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邪馬台国 下関
ブログ紹介


講談社学術文庫 『 倭国伝 』  旧唐書 P205、208
旧唐書に
「倭国は、古(いにしえ) の倭の奴国也。」
「日本国は、倭国の別種也」

竹取翁博物館  邪馬台国や徐福に関心を示された 2014.4.14
http://blogs.yahoo.co.jp/koiiyk/31302118.html
  ↓
中国の古地図 日本国と倭が別に描かれている。


中国正史の古代日本記録
いき一郎 編訳 葦書房  1984年 1992年 第2刷
P49
後漢書 巻80 「烏丸鮮卑列伝」 に、
鮮卑の檀石槐が光和元年(178年) に、魚をつかまえるのが巧みな倭人のいる倭人国を撃って倭人をとらえ、倭人に秦水の魚をとらせ食糧にした、とある。
「三国志」 は倭人を人とし、倭人国を人国としている。

この場所は鳥取県の青谷上寺地遺跡である。 近くに地名「汗入」 がある。

青谷上寺地遺跡展示館 ホームページ
http://www.tbz.or.jp/kamijichi/index.php?view=4095
土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム ホームページ
http://www.doigahama.jp/

佐賀 ・ 徐福国際シンポジウム
http://inoues.net/study/jyuhuku2008.html
  ↓
赤関=天関
文庫書紀@198-末 神武東征
是に、火瓊瓊杵尊、天関を闢き雲路を披け、仙蹕駈ひて戻止ります。



参考文献   以下の本は所有しています。
記号  例   
文庫書紀D74-12 → 岩波文庫 日本書紀(五) P74 の12行目
小学館書紀A469-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 日本書紀 A巻 P469 の 8行目
続日本紀B74-12 → 岩波書店 新日本古典文学大系 続日本紀 三 P74 の12行目
日本後紀 47-8 → 集英社 日本後紀 P47 の8行目
旧事F169-4 → 批評社 先代旧事本紀 訓註: 大野 七三  巻第七 P169 の4行目
訳旧事E305-7 → 批評社 先代旧事本紀 現代語訳  巻第六 P305 の7行目
祝詞393-7 → 岩波書店 日本古典文学大系「古事記 祝詞」 P393 の7行目
風土記71-12 → 小学館 新編日本古典文学全集 風土記 P71 の12行目
岩波風土記183-2 → 岩波書店 日本古典文学大系 風土記 P183 の 2行目
文庫風土記下168-5 → 角川ソフィア文庫 風土記 下 P168 の 5行目
山川風土記27-331行 → 山川出版社 風土記(常陸国 出雲国 播磨国 豊後国 肥前国) P27 行数331
小学館今昔物語C252-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 今昔物語集 C巻 P252 の 8行目
岩波今昔物語A145-6 → 岩波書店 新日本古典文学大系 今昔物語集 二巻 P145 の 6行目
古語拾遺164上-20 → 右文書院 『古語拾遺』 を読む P164上 の20行目
古代氏文集40-364 → 山川出版社 古代氏文集 P40 の 364行 
を示す。

万葉集
おうふう(株) 萬葉集
岩波書店 新日本古典文学大系 萬葉集
笠間書院 万葉集表記別類句索引 編者:日吉盛幸

風土記の索引書
和泉書院 『古風土記 並びに 風土記逸文語句索引』 橋本雅之 編


私は他人の説を摘まみ食いして、それを手直し修正し「自分の案」 を打ち出す「いいとこ取り」 は絶対にやりません。 私はずるくて利口なパクリ行為はやりません。 奔放な当てずっぽうのブログですが、一次資料に基づくものを書くため、記紀・万葉などの文献を読み、市町村史や郷土の自費出版物などの地方資料を渉猟して書いてます。 ネットで見たものはリンクを貼ってブログ主に通達してます。

私は僅かでも何かしらの着想(ヒント、アイデア、思いつき) を得た参照元は漏れなく全部を記してます。
当ブログは学術書レベルで参考文献を示してます。
着眼にあたって参考としたものを記すのは書き物の基本的な礼儀作法です。
他人の発見を尊重してこそ自分の発見やオリジナリティを主張できる。

私のブログは当ブログだけであり、他でブログ等はやってません。 私はネットの投稿、掲示板やコメント欄への書き込み他をしたことはありません。 なりすまし に注意してください。


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古宿の七曲 断崖絶壁海岸の磯 史跡

2019/05/20 06:03

津のぢ浜 古宿の断崖絶壁海岸の磯 
小浜の墓さん
万葉集3336〜3343

「古宿今昔記」 に掲載 絵図
大正5年頃、難破船が打ち上げられ死者七人があった所
万葉集896 おうふう萬葉集 下注 難

難波の場所も豊関建設 資材置場・JRトンネルの下か

猪名 古事記の赤猪

出雲国の於友(おう) 大友皇子 漢詩の起り

山口県風土誌(九) 大綿津見神社 
P413 屏風谷 楠樹
住吉神社には楠の大樹あり。

天磐盾 母木 竜田



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倭種 日本書紀 

2019/05/19 21:26

孝徳紀 文庫書紀C326‐3
別に倭種韓智興・趙元宝、今年、使人と共に帰れりといふ。
  ↓
斉明紀5年 文庫書紀C354

倭種韓智興は倭国の者ではない。



講談社学術文庫 日本後紀(上)
P272 末
大墓公阿弖利為  大墓がある地域は奈良県・大阪府の前方後円墳

P334 2行目  豊関建設 資材置場,下の磯あたり
磯の島
朕の居る名草・海部



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たわけ皇子

2019/05/19 11:49

住吉神との不倫の子 説がある応神天皇は ほんたわけの命

応神天皇は たわけ命か

たわけ  戯け、しれもの、 ばか者、淫らな通婚

音は
たわけ  タ

誉田(タケ)皇子


古事記 神功記の神託  天照大神、住吉三神
上通下通婚、馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚

兄妹婚も重い罪である。
同性婚は罪穢とされてない。

文庫書紀A162‐3
天野の祝  天つ神系 日(ひる) の神
小竹の祝  食国である出雲の国つ神系 夜の神
阿豆那比の罪は天つ神と国つ神の墓穴を同じにした罪であろう。



摂津国 川辺郡(かわべぐん) 為奈郷(いなごう)は現在のどこにあたるのか ...
crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000190885

「猪篠(いざさ)」地名の謎を解く : 紀元前・その古代史を探る!=不思議の ...
nami3291.exblog.jp/22742420/

伊奢沙別命(いざさわけのみこと)
enkieden.exblog.jp/25953024/

姫路市安富の神社 - FC2
hach8.web.fc2.com/jinjya/03ibo/03himeji/0303seki-shika.htm

イザサ伝説 - 神代の残像 - FC2
hach8.web.fc2.com/fudoki/densetsu/isasa00.html

化氣神社 岡山県加賀郡吉備中央町案田 - 神代の残像 - FC2
hach8.web.fc2.com/jinjya/81okayama/8103soshya/0311keki.htm

但馬の神社 気比神社/兵庫県豊岡市気比字宮代 - 神代の残像 - FC2
hach8.web.fc2.com/jinjya/53tajima/81toyooka/01kehi.htm

敦賀の気比神宮
ja.wikipedia.org/wiki/氣比神宮


風土記 逸文 摂
夢野・刀我野
  ↓
下関市吉見の古宿 ふくふくうどん 崖海岸の磯 地名「のぢ」
国道191号 七曲 豊関建設 資材置場 大久保山のJRトンネル

『古宿今昔記』 『地下上申絵図』(福江村、吉見村)
「津のぢ」 の「小濱」 → 福井県小浜市 に対応している。

出雲のイザサの小浜 でもある。
穴門の引島=出雲国風土記の国引き ・・・ 姥ヶ懐(磯にあった洞窟)


去来真稚皇子 - れきち
rekichi.net/s/12015614

深河別  吉母下 字 「深川」 深川古墳群
私見は、仁徳紀で猪名の佐伯を転封させた場所。

田屋野姫命 建稲種命の女
吉母上 金畠

高木之入日売命
地元の人によれば、吉母上公会堂から近い林道の上に山城跡があるという。
入日 書経で書かれたの日没の地 法林寺付近



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根の堅州国  熊楚の位置

2019/05/18 21:03

下関市 稗田地蔵堂遺跡 弥生中期
蓋弓帽先端の花弁にはの顔が鋳出されている。

熊  王の姓が熊、黄熊など思いつく。

中国古典文学大系(平凡社) の書経を読むと、書経は原始古代の中国大陸の地誌ではなく下関市の古い郷土史である。 記紀・万葉・風土記の場所は下関の綾羅木川 北側の農村部(有冨〜吉見〜吉母) である。

「西域」、「深目の人たち」 はシルクロード・草原の道ではなく吉母の草場川沿いである。 吉母は異民族だった。

安芸国は吉母の字「深川」(「否川」 とも書く)
吉母公民館  字「川の上」 庄内式土器

八岐大蛇 異説異伝
安芸の可愛の川上  吉母下 字「川の上」 または吉母上公会堂 字「背禿」
下関の伝説  福江与三左衛門伝説、吉母の背禿伝説
法林寺の七枝ソテツ 『よしみ史誌』 P613  八岐大蛇に似る

景行紀の熊襲討伐
古事記 筑紫の島 熊曾の国 建日別 「建」 は寅の方位で東北東
風土記逸文 筑後国名

熊襲である素戔嗚尊は吉母上 字「背禿」 でお百姓さんをやっていたが、
根の堅州国に転居した。


根の堅州国 位置
熊襲
 ↓
熊野神社 福岡県 春日市岡本
熊野神社 福岡市西区 今津、今山 今津本町 字「璞(あらたま)」

山海経 海外東経
長差丘  福岡市東区 立花山上 樟原原始林
 ↓
西の方向  西区の今津、今山

狄山 堯を葬った所
海外南経によれば、帝堯を陽に葬り、帝嚳を陰に葬る。


根の堅州国は福岡市西区の今津、今山である。 石斧の製作地


学研 新漢和大字典 2013年
【熊】 の字
近年の金文解釈によれば、熊は秦による呼称。 楚は (エン) と自称。
(エン) 苦い酒  字の上部「」、下部「酉」(さけ・

津・山、宿
 

糸島が伊都でないならば九州大学の先生たちは学者失格だ。
伊都でないなら何なんだ? 熊楚である。


糸島=神功記の新羅 説
出雲国風土記 国引き
出雲国の場所 古宿の崖海岸 「津のぢ浜」(豊関建設 資材置場) の岩穴で大国主命・少彦名命は仙人暮らしをしていた。 新羅系狗奴女の神功皇后は華美な光物に魅かれた。

文庫書紀A130‐9
下関の熊襲(武久、吉母) は膂宍の空国である。
福岡県糸島は処女のマヨビキの如くにして吉母の対岸に有る。


糸島は新羅である。 
「白衾(たくふすま) 新羅の国」 は財宝が多い糸島の支石墓地域であり、有名な平原遺跡などがある。 瑞梅寺川上流、井原の牟田溜池東側に「王の原」 という字名があるので、井原の住吉神社は神功記で新羅王の門に置いた住吉荒御魂である。

糸島 厚葬墓
三雲は出雲だ。



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古代王権への 「道」

2019/05/16 09:53

倭国 綾羅木川の北側 (石原・有冨〜吉見〜吉母)
韓人系 下関市御崎(末盧国) 豊浦町 (室津、黒井、吉永)
狗奴国 綾羅木川の南側 (形山・秋根〜垢田・武久)、福岡県 (筑豊、春日市)

旁国 秋根、勝谷、楠乃、長府など

不弥国 豊関建設資材置場、大久保山のJR トンネル下の磯 
投馬国 冨任(とみとう)
女王国 有冨上、ハンドウ山、大迫池上の尾根

関西政権 日本書紀の呉国、東漢氏、蝦夷、毛人、東国の強兵たち


前方後円墳の祖形
蒲生野・有冨 竹生寺の山  吉野の船山
吉母の黒嶋  海神の地

東海の三神山
瀛洲 吉母の甲羅海岸  積石多し(御崎の畳石か 『よしみ史誌』 口絵写真)
蓬莱山 吉見の串山  神聖な色 赤石で覆われる。 三ヶ首、亀松
方丈 蒲生野・有冨 竹生寺の山  鳳凰の形

暘谷・扶桑
吉見船越・福江大塚の断崖海岸  大久保山のJR トンネル


東方の君子国 岡垣町


道家の思想
邪馬国  有冨のハンドウ山上〜竹生寺 長い尾根上 鯨の尾ヒレ の形
邪馬国、与  壱=一 道家思想の「一」
臣、越の君  道家思想の「道」 無為自然

豊  豊か、大きいの他に 豊隆(雲師・雷師 −卑弥呼の鬼道)

邪馬台国の戸数7万余戸。 実際は7、8戸でした。
老子の小国寡民。



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卑弥弓呼楚 熊

2019/05/16 03:39

下関市
稗田地蔵堂遺跡 蓋弓帽先端の花弁にの顔の絵

楚王の姓 熊

立岩遺跡の清白鏡、竹原古墳の壁画  楚辞「離騒」

角川 大字源
狗 「狗国」 春秋時代の斉の晏子がをさげすんで言ったことば

熊襲、熊野  遠賀川流域、英彦山に伝説が伝わる。
熊襲(日本書紀)、熊曾(古事記) は熊楚、熊素である。


『韓国・檀君神話と英彦山開山伝承の謎』 海鳥社 1996年
P30 『彦山流記』 には彦山権現が東の国、震旦国から来た

『添田町 彦山流記 附・彦山縁起』 平成5年
P8
月氏国の王子
天台山 下関市吉母 黒嶋に普陀山の関係地あり。 郷土史家 蔵田正彦 談
東漸 東シナ海を航行する「のに「東漸」 という表現は不適当であろう。
西天之蒼波 私見では、眼の崎沖の海

豊前国田川郡大津 御船
 北九州市小倉北区 紫川河口 香春口
 下関市吉母の対岸に位置する岡垣町 波津 海洋型前方後円墳

宿を貸さない 彦山権現は素戔嗚尊である。 
金光七年 九州年号 欽明天皇31年〜


熊野神社
下関市
 勝谷神社
 熊野神社 室津下 字「山田」
岡垣町 吉木の高倉神社は遠賀郡総社
 熊野神社

遠賀郡宗像郷 中間市岩瀬説
出雲 JR 桂川駅の南


古智卑狗
垂仁紀 天日槍の弟 知古
直方市知古 福智山 鞍手町 古門


山海経 海外東経
君子国  岡垣町 汐入川流域


宿を貸さない  戔嗚尊 卑弥弓呼
文庫書紀@86‐6
常陸国風土記 筑波郡  神祖の尊
逸文 備後国 蘇民将来  武塔の神
彦山流記 香春明神は彦山権現に宿を貸さなかった



(参考文献)
「下関市史 原始‐中世」 平成20年
「下関市年表」 平成23年
岡垣町 図書館の郷土史料

「安倍晴明占術大全」 簠簋内伝金烏玉兎集 牛頭天王縁起 学研
列仙伝 老萊子  中国の古典シリーズ4 平凡社 
「失われた倭国年号」 古田史学の会編 明石書店



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− タイトルなし −

2019/05/14 06:37

文庫書(×)
文庫書(〇)

不正アクセスのため、書き換えられていたことにビックリ。 その数何百。
表に出ているものは修正しておいた。

2019/05/14 06:37



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難問の場所 解決できた

2019/05/13 14:54

穴門の引島 場所
案1
『防長寺社由来』 吉母村 P671下 来留島観音 黒嶋のこと
福江の沖 来留見ノ瀬

引く=牽引=牽(くる)
=来る 大来皇子

案2
出雲国風土記の国引き
八束水臣津野の命

場所
国道191号 福江大塚の ふくふくうどん〜豊関建設 資材置場 断崖海岸の下
帆柱瀬 『山口県風土誌』(九) P413‐8行目 「梔」は「桅」(ほばしら)の誤植
姥(うば)ヶ懐(ふとくろ) 幼い子供2人が入れる洞窟があった ・・・穴門

神功皇后が三韓征伐から帰って上陸した場所は、豊関建設 資材置場下、断崖絶壁の岩場海岸だった。

金の三埼 万葉集1230
福岡県宗像市 鐘崎ではなく、豊関建設 資材置場下の 神さん岩、船釘


JR 第二トンネルの南側出口 神功皇后の出身地 
若狭国の渟田門 ふくふくうどん の裏道から線路横の山道入る。

白雉を捕獲した場所
どさん子ラーメン店からJR高架下をくぐり、右へ行き建具屋上の山道が峠道の旧道である。 山道を上ると石組みの段段畑跡があり、そこから胸まである草を押し分け南へ20メートル行けば、水が流れ、土石流を防ぐ大穴が掘られた土手がある。



尾張国
小字で「尾」 がつく場所
吉見の字「尾崎」、字「尾袋」
蒲生野 妙蓮寺 字「尾方屋敷」

古事記 本牟智和気の御子
尾張の相津なる二俣榲

鳥は遠くへ飛んで行っても夕刻暗くなれば巣に戻るので、和那美の水門は始めの木の国にある。


草薙剣 文庫書紀@96‐11
尾張国の吾湯市村

文庫書紀@125下 注七
子媛、簀媛から福江大塚の北村さん家、その西側の庚申塚、生墓あたり。



針間国
船越の農免道路沿い

船越の戸数は少ない。 場所が山奥地で不便なため明治・大正期に古宿浜に転居した家が多い。 大正末、古宿浜の家々は全戸船越から下ってきた人たちだった。


文、文、文、文
万葉集32453246 助詞「文」(も) は 文庫書紀D236‐5
詩賦の興、大津より始れり

近江大津宮は豊関建設 資材置場下にあった。 石走る淡海の海

万葉集は全部で4516首あるが、歌の場所の半分は豊関建設 資材置場で、ここに居る者は道家の真人である。
万葉集3246 公  文庫書紀D200‐3 全員が「真人」

越の道君 文庫書紀B344‐7 越もまた豊関建設 資材置場である。
穴門の伊都都比古も越道君も自分を王、天皇と偽って渡来した者を騙しているのは場所が同じだからである。


伊都国 吉母漁協
一大率  西光寺の裏山にある 「大将軍」


湯山、暘谷、扶桑の地
万葉集の半分は福江大塚、船越の断崖海岸である。
  ↓
古事記、日本書紀も半分は福江大塚、船越とその断崖海岸である。

江戸時代の吉見村地下図、福江村地下図、福江村清図を見たら、
船越、福江大塚の集落から崖海岸に行く山道がある。

現在の地名は大久保であり、大久保山、大久保浴であるが、船越と福江大塚の2か所あって二上山だ。 妹山、勢の山でもある。


国道191号 七曲 古宿 船越の峠道 船釘の磯
断崖だが海岸の磯は魚介類・海藻が豊富に採れる。 道路脇にクルマを留めて磯に下りたら密漁か疑われる場所だ。 戦前は崖に小松が生えていたという。

ふくふくうどん〜どさん子ラーメン店 豊関建設資材置場
神さん岩、船釘、帆柱瀬、姥ヶ懐 JR 小津見第二トンネル
津のぢ、小浜
  ↓
記紀・万葉の半分はここだ。天道説の中心である。 JR トンネルの岩山が聖地である。 
記紀・万葉・風土記等で国名・地名をいろいろ変えているが、みな同じ場所、または数メートルしか離れていない。

地名場所の超難問が解決した。 




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帥升等 後漢書

2019/05/12 21:13

107年 帥升 「等」 の字より複数人数である。

私見
帥 大国主命

文庫書紀A144‐末から2行目 大三輪社
福岡県朝倉郡筑前町 大己貴神社

本物は下関市吉母 成久にある四宮八幡宮である。 空き家の敷地内の庭に塚が立つ。 yahoo地図では吉母196番地付近
山口県風土誌(九) P434 若宮神社摂
祭神 応神天皇、大国主命、保食神  若宮由緒書、宮に作る

升 少彦名命


あるいは、升= と見て、
文庫書紀@138‐末行
是の時に、帰順ふ首渠は、大物主神及び事代主神なり。 乃ち八十万の神を天高市に合めて、ゐて天にりて、其の誠款の至を陳す。

帥升は大物主神である。

貴命 倭面国  五行より 己=土

「出雲」 とは何か
蕨手文は中国では雲形文と呼ぶ。 私見では渦巻は陰・陽の混沌であり、出雲とは混乱、乱世と誕生であろう。
出雲の位置は福江大塚〜JRトンネルの崖海岸

白川静 『新字統』
漢字の「東」 を調べると「曹」 もからむ。 曹操は東夷の「東」 である。

出雲は黄泉で方位「西」 死滅 
出雲は黄泉で「黄」
出雲は八雲立つ 雲出で生まれる場所


倭国大乱
案1
倭国大乱は高天原による葦原中国の平定であり、天津甕星(天香香背男) を誅した時代である。
文庫書紀@154‐2
葦原中国は、磐根・木株・草葉も、猶能く言語ふ。 夜は熛火の若に喧響ひ、昼は五月蠅如す沸き騰る

葦原中国の場所は福江大塚 字「矢瀬」〜大久保山のJRトンネル〜国道七曲 断崖海岸の土建屋 資材置場の下 帆柱瀬


垂仁紀25年 天照大神の老衰死 西暦150年頃か


風土記 逸文(参考) 伊勢国 滝原神宮
吉見上 滝本神社  廃されて鳥居は吉見温泉前に移された。
吉見の西田川沿いが伊勢国


案2
成務天皇 在位 131年〜190年

『防長寺社由来』 吉見下村 乳母屋社(龍王神社) の伝記
成務天皇の世に震旦国から大比留女が大隅国に漂着し、神功皇后の乳母になった。 中国から来たなら中国語ペラペラで通訳できる。 大ヒルメ、空船は蛭子を連想させる。

卑弥呼は倭姫か乳母屋社伝の大比留女になろう。

卑弥呼神社は吉見下 龍王神社の乳母屋社であるか。
狗奴国は仲哀紀の熊襲である。 壱与または台与は神功皇后である。

卑弥呼以て死す。 247年頃か
日本書紀は卑弥呼を神功皇后の時代 201年〜269年 とする。

黄巾の乱 184年
曹氏宗族墓 呪符木簡 170年頃か


蒼天 天香具山 天照大神 有冨のハンドウ山〜大迫池上
黄天 伊予国の天山 大国主命の経世済民 福江大塚・船越の大久保山


生口160人 三国志 ロマン
帥升は大国主命、少彦名命の救民活動 文庫書紀@102‐11
であるから、生口160人は戦争奴隷、人間狩り、罪人たちではない。 阿倍仲麻呂のような学業家、淮南子の小山のような文芸家、仙人「真人」 たちである。 後漢を激動させた曹操、張角もこの時中国大陸に渡った倭人160人中の家系だったのだろう。


新説 「倭国王 帥升等 生口160人」 の解釈
文庫書紀@138‐末行
是の時に、帰順ふ首渠は、大物主神及び事代主神なり。 乃ち八十万の神を天高市に合めて、ゐて天にりて、其の誠款の至を陳す。

生口160人は大国主命が率いていた八十万の神である。 福江大塚・船越の住民だった黒歯常之、高向玄理クラスの高い教養を持っていた。

日本書紀 神代下 を編纂した時、「一書に曰はく」 の漢文が107年の時点で存在していた。




参考文献
『蓬莱山と扶桑樹』 岡本健一 著 思文閣出版 平成20年
P130‐5行目
P191‐6行目



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書経 殷周の場所

2019/05/08 08:05

中国古典文学大系1 書経  泰誓、牧誓、武成

重要語 P166上 15行目 烏 まっ赤 

殷(商) 紂王
天邑商・大邑商 有冨 字「中村畔」
鹿台 ハンドウ山の尾根 記紀・万葉の鹿島か
箕氏 字「箕越」 レンタカー屋・介護施設あたり

綾羅木式土器の華美な文様は有冨に紂王が居た時代か



日本書紀 周王朝があった所は周芳
成周 吉母の成久か、永田郷妙寺 字「大居」
岐山 吉母の若宮神社

豊京 吉母 バス停 下方あたり
豊国の菟狭
用明紀の豊国法師 吉母浜遺跡(室町期) 十一面観音菩薩立像が出土

華山 御崎の淵ヶ谷 丸山 御崎馬は周の武王が放った
桃林の野 福江大塚の大久保山 (JRトンネルの山)


有易の地
周易は周の文王が殷の紂王によって獄に入れられている時に作られた。 おそらく周の文王は有冨で使われていた易をパクッて自分が作ったように言い出したのだろう。

種子島の広田遺跡の貝製品に「山」 と読めるものがある。 広田遺跡は有冨のハンドウ山に居た人たちである。 きゃしゃな体の男性人骨は天照大神か、それとも楚辞「離騒」 の美人だろうか。 「山」 は易の「山」(艮) だ。




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赤土命 住吉の黄土

2019/04/30 05:46

文庫書紀@56‐末から2行
土命  注16 中筒男 の音韻上の変異形

万葉集932 住吉の岸の土(はに)

赤を万葉集ではと表記か。

住吉の場所は下関の郷土史本 『よしみ史誌』 706頁 浜宮さん
大正3年 社殿の取り壊し 725頁の地図 大久保浜の南端
yahoo 地図 で、吉見古宿町9、8、4番地あたり。


榛(ハリ) 黒、茶、黄土色の染料 (鉱物薬剤を加えると染色が変わる)
ハゼノキ、クチナシ 黄の染料

黄櫨染(こうろぜん)とは - コトバンク
赤みを帯びた黄色

下関市綾羅木 東屋敷古墳から出た玉 赤みがかったオレンジ色


浜宮から南の岩場〜JR トンネル下
地名 津のぢ浜、小浜  (参照) 古宿今昔記、地下上申絵図


詩経 邶風(はいふう) 緑衣
新釈漢文大系 詩経 上 「緑衣」 と世界古典文学全集2 詩経国風 「緑衣」 は解釈が異なる。 この詩は古事記 須勢理比売の歌と同じである。 翡翠色は緑系、茜の根は赤みがかる黄色。 歌の場所は福江の大塚。


津のぢ 地名
津島 古事記 国生み 天の狭手依比売 対馬でなく津のぢの津島
文庫書紀D118‐9
対馬国司守 忍海造大国言さく、「銀始めて当国に出でたり。 即ち貢上る」

JR トンネルがある大久保山に銀郷ありか


文庫書紀D44‐2
忍海造小の女有り、色夫古娘と曰ふ

文庫書紀B64‐2 蓬蔂丘の誉田陵 福江大塚の字「王仁」 応神とも書く
 赤駿は竜馬

文庫書紀C312‐末から2行目
大鷦鷯帝の時に、竜馬西に見ゆ。


万葉集1023 大崎の神の小浜
大崎 出雲の御大の御前で事代主命が釣り、鳥遊びしていた場所
小浜 出雲のイササの小浜
純は住吉

万葉集1024 長門の場所は津のぢである。



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詩経は船越の漢詩集だ

2019/04/29 04:19

山海経  全釈漢文大系 
海内北経 478頁
国はの南、の北に在り。 に属す。

子 墨家

鉅=大 鉅燕=大鳥 か。


詩経 邶風(はいふう)

燕は玄鳥。 玄は黒、北。
兄は船越の中川 陽(あきら) さん、妹は有冨に嫁ぐ洋子さん。
兄が船越と福江大塚の境まで妹を見送った詩である。 詩経は下関の田舎である船越の漢詩集である。 この説の根拠は山海経 海外東経 の記述から扶桑の大樹は船越の中川 陽さん家の真西の山、大久保谷の上にあった。

「魏」 と「倭」 は字が似る。 「委」 が共通している。
魏は男、倭は女。 兄が魏で、妹は倭。 魏と倭は兄妹の関係である。

詩経 魏風
「魏」 は太古の虞舜・夏禹が都した所 (鄭玄)


大荒東経 515頁
州の国有り、余の国有り。

古事記 木の国の大屋比古
木は扶桑、建木、若木。 大屋は夏王朝。

山海経は中国大陸の地理書でなく下関の田舎の本である。


万葉集  植物図鑑
240
蓋(きぬがさ)

4193
蓋上山

古之、故之
4204 青蓋(あをききぬがさ) 厚朴(ほほがしは) 
4205 皇神祖(すめろき) 孝徳紀 白雉 穴戸 古宿の字「大久保」

4111
安夜尓加之思 皇神祖

322 伊予温泉
大久保に温泉か?


皇祖  日本書紀
鳥見山  有冨上 大迫池の上尾根。 ここが大倭(おおやまと)
皇祖の霊、皇祖天神 文庫書紀@242‐5

皇祖  天御中主尊、天照大神

穴戸国 白雉  古宿 どさんこラーメン。 ここが日の本
皇神祖 文庫書紀C314‐7

皇神祖  堯舜



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蒼天(天照大神) 黄天(日本武尊)

2019/04/29 01:49

大倭国  有冨上 字「中村畔」、ハンドウ山尾根が竹生寺まで続く

日本国  吉見下の古宿、大久保、船越

大久保谷、大久保浜  船越の峠道、どさんこラーメン

神武紀の最後 伊奘諾尊
日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の秀真国
磯輪上は大久保・船越  海岸 七曲

貴主神 八千戈神  ・戊 は中央
三韓征伐後、神功皇后が大久保の洞穴に武器を隠した。 庫、務

記紀・万葉で「武」「古」 の字がつく地名・人名の場所は大久保だ。
越国 之、

住吉大社神代記では大久保など吉見〜吉母の小字地名がでてくる。


大久保山 崖海岸にあるJR第2トンネル 土建屋の資材置き場
大久保山は「津のぢ山」 ともいう。 万葉集 石見国の高角山である。
トンネル下の海岸部 小浜、津のぢ浜


古宿の串山  蓬莱山、難波都、万葉集の日本嶋根

 有冨上 字「中村畔」 畔の読み グロ
大迫池上は鳥見、鳥夷

香川 船越川  日本国、扶桑

島夷  吉母


山海経 海外東経
青丘国 有冨上
黒歯国 船越

湯谷 大久保谷 船越−大久保浜 の峠 急坂道 どさんこラーメン店
記紀・万葉の日下の直越え

扶桑 船越の峠道・大久保浜の山にあった 


蒼天 有冨上 垂仁紀で天照大神の死
黄天 大久保谷 景行紀 日本尊 「武」 は武王 

「蒼天」 の使い方 雲立つ
常陸国風土記 信太郡
丹後国 風土記逸文 水江の浦嶼子  串山の東岸に三ヶ首、亀松

神武東征
河内国の草香邑の青雲の白肩之津 → 水江の浦嶼子の住所である


黄天
日本では太陽の色 赤色
中国では太陽の色 黄色、オレンジ色、金色 例 黄道


淮南子 斉俗訓 第十一  中国古典文学大系 139頁上 末から5行目
有虞氏(帝のこと)の礼では、社には土を用い、中霤の神を祀り、田畝に葬る。 その楽は咸池・承雲・九韶の三曲、服は黄色をとうとぶ。

黄色 扶桑樹 太陽 場所は大久保谷
舜は船越〜峠道〜大久保浜の人である。


曹丕
『三国志 曹操』 別冊宝島 ムック本 2016年3月

80頁下 文 渡邊義浩
曹丕は舜の末裔と称する


穴戸の白雉  文庫書紀C308‐7
草壁連醜経 同族

殷(商) の湯王の賢臣 伊尹
伊尹は別名を

摯=贄
伊尹は大久保出身である。
新説 穴戸で白雉を捕った贄の先祖は伊尹である。


天照大神の死 − 垂仁紀、 倭国大乱 − 日本武尊  

中国でも日本武尊に倣う世直し待望 巾の乱
医療 黄帝、少彦名命(古語拾遺 大己貴神の経世済民)

魏志倭人伝 黄幢



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倭志魏人伝

2019/04/26 12:04

淮南子 氾論訓 第十三  中国古典文学大系 172頁上 4行目
堯は百戸の城構えすらなく、舜は立錐の地を持たなかったが、それぞれ天下を保った。 禹は十人の配下すらなく、湯には七里の封地もなくて、それぞれ諸侯に君臨した。
  ↓
考古学の「クニ」 は堯舜の世界では通用しない。


孟子 離婁章句下  新釈漢文大系 278頁
孟子が言うに、「は諸馮という所で生まれ、負夏という所に遷り、鳴篠という所で死んだ。 即ち東夷、東方の辺鄙な土地の人である。 文王は岐周という所で生まれ、畢郢という所で死んだ。 即ち西夷、西方の辺鄙な土地の人である。このように、舜と文王では、土地をへだてること千有余里である。

倭国の領域は、下関市石原・有冨〜吉見〜吉母。 昔は石原、延行は有冨村の内だった。


淮南子 斉俗訓 第十一  中国古典文学大系 139頁上 末から5行目
有虞氏(帝のこと)の礼では、社には土を用い、中霤の神を祀り、田畝に葬る。 その楽は咸池・承雲・九韶の三曲、服は黄色をとうとぶ。
・・・・
周人の礼では、社には栗を用い、竈(かまど)の神を祀り、葬儀には柏を植える。


服は黄色  黄巾の乱か

竈(かまど)  吉母浜遺跡 持ち運びできる竈 土師器 古墳時代
下関考古博物館で常設展示されている。
  ↓
吉母浜遺跡は周王朝である。


眼ノ崎  吉母と永田郷の海岸境界 海に突きだす
江戸時代の地下上申絵図では読みは 「まなごの崎」

大海、滄海、蒼海、東海、渤海などは眼ノ崎沖の海であり、固有名詞(地名) といっていいほどの狭い海域である。

文庫書紀@62‐2 溟渤
63頁上 注2の文選 西京賦 引用文中の「渭」 より草場川が渭水か。

太公望  ちくま学芸文庫 史記3 世家上 29頁
太公望呂尚は東海のほとりの人である。

太公望が釣りをしていた場所は吉母公民館 北側の草場川下流だった。
神武東征では珍彦が釣りをしていた曲浦である。




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倭漢惣歴帝譜図 

2019/04/24 14:45

倭漢惣歴帝譜図 実録

講談社学術文庫 『日本後紀(中)』 123頁
巻第十七 平城天皇 大同4年 2月5日 勅令で焚書になった
  ↓
新説 三国志
魏の曹操も黄巾の乱の張角も下関出の倭人だった。 魏志倭人伝は古代中国の人たちの母国伝である。

下関市有冨の中村さんは天御中主尊の直系子孫である。
明治末まで、岩谷さん宅前の坂上に有富上八幡宮があった。 ここが記紀・万葉の春日社であり、隣に住む大伴坂上郎女は筑紫大宰がある吉母漁協まで半日かけて歩いて行った。

下関市域で天御中主神社があった場所は
  有冨上八幡宮の末社 「有冨の山田」 は大迫池の山地番名である
  垢田八幡宮に合祀 鼻ヅラの海岸に祀られていた
  室津下八幡宮境内 素鵝神社の相殿に天御中主神社

有冨八幡宮、有冨の山田(大迫池の山側)、どちらも山の斜面 20m×20m ほどの狭い範囲であるが、土地の所有者が中村さんであり、その立地を風水、五行、易経で見たら !!!!


下関市史 書経編
儒家の地誌である書経は下関の郷土史である。

夏王朝 有冨上
殷王朝 吉母上 印内
周王朝 日本書紀の周芳 吉母下 字「宮ノ后」 若宮神社の北側


楚辞 天問  明治書院 新釈漢文大系34 『楚辞』 149頁
殷の王亥は牛・羊を飼っていたので、世帯5、6人の農家だった。
あるいは、「有易の女」 を考察する。 後述

湯王は吉母上 湯谷の人
湯王が都するを漢和辞典で調べると日向の高千穂である。
亳=日向の高千穂  漢和辞典 「亳」

景行紀 「日向の高屋」 より
吉母上 字「新屋」(法林寺の北側)が日向の高千穂
火国 字「堂ノ下」 の火葬

熊襲は字「背禿」 の山賊 毘沙の鼻の駐車場 吉母の見所看板を参照

速吸之門 字「大堰」  または吉母ポンプ場横 一時停止標識の交差点

曲浦
草場川の下流は川筋が曲がっている。
ゼンリン地図で、吉母ポンプ場、最西端橋



吉母下 字「宮ノ」 の「后」 は后稷
周の后稷はをまいて穀物を栽培させた。
  ↓
天種子命
菟狭の川上 吉母公民館の場所 字「川の上」

安芸
吉母と永田郷の境界 道路沿いの家裏の山に安芸の伝承地がある。


殷の王亥は有易に賓して女に淫す
これと似た話
天若日子は大国主神の娘 下照比売に娶い、8年たっても戻ってこない。

の「易」 は易経である。 有冨で風水の明堂はハンドウ山 登り口下の空地であり、この場所から易経の方位がドンピシャで成立している。

有易とは易が有る人たち。 字面そのもの

有易の女 古事記 高佐士野は儀万さんの家裏の畑 娘たちが遊んでいた
ハンドウ山の上尾根に霊芝が生えた かぐや姫の月の都があって高松塚古墳の絵画モデルとなった天女、采女がいた。 儀万さんの「万」 は万舞で、女性を魅了させる武舞か。

香山はハンドウ山で、「香」 とは綾羅木式土器に入れられた鬯艸である。

万葉集の言葉 刺竹 刺竹は風水の用語
参照
『風水 気の景観地理学』 渡邊欣雄 著 人文書院 1994年
234頁 刺竹林 237頁 風水林  ハンドウ山の登り口に竹林がある

大歳池の西岸
農協の金融部長 中村勝(まさる) さん方に牛を祀る大歳社がある。


吉母上の王亥は有冨村の賓客となって娘と淫し、牛・山羊を牧して草刈りしていた。




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古宿 山陰線 第2トンネル 

2019/04/18 04:53

下関市 吉見古宿 国道191号 通称七曲 断崖絶壁海岸
JR 山陰本線
北 小津見第1トンネル 「小津見」 の読み「 おつみ」
南 小津見第2トンネル

第2トンネルの海岸が若狭国
地名「津のぢ浜」 山口県風土誌の字「角地」
山の名 大久保山

字「大久保」 は吉見下と福江大塚の2か所ある。


『日本後紀』 集英社 
975頁 12行目
若狭国の比古神
我れ神身を稟けて、苦悩甚だ深し。 仏法に帰依して、以て神道を免れんことを思う。

講談社学術文庫 『日本後紀 (下) 』 297頁
麻呂 福江村地下図で、皇子社の入り口の地名「岸坂」 による。


穴門の伊都都比古と若狭比古は彦でなく比古であることから場所が近い。

若狭比古はたいへん難儀な場所に住んでいた。
若狭国は福江大塚の ふくふくうどん前の崖下でサザエ、ワカメ、カニを取ってる岩場である。 そこが気比の浦だから海の食べ物は豊富だ。 神功皇后の出身地でもある。


第2トンネルの海岸部
越国
若狭国、敦賀
淡海国
但馬国
出雲国

古事記の淡海国は福江の猿田池だが、第2トンネル海岸まで含む。
万葉集 石走 淡海国

吉見と福江の海岸境界は船越川河口である。


福江
字「沼」 古事記の沼河比売、万葉集の沼名河 猿田池から流れる川
字「屋代」 出雲国風土記の地名

地名が対応する
福井県
白石
小浜市
 
下関市福江
福江大塚の白石 大塚踏切 白石さん家あたり
第2トンネルの海岸に「小浜」 と呼ばれる場所がある。


空飛ぶ仙人 中国人
福井県の若狭彦神社 若狭彦は唐人のようだった
斉明紀 竜に乗る唐人が住吉の松嶺から西へ飛んだ
  ↓
中国から仙人修行者が来て下関市船越・大塚の崖海岸の上に定住
赤松子など

継体紀 越前国の高向
斉明紀 当初、高向王と結婚して皇子を産んだ。
船越は渡来した漢人の地である。 なぜ船越に住むか−海岸の山が神仙境

高向は常陸国風土記の臣名でもある。 難波長柄豊前宮は古宿串山の串本岬。 足柄の岳坂は船越の峠。 風土記は古宿の作家が近くを歩いて書いたもの。

船越の峠
江戸時代の地下上申絵図では「船越峠」「一盃水」 は千石岩に近い所
上堤、下堤の山際に街道があって農免道路に出ていた。
船越は大道が集落の西側にあり、風水の白虎になっている。

日下の直越え
古宿浜‐船越盆地の西側


第2トンネル
山上
柿本人麻呂の石見国 高角山の歌

福江大塚側 字「巴き」、字「神田」
大蛇退治、清(すが) の湯山、出雲八重垣、奇稲田姫、玉墻の内つ国

場所 大塚の北村さん家が出雲国の都
景観 地勢が窪地、西側に道祖 風水の明堂

国道191号 古宿の七曲の海岸
「曲」 の読み 曲浦(わだのうら) おおわだ の浜

以前は記紀・万葉の淡海、大津、越、出雲、沼川を土井ヶ浜、向津具、油谷町、長門市と見ていたが、下関市の船越、福江大塚であることが判明した。


日本書紀の次の箇所は重要である。
武邑 文庫書紀B282‐末  古宿 大久保の海の岩場か
大内丘の 文庫書紀B288‐10 有冨墓地か  列子の大壑
磐城村主 文庫書紀D32‐末から2行目 吉母上の印内か、室津下か




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生墓 福江大塚

2019/04/17 00:04

垂仁紀
倭彦命が薨じられ、身狭の桃花鳥坂に葬った。
近習の者を殉死させた。

日葉酢媛命の陵墓 野見宿祢が埴輪をだす


卑弥呼の冢 殉葬する者、奴婢百余人

福江大塚を流れる新免川は神明川ともいう。


龍王神社 奉納芸能 花踊り
古来より旱天には雨乞祈願が行われているが、更に雨のない時には雨乞のため、花踊りを奉納する。 山口県神社誌 平成10年

竜王山は内日(うつい) の赤田代では権現山と呼ばれる。
  ↓
紀伊国の熊野の有馬村は吉見の船越である。
船越の花卉栽培は伊奘冉尊の時代まで遡る。

乳母屋社伝に、震旦国ヒ州から大比留女が渡来

山海経 海外東経 青丘国 九尾の狐
狐は死して必ず丘に首(まくら)す。
大比留女は故地の船越大塚盆地に永眠した。


『黄金の女王卑弥呼』 加治木義博 著 平成4年
148頁
枹朴子 孔子は墓に土偶をいれる習慣は殉死につながると危惧した。
日本では正反対で、殉死のかわりにしたとされる埴輪である。
卑弥呼の冢は殉死が行われたので、卑弥呼は道教ではない。


下関市 福江の大塚の字「生墓」
生墓と称される塚が立つ。 場所 船越との境
言い伝え 墓を拝むとの病気が治る
  ↓
活目天皇(垂仁天皇)

纏向珠城宮は福江大塚の生墓近くにあった。



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敏馬浦 万葉集1065

2019/04/16 17:10

敏馬
馬は大久保の隣 字「大駅」 穴門館の馬飼


八千桙の神
ここに出雲の大国主神が居た。 大久保の砂浜は「汐汲浜」 で出雲大社と神事が同じ。

二番トンネル前の海岸に「うばがふところ」と呼ばれた洞窟があり、万葉集355 の志都石室か。
大久保の地名由来 神功皇后が武器を隠した洞窟があった。


古宿今昔記 昭和57年 昔の地勢絵図
浜宮の東側は地名「小浜」。 小浜の墓さん、神さん岩と帆柱瀬
出雲のイザサの小浜
  ↓
気比の大神
高志は船越、角鹿は大久保
イザサ和気の大神 大国主神、あるいは徐福
船越の神社は河内神社で祭神は保食神。 龍王神社に合祀

『日本の中の朝鮮文化 5 』 金達寿 著 講談社 1975年
73頁 イザサ別命を天日槍と見ている。

出雲国風土記の国引き神話は大久保浜の周辺である。


百船
純は住吉と思う。 墨吉津も同じ場所か。
大綿津見神社の浜宮

参照
山口県風土誌(九) 412頁 大綿津見神社
住吉明神の鎮坐し給へる国郡には必此大神も鎮坐し給へるなり。

住吉大社神代記では大久保は領地の東端である。
第2トンネルの山は大久保山なので船越川河口まで大久保といえる。

住吉北樹社は浜宮の真北にある龍王神社だろう。



犬は天の日矛。 犬女は神功皇后。 応神記の系図より



万葉集
351 沙弥満
船越、古宿の義満さんか

352 葦は難波(吉見漁協) 津乎の埼も大久保 畑建設の岩場
若湯座王 湯は湯谷(船越‐古宿浜、大久保山) 考古学 大久保古墳群

354 縄の浦
このへんの歌は船越の海だろう。

船越に字「縄手」 場所 上堤の周り
縄手は広辞苑で、まっすぐな道、または田の畔道
日下の直越えの道
地名の縄より久米朝臣広 越中国掾

継体天皇の越国は下関市の船越である。

播磨国風土記 讃容郡 中川の里
読めば、船越の中川さんの先祖は草薙剣を買ってきた。
草薙剣でなく韓鋤の剣だろうか。
たぶん、三種の神器である草薙剣は船越の中川さん家にある。

事実
中川さん家の押入れに白蛇がいたので、近所の人、親戚みんなびっくり。


船越は越、高志、播磨(針間)、出雲など、国名をいろいろ変えて記述されている。

斉明5年の言屋社 千石岩
大石尊 千石岩


応神記 蟹の歌
丸邇 古宿の丸山か
宮主矢河枝比売 宮主は足名椎
大御酒盞 八俣大蛇の酒

文庫書紀@94‐9
湯山主三名狭漏彦八嶋
  ↓
船越川の下流か


福江大塚 集落の西側 字「矢瀬」、その西隣 字「巴き」(蛇の意味)
船越川の河口 字「矢びつ」

福江大塚 字「清水」 は出雲八重垣の清(すが) か。
地勢の景観を見れば、出雲国政庁は北村さん宅である。

万葉集
石見国の場所
船越川の河口 ふくふくうどん 資材置場 七曲の断崖海岸
131
132 高角山は湯山で仙境 海岸が角賀、角島
133

古事記の淡海 福江の猿田池 西側に字「瀬戸ノ田」 瀬田の済 




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湯谷 大久保

2019/04/16 16:35

山海経 海外東経

青丘国
有冨上

黒歯国
吉見の船越  黒歯常之の出身地か

湯谷
古宿の大久保。 どさん子ラーメン店がある所 船越峠

扶桑
古宿 大葉山堤がある所
昔は海岸を通れず大葉山の山道を通って船越峠に出ていたか。
  ↓
記紀 安康天皇 大日下王 「押木の玉蔓」 は扶桑樹の冠と思う。


不弥国  吉見、船越、大久保 官の多模は龍王神社の住吉荒魂
穴門館 大久保にあった。 穴門の山田・大田は吉見下の光善寺あたり。

垂仁紀 伊都都比古
都都(つつ) は筒で住吉神


雨師妾
吉見上 滝本神社(お伊勢さん)
倭建命の思国歌 伊勢の尾津は尾崎。 尾張は尾袋だろう。


玄股の国
吉母?
魚の服  魚は鯨、アシカの皮か。
山幸彦が行った海神の宮はアシカの皮を敷いていた。

毛民の国
黒井?

労民国
川棚?



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向山児童公園 川中本町

2019/04/15 00:23

川中本町の小地名 「向山」 の考察
ローソン 下関川中本町店あたりに古代の構造船の祭祀土器が出土した要須遺跡がある。 その近く西側に川中本町の向山児童公園がある。向山児童公園の北方向に鋤先山、竜王山の山頂がくる。 地名「向山」 は延行条理の区割りに関係するか。

上の山古墳(綾羅木の川北神社) 前方後円墳説
要須遺跡と鋤先山を結ぶ直線を引けば川北神社付近を通過する。

万葉集275、1171
勝野  中山神社の小字 字「勝ヶ野」
高島  綾羅木駅近く 高山遺跡


向山児童公園と仁馬山古墳を結ぶ直線の延長に有冨上 岩谷さん宅 がある。有冨の岩谷さん宅裏の山腹は平たくなっており、溝が掘られ、明治末まで有冨上八幡宮があった。
私見では大伴坂上郎女は有冨上八幡宮の西隣に住んでいた。

書籍
『海浜型前方後円墳の時代』 公益財団法人 かながわ考古学財団編
序文
そしてそれを書き換えていくには、重い困難を伴う。
たとえば前方後円墳である。 ...



要須遺跡の東側の小丘陵「向山」 から前方後円墳の仁馬山古墳を見る延長に邪馬台国の都があった。 ネットの国土地理院地図、yahoo地図 で調べた。

直線上に並ぶ  四維の方位 南西‐北東
海蔵寺(垢田)−向山(川中本町)−仁馬山古墳−有冨八幡宮
 坤          要須遺跡     前方後円墳   天つ神

有冨上 字「中村畔」
  岩谷さん宅 斉明天皇の岡本宮 石垣
  儀万さん宅 飛鳥浄御原宮 西向きの門で正月の弓矢儀式
  中村さんの旧屋敷跡(ハンドウ山の登山口下 空地) 倭京の風水明堂

新元号「令和」 万葉集815〜 
大伴旅人は軍人である。 記紀・万葉などは孫子の兵法「詭道」で語られて正確な場所を教えていない。

万葉集1026
豊嶋采女 有冨の大迫池上の尾根に落雷で倒れた木がある
里 字「中村畔」 儀万さん宅付近

漢字の「豊」 は易経 六十四卦 の象が示す意味である。
卑弥呼は豊隆であろう。



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令和など考察

2019/04/11 08:51
新編日本古典文学全集 萬葉集(2) 小学館 
令和
「令」 は万葉集823 より巧言令色。

論語の学而
巧言令色 鮮し仁 広辞苑
鮮 朝鮮
仁 徳仁殿下
ニダヤの陰謀


『万葉植物文化誌』 木下武司 著 八坂書房 115頁

万葉集815 と 万葉集1883  歌を詠んだ場所・時が同じ。


大伴氏
日臣、道臣、菟田の穿邑 ハンドウ山の下
穿は龍穴。 穿=孔 孔子 
ハンドウ山の登山口

孔子の防山 不破の関 美濃の喪山
字「箕越」 か。 有冨古墳、レンタカー屋あたり

山上憶良
山上より、ハンドウ山の上

古事記 御諸の山の神
吾をば倭の青垣の東の山の上に斎きまつれ 

万葉集 巻5−894
神代欲理 云伝久良久 虚見通 倭国者 皇神能 志吉国 言霊能 佐吉播布国等 加多利継 伊比都賀比計理
  ↓
和名抄 長門国豊浦郷 伊久

憶=思=意。 思金、意久神はハンドウ山の上
明治10年地図「草野境」 神浅茅原 高野
荘子の荘=草。 はんどう山の上 尾根 は高天原で道家の発祥地

万葉集1880〜 春日野
岩の露出 百礒城の大宮人 梅を挿頭して

野馬台詩
東の 野に陽炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ
詠んだ場所 大迫池 山村さんの柿の木


大野城 大宰府ではなく倭京
内の大野 日内 有冨墓地の東側
大迫池の工事で山側に青粘土が露出 青州・青丘

岩谷さん裏、大賀さん裏 ハンドウ山に溝 山城の跡か

 
吉野の滝
蒲生野山田 竹生寺から流れでる渓流が深坂(みさか)用水路と交差する場所に石組みがあり、小さい滝がある。

鳴神 雷電を神と見ている。

下関市有冨上 山に日の出、月、雲、落雷、カラス、鴬、山桜

天子南面 日当りよい陽城の地
北に山があって高く、南は川が流れて低い地勢
吉見の船越、永田の妙寺も中国風水の適地である。

九州
北西が高く東南が低い地勢
竹生寺の奥の院から秋根の公団住宅を見る眺めである。
九州とは、有冨上または倭国の領域(下関市有冨〜吉見〜吉母) のこと。

古事記
倭建命の思国歌 平群の山 髻華に挿
大迫池の上 鯨の尾ひれ状の平たい尾根が竹生山まで続く.



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山海経 海外東経の扶桑 場所

2019/04/09 13:33

日下(くさか) は吉見の船越峠の下側入口付近である。
ならば日の位置を推理すれば、

母木(おものき)=山海経 海外東経の扶桑
の場所は古宿の大葉山堤あたりである。


欽明 23年7月 文庫書紀B338‐9
韓国の 城の上に立ちて 大葉子は 領巾振らすも 日本へ向きて


大葉子は吉見古宿の大葉池の人である。
母木=大葉=扶桑
歌中の日本は扶桑樹があった場所だ。




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前方後円墳 大鳥 説

2019/04/08 05:27

万葉集15
渡津海豊旗雲入日さし 今夜の月夜 清明己曾

荘子 逍遥遊  天の鳥船
鯤 大魚  大船である
鵬 大鳥  竹生山の西側は大鳥の背

下関市有冨 竹生寺縁起
が豊浦町黒井の海岸から飛んできた


万葉集244
み吉野の御船の山  竹生山は吉野の御船山である。

『下関北浦談議』 平成元年
124頁
金実中が海から上陸した時、沖からこの高い山が見えた。
石山の妙見山は高山(こうざん) と呼ばれた。

懐風藻では吉野は神仙の方丈である。
『懐風藻』 辰巳正明 著 新典社 2019年1月 3600円+税
中臣朝臣人足
165頁 方丈 
167頁 鳳


『海浜型前方後円墳の時代』  同成社
公益財団法人 かながわ考古学財団編 2015年3月 5000円+税
序文
そしてそれを書き換えていくには、重い困難を伴う。
たとえば前方後円墳である。

  ↓
私の考え 前方後円墳は御船山である。 大鳥の形だ。


かぐや姫の月の都があった はんどう山

済生会病院
玄関 バス停 から蒲生野の竹生山を見れば前方後円墳の形である。


『蓬莱山と扶桑樹』 岡本健一 著 平成20年
96頁 4行目
私見では、蕨手文=扶桑樹 説は間違いである。 蕨手文は陰・陽の水蒸気である。


三神仙の場所 
瀛洲 吉母の黒嶋
蓬莱山 吉見古宿の串山
方丈 有冨 竹生寺の山(東が嶽) 東嶽=泰山 西側 大鳥の背


吉母・永田の境にある 眼ノ崎 の沖が 「大海」「渤海」 である。
渤海=勃海



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浦島太郎の場所 下関

2019/04/07 15:08

吉見古宿の串山
江戸時代、享保の飢饉後に提出された吉見村地下図では、串本岬は「三ヶ首」 という地名で亀首状の岩場が見られる。
  ↓
逸文 風土記
丹後の国 天の椅立、久志浜


串山は神聖な赤(岩が銅色で赤い) でできている。

丹後国 京都府丹後半島ではない。 丹より赤色の地。

串山の東南にある海岸松林を「亀(がめ)の松」という。
串山を亀と見ているのだろう。

フィッシングパークがある。

龍王神社の社伝では古宿(こずく)は小津久と書かれている。
串山の山頂に龍王神社の御神幸があった。

参照 『古宿今昔記』 昭和57年


吉母の黒嶋
吉母は鯛の一本釣りの漁場だった。

魏志倭人伝 伊都国のシマ は糸島ではなく吉母の黒嶋である。


浦島太郎は吉見古宿の串山、吉母の黒嶋付近のおハナシである。


筒川の嶼子
吉見新町ではサヨリ(針魚 はりお ) が釣れる。

「筒」 は筒男の住吉神。

仁徳紀の横野堤は吉見古宿の横尾鼻堤。 この場所の水路と汐入川が筒川と思う。 江戸期の絵図では大きな潟湖で堰が設けられている。

日下部 雄略記 日下の直越えは船越峠
船越の北側は字「河内前」。 記紀・万葉の河内国は船越。 船越の神社は河内神社(龍王神社に合祀)。

竜王山を乕伏山という。 「乕」 は虎の俗字。
饒速日尊 河内国の哮峯は千石岩があった所。
鳥見の白庭は有冨 はんどう山の長い尾根 白い水晶あり。

書経 禹貢
鳥夷 有冨墓地 鳥は十日のカラス
島夷 吉母 海曲は御崎 

古宿の浜(吉見海水浴場) の家々は船越から下りてきた。

水江の浦 小津見第一踏切あたりか


山口県風土誌 (九) 吉母 若宮神社
海坂、海堺 は吉母の海底岩礁である

万葉集1740
常世 御崎の淵ヶ谷

墨吉の岸 古宿のスーパー  F・サニー


不弥国
場所 吉見・大久保・船越
官の多模は龍王神社の祭神 住吉荒 である。 本家本元の住吉神社は下関市吉見の龍王神社である。 大正末まで古宿の国道 七曲の どさんこラーメン店 の場所に下宮(浜宮) があった。


万葉集の住吉
万葉集では紅葉(もみちば) を黄葉と表記する。
「住吉の岸の土」 は古宿の串山に露出する赤石か。

万葉集
69 清江娘子
932
1002
1146
1148



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蒼天行路

2019/04/07 00:54

竹生山の西側は 鳳=泰山の背 である。 

倉光さん 蒲生野山田
集落の最上部に位置し、竹生寺の参道入口にある農家である。
農家で倉光という姓は珍しい。 

蘇我山田石川麻呂

曹魏 曹家一族の墓、江蘇省の木簡
天=蒼天、倉光=天光
  ↓
荘子 逍遥遊 鵬 天の蒼蒼  天の鳥船か
天光 淮南子 本経訓


『山口県の地名』 日本歴史地名大系36
竹生寺
黒井の木ノ村(海岸の松林) より神旛が飛んできて、この地に落ちた。

この伝説は 荘子 逍遥遊 鵬 を思いつく。

荘子 逍遥遊
鯤  豊浦町吉永から出土した構造船の祭祀土器
鵬  陸路を船を担いで梅ヶ峠を越える。 航路で行ってもよい。

万葉集
14 高山  竹生寺の山号 高山
15 渡津海 豊旗雲

私の研究では
高山(かぐやま) はんどう山  高=崇=嵩 崇神天皇 曹嵩
三輪山の神(みわ) は竜神 有冨竜王社がある はんどう山
耳梨山 竹生山、東嶽(竹生寺がある山) 大鳥の形 通称 ゴリラ山


豊浦町井 黒は北の方位 荘子 逍遥遊 の「北の海」 は黒井の海

有冨の竹生寺 大鳥=泰山 山名は東嶽である。
竹生寺の西側 奥の院 稜線は 大鳥の背中 の形

黄巾の乱 私の新説 
張角の道教は下関市 竹生寺の下、倉光さん宅あたりが発祥地である。

江蘇・高郵邵家溝 後漢末 木簡 呪言
  ↓
下関市有冨 竹生山麓 黄巾の乱の教義発祥地


有冨墓地の東側を「かく石峠」 という。 古事記の迦久の神か。
張角の生まれ育ちは有冨墓地の東側だろう。


荘子 逍遥遊は竹生寺縁起の黒井 木ノ村 から神旛が飛んできた に通じる。 黒井、室津に着いた船が、播磨国風土記の船引原のように、山の峠を越えて有冨上まで運ばれていたのだろう。

万葉集 草枕 吉母の草場川、字「中草」  


南の海 綾羅木川の河口
綾羅木 中山神社の小字が「勝ヶ野」である。

万葉集
275  高島 勝野原
1171  高島 勝野 大御舟

高山遺跡 綾羅木駅近く 弥生時代 



当ブログの過去記事  今は見解が異なる
荘子の北海若 下関市吉母
44051510.at.webry.info/201712/article_11.h...
2017年12月11日 ... ... 鵷雛(えんすう) 南海は綾羅木海岸。 鳳凰は竹生観音の山 荘子の逍遥遊篇、秋水篇 は中国の雄大な幻想文学ではなく、下関市の吉永・室津・吉母から綾羅木へ行く "鳥の 大船" だった。

構造船の祭祀土器 吉永遺跡、要須遺跡 ...

要須遺跡 伊倉1丁目 8〜9世紀



杜屋神社の社伝 亀甲に乗った三穂津姫
44051510.at.webry.info/201509/article_3.ht...
2015年9月3日 下関市豊浦町 黒井 にある杜屋神社の祭神が 三穂津姫である。 ... 毛呂 ・・・ 田道間守につながる地名である多遅摩母呂須玖 応神記 但馬諸助 文庫書紀A24-10 亀に乗る 浦島太郎の乙姫 雄略紀 文庫


「北の海」 は黒井、室津
「南の海」 は綾羅木川の河口



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大化の改新 と 曹操 の接点

2019/04/05 12:35

『三国志 曹操』 800円+税 ムック本
別冊宝島編集部 編 2016年3月 2003年6月刊の再編集版

執筆 坂出祥伸
太平道・五斗米道と曹操の接点 

48頁下
乙巳日死者鬼名為天光天帝...
  ↓
江蘇省から出土した太平道の呪符木簡の文言は下関市 竹生寺 である。


49頁 図1 解読不能の図
北斗七星 「符」 には未来記の意味もある。 符運、符応(史記 封禅書)


50頁上
蒼天已に死す...


乙巳の変=大化の改新

天光
淮南子 本経訓 天光  中国古典文学大系6 97頁下 注3
新釈漢文大系の 淮南子 上 では光 

蒼天
荘子 逍遥遊 鵬 天の蒼蒼

風土記 新編日本古典文学全集5
常陸国風土記 信太の郡 365頁 10行目
すなはち白雲に乗りて、蒼天に還り昇りたまひき。
  ↓
蒼天と白


逸文 丹後国  筒川の嶼子 478頁 12行目
即ち未瞻之間に芳蘭之体、風雲のむた翩りて蒼天に飛びゆきぬ。
  ↓
蒼天と風


天光・蒼天は明るい光、抜けるような青空ではない。

天光=玄光 玄は暗い、黒い、北、老荘の道家、赤黒い、幽遠


蒼天
雲。 山の阿(くま) にある竹生寺、有冨墓地は雲、霧に覆われる
雲師、豊隆
神は雷電、黒雲に乗る龍 


南山
有冨の はんどう山

太一
竹生寺の妙見社

天帝の場所は、有冨の字「中村畔」 から天の方位である北西(乾 いぬい) だから竹生寺の西側にある奥の院(経筒) となる。

字「中村畔」(畔の読み グロ) の儀万さん
儀万という珍しい姓は楚辞 遠遊の太儀か。
於微閭(いびりょ) は東北なので鬼門である。 山口県風土誌 有冨村 境界 の長尾山だろう。

崇神紀 倭の長尾市  
続日本紀 長尾から銅鐸が出土

宗女トヨ 易経の豊は雷。豊隆は雲師
神は稲光で、鏡や装飾古墳のノコギリ歯状 山形文

崇神天皇、功皇后 崇=嵩=高


楚辞 
字「中村畔」 の儀万の家から はんどう山を登り、尾根伝いに竹生寺に行き、奥の院に行く。 そこで天帝(黄帝) に会う。

論語の出だし 朋、方より来る有り
「遠方」 は下関市 有冨の山 神仙境

風伯、大鳥  淮南子 本経訓 から風伯、大鳥は青丘にいる。

方丈  竹生寺は吉野の方丈

下関市 蒲生野の妙蓮寺 山号 長谷(はせ)山 より友田川は長谷川である。

生寺の「竹」 については
『野馬台詩』の謎 小峯和明 著 岩波書店 2003年
181頁 末行 〜


列子 湯問篇 などの 「帰墟」 「大壑」 は 関門海峡〜有冨墓地 〜吉母 あたり。



後漢期の天師道、曹操一族の信仰は竹生寺がある ”有冨教” だった。
有冨 老子 第33章



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倭面土地国

2019/04/05 02:32

倭面地国
土は陰陽五行の土。 有冨上の地勢で中央地は、農協の金融部長をしている中村勝(まさる) さん宅。 牛を祀る大歳社がある。 地勢は小丘になっており、中野利道さん宅の坂から はんどう山に昇る月を見て歌ったのが、百人一首 阿倍仲麻呂 天の原 ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に出でし月かも
阿倍氏=御門氏

天原広野姫天皇 持統天皇
池上君大歳 続日本紀  大年池


有冨の薬師溜池 薬師寺跡がある。
牛頭天王は薬師如来の化身とされる。 すぐ近くに山村さん宅
  ↓
続日本紀の山村王


薬師池には河童伝説がある。
薬師池の北側は ふせぎヶ谷 といい、玄山、孔子の防山か。

済生会病院の正面玄関 バス停 から蒲生野の竹生山を見たら、
前方後円墳の形をしている。



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岡田英弘の下関説 

2019/04/04 04:54

『日本史の誕生』 岡田英弘 著 弓立社 1994年 2001年第5刷

44頁下  倭国の中にある華僑の都市
52頁上  なぜ「西域伝」がないのか
80頁上  中国人という人種はない
96頁下  六〇九年の答礼使節が見た倭国
112頁上  韓半島と日本列島の人口構成


岡田英弘は隋書倭国伝によって邪馬台国の場所を比定

秦王国=邪馬台国 下関付近。 または田布施町あたり。
華僑の大集落 徐福の末裔 華に同じ 

倭国=関西政権



古田史学 隋書は国伝。 国は九州島、とくに福岡市近辺。
古田武彦を信奉する人たちは大宝律令(701年) まで大宰府市に 邪馬台国=倭国 が正式公式に存続していたとみる。 記紀・万葉は九州倭国の書。


戦前、日本の史学の一部に
倭人が自分たちを「天子」「中国」「中華」「九州」「夏」 と言っていたから、始皇帝は焚書坑儒をやった。
  ↓
原始古代の中国の古典は倭史だった。




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蓬莱山

2019/04/03 09:40

下関市 室津
阿弥陀院の山号 蓬莱山

瀬戸内側 松屋にある常元寺も山号 蓬莱山

光蓮寺
防長寺社由来 第7巻 688頁上 光蓮寺 室津の字 「戸通 」
光蓮寺の由緒覚 藤原氏 白鳳元年辛酉天智天皇近江国志賀郡唐ア宮 ...


私見
蓬莱山は吉見古宿の串ノ山か。 山頂は龍王神社の御神幸があった。
串ノ山 東南側の松を 亀の松 というから、串ノ山=亀

吉見は記紀・万葉の河内国
吉見古宿の石鎚大権現は仁徳天皇の難波高津宮の高台



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稗田地蔵堂遺跡は劉安の墓

2019/04/02 12:26

神仙伝 巻四
葛洪によれば、晩年の劉安は仙人の国に行った。

徐福の東渡は 『史記』 淮南衡山列伝 にある。
  ↓
徐福が東渡した場所=劉安が行った仙界

劉安は自殺して笑い者になったのか。 晩年は神仙界に行ったのか。

下関市の稗田地蔵堂遺跡(蓋弓帽、清白鏡) は劉安の墓である。


志賀島から出土したとされる金印
倭国の極南界 委奴国は下関市 有冨 字「中村畔」 である。
根拠 旧唐書 倭国 によれば 倭国=倭の奴国

旧唐書によれば、倭国は唐に使者を出した年である貞観5年(631)、貞観22年(648) に存在しており、新羅も下関の倭国と外交していた。
参照
講談社学術文庫 『倭国伝』 207頁 現代語訳

講談社学術文庫 『淮南子の思想』 金谷 治 
69頁〜 第2章 仙人になった淮南王



邪馬台国と倭国は同じ。



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曹魏の先祖は舜

2019/04/02 08:46

孟子 舜は東夷の人

曹魏の先祖は舜

舜の無為
玄学は淮南子と同じ思想と思える。


『東アジアの古代文化』 特集 倭と倭人の世界
1974年春ー創刊号 大和書房 オンデマンド版
蓬莱島と東海の君子国 伊藤清司
119頁 下 岱→ → →

岱は泰山(東嶽)、は夏王朝の禹

冨任の字「古能地」の「能」
潮待貝塚の字「正町」 正=政

夏王朝は有冨上と潮待貝塚・神田遺跡にあった。

虞、有虞氏は有冨上

書経(尚書)は下関市 有冨〜吉母 の古代史である。

中国古典文学大系1 書経・易経(抄)
12頁上 注22 昧谷  柳谷は吉母上の字「柳ヶ元」 法林寺の東隣

10頁下 5行目 月母の国
  ↓
『立岩遺蹟』 飯塚市立岩遺蹟調査委員会編 代表 岡崎 敬 1977年
鏡とその年代
343頁
月有富 ・・・ 暗号として読めば、有冨に月の都があった。
母事 「母」 は東王母か

 

下関市 冨任(とみとう)  ここが投馬国の場所
夏王朝があった所である。

梶栗浜遺跡の縄文土器
潮待貝塚・神田遺跡の深い溝  瀬戸内中部と交流 商人だった禹

勝山支所 縄文時代の大溝 禹の治水事業

伊東照夫談 綾羅木土器は河姆渡遺跡の土器と似る

魏志倭人伝の文言 私の新説
夏后少康会稽東治 の場所は下関市 冨任(とみとう) 



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九州説

2019/04/02 07:41


『九州王権と大和王権』 中小路駿逸
『九州王朝の論理』 古田武彦、福永晋三、古賀達也

『魏志倭人伝の解明』 西尾幹二「国民の歴史」を批判する
藤田友治 2000年


『扶桑国は関西にあった』 いき一郎
97頁
山獄涜名山記に
東岳広桑山在 東海中 青帝所都
  ↓
下関市 竹生山 東嶽  山口県風土誌 有冨境


九州は九州島でなく下関にあった邪馬台国。 その国域は、石原・有冨〜吉母。
九州の地勢は西北が高く東南が低い。 有冨台地が九州である。
下関市有冨は北に山があり、南に川が流れ天子南面である。

竹生寺に妙見社があり泰山である。
泰、大、太、俀国。


豊浦町 吉永
南限の大池 豊洋台の池
隼人の流れ 御崎の海流か




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赤松ヶ尾

2019/04/02 06:58

下関市吉見の船越 字「赤松ヶ尾」

神仙伝
巻二

黄初平
初平は赤松子となり、初起は魯班となった。

巻八
墨子  周狄山 赤松子


字「赤松ヶ尾」 の隣は字「王仁」 で、八幡宮があった跡がある。
字「王仁」 は「応神」 とも記されてきた。

福江の大塚は王塚、字「大久保」 は「王久保」 とも書かれる。
大正3年の鉄道工事まで字「大久保」 に龍王神社の下宮(浜宮) があった。


船越の字「田ノ尻」 田辺史か
蓬蔂丘 文庫書紀B64-2  赤駿に騎れる者
応神陵は空飛ぶ仙人が居る所

周狄山
「周」 は風水の山
「狄」 は北方の異民族。 狄=犬 =戌 で方位は西北西。
周狄山は船越大塚盆地の西北西。


山海経 海外東経
青丘 有冨上
黒歯国 吉見の船越  黒歯常之の出身地か




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曹操は倭人だった

2019/04/02 04:27

「金正日は日本人だった」 をヒントにして、
曹操は倭人だった というアイデアを得た。

「魏」 と 「倭」 はともに 「委」 で漢字が似ている。

論衡 倭人鬯艸を貢ず

『書経・易経(抄)』 中国古典文学大系1 平凡社 35頁上
礼記 曲礼下篇に 「贄は、天子は鬯(神を祭るのに用いる酒)、諸侯は圭、卿は羔(こひつじ)、大夫は雁、士は雉、庶人は鶩(あひる)。 ...
 ↓
鬯は天子の贈り物である。 倭人は天子である。


講談社選書メチエ 渡邊義浩 著 2012年
『 「三国志」の政治と思想 』 254頁 あとがき
で、歴史学における史料・証拠の重要性が語られている。

『曹操ー三国志の真の主人』 堀 敏一  刀水書房 2001年
7頁 養子曹嵩の家
嵩は夏侯氏の子

12頁 磚上の文字
倭人、時を以て盟すること有りや否や

170年は後漢書 倭伝にいう倭国大乱の時にあたる。
日本尊=魏の

阿瞞 「瞞」 の意味は人をだます。
大碓命は父の景行天皇をだまし、小碓命は熊襲をだました。


地方史料
下関市吉見の龍王神社に合祀されている乳母屋社の社伝に
震旦国ヒ州から王女オオヒルメと太子が空船に乗って大隅国に着いた。
ヒ州 江蘇省

住吉大社神代記 二九 御風俗和歌
住吉大神と広田大神と、交親を成したまひき。




日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志 ... - 東京国立博物館
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[展覧会みどころ]特別展「三国志」 東京国立博物館 | モモモサーバー
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夏后少康 会稽東冶

2019/04/02 03:43

漢和辞典
私は次の大辞典を所有してマメに引いている。

新訂 字統
字通
白川静著作集 別巻 説文新義
学研 新漢和大字典
角川 大字源
角川 新字源


「倭」 と 「魏」 は字が似ている.。
「委」が共通。 倭はヘン 「人」 、魏はツクリ 「鬼」 。

世界古典文学全集2 筑摩書房 『詩経国風 書経』
155頁上
鄭玄の詩賦によればは太古の虞禹の都した地である。 ...

孟子 舜は東夷の人


魏志倭人伝の漢字
論点として
東治 原文はサンズイ
東冶 訂正してニスイ

『魏志倭人伝 等』 岩波文庫
142頁 梁書では末盧国は盧国である。

私見は、末盧国、未盧国は下関市室津、御崎。
御崎の 「御」 は神様の岬を示す。 例 熊野の御碕



下関市
末盧国 室津、御崎
伊都国 下関市吉母 字「明見」の溜池が筑紫の水城である。
奴国 永田本町
不弥国 吉見・船越 官の多模は龍王神社の祭神 住吉荒

投馬国 冨任(とみとう)
邪馬台国 有冨上(県道 長安線 の山側)

旁国 秋根・勝山
狗奴国 山の田、垢田、武久、幡生


夏后少康の子 - So-net
www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gimonfolda/gimonn07.htm


会稽東治の位置
冨任の小字地名
能地 のうじ
(瀬戸内海の一部で)海人(あま)の集落。または漁夫のこと。 広辞苑

「くぐ原」 潜る。 字「大下」 夏=大 の意味か。
梶栗 梶は舟の舵

人面土製品 綾羅木郷遺跡から出土

潮待貝塚の真東 有冨の大迫池
梶栗浜遺跡の真東 有冨の字「中村畔(グロ)」

当に会稽の東の東にあるべし
冨任の東に邪馬台国の場所である有冨上がある という意味である。




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万葉集19 有冨の林さん宅

2018/06/01 15:00

万葉集18 三輪乃山 大賀(大神か)さん宅付近か
万葉集19 始乃 ・・・林さん宅

綜麻形乃
竹生観音の真南 林さん家の持ち山
綜麻形 は薬師寺跡地の地勢でっぱりか。

和我 「勢」 は狩猟の勢子か
  ↓
有冨墓地の西側〜薬師池の上 ・・・ ここが猟場で「勢子」 が動く所

万葉集2021 蒲生野
万葉集22 題詞
十市皇女の伊勢神宮に参り赴きし時に、波多横山の巌を見て、
  ↓
深坂幹線用水路
竹生観音から流れ落ちる渓流の出口から渓流伝いに竹生観音に登った。
当時すでに登山道があったのかもしれない。
湯津盤村の伊勢神宮は竹生観音だ。


万葉集29
 字「中村畔」
青丹吉平山 平井さん宅。 山口県風土誌では地名「平台」


万葉集の蒲生野は下関市の蒲生野である。
有冨から蒲生野山田に入る場所に林という家がある。
万葉集19 の「林始」 を発見!

下関市有冨上の人家の名が奈良県の地名になっている。


林臣 古事記
下関の林さん
  有冨の林さん 字「谷町」
  綾羅木郷の林さん 了元寺の裏 字「木舩」
  福江の林さん 字「林」
など。

有冨の林さん談
  家の裏が林だから林という名前。
  明治になった時に長府の侍から「林」 という姓を買った。




木の国
楠乃 説 楠乃川
住吉神社の大楠 武内宿祢が植えた伝説
蓋井島の船の木材から楠が生えた伝説 高速道路の西側

一の宮住吉3丁目 以前、下関中央卸売市場があった所 字「山」

火の山 「火」 は五行配当で南

南北の測定
 北極星の北
 方位磁石の北 西偏7°
 竹生観音の妙見宮と椋野上町の妙見山を結ぶ線


有冨の 薬師池周辺
字「谷町」の「町」 は満致か。 木満致、蘇我満致
木満致の「木」 は榑木か。



影面・影友  万葉集52 かげとも 南側

山下比売  ・・・ 竹生観音がある山の南側 麓
  ↓
有冨墓地の西側〜薬師池〜林さんの山〜林さんの家

万葉集74 吉野の山下

木の国は住吉神社付近、有冨の薬師池周辺のどちらか。
下影比売の「山」 は竹生観音の山だと思う。

万葉集54 巨勢山 坂門
有冨墓地から大迫池上の尾根に登る山道が昔あって「山門」 と呼ばれていた。
岩谷さん家前の坂には椿が多い。

万葉集55 木人樹人 亦打山  植林か


の宿祢
味師の宿祢

万葉集3、4 野、の大野

「内」 の場所は狩猟場なので、
有冨墓地〜薬師池下の田〜大迫池西側の柿の木
の場所に比定できる。



天子南面 有冨の「林の山」 
記紀・万葉の中心舞台は竹生観音の南麓に位置する「林の山」
薬師池の西側 孟宗竹を伐採した場所


有冨の南方向の吉野は椋野、藤ヶ谷
神武東征の吉野は竹生観音、蒲生野山田
懐風藻の吉野は竹生観音




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万葉集48  有冨 小字「谷町」 の考察

2018/05/26 20:56

直線上
ハンドウ山の頂 ― 上の山古墳 ― 明見田川の河口
方位 西南西。 万葉集 2 香具山はハンドウ山(有冨竜王社) である。

植松古墳 ― 観音堂古墳 ― 秋根古墳 ― 一の宮住吉の山


小字「谷町」
有冨 字「谷町」 場所 竹生観音の登り口〜林さん宅〜薬師池

老子 六章 谷神不死、玄牝 の場所である。
竹生観音では、かつて馬の祭事が行われていた。


天斑馬
万葉集 内野の大野、阿騎野での乗馬・狩猟

内野、阿騎野の場所は
竹生観音の参道入口〜林事務所〜薬師池〜有冨墓地
「林の山」 の孟宗竹の竹林を伐採したら平地が現れた。
薬師池〜有冨墓地 は今でも猟犬と猟銃による狩猟場である。

字「谷町」 は、老子 六章 谷神不死 玄牝 の聖地である。

竹生観音の隣に妙見社があり、風水の北方の山 玄武。
玄武の麓に位置するので玄牝。

水の神  猛田邑 菟田主水部 水取(もひとり)

薬師池の西側を「イナリ山」 といい豊受大神のことなら穀物を表す。
字「谷町」 の町を漢和辞典で調べると、田の畔、Tの形

薬師池の南側に薬師寺跡がある。 尼寺だったという。
2、3年前に市の文化財保護課 小林氏が調査済み。

薬師如来は徐福が求めた不死の仙薬と関係する。
天の真名井 薬師池

竹生観音の山は鳳(おおとり) の形をしており、とくに大年池東側からの眺めは威厳があって立派である。
  ↓
倭京の明堂は大年池の入り口付近にあった。
字「中村畔」 万葉集 なかなかに


江戸時代の地下上申絵図では有冨墓地は「大谷」 と記されている。
逸文 常陸国 に「大谷」 があり、榛の巨樹は榑木=高木神 であろう。
東国の常陸国はハンドウ山の尾根筋で、有冨上は青丘国です。


青丘
山海経 海外東経 丘国
「青」 は東

野馬台詩  青丘与赤土 茫々遂為空

万葉集48
東 野 立所見而 反見為者 月西渡

荘子 逍遥遊 では野馬=陽炎(かげろう)
万葉集48 は 林さん宅から大迫池の上の尾根を見て詠んだ歌
有冨の平田さんが所有する古地図では大迫池の上の尾根の地名 「草境」

高野、高松野、高円野
「野」 はハンドウ山の頂 〜 大迫池の上の尾根筋 「草野境」 をさす。
野の「円」  前方後円墳はハンドウ山の尾根の形

魏志倭人伝=老子(道家)+墨家
諸子百家の観点から魏志倭人伝の思想を調べると老子と墨子である。
道家、墨家は薄葬。 関西、北部九州の厚葬がある場所は邪馬台国ではない。


  牛に乗った老子 
万葉集の間人老、穂積老の「老」 は老子
老人=大歳。 大年池の西側、中村勝さん宅に牛を祭る大歳社がある。
真人は「道」 を得た人  大原真人、伊香真人、瀛真人
有冨の庄屋 儀万さん 「儀万」 の意味は「道」 または天皇 を表す。

下関市有冨上は老子の里!


新説
有冨 字「谷町」 場所 竹生観音の登り口〜林さん宅〜薬師池
「谷町」 の地名由来は 老子 六章 谷神不死、玄牝

万葉集48
林さん宅から大迫池上の尾根を眺めて詠んだ歌である。



林の臣 古事記
竹生観音は蒲生野山田にあるが住所は有冨の字「谷町」 である。
老子 六章 の 谷神不死、玄牝 は竹生観音も候補地である。

蒲生野山田 字「横山」 とは別に、
山口県風土誌 第9巻 蒲生野 〇境界 P380 では、
蒲生野と有冨の境界
蒲生野と小野との境界
が横山であり、竹生観音の山を蒲生野側では横山と呼んでいる。

孝元記に林の臣がでてくる。 波多の臣と親類か。
白川静 「新訂 字統」 では林の字に「祖霊を迎える礼の整ったさま」 の意味がある。

万葉集18 三輪乃山 大賀(大神か)さん宅付近か
万葉集19 始乃 ・・・林さん宅
万葉集2021 蒲生野
万葉集22 題詞
十市皇女の伊勢神宮に参り赴きし時に、波多横山の巌を見て、
  ↓
深坂幹線用水路
竹生観音から流れ落ちる渓流の出口から渓流伝いに竹生観音に登った。
当時すでに登山道があったのかもしれない。
湯津盤村の伊勢神宮は竹生観音だ。


続日本紀
続日本紀B369-8
薬師寺の僧華達は、俗名山村臣伎波都なり。

有冨の薬師寺跡は山村さんの家の近く、山村さんの田畑の北隣にある。


続日本紀B41-7
池上君大歳(朝妻金作大歳) ・・・ 大歳池、金鋳ヶ谷

市原王 ・・・ 字「市ヶ原」


続日本紀@201-16
大倭国宇太郡波坂郷
脚注21
大和志に「已廃。 存 平井村」 今奈良県宇陀郡榛原町平井のあたりか。
  ↓
昭和40年代まで字「善波」 に小さな湧水池があった。 坂がある。
有冨の平井さんの家

続日本紀の奈良県は下関市有冨上のコピー!


神仙思想の書
懐風藻 道家
吉野は竹生観音

常陸国風土記
筑波山の歌垣は竹生観音

老子 六章 谷神不死、玄牝=筑波山の歌垣=下関市有冨の竹生観音




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その位置は?

2018/05/13 03:09

古代史で、その位置が問題の項目
邪馬台国
東海の君子国
東海の三神山 (瀛洲、蓬莱山、方丈)
扶桑  扶桑が日本国内にあるなら羿(ゲイ) は日本人である。

燕地 倭人
呉地 東鯷人

徐福の東渡 夷洲、澶州

呉王孫権の東方遠征
230年(黄龍2年)、衛温・諸葛直に1万を与え、夷州と亶州の捜査を行わせた。 夷州から数千人を連行するも、この捜査は失敗に終わり、孫権は、衛温・諸葛直を処刑した  Wikipedia 孫権

論語 九夷
論衡 周の時に、倭人が鬯艸を貢す


中国正史
東夷伝 Wikipedia
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7%E4%BC%9D

東夷 Wikipedia
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7

(私見)
「東夷」 に中国東北部や朝鮮半島の各国は含まれず、「東夷」 は日本を示す。


諸子百家 Wikipedia 
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E5%AD%90%E7%99%BE%E5%AE%B6

(私見)
諸子百家の記述は古代の中国ではなく縄文時代の日本だった!
韓国人が「孔子は韓国人だった」 と言って顰蹙をかったが、諸子百家とそこで語られる聖人君子たちは原日本人だった。

中国の諸子百家=縄文時代の原日本人 説



歴史作家 前田豊  出版社 彩流社
『古代神都 東三河』 1996年4月
P221
山海経は日本の出羽出身者が中国に渡って書いたもので、山海経は紀元前2000年代の古代日本風土記が元になっている。


『倭国の真相』 1997年1月
P221
「太平御覧」 南海経 南倭・北倭
「釈日本紀」 南倭は東海の女国、女王国、東海の姫氏国

小林恵子「三人の神武」 東倭


『消された古代東ヤマト』 2003年2月
P86
平田篤胤 三皇五帝は扶桑国の出で、日本の皇神等である。




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白水郎 崎守 伊勢国

2018/05/11 00:45

記紀・万葉、風土記の全部は下関市域である。

白水郎
淡路島の野島 製塩 ・・・ 六連島の音次郎遺跡

白水郎、白崎の 白=西。 揚子江の白水ではない。
吉母の淵ヶ谷は石灰岩の白い岩壁で宇部興産が採掘していた。

筑前 志賀の白水郎 製塩 ・・・吉母浜の製塩
白水郎は揚子江河口、江南の海人族ではない。 「下関市年表」 によれば、3〜4世紀に近畿系の庄内式土器・布留式土器を使って吉母浜で製塩していた人たちがいた。

仁賢紀 文庫書紀B138‐末行 白水郎ハタケ
住道は吉母の若宮神社。

肥前国風土記の値賀島は蓋井島である。

あるいは、韓白水郎ハタケについて次のような考察もできる。
小文字で家系を記されるのは垂仁紀の都怒我阿羅斯等、天日槍である。
天日槍は海人なので、韓白水郎ハタケに通じる。 古語拾遺では 天日槍は「海檜槍」と記されている。 天日槍が最終的に落ち着いた但馬国 出嶋 は御崎 淵ヶ谷 丸瀬 である。 御崎馬の伝説がある所で「高麗の意呂山」 の「高麗」 は駒に通じる。 韓白水郎ハタケは天日槍、五十迹手、その家系の神功皇后と親戚。 韓白水郎ハタケは御崎の淵ヶ谷 丸瀬(丸山) の海人ではないか。

御崎の小川から海岸に出ると、大岩の上に弁財天の祠が立っている。
ここが角(つの、つぬが、つのしま) で、神功皇后の故郷か。
御崎は韓国語のペットボトルが数多く漂着して夜は密航者の上陸地だった。

黒嶋は「久留島」 ともいう。 久留=牽=引。 穴門の引島は吉母の黒嶋。
神功皇后の三韓征伐 下関の地元では吉母から渡海したと伝わる。

吉母、厚母と「母」 の字がある。
吉母の「母」 とは西王母であり、吉母浜〜毘沙ノ鼻が山海経の渤海である。
崑崙、西王母、渤海、流沙は吉母である。

山海経 常緑で花が赤い「若木」 は椿。 椿は日本原産。
山海経には日本の事が書かれている。


防人は崎守で、御崎の「御」 は神が居る所を表すという。
毘沙門天=防人。 「沙」 は流沙か。

神功皇后は吉母の不燃ゴミ埋立地から上陸した。
末盧国は御崎。 梁書では未盧国である。 御崎は室津に属していた。

宗像は環境センター吉母管理場か。
雄略紀で宗像に遣わされた凡河内直は大河原の河内社の人。


孟子によれば、舜は東夷の人、文王は西夷の人。
呂氏春秋では太公望は東夷の人。
宋書倭国伝 西は衆夷を服すること六十六国。
  ↓
西夷 吉母 本州の最西端 御崎
東夷 有冨 ヤマトは山東で、中国の山東は有冨 字「中村畔」 だった。

太公望は浦島太郎と同じく吉母で釣りをしていた。
黄帝、伏羲、堯、舜、禹、羿などは下関市有冨、吉母の御先祖である。
下関市の有冨上、吉母は中華文明発祥の地である!

下関市秋根 勝山支所 縄文の大溝は禹の治水事業跡!


蓬莱山が吉母の黒嶋なら、瀛洲は毘沙ノ鼻、御崎、蓋井島か。
方丈は鳳凰の形の山で、竹生観音の山。

静岡県の富士山は原始古代は煙を出す活火山であった。
蓬莱山は火山ではない。

隋書俀国伝。 俀=泰=大
泰山  東ヵ嶽 竹生観音の山 東側の峰 砕石場
大  有冨墓地の大迫池 日十大王 富本銭の「本」=大+十 

泰山は中国の山東省でなく下関市有冨の山なので、書経は偽書とされる。

魏志倭人伝の神仙思想=老荘の道家+墨子

邪馬台国の位置と併せて東海の君子国の位置もまた大きな論点である。

東海の君子国 考古資料
 飯塚市 立岩遺跡の清白鏡
 下関市 稗田地蔵堂遺跡の蓋弓帽


伊勢国
万葉集40
嗚呼見乃浦 ・・・ 垢田の鼻ヅラ 黒崎妙見
垢田のバイパス下の農業ハウス「山の神」看板

武久浜は因幡国。

内日の赤田代 五年神 垢田から移住してきた伝承がある。




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韓流 (半島起源説) 

2018/05/07 18:23

積石塚
福岡県新宮町 相島
山口県萩市 見島 ジーコンボ古墳群


前方後円墳
韓国で「日本式古墳」発掘される!4〜5世紀の朝鮮半島南部は日本人が支配していたことが判明! 追記
blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/033b10a5224397b63bad5b4dfa236d8f

歴史秘話ヒストリア - NHK - NHKオンライン
www.nhk.or.jp/historia/backnumber/303.html

前方後円墳の起源や原型、意味は?形の理由が気になる!全体が見える ...
ryuusnews.com カルチャー


2017年5月12日(金)放送の歴史秘話ヒストリア「飛鳥美人 謎の暗号を解け〜高松塚壁画のヒミツ〜」を視聴して
blog.goo.ne.jp/chiku39/e/572fb36683b41790d8d12c1154b0f4dd


「庚寅」銘文太刀の発見が意味する「日十大王」の真実
blog.livedoor.jp/wakankousa/archives/50629834.html


四隅突出型墳丘墓
四隅突出型“墳丘墓”は「古墳」では無いのか?その2
ameblo.jp/feijoahills/entry-10544554437.html

四隅突出型方墳の示唆すること【高句麗・新羅→出雲→東国のつながり】
web.joumon.jp.net/blog/2009/03/759.html


角川ソフィア文庫 風土記 下
五十跡手 逸文 筑前国
怡土郡
五十跡手奏して曰ひしく、「高麗国の意呂山により降り来し日桙の苗裔、五十跡手是なり



栗本慎一郎の本

『ゆがめられた地球文明の歴史』 栗本慎一郎 著 技術評論社 2012年
P237-末行
日本皇室は高麗の皇室も自らその祖と仰ぐ扶余と関係がある可能性がある。

『栗本慎一郎の全世界史』 栗本慎一郎 著 技術評論社 2013年
P8-3行目
北満州は蘇我氏の故郷
P168-12行目
物部氏は蘇我氏と同じく東北地方から日本に入った
P198-9行目
聖徳太子が異常にコマ(高句麗) との関係を重視していた



茨城県・岩手県
虎塚古墳 | ニッポン旅マガジン
tabi-mag.jp 県別・エリア別 08茨城県
   ↓
  ひたちなか市にある7世紀前半に築造された全長56.5mの前方後円墳が虎塚古墳(とらづかこふん)。 昭和48年に明治大学・大塚初重(おおつかはつしげ) 教授による発掘調査が行なわれ、横穴式石室内部に赤色のベンガラ(第二酸化鉄) が使用された装飾壁画 ...


岩手県唯一の前方後円墳の角塚古墳にカビゴンを倒しに行く
papurutentakuru2.hatenablog.com/entry/2016/10/10/210159

角塚古墳 奥州市胆沢区南都田
www.bunka.pref.iwate.jp/ciss/bunkazai/detail/id/170


前方後円墳は男根 - その形状に迫ってみた 定説から性交モチーフ、蓬莱山型まで
www.buccyake-kojiki.com/archives/1025422926.html


関東は朝鮮系か  埼玉県・群馬県の古墳、高麗神社
私見では、元寇の高麗軍と鎌倉武士は「人間性」 が異なるので、関東の人たちを朝鮮系とみることはできない。




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畔 「ぐろ」 と読む

2018/04/29 07:02

[PDF]山口県周辺の不老長寿伝承
petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/file/27285/.../D560014000008.pdf
  ↓
「畔」 は防長においては「ぐろ」 と読み、何らかの神霊の宿る石塁のことであるから ...

下関市有冨 字「中村畔(ぐろ)」


[PDF]中世 - 梅光学院
www.baiko.ac.jp/university/uploads/3dd35bfac6ee5e38f9577a53262f4e47.pdf




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幡生=高千穂宮 説

2018/03/31 14:33

幡生 字「桜田」 宗像神社の社殿跡。 その南に後山古墳
後山古墳の巨石は福津市の宮地嶽古墳に通じるか。

小字地名 「桜田」  桜井田部、木の花の佐久夜毘売
                       ↓
                竺紫日向の高千穂宮

小字地名 「狭間」 神武天皇の年少時の名前 狭野尊
場所は下関市教育センター付近
武久川下流条里遺跡は日本書紀の 「豊葦原瑞穂国」

日向の吾田、隼人
万葉集248  薩麻の迫門
もバス停 狭間町 付近

吉野の滝 藤ヶ谷町


生野神社の境内
岩瀬八幡宮 筑紫の磐瀬行宮か  伊予の湯の場所 不明 
人丸神社 万葉集の304 島門

穴門館 大穴牟遅の神

白雉 麻山は幡生の山。 生野神社、後山、中央工高の高台など。
文庫書紀C308‐7
草壁連経 「醜」  葦原醜男、黥面、阿曇磯良
百済君(豊璋)

私見は皇子は山海経 海外東経 の大人国(宗像市・福津市) の人
宗像市と関西ヤマトは関係深い。
  ↓
壬申の乱の後、天武天皇の親族である関西ヤマトに政権がスムーズに移行



白川静 『新訂 字統』 によれば、
「醜」 酒を酌む
「経」 縦糸、測量して南北線

南北線は竹生寺(妙見宮) から南へ引く線で、
竹生寺 → 大年池の山側 → 国際高校の裏山(字「四方山」) →...

白川静によれば、山の「香」 も鬯の意味がある。
白雉の麻山は有冨の大年池付近である。

明治10年の山地番図によれば、ハンドウ山の尾根筋を「草野」 と記している。


参照
11/18 「土木の日」「もりとふるさとの日」
blogs.yahoo.co.jp/akasakahiro/57785907.html



穴戸、穴門の伝承地 異伝
穴戸  宇部市棚井
穴門  大木森住吉神社(厚狭郡 楠町 船木)

穴戸 山田  異伝
http://44051510.at.webry.info/201301/article_4.html




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岩谷古墳 八俣大蛇 幡生海人

2018/03/29 07:54

椋野町 岩谷古墳
有冨 字「中村畔」から見て、方位磁石の南 「火の国」 火=南

『下関市史 原始−中世』 平成20年
p.135
往古何時ノ時代ナリシカ火ノ風火ノ雨降リシ時此ノ内ニイワヤノ住ミシモノナルニヨリ...
  ↓
古事記 沙本毘古の反乱、燃やされる稲城
八塩折の紐小刀 → 八俣大虵の八塩折の酒 → 岩谷古墳から出土した甕

白川静 『新訂 字統』 で
熊襲の「熊」(ユウ) を引くと、熊=火・炎=融 の意味
「曾」 は甑から上る湯気。 鬼やらい の意味もある。 

熊=融 から、
融通王(弓月君)、功満王、波多、秦公酒、狛姓 蚕・絹織り
仲哀・応神・仁徳・雄略の時に百済から来朝した。


椋野町 字「蜘手」
鳥髪は幡生との境の字「鳥越」「甘吹」。 宝町(宝蔵寺) になるか。
「甘吹」 という地名は金属加工、鍛冶を連想させる地名だ。 足名
  ↓
鳥取の河上宮 横刀壱仟口
nihonsinwa.com/page/2838.html



土井ヶ浜遺跡 人骨 「英雄」  顔が潰されている。
綾羅木郷遺跡 人面土製品  安曇目か

斉明紀 文庫書紀C370‐8
是の夕に、倉山の上に、有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。


海神の場所
http://44051510.at.webry.info/201410/article_15.html
  ↓
彦島 竹ノ子島の北側は 「鬼ヶ島」 と呼ばれていた。

武久川の河口→竹ノ子島の北側→六連島 の航路があった。
六連島の島民は生野神社の氏子 淡道の水夫
万葉集 野島の崎 六連島の製塩 音次郎遺跡

新説 幡生海人
福岡県宗像市の「宗像海人」 に伍する新説 「幡生海人」 をここに発表する。
魏志倭人伝の水人は「幡生海人」 である。

天武天皇(大海人皇子) は幡生の出身か。

宗像大明神
 武久 字「桜田」  葦原中国の宇佐嶋=武久川下流域条里遺跡
 吉母の西条 宗像さん家  海の北の道の中 主貴  道家の「道」 か 


万葉集2578 寝髪 触義之
  ↓
 王義之 中国人
 鬼 海人の入れ墨
新説 この女の相手の男は大海人皇子である。

参照
天武天皇2
ameblo.jp/oyasumipon/entry-11277353168.html
乳母は和泉郷の大豪族、安曇氏の中から大海人連が選ばれました。 これにより大海人皇子と名付けられたものでしょう。

私見
安曇氏は背の低い西北九州型弥生人
大海人皇子は土井ヶ浜の「英雄」 タイプ。 方士 徐福 を感じさせる漢人系
  ↓
皇子は山海経 海外東経 の大人国の出身である。
大人国=福岡県宗像市・福津市の宗像海人。 隋書俀国伝の王国の地


 山海経 海外東経 陽の谷=幡生の 旭 交差点 
東西に開けた谷 武久―宝町―椋野町 武久川の流域
朝日の直刺す国、夕日の日照る国  幡生の地名「旭」

『山海経・列仙伝』 全釈漢文大系 33 集英社 1975
p.430
朝陽の谷、神を天呉と曰ふ。 是れ水伯為り。 虫虫の北、両水の間に在り。
其の獣為るや、首人面、尾、皆青黄なり。

  ↓
八俣大蛇
椋野町 字「蜘手」 蜘蛛は手足が8本

天呉 川または海の神

新説
八俣大蛇は天呉という水伯で、荘子 神亀寓話の河伯か。
河伯は稲羽の素莵の鰐。

小倉北区 馬島 字「天志」

海人 須佐之男命 「汝が命は海原を知らせ」


伊勢の朝日郎
吉野の朝宮
泊瀬の朝倉
筑前の朝倉


白菊稲荷  武久浜遺跡 半両銭の出た石棺の横にお堂がある
稲羽の素莵
白水郎
白鳥の陵 (倭建命の墓)


地名 武久  武=建
建速須佐之男
倭建
熊曾建
武内宿祢
など


私は今まで 山海経 海外東経 朝陽の谷・天呉 を北九州市小倉南区 城野 と考えていたが、この2、3日、気が変わって下関市 武久川流域 かと思い立った。

吉母・永田・吉見 を重視していたが、武久・幡生の重要性を見直した。
伊勢は新垢田の絶壁海岸かも。




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生野神社 武久 幡生 

2018/03/27 20:51

生野神社 宮山古墳 (前方後円墳)
生野神社の幸せふくろうなど
jeezblog.blog.fc2.com/blog-entry-317.html

諸子百家など、古代の中国ではフクロウは縁起が悪い不吉な鳥とされる。
参照 漢和辞典で「梟」 を調べる。

耳がある 「木莵」 について
謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀(ひばり)ー10
blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/0c32e566289d70570fc7755eb3e32a7f

天武天皇の年齢 てんむてんのう
www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage640.htm


熊襲

蘇我蝦夷 文庫書紀C218-8 フクロウ
3月に、休留(いひどよ) 休留は茅鴟( ぼうし フクロウ のこと) なり、
豊浦大臣の大津(和泉国和泉郡の大津と解されている) の宅(いへ) の倉に子産めり。

倭国の菟田山 紫の菌(たけ)
有冨 ハンドウ山の尾根 大迫池の上


幡生の生野神社は「豊浦大臣の大津の宅の倉」 に比定される。
和泉なら、黄泉の泉津 か。


生野神社 付属博物館
展示物
小さな縄文風ストーンサークル
 ↓
日時計→日見彦→卑弥弓呼

生野神社の宮司が「磐座」 と呼ぶ小型ストーンサークルは卑弥弓呼が天文観測に使っていた物である。


遺跡
後山古墳 「掘ったほ!下関 2017」 p.11

後山古墳の北100メートルに宗像神社の社殿跡(幡生本町20番地)
参照 『ふるさと 生野史』 平成11年 p.371

字「桜田」 幡生駅の南600メートル 線路沿い
万葉集271 桜田部 「田部」 生野神社の宮司の氏名


武久浜遺跡
半両銭が出た場所の傍に毘沙門堂・正一位白菊稲荷大明神のお堂


六連島
島民は生野神社の氏子

六連島の山の神の森
 南の台 宗像大明神
 西の台 雲海大明神―青海大明神

朝鮮系無文土器
製塩土器


長門凡 下関市史 原始−中世  平成20年
p.158

白川静の漢和辞典 『新訂 字統』 で「凡」 (ハン) を調べると
方と呼ばれる異族  私見では竹生寺の山は「東海の三神山」 の方丈
祖祭の名  中国道教の大聖地だった邪馬台国 下関市有冨

凡=風=鳳  竹生寺がある山は鳳凰の形

長門凡の位置 有富 字「中村畔」 (記紀・万葉の倭京)

白川静 『新訂 字統』 『説文新義』 で、漢字 「大」「中」 を調べる。
和名抄 長門国豊浦郡 私見
 田部 幡生 字「桜田」
 日内 有富のハンドウ山 登山道・山頂・尾根
 額部 有富 大迫池・大年池の周辺

関西ヤマトの木簡工作
大宝律令(701年) の時に下関倭国から関西ヤマトに政権が移った。
この時、下関倭国の小区が関西ヤマトによる木簡工作によって列島全体に配布され、新設で国・郡・郷、大神社の「設定」 となり、行政祭祀の場ともなった。 突然、場所が「糸島」 とされ韓鉄の施設ができ、場所が「出雲」 とされた所には巨大な出雲大社が建設された。
太安万侶の墓は有冨墓地の周辺にある。 奈良県の太安万侶の墓は工作物である。

『川中風土記』(増補改訂) 徳見光三 著 昭和45年
p.23
下有冨石棺 字「市ヶ原」
石材に朱塗のあとが鮮明に残存している
と載っているが、『下関市史』 の遺跡・古墳では取り上げられていない。


有冨    青丘の榑木 日本武尊
幡生宮の下町  不吉の鳥 フクロウ 熊襲

六連島―武久川流域 渡来系の地
山海経 海外東経  朝陽の谷・天呉 か?




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響灘の古代人

2018/03/26 06:33

響灘の弥生人
日本古代史をとりまく謎 - 邪馬台国大研究
inoues.net/mystery/mystery.html

黒歯国・侏儒国 - 邪馬台国大研究
inoues.net/mystery/kokusikoku.html
  ↓
私の見方
「混一疆理歴代国都之図」 によれば、壱岐から最も近い場所は本州の最西端(下関市御崎・室津) である。

邪馬壹国の場所
azuminodiary.blog82.fc2.com/blog-entry-501.html
  ↓
現在の江蘇省宿遷市宿城区の行政府がなぜ会稽東治と言えるのか?


北部九州の弥生人 「戦乱逃れ渡来か」
horubai.jp/content/nnp_news/126

田中良之遺稿集
www.scs.kyushu-u.ac.jp/~yt1/activity/ytworks.html



ゼンリン住宅地図
1971年版
安岡八幡宮の真南麓に 日名子さん家
懿徳天皇、考昭天皇の陵墓 畝火山の真名子谷

蒲生野 三郎山 の東側 安川さん
竹生寺から流れる渓流が天の安河か


幡生宮の下町 無敵さん家  下関酒造の東側 大通り沿い
「無敵」 とは日本武尊に誅された熊襲の川上梟帥だろう。
文庫書紀A86‐8
是を以て、当時の諸の人、我が威力に勝へずして、従はずといふ者無し。

女郎ヶ迫古墳  下関市史 原始−中世 p.141

熊襲の川上梟帥の発言は穴門の伊都都比古と似る。 文庫書紀A20‐1
吾は是の国の王なり。吾を除きて復二の王無し。


生野神社の宮司 田部さん
「武久川下流域条里遺跡」
『掘ったほ!下関 2017』 p.15下
弥生時代中期から古墳時代にかけての水田稲作の展開
  ↓
記紀の 「葦原中国」 の場所


邪馬台国 有冨の儀万さん
狗奴国 幡生宮の下町 無敵さん




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秋根遺跡 土坑墓 LG039

2018/03/23 03:05

秋根遺跡 仿製鏡が出土した場所 
新幹線 新下関駅 新幹線乗り場 の西に ダイハツ店・しんしもクエスト

ネットの国土地理院地図で計測
 竹生寺、またはその横の妙見宮
 椋野の妙見山、または門司の風師山 (風師は仙人) の頂
を直線で結べば、
 塚の原遺跡 石原156番地  L字状石杵 朱の精製地
 ダイハツ新下関店・しんしもクエスト東棟
が線上にくる。 西偏 5°
楠乃の字「小山田」 もこの線上なので、仲哀天皇の墓地とみれる。

新幹線 新下関駅の建設 秋根遺跡の発掘調査報告書
1974年 書店は空前絶後の邪馬台国ブームに沸く


土坑墓
LG039  ダイハツ店の横 しんしもクエストの東棟の中央 
内行花文仿製鏡 鋳上りは不良 破砕 
ガラス製小玉164個 五百津の御統の珠か

出土した内行花文仿製鏡の分類
UA式 小田富士雄による分類

『弥生時代の青銅器生産体制』 田尻義了 著 2012
p.179 図103
によれば、第2型 c類 (比恵遺跡)

下関市立考古博物館 公開講座 20140719
「邪馬台国前夜 小形仿製鏡の広がり」
講師 九州大学 田尻義了 先生
この時のレジメを見てもよい。


LG025  円盤形鉄製品 場所は不詳
1974年の報告では鉄鏡とされた。
土坑墓の土から平安後期以降の土器片が見つかっている。 これを「混入」 と見れば、古事記の伊斯許理度売の鉄鏡といえそう。 私見は、「弥生時代の鉄製品とすれば他に類例がない」 (文化財保護課 小林さん談) から平安時代の土坑とされたか。


小字地名
秋根 字「本」

新下関駅 新幹線乗り場 字「志満」 その北隣「燈台」
万葉集867
枳美可由伎 気那我久奈理奴 奈良遅那留 志満乃己太知母 可牟佐飛仁家里
志満のすぐ近くに奈良がある。 地名「燈台」 は天照大神の伊勢か。

秋根 字「塚本」 の土坑墓 LG039 は紀伊国の日前
仿製鏡は日像の鏡


伊倉 地名と歴史
『三代実録』 の貞観15年(873) 12月15日 に
長門国正六位上 意久神に従五位下を授ける
とする記事がある。

久神の「意」=思金の神 の「思」 に通じる。
  ↓
秋根遺跡の仿製鏡を調べたら「鉄鏡」 と報告された鉄製品も出土していた。



考古博物館
[PDF] ごあいさつ - 下関市立考古博物館
www.koukohaku.shimonoseki.yamaguchi.jp/forth.pdf

年々、入館者が減少する考古博物館
秋根の消防署の前から出土した弥生の仿製鏡は天石屋戸の鏡とすれば行列ができる博物館に変わる。


ヤマト政権、ヤマト王権 ・・・ カタカナ書き
桜井市纒向学研究センター
www.makimukugaku.jp/

大倭朝廷 ・・・歴史ある漢字書き
有富 字「中村畔」
纏向の場所は県道長安線 有冨の遠山運送の裏であり、畑の西側奥に大きな溝が残る。 これが「纏向の大溝」
2018/03/22 09:40 市の文化財保護課 藤原さんが「大溝」 を視察


有冨のハンドウ山に生えていた松は1955年ごろ全滅した。
戦前は岩谷さん宅前の山には幹の直径1m の松の森があり、ハンドウ山の頂にも大きな松が何本も生えていた。 松は、漢字のツクリが「公」 で常緑、吉祥の印。

彦香殖稲天皇はハンドウ山の頂・尾根に居た。

墓は畝傍山南繊紗谿上陵
  ↓
「繊紗」 は珪砂で、綾羅木郷台地、あるいは安岡八幡宮の迫山

畝傍山は綾羅木郷台地か
畝傍山南 繊紗谿上 の場所 考古博物館の正面 現在宅地造成中の所
または谷地形の字「宝前」


1972年 ゼンリン住宅地図
安岡八幡宮の真南麓に 日名子さん家 がある。 日名子さん家が大昔からこの場所に住む土着の人なら、畝傍山は安岡八幡宮がある迫山だ。



漢字の「草」 には創(物事のしはじめ) の意味もある。

吉母の草場川、草場山
有冨のハンドウ山の尾根 明治10年の地図で「草野」 と書かれている。

天地の開闢 地名の「草」 から
 吉母の黒嶋 オノゴロ島
 有冨のハンドウ山の尾根 邪馬台国の場所


倭、委奴 漢字「倭」 の新解釈
古(いにしえ) の中国磁石では、上が南、下が北

漢字 「委」 は北が「女」、南が「禾」(アワ、イネ、田畑)

北 ハンドウ山の頂・尾根・山腹 に女王さま、巫女たち
南 字「中村畔」  麓に稲田の畔、農民の村

続日本紀B41-7
池上君大歳 は有冨の大歳溜池の人である。
池上女王、広野姫 から農協勤務の中村勝さん宅に比定できる。


白川静の大型漢和辞典で「倭」「委」 を調べると、
禾の作り物を被り、稲魂・穀霊に扮して身を低くして舞う女
農耕儀礼で田舞をする男を「年」、女を「委」 という。

文庫書紀D58-4 天智天皇10年5月5日
天皇、西の小殿に御す。 皇太子・群臣、宴に侍り。 是に、田儛再び奏る。

続日本紀D37-16  田儛


邪馬台国である下関
下関の邪馬台国は中国神話の神仙境であり、道家の発祥地。

勝山支所を建て替えた時に発見された「縄文時代の東西大溝」
は、禹が洪水を防ぐため東方向に掘った水路だ。


関西のヤマト政権 精神文化、エートス
ピラミッド、パルテノン神殿など巨大建築物の文化
シルクロード、グローバリズム、ユダヤ金融資本、移民都市、摩天楼
  ↓
近年、九州大学 考古学 が力を注ぐ 「ユーラシアの物質文化」
宮本一夫 先生 (九州大学 人文科学研究院)
www.youtube.com/watch?v=D_WqCmh5TT0


下関の大倭朝廷 精神文化、エートス
山上で霞を食べて生きる仙人たち。 道家の文化、質素倹約、小国寡民
山紫水明、花鳥風月。 山水画の世界

老子 素樸
漢字 「樸」
 切ったままで全く加工してない丸太
 皮は剥いであるが細工してない生地のままの木材、しらき

万葉集 「黒木」
1637
1638
太上(元正) 天皇、聖武天皇は皮を剥がない材木の掘っ立てに住んでいた。


魏志倭人伝は老荘の道家思想である。
墨子の語 「大率」「鬼道」。 神道の「神社」 も墨子に出てくる語である。



室津の光蓮寺 先祖は鎌足
http://44051510.at.webry.info/201310/article_51.html
  ↓
下関の郷土史料によれば、藤原鎌足は室津の人だった。


有冨の中村大王(おおきみ)
http://44051510.at.webry.info/201702/article_18.html

『日本後紀』 集英社
753-12  773-6
高位の人が入室して来たら、跪伏にかえて起立して深く拝礼しろ
貴い者に会ったら、跪くことをやめて起て

   ↓
天武紀 文庫書紀D184-7 と同じ。
日本後紀も古い時代の下関倭国の史料を使い回している。




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有冨 牛肉と酒を饗す地

2018/03/17 10:17

有冨
白川静 の漢和辞典で調べて
「有」 肉の御馳走を薦める
「富」 酒樽のように、器腹の大きいふくらみ型の器
  ↓
神武東征の皇軍 菟田 弟猾 牛肉と酒
牛 大年池横の中村勝さん宅に牛を祀る大年社がある。
酒 ハンドウ山の頂に割れた大甕の伝説

大年神と牛 古語拾遺の「御歳の神」 に通じる。

南北 竹生山と火ノ見山の頂を結ぶ線
東西 ハンドウ山と梶栗浜遺跡を結ぶ線

梶栗浜遺跡は先代旧事本紀 巻第一 橘の小戸橿原

東西南北の方位については
 地図上の東西南北 (真東、正東など)
 北極星 (竹生観音の隣に妙見宮がある。 玄武)
 方位磁石 下関市では 西偏 7°(原始古代の西偏角は不明)
 夏至・冬至の日の出、日の入り (西南西など)
の4種類がある。

ハンドウ山を前方後円墳に見立てれば、クビレ部、造り出しに相当する場所が重要ある。

ハンドウ山から西南西の方向は
ハンドウ山 登山口前の空地―綾羅木郷 石松さん宅の祭祀遺跡
山は了元寺の前、土器を作る時の焼き場 (現地説明会あり)
  ↓
(参照) 平成29年度 発掘速報
「掘ったほ! 下関 2017」
p.4下
綾羅木郷台地遺跡(木舩地区)
弥生土器を焼いた窯跡か!?
焼け締まった土坑110

山の「火」 の意味が解明された。
弥生土器の野焼き場のことだった。


牛は五行配当の中央
藤原宮は大年池横の中村勝(まさる) さん家
新益京の「益」 水が皿から溢れる、盈(みつる)

地勢 中村勝さん宅は有冨上盆地の中央に位置する小丘


伊倉
意久神  「意」=思い 思金の神
秋根遺跡から出土した仿製鏡は天磐戸の鏡
秋根は紀伊国 和歌山市秋月と地名対応する。
紀伊は「木」 で東の方位


吉野
神武東征の吉野 蒲生野の横田(須玖式土器で国つ神)

持統紀の吉野
A案
福江八幡宮 境内 伊勢神社 祭神 天照大神
吉野は蒲生野か

B案
吉見上 滝本神社(お伊勢さま) 祭神 天照大神
吉野 吉見の竜王山、船越  

C案
有富古墳の上 吉岡さん家があった。 吉岡、吉本という家
伊勢は石原橋〜秋根 の綾羅木川の旧川筋
石原コスパ ペットショップの小字「伊勢防」

万葉集52 熊野町


三笠山
月には兎、ヒキガエルがいる。
卯 東の方位
形山に「蟇畠」 (ひきばたけ) という地名
三笠山は青山で月人男
青山は茅とヨモギの禿山だった。 若草山

阿倍仲麻呂
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

しかし、
阿倍氏は安倍晴明の土御門家なので、「土」 は五行配当では中央だから、
有冨上盆地の中央位置の小丘にある中村勝さん、中野利通さん宅に住んでいたと考えられる。 その場所から見える三笠山はハンドウ山である。


方位・方角  一 直線上にくる
俵山の能満寺山―菊川町の植松古墳―仁馬山古墳― 武久川の河口

小倉北区 日明 一本松塚古墳の線画
北北東 方向の端 は下関市 豊田盆地 に似る。

長門市俵山 能満寺山に空海伝説がある。
能満寺山の頂と武久川の河口を直線で結べば仁馬山古墳などが直線上にくる。


方位磁石の西偏角 7°
若宮古墳の後円部―仁馬山古墳―形山の須玖式土器 出土地―菅原神社



出雲
八所神社 北九州市 八幡西区 野面1-18-53
西側に 「日隅の丘」 と呼ばれていた場所


大、十
隅田八幡神社 人物画像鏡 日十大
古い方位 上が南、下が北

大 有富の大迫池、大年池 ハンドウ山の尾根すじ
十 太陽の東西線・南北線がクロスする地点 大年池近く、字「中村畔」

富本銭 実物 「本」 の字体は 「大」 +「十」


日 神武東征 道臣=日臣。 老荘思想の「道」。 ハンドウ山の登山道
十 風水の 「天心十道」



前方後円墳の形
前期 有富のハンドウ山(有冨竜王社) がモデル
中期 吉母の黒嶋がモデル

有冨のハンドウ山上に居た天照大神が晩年、吉母に移った。


シリーズ 「遺跡を学ぶ」 新泉社 1500円+税
『邪馬台国の候補地 纏向遺跡』 石野博信 著 2008年

箸中山(箸墓)型古墳
纏向勝山古墳
p.72
北側のクビレ部 出土のU字型木製品
私見 電(銅鐸の鈕 に似る。 いなずまの光)

有冨のハンドウ山は住吉神社の神官が来て雨乞をしてた雷山で、山上の奥に落雷で倒れた木がある。
倭の長尾市、大倭の長岡  ハンドウ山上の尾根続き の場所
乳白色の石英があり、伊勢神宮の火打ち石  伊勢=天照大神の場所
鳥見茂岡の白庭の地 長髄彦が居た場所

神仙境で霞を食べて生きる仙人ゆえ考古学の遺跡・遺物が発見できない。


大和三山はなかった
奈良県の大和三山は3つとも孤立峰であり、風水の龍脈・龍穴ではない。

文庫書紀B44-3  菟田の墨坂神=大物主神、注七 斎戒
=文庫書紀@236-末行  天の香山の埴土、埴安
  ↓
異説異伝
菟田の墨坂神=大物主神
「斎戒」 の共通字で示される同じ所
を採って大和三山はなかった。

日本書紀の異説異伝として、
大和は3つの有名な山に囲まれてないという記述がある。


畝傍山には木が少ない。
文庫書紀C170-4 畝傍山 木立薄けど ...


日本書紀 允恭天皇 42年11月
ここに新羅人、恒(つね)に京城(みやこ)の傍の耳成山・畝傍山を愛づ。

耳成山 鳳凰の形をしている竹生山
畝傍山 綾羅木郷台地か

火ノ見山、一ノ宮本町の山 は目立つ円錐形で美しい。
しかし孤立峰だから風水パワーがある山ではない。

青山は孤立の山に見えるが勝山、四王司山から連なりがある。
須玖式土器が大量に出てくるので狗奴国系夷(えみし) の地である。

倭国の領域は綾羅木川の北側。 石原・有冨〜吉見・永田・吉母。
綾羅木川沿いで形山の青山は一番目立つ立派な山であるが倭の国内ではない外様の地である。

風水で見たら最高に立派な山は鳳凰の形をした竹生山である。
竹生山の麓が山海経 海外東経 の青丘国である。
竹生山は 「東海の三神山」 の方丈である。

新羅人は風水によって山の形の良さを見た。


投馬国
私が邪馬台国の場所とする下関市 「石原・有冨〜吉見・永田・吉母」
から見て「北九州市〜筑豊」 は海を渡り、遠賀川を川上りして行く所なので、
筑豊=投馬国 が考えられる。
投馬国は 「水行」 で行く場所である。

投馬 ツマ

飯塚市立岩の周辺
出雲 イヅモ
泉 イヅミ


老荘思想の 「道」

寿命
不老長生


根の堅州国
地名で 「堅」 は 博多の堅粕、飯塚市片島の堅磐(かたしま)郷




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衒学財  東海の君子国

2018/03/10 18:26

飯塚市 立岩遺跡から出土した連弧文鏡は衒学財である。
九州大学の考古学者、岡崎 敬(たかし) は明き盲だった。

従来的な「威信財」 説とは異なる「衒学財」 説を私は提示する。
「威信財」 はパッパラパーの大衆に自分の権威・権勢を誇示する物
「衒学財」 は学識がある層に自分の学力を自慢げに見せる物


広辞苑によれば、
衒学 学問のあることをひけらかし、自慢すること。
ペダンチック

連弧文清白鏡は中国・楽浪郡の役人や使者に見せたい衒学の物だ。
自分が老荘思想等の研究家であることを披露する物であり、外交交渉でも相手が「先生」 視してくるので役に立つ物である。

私は『山海経』 海外東経 君子国 の場所を遠賀川下流の岡垣町、もう少し広げて中間市までに比定する。
立岩遺跡から出土した衒学鏡は東海の君子国が付近にあることを示唆している。


キーワード
衒学
君子国


稗田地蔵堂遺跡 下関市
立岩遺跡と同類の連弧文清白鏡
楽浪郡の蓋弓帽

蓋弓帽が持つ政治的意味
従来の威信財説
自分の権威づけを誇示しようと、棒の先につけて公衆の前で振っていた。
ローカル権力の財宝
被葬者は東夷の蛮人

私見 衒学財説
楽浪郡が 「東方の君子国」 の王にプレゼントした物
被葬者は楽浪郡の役人を脱帽させる老荘思想等の学問家 「先生」
高い徳を持ち礼を知る人
  ↓
「東方の君子国」 の位置
綾羅木川の流域
または
同類の連弧文清白鏡から遠賀川流域 (二次的に配布されたもの)


従来解釈
一介の(ちり芥、わずかなもの、とるにたりないもの、たいした価値のないつまらないもの)地域政権が持っていた威信財
  ↓
私が従来からの認識を一変させる「東アジアにおける ... 」 解釈を提案
九大考古学者 岡崎 敬 の学説になかった新たな切り口 「君子国」
「東海の君子国」 の所在を示唆する物 連弧文清白鏡、蓋弓帽
  ↓
下関市立考古博物館の来館者が展示されている蓋弓帽を見る目が変わる。
『山海経』 海外東経、『淮南子』 地形訓 の 「君子国」 王が所持していた物!
  ↓
東アジア
中国、朝鮮半島の考古学界も注目する古代史 「君子国」 の発見


マトメ、主張
「君子国」 を発見!
蓋弓帽は 「君子国」 の証拠


梶栗浜遺跡 朝鮮半島系
細形銅剣
多紐細文鏡

『最古の王墓 吉武高木遺跡』 常松幹雄 (著) 2006年 2014年2刷 
シリーズ「遺跡を学ぶ」 新泉社 1500円+税
p.51 図37
各地の多紐細文鏡
外区の鋸歯文から、太陽光線を幾何学的文様であらわしたとする説がある
  ↓
天日槍の日鏡(ひのかがみ) を想起させる。

稗田地蔵堂遺跡の多紐細文鏡は携行用の小型風水羅盤に似る。
「日鏡」 を持っていた天日槍は風水師だった。

外区のギザギザ文様に合わせて方位を測定していたのだろう。
梶栗浜遺跡と青山の頂を結ぶ線の西偏から当時すでに指南車があった。

綾羅木川流域の古代人は方位方角に強烈な関心を持ち、正確に方位を調査していた。

一直線上に並ぶ
仁馬山古墳―稗田地蔵堂遺跡―武久浜遺跡―立岩堀田遺跡


日明一本松塚古墳 赤い線の壁画  小倉北区
中国の方位は上が南、下が北である。

天(あめ) 邪馬台国  下関市 有冨 字「中村畔」
地(つち) 出雲  飯塚市 立岩遺跡、桂川町 大塚古墳

日明一本松塚古墳の放射する線画は大きな木に広がる枝のよう。

日明一本松塚古墳を中心点として、南東の方向は
南小倉駅―城野駅―阿部山公園駅―下曽根駅
少し曲がる日豊本線の線路が描かれている。


ゼンリン住宅地図を調べると、桂川町の東隣、嘉麻市に 「野見山」 姓が多い。
野見宿祢の末裔の人たちと思われる。

ノミヤマ 【野見山】5 日本姓氏語源辞典
name-power.net/fn/%E9%87%8E%E8%A6%8B%E5%B1%B1.html

下関市吉母 字「安常」
飯塚市 安恒

下関市吉母 大河原 字「国枝」
飯塚市 枝国

下関市の西端と飯塚市 平塚の出雲 周辺の地名が似ることは北九州市小倉北区 日明一本松塚古墳 壁画 線画の枝分れ方向 の解読につながる。
  ↓
地名やゼンリンで住民の名前を調べたりしても 「考古学」 の論文が書けない。
  ↓
素人の出番。 学者、学術研究者でない素人だからできる発見だ。

素人は科学的証明の「考古学」 でなく、何でもありの宝探しなので、「考古学」 のガチガチのやり方に固執せず、「黒い猫でも、白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫だ」 で行くから、素人は恐い。 ハズレてもその失敗を次にいかすだけだ。


飯塚市 枝国  山ノ神古墳 昭和8年(1933) 頃に発掘。 消滅。
6世紀前半 前方後円墳。 前方部、石室は南東方向を向く。 円筒埴輪列
遺物は後漢末頃の 「王氏作」 銘盤竜鏡、画文帯神獣鏡、衝角付冑・挂甲・轡・辻金具・雲珠・杏葉・木芯鉄張輪鎧・ガラス製丸玉・金銅製三輪玉・鉄刀・鉄剣・鋤先・鉄斧・金銅製胡籙金具などが出土している。
画文帯神獣鏡は熊本県菊水町 江田船山古墳、宮崎県西都市 妻古墳、同県高鍋町 持田20号古墳のものと同范関係にある。 遺物は九州大学に保管されている。

(参照) 『福岡県の地名』 日本歴史地名大系 41 平凡社 2004年
p.302上 嘉穂郡穂波町



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笠沙=扶桑 説

2018/03/09 06:12

下関市立考古博物館
「よみがえる下関の歴史T−吉母浜遺跡−」
  平成9年度企画展冊子

小田富士雄は1990年代中盤、下関市立考古博物館ができた時の初代館長であり、まず吉母浜遺跡の企画展をした。 だが吉母の黒嶋が前方後円墳の形をしていることに注目しなかったので明き盲だった。
東海の三神山の瀛洲は下関市吉母の黒嶋である。

扶桑は瀛洲である吉母にあった。


白川静 「説文新義」 はどこの図書館にもある。 たいへん難解で読んでも書いてることがさっぱり分からんけど、古代史に関して漢字からアイデア、ヒントを得たい人は手元に持っておきたい必需品の漢和辞典 全集 である。 凡人に思いつかない漢字の意味が載るので、表記の漢字から思いつきの突破口を開く時にうってつけだ。
  ↓
『白川静著作集 別巻 説文新義 3 』 平凡社 2002年
巻六下 桑部 p.110
地名としては桑林、動詞としてはの義であると論じている。
  ↓
の「桑」 は「喪」 だ。

扶桑の地は墓地だった。 前方後円墳の造形は扶桑の墓地を表す。
徐福は扶桑の瀛洲に葬られた。

岩波書店 日本古典文学大系 1 古事記 祝詞 p.129
此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。 故、此地は甚(いと)き地。

「笠沙」 と は扶桑だろう。

扶桑=瀛洲 説 吉母
吉母 字「安常」 安常さん家がある所。 畑に杉の木が1本植えられている。


扶桑=御堂遺跡 説 永田郷 字「木の中」 「御堂」
「韓国」 は室津・黒井・吉永・川棚にあった韓人の入植地域か。
古事記の文言を読むと高千穂宮は永田郷 妙寺 または字「永田石原」 にあり、
扶桑は縄文遺跡の御堂遺跡 付近とも読める。

扶桑の場所は吉母、永田郷、どっちか決めがたい。
笠沙=扶桑 説を出しておく。


日立の樹 この木なんの木 歌詞付き
www.youtube.com/watch?v=WYNC8JzV5j8




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狗奴国を掘る

2018/03/08 12:14

狗奴国を掘る
下関市立考古博物館 学芸員 松永さん談 2015年頃
「私らは考古学をやってるので、狗奴国の場所は濃尾平野、または関東」

私見
下関市形山 青山の南西麓から遠賀川以東系の須玖式土器が大量出土
1970年代はじめ 高松塚古墳の発見
1980年代半ば 神庭荒神谷遺跡の発見
最近
下関市形山から須玖式土器の大量出土は狗奴国の位置を示す大発見である。


「天子南面す」と言いますが、「南に面する」 ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14176847689
〇〇〇さん
左のは太陽などが上り、軍師国政の助言をする尊師の席。

青山の「青」 は五行配当の方位で東である。
青山の「青」=東 軍師、尊師 ・・・ 素戔嗚尊


学問研究 「考古学」 のやり方
弥生時代の拠点集落、青銅器祭祀、威信財、青銅器の出土地から地域の階層性を判定、鏡の再分配、首長墓・王墓 を定義
「クニ」 の場所を認定
  ↓
綾羅木川流域には「クニ」 はなかった。

素人研究のやり方
地名、方位方角、ゼンリンで個人宅の名前 を調べる。

飯塚市 立岩遺跡、桂川町 大塚古墳の近くに地名「出雲」 がある。
ネットの国土地理院地図で 仁馬山古墳 ― 立岩遺跡 を直線で結べば線上に稗田地蔵堂遺跡、武久浜遺跡、小倉北区の日明 一本松塚古墳がある。
  ↓
北九州市小倉北区 日明 一本松塚古墳の赤い線画の方位方角に大注目
下関市有冨 字「中村畔」 に天子が居て八紘一宇 を表していると解読

ゼンリン
有冨村の庄屋だった儀万さん。 「儀万」 とは道家思想の「道」 のことだと解明
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すごい素人流!
ゼンリン住宅地図の家を見て邪馬国を発見できた。

邪馬国の「一」 は老子の「一」 である。
私は古田武彦、安本美典もなしえなかった新解釈 「老子の一」 を提示する。


古田武彦 著 『邪馬国の証明』  角川文庫 1980年
安本美典 著 『邪馬国はなかった』 徳間文庫 1988年

私 ゼンリン地図で発見
邪馬国の場所は下関市有冨213 「儀万」 という家の名前そのものである。
  ↓
邪馬台国の嫡流(総本家の家筋。 正統) を発見


鏡 
立岩遺跡出土の前漢鏡の図柄、とくに連弧文鏡は中国思想の根本である陰陽五行の世界を精巧に表現しており、鏡の所有者はパッパラパーの百姓ではなく高度な知識人・学者である。 清白文は楚辞を引用しており、詩文にも通じている。 脱字は意図的なものだろう。

「緻密な論理」 だけでなく、モノをパッと見ての第一印象 「直感」「感性」 が研究者の「センス」 として大事である。
立岩遺跡、稗田地蔵堂遺跡から出土した前漢 清白鏡を並べて見て、
 この2つの遺跡は強い関係がある→素人流で両遺跡をGoogle 地図 で結ぶ
 陰陽五行の学者が持つ鏡である
   ↓
「論文書ける」 資料であると ゛直感力゛ で判断


総括  とどのつまり。 畢竟、結論として言えること
有冨 字「中村畔」  倭
筑豊 立岩遺跡、大塚古墳  出雲
稗田地蔵堂遺跡(弥生中期) と大塚古墳(古墳後期) は時代差が700年もあるが 「倭と出雲」 の関係であり、宿命・天命・天地(あめつち) の絶対的な決まり、という必然性を見つけることができる。



『北九州市史 総論 先史・原史』 昭和60年
p.829 日明一本松塚古墳の石室 赤で描かれた線画
出土物は北九州市立 いのちのたび博物館で常設展示


『きたきゅう発掘! 考古学ノート』 2012年 1200円
北九州市 埋蔵文化財調査室 (著)
p.114
「弥生人は中国大陸のトレンドがわかっていたか?」


『描かれた黄泉の世界 王塚古墳』 柳沢一男 (著) 新泉社 2004年
1500円+税 amazon で購入




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