邪馬台国 下関

アクセスカウンタ

zoom RSS 大坪・武久  地誌

<<   作成日時 : 2012/11/26 20:26   >>

トラックバック 0 / コメント 0


ふるさと 生野史  平成11年

P284
大坪地区
地名の由来
『 下関市史 』 (原始−中世編) には「大坪の名は武久湾が北は東駅近くまで、南は刑務所近くまで侵入してツボ(壺) のような地形であったからという説がある。」
とし、
『 山口県地名考 』 には
坪は普通には条里制のこととするものが多いが、この坪はこれとは違うものらしい。 他に「庭」 のことや「よく茸が生える所」、また、中世には土地配分の単位にも使われたらしい。 あるいはツボム、つまり「くぼみ、くぼんだ所」 の地形から出たものかもしれない。」 とある。

※ すなわち大穴牟遅の神


筋ヶ浜
P286
筋ヶ浜の浜石は碁石あるいは盆栽の置石として利用された。
吉田松陰の 『 廻浦紀略 』 に、「筋ヶ浜を過ぎ、大坪金比羅山の狼煙場に登る」 とある。

P289
筋ヶ浜とは、海岸に帯状の筋があったことによるという。

P415
『扶桑記勝』 (貝原篤信) 「筋浜碁石」
『大和本草』 (貝原篤信、宝永5年)
長州赤間関の西北1里、筋ヶ浜と云う所に、天然の碁子の五色なるあり、人工にあらず」
『大和本草批正』 (井岡冽)
筋ヶ浜は、碁石大小各伍をなしてすじの如くなると云う。
五色あり、其の中上品には瑪瑙あり。
饅頭石、長州竹島の海辺すじがはまにあり。
あんのいろ多くは黒し、然れども赤きものもあるなるべし。
外は柔なれども、内のあんは堅きものなり。

※ 筋ヶ浜のすじが入った石から「文石」 という名前を連想する。
岩波文庫 日本書紀(三)  P70
雄略紀13年8月
播磨国の御井隈の人 文石小麻呂
春日小野臣大樹

御井は一杯水のことである。
ふるさと 生野史
P80
筋ヶ浜の一杯水、王城山の背面海岸近くにある ⇒ 御井隈の人 文石
筋ヶ谷の一杯水は戦前まで酒造用に使われていた。

彦島迫・小月にも一杯水の言い伝えがあるという。


P296
大坪栗尾 ⇒ 今昔物語 「近江国の栗太郡に大樹がある」
大坪の小字名「栗尾」
『 御国廻御行程記 』 1742年
栗の尾峠 くりのお山 ⇒ 白雉の麻山か

昭和44年
神田町1丁目 元町 桜山町  となる。

今昔物語集   Wikipedia 巨樹 から
『 今昔物語集 』 巻第三十一 には、近江国栗太郡に柞(ハハソ) の巨樹があったとの伝説が記述されている。
その幹回りは700尋(1260メートル前後) にもなり、朝日の影は丹波国をさし、夕陽の影は伊勢国にさした。
その木はあまりに大きく、栗太郡はおろか、賀・賀の三郡の百姓は田畑を作ることさえできなかった。



P336
藤ヶ谷
Bフジ(藤) をフミチ(経道) あるいはフルミチ(経る道=古道) ということ、ヂはミチ(道・路) であるとして、目的地に向かって「経て行く道」 がフヂ(経道) だという説(吉田金彦 『沼の司祭王額田王』 1993年、毎日新聞社)。
地形から見てこの地区は、武久川流域から楠乃・秋根地区へ抜けるコースに位置していて、楠乃には長門一の宮の住吉神社が在るところから、そこへ至る「フヂ(経道) の谷」 という意味が適当なように考えられる。

※ 「経」 なら岩波文庫 日本書紀(一) P116 の津主神 になろう。

P77
藤ヶ谷平家部落
『 馬関大平記 』  昭和30年
藤ヶ谷の入口に後山という山があってこの竹林の中に平家の墓か、無縁墓が7つ、いつもはだれも近寄らぬ ・・・・
部落のまわりに残る地名が岡田屋敷、古屋敷、セド屋敷、サンダダなど、これはもともと落武者の住宅屋敷地跡、いまはこれも全部田畑になっているが開墾当時は敷石がゴロゴロでた ・・・・

幡生にあった女郎ヶ原古墳も「平家女官の潜伏した退避穴」 で、「丘いっぱいに生え繁っているヤブの中に壇ノ浦敗走の平家女官が潜伏していた」 のだそうだ。 竹ヤブをわけて隣の一帯。 その回りに散らばる数々の無縁墓は一体だれのだろう?


P358
杉森
『 住吉神社文書 』 には、文明13年(1481) に 「六月廿八日 御祓河御神事と号し、社官悉く西海に出仕致し、所々御祓節之。 同末社杉森神前にて御神楽所課以下在之」
「一所貞応壱町恒武名内椙森 平田壱町参段 御夏越祓川御供所課料」
などとあって、杉森(椙森) の神前で、神事を行なっている。


金比羅山
金比羅宮は明治24年砲台建設のため筋ヶ浜海岸から現地に移った。
金比羅砲台は明治44年に完成。
ふるさと本 下関北浦談議   平成元年
P11
金比羅山は3倍も高かった
「  金比羅山は今の3倍も高さがあったということである。
金比羅宮自体、昔はもっと高い所にあった。
明治になって軍隊の用地として整備される時、この山は3分の2を切り取られたということである。
その跡が残っているのは海岸のがけである。
今でも山が崩れているのは、高い山が切り取られ、海の方に捨てられたからである。  」





月別リンク

大坪・武久  地誌 邪馬台国 下関/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる