団長 修後 修前

『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
口絵8

団長 豊浦団 宇賀本郷 弾正原
修後 狗留孫山 修禅寺
修前 豊田町城戸、豊田町手洗

赤関 永田本町-吉見漁港-古宿  赤石が目立つ海岸 福江の大塚 字「王仁」
讃 有冨上 県道 長安線の山側 ハンドウ山-有冨墓地-竹生寺


古代官道が通ってない。
  ↓
倭国があった場所 山口県 響灘沿岸
 下関市の山陰沿岸。綾羅木川の北側「天子南面」
 長門市油谷・日置 ・・・ 秦王国、徐福入植地、蝦夷

蝦夷 雄略紀の最後 文庫書紀③90
征新羅将軍 吉備臣尾代
吉備国 娑婆水門
丹波国の浦掛水門 「掛」の地名 二見の掛地、油谷の掛淵川

竹斯 隋書俀国伝
向津具で楊貴妃が漂着した場所「唐渡口」付近の小字「竹津」 川尻岬の西側
参照 『油谷町史』 1990 小字地図

秦王国
川尻岬 → 向津具 小田大浜 → 日置の坂本 → 日置 古市 → 日置八幡宮 (秦王国)

油谷久富 平治ヶ峠
 ↓
木屋川を筏 (いかだ) で川下り 水行
 ↓
下関市 瀬戸内側の小月 松屋 神功紀 神託 内避高国避高松屋種
内避高国避高松屋種は「沙麼県主の祖」であり下関市吉母浜と思える。


「邪馬台国」徹底論争 第2巻 東方史学会/古田武彦 編 新泉社 1992
P36 藤田友治
漢書地理志の倭は山海経に連続している。
洛陽 北より60度東の方向に倭人が居住している。

P192 中小路駿逸
空海 徐福が行った祖州の遥か東からあなたは来て、そこに帰る。

新羅原国 油谷 向津具

天日矛 古語拾遺の表記 檜槍 油谷島 字「槍ノ木」
出石 油谷島の俵島 Google 画像 参照

籠神社 Wikipedia 京都府宮津市大垣 元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも
海部氏系図、尾張氏

神功紀 神託 文庫書紀②138‐5
神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛


大伴友国 Wikipedia 油谷島 本油谷 字「友国」
壬申の乱の勃発時、友国は大海人皇子(のち天武天皇)の舎人であった。6月24日に皇子が挙兵を決意して吉野を発ったとき、友国は皇子に従った二十数人の男の中にいた


『向津具半島の民俗』 北九州大学民俗研究会 1968
P103上
言い伝えでは、本油谷のおやくし様からが出ていた。

尾張の熱田社 楊貴妃伝説、三種の神器 向津具の有柄銅剣
伊予の熟田津 「熟」 漢字の下部に「火」
万葉集1220 木国の湯等の三埼

風土記 逸文 伊予の国 小学館 新編日本古典文学全集 風土記
 御嶋 (大山積の神)
 熊野の岑 油谷
 湯の郡 伊社尓波の岡
 二の木
 後の岡本の天皇の御歌 (みぎたづに …)
 息長足日女の命の御歌 (橘の ...) 
 天山 油谷島の中央部に字「天鳥」

向津具八幡宮は元、油谷島の字「ヶ平」にあって神紋は

新羅王 脱解の家は鍛冶屋

脱解尼師今 Wikipedia
倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王が女人国 (不明) の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きなを生んだ

卵 爬虫類 蛇・亀、鳥類、魚類
福岡市板付遺跡 環濠が卵形 向津具本郷山崎遺跡 板付式土器が出土

多婆那は丹波=谷 (たには) で、向津具迫田の谷河内堤 妙見社 (祭神 天御中主尊)
付近の農家 上田家の遠祖が迫田の妙見社付近の田から神鏡を得た。
『向津具半島の民俗』 北九州大学民俗研究会 1968 P127下

記紀・万葉の丹波国は向津具の中央部 谷河内堤である。

兵庫県丹波は琵琶湖の西北西の方向。 油谷湾の西北西に向津具 谷河内堤
と位置対応している。

万葉集1218 黒牛の海
向津具八幡宮の西側で向津具牛を放牧

古事記 角川ソフィア文庫 新訂古事記 1977 2001年版
P93 末
近つ淡海の御の祝がもちいつく、天の御影の神が女、息長の水依比売に娶ひて、生みませる子、丹波の比古多多須美知能宇斯の王、...

御上 上田家 ゼンリン地図 向津具山崎 谷河内堤の周辺人家 参照
息長の水依比売 本郷山崎の水祭祀遺跡 北九州市若松区 蜑住遺跡に似る

蜑 (あま) 蜑民(たんみん) 中国南方の河川での水上生活者 安曇氏

萩市須佐 高山 (532.8 m) に黄帝社
字「蜒地」 (あまがじ) は北九州市若松区「蜑住」(あまずみ)と同類


新説
天武天皇と楊貴妃は親類である。

楊 (やぎ) → 向津具の楊貴妃伝説
二尊院の正式な紋は天皇家の菊の御紋と同じ16枚の菊の花

天武天皇の瀛真人の「瀛」は向津具。
天武天皇は「 天文・遁甲に能し」であるから方士の楊氏だった 。

『向津具半島の民俗』 北九州大学民俗研究会 1968
P94 「楊貴妃の墓」がある二尊院の記述はとても興味深い。


2015年05月28日
大海人皇子 向津具の久津の出身
44051510.at.webry.info/201505/article_19.html

龍宮の潮吹 万葉集352

岩波文庫 原文 万葉集 (上)
352 若湯坐王
葦辺波 鶴之哭鳴而 風 寒吹良武 津乎能埼羽毛  湖 (類広紀ー)
場所は長門市油谷津黄 (つおう) 龍宮の吹 畑島

後畑 畑=秦
油谷湾を滋賀県琵琶湖と見れば、福井県は向津具半島の日本海沿岸に相当する。
福井県の「福」 神仙思想、道教の福地、徐福
近江 (淡海) の大津 長門国大津  油谷

地名の対応
敦賀市の南 野坂岳 長門市 日置野田
敦賀市の北 立石 長門市 油谷後畑 立石
琵琶湖の南東 秦荘 長門市油谷 掛淵川の流域

方位 南北
長門市油谷
津黄峠ー日吉神社ー日置下 国常 (国常t立尊)ー油谷新別名 熊野岳 (359.2 m) 付近

油谷の大坊川は木材流しの川 紀州

熊野
『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 三一書房 1996
P60 明太祖と日本僧中津絶海の詩
熊野峰徐福祠

熊野の音読み「ユウヤ」は油谷 (ユヤ) に似る。
油谷・日置 雨乞岳南麓に縄文遺跡

万葉集496 み熊野の浦の浜木綿 二位ノ浜

安倍家 油谷蔵小田 渡
万葉集370 安倍広庭
雨不零 殿雲流夜 潤湿跡 恋乍折寸 君待香光  雨乞岳


『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
口絵 8 

向津具は新羅の迎日湾の対岸 説
迎の音 ゲイ =鯨 捕鯨が盛んだった川尻港

角川 新字源 改定版 2015 53版
【迎】 迎意 唐・楊貴妃氏伝 迎意輒悟  向津具の楊貴妃伝説

「おやしま」=祖洲

油谷のささやき 油谷町郷土文化会 昭和58
P36上
徐福は平原広沢の王となった。
久富の平地を「平原」という。
3号 P17下 地下上申 久留村に 字「平原」

角山 字「平原」
下関球場の西側 引田~冨任 の平地を「平原」という。
平原で広沢でもある場所は油谷久富である。

P4上
日置町坂本辺に大覚寺という大寺があった。
朝日さす夕日かがやくその下に 黄金千杯 銭千杯

12号 平成6
吉備真備 母の姓は楊貴
二尊院文書 楊貴妃伝 蓬莱山の仙境はここ向津具なり

13号
熊本県天草郡新和町 字「楊貴妃」
その他日本各地の楊貴妃伝説を載せる。

向津具半島の民俗 北九州大学民俗研究会 1968
二尊院は皇室と同じ菊の紋章。三条公より賜った。
真宗は占い祈祷はやらないが二尊院は占い祈祷が本業
P94上、P182上

P103上
言い伝えでは、本油谷のおやくし様から湯が出ていた
私見 薬師如来 徐福に関係か。

長門市仙崎 素戔嗚尊伝説
吉備真備は唐からの帰途、仙崎に船が着く。

郷土文化・ながと 長門市郷土文化研究会 第5号 平成5
境川の歴史あれこれ
P37 地名「十楽」 極楽浄土の意味
その奥地に体長1m サンショウウオ。深川小学校にはく製
焼いて食べたら白い肉がうまかった。

ドライブイン只ノ浜 藤ノ木炭鉱の坑道

水神さま 中国唐代の銅銭がいっぱい入った壺
深川小学校に保管されていたが昭和29年の火災で焼失

床の浜 朝鮮との交易港

12号 平成12
客神社 客=まろうど
俵山 上安田 祭神 菊理姫命
平治ヶ峠 古代の交通路

日置町史 自治会は私たちのふるさと 平成17
豊前坊祠  黄波戸口、大内山下、国広、畑、真口

祭神が天御中主神である神社
日置の亀山 笠松祠
油谷の向津具迫田 妙見宮

油谷町の文化財 1990
P38 日置町堀田遺跡 六連式土器 (8~9世紀)
伊上で製塩 近世では油谷湾は製塩が盛ん

油谷島 地元では「おやしま」と呼ぶ=祖洲 で、徐福祠ありか。


参考
『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 三一書房 1996 P48~P55
P53 欧陽脩『日本刀歌』 大島=向津具

万葉集91 山跡の大島嶺

徐福祠 推理

正確に調べてないが、おおまかな目安で
東 日置上 字「日ノ本」 堀田の南 豊田湖の天皇様と経度が同じ
西 油谷島 本油谷 出雲社

長門市 渋木 字「日ノ本」 渋木八幡宮の北

日置蔵小田 雨乞岳 山頂に祠  登山のブログ、YouTube 動画

油谷蔵小田
藤森神社 (大日様) が元あった場所に祠 付近に字「権現原」

雨乞岳の南麓に縄文遺跡
地元の人に聞く 畑を耕すと黒曜石が拾える

角川日本地名大辞典 山口県 日置町 P1130
日置中の高畑遺跡 (弥生)
北九州系、山陰系、瀬戸内系の土器、姫島の黒曜石
広範囲に活動
地名「高畑」 高志か。畑は秦か。

日置中 坂本の永福寺跡 物部守圀の名


熊野権現 Wikipedia
「 各神社の主祭神は以下の通りであるが、相互に祭神を勧請しあい、前述のように三山では三神を一緒に祀っている。

熊野本宮大社の主祭神の家都御子神(けつみこのかみ)または家都美御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来、新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)または速玉神(はやたまのかみ)は薬師如来、熊野那智大社の熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)または夫須美神(ふすみのかみ)は千手観音とされる。

三山はそれぞれ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落浄土の地であると考えられ、平安時代以降には熊野全体が浄土の地であるとみなされる … 」

徐福は薬師如来に通じる。
雨乞岳は崑崙か。

考古学 油谷町史 1990
岡ノ鼻遺跡 掛渕川の左岸 久富字岡 方形周溝墓 畿内系土器 弥生終末

河原札場 亀川古墳 四獣鏡 東京国立博物館蔵 神仙思想

向津具銅剣

吉野裕子の陰陽五行配当 東は誕生、西は死滅
油谷町の西方
 油谷島の本油谷
 角山 大川尻古墳 ・・・ 字「権現原」 藤森神社が元あった場所の西方
 河原 亀山古墳 四獣鏡


『中国古代葬制の伝統と変革』黄 暁芬 勉誠出版 平成12
P291 第114 図 前漢期皇帝陵の分布
を参考にして徐福祠の場所を推理すれば、
天子南面より掛淵川の北側にある。 漢墓は都の北・北西の山。川曲りの地勢
 雨乞岳

徐福祠は
油谷蔵小田 字「権現原」 安倍家の北、農免道路沿い 藤森神社があった場所
にあったか。

徐福祠 長門市 掛淵川

隋書俀国伝の秦王国は長門市油谷・日置の掛淵川流域である。
以前私は秦王国の場所を福岡県福津市・宗像市と見ていたが、

『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
口絵7
口絵8
に「徐福祠」「徐福相」があり、その場所は長門市油谷・日置である。
掛淵川の最上流 畑ダム 畑=秦?

『珈琲タイムの考古学』 中村徹也 1994
P123
長門市油谷 荒人遺跡 (奈良時代~平安時代) から土製の豚が出土

貞観儀式 859年
豊饒祈念祭 近江の国の豚
神世の故事には白猪となっているが、これが得難き故に、のちには豚を替えて献上したものなり

白猪屯倉 Wikipedia
「 吉備国 …『書紀』巻第二十によると、574年の敏達天皇の時代に大臣蘇我馬子が遣わされて、白猪屯倉と田部が増益され、田部の「名籍」(なのふむた) が白猪史胆津に授けられた 」

油谷町史 1990
久富の小字地図 字「荒人」付近に字「太宰ヶ浴」


秦の始皇帝 嬴姓

『山海経・列仙伝』 前田直彬 全釈漢文大系 集英社 1975 1980 2刷
山海経 
P514 柔僕の民 土の国 大荒東経

P532 民の国 食 木の葉を食べる 大荒南経  黍は吉備

P604 海内経 民 封
  ↓
八俣大蛇
古事記 気比の大神(伊奢沙和気の大神)
に通じる。

角賀の場所
油谷 角山か。
地勢から、油谷島、伊上、立石観音、二位ノ浜、茅刈、黄波戸も候補地。
掛淵川の河口に角石があり付近に崖仏がある。

P605‐6行目
君主がこの神を見つけて饗応すれば、天下の覇者となる。


当ブログの過去記事 2015/06/09
【「美しい国」 の竃跡 岡ノ鼻遺跡: 邪馬台国 下関 】

天渟中原真人 瀛=嬴

天武天皇は方術を使った。

ネットに、天武天皇は始皇帝を手本とした説

伊勢 ⇒ 摂津 ⇒ 平安京

当ブログの過去記事
2012年01月04日

伊勢 ⇒ 摂津 ⇒ 平安京

嵯峨天皇 大同4年6月10日
集英社  日本後紀  P489

摂津国をして頓宮を造らしむ。伊勢の斎内親王の京に帰るを以てなり。

巻末の補注 P1242  によれば、
「  本来ならば伊勢斎王の帰京の経路に摂津国は含まれないが、三代実録元慶5年正月条に退下する識子内親王が大和道より山城国河陽宮を経て摂津国難波海で祓除する旨の官符が両国に下されたことがみえることを勘案するならば、大原内親王も難波で祓除した後に入京したか。 」
と解説されている。


道順が、 伊勢(三重県) ⇒ 摂津国(大阪市) ⇒ 平安京(京都市) である。
紀伊半島南端の潮岬を経て、海路で帰京したのか ??
謎だ。

虹国 秦王国

虹国
山海経 海外東経の 虫虫は北九州市小倉南区 蒲生の虹山である。
蒲生石棺群は北九州市埋蔵文化財センター博物館では展示のメインとされている。


秦王国
『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
口絵7 徐福祠
口絵8 徐福相

場所
長門市油谷 新別名・伊上 ~ 下関市豊北町 土井ヶ浜 ~ 二見の夫婦岩
場所を特定することが困難であるが、なんとか見つけていこう。
  ↓
 考察
  ↓


長門市 油谷町の伝説
油谷島の東側 字「梶ヶ平」 神が上陸

伊上
河原八幡が鱏 (えい) に乗って上陸した。
伊上八幡の神が上陸した。

戎島 (はたけ島) 一尺ばかりの石の祠があった。
推理すれば、秦島→畑島→はたけ島 と転訛か。

角山(かどやま) 仏﨑・牛が爪
牛に乗った八幡様が海から上陸し、ゆずり葉山に鎮座した。
私見 八幡人丸神社がある油谷 新別名に徐福が定住か。
熊野岳 紀州熊野は徐福伝説の地

蔵小田の藤森神社 (大日様) 京都市内に藤森神社がある。
大日様とは何か。

長門市 日置町
日置氏 ネットで検索
日置八幡宮 神霊が黄波戸の海から上がってきた。
垰山 須恵器生産
小字の地名「日本」


考古学
下関市豊北町 田耕 (たすき) の甲殿遺跡 (紀元1世紀ごろ) から山東省のものと成分が似るガラス製のトンボ玉が出土した。鉛とバリウムが多く含まれているのが特徴である。中国製のトンボ玉は戦国時代から秦にかけて製造されたものである。

参照
『珈琲タイムの考古学』 中村徹也 1994
著者は山口県埋蔵文化財センターの所長


田耕神社の長い参道は湯玉の川嶋神社を向いている。
田耕神社と川嶋神社は関係する。
川嶋神社の社伝 神が海から上陸してきた。

ネットで検索 【 田耕神社 】
天満宮 田耕神社と宇賀本郷にある。


油谷町久富の字「稲石」(古くは稲目石) 蘇我稲目
字「荒人」 から豚の土製品 石川夫人、蘇我氏の太蕤娘
豚からツングース系か。

土井ヶ浜シンポジウム 長崎大学歯学部教授の研究発表
土井ヶ浜弥生人の歯はモンゴル・バイカル付近の古代人に近似する。
ツングースあるいは鮮卑系遊牧民か。遊牧民は中央アジア系の秦氏と結びつく。

守屋神社
『ゼンリン住宅地図 長門市 西 日置・油谷』 2013年6月
P56 右
JR 長門古市駅の西側、日置農業倉庫の隣、神原さんの家に守屋神社がある。


秦王国=徐福祠
場所は油谷町 掛淵川流域

当ブログの過去記事 2015年07月19日
【 向津具の久津 】


地名 による考察
魏志倭人伝
国 壱岐  山海経 海外東経の人国 宗像海人

隋書俀国伝
国 沖ノ島の一ノ岳 下関市和久の字「度」「州」 土井ヶ浜海人

竹斯国 場所は下関市豊北町 和久


脱解尼師今
倭国の東北 1千里のところにある多婆那国 
  ↓
倭国は県の半分くらいの大きさ。

作家 いき一郎 多婆那国は長門市の正明市か

詩経 十畝之間 = 応神紀の桑津邑

船越ー古宿 (こずく) の峠道
旧道は、海岸の どさん子ラーメン → 鉄道下を右へ → 突き当りの資材置場 から山道を上がる

山海経 海外東経 の長差丘を福岡市東区の立花山に設定すれば、
湯谷・扶桑の場所は下関市船越ー古宿 の峠道 になる。

日本史、国文学
記紀、万葉、風土記は逸文まで含めた全部の場所は下関のど田舎の出来事。
どこも寂寥ただよう所である。古代の地名場所は関西、全国区ではなく下関市内である。倭名抄の国名・地名は10世紀半ばから。

中国史、中国の古典
詩経、書経は下関市の郷土史である。三皇五帝、四書五経、諸子百家、史記の半分は下関市有冨、船越・古宿、吉母、黒井などであり、中国の春秋戦国時代は下関市の綾羅木川 北側の農村地帯で行なわれていたサル山のボス争いだった。景色は殺風景だが風水ありの地である。

始皇帝が焚書坑儒をやったので倭人 (下関市の有冨の山「讃」と古宿の峠「赤関」にいた人たち) の歴史場所がシナ大陸の各地になった。

詩経国風 魏風 十畝之間 = 応神記の桑津邑 文庫書紀②200‐7

福江の馬渡川 (大内川) に字「桑」があるが、桑津邑は 大久保 浜宮の裏だ。
摂津国 尼崎市 原尼崎は下関市古宿海岸 大久保 浜宮の裏である。

浜宮は大正3年の鉄道敷設工事で撤去されて今はない。

絵図
『古宿今昔記』 大下七十五翁記 昭和57年5月
P24「昔の地勢と伝説遺跡」

陽侯 日本史=中国史

邪馬台国の位置
『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
P69 図
赤関 下関市吉見の古宿 ・・・河内王朝 黄天 魏
讃 有冨の大迫池 ・・・大倭 蒼天 天照大神

書経 禹頁の州=詩経国風の風=の都=下関市吉見 龍王神社の浜宮

の小戸は住吉
吉見の龍王神社の浜宮 吉見古宿町の大久保
大正3年、鉄道敷設工事のため撤去
ゼンリン地図 古宿の海岸 吉見古宿町と吉見下の境界付近

応神天皇 軽島の明宮、大隅宮
福江の大塚 字「王仁」 王子八幡宮 船越川沿い 船越との境


陽侯 日本史
続日本紀①292上 補注1-140  陽侯史 について解説がある。
陽侯 ・ 陽胡 ・ 楊胡 ・ 楊侯 は同じとされる。

続日本紀③79
聖武天皇 天平勝宝5月5日
  ・ 御浦王
  ・ 中臣伊勢連大津
  ・ 陽侯史令珎、陽侯史令珪、陽侯史令璆、陽侯史人麻呂
続けて書かれているので、近所の人たちだろう。
伊勢、大津、陽侯は近所である。

続日本紀②67
元正天皇 養老4年2月29日
大宰府奏して言さく、「隼人反きて大隅国守陽侯史麻呂を殺せり」

続日本紀⑤417
角朝臣筑紫麻呂 ・・・・ 角朝臣であり、筑紫である。

続日本紀②347、391
陽侯女王 ・・・・ 名が「女王」 である。 

続日本紀③377
王国嶋ら5人に楊津連

続日本紀④397
楊梅宮 


中国神話
淮南子 天文訓
太陽は谷からあらわれ、咸池で水浴びし、扶桑の野を過ぎる。
「暘」 は「陽」 に同じ。

墜形訓
扶木は州に在り。


陽侯の波 奔き潮 浪速の渡、績麻郊
楚辞 九章 哀郢
明治書院 新釈漢文大系
P197下
洞庭に上らん  洞海湾。下関市綾羅木・稗田の湖水か。
江に下る  若松区の江川か。下関市福江か。
逍遥 荘子 逍遥遊
東に来る  彦山流記の「東漸」 蘇民将来、簠簋内伝‐牛頭天王縁起

明治書院 新釈漢文大系
淮南子
陽侯の波 上291、中647、下946、 戦国策 韓策
侯、侯を殺して 中692、 礼記 坊記 ・・・ 神武東征 下の


河伯 仁徳紀
古宿の汐入川

吉備中国の派 (かわまた) 虬 吉見の西田川 河童伝説

以上、
日本史と中国史を合体させて、場所は下関市古宿 大久保谷(船越-古宿の峠道)と判明。陽侯、蓼侯、楚辞 九章 頌 は龍王神社 (大綿津見神社) の浜宮があった場所である。

仁徳紀 鹿が鳴く莵餓野 = 鳴条の戦い


YouTube の動画
苧(からむし) 縄文の苧糸作り体験教室

縄文時代の技術「原始的機織り」 Textile technology of the Jōmon period.

置賜のふるさと工芸品③【青苧織(山形県南陽市)

魏の薄葬令、懐風藻の「無為」

作家 いき一郎の説
魏は薄葬であった。倭国は魏と親交があったので巨大古墳は造らない。

私見
懐風藻を読むと「無為」という言葉がよくでてくる。
倭国の政治哲学は「無為」なので、洪水防止・治水の土木はやっても巨大建造物、巨大古墳は造らない。
道家ゆえ「素樸」さを尊重する。技巧の細緻を凝らした芸術品はない。

講談社学術文庫 『懐風藻』 P160
采女比良夫 山桜より有冨の大迫池・有冨墓地。

続日本紀
「茅葺き屋根はたいへん手間がかかります。瓦の屋根にしましょう。」
日本書紀の時代は天皇の宮は茅葺きであった。
皇居の建物は茅葺き・飛鳥板葺きであり、風水から直線の道はない。

諸子百家の多くは聖人君子の道徳として質素倹約を説いている。
中国王朝、関西のヤマト王権の王侯貴族は豪華絢爛であり、日本の田舎農民のごとき質素倹約はない。
三皇五帝、諸子百家は「夷」である下関市・北九州市の人たちである。

鑑真和上は下関倭国の有冨 竹生寺に行くつもりだったが、倭国は滅んでいたので関西ヤマトの大都市奈良に連れて行かれた。


平凡社『新訂 字統』白川静 2004
【桀】 桀は夏王であって殷王ではない。

角川 『大字源』1993
【桀】 名は 履癸。有冨中村を視点にして大迫池・有冨墓地は癸 (みずのと) の方位にある。履は履中天皇。
禹王 古宿の崖海岸
桀王 有冨の大迫池

Nスペ「中国文明の謎」第1集感想 - 枕流亭ブログ
nagaichi.hatenablog.com › entry
2012/10/16 - ... 夏王朝の都は陽城・斟尋・商丘・老丘・西河などを転々と ...


古宿の海岸 国道 七曲り崖  豊関建設資材置き場、JR大久保山トンネル
万葉集の半分は大久保山である。
万葉集131 石見の海

神武東征の曲浦 わだのうら

出雲国風土記 古宿の七曲り崖。「屋代」は福江山中の小字地名
播磨国風土記 福江の大塚 古宿のスーパー F・サニー 付近, 船越


帰墟 関門海峡、響灘
中国神話伝説ミニ事典 地名編 帰墟
flamboyant.jp › prcmini › prcplace › prcplace040 › prcplace040
帰墟. キキョ. 神話. 世界の果ての谷. 中国神話で、地上のすべての河だけでなく天の川までが流 …

蓋弓帽 被葬者

淮南子の劉安 安徽省北部 都の寿春は楚の都だった。 楚王は熊姓
魏の曹操 安徽省亳州市

神仙伝 劉安は晩年秘かに仙人の国に行き仙去した。

下関市稗田地蔵堂遺跡から出土した蓋弓帽 熊の彫刻
威信財ではなく被葬者が自分は誰であるか証明する持ち物である。
連弧文清白鏡を所有 学者肌の人物

稗田地蔵堂遺跡の被葬者
第1候補 淮南子の劉安
第2候補 素戔嗚尊


『立岩遺蹟』 岡崎敬 他 飯塚市 河出書房新社 1977
P366‐最下行
立岩出土鏡の位置はおのずからあきらかになったという外はない。
江蘇省

P349 銘文
日有喜月有富


下関市吉見の龍王神社に合祀されている乳母屋社の社伝に
震旦国ヒ州から王女オオヒルメと太子が空船に乗って大隅国に着いた。
ヒ州 江蘇省