関市室津に来た。
元軍が土井ヶ浜→田耕(たすき)に侵攻。 田耕神社 甲殿遺跡 トンボ玉
→八道→豊田盆地へ向かっていたのか。

前方後円墳の形をした山 下関市
豊田町の華山(げさん)
 海上から見えて航海の目印になっていた
 西市から見ると段築あり
 山頂付近に弥生銅矛4振 4つは東西南北、天柱 四維か
 景行天皇、天智天皇が登って戦勝祈願 万葉集15
 修験道の道場 開山は役小角
 稲光に黄幡神社があった
空海が最初ここに高野山を建てようと思った場所は言い伝えで2か所ある。
萩市須佐町の高山(こうやま 黄帝社がある)と下関市豊田町の華山。
 
吉母の黒嶋
 黒嶋観音は聖武天皇の命により行基の開山。 風土記逸文 伊勢国 吉津島

有冨・蒲生野の竹生山
 梶栗から見ると双峰
 竹生寺の山号 高山、大和国東大寺 金実中の開山

積石塚古墳 下関市
三浦山遺跡 特牛(こっとい)
元山遺跡 角島
(参照)豊北町史 昭和47年 P114

積石塚古墳は阿曇族説あり。
行橋市 稲古墳 童は少命で阿曇連
前方後円墳を築き、甲冑の副葬品を添えるのは阿曇族ではないか。

阿曇族 長崎県型の人骨 東シナ海を航海 貝輪
山海経 海外東経 朝陽の谷 天 水伯
遠賀川の河童、若松区 蜑住(あまずみ)
縄文期の城野水道

参考資料
九州前方後円墳研究会 幹事 宇野愼敏
北九州の歴史 城野遺跡が語る邪馬台国の時代
九州島周縁部における島嶼所在群集積石塚とその背景 2010年
行橋市歴史資料館 常設展示

北九州市 城野遺跡の考察

考古学
北部九州のクニ論は福岡市中心であり、山口県下関市を見ていない。

文庫書紀②124‐8 仲哀紀
天皇、南国を巡狩す。...紀伊国に至りまして、勒津宮に居します。
紀伊国 企救国 小倉北区 木町か
徳勒津宮 徳力か

北九州市小倉の城野遺跡の真北に下関市室津、土井ヶ浜遺跡がある。
ネットの国土地理院地図で計測

真南の方向に位置する 経度が同じ
鳩島 海士ヶ瀬戸 角島大橋
 ↓
和久の北端岬 碑がある 美祢良久崎か
 ↓
土井ヶ浜遺跡
 ↓
矢玉の斎八幡宮
 ↓
室津
 ↓
永田本町 水産大学校 海岸の岩が明石
 ↓
北九州市小倉北区 赤坂
 ↓
城野遺跡

銅矛は豊田町の華山に伝わり、山頂に近いその場所は権現と称されるので、熊野である。

北九州市小倉 重住の「重」は襲。熊本+重住=熊襲
豊田町も熊襲である。

あるいは、
広矛は大国主命が地域を治めるものとして使ったので、出雲である。
文庫書紀①120‐5

狗奴国
角川 大字源 狗 「狗国」 春秋時代の斉の晏子が 楚をさげすんで言ったことば


「漢委和国王」金印 季刊邪馬台国 120号 表紙

委和は荘子 知北遊 にでてくる語 
中公クラシックス 荘子Ⅱ
P125
P124‐末行 蝉のぬけがら 万葉集 うつせみ


綾羅木川の北側、南側で出土物が異なる。
綾羅木川の東側・南側
 形山 須玖系土器、山陰出雲系
 稗田 蓋弓帽、清白鏡 飯塚市立岩遺跡と関係するか
 武久 半両銭
 幡生・後田 関西系の庄内式、布留式土器
 
綾羅木郷、土井ヶ浜 北九州市の高槻式土器

倭国の極南界は下関市有冨中村  昔は石原、延行は有冨村の内だった
倭国の領域 『モンゴル帝国が生んだ世界図』宮紀子著 2007年
 口絵7 徐福祠 長門 赤関
 P69 図35 迎江 徐福相 長門 赤関 讃

『 川中風土記 』  昭和45年
P23
下有富石棺  秋本さん墓地
有富村字市ヶ原にあり、すでに破壊され、石材に朱塗のあとが鮮明に残存しているが、墳墓の全容を知る由もない。 土地の人達について事情を調査してみると、約30年くらい前に発掘され、そのとき曲玉など多くの出土品があったと伝えられている。

石原コスパ  ホームセンター裏の台地 朱を製造する石杵が出土


知北遊 土井ヶ浜
北九州市 城野遺跡は下関市域の弥生遺跡と同じ文化である。

徐福研究 - BBS

徐福研究 - BBS
xufu-net.sakura.ne.jp/modules/bxBBS/
ttp://xufu-net.sakura.ne.jp/modules/bxBBS/viewbbs.php?bbs_id=1
[510] 何故日本に徐福の記録がないかby : 高木豊博 at : 2015/09/20(Sun)
(4)中国本土に知られないような努力をしていた
徐福は秦から逃亡してきていますから、中国の人々には知られないような努力もしていたのではないでしょうか。 それが分かるのが、陶淵明 (とうえんめい : 365 ~ 427年) が同時代の記事として描いた『桃花源記』 です。そこには桃源郷に至った際の記述に続いて、下記の文章が続きます。
自ら云う、「先の世に、秦の時の乱を避け、妻子・邑人を率いてこの絶境に来たり。 またここより出ず。 魏晋を論ずるなし。」 (中略) 此の中の人、語(つ) げ云う、「外人の為に道(いう) に足らざるなり」、と。
注 : 「外人の為に道(いう) に足らざるなり」 とは、他の人には話さないようにという意味です。
ここには、後に「桃源郷」 と呼ばれるユートピアが描かれています。 ここの住民は、秦の時代に逃れてきて住みついた人々で、周りの人々とは殆ど交渉がなさそうです。
また「のち遂に津(しん) を問う者無し」 という記事もあります。津(しん) は渡し場という意味ですが、これは「どう行ったら良いか分かる人がいなくなった」 ということです。 しかし実際は、徐福の渡来先はこっそり中国でも知られていて、明の時代に作成された2枚の地図 (広輿彊理図(こうよきょうりず) と声教広被図) で、長門の西に徐福祠、徐福相という記載となったのでしょう。 陶淵明は、徐福の600年後の人ですが、その状況を知っていたと私は考えます。


以下、Google で検索せよ
ttp://xufu-net.sakura.ne.jp/modules/bxBBS/viewbbs.php?bbs_id=1&start=70
[385] 徐福関係地図ー3by : 高木豊博 at : 2010/08/26(Thu) 11:57
[383] 徐福県警ー4by : 高木豊博 at : 2010/08/26(Thu) 10:23

ttp://rara.jp/kunakoku2/page590
Re: 田熊石畑遺跡(現説) 蔚山人 投稿日:2008年12月18日 10:13 No.599

土井ヶ浜遺跡の謎を解く 4

土井ヶ浜シンポジウムの土産は赤米 塩分を含む低地でできる
参照 学研 新漢和大字典 2013年版 「赤」

万葉集957 香椎
「滷」はアルカリ性の土地(骨が溶けない)、塩地

筑後 高良大社
祭神の高良玉命とは何か?

玉 貝製品、玉類装身具、

下関市豊北町 滝部八幡宮の字「高良」
風土記逸文 常陸国 信太郡 日高見国 赤幡(しだ)る

漢和辞典「赤」 角川 新字源 改定版 2015年 など
赤烏を描いた進軍旗、王朝の幟は赤、火、南、夏、神州、中国、都
徐福は漢人なので、徐福祠は滝部にあるか

土井ヶ浜 末盧国 太古は砂浜なくリアス式海岸だった
滝部 字「高良」 は伊都国


奴国は豊田町 ホタルの里
日高見国は豊田町 稲光、日野 か
 七々社遺跡(環濠集落) 長方形に溝で囲む
 大型の曲玉 稲光の田中六郎氏の家裏
 矢田遺跡 獣類の歯牙を数珠つなぎにした装身具
 高熊 須恵器生産

八道 八道岐(やちまた 古代では「みち」を「ち」といっていた)


木屋(こや)川を下る水行
投馬国 内避高国避高松屋種 の松屋 自衛隊小月基地

万葉集 筏(いかだ)下り
443 五十日太
3232 吉野の川下り

矢田御米蔵跡 安政元年(1854)に木屋川通船工事が完成
「目で見るふるさと豊田の 歴史と文化」 P101 平成11年

遠賀川のような川舟でなく筏作り
 ↓
動画
急流のスリル満喫 和歌山で観光いかだ下り

北山川筏下り  4K

北山川観光筏下り始まる


山口県 下関市豊田町 徳仙の滝

徳仙の滝(山口県・豊田町)


華山 げさん 713.3 m 参考 角川日本地名大辞典 山口県
西市から眺めると、前方後円墳に似た3段築がある。

この山は豊田郷は勿論、菊川町、豊浦町からも眺められる霊峯で、玄海灘を大陸に往航する船の上から、最後まで眺められる本州西端の最高の峯である。弥生時代以来、相当広く各地の住民から霊感視されていた山と思われる。
豊田町史 P54 昭和54年

別名
 月山 竹取物語の月の都か
 豊浦山
 大神山 原始古代の神は雷神、竜神、水神 神上寺に銅矛4振
 下山

山頂は2つの峰
東の峰 岩屋の峰 常陸国風土記の筑波山と同じ
西の峰 仲哀天皇殯葬所跡の石祠
 天智天皇の頃、西ヶ岳に権現の在所 万葉集15
 平安中期以前は豊田ノ郷全域が「伊奈女(いなみ 稲目)であった
山岳霊場 役小角の開山 葛城山か

華山の真東に七々社遺跡(弥生時代の環濠集落)がある。
日の縦 は東西線
咸陽・西安→沖ノ島、または淮河・江蘇・徐福村の凡そ真東の緯度 にある。
徐福が落人(おちゅうど)として住んだ平原広沢は豊田盆地か。


仲哀天皇殯葬所跡
上岡枝永川に属する華山の西の嶽の頂上に一小祠がある。嶽の宮といわれている。ここが、仲哀天皇が賊の矢にあたって落命されたので、殯葬したてまった霊跡であるといい伝えられている。
この跡地に、昔は、自然石で畳んだまんじゅう形の古墳があって、その中央に高さ一尺余りの烏帽子形の黒色の石様のものがあり、御真様(ごしんさま)といっていたが、石でもなく、真鍮のようでもあるが金属でもなく、暗夜には約二里を離れた所からでも望み得る光を発した。手を触れるとただちに天変があるといわれて来た。ところが明治20年(1887)ごろ、この光体が紛失して、行方知れずになった。有志の者が神罰を恐れて明治24年(1891)9月に祠を建立した。
(菊川町史 昭和45年 P60)

豊田町史 昭和54年
P54‐末から2行目
この祠が設けられてない以前 この位置に大きな岩が3個ばかりすわっていた。

土井ヶ浜遺跡の謎を解く 3 

倭国は下関市山陰側である。古代史料の「海」の字は豊北町である。

穴門館、臨海館の候補地
宇賀本郷、二見浦、矢玉、土井ヶ浜

『豊浦町史』は元の使者が来て泊まった 室津
万葉集3165 飛幡の浦 飛木寺 黒井 谷ヶ浜 金実中

現在の臨海館
油谷町 伊上 ホテル楊貴館 鴨野海中遺物 (油谷町史 1990年 P147)
附野 ホテル西長門リゾート 空海伝説 石槨 海上関があった
和久 道の駅北浦街道 豊北 和久古墳 大川に字「矢櫃」(やびつ)

北浦の古墳は和久しかない。渡海の湊はずばり和久である。

土井ヶ浜遺跡 死体は西の海を望む 神功皇后神社 宮ノ下遺跡(官衙跡)
土肥ヶ浜とも書く。 肥国、松浦、末盧国、倭面土国
鉄鏃(豊北町史 P97)

江尻 字「鳥羽」
万葉集1757 磐鹿六鴈 高橋
鳥羽淡海 筑波嶺は土井ヶ浜の神功皇后神社

三島県主飯粒、鳥樹 安閑元年 潤12月

垂仁記 本牟智和気の王
出雲の肥の河、肥長比売、鳥取部、鳥甘

国造本紀
桜井田部連の同祖 邇伎都美命の四世の孫 速都鳥命

魏志倭人伝で本土に最初に着く場所は末盧国
渡来人が来て最初に出会った倭人は穴門の伊都都比古、越の道君
「吾は是の国の王なり」

豊北町史 昭和47年 P129
吉田東伍は大日本地名辞書の中で、長門国では伊都都比古に擬すべき有力豪族の証がないとして、この穴門を筑紫の那津(博多)にあて、伊都都比古を古事記の伊斗村、つまり伊都県・怡土郡に住む古代有力豪族の伊都県主(仲哀紀)や、魏志倭人伝中の伊都国の国王に比定している。

大友皇子 詩賦の興、大津より始れり

万葉集2839
荒木、浮田 より、粟野川沿いの浮石か


伊予の熟田津の石湯行宮 和久大川の客神社は伊予国より勧請

娜大津 磐瀬宮 長津 事勝国勝長狭 枇榔の長穂宮
朝倉山

婀娜国 安閑紀
万葉集 隠津の妹に恋
豊浦団五十長凡海部我妹 豊浦町史 昭和54年 P125 末行

鷲がすむ筑波嶺 
羽白熊鷲 安 安房国
山門郡 田油津媛 夏羽 

儺(おにやらい)の河 裂田溝

これらはみな土井ヶ浜の神功皇后神社(神玉二の宮)あたり。
よって、穴門館、臨海館は土井ヶ浜の神功皇后神社あたりである。

下関市の瀬戸内海側の長府・前田は関西政権(ヤマト王権)の領地であって倭国ではない。日本書紀では関西政権は呉国、東漢氏、東国の強兵、蝦夷、倭種 と表記されている。
渡海ルート
関西政権 沖ノ島 → 宗像市  新羅・百済・高句麗とは国交がない。
下関山陰側の倭国 沖ノ島 → 宇賀、二見、土井ヶ浜、向津具


有冨古墳 提瓶
須恵器の提瓶は向津具、和久、有冨の古墳から出土しているので、有冨中村と向津具、和久とは往来があった。和久と有冨中村は飛ぶ鳥の関係にある。

北浦の古墳
 豊浦町 大門古墳 幡が黒井の飛木寺から有冨の竹生寺に飛んできた
 豊北町 和久古墳

字「鳥羽」 土井ヶ浜の江尻 大国主命
倭京の飛鳥 有冨中村 大国(やまと 文庫書紀④360‐4) 隋書俀国伝


荘子
中公クラシックス
荘子Ⅰ 逍遥遊 鵬
荘子Ⅱ 知北遊 無為

徐福
//邪馬台国大研究//
www.inoues.net/
→ 14. 日本古代史をとりまく謎
→ 6.徐福伝説のいろいろ
→ 佐賀市で開催された・徐福国際シンポジウム

出身
楚の国 説 狗奴国、熊襲か

小説徐福伝説3
www.linkproject.net/jofuku/page05.htm
「江南」の楚、呉、越は、中原の漢民族から「蛮」と呼ばれていた。 徐福の祖先は、殷から周の時代に、山東半島南部の淮河流域一帯にいた「莱夷・徐夷・淮夷」と呼ばれた住民ではなかったかとの説もある。ともかく、徐福は純粋な意味で言う漢民族ではない。

徐福は史記では秦始皇帝と淮南王 劉安で編集されている。


徐福と澶洲
www.eonet.ne.jp/~temb/12/zyohuku.htm
徐福と澶洲. 以下は史記に見られる徐福関係の記述です。


隋書俀国伝 秦王国、華夏、夷洲


夷洲は土井ヶ浜である。
後漢書 呉地 会稽海外に東鯷人あり。

梁書 倭人は呉の太伯の後裔と自称している。

呉書 亶州に住んだ徐福の子孫は会稽に来て商売をした。
 ↓
土井ヶ浜遺跡から出土のシャコ貝製頸飾りは、南中国との密接な交流を物語る貴重な遺物で、国内には類例がない。
(山口県の古代遺跡〔Ⅰ〕 古代遺跡教材化研究会 P77左)


山口県史だより  第20号 平成15年10月
北浦地方では親が子供を叱る時に 「そんな事をしよるとゴンゴチィーに連れて行かれるよ」 「ゴンゴーが出てきてかぶられるよ」 と言っていた。
北浦地方にある、恐ろしい化け物を連想させる「ゴンゴチィー」 や「ゴンゴー」 とは一体何なのでしょうか。
この地方では蒙古の兵士に由来すると理解されているようです。
※ 「北浦」 とは山口県の山陰沿岸のこと。 山口県の地元言葉

私見 「ゴンゴチィー」 は呉国の遠征軍来襲か。
孫権 Wikipedia
即位の翌年、衛温・諸葛直に1万を与え、夷州と亶州の捜査を行わせた。 夷州から数千人を連行するも、この捜査は失敗に終わり、孫権は、衛温・諸葛直を処刑した。

『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 著 三一書房 1996年
P46 「万の兵が数千人しか帰らなかった」 とも読める。

油谷湾 八幡神の上陸地

油谷島の東側 字「梶ヶ平」

伊上
河原八幡が鱏(えい)に乗って上陸した。
伊上八幡の神が上陸した。

戎島(はたけ島) 一尺ばかりの石のがあった。
推理すれば、秦島→畑島→はたけ島 と転訛か。

角山(かどやま) 仏﨑・牛が爪
牛に乗った八幡様が海から上陸し、ゆずり葉山に鎮座した。
私見 八幡人丸神社がある油谷 新別名に徐福が定住か。

これをさらに考察すれば、
新別名の熊野岳(359.2m)の真北に字「長久」
別名は紀伊半島の熊野・宮に地名対応する。
※ 字「長久」 は下関市冨任 下関工校 東側の小字にもある。

油谷→熊野(ゆうや)
 熊=火の光がさかんに輝く
 八幡=火の神説、近江八幡の火祭り
 人丸神社=鍛冶説

角山地区 字「平原」がある。
蔵小田地区 藤森須賀神社は藤森神社を須賀神社に合祀した。藤森神社は北の広域農道沿いにあった。油谷町の中心は字「渡場」なので、5、6年前に藤森神社が元あった場所の農家3、4人に藤森神社について聞いてみたが、関心がないため何もわからなかった。

豊北町阿川
神宮崎(新宮崎)にも八幡神上陸の伝説がある。阿川八幡宮 社伝


日本地名資料集成 角川日本地名大辞典 別巻Ⅰ 1990年
P126 交通路および拠点 5 作図 森田悌
を見ると、下関市の山陰側には古代官道がない。旧長門国の豊浦郡と大津郡の西側(油谷・日置)が倭国の領域であることがわかる。

なぜ官道が通ってないのか?
関西政権 日本国とは別の倭国(邪馬台国)の地域は旧勢力がいて忌む。
倭国は人為的なものを排する道家の無為だから巨大建造物がない。

土井ヶ浜遺跡の謎を解く 2

黄泉の国、それは土井ヶ浜。 倭面土国。

角川ソフィア文庫 新訂古事記  国譲り  P62
出雲の国の多芸志の小浜に、天の御舎を造りて、水戸の神の孫櫛八玉の神膳夫となりて、天つ御饗献る時に、禱き白して、櫛八玉の神鵜に化りて、海の底に入りて、底の埴を咋ひ出でて、天の八十平瓮を作りて、海布の柄を鎌りて燧臼に作り、海蓴の柄を燧杵に作りて、火を櫕り出でてまをさく、「この我が燧れる火は、高天の原には、神産巣日御祖の命のと足る天の新巣の凝烟の八拳垂るまで焼き挙げ、地の下は、底つ津石根に焼き凝して、栲縄の千尋縄うち莚へ、釣する海人が、口大の尾翼鱸さわさわに控きよせ騰げて、打竹のとををとををに天の真魚咋献る」 とまをしき。
かれ建御雷の神返りまゐ上りて、葦原の中つ国を言向け平しし状をかへりごとまをしき。
  ↓
この場所は土井ヶ浜


孝元記
沼河別命は阿倍臣等が祖なり。

伊賀は根崎へ行く道の上野

宮ノ下遺跡 官衙跡 近江宮
不破の道は土井ヶ浜から滝部へ行く道。 城山がある。

令和の湯玉寺

伊都国の一大率は軍事施設と考えられるので、湯玉の鯖釣山にあった山城(未調査)しかない。
湯玉の庄屋は善念寺と聞いた覚えがある。湯玉の善念寺が令和梅歌会の大宰府だ。

ゼンリン地図を見ると、善念寺の南に新宅さん(新家屯倉か)、有冨さんの家がある。


『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮紀子 著 日本経済新聞出版社 2007年
P69 図35
団長 豊浦団 宇賀本郷
修後、修前 狗留孫山 修禅寺

赤関
永田本町(海岸が赤石) 海上自衛隊基地の山 箙(えびら)山
福江大塚 赤坂(王子八幡宮付近 地下上申絵図)

山口県風土誌 帆柱瀬 によれば、
神功皇后は古宿の豊関建設資材置場の磯崖を上って上陸した。


讃 有冨 中村畔 「儀万」 という家 江戸時代の庄屋

有富中村は 北に竹生山、南に川 で 天子南面、四神相応


赤関
 垢田ノ辻 江戸時代に関所があった
 伊倉 字「要須」 旧 川中中学の西側
 
 関後地、赤間町
 讃は長府か。なぜ長府が「讃」という漢字表現なのか。

図35 南端の海岸線は壇ノ浦のではない。
赤関は吉母~吉見古宿あたり。船越川河口 字「やびつ(矢櫃)」
讃は秋根、一の宮、前勝谷あたり

なぜ「讃」という漢字表現なのか。

スペイン赤 960円、サッポロ黒ラベル を飲みながら見た動画

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『邪馬臺国か? 邪馬壹国か?』倭国の名称「倭奴国」( 永井正範 ・・古代史/九州王朝)

『邪馬臺国か? 邪馬壹国か?』范曄の「倭国の極南海」( 永井正範) ・・古代史/九州王朝

「邪馬台」倭国=豊国 説 (福永晋三)


令和元年度 海の道むなかた館 西谷正館長講座 第2回:日本文化の原点をさぐる-東夷伝のみち・韓国古代史紀行-

宮地嶽神社のおおしめ祭①


『魏志倭人伝』における陳寿の理念による記述 | 渡邉義浩 | 10MTVオピニオン


1976年 ヒット曲200

【世界の闇】2つの日本地図を重ねた時に、気づいちゃいけない事実が浮かび上がる【都市伝説】



筑紫国 那津の口
宣化紀 文庫書紀③228‐7
 阿蘇仍君 河内国の茨田郡
 蘇我稲目 尾張 -油谷町 久富 字「稲石」 稲目石という。
 物部麁鹿火 新家-湯玉浦 字「新町」 山口県地名明細書
 安倍臣 伊賀

講談社学術文庫 倭国伝
「宋史」日本国 
P278‐末 より、天皇家系譜の異説異伝が載る。

倭は帯方の東南 下関市豊北町、油谷町
大海の中にあり 豊北町二見の「二見」は「大海」にちなむ説あり。

曹操
『三国志』の英雄 曹操 林田愼之助 著  清水書院 2019年4月
P203 詩 滄海を観る
P206 神仙養生の術
  ↓
曹操は淮南子の劉安にそっくり。
義は人の大本なり。 淮南子 人間訓
明治書院 淮南子 下 P1055‐末行

曹操の父 曹嵩は出自不明なので東夷の倭人であろう。
日本の古代史で曹姓の人を探せば、宋書倭国伝の司馬曹達である。

曹達 (倭) Wikipedia  
曹 達(そう たつ)または司馬 曹達(しば そうたつ、生没年不詳)は、5世紀前半(古墳時代中期)の倭の官吏。官職は司馬。
倭王(倭の五王の1人)の臣。中国系渡来人と推測される。
中国歴史書の『宋書』夷蛮伝倭国の条(宋書倭国伝)によれば、元嘉2年(425年)に司馬の曹達はによって宋に遣わされ、文帝に表を奉り方物(地方名産物)を献じたという。


『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮紀子 著 日本経済新聞出版社
P69 図35
長門島 最北端が「迎江」、最南端が「讃」
  ↓
倭国の極南界は下関市有冨の中村秋州だろう。

海の道 豊北町二見

豊北町史 二 平成6年
P835 北宇賀 神社祠堂
河内社(寺畑) 祭神 光る自然石 隕石か

河内社(下二見)
祭神「相殿」瀬津姫神(水の神、の神)、大山積神(山の神)
祓の神は橘の小戸で伊奘諾尊が禊ぎした所

杵崎社(下二見) 祭神 津彦命、津姫命(風の神)
嶋より浦島太郎だろう。三島、宇佐嶋、オノゴロ島か。 沖ノ島を望む神か。浦島太郎なら往古二見にあったろう潟湖は水江=日下江。雄略天皇の宮と日下は近い。

福岡県宗像市 海の道 むなかた館
御岳 大島
織幡神社 鐘崎

下関市豊北町 海の道 東夷
御岳 狗留孫山
瀬織津姫神 下二見


下照姫(高姫) 文庫書紀①128‐歌謡
二渡り 二見
石川片淵

万葉集
213 吾二見
224、225 石水、石川

227 生毛無
古事記 一尋鰐 紐小刀 佐比持の神

575 草香江
友無 二は二見を示す


直子は猿が多いので、猿田彦の地である。
岐神はJR長門二見駅あたりか、寺畑に入る道 庚申塔であろう。

倭面上国は二見浦 字「上浜」 読み「かああま」