堀田遺跡  長門市


日置町史  1983年

堀田遺跡

P92
古墳時代の住居跡の検出は、日置町はもちろん周辺地域でも初めてのことであり、その意義は大きい。

古墳時代の住居形式は、弥生時代から受け継がれたもので、竪穴式住居・平地式住居・高床式住居の三種に大別されるが、充実する経済力を背景とする支配者層は、流入する大陸文化の刺戟などから、高床式の進んだ住居形式をとり入れるようになった。
しかし、一般民衆の住居は、伝統的な竪穴住居が基本型であったようである。

弥生時代から強い伝統をひく竪穴住居も、時期のくだるに従ってプランが隅丸方形から方形へと変化し、最も重要な施設である炊飯施設も、床面を凹めた炉から床面上に築いたカマドや、移動式のカマド形土器へと移っていった。

堀田遺跡の竪穴住居跡も、方形のプランであることから古墳時代も後半に属するものとみられるが、正確な時期については、遺構の遺存度がよくないこと、遺構に伴う遺物が十分でないことなどから、明確にできないうらみが残る。
しかし、本遺跡の近くを西へ流れる黒川の、約1.5キロメートル下流にあたる先述の長行黒川遺跡からは、おそらくカマド形土器とセットであったとみられる土師器の把手つき甑(こしき) が出土しており、堀田から長行にかけての山麓部傾斜変換線地帯に、古墳時代後半の集落立地をしのばせるものがある。



P106
古墳時代の住居跡がみつかった先述の堀田遺跡は、その住居跡を埋める第6層やその上位の第5層を掘り込んだ多数の柱穴群が検出されたが、調査面積が狭いため、それらの関連や時期が明確にならなかったのは残念であったが、出土遺物の面から、古墳時代以降平安時代までの間のものとみられる。

殊に、土師器や須恵器などの遺物を最も多く包含する、地羽(盤土) 下の黒褐色をした第3層は、開田時に人為的に削平または埋積された疑いもあるが、この遺跡の性格を示唆する貴重な遺物を包含していた。
なかでも、平安時代のものと推定される、若干の布目瓦や緑釉陶器の破片、かなりの量の鉱滓とふいご口の破片などが出土していることが特筆されよう。

布目瓦の使用は、建築史の上からみても一般住民の住居とは縁遠く、由緒ある社寺、官衙(役所) など規模の大きい建物の屋根を飾ったもので、緑釉陶器の出土との関連が注目されるところである。

緑色の釉薬をかけた緑釉陶器は、一般的な日常雑器ではなく、特殊な容器として生産されたものである。
『延喜式』 の「民部下」 によると、尾張国とならんで長門の「瓷器」(しき) として、大小の埦など百点を、毎年調貢品として上納していたようである。
瓷器とは施釉陶器のことで、尾張の瓷器は須恵器系の灰釉陶器であり、長門国の瓷器は、いわゆる緑釉陶器であったと考えられている。

緑釉陶器には、須恵質で硬質のものと、土師質で軟質のものとがあるが、堀田遺跡出土の緑釉陶器は、土師質で軟陶の高台をもつ椀形器である。
口縁の径が15センチメートルで、内外面に濃緑色の緑釉が施してあり、口唇には外側からヘラでおさえた小さな圧痕が認められる。
これは、周防国衙出土の緑釉五花皿のように花弁を模したものとみられる。
ちなみに、山口県下での緑釉陶器の出土例をみると、
周防の国衙
周防鋳銭司跡
山口市 木﨑遺跡
下関市 秋根遺跡
同 神田貝塚
同 豊浦高校敷地
見島ジーコンボ古墳
など、数例のみである。

さらに、ふいご口と多量の鉱滓の出土は、古代製鉄炉などの工房跡の埋存を思わせるものがある。
なお、前述の長門の「瓷器」 の生産地は、いまだ定かになっていない。

堀田遺跡の発掘調査は、先に古墳時代の住居跡の項で述べたように、約6千平方メートルにわたる遺物包含層のうち、東南端のわずか50平方メートルの発掘調査のみであるが、多量の須恵器や土師器に加えて、このような注目すべき遺物を検出したことは、この遺跡の重要性を示唆するもので、日置町古代史の解明の上から今後の組織的な調査が望まれるものである。


※ 「釉」=うわぐすり
素焼の陶磁器の表面にかけて光沢を出し、なめらかにするために用いる一種のガラス質のもの。
つやぐすり、ゆうやく。



角川日本地名大辞典 35 山口県  オンデマンド版
日置町 P1131左
長行・国常古墳と黒川・堀田遺跡
農耕社会の発展につれ、当町域にも富を掌握する豪族が出現し、長行古墳(日置中) や国常古墳(日置下) が造られた。

雨乞台の山麓部に位置する長行古墳は小型の円墳であったと推定され、内部の箱式石棺からは副葬品として鉄槍が検出されている。

また、長行の西端に位置する国常古墳の石棺からは、仿製鏡が発見されたと伝えられるが、須恵器の平瓶1個が現存するのみである。

日置平野の黒川遺跡(日置中) からは、住居に関連した柵状の棒杭列に加えて、祭祀用土師器土馬などが出土し、注目された。

また、昭和47年と同57年の2度にわたって発掘調査が行われた堀田遺跡(日置上) は、日置平野の北東隅にあって、弥生中期より形成されはじめ、古墳時代末期から奈良期にかけて最盛期を迎えた北浦地方きっての大集落であったと考えられている。
おびただしい数の柱穴からは、方形の竪穴住居3軒が確認され、大量の土師器や須恵器に混じって出土した布目瓦や緑釉陶器の破片からは、由緒ある寺院か官衙の存在が想像され、さらに ふいご口と鉱滓の出土は、古代製鉄炉などの工房跡の存在を思わせる。


私見
長門の「瓷器」 の生産地 は下関市永田郷 稗尻 の須恵器生産地か
字を書く硯(すずり) が出土

長行古墳の鉄槍 ・・・・ 天日槍
または味耜高彦根神の大葉刈・神戸剣  古事記では大量・神度剣

黒川遺跡に柵状の棒杭列 ・・・・ 出雲八重垣が儀式的に形骸化したもの
                        ↓
                     出雲建、出雲振根の住居
祭祀用土師器 ・・・・ 近くに「言代」 という小字がある
土馬 ・・・・ 野見宿祢か
 ↓
室津の下岡田遺跡から土製の馬が出土している。
日置町の黒川遺跡の土馬と室津の下岡田遺跡の土馬は関係するか。