竺紫の君 石井

古事記の竺紫は欽明紀の竹斯嶋(書紀3巻 P314)で、東方領物部莫奇武連の東方は対馬である。東(あつま)が対馬なのは書紀2巻 P96の陸奥国が対馬の竹敷だから。

1402年の有名な朝鮮の地図「混一彊理歴代国都之図」でも壱岐・対馬は九州の北東の方向で描かれ、東に傾いている。

竺紫または竹斯嶋は対馬である。壱岐も考えられる。
竺紫日向のくしふる嶺は壱岐北端の串山も候補地になる。

竺紫の君 石井は、
①考 対馬の上県町 佐護西里 小字「石井」
物部麁鹿火(あらかひ)大連は上県町飼所の人か。


②考 書紀では磐井の子の名前が 葛子(書紀3巻 P194)→壱岐の勝本町仲の小字「葛籠原」(つづらばる)→葛籠がクズコとよめる。
糟屋屯倉→勝本町の古代の可須郷。
近江毛野臣は深江の潟湖淡海の人。

滋賀県に長浜市があるように、壱岐の中に長門があるのだろう。
滋賀県の地名=壱岐の地名 

壱岐には奈良県(大和)の地名も多い。
新城(にひき)→書紀1巻 P234の新城戸畔(にひきとべ)
          書紀5巻 P138 「新城に都つくらむとす」
壱岐は日本の首都だった。