太宰府市  戸籍の木簡 「竺志前国嶋評」


私は倭国(=長門国) の大宰府は山奥内陸部の太宰府市でなく、船が着ける海岸部の洞海湾沿岸、黒崎駅 ~ 八幡駅付近にあったと推理する。
その根拠は
  大宰府の役人だった藤原広嗣は遠賀川下流で挙兵している
  水巻町境の日峰山に山幸彦伝説があり、竺紫日向や隼人はこの辺り
  洞海湾沿岸は神功皇后伝説が多く、香椎は洞海湾沿いか岡垣町にあった
  万葉集では香椎宮の隣に大宰府がある
  野面、直方市、添田町に熊襲伝説がある。 熊襲は遠賀川の中上流だ

私見では「筑前」(竺志前国) は福岡市周辺ではなくて、
北九州市西部の八幡・戸畑・若松、芦屋町山鹿、水巻町である。

北九州市で「島」 は若松区をさす。
太宰府市から出土した戸籍木簡の「嶋評」 は若松である。


大宝二年戸籍断簡
筑前国嶋郡戸籍 川辺里
私見
この「嶋」 も北九州市若松区である。
「川辺」 は江川沿いか、遠賀川沿いだろう。

若松の総社は芦屋町山鹿に近い狩尾神社だったという。
戸籍には占部氏が多く、山鹿貝塚の近くに祭祀に使った土器の破片が多く出土する場所がある。
川辺里は山鹿貝塚のあたりである。

北九州市西部を含める旧遠賀郡は筑前国に属した。




『 水巻町誌 』  昭和37年  P54より

また九州の防備を厳しくして、大陸からの侵入に備え、筑紫の海岸一帯に防人(さきもり) と烽(とぶひ) を設けた。 天智天皇3年(664) 対馬、壱岐、筑紫に夫々配備したが、防人は主に関東庶民の子弟で、21才から60才までの男子が選ばれた。 ・ ・ ・ ・ ・ 
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その頃各国にも軍団が置かれ、軍団員の年令は防人と同じで、21才から60才までの男子の内3分の1が、兵士として訓練を受けた。 その頃九州には次のような軍団があった。

筑前国 4団 兵士4千人(後に2千人)
筑後国 3団 兵士3千人(後に千5百人)
豊前国 2団 兵士2千人(後に千人)

これで見ると筑前が一番多く、従って人口も多かったことがわかる。
このうち軍団名がはっきりわかるのは、御笠軍団遠賀軍団でこの軍団が使用していた銅印が発見されて知ることが出来た。 御笠軍団印は大宰府町国分で、また遠賀団軍印は同じく大宰府町観世音寺字来木から発見された。

軍団が廃止されたのは天長3年(826) で、その後郡司の子弟から選ばれた選士がこれに代わったが、武力は弱く貞観11年(869) の新羅の海賊の博多湾侵入には手を焼いたようだし、寛仁3年(1019) の満州族刀伊の来襲には他の手を借りて撃退することが出来たようなこともあった。 やがて大宰府の威力が失墜するにつれて各地に豪族や武士の出現を見るようになった。

 いま遠賀軍団の所在は何処であったかわからないが、この軍団の中に我が水巻の先祖も何人か加わっていたろうことが想像できる。


私見
太宰府市から発見された最古の戸籍木簡 「竺志前国嶋評」 は遠賀軍団であり、北九州市若松区と芦屋町山鹿の人たちである。
「嶋」 は糸島市ではない。 若松の遠賀軍団である。