「おやしま」=祖洲

油谷のささやき 油谷町郷土文化会 昭和58
P36上
徐福は平原広沢の王となった。
久富の平地を「平原」という。
3号 P17下 地下上申 久留村に 字「平原」

角山 字「平原」
下関球場の西側 引田~冨任 の平地を「平原」という。
平原で広沢でもある場所は油谷久富である。

P4上
日置町坂本辺に大覚寺という大寺があった。
朝日さす夕日かがやくその下に 黄金千杯 銭千杯

12号 平成6
吉備真備 母の姓は楊貴
二尊院文書 楊貴妃伝 蓬莱山の仙境はここ向津具なり

13号
熊本県天草郡新和町 字「楊貴妃」
その他日本各地の楊貴妃伝説を載せる。

向津具半島の民俗 北九州大学民俗研究会 1968
二尊院は皇室と同じ菊の紋章。三条公より賜った。
真宗は占い祈祷はやらないが二尊院は占い祈祷が本業
P94上、P182上

P103上
言い伝えでは、本油谷のおやくし様から湯が出ていた
私見 薬師如来 徐福に関係か。

長門市仙崎 素戔嗚尊伝説
吉備真備は唐からの帰途、仙崎に船が着く。

郷土文化・ながと 長門市郷土文化研究会 第5号 平成5
境川の歴史あれこれ
P37 地名「十楽」 極楽浄土の意味
その奥地に体長1m サンショウウオ。深川小学校にはく製
焼いて食べたら白い肉がうまかった。

ドライブイン只ノ浜 藤ノ木炭鉱の坑道

水神さま 中国唐代の銅銭がいっぱい入った壺
深川小学校に保管されていたが昭和29年の火災で焼失

床の浜 朝鮮との交易港

12号 平成12
客神社 客=まろうど
俵山 上安田 祭神 菊理姫命
平治ヶ峠 古代の交通路

日置町史 自治会は私たちのふるさと 平成17
豊前坊祠  黄波戸口、大内山下、国広、畑、真口

祭神が天御中主神である神社
日置の亀山 笠松祠
油谷の向津具迫田 妙見宮

油谷町の文化財 1990
P38 日置町堀田遺跡 六連式土器 (8~9世紀)
伊上で製塩 近世では油谷湾は製塩が盛ん

油谷島 地元では「おやしま」と呼ぶ=祖洲 で、徐福祠ありか。


参考
『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 三一書房 1996 P48~P55
P53 欧陽脩『日本刀歌』 大島=向津具

万葉集91 山跡の大島嶺

徐福祠 推理

正確に調べてないが、おおまかな目安で
東 日置上 字「日ノ本」 堀田の南 豊田湖の天皇様と経度が同じ
西 油谷島 本油谷 出雲社

長門市 渋木 字「日ノ本」 渋木八幡宮の北

日置蔵小田 雨乞岳 山頂に祠  登山のブログ、YouTube 動画

油谷蔵小田
藤森神社 (大日様) が元あった場所に祠 付近に字「権現原」

雨乞岳の南麓に縄文遺跡
地元の人に聞く 畑を耕すと黒曜石が拾える

角川日本地名大辞典 山口県 日置町 P1130
日置中の高畑遺跡 (弥生)
北九州系、山陰系、瀬戸内系の土器、姫島の黒曜石
広範囲に活動
地名「高畑」 高志か。畑は秦か。

日置中 坂本の永福寺跡 物部守圀の名


熊野権現 Wikipedia
「 各神社の主祭神は以下の通りであるが、相互に祭神を勧請しあい、前述のように三山では三神を一緒に祀っている。

熊野本宮大社の主祭神の家都御子神(けつみこのかみ)または家都美御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来、新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)または速玉神(はやたまのかみ)は薬師如来、熊野那智大社の熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)または夫須美神(ふすみのかみ)は千手観音とされる。

三山はそれぞれ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落浄土の地であると考えられ、平安時代以降には熊野全体が浄土の地であるとみなされる … 」

徐福は薬師如来に通じる。
雨乞岳は崑崙か。

考古学 油谷町史 1990
岡ノ鼻遺跡 掛渕川の左岸 久富字岡 方形周溝墓 畿内系土器 弥生終末

河原札場 亀川古墳 四獣鏡 東京国立博物館蔵 神仙思想

向津具銅剣

吉野裕子の陰陽五行配当 東は誕生、西は死滅
油谷町の西方
 油谷島の本油谷
 角山 大川尻古墳 ・・・ 字「権現原」 藤森神社が元あった場所の西方
 河原 亀山古墳 四獣鏡


『中国古代葬制の伝統と変革』黄 暁芬 勉誠出版 平成12
P291 第114 図 前漢期皇帝陵の分布
を参考にして徐福祠の場所を推理すれば、
天子南面より掛淵川の北側にある。 漢墓は都の北・北西の山。川曲りの地勢
 雨乞岳

徐福祠は
油谷蔵小田 字「権現原」 安倍家の北、農免道路沿い 藤森神社があった場所
にあったか。

徐福祠 長門市 掛淵川

隋書俀国伝の秦王国は長門市油谷・日置の掛淵川流域である。
以前私は秦王国の場所を福岡県福津市・宗像市と見ていたが、

『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
口絵7
口絵8
に「徐福祠」「徐福相」があり、その場所は長門市油谷・日置である。
掛淵川の最上流 畑ダム 畑=秦?

『珈琲タイムの考古学』 中村徹也 1994
P123
長門市油谷 荒人遺跡 (奈良時代~平安時代) から土製の豚が出土

貞観儀式 859年
豊饒祈念祭 近江の国の豚
神世の故事には白猪となっているが、これが得難き故に、のちには豚を替えて献上したものなり

白猪屯倉 Wikipedia
「 吉備国 …『書紀』巻第二十によると、574年の敏達天皇の時代に大臣蘇我馬子が遣わされて、白猪屯倉と田部が増益され、田部の「名籍」(なのふむた) が白猪史胆津に授けられた 」

油谷町史 1990
久富の小字地図 字「荒人」付近に字「太宰ヶ浴」


秦の始皇帝 嬴姓

『山海経・列仙伝』 前田直彬 全釈漢文大系 集英社 1975 1980 2刷
山海経 
P514 柔僕の民 土の国 大荒東経

P532 民の国 食 木の葉を食べる 大荒南経  黍は吉備

P604 海内経 民 封
  ↓
八俣大蛇
古事記 気比の大神(伊奢沙和気の大神)
に通じる。

角賀の場所
油谷 角山か。
地勢から、油谷島、伊上、立石観音、二位ノ浜、茅刈、黄波戸も候補地。
掛淵川の河口に角石があり付近に崖仏がある。

P605‐6行目
君主がこの神を見つけて饗応すれば、天下の覇者となる。


当ブログの過去記事 2015/06/09
【「美しい国」 の竃跡 岡ノ鼻遺跡: 邪馬台国 下関 】

天渟中原真人 瀛=嬴

天武天皇は方術を使った。

ネットに、天武天皇は始皇帝を手本とした説

伊勢 ⇒ 摂津 ⇒ 平安京

当ブログの過去記事
2012年01月04日

伊勢 ⇒ 摂津 ⇒ 平安京

嵯峨天皇 大同4年6月10日
集英社  日本後紀  P489

摂津国をして頓宮を造らしむ。伊勢の斎内親王の京に帰るを以てなり。

巻末の補注 P1242  によれば、
「  本来ならば伊勢斎王の帰京の経路に摂津国は含まれないが、三代実録元慶5年正月条に退下する識子内親王が大和道より山城国河陽宮を経て摂津国難波海で祓除する旨の官符が両国に下されたことがみえることを勘案するならば、大原内親王も難波で祓除した後に入京したか。 」
と解説されている。


道順が、 伊勢(三重県) ⇒ 摂津国(大阪市) ⇒ 平安京(京都市) である。
紀伊半島南端の潮岬を経て、海路で帰京したのか ??
謎だ。

虹国 秦王国

虹国
山海経 海外東経の 虫虫は北九州市小倉南区 蒲生の虹山である。
蒲生石棺群は北九州市埋蔵文化財センター博物館では展示のメインとされている。


秦王国
『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
口絵7 徐福祠
口絵8 徐福相

場所
長門市油谷 新別名・伊上 ~ 下関市豊北町 土井ヶ浜 ~ 二見の夫婦岩
場所を特定することが困難であるが、なんとか見つけていこう。
  ↓
 考察
  ↓


長門市 油谷町の伝説
油谷島の東側 字「梶ヶ平」 神が上陸

伊上
河原八幡が鱏 (えい) に乗って上陸した。
伊上八幡の神が上陸した。

戎島 (はたけ島) 一尺ばかりの石の祠があった。
推理すれば、秦島→畑島→はたけ島 と転訛か。

角山(かどやま) 仏﨑・牛が爪
牛に乗った八幡様が海から上陸し、ゆずり葉山に鎮座した。
私見 八幡人丸神社がある油谷 新別名に徐福が定住か。
熊野岳 紀州熊野は徐福伝説の地

蔵小田の藤森神社 (大日様) 京都市内に藤森神社がある。
大日様とは何か。

長門市 日置町
日置氏 ネットで検索
日置八幡宮 神霊が黄波戸の海から上がってきた。
垰山 須恵器生産
小字の地名「日本」


考古学
下関市豊北町 田耕 (たすき) の甲殿遺跡 (紀元1世紀ごろ) から山東省のものと成分が似るガラス製のトンボ玉が出土した。鉛とバリウムが多く含まれているのが特徴である。中国製のトンボ玉は戦国時代から秦にかけて製造されたものである。

参照
『珈琲タイムの考古学』 中村徹也 1994
著者は山口県埋蔵文化財センターの所長


田耕神社の長い参道は湯玉の川嶋神社を向いている。
田耕神社と川嶋神社は関係する。
川嶋神社の社伝 神が海から上陸してきた。

ネットで検索 【 田耕神社 】
天満宮 田耕神社と宇賀本郷にある。


油谷町久富の字「稲石」(古くは稲目石) 蘇我稲目
字「荒人」 から豚の土製品 石川夫人、蘇我氏の太蕤娘
豚からツングース系か。

土井ヶ浜シンポジウム 長崎大学歯学部教授の研究発表
土井ヶ浜弥生人の歯はモンゴル・バイカル付近の古代人に近似する。
ツングースあるいは鮮卑系遊牧民か。遊牧民は中央アジア系の秦氏と結びつく。

守屋神社
『ゼンリン住宅地図 長門市 西 日置・油谷』 2013年6月
P56 右
JR 長門古市駅の西側、日置農業倉庫の隣、神原さんの家に守屋神社がある。


秦王国=徐福祠
場所は油谷町 掛淵川流域

当ブログの過去記事 2015年07月19日
【 向津具の久津 】


地名 による考察
魏志倭人伝
国 壱岐  山海経 海外東経の人国 宗像海人

隋書俀国伝
国 沖ノ島の一ノ岳 下関市和久の字「度」「州」 土井ヶ浜海人

竹斯国 場所は下関市豊北町 和久


脱解尼師今
倭国の東北 1千里のところにある多婆那国 
  ↓
倭国は県の半分くらいの大きさ。

作家 いき一郎 多婆那国は長門市の正明市か

詩経 十畝之間 = 応神紀の桑津邑

船越ー古宿 (こずく) の峠道
旧道は、海岸の どさん子ラーメン → 鉄道下を右へ → 突き当りの資材置場 から山道を上がる

山海経 海外東経 の長差丘を福岡市東区の立花山に設定すれば、
湯谷・扶桑の場所は下関市船越ー古宿 の峠道 になる。

日本史、国文学
記紀、万葉、風土記は逸文まで含めた全部の場所は下関のど田舎の出来事。
どこも寂寥ただよう所である。古代の地名場所は関西、全国区ではなく下関市内である。倭名抄の国名・地名は10世紀半ばから。

中国史、中国の古典
詩経、書経は下関市の郷土史である。三皇五帝、四書五経、諸子百家、史記の半分は下関市有冨、船越・古宿、吉母、黒井などであり、中国の春秋戦国時代は下関市の綾羅木川 北側の農村地帯で行なわれていたサル山のボス争いだった。景色は殺風景だが風水ありの地である。

始皇帝が焚書坑儒をやったので倭人 (下関市の有冨の山「讃」と古宿の峠「赤関」にいた人たち) の歴史場所がシナ大陸の各地になった。

詩経国風 魏風 十畝之間 = 応神記の桑津邑 文庫書紀②200‐7

福江の馬渡川 (大内川) に字「桑」があるが、桑津邑は 大久保 浜宮の裏だ。
摂津国 尼崎市 原尼崎は下関市古宿海岸 大久保 浜宮の裏である。

浜宮は大正3年の鉄道敷設工事で撤去されて今はない。

絵図
『古宿今昔記』 大下七十五翁記 昭和57年5月
P24「昔の地勢と伝説遺跡」

陽侯 日本史=中国史

邪馬台国の位置
『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
P69 図
赤関 下関市吉見の古宿 ・・・河内王朝 黄天 魏
讃 有冨の大迫池 ・・・大倭 蒼天 天照大神

書経 禹頁の州=詩経国風の風=の都=下関市吉見 龍王神社の浜宮

の小戸は住吉
吉見の龍王神社の浜宮 吉見古宿町の大久保
大正3年、鉄道敷設工事のため撤去
ゼンリン地図 古宿の海岸 吉見古宿町と吉見下の境界付近

応神天皇 軽島の明宮、大隅宮
福江の大塚 字「王仁」 王子八幡宮 船越川沿い 船越との境


陽侯 日本史
続日本紀①292上 補注1-140  陽侯史 について解説がある。
陽侯 ・ 陽胡 ・ 楊胡 ・ 楊侯 は同じとされる。

続日本紀③79
聖武天皇 天平勝宝5月5日
  ・ 御浦王
  ・ 中臣伊勢連大津
  ・ 陽侯史令珎、陽侯史令珪、陽侯史令璆、陽侯史人麻呂
続けて書かれているので、近所の人たちだろう。
伊勢、大津、陽侯は近所である。

続日本紀②67
元正天皇 養老4年2月29日
大宰府奏して言さく、「隼人反きて大隅国守陽侯史麻呂を殺せり」

続日本紀⑤417
角朝臣筑紫麻呂 ・・・・ 角朝臣であり、筑紫である。

続日本紀②347、391
陽侯女王 ・・・・ 名が「女王」 である。 

続日本紀③377
王国嶋ら5人に楊津連

続日本紀④397
楊梅宮 


中国神話
淮南子 天文訓
太陽は谷からあらわれ、咸池で水浴びし、扶桑の野を過ぎる。
「暘」 は「陽」 に同じ。

墜形訓
扶木は州に在り。


陽侯の波 奔き潮 浪速の渡、績麻郊
楚辞 九章 哀郢
明治書院 新釈漢文大系
P197下
洞庭に上らん  洞海湾。下関市綾羅木・稗田の湖水か。
江に下る  若松区の江川か。下関市福江か。
逍遥 荘子 逍遥遊
東に来る  彦山流記の「東漸」 蘇民将来、簠簋内伝‐牛頭天王縁起

明治書院 新釈漢文大系
淮南子
陽侯の波 上291、中647、下946、 戦国策 韓策
侯、侯を殺して 中692、 礼記 坊記 ・・・ 神武東征 下の


河伯 仁徳紀
古宿の汐入川

吉備中国の派 (かわまた) 虬 吉見の西田川 河童伝説

以上、
日本史と中国史を合体させて、場所は下関市古宿 大久保谷(船越-古宿の峠道)と判明。陽侯、蓼侯、楚辞 九章 頌 は龍王神社 (大綿津見神社) の浜宮があった場所である。

仁徳紀 鹿が鳴く莵餓野 = 鳴条の戦い


YouTube の動画
苧(からむし) 縄文の苧糸作り体験教室

縄文時代の技術「原始的機織り」 Textile technology of the Jōmon period.

置賜のふるさと工芸品③【青苧織(山形県南陽市)

魏の薄葬令、懐風藻の「無為」

作家 いき一郎の説
魏は薄葬であった。倭国は魏と親交があったので巨大古墳は造らない。

私見
懐風藻を読むと「無為」という言葉がよくでてくる。
倭国の政治哲学は「無為」なので、洪水防止・治水の土木はやっても巨大建造物、巨大古墳は造らない。
道家ゆえ「素樸」さを尊重する。技巧の細緻を凝らした芸術品はない。

講談社学術文庫 『懐風藻』 P160
采女比良夫 山桜より有冨の大迫池・有冨墓地。

続日本紀
「茅葺き屋根はたいへん手間がかかります。瓦の屋根にしましょう。」
日本書紀の時代は天皇の宮は茅葺きであった。
皇居の建物は茅葺き・飛鳥板葺きであり、風水から直線の道はない。

諸子百家の多くは聖人君子の道徳として質素倹約を説いている。
中国王朝、関西のヤマト王権の王侯貴族は豪華絢爛であり、日本の田舎農民のごとき質素倹約はない。
三皇五帝、諸子百家は「夷」である下関市・北九州市の人たちである。

鑑真和上は下関倭国の有冨 竹生寺に行くつもりだったが、倭国は滅んでいたので関西ヤマトの大都市奈良に連れて行かれた。


平凡社『新訂 字統』白川静 2004
【桀】 桀は夏王であって殷王ではない。

角川 『大字源』1993
【桀】 名は 履癸。有冨中村を視点にして大迫池・有冨墓地は癸 (みずのと) の方位にある。履は履中天皇。
禹王 古宿の崖海岸
桀王 有冨の大迫池

Nスペ「中国文明の謎」第1集感想 - 枕流亭ブログ
nagaichi.hatenablog.com › entry
2012/10/16 - ... 夏王朝の都は陽城・斟尋・商丘・老丘・西河などを転々と ...


古宿の海岸 国道 七曲り崖  豊関建設資材置き場、JR大久保山トンネル
万葉集の半分は大久保山である。
万葉集131 石見の海

神武東征の曲浦 わだのうら

出雲国風土記 古宿の七曲り崖。「屋代」は福江山中の小字地名
播磨国風土記 福江の大塚 古宿のスーパー F・サニー 付近, 船越


帰墟 関門海峡、響灘
中国神話伝説ミニ事典 地名編 帰墟
flamboyant.jp › prcmini › prcplace › prcplace040 › prcplace040
帰墟. キキョ. 神話. 世界の果ての谷. 中国神話で、地上のすべての河だけでなく天の川までが流 …

蓋弓帽 被葬者

淮南子の劉安 安徽省北部 都の寿春は楚の都だった。 楚王は熊姓
魏の曹操 安徽省亳州市

神仙伝 劉安は晩年秘かに仙人の国に行き仙去した。

下関市稗田地蔵堂遺跡から出土した蓋弓帽 熊の彫刻
威信財ではなく被葬者が自分は誰であるか証明する持ち物である。
連弧文清白鏡を所有 学者肌の人物

稗田地蔵堂遺跡の被葬者
第1候補 淮南子の劉安
第2候補 素戔嗚尊


『立岩遺蹟』 岡崎敬 他 飯塚市 河出書房新社 1977
P366‐最下行
立岩出土鏡の位置はおのずからあきらかになったという外はない。
江蘇省

P349 銘文
日有喜月有富


下関市吉見の龍王神社に合祀されている乳母屋社の社伝に
震旦国ヒ州から王女オオヒルメと太子が空船に乗って大隅国に着いた。
ヒ州 江蘇省

下関の泰山、俀国

下関市有冨・蒲生野山田
竹生観音の住所は蒲生野山田ではなく有冨。有冨が重要。
山口県風土誌では竹生観音がある山は東ヶ嶽で、東峰は竹生山。
竹生観音によれば砕石場の山は妙見山という。
東ヶ嶽=中国 山東の泰山
妙見=北極星、天皇

風水で見ると鳳の形。
室津から旗木がこの山に飛んできた伝説は荘子 逍遥遊に通じる。
竹生観音によれば開山時 (787年) に生えていた竹は孟宗竹だったという。
奈良市東大寺の金実忠による開山と伝える。

私見
円筒埴輪 竹生山に生える竹を表現
特殊器台 竹を加工した器物を表現
秦の始皇帝が焚書坑儒をやったので泰山は山東省の山になった。

詩経・書経の場所は関門海峡 下関市・北九州市小倉

有冨の大歳池-大迫池の用水路 山辺の道
天理市の龍王山は有冨竜王社。竹取物語の里。
記紀・万葉、風土記など上代文学の場所は下関市・北九州市。

下有冨石棺 内部は朱塗り
仁馬山古墳 韓式土器が出土 『下関市年表』 平成23年 P7

東夷 下関市有冨の山麓 (大倭) と古宿 大久保山 (河内国) の山麓
西夷 下関市吉母、北九州市。 高千穂宮は八幡西区浅川 日ノ峯

小倉南区
長尾 八坂神社 (祇園神社) 素戔嗚尊の里と伝える。
徳力の嵐山 古神道 神理教本院 饒速日命の里と伝える。

神理教 奥津城 教祖(明治39年没) の遺言 昇仙の境地
淮南子 精神訓

下関倭国の人たちは淮南子を愛読していた。

前漢 清白鏡 精巧な鏡に自分の心が精白であることを刻む
淮南子 淑真訓 新釈漢文大系 上巻 P118
… 明鏡にうつすのは、それが平らかだからである。… 万物の本性をそのまま現すのである。…

天神の山

大和天神山古墳
YouTube の動画
[ 奈良国立博物館で「談山神社に伝わる太刀」など修理された文化財の展示 ]
  ↓
【大和天神山古墳】 Wikipedia
「 本古墳は、伊射奈岐(いざなき)神社境内古墳として調査が進められたが、古墳名に人物名が混じらないという方針により、地元の呼称をとって天神山古墳とされた。しかし、各地に同名の古墳が多数あるため、区別するために大和天神山古墳と命名された。

本古墳の築造時期は、周辺の古墳との関係や日本製青銅鏡の形式から、3世紀末から4世紀前半、乃至は、おおむね4世紀後半とも推定されている。

埋葬施設および副葬品
木櫃のなかに水銀朱を取り囲むように20面の銅鏡が置かれていた。20面の銅鏡は木櫃の四周に連続して長方形の辺に置かれていて、前期古墳にしばしば見られるように一面だけ中央に置いてあるという配列とは全く異なる。これには「邪から被葬者を守ろうとした」との理解があるようだが、もとより被葬者が存在しない場合においては妥当とはいえないだろう。古墳社会では階層化が進み、青銅鏡が社会的・政治的に重要なものであり、製作数が飛躍的に増大する。 また、木口板(こぐちいた)の外部にも北方で2面、南方で1面置かれていて、計23面の銅鏡が検出されている。
・・・
前方部から二重口縁壺(布留Ⅰ式)から出土している。 」

鏡王女 Wikipedia
「 『万葉集』には四首の歌が収録されている。天智天皇・額田王・藤原鎌足との、歌の問答が残されている。神奈備の石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる (「神奈備乃 伊波瀬乃社之 喚子鳥 痛莫鳴 吾戀益」)は、神奈備の石瀬の社の呼子鳥よ、そんなに激しく鳴かないでおくれ。私の恋しい思いが募るばかりだから という意味である。この歌は、鏡王女が鎌足の死後、彼を思って作った歌だという説がある。

なお現在、墓所に比定されているのは奈良県桜井市にある小墳丘で、舒明天皇陵の近所にあり、談山神社の管理となっている。

鏡女王忍坂墓(桜井市) 」

私見
下関市有冨 大迫池の上


壁画
五郎山古墳 - 邪馬台国大研究
inoues.net › museum2
... JR原田駅到着。駅前の案内板を見る。 五郎山古墳の壁画イメージ。6世紀後半の円墳で …
  ↓
壁画に丹塗りの船


志賀
志賀海神社
佐賀市の志賀神社

橘の小戸 住吉三神、綿津見、安曇連

出雲の御大の御前
穴門の伊都都比古 「ツツ 」 住吉の筒男 出雲国は津ノ地 珠城宮は船越

水江の浦嶋子 日下臣

河内、難波、生駒

鐘岬
漢奴国王金印

淡海の大津の楽浪の志賀
佐渡島 穂積老、禹武邑

白雉 今我が親神祖の知らす、穴戸国の中に
古田史学の会 ホームページ 会員の論稿

  ↓
下関市吉見下 古宿の崖海岸
JR 大久保山トンネル、豊関建設資材置場の磯
神功皇后伝説の「帆柱瀬」、小さな洞窟「姥ヶ懐」、光る石「船釘」
龍王神社の浜宮(大綿津見神社 下宮)

万葉集の歌の半分は下関市福江大塚-船越の大久保山 海岸である。
この場所に扶桑があった。赤関

天神の山 風土記 逸文 伊予国
有冨のハンドウ山 尾根(讃) 大和国の香具山
福江大塚の大久保山 海岸(赤関) 伊予の天山

山東、山西
『角川日本地名大辞典 別巻Ⅰ 日本地名資料集成』 1990
P19 (6)ヤマトを「東」と記す例
元興寺露盤銘 山東漢大費直 山西首都鬼
山東 ヤマト
山西 カワチ
中国の山東省、山西省に対応している。
詩経・書経の山東、山西は下関市有冨の山、船越の大久保山である。

魏 - Wikipedia
「 はじめ中国古代の都市国家のひとつ、今日の山西省芮城県にあった。戦国時代に領域国家に発展 … 」

「倭」と「魏」は字が似て親類兄弟である。「委」+ ヘン「人」、ツクリ「 鬼」
倭 下関市 有冨の山麓
魏 下関市 船越・大塚の古宿 七曲り 崖海岸 大久保山の山麓

筑摩書房 世界古典文学全集 『詩経国風・書経』
魏風 
P155上
「 鄭玄の詩譜によれば魏は太古の虞舜・夏禹の都した地である。 」

YouTube の動画
自称皇帝・袁術はなんで皇帝になろうと思ったの?【袁術祭り#7】
  ↓
動画の末尾 「魏」という漢字の原義は 高くて大きい
私見 「高くて大きい」とは扶桑樹である。

明治書院 新釈漢文大系『孟子』
離婁章句下
P278
「 孟子が言うに、「舜は諸馮という所で生まれ、負という所に遷り、鳴篠という所で死んだ。 即ち東夷、東方の辺鄙な土地の人である。 」

平凡社 中国古典文学大系 『淮南子・説苑(抄) 』
淮南子 氾論訓
P172上 ‐4行目
「 堯は百戸の城構えすらなく、舜は立錐の地を持たなかったが、それぞれ天下を保った。 禹は十人の配下すらなく、湯には七里の封地もなくて、それぞれ諸侯に君臨した。 」

魏=夏=扶桑=木の国の大屋毘古 古宿 七曲り崖海岸の大久保山

山東 蒼天 有冨の大歳池 (倭)・大迫池 (大倭) 天香具山 天照大神
山西 黄天 古宿 七曲り 崖海岸の大久保山 (扶桑・夏・魏) 土徳 河内 

曹魏は舜の末裔
曹操の父親は出自不明ということは倭人?
曹操 (武帝) = 日本武尊

日の本=扶桑 古宿のJRトンネル ふくふくうどん-どさん子ラーメン
倭=有冨の字「中村畔」「金鋳ヶ谷」、大歳池
大倭=有冨の大迫池・有冨墓地・竹生山


山海経 海外東経
長差丘=福岡市東区の立花山 クスノキ原始林 とすれば
扶桑は下関市福江大塚・船越の崖磯の海岸になる。
青丘国は有冨の大迫池 (工事中) 。 讃
労民国は黒井。

福岡市東区 唐原は堯を葬った所
下関市永田郷 御堂遺跡 縄文末の木棺墓 字「宗教」より墨子の墓

参照
『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
P69 図 「赤関」「讃」

沈鐘伝説

小学館 新編日本古典文学全集 萬葉集2
歌1230 金の岬

頭注 沈鐘伝説
筑前 鐘の岬
越前 鐘が崎
この2つは下関市古宿 七曲り崖海岸で同じ場所である。

難波 難破
竜神 竜王神社

竜田 神武東征

応神陵の竜馬、土馬。
難波宮の仁徳天皇は西に竜馬を見た。

武邑 佐渡
欽明5年12月 文庫書紀③282‐末行
魅鬼
巌岫 俗、粛慎隈 古宿崖海岸の 姥ヶ懐 うばがふところ

参照
『古宿今昔記』 大下七十五翁 1982
P24 昔の地勢と伝説遺跡


山海経 海外東経 の長差丘を福岡市東区立花山 クスノキ原始林
に比定すれば、黒歯国(私見 虫歯で歯が黒い)は下関市船越・大塚。
湯谷、扶桑は大久保谷 海岸。ここに夏禹が居た。

【禹】 Wikipedia
禹(う、紀元前1900年頃)は中国古代の伝説的な帝で、夏朝の創始者。名は命(ぶんめい)、諡号は禹、別称は大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は姒(じ)。姓・諱を合わせ姒文命(じぶんめい)ともいう。夏王朝創始後、氏を夏后とした。

雄略13年8月 文庫書紀③70‐7
播磨国の御井隈の人 石小麻呂
大樹臣 河内の母樹、扶桑

木工 韋那部真根
穴門館の工匠 河内馬飼押勝、河内母樹馬飼御狩 継体24年9月
巨勢 巨は墨家の鉅 墨縄 甲斐の黒駒

万葉集3844
万葉集54 紀伊国 巨勢山 椿=若木

墨吉 住吉荒御魂を祀る龍王神社 浜宮(大久保)
大正3年、鉄道工事で消滅