讃 隠国の泊瀬

『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮紀子著 日本経済新聞出版社
発行日2007年6月20日 12年前

P69 図35
団長 修後 修前
修 狗留孫山 禅師
団長 豊浦団 宇賀本郷の山「弾正原」331.2 m 一大率は豊浦団になった。
豊浦団は古代。飛鳥時代末~奈良~平安時代

団の字は旧字「團長」か。周の旧字か。 周長なら周王朝の裔か

赤関 讃
私は赤関を福江大塚の皇子八幡宮付近の赤坂(地下上申絵図)に比定

讃の意味に該当する場所は下関市の南部地域にない。長府の和同開珎か。
私は万葉集1、2の讃歌とみた。

江戸時代
綾羅木川の北 有冨支配 庄屋 有冨村 字「中村畔」 儀万さん家
綾羅木川の南 熊野支配

綾羅木川の北側は有冨村の中村が中心。
有富中村の真北に竹生寺西隣の妙見宮がある。
竹生寺は蒲生野山田から登るが住所は有冨である。
有富中村の真西は梶栗浜遺跡(金、墓地)、真東は青山、真南は火の山。
下関は有冨中村が中心点となって地名、遺跡、古墳がある。

有富中村(空地 中村旧宅跡 、中野、儀万)の家から見て有冨墓地は北北東で、
真北から東へ20°
癸(みずのと)、子・丑の境。 二十八宿では虚・女である。女は伊勢。
方位 丑 は大迫池上の尾根で丑=紐=殷王 紂。 天智天皇の葛城

有富では漢和辞典 巻末付録の各方位図、易経が適する。
神仙境たる有冨墓地、大迫池の上。雲が沸く所。
中華思想・中国哲学の発祥地
華夷思想は有冨墓地の上「燕国」、大迫池の上「蓋国」で生まれた。秦の始皇帝が焚書坑儒をやる前は、天子、中国、畿内、夷、戎、狄などは有冨倭人の言葉だった。竹生寺西の奥の院(経筒の埋納地)から東南に傾く台地は九州である。
考古学は有形を対象とする。 有冨には中国の無形がある。
中国学の方位、易経、風水など勉強すれば有冨に無形があることが確認できる。

万葉集1 見津 山跡 の場所は有冨墓地になる。
有富墓地入口の東側、野菜屑が捨てられている所の沢水が泊瀬川である。
その上は土石流でグチャグチャになった。
 隠国の泊瀬
 隠口の泊瀬山
 泊瀬 雲

泊瀬 → 佐保 万葉集79
有富古墳横の沢水 佐保川
佐保川の髑髏(どくろ)有富古墳

続日本紀④241-9
厨真人厨女
きたなき佐保川の髑髏に入れて

は万葉集1 の歌場所で、有冨墓地に比定したい。
昔、有冨墓地の上に火葬場があった。万葉集428 柿本人麻呂

倭の五王 讃 は履中天皇である。



ネットの国土地理院地図を使って
下関市有冨ハンドウ山登山口 と 立岩堀田遺跡 を線で結べば
  仁馬山古墳
  垢田交差点東側(稗田地蔵堂遺跡)
  武久浜(半両銭)
  彦島八幡宮北側
  小倉北区 日明小学校(日明一本松塚古墳)
  槻田小学校付近(高槻遺跡)
が直線で並ぶ。 方位は未(南南西) だ。
未は 卦では天山遯をあてる。

一直線上
長門市俵山の能満寺山―菊川町の植松古墳―仁馬山古墳― 武久川の河口