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プロフィール

ブログ名
邪馬台国 下関
ブログ紹介
土井ヶ浜遺跡から邪馬台国が見える。
日本書紀の阿閉臣磯特牛は特牛
紀臣大音は大音
都努朝臣牛飼は角島
の人であり、下関市豊北町は記紀・万葉・続日本紀の中心場所である。


推古天皇 10年10月
岩波文庫 日本書紀(四)  P92  P93下 注11
陽胡史の祖 玉陳 とは、 名前の字から判断して水晶玉を使う占い師である。

万葉集1780
「牡牛」 は下関市豊北町の特牛である。
野橋は、肥中の束(かりぞく)。


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邪馬台国 交通アクセス

2012/03/27 15:30

中国自動車道
美祢インターチェンジから  車で60分
美祢西インターチェンジから  車で60分
小月インターチェンジから  車で50分
下関インターチェンジから  車で50分
広島から3時間
福岡から2時間

J R
山陽新幹線小倉駅から  山陰本線90分
山陽新幹線新下関駅から  山陰本線80分

空港から
山口宇部空港から車で2時間

下関市豊北町観光協会
観光パンフレット 『 豊北 エメラルドグリーンのときめき発見 』  より



豊北町は2005年2月に下関市と合併した。
忘れられた邪馬台国の場所  下関市の豊北町

「エメラルドグリーンのときめき 邪馬台国発見」 のお薦めスポットは、
角島大橋 角島入口の展望所


邪馬台国(倭国) の観光ホームページ
 http://ww5.tiki.ne.jp/~houhoku-syo/kankou.htm
 http://www.kgh.ne.jp/10/
 http://www.michinoeki-houhoku.jp/index.html


古代には義務教育やマスコミはなかった。
そんな時代に定型である万葉集の伝統文化が保たれたのは県の半分くらいの範囲と思われ、日本列島の津々浦々に万葉歌人がいたとは考えにくい。
万葉集を読めば、万葉集の中心場所は豊北町の角島あたりである。

角島大橋の島戸側入口の小字は「水」 である。
「垂」 (タリ、タラシ) は天皇の名前に関わるものである。

角島に入ると高架の橋があり、その下が沖田遺跡である。
沖田遺跡の場所は原始古代は入江であった。

神功皇后は角島の沖田遺跡の人かもしれない。
角島は海流から中国大陸の物が漂着する。




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つのしま自然館 のペトログラフ岩  

2012/03/26 20:57

シュメール人の文字だというペトログラフは門司の大里と彦島の杉田で見つかっているが、豊北町角島でも見つかっており、つのしま自然館(入場料200円) の入口に現物が設置されている。
解説の紙には、
「 ペトログラフ研究家によれば
Alde 牛
Gud 大地の男神
Nyk 大地母神
と解読でき、祭祀に用いたもの。
島内の夢ア・瀬崎に石囲いの神殿兼避難所を構築し、シュメールの古拙文字を刻んだペトログラフを遺したものと推定 」 と書かれている。
あった場所は角島の西側のようだ。

また最近、謎の人面石も角島で見つかっている。

角島の海岸で中国製の木像2体も浜で見つかっている。
中国人研究者によれば、揚子江の氾濫によって流れ出し、海流に乗って角島の海岸に漂着したものだという。

揚子江の河口から角島に流れ着く海の道があるのか。
もしかしたら角島の者が中国に渡って持ち帰った物なのか。

万葉集292295  角麻呂

雄略天皇 9年5月 
岩波文庫 日本書紀(3)  P62
角臣 ・・・・ 角臣は周防国の都濃ではなくて角島の人である。
平城京出土木簡に「 長門国豊浦郡都濃嶋所出穉海藻 天平18年3月29日 」 
 

都怒我阿羅斯等が来た場所は角島である。


もっと具体的に書きたいのだが、つのしま自然館の人は学芸員ではないので具体的な研究は全くされてない。

角島では鯨が打ち上がる。 海士ヶ瀬で鯨と船が衝突したこともある。



ほとんどの沿岸は漁業権によって一般人の釣りは禁止されている。
角島の海岸では釣りができる。
ただし漁船が係留されている港内では釣りは禁止。
岩場で釣りはできるが、そこにある磯の物(ワカメ、サザエなど) の採取は禁止である。 漁港以外の所で磯釣りはできるが、海藻や貝を採ってはいけない。
釣りのみが許可されている。




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神功皇后大明神  防長寺社由来

2012/03/24 18:47

下関市豊北町神田・神玉
一ノ宮 住吉八幡宮  根崎にある。 神田別府八幡宮とも称した。
二ノ宮 神功皇后大明神  土井ヶ浜遺跡近くにある。

防長寺社由来  第5巻 先大津宰判 神田上村  P181下
に載る記述は興味深い。 その部分を書き出せば、
(付箋表書)
「 神功皇后と住吉ハ御婦夫、八幡ハ中哀天王の由申伝候。 然ハ住吉皇后ハ御婦夫、依之一ノ宮ニ中あいの陵有之候事、八幡ハこうぐうの御帰陣の上御誕生被成候事 」
(付箋裏書)
「 八幡三社ト云時ハ仲哀ハ住吉也、此住吉トこうぐうの御子の八幡ト御座候故三社ト申伝候事 」

応安元年(1368)  その時の宮司の名前は石川隼人佐


宿翁山大権現
一之宮住吉神社の末社  場所は不明
P190上 では宿翁権現石室 とある。

「宿」 の字より、
万葉集の大伴宿祢宿奈麻呂
少彦名命
に関係するかも。
※ 岩波書店 新日本古典文学大系 別巻 萬葉集索引 人名索引
P450右 「巨勢朝臣宿奈麻呂 麻呂にもつくる」 とあり、宿奈=少 である。 

矢玉川上流の根アにある一ノ宮 住吉八幡宮は無人である。
土井ヶ浜の二ノ宮 神功皇后神社の神官が根アの一ノ宮を管理されている。

土井ヶ浜の旧道
国道191号線横に鳥居があり、そこからは入って土井ヶ浜人類学ミュージアム駐車場前に至る細い道が土井ヶ浜の旧道である。




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大音滝 特牛岳

2012/03/24 18:16

人名は地名に因む。
日本書紀の阿閉臣磯特牛(国見)、紀臣大音は下関市豊北町の人だと思われる。 しかし福岡県田川郡赤村にも同じ地名がある。

大音滝  赤村
田川郡赤村字河内山にある滝。 落差15 m、幅約2 m。
特牛岳の北麓、今川の支流十津川にかかる。
豊富な水量が流下し、周囲にはハゼ・クヌギ・スギなどが茂る。
滝壺近くに黄鉄鉱の小石が分布し、付近にはヤマメの養魚場がある。

やや下流には、天智天皇が休息したとき天女が舞いおりて琴を弾いたとの伝承に彩られた琴弾滝がある

この滝は、落差15 mで2段になって流下し、一帯は遊園地になっている。
また大音滝から1 km上流のはじかみ淵には、サンショウウオの一種のハジカミが生息する。


角川の地名辞典 福岡県巻  P264左  より 





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作業用メモ 4

2012/03/23 01:25

履中天皇 4年10月
岩波文庫 日本書紀(二)  P294
石上溝

斉明天皇 2年9月
岩波文庫 日本書紀(四)  P334
渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。

日本書紀によれば、
石上山には誰がいつ掘ったかわからない謎の溝がある。
日本書紀の石上山は下関市(平成合併後の旧豊浦郡域) にある。
狗留孫山の修禅寺が石上山だと思うが、有冨の金鋳ヶ谷(竜王社) の山腹には溝が掘られている。


万葉集1780
「牡牛」 は特牛である。
野橋は、肥中の束(かりぞく)。

万葉集1757
「鳥羽の淡海」
山口県風土誌 豊浦郡神玉村 P40  「(鳥羽)松成」 の小字
そのページに、
津波敷
「 往古海中より龍王神此所へ御上り被成、ツワ(つわぶき キク科) を敷きお休み被成たる故、夫よりツワシキと申習候。 此龍王神上野村の内に森于今御坐候。此所にて旱魃の節は雨乞等仕来候 」
※ 海神 豊玉彦は津波敷の人か。

古事記の 赤海鯽魚(たい) ⇒ 角島と阿川に「鯛の浦」 がある。
阿川の「鯛の浦」 は今の「丸瀬」 「筋ヶ浜」
参照  豊北町史  P1097

仲哀天皇 2年6月10日
岩波文庫 日本書紀(二)  P126
皇后、角鹿より発ちて行して、渟田門に到りて、船上に食す。 海鯽魚(たひ)、多に船の傍に聚れり。
角鹿 ・・・・ 島の田遺跡 または油谷町・日置町。「沖」 は長(おきなが)
渟田門 ・・・・ 油谷町伊上の海底から古代の壺が上がった場所 
         または土井ヶ浜の小字「沼田」    


田耕の小野(浜出祭の厳島神社あり) ⇒ 吉野の小野か。白滝山あり。
白滝山にはツゲ(黄楊) が群生する。
万葉集
1777
3295
2503
4211
4212


岩波文庫 日本書紀(一)  P20
青橿城根尊
山口県風土誌 豊浦郡 宇賀村  P24 に、
寺畑の小名に (青樫) がある。
角川の地名辞典 山口県巻 巻末小字一覧  では
滝部の小字に「青樫第一」「青樫第二」 がある。

豊北町史  昭和47年  P582
神田下の大河村 客大明神社 祭神は愛比売
山口県風土誌 豊浦郡 神田下村  P76 に、
伊予国より神霊来り玉ふ」 とある。
肥中の双子島が古事記の国生み「伊予の二名の島」 である。


山口県風土誌 大津郡 向津具村  P308、309
久津(くづ)  注進案云、昔は久栖と書候由
迫田  粕屋 十日神(とびかみ)
油谷島  日京ノ脇 山 台川 友国
古墓あり。由来書に平家の落人と云ふ。


角島の後浜遺跡では大型アワビの選別がされていた。
選別は大王に献上するためである。
後浜遺跡の場所は夢ヶアで、角島灯台の駐車場北側。
紀伊国の玉津島は角島であろう。 津島→津の島→角島

万葉集は土井ヶ浜、角島、島戸、向津具の歌集である。
ホテル西長門リゾート、角島大橋。 このエメラルドグリーン景色が万葉集だ。
「豊」 は海士ヶ瀬戸の白浪だ。
万葉集1231 の水茎の岡水門は土井ヶ浜 岡林 の沼川水門かも。


http://michinoeki-houhoku.jp/about/index.html
和久に新しくできた「道の駅 北浦街道 豊北」。
カフェテラスから直に見える壁島の海鵜の巣は万葉集359 の安倍島だ。

武庫浦の候補地
@ 吉見古宿の海岸洞窟に神功皇后が武器を隠したという言い伝え
A 矢玉の蜻蛉(せいれい) 橋付近に小字「向浦」


水草は臭くて食べられないが、粟野川の下流では食べられる水草がある。
「青ノリ」 という。玉藻である。





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人魚を食べたら長生き

2012/03/23 00:03

尼宮のはなし  豊北町史  昭和47年  P1101 から

むかし神田上村の岡林の者が、あるところへ頼母子に出かけますと、酒の肴に人魚が出ました。  ※岡林は土井ヶ浜人類学ミュージアムの小字地名
人の話に少女が食べると千年の長いきをするというので、これを持帰って自分の娘に食べさせると、娘は話のとおり長いきをして、のちに尼になり、廻船の船頭になってほうぼう商売をして回りました。

しかしとうとうあるとき、角島の瀬崎と鳩島の間で難船をして死んでしまいました。 それからというものは島の者にいろいろたたりをしましたので、角島から死骸を鳩島に葬り、尼宮とあがめました。

毎年12月29日、島から神主が渡って祭をしておりましたが、ある年神主も島の者といっしょに遭難してしまいました。
それで角島の瀬崎に勧請して祭を続け、神田もありました。
このため、角島と瀬崎・鳩島の間の瀬を尼(海女)ヶ瀬といいます。


防長寺社由来 第7巻  P742上 に載る。


私の推理
少女が千年の寿命を得るために食べた物はアシカの睾丸だろう。
綾羅木郷遺跡からアシカの骨が出土している。


Google で検索せよ
 【  漢方 アシカ 睾丸  】
 【  竹島 アシカ  】

不老長寿の仙薬は漢方薬としてのアシカの睾丸だったのか!?
現在でも漢方薬店でアシカ・アザラシの睾丸が売られている。
弥生集落では男根をかたどった物が出土する。
海神はニホンアシカのキンタマを交易品にしていた ?




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山海経 海外東経の各国

2012/03/22 21:44

長差丘 ・・・・ 福岡市東区香椎 〜 新宮町の立花山。 クスノキ原生林あり。
大人国 ・・・・ 旧津屋崎町 〜 玄海町。 宗像海人
奢比の国 ・・・・ 飯塚市の立岩遺跡、芦屋町の山鹿貝塚 ?
君子国 ・・・・ 洞海湾 ?
虫虫(虹) ・・・・ 小倉の紫川流域。蒲生の虹山
天呉 ・・・・ 門司の大里 〜 小倉北区沖の馬島。 関門海峡
青丘国 ・・・・ 新下関の青山。 伊倉・秋根・石原
黒歯国 
湯谷
扶桑
雨師妾 ・・・・ @考 内日上 赤田代の五年神  A考 狗留孫山
玄股の国 ・・・・ 土井ヶ浜遺跡の「鵜を抱く女」
毛民の国
労民国
※ 平凡社の中国古典文学大系 第8巻  P492下 より

音から、豊浦町の黒井は「コクセイ」 で黒歯(コクシ) と似る。

集英社 全釈漢文大系 第33巻  P437 によれば、
「鳥區」 は水鳥である。発音はイウ ・・・・ 「イウ」 より鵜だろう。 


玄股の国は海人国である。

角川ソフィア文庫 新訂古事記  P70
海驢(みち) の皮の畳八重を敷き
脚注に 「綿津見の神は海獣アシカの皮の敷物を八重に重ねて」

岩波文庫 日本書紀(一)  P180
海驢(みち) の皮八重を鋪設きて

玄股の国の者は「魚(皮) の衣」 を着ている。
クジラかアシカの皮だろう。
アシカは逃げ足が速いので、捕獲は困難である。
アシカの肉は不味いので、食べる部分は漢方薬になる陰茎・睾丸しかない。




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土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム の本 

2012/03/21 22:58

研究紀要 第1号  2006年3月
P36
甲殿遺跡のトンボ玉は中国戦国時代の同心円文環状ガラス断片
P30 下から10行目
土井ヶ浜遺跡からもトンボ玉が出土

研究紀要 第3号  2008年3月
P39 13行目
土井ヶ浜南遺跡で製塩土器
P58
吉母浜遺跡の土坑墓 LG20 から イヌ1頭

研究紀要 第6号  2011年3月
P68
角島の後浜遺跡 (場所は、夢ヶア 角島灯台の駐車場北)
古墳時代後期の貝塚では大型アワビの選択がされた。

P79
宮ノ下遺跡や切畑遺跡では、土錘や石錘が出土している。
宮ノ下遺跡では鉤状の鉄製品が出土しており、釣針の可能性もある。
周辺集落から漁撈具が出土しているため、沿岸での釣漁や網漁も充分に想定される。
宮ノ下遺跡では比較的大型のクジラ類の骨が出土している。




土井ヶ浜の神功皇后神社では事代主神が合祀されている。
顕宗紀の阿閉臣事代は神功皇后神社付近の人である。

八重言代主神  角川ソフィア文庫 新訂古事記 P60注
「 言語に現れる神霊。 大事を決するのに神意を伺い、その神意が言語によって現れたことをこの神の言として伝える。 八重は栄える意に冠する 」


宮の下遺跡の クジラ、土井ヶ浜南遺跡の製塩土器から、
万葉集2933 の楽浪の志賀の韓ア は宮の下遺跡である !!!

天智天皇の「石走る淡海国」 は宮の下遺跡である。
土井ヶ浜南遺跡の近くに小字「戎沖」(えびすおく) がある。
また「大平山」 という山もあったような覚えがある。

土井ヶ浜遺跡一帯は古代の祭祀場だった。卜占と言霊神託の場所である。
弥生時代は黄泉の国であった。
オノゴロ島も土井ヶ浜遺跡近くか。

土井ヶ浜遺跡を流れる川は沼川である。
古事記に、
高志の沼河比売
神沼河耳命
万葉集3247 の沼名河


豊玉姫、玉依姫、豊玉彦の場所 の候補地は、
@ 考 名前は地名に因むので、土井ヶ浜は海神の宮の候補地になる。
「貝の道」 の要衝である土井ヶ浜は豊玉彦の地。
A 考 福岡県 旧津屋崎町〜玄海町は山海経の大人国と思われる。
宗像市から丹後半島まで、弥生の土笛(陶塤) が出土する。


『 日本人と弥生人 』   祥伝社NON BOOK 著者 松下孝幸館長 平成6年
P75
土井ヶ浜遺跡の人骨には渡来系の特徴しかなく、在来の女性と混血した可能性が極めて低い。 この傾向は吉野ヶ里遺跡でも見られる。
P76
土井ヶ浜に渡来した人々は弥生時代中期には少しずつ土井ヶ浜から去ってゆき、後期にはほとんど姿を消してしまう。
P78
「貝の道」 ― 貿易ルートの要衝だった土井ヶ浜
P80
海流を見ても、日本海側の波と響灘の波がぶつかり合うのが、まさに土井ヶ浜の北にある附野(つくの) 付近である。
P123
徐福とは、秦の始皇帝の時代の方仕(占い師)と言われる人物の名前である。 かつては中国でも伝説上の人物と言われていたが、最近の調査では少なくとも、彼が実在したことだけは間違いないことが判明した。
P140
釜山の礼安里から4 〜 7世紀頃の人骨がかなり出土した。 日本の古墳時代にあたる時期のものである。
北部九州から人が朝鮮半島に渡った結果かもしれない。


「英雄」 人骨はシャーマン、「鵜の女」 もシャーマン、貝輪も呪術。
土井ヶ浜遺跡周辺は弥生時代中期までは黄泉の墓場、古代 〜 中世は祭祀場だった。 古代の祭祀呪術の場所である土井ヶ浜遺跡周辺は方士徐福の渡来地である !!!


「鵜を抱く女」 から山海経 海外東経の玄股の国
玄股の国はその北にあり、その人となり(股は黒く) 魚(皮) の衣をきて鷗を食う。二羽の鳥を使い、(それを) 脇にかかえている
平凡社 中国古典文学大系 第8巻  P492下

隋書俀国伝の「俀」 は土井ヶ浜の「土井」 と音が似る。
隋書俀国伝に、
小さい環をのくびにかけ、水に入って魚を捕えさせ、日に百余頭は得られる。





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宇賀本郷  なぎなた岩

2012/03/21 21:02

JR 宇賀本郷駅 付近の国道191号線を車で走りながら鯖釣山の断崖海岸を見ると、「あれは何だ!?」 と見て気になる塔のような岩が海岸にドーンと突き立っている。 その岩を なぎなた岩 という。 祠や伝説のようなものはない。

地元の人たちの中には子供の頃、なぎなた岩 に岩登りした人もいる。
干潮時に なぎなた岩 に行けるが、崖崩れが起きているので、なぎなた岩 に行くのは危険である。

壁島は壁岩ともいい、地元では竜宮といっている。

宇賀本郷の大専寺後ろの山を頂上付近まで登ると、玄海灘の沖ノ島が真西に見え、春分・秋分の日には太陽が真西の沖ノ島に沈む

2012年 (平成24年)
春分の日 3月20日
秋分の日 9月22日

干潮時に大専寺の駐車場から夜は沖ノ島灯台の光が見える。
最近は海上に光が多いので、どれが沖ノ島灯台の光かわからない。

国土地理院 地図閲覧ホームページで緯度を測れば、
沖ノ島の灯台  北緯34度14分39.6秒
二見の夫婦岩  北緯34度14分33.6秒
夫婦岩と二見トンネルの中間が沖ノ島灯台の緯度である。




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作業用メモ 3

2012/03/21 12:09

天武天皇下 14年10月10日
岩波文庫 日本書紀(五)  P212 終わりから2行目 
益田直金鐘を美濃に ⇒ 島根県益田市の美濃地町

瀛州は向津具だ。
「東海」 の場所は沖ノ島の真東である。
川尻岬の玄武岩には地磁気逆転現象がある。


推古10年4月1日 の嶋郡は北九州市若松区

岩波文庫(四)  P124 後ろから4行目
路子工 ⇒ 杢路子
同 P166 5行目 錦織首赤猪 ⇒ 杢路子の小字「赤猪」

都努朝臣牛飼
天武14年5月26日
同14年9月15日
都努臣牛甘
天武13年4月20日
「牛飼」 より角島の人である。
延喜式の諸国馬牛牧のうちに「長門国角島牧」 とある。
※ 都努と「都」 の字が使われている。 角島と都は近い。
岩波文庫 日本書紀(五)  P197上 注4 参照せよ

角国  雄略9年5月 

地名の高向は福岡県宗像郡 旧玄海町田野にある。



秦の緯度
秦咸陽34◦20’N

咸陽博物館
緯度:34.43

兵馬俑坑
緯度:34.57

秦始皇帝陵
緯度:34.45


津波敷の高木山  北緯34度16分18.3秒
田耕神社  北緯34度16分21.6秒
土井ヶ浜遺跡  北緯34度17分36.6秒  


山口県風土誌  豊浦郡 神玉村
P40
大谷合(おおたにやひ
土井(とゐ)ヶ浜  ※ 清音である

矢玉に小字「向浦」 がある。

P52
御崎神社
祭神
注進案には保食神、由来書には玉依姫、本文は豊受比売命とす。
『豊北町史』 P581
相殿 彦波武鸕茲鳥草葺不合尊 と記載されている。

P53
神田上村 古墳2基(石壟、五輪塔高3尺余) 仲哀天皇の御陵と云ふ。





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瀛 と 向津具

2012/03/20 14:30

『 宗像市史 通史編 第二巻 』   平成11年  P8 より

「瀛」と道教

書紀による宗像神出生神話

(A) 『記』・『書紀』 本文
(B) 『書紀』 第一・第三の一書
(C) 『書紀』 第二の一書
 ・ ・ ・ ・ ・
遠瀛(おきつみや)と中瀛(なかつみや)の表記をもつ(C)

(B)は女神の降臨を述べ、葦原中国での任務について第三の一書は、「葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。号けて道主貴(ちぬしのむち)と曰す」と単に所在場所と名称を伝えるに止まっているが、第一の一書は「道の中に降り居して、天孫を助け奉りて、天孫の為に祭られよ」とあるように天孫が強調され、一段と王権のイデオロギーが前面に現れているのである。

更に注目されるのはオキツシマヒメのオキに「奥」ではなく「」の字が使用されている点である。
瀛の字は『書紀』では極めて限定された文字で、使用例は二神誓約の段以外では日向神話の海宮遊幸の段の「瀛風」(おきつかぜ)、孝安天皇の母の兄の尾張連の遠祖「瀛津世襲」(おきつよそ)の名と天武天皇の和風諡号(しごう)「天渟中原真人」(あめのぬなはらおきまひと)のみである。
瀛は音はエイで、海や大海原の意味があって、これらの神話での使用内容や天武が大海人皇子といわれた点からは妥当な用字ともいえる。
しかし、は道教では東海中にあって神仙が住むという蓬莱・方丈と並ぶ三神山の一つの意味があり、真人も道教では悟りを開いた人のことをいうのである。
このようにに道教的要素が強いことを勘案すれば、その確実な使用は天武天皇の和風諡号にあるといわねばならず、『書紀』神話にみえる瀛の字は天武朝=7世紀後半以降の使用と考えることができる。   ・ ・ ・ ・ ・


『「日本」国はいつできたか』 改訂版  大和岩雄著  1996年  P77より

『史記』封禅(ほうぜん)書には、戦国時代の斉国の威王や宣王、それに燕国の昭王が人を派遣して、東海上にある神仙の住む蓬莱・瀛州・方丈の三神山を探させたという。
図4(『広輿図』所蔵 「東南海夷絵図」)では三神山の瀛州の近くに扶桑が記されている。
扶桑は朝日の昇る樹だから、中国大陸の南端から真東の極東に描かれている。
1402年に朝鮮でつくられた「混一疆理歴代国都之図」でも、扶桑と瀛州は、日本列島の南にくっつくように並んで位置している。




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向津具の楊貴妃伝説 と 陽侯(楊胡) 氏

2012/03/19 22:03

岩波書店 新日本古典文学大系 続日本紀
@292上 補注1−140  陽侯史 について解説がある。

陽侯 ・ 陽胡 ・ 胡 ・ 侯 は同じとされる。 楊(やなぎ)


推古天皇 10年10月
岩波文庫 日本書紀(四)  P92  P93下 注11
冬10月に、百済の僧 観勒来けり。
仍りて暦の本及び天文地理の書、并て遁甲方術の書を貢る。
是の時に、書生34人を選びて、観勒に学び習はしむ。
陽胡史の祖玉陳、歴法を習ふ。
大友村主高聡、天文遁甲を学ぶ。
山背臣日立、方術を学ぶ。
皆学びて業を成しつ。


手元の古い広辞苑で意味を調べたら、
方術 ・・・・ 神仙の術
遁甲 ・・・・ 人目をまぎらわして身体を隠す妖術。忍術

陽胡史の祖 玉陳 とは、
漢和辞典で「陳」 の意味を調べて、水晶玉を使う占い師であろう。
漢字の「陳」 ・・・・ ことばを述べる、示す。 陳述、陳言
百済の僧 観勒が教えたものは仙術であり、卑弥呼の鬼道を連想する。
陽侯(陽胡 ・ 楊胡 ・ 楊侯) は卜占の氏である。

※ 参考にしたサイト紹介
Google で検索せよ   【  楊氏 巫女史  】


油谷町史で向津具の小字地図を見て、
字「柳ヶ迫」 が楊胡氏の居住地であろう。

私見では伊勢は油谷島である。
B79 の中臣伊勢連大津は向津具の大浦の人で、陽侯氏と家が近い。

陽侯氏には陽侯女王という、名前に「女王」 がつく人がいる。

続日本後紀で、
承和11年10月4日
講談社学術文庫 続日本後紀(下)  P159
楊津連弟主・楊津連継吉に恒世宿祢を賜姓した
向津具の津 ⇒ 恒世 である。
恒世とは漢字の「久」 である。 恒久、不老長生。

万葉集の「久方乃」 「久堅乃」 は向津具の津かも。
久津には字「山戸」 がある。 昭和15年より「大和」 と表記される。
向津具本郷には条里制がある。

向津具は荘園時代に向(むかとく) と書かれた。
天平10〜19年の
・大養
に通じる。


六国史は平安時代のものでも山口県倭国時代の史料で書かれてある !!
『日本文徳天皇實録』  天安2年正月7日
文室真人高岑 は向津具の小字「高峰」 の人 ・・・・


尾張(愛知県) の熱田神宮に楊貴妃伝説があるなら、向津具は尾張だろう。
向津具の小字「本郷厚矢」 か。

油谷町史は必読です。



陽侯氏
淮南子 巻三  天文訓
太陽は暘谷からあらわれ、咸池で水浴びし、扶桑の野を過ぎる。
新釈漢文大系 第54巻 淮南子 (上)  明治書院  P162
※ 「暘」 は「陽」 に同じ。


同 巻四  墜形訓  P208
扶木は州に在り。
P209 の語釈に
扶木 扶桑ともいい、湯()谷の南、東海上にある想像上の神木。 日出の所とされる。

向津具本郷に小字「棫木」(だらぎ)
油谷島に小字「槍ノ木」




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下関市  伝説の地 杢路子

2012/03/19 12:58

下関市
豊田町杢路子の和泉式部伝説
菊川の「小日本」 伝説
川棚の小野小町伝説
は馬鹿にできない。
伝説の場所は杢路子である !!!

参照すべきサイトの紹介  観光協会
http://www15.ocn.ne.jp/~toyotask/furusato/top.html
http://www.toyoura.net/charm/history/komachi/index.html


田耕の甲殿遺跡(紀元1世紀ごろ) から山東省のものと成分が似るガラス製のトンボ玉が出土した。鉛とバリウムが多く含まれているのが特徴である。中国製のトンボ玉は戦国時代からにかけて製造されたものである。
参照
『珈琲タイムの考古学』  著者 山口県埋蔵文化財センター所長
Google で 【  田耕神社 甲殿遺跡  】 を検索

土井ヶ浜遺跡の人骨は山東省の人骨と似る。
甲殿遺跡から出土したガラス製トンボ玉は中国の戦国時代 〜 の時代に製造されたものである。
豊北町の弥生人は中国山東省からの渡来人だ。 徐福も考えられる。

第1回遣唐使の犬上御田鍬は田耕(たすき) の人だろう。
綾羅木川上流の小野には小野妹子の縁者が立ち寄った伝説がある。


粟野川は杢路子を経て御嶽(狗留孫山) を水源としている。
杢路子には小字「「官族原」 がある。
場所は郷ヶ迫川との合流点であり、ゼンリン地図に官族原橋がある。

記紀の高天原は狗留孫山 修禅寺だ。
Google で、
【  狗留孫山 御嶽  】 などを検索すれば参詣者の記事が読めます。

記紀の「天」(あま) の場所は御嶽(狗留孫山) だ。
日本書紀 仲哀紀の神託「天津水影」 とは狗留孫山の「手鏡の堤」 だ。


油谷町向津具の楊貴妃伝説も馬鹿にできない。
楊氏は神託の巫女と関わる。
Google で 【  楊氏 巫女史  】 を検索




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萩市の地名 

2012/03/16 12:18

川島
土原 (ひじはら)  弘法寺
御許
平安古 (ひやこ)
堀内
津守町 ⇒ 津守連

椿東 (ちんとう)
香川津 江 大渡 田ノ浦 越ヶ浜 奈古屋
※ 万葉集4116  鶴が鳴く奈呉江
@考 歌は小字地名に因むとみて椿東
A考 奈古の鶴ヶ嶺八幡宮

椿
田村 長羅 青海 桜江

大井
奈柄(ながら) 奈口 唐ノ嶋 高津こふ 長浜 大渡
猪ノ熊 堀 天上 住吉 屋 坂本 大寺 両家 


難波長柄豊碕宮の「長柄」 という地名は小字では、
萩市の椿と大井にある。

萩には天女が現れたという弘法大師伝説の温泉がある。


奈古漁港の浦に小字「天津」 がある。 地元の御老人によれば海女(あま) さんがいたから天津というらしい。
⇒ 万葉集4169  奈呉の海部の潜き取るという真珠の

「考古学による知見」 から言えば、「潜水漁の海部」 の場所は福岡県宗像市の神湊にある浜宮貝塚(古墳時代後期) である。
越の呉は牟田尻の小字「奈良」 または名児山か。
万葉集では越は「之」 「志」 と書かれ、歴史が古い地域である。
参照すべきサイトの紹介  むなかた電子博物館 
http://d-munahaku.com/news/dtl.jsp?kid=91482&cgid=1001%5D%5B1002



萩市の大井
『山口県風土誌』  阿武郡 大井村  P325 より
名義
不知。 延喜兵部省式長門国駅に阿武。 また和名鈔本郡郷名に阿武とある本村の事なり。 海外にもはやく聞えたる地名にて図書編に倭委と見えたり。

大井には弥生〜古墳時代の集落遺跡である宮の馬場遺跡、大井大寺廃寺遺跡がある。
大井は王居(ワウヰ)  『奈古の歴史』 大島康正著 P41


岩波文庫 日本書紀(四) に百済大井
敏達 元年4月   P16
皇極 元年5月24日   P192

敏達 2年7月朔   P22
越海 大嶋首磐日
萩市沖の大島か。 それとも長門市・向津具の「大嶋」(場所は不詳) か。


阿武町の奈古に「鹿島」 がある。 椿東の香川津を「加賀」 とみれば、萩市の海岸部の地名は石川県と似た感じがある。
万葉集は萩市も含めた山口県山陰沿岸の歌集である。




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豊北町史 二

2012/03/15 12:09

豊北町史 二   平成6年
「地名と所領」  P114 〜 123  より


田耕村
古くは大須岐とも書いた。

大田
旧地名は杉原で、のちに開作ができて改名した。

宇賀(上・下畑)
上・下畑は岳ノ畑上下とある。
荒津(宇賀本郷) の五本松に六万坊の鎮守

滝部村
応永9年(1402)、公文に氏がいた。 師氏は阿武郡牛牧庄にもある。
在地の支配者は師氏である。 ⇒ 倭国王 升等

中原村
中ノ原

矢玉
応徳元年(1084)の記録に、大物浦弥玉がある。
大物浦というは矢玉の旧名で、海を恐れかしこむところから名付けられたものであろう。
永久3年(1115)に滝ノ庄から荒津庄が分かれた中に弥玉があり、正安元年(1299) には酉(とり) の庄弥玉とある。
酉の庄が荒津庄の古名であろうか。

神田別府
神田と神田別府が分けられていた。

神田
文明10年(1478) の記録に地名「国衙」 がある。
肥中との関係もあって、当時まで国衙(律令制による政庁) に所属する土地があったのであろうか。

肥中
江戸期の記録では「ひんじゅう」 「びんしゅ」 などと書かれている。
海東諸国記では「賓重」 「賓任」 (これは住の字が任となったのであろう)

応仁2年(1468)、奇瑞が現れたというので、「長門州賓重関太守藤原朝臣義長が朝鮮に使を遣わした」 とあり、同書の地図に「賓任浦」 とある。
当地は大内盛見が山口の道場門前から肥中の街道を設け、朝鮮貿易を進めるにつれて肥中は重要視され、大内氏の船倉も設置された。
毛利氏の代となっても当地は直轄領だった。
文禄の役には竜山城付領の元氏の配下が肥中港から渡海した。

島戸
入口・渡り口の意味。
※ 万葉集304  筑紫の嶋門 は豊北町の島戸 ?
豊玉姫・玉依姫の海神の里は島戸の住吉 ?
浦島太郎も島戸 ?


角島
『長門金匱』 には「津の島」 とある。 ⇒ 古事記 国生みの「津島」
井王家の系図によると、百済王の子孫が角島に漂着したという。
⇒ 武烈紀の嶋王か。  岩波文庫 日本書紀(三)  P156

阿川別府
阿川は阿河(あこ) の変化説
阿川は阿皷(あこ) の浦という別称がある。
室町期に阿邑

粟野村
往古は深山で木材が多く、諸国から材木を買いに来る者が多かった。
近世では青野と書いたものもある。




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自説 8

2012/03/15 09:10

下関市の考古学関係者は下関の原始古代は日本の端の場末(ばすえ) と言う。
ところが豊浦町の湯玉が 『山海経』 『淮南子』 湯谷・扶桑の「日の本」 だった。

湯玉の地名由来は『山海経』 『淮南子』 の湯谷である。
扶桑の場所は湯玉である。 犬鳴川に小字「扶桑」 がある。 

日本書紀 天武天皇上 元年7月23日 の 金綱井 は湯玉の小字「金綱」 である。
Google で検索  【  下関市豊浦町大字宇賀字金綱  】
場所は宇賀漁港。
金綱井は高市郡にある。
記紀・万葉の高市郡が豊浦町の湯玉にあったなら、小墾田宮も湯玉にあったことになり、聖徳太子は湯玉に住んでいた !!!!

出雲の大国主神の都は下関市豊北町の矢玉である。 根拠は古事記の櫛矢玉神による。
志賀島金印の漢委奴国は矢玉で、「倭国の極南界」 とは豊北町の神田岬。
豊浦町の宇賀は宇迦。 矢玉の海は好漁場で飫宇。


狗留孫山修禅寺 のホームページ 「当山歴史紹介 」 はぜひ見ていただきたい。
邪馬台国は下関市豊田町 杢路子 の 狗留孫山 修禅寺 である。
菊川の「小日本」 話の舞台は杢路子である。
川棚の小野小町伝説・和泉式部伝説も杢路子である。


緯度 ・・・・ おおまかに Google 地図 が見やすい。
狗留孫山 山頂  北緯34度12分52.4秒  国土地理院 地図閲覧ホームページ による。
矢玉 斎八幡宮  北緯34度16分28.2秒  同上。 小字「高麗」 は「楽浪の志賀のア」 の場所である。
土井ヶ浜遺跡  北緯34度17分36.5秒  同上
沖ノ島  北緯34度14分38.9秒  同上 
西安  北緯34度16分  Wikipedia による。
洛陽  北緯34度39分  同上

日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや、云々」
西安の緯度と一致する。 これが扶桑の日本の意味である。
暘谷の谷に因む玉が神仙郷 「日の本」の場所である。

中国の原始的地理書である『山海経』 『淮南子』 に記述された神仙 「扶桑」 の場所は、下関市 響灘側の
豊浦町の 宇賀 ・ 湯玉
豊田町の 杢路子
豊北町の 矢玉 神玉は神田と矢玉の合成地名で、古い地名ではないらしい。  
ここが邪馬台国(倭国、日本国、漢委奴国、祖州) の位置である。

※ 湯、矢、神と「玉」 がつく地名なので、「水行20日」 の投馬(たま) 国である。


「天」 である高天原は狗留孫山 修禅寺で、石上振宮は修禅寺の霊石、榎井氏は榎木原橋の人である。
修禅寺の奥の院の滝は香山の泣沢女で、万葉集22の河上の湯都盤村である。 狗留孫山の池は香山の池である。





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珈琲タイムの考古学

2012/03/14 19:11

『珈琲タイムの考古学』  1994年
山口県埋蔵文化財センター所長(当時) 著

P67 〜 72
耳にたこができる話
土井ヶ浜 弥生時代の300体あまりの人骨の約4人に1人に外耳道骨腫があった。 原因は長い間潜水によって冷たい水の刺激を受けたためではないか。


P42 〜 45
海を渡ってきたガラス
田耕(たすき)  甲殿遺跡の紀元1世紀ごろの弥生住居から トンボ玉 が発見された。 中国独特のガラス成分で作られており、成分的に似通っている類例は 山東省 魯国故城跡 から発見されたものである。
日本では壱岐の原ノ辻遺跡でトンボ玉が出ている。
徐福と関係ある?

徐福が不老長寿の薬があると始皇帝に上書したのは紀元前219年
弥生時代が始まった頃である。

土井ヶ浜や田耕の甲殿遺跡の弥生人は徐福一行の人たちかも。


以上、本より要約。



私見 ・・・・ 土井ヶ浜遺跡から邪馬台国が見える !!
『珈琲タイムの考古学』 を読んで得た着想として、
@  土井ヶ浜遺跡の弥生人は潜水漁をしていたなら、魏志倭人伝に書かれた「今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え」 に通じる。
A  田耕の甲殿遺跡から出土したトンボ玉は山東省出土のものと成分が似ており、土井ヶ浜人類学ミュージアム(松下館長) の研究結果である「土井ヶ浜弥生人のルーツは山東省」 と一致する。

土井ヶ浜遺跡の弥生人骨は中国山東省の人骨と酷似している。
土井ヶ浜での貝製品の加工法も原始時代の中国的だ。
先年発見された片瀬遺跡の水田跡は山口県内では最古である。

土井ヶ浜の弥生人が徐福一行(の末裔) なら、土井ヶ浜の弥生人骨は特殊な人たちである。 土井ヶ浜人類学ミュージアム(松下館長) による「弥生人のルーツ」 研究は、じつは「中国渡来の特殊な人たち=徐福集団」 のことだったとなり、「日本列島の弥生人一般」 と結びつけられない。
土井ヶ浜遺跡は特別特殊特異であり、一般化できない。


記紀・万葉には下関市豊浦町宇賀から豊北町粟野にかけての地名が散見する。

阿閉臣磯特牛 ⇒ 特牛
紀臣大音 ⇒ 阿川の大音川
万葉集359 の安倍島 ⇒ 和久 海鵜の巣である壁島
古事記の櫛矢玉神 ⇒ 古くは大物浦と称した矢玉

下関市豊北町は記紀・万葉の中心場所である。




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猛虎退治  豊北町神田

2012/03/14 18:36

よしみ史誌  昭和60年  P549

矢玉浦  現在の豊北町矢玉
矢玉と申は往古大国の浦と申し候由、その以後、神田中村土井ヶ浜にて神功皇后蒙古退治の時分、当村より矢と玉と差出申したるよし。
その故、矢玉と申習候由、地下人申伝候事
   出典 『地下上申』   庄屋 宗像又左衛門

神田村  現在の豊北町神田
右釜蓋村の儀は、往古異国より猛虎大軍を率し責(せめ)来候節、神功皇后毒酒を作り猛虎の醉を以て退治仕給う時、亀壺の蓋を此村より調出候故、其いんゑんを以て亀蓋村と往古は申之由、それを言誤りて釜蓋村と申ならわし候由申伝候事

湧浦
但、往古異国より猛虎責(せめ)来候節、神功皇后此浦にて毒酒を作り給う時、その毒酒立待(たちま)ち能(よく)湧立申したる由、其のいんゑんにて湧浦と申ならわしたる由申伝候事


参照せよ
山口県風土誌  豊浦郡 神玉村  P40 




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香山  石上山

2012/03/14 12:55

斉明天皇 2年9月
岩波文庫 日本書紀(四)  P334 後ろから3行目
田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。
復、嶺の上に両つの槻の樹の辺に、観を起つ。
号けて両槻宮とす。 亦は天宮と曰ふ。
時に興事を好む。
廼ち水工をして渠穿らしむ。
香山の西より、石上山に至る
舟200隻を以て、石上山の石を載みて、流の順に控引き、宮の東の山に累ねて垣とす



斉明6年5月8日
岩波文庫 日本書紀(四)  P358 後ろから2行目
石上池の辺に、須弥山を作る。


万葉集257 では香山に池がある。
日本書紀の斉明紀では石上池があり、香山と石上山は異なる。

狗留孫山の山頂北にある「手鏡の堤」 は淮南子 天文訓の 咸池 である。
また、川棚の三恵寺の小池も咸池に見立てている。

田身嶺の「冠らしむるに周れる垣」 とは鬼ヶ城山の石塁のことか。




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荒田  日本書紀

2012/03/14 12:22

吉川弘文館 日本書紀索引 平成6年 第7刷  で「荒田」 を調べて
岩波文庫 日本書紀  の該当ページ  を示す。


忍海造荒田
天武10年4月12日  (五)170

倭漢直荒田井比羅夫
大化元年7月14日  (四)244  245注 参照せよ
同 3年是歳  (四)294 3行  P292 に小郡宮 ⇒ 小郡町か  
白雉元年10月  (四)316   4行 に漢山口直大口 ⇒ 山口市か  


荒田皇女
応神2年3月3日  (二)192

荒田尾直赤麻呂
天武元年7月3日  (五)92


荒田尾連麻呂
天武14年10月10日  (五)212 最後の行 
※ 「益田直金鐘を美濃に」 ⇒ 島根県益田市の美濃地
益田の地名は古く、和名抄に益田郷がある。
益田市は遺跡・古墳が多い。
  

荒田別
神功49年3月  (二)178
同 50年2月  (二)180
応神15年8月6日  (二)206


記紀・万葉には下関市豊浦町宇賀から豊北町粟野にかけての地名が散見する。

阿閉臣磯特牛 ⇒ 特牛
紀臣大音 ⇒ 阿川の大音川
万葉集359 の安倍島 ⇒ 和久 海鵜の巣である壁島

荒田は特牛と和久の間にある 荒田川




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有間 の場所

2012/03/13 23:40

岩波 新日本古典文学大系 別巻 萬葉集索引 地名索引 によれば、
有間 ・・・・ 神戸市北区有馬町
461
2757
3064

有間山 ・・・・ 神戸市北区有馬町の有馬温泉近辺の山
460
1140

正統派の万葉集学者による地名場所の比定はオカシイ。
私は歌より、佐保から有間山の雲居が見えると推論した。


岩波文庫 日本書紀 (四)
有間温湯
舒明3年9月19日  津国の有間温湯  P174
同9年10月  有間温湯宮  P180
同11年正月8日 温湯  P180
同11年正月11日 有間   P180
大化3年10月11日  294 
同3年12月晦 温湯  有間温湯⇒武庫行宮   P294

古事記
在岡    岩波文庫 古事記 P190 葛城山  歌謡番号98
※ 「在岡」 は有冨の丘陵ではないか。

※ 雄略記では「日下の直越えの道より河内に幸行」 とある。
新幹線 新下関駅 正面玄関前の小字は「満」 である。
ここが「河内の幾」 か。


有間温湯の場所が見つからない
@案  山口市の湯田温泉を有間とみて、仁保川を佐保川とみる。
万葉集460  足木 「氷」 は氷上 とみる。

A案
下関市 吉見温泉センターから林道を40メートル上がった所に小字「有ノ木」


B案  下関市有冨に小字「津の地」。 隣の小字は「国分寺」。
場所は秋根新町 新下関公団住宅横の汚水処理場。
綾羅木川は曲がって秋根古墳の下を流れていたが、洪水対策のため川筋が直線にされた。公団アパートの場所も有冨だった。 
「津国の有間温湯」 は温泉ではない? 銭湯・ヘルスセンターか。

佐保は砂子多川流域の勝山小学校の丘陵地と思える。
砂子多川の旧称は沙川。古事記では佐保は本と書かれる。
有間山は秋根古墳の小丘陵か、有冨古墳がある山(サンヨーの近く)。
新羅帰化人尼を火葬した場所は勝谷神社付近とみた。


豊北町の海岸
和久温泉 ・・・・ 和久の「海鵜の壁島」 解説看板の場所に昔温泉があった。
鉄分が多く、使ったタオルが黄色になったという。

津波敷温泉 ・・・・ 一泊 11600円くらい。


有間浜
斉明天皇 4年4月
岩波文庫 日本書紀(四)  P338 後ろから4行目



女が奈良県の山奥から神戸市の温泉に行っていたとは思えない。
石川命婦は病気療養のために温湯に行ったのだから、遠くへは行けない。
途中に関所もあろうし、不可能に思える。




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舒明天皇 の 宮都

2012/03/13 09:09

角川日本地名大辞典 別巻資料   P68  より
日本書紀
飛鳥岡本宮
田中宮
有馬温湯宮
伊予温湯宮
厩坂宮
百済(大)宮

古事記
岡本宮

備考
高市崗本宮



日本書紀の記述では「有馬」 でなく「有」 である。

奈良県の奥地に住む舒明天皇が愛媛県の道後温泉に行幸したはありえない
正統派文献史学者による解釈はオカシイ。 道程距離からみて実行不可能だ。

奈良県山奥地の飛鳥から神戸市の有馬温泉への行幸も距離があって遠い。
これもリアリティがない。実際可能性がない。


高市は豊浦町の宇賀漁港なので、舒明天皇は湯玉の人になる。
津国の有間温湯は湯玉の近くである。
国より波敷温泉か。




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日本後紀  森田悌 他 

2012/03/13 08:07

嵯峨天皇 大同4年6月10日
集英社  日本後紀  P489

摂津国をして頓宮を造らしむ。 伊勢の斎内親王の京に帰るを以てなり。


巻末の補注 P1242  によれば、
「  本来ならば伊勢斎王の帰京の経路に摂津国は含まれないが、三代実録元慶5年正月条に退下する識子内親王が大和道より山城国河陽宮を経て摂津国難波海で祓除する旨の官符が両国に下されたことがみえることを勘案するならば、大原内親王も難波で祓除した後に入京したか。 」
と解説されている。


道順が、 伊勢(三重県) ⇒ 摂津国(大阪市) ⇒ 平安京(京都市) である。
紀伊半島南端の潮岬を経て、海路で帰京したのか??


実は、この場所は山口県。
平安京の時代でも記述は、
伊勢 ・・・・ 油谷島  油谷島中央の小字は井上内親王の「井ノ上」
摂津国 ・・・・ 豊北町の島戸・肥中  島戸に住吉八幡宮あり


邪馬台国の位置発見に集英社の日本後紀は参考になります。




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山口大学  吉田遺跡

2012/03/12 21:22
Google で検索   【  山口大学の遺跡  】  PDF

肥中街道の起点は山口市中心街の道場門前で、道場門前は古くは十日市とも称した。 の坂川が流れる。 ⇒ 邪馬

大内氏の「大内」 とは内裏の意味である。

山口市 仁保上郷の小字「郷」 は吉野の国 とすれば、山口大学キャンパス内の吉田遺跡は吉野か。
また仁保上郷の最上流の地名が「坂」 なので、葛城高宮ともみれる。

山口市には湯田温泉がある。 源泉温度は64 - 73度C
吉野に温泉があるとは記紀・万葉に書いてない。


六国史の温泉をネットで調べる  
http://onsen-yumeguri.info/onsen/onsen03.html
日本後紀に温泉の記述はない ?
天武天皇下 14年10月10日 
岩波文庫 日本書紀(五)  P214 1行目
束間温湯 が記載されてない。


強引に湯田温泉を津国の有間温湯とみることにする。
神武遠征の熊野の神邑は山口市の熊野町で、権現山の麓にある。
熊野の有馬=有間温湯
※ 有間温湯は主に舒明紀。 吉川弘文館の「日本書紀索引」 を参照せよ。
摂津国と津国は異なる ?

津国は小郡町の津市を拡張させて、古代は湯田温泉近くまで海が迫っていたとみる。
難波は豊北町の肥中だけでなく小郡町も難波として書かれているとみる。



魏志倭人伝の投馬国は下関市山陰側(豊浦町・豊北町) の湯・矢
邪馬台国は、豊北町の肥中に上陸して、山口県を東西に横断する 肥中街道を行き、陸行1月 で山口市中心街に到着。

邪馬台国時代の
肥中街道の終着点は 山口大学キャンパス内の 吉田遺跡 !!
だったとみれる。

楢(奈良) は秋芳町の国秀遺跡
平城京は山口大学キャンパス内の吉田遺跡



邪馬台国への陸路が判明した。
魏志倭人伝の「陸行1月」 は肥中街道である。




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肥中漁港

2012/03/11 18:46

角川の地名辞典 山口県巻   P702右
1988年

肥中漁港
豊浦郡豊北町神田字肥中(ひじゅう) にある第2種漁港。
響灘に面し、西長門海岸の溺れ谷に立地する港湾。
古くは肥中湊として知られ、「注進案」 には、「南風・東風当り海浅く、繋船して交易はできない」 とあるが、漁船の係留には不便はない。

天然の良港として、室町期には海上関があり、大内氏時代には朝鮮との交易も実施された(街道諸国紀)。

天正14年豊臣秀吉九州征討には阿川毛利氏の諸氏が肥中湊から出陣し、文禄・慶長の役にもこの湊から出兵した(阿川山県家文書)。

萩藩では、承応3年北浦物見番船2隻を肥中に置き、肥中番所は江戸期を通じて北浦の警備や諸廻船の取締りに当り、明治3年廃止された。
肥中湊は、幕末には港が埋まり、南の特牛湊にその地位を譲った。
古くから釣り・延縄などが伝統的に行われ、近世には地引網などの網漁業、また元禄10年には島戸浦と共同で捕鯨も行った。

「注進案」 には、肥中・特牛両浦の漁船31隻とある。
昭和60年の漁業実績は、年間漁獲高45 t、漁獲額4600万円、漁船数51隻はすべて5 t未満の小型船で、磯建網・ウニ採取業・釣漁業を主とし、主な魚種はブリ・イカ・ワカメ・ウニ・サザエ。
漁業組合員数は166人、うち正組合員数88人(港勢調査表)。




難波宮は豊北町 肥中にあった。
「山口県の地名」 平凡社  を参考にすれば、
肥中街道は山口市の道場門前から山陰側の肥中に至る主要路であり、大内氏時代の肥中は朝鮮との貿易港だった。
海東諸国紀に肥中は「賓重関」 「賓任浦」 と書かれる。

再検討してみれば、難波宮は肥中ではなく 島戸 である。
肥中は万葉集の大伴御津になるか。


万葉集では難波と住吉の海には鯨がいるので、大阪市の海ではない。




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肥中街道

2012/03/11 18:20

角川の地名辞典 山口県巻  (角川日本地名大辞典  35 山口県)
1988年

肥中街道   P702左
山口と肥中浦(豊浦郡豊北町) を東西に結ぶ街道。
里程約14里。 山口方向に進む場合、山口街道とも呼ばれた。
大内氏の時代には、肥中浦から筑前博多への出帆が多く、明や朝鮮との貿易港としても重要であった。

山口より大峠を越えて美祢郡の長田・綾木(ともに美東町) ・岩永(秋芳町)・伊佐・大嶺(ともに美祢市)、豊浦郡西市・殿居(ともに豊田町)・田耕・滝部(ともに豊北町) を経て、肥中浦に至った。

江戸期にも山口と豊浦郡北西部諸村を結ぶ街道として利用され、現在では国道435号線がこの街道をおおよそ踏襲している。


豊北町 肥中 と 山口市を結ぶ
肥 中 街 道 は 邪 馬 台 国 の 国 道 1 号 線 だ っ た 。




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難波宮 は 肥中にあった

2012/03/11 14:18

万葉集4245
平城京より難波に下り、住吉の三津で舟に乗る。

平城京は秋芳町の国秀遺跡、春日は美東町

安倍朝臣老人
万葉集359 の安倍島が和久の壁島に比定できるので、安倍は和久の近くである。


豊北町 島戸の住吉八幡宮 は山口県山陰西部で有力な神社である。 
往古、神田郷の総社と伝える。 通称は「東門鎮護」

文禄・慶長の役では阿川毛利勢は肥中湊から渡海した。
肥中は近世の大船団を朝鮮に渡海できる湊であった。

島戸沖の「伊勢」(伊瀬) という島に自然の井戸がある。
これが仁徳天皇が枯野という船で朝夕に汲みに行かせた淡路島の寒泉だ。
参考  山口県神社誌 平成10年版  P889下 


良港
室津 ・・・・ 元寇の前に元の使者が来航した
小串 ・・・・ 港は深かったが、山の木を伐採したため洪水で港が埋まる
特牛 ・・・・ 阿閉臣磯特牛より、倭国は特牛付近にあった
肥中 ・・・・ 秀吉の朝鮮出兵の渡海港

狼烟山
鯖釣山 ⇒ 杖坂山 ⇒ 江尻 大平山 ⇒ 高壺山 ⇒ 油谷島 井ノ上


附野薬師の縁起に弘法大師の船が海士ヶ瀬戸で難破したとある。
海士ヶ瀬戸は船の難破の場所で、難波とは難破である。
長羽山 ⇒ 柄豊碕か。

難波の姫島は角島大橋下の鳩島と思われる。


ホテル 西長門リゾート から邪馬台国が見える。

角島大橋 は 邪馬台国の橋だ。


再び検討してみれば、難波宮は肥中ではなく島戸である。
理由は住吉は島戸にあるから。


伊勢国は向津具の油谷島
摂津国は豊北町の肥中・島戸

奈良の都は秋芳町
春日の里は美東町
河内国は新下関の秋根



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難波 は二見の近く

2012/03/11 07:01

五年癸酉、草香山を超えし時に、神社忌寸老麻呂の作りし歌二首
万葉集976
難波方 潮干乃奈凝 委曲見 在家妹之 待将問多米
※ 原文は難波潟でなく難波方である。
「万葉集表記別類句索引」 (笠間書院) で調べると、万葉集の原文には難波潟という「潟」 の字が使われた歌はないので、難波には潟はなかった。
万葉集977
直超乃 此径尓弖師 押照哉 難波乃海跡 名附家良思蒙

万葉集977 より、難波は海に面した要害の地にある。

豊北町二見の若宮神社
主祭神  大雀天皇
配祀神  事代主大神・事比羅大神 ⇒ 額田部連比羅

二見、津波敷、矢玉は崖海である。
湯玉の鳥井ヶ峠は44メートルしかないが、きつい坂である。

宇賀  「山口県の地名」  平凡社  P504中
「延喜式」(兵部省) に「長門宇養馬牧」とあるが、「長門国志」は「宇養即宇賀」としている。
当地域の馬に関する地名に馬路(うまじ)・馬路山・馬路(こまくれ)・馬道・駒杭がある。
また和名抄記載の額部郷の地ともいわれる。

宇賀に宇養馬牧があったなら生駒山である。

鯖釣山には狼煙台があった。 ⇒ 畝
ネットで鯖釣山を検索すると、椿が多く生えている。
万葉集の八峯は八釣山で鯖釣山か。
小字「八ヶ峯駅」 (宇賀3687)


推古天皇 16年6月
岩波文庫 日本書紀(四)  P112

大河内直糠手(あらて)
岩波は糠手を「あらて」 と訓んでいるが、「ぬかて」 で音は額田(ぬかだ) に類似する。




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額部郷  下関市

2012/03/10 20:57

平成合併後の広域下関市は和名抄の豊浦郡である。

『山口県の地名』  平凡社 1980年  P367上  より
額部郷
「 響灘に面した現豊浦郡の宇賀・小串の一帯を郷の範囲とする説(日本地理志科・防長地名淵鑑・山口県文化史) もあるが、「ぬか」 と「うか」 の音が類似しているという以外の根拠はない。」


角川ソフィア文庫の古事記には巻末に索引がついている。
高天原は狗留孫山 修禅寺である。
凡川内の国の造 ・・・・ 大河内温泉
額田部の湯坐の連は大河内温泉の近く。


凡川内大河内は字がちがうので、別の場所か。
『六国史 日本書紀索引』 吉川弘文館 で人名 「大河内」 を調べる。

雄略9年2月凡河内直)
胸方神 ・・・・ 旧楠町東万倉に宗方があり、宗像大神宮跡がある。
「山口県の地名」 平凡社  P378下  参照せよ


豊浦郡(現下関市) で大河内の地名は、
宇賀の大河内温泉
豊田町の大河内 ・・・・ 豊田湖の南側
の2か所である。



秋吉台の弥生人は、
木屋川 ⇒ 豊田 ⇒ 美祢 ⇒ 秋吉台 の道で入ってきたといわれる。
邪馬台国へは水行10日・陸行1月で、場所は秋吉台である。

水行20日の投馬国は豊北町の神である。
※ 「神玉」 は神田と矢玉の合成地名で、近頃の地名である。
投馬国は 湯玉 〜 矢玉 〜 島戸 である。

旁国最初の斯馬国は光市から岩国市にかけてである。
東京外国語大学名誉教授の岡田英弘氏は通商の視点から、旁国は瀬戸内沿岸を大阪方面に向かう場所に点在したとみる。 中国王朝の日本列島への関心は瀬戸内海である。




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草薙の剣

2012/03/10 14:49

岩波文庫 日本書紀(一)  P98
素戔嗚尊、仍ち蛇の韓鋤の剣を以て、頭を斬り腹を斬る。
其の尾を斬りたまふ時に、剣の先、少し欠けたり。
故、尾を裂きて看せば、即ち別に一の剣あり。
名けて草薙剣と為ふ。
此の剣は昔素戔嗚尊の許に在り。
今は尾張国に在り。

其の素戔嗚尊の蛇を断りたまへる剣は、今は吉備の神部の許に在り。
出雲の簸の川上の山是なり



私は誤解していたが、素戔嗚尊の剣は「蛇の韓鋤の剣」 である。
この剣は吉備の神部 即ち 出雲の簸の川上の山にある。

八俣大蛇の尾から出てきた草薙剣は尾張国にある。


日本書紀のこのへんを読んだら、下関市の福江から吉見だなあ。
尾張の熱田は吉見温泉センターで、出雲は福江の大塚の字「巳」


向津具の安佐 王屋敷から出土した韓剣は素戔嗚尊の蛇の韓鋤剣 あるいは 草薙剣だろう。




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油谷島 の 小字「越ノ浜」 「則国」

2012/03/09 23:13

油谷町史に油谷町の小字地図が掲載されている。
向津具 大浦の西隣、油谷島に入る所の小字が「越ノ浜」 である。

岩波書店 新日本古典文学大系 続日本紀(一)  P165 1行目
伊勢国の人 磯部父・高志の二人に、姓を渡相神主と賜ふ。
※ 祖父 ・・・・ 訓みは「おほぢ」

油谷町史  P910
大正初年の頃は、油谷島を「オヤジマ」 と呼んでいた。 ユヤはイヤと類似語で、共にをさす語であることから考えると、油谷島はおやじまで、祖先発祥の地かも知れない。
本油谷には古墳がありアブミの出土が伝えられ、古い時代より有力な人が住んでいたことが分かる。
梶ヶ平 は、昔は神が原と言い、八幡の神がここから上陸し、隣地の 箸神 では神に供物をする箸を削った所という伝承がある。


「祖」 を「おや」 と訓んで、祖 = 親 である。
人名は地名に因むので、伊勢の高志は油谷島の字「越ノ浜」 だろう。
渡相(わたらひ) の場所は字「越ノ浜」。

油谷島にある字「則国
天台宗の開祖、最澄の有名な言葉に、「照千一隅 此則国宝」.。
通説とちがい、本来は「偉人が千里を照らす」 意味という。
字「則国」 に卑弥呼の冢がある ?

山海経の湯谷(やうこく) ⇒ 油谷(ゆや) に転じたのか ?


伊勢の対岸が尾張だから、油谷町伊上や島戸が尾張の候補地になる。
肥中の七神社に櫛稲田姫が祀られている。



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杜屋神社  黒井

2012/03/09 12:20

山口県神社誌 平成10年版  P878  より

由緒  平安時代の『延喜式神名帳』 に、「村屋神社」 と記載されているのが当杜屋(もりや) 神社である。
主祭神  三穂津姫神
日本書紀によれば、
三穂津姫は高皇産霊尊の女で、大国主神(大物主神) の后となる。

当社創建の伝説に、
@  筑紫平定を終えた日本武尊が海路穴門国に入ったところ、おおしけに遭った。 その時、亀甲に乗った三穂津姫が現れ、船を毛呂の長浜に導いた。

A  仲哀天皇が九州征討のため、海路豊浦宮に行幸された。
この時、穴門の中ツ村毛呂に不思議な霊光が現れた。
この神が三穂津姫で守り屋の神と称したのが本社の起源である。

B  『孝徳天皇本紀』 に「白雉元年2月、長浜毛呂里より白雉を獲り献上した」 ので、天皇は守屋の宮に特便を送り礼拝した。



日本書紀の壬申の乱で村屋神が出てくる。

天武天皇上 元年7月
岩波文庫 日本書紀(五)
P100 後ろから3行目
P104 5行目

壬申の乱の場所は下関市の山陰側(秋根〜豊浦町〜豊北町) だった。




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神社  豊北町 

2012/03/09 12:20

山口県神社誌  昭和47年版  より

八城神社  豊北町上畑
祭神  美都波能売命 宇迦御魂命 神倭岩余彦命 大国主命 三穂津媛命

客神社  豊北町寺畑
祭神  菊理比売命
旧社地は寺畑の友広山
山口県神社誌 平成10年版 P872上 によれば、祭神は大歳大神で、占いの神事がある。

七(ち)神社  神田道永2136
祭神  大名牟遅之命 素盞男之命 櫛稲田姫之命
肥中・特牛・荒田・鳴滝・堀越の祖神として出雲大社より勧請
苅束(かりぞこ) に祀るが元和元年に肥中に迂祀す。

苅束は肥中(ひじゅう)住民の発祥の地
山口県神社誌 平成10年版  P892下

恵美須神社  神田船本4012
祭神  古刀志呂主命
元禄年間創建と伝ふ
山口県神社誌 平成10年版によれば、 P891
「当社は、平安期 710〜 勧請の中三島(初島) の金比羅社と同年の勧請と伝えられる。往古から漁人等の信仰が篤い」 とある。


河内神社  豊浦町宇賀6462
祭神  水波能売大神
近くに谷川という川が流れている。
この川の瀬に当社の御神体とも仰ぐ石が置かれていた。
山口県神社誌 平成10年版  P868上

※ 「谷」 は音より「丹波」 に通じる。

室津八幡宮
山口県神社誌 平成10年版 P877上 によれば、
配祀神に住吉大神がある。
吉永八幡宮
同上  配祀神に住吉大神 諏訪大明神 高良大明神
旧社地は吹野川域の低地 


豊北町史 P581  に
宿翁山大権現  神玉
矢玉か ?

※ 「宿」 は彦名命である。
万葉集では大伴宿祢宿奈麻呂
532
533
129 題詞
586 題詞
759 左注




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土井ヶ浜遺跡 から 邪馬台国が見える

2012/03/08 23:52

邪馬台国の位置探究で参考になる資料
『 わがまち サイト 豊北の遺跡最前線!』  100円
2007年
山口県下関市豊北町 土井ヶ浜 人類学ミュージアム 発行
入手方法は土井ヶ浜遺跡に出向くか、送付してもらう。

この小冊子より、
古事記の「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国」 の場所は、
土井ヶ浜の片瀬遺跡に比定できる。



豊北町史 昭和47年 で、「神社の崇敬」 P581 所在地 では
ヶ浜
と書かれている。
土肥 ・・・・ 土地が肥えている
音より奴婢(ぬひ、どひ)、土匪(土着の匪賊)


紺碧の海
西長門リゾート ホテル  特牛にある。
日本中の海を見て回って、ここが一番美しかったのでホテルを建てたと聞いた。



「山口県の地名」  平凡社  P536下
神功皇后神社
1849年、吉田松陰が神功皇后の祠に謁し、蒙古鉾と伝える9枚を見る。


浜出祭 ・・・・ 浜出祭(浜殿祭・松明祭)
寛永12年(1635) に「火の柱行事」 を行った記録がある。
一種の宮座行事で男女二神の出会いという。

オ ノ ゴ ロ 島 だ !!!!!




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島戸 の 八幡宮  伊勢

2012/03/08 22:30

場所は下関市 豊北町 神田 島戸 宮ノ前   神田3901番地

山口県神社誌  昭和47年版   P179中
由緒
古く向津久大津の渡りの島門の地に東門鎮護として住吉大神を祀り、また宇佐八幡宮より馬城山に勧請し合祀す。
武家時代八幡宮と改称す。
明治7年2月郷社に列す。
神事芸能
雨乞神事 ― 海上2キロ伊勢島に渡御あり、島の頂上の井水を替ふ。


山口県神社誌  平成10年版   P889
住吉八幡宮
由緒沿革
穴門向津久の対岸、平保(ひらほ)台の地に、住吉大神を奉祭して、東門鎮護の神とされた。
この後、住民の移動とともに奈良時代の養老2年(718)、平保台の住吉大神は長羽山(馬城山・高壺山) の山頂に遷座された。
今日も山頂に巫女屋敷という社地が残って土器や瓦が出る。
高壺山の住吉大神と鬼の伝説は有名である。

鎌倉時代、現在の社地に宇佐八幡宮を勧請し、住吉大神と合祀し、社名を「住吉八幡宮」 と改めた。

本社は島戸村など8ヶ村、すなわち神田郷の総氏神として社殿を建立した。
往古、例祭日には神官が拝殿の両方に座し、引受場の氏子に御神久米を渡し、社田の耕作を引き受けさせていた。
このため村々に社田が多く、神田という地名はこの社田のことから残った地名であるという。




島戸に小字「隠」 がある。
場所は神田4683 で、島戸の新興住宅地内である。
この「隠」 は伊賀の隠(なばり)。

隠 (なばり)
日本書紀
名張  大化2年正月、天武元年9月11日、朱鳥元年6月22日
隠駅家  天武元年6月24日
隠郡    同上 


神風の伊勢の度逢県は島戸の「巫女屋敷」 が候補地になるか。
島戸の字「隠」 と 長羽山は離れており、位置的に矛盾するので、長羽山の「巫女屋敷」 は伊勢ではない。
「平保台」 は伊勢の度逢県の可能性あり。




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長門国 の 丹

2012/03/08 20:02

長門市史 歴史編   P74
『延喜式』 には、長門国が交易によって貢納する品目として、鹿革20張、胡粉20斤、緑青20斤、丹60斤、海藻150斤、苫25枚、櫑子4合、別貢雑物に牧牛皮8張がある。

同  P1055  年表
延喜7年 (907) 12月25日
長門国の、胡粉を東大寺仏像の修理料にあてる。



長門国では丹を産出して朝廷や東大寺に貢納していた。




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向津具大浦 の 海女

2012/03/08 19:30

新油谷町史  平成18年  P51 〜 52

大浦に残る伝説によると、神功皇后が三韓へ出兵のみぎりに油谷湾を根拠地とし、今の大浦後方の丘にあたる王羽根を仮御所にしたという。
そのとき、麓に住む海女が鮑を献上したところ、それを賞味された皇后は大変喜ばれて、「以後この浦を王浦とせよ」 と言われた。
それを聞いた浦人は大変かしこまり、恐れ多いことと思い、字を変じて「大浦」 と呼んだというのが大浦の地名のいわれであり、この名が後世に伝わり現在に至ったというのである。
別の話では、出雲日御崎・長門川尻・筑前鐘アで大火を焚いて往復の航海目印にしたとも言われている。

後に大浦の海女が歴史に登場してくるのは源平の戦になってからである。
もともと向津具は朝廷の御料であり、海産貢納物として雑鮑・薄鮑・乾魚・若布・かじめを貢納していた。
そうした関係があったからか、11世紀に平家が下関壇ノ浦で滅亡した際に、大浦の海女が海底で沈んだ宝剣の探索に動員されている。
しかし宝剣を見つけだすことはできなかった。

大内時代になり、大内水軍の将後根壱岐が向津具の領主であった頃、向津具は明との貿易で大浦の干し鮑や煎海鼠が大浦の主要輸出物となっていた。
そこで増産のために人出が求められるようになり、正長元年(1430) には鐘アより多くの海女が移住してくるようになった。

大内が滅亡して毛利の支配下に変わると、海賊停止令によって瀬戸内を追われた村上武吉が、天正15年に毛利輝元より大津郡と南防州に一万石の領地を受領し油谷湾周辺を居住地とした。

やがて文禄慶長の役が始まると、軍役の海産物増産のために再び海女が必要になり、鐘アより鐘ア又兵衛に率いられた海女たちが移住してきた。



向津具大浦の海女は増産のために鐘アから移住者が来た時代もあったが、その歴史は太古までさかのぼる。

土井ヶ浜弥生人には潜水によって生じた耳タコがあった。
参照 『珈琲タイムの考古学』

魏志倭人伝に、今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚・水禽を厭う とある。
向津具の大浦 と 土井ヶ浜が魏志倭人伝 「倭の水人」 の地である。



新油谷町史に「もともと向津具は朝廷の御料であり」 とある。
天長7年(830) 5月22日
「長門国外嶋一処を勅旨嶋とす」 は向津具か。




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狗留孫山 修禅寺

2012/03/08 12:04

川棚の小野小町伝説
菊川の小日本伝説
の場所は豊田の杢路子(むくろうじ) である。

狗留孫山が天の香山で、高天原の「天」 は修禅寺である。

岩波 続日本紀(一)  P13 最後の行
榎井朝臣麻呂、大楯を竪て
榎井は狗留孫山に上がる道に架けられた榎木原橋の地であろう。

同上 (五)  P313
石上榎井の二氏、各桙楯を竪つ
石上は修禅寺の霊石、榎井は榎木原橋の地名に因む。

地名「氷」 の場所
菊川町 歌野川の最上流 字「氷川口」
豊田町 杢路子の字「氷川」。場所は狗留孫山修禅寺の駐車場近く

万葉集4479
上大刀自 ・・・・ 修禅寺の駐車場に住んでいた人
4480 が天の御門だから、場所は修禅寺である。

修禅寺の奥の院にある滝は「香山の畝尾の木のもとにます、名は泣沢女の神」(古事記) である。

修禅寺へは寺の駐車場から徒歩で30分かけて登る。山道は足場がわるく濡れているので、運動靴でなく長靴か登山専用靴を履いて登ること。参詣の階段山道にある杉は直径1メートル以上ある。 万葉集259 香山の鉾椙である。

杢路子の小字   角川の地名辞典 山口県巻 巻末小字一覧
一ノ郷 (杢路子2432〜2585) ・・・・ 邪馬国である。
天山 ・・・・ 天山橋がある。
は上杢路子の三差路から狗留孫山に上がる道沿いにある。

赤猪 は場所不詳。  雄略記に引田部の赤猪子
官族原 (杢路子1751)  ゼンリン住宅地図に官族原橋がある。
泉河内 (杢路子676) ・・・・ 下杢路子の公会堂近く


安河は宇賀の本郷川と思うが、杢路子川かもしれない。

続日本紀
近江の鉄穴 ・・・・ 阿川には和鉄を産する山がある
近江の野州 ・・・・ 安河は近江国にある
近江は阿川になり、安河は粟野川になる。

「奈良県高市郡明日香村」 に対応させれば、宇賀の本郷川は明日香川になる。




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自説 7

2012/03/08 06:17

卑弥呼の冢の候補地
 ・ 豊田湖の北、バス停「天皇様」 から山道を登った所の安徳天皇御篭建場
 ・ 豊北町の神田岬
 ・ 向津具の油谷島
 ・ 蓋井島の北端 「威瀬」
 ・ 狗留孫山のどこか



下関市 山陽側から木屋川に沿って上り、豊田湖の北、安徳天皇西市御陵墓参考地のバス停から山道を登った所にある 安徳天皇御篭建場 が「女王の都する所」 の候補地になる。




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大嶋  大津郡

2012/03/07 22:57

長門市史 歴史編  昭和56年   P918  より
八箇国御時代分限帳 八
毛利氏支配下の防長両国の寺社領を調べたもの。
貞永2年(1685) に作成。

一、 三石四斗九升        日置八幡
     右は同国(長門国) 大津郡
一、 弐石五斗壱升六合     深川八幡
     右は同国同郡
一、 七拾三石弐斗七升壱合  大嶋
     右は同国同郡
一、 六石三斗           三隅八幡
     右は同国同郡
一、 弐石四斗四升七合     俵山八幡
     右は同国同郡
一、 弐拾四石九斗八升     一二両社
     右は同国同郡
一、 八石四斗六升弐合     諸社営領
     右は同国同郡

このうち「大嶋」 が何を意味するものか判明しない。
前後の関係から神社関係には相違ないし、前大津に位置するものであろうが、「」 とあるところから、青海島に関連する何かであろうか。
他と比較してかなり石高が高いし興味深い。

最後の「諸社営領」 は、大津郡内の他の神社を総轄していったものである。
「一二両社」 は長門国一ノ宮(住吉神社) と 二ノ宮神社(忌宮神社) を指している。



前大津 ・・・・ 平成合併前の長門市と三隅町。代官所は長門市正明市
先大津 ・・・・ 日置町・油谷町。代官所は油谷町河原村


長門市史の執筆者は「大嶋」 は前大津宰判に属し、青海島かという。
和名抄の大津郡では、二処(ふたい)郷 と 神戸(かんべ)郷が位置不明である。

@ 考  私見では神戸郷は油谷島だと思う。
油谷島が「大嶋」 ではないか。
油谷島の南端に小字「大嶋」 がある。

A 考  日置 ⇒ 深川⇒ 大嶋 ⇒ 三隅 ⇒ 俵山
の順でみれば、大嶋は仙崎になる。でも仙崎は島ではない。
しかし仙崎は江川によって島になっているともみれる。


油谷島の小字 ・・・・ 油谷町史に小字地図が載る。
則国 ・・・・ 天台宗の開祖、最澄の有名な言葉に、「照千一隅 此則国宝」
通説とちがい、本来は「偉人が千里を照らす」 意味という。

藤ヶ迫 ・・・・伊勢国の形村
雄略天皇 17年3月2日
岩波文庫 日本書紀(三)  P80

地名「伊勢」 の場所は複数か所あり、そのうち天照大神が晩年を過ごした伊勢は油谷島とみる。
つまり「神風の伊勢」 は油谷島。
神功紀の神託
伊勢国の百伝う度逢県の柝鈴五十鈴宮に所居る神、
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命 

の「向津」 は向津具。度逢県は楊貴妃伝説の唐渡口。

箸神 ・・・・ 東側の海岸にある。
※ 箸神とは何か ? 保食神か。

「梶ヶ平」は昔は神が原といった。

阿川に神宮アがあり、油谷島の対岸に位置する。
油谷島は特別に重要な島なのだろう。


長門市史 歴史編   P1054上 年表
天平5年3月 (733年)
吉備真備が唐より帰朝の折、仙崎(大泊) に祠堂を構え、祇園社を創建したと伝える。



万葉集91
近江大津宮  天智天皇の鏡皇女に賜ひし御歌一首
妹之家毛 継而見麻思乎 山跡有 大嶋嶺尓 家母有

助動詞「まし」 に「猨」 の字を当てた例
120
510

下関市 赤田代の五年神神事では猿が神の使いとされている。
この歌の大嶋嶺は竜王山であろう。




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高市連許梅 と 畝傍山

2012/03/07 08:03

天武天皇上 元年7月23日
岩波文庫 日本書紀(五)  P102
是より先に、金綱井に軍せし時に、高市郡大領高市県主許梅、にはかに口閉びて、言ふことを能はず。
三日の後に、方に神に着りて言はく、「吾は、高市社に居る、名は事代主神なり。又、身狭社に居る、名は生霊神なり」 といふ。
乃ち顕して曰はく、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種種の兵器を奉れ」 といふ。
・ ・ ・ ・ ・ ・


豊浦町湯玉に小字「金綱」 がある。 
Google で検索  【  下関市豊浦町大字宇賀字金綱  】
場所は宇賀漁港。

天の高市は湯玉の宇賀漁港にあった。
高市連許梅(こめ) は小字「米山」 の人であろう。
字「米山」 ・・・・ 宇賀8869  宇賀漁港の西端

神武天皇
  畝火の白檮原の宮 (古事記)
  畝傍山東北陵 (日本書紀)
    畝火山の北の方、白檮の尾の上 (古事記)

畝傍山は湯玉の鯖釣山になる。
国土地理院 地図閲覧ホームページを開いて湯玉の鯖釣山を見ると、鯖釣山には峰が2つある。
南 182メートルの峰 ・・・・ 鯖釣山
北 193メートルの峰
北の193メートルの峰が畝傍山か ??

古事記より、
畝火山は鯖釣山の182メートルの峰
「北の方、白檮の尾の上」 が193メートルの峰
になるのか ?

神武天皇の橿原宮は湯玉の鯖釣山にあった。
神武天皇の陵は宇賀八幡宮のあたりか、あるいは鯖釣山のどこかになる。


畝傍山は湯玉の鯖釣山である。

高天原 と 天香具山は狗留孫山
天の安河は宇賀の本郷川
小字「日河原」(宇賀5403付近) は安の河原
宇賀は宇迦御魂
湯玉は山海経・淮南子に記述された扶桑の湯谷の地で神仙郷だった。

宇賀の本郷川は北西 または 西北西に向かって流れており、冬至の朝日、夏至の夕日の方角になる。

鳥井ヶ峠は神社の鳥居であろう。

犬鳴川(犬啼川) の流域に小字「扶桑」 「神屋」 「弘法」 「兵法」 がある。
「弘法」 は弘法大師(空海) か、それとも寺があったのか。


Wikipedia  高市黒人 より
「羈旅の歌八首」 (巻3) が代表的。
旅にして もの恋しきに 山下の 赤のそほ 沖に漕ぐ見ゆ
いづくにか 泊てすらむ 安礼の崎 漕ぎたみ行きし 棚なし小舟

のごとく、好んで舟を素材とし、漠とした旅愁を漂わせる作品に特色がある。

高市連黒人は舟を素材にしている。




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伊都国  奴国

2012/03/06 20:58

魏志倭人伝の記述は正確とみて、伊都国は洞海湾にあった。
黒崎と若松が候補地である。

黒崎説
八幡市史 P381 によれば、
黒崎の藤田はもと上の名(メウ)といった。

古事記で、山幸彦は綿津見神の宮から「上つ国」 に帰った。
岩波文庫 古事記  P75
天津日高の御子、虚空津日高、上つ国に出幸でまさむとしたまふ。
筑紫日向高千穂宮は黒崎にあった。

地名の 王屋敷
「山寺の下海辺近き所に王屋敷の址と云伝るもあり」  八幡市史 P468
皇子権現(一の宮)  同 P499
皇后ヶア  同 P413
「山寺の北5町、陣原村堺に小山あり。皇后ヶアと云。其辺に王屋敷と云所もあり」


若松説
続日本紀  岩波書店 新日本古典文学大系
三巻 P307 後ろから2行目  大宰府は三面に海を帯び
福岡県の大宰府市は内陸の山奥地にあり、三面に海の地勢ではない。
黒崎は洞海湾の奥なので、大宰府は岬地形がある戸畑か若松にあったような気もする。

万葉集304
大王之 遠乃朝廷跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
大君の遠の朝廷とあり通う島門を見れば神代し思ほゆ
※ 原文から、遠の朝廷と蟻通う島門 は神代の場所

北九州市域で「島」 とは若松区をいう。
高千穂の字面から若松の高塔山である。

万葉集1177
若狭なる三方の海
この歌は続日本紀にある「大宰府は三面に海を帯び」 と似ている。
若狭は北九州市の若松か ?

若松の総社は芦屋町山鹿に近い狩尾神社だったという。



伊都国 と 大宰府の場所
@ 考 竺紫の日向高千穂宮は北九州市若松区の高塔山にあった。

A 考 皇后ア公園の一宮神社  神社内に古代の「磐境 祭祀跡」 がある。
この祭祀場を本当の香椎宮の沙庭跡とみる。
万葉集959 より大宰府は香椎宮のへりにあった。

大宰府は黒崎駅に近い山寺町の一宮神社のあたり。
一大率は武士の八幡神信仰より、八幡駅近くの豊山八幡神社にあった。
豊山八幡神社の旧社地は、社の西にある前田の貴布禰田である。

万葉集959 の作者である豊前守宇努首(うのおびと) 男人であるが、「宇努」 は山口市の上宇野令・下宇野令の地であり、和名抄 吉敷郡の宇努郷である。
豊前守は山口市の出身だった。
「豊前」 の場所は豊山八幡神社のあたり。


奴国は小倉南区、不弥国は門司の大里になる。




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伊勢である二見・宇賀本郷

2012/03/06 09:25

宇賀本郷は伊勢
二見は三重県伊勢の地名である。

Wikipedia  保食神 より
同じ食物神である宇迦之御魂神とも同一視され、宇迦之御魂神に代わって稲荷神社に祀られていることもある。
神名のウケは豊受大神の「ウケ」、宇迦之御魂神の「ウカ」と同源で、食物の意味である。

食物神というだけでなく、「頭から牛馬が生まれた」ということから牛や馬の神ともされる。
東日本に多い駒形神社では、馬の神として保食神が祀られており、さらに「頭から馬」ということで馬頭観音とも同一視されている。


保食神も豊受大神も意味するものは食物である。
保食神、宇迦、豊受大神は似ている。

二見の直子川
「直子」 とは、どういう意味か。




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楢 と 春日野

2012/03/05 18:46

万葉集
79  楢の京師の佐保川
80  寧楽
460  佐保と新羅渡来人

楢(寧楽)・佐保は考古学により、秋芳町嘉万の 国秀遺跡 である。

美祢市の公式ホームページ 文化財一覧  から
国秀遺跡
所在地:美祢市秋芳町嘉万
●概要:嘉万盆地北端の沖積低地上にあり、県営圃場整備に伴い昭和62年度、平成3年度に発掘調査された。
この低地は如意岳の南麓に開け、遺跡の西隣を厚東川、東隣を日峰川が南流し、この両河川によって作れたものである。
この遺跡は、縄文時代晩期から江戸時代にわたる集落遺跡である。
中心となる時代は古墳時代後期から奈良時代前半にかけての時期である。
確認された竪穴住居跡は、120軒にも及び県下では最大級の集落遺跡といえる。 また、出土遺物も多数あり、中でも扁平打製石斧184点は出土総数として県下最多である。
7世紀の住居遺跡から出土した統一新羅系土器(無蓋高杯)や銅鉱石・スラグ・鞴羽口などの金属生産関係の遺物が出土していることは本遺跡の特徴である。 7世紀前半から8世紀初頭において銅製錬が行われており、渡来工人の居住が想定される貴重な遺跡である。

国秀の緯度   国土地理院地図閲覧ホームページによる
北緯34度16分37.5秒


春日野
佐伯宿祢麻呂
405
628
630

佐伯宿祢赤麻呂は美東町のの人である。
春日は美東町の長登銅山 ⇒ 1844 鹿の山

Google で検索   【  山口 嘉万史跡公園  】


美東町 長登には、奈良の都に銅を貢いだので奈良登が訛って長登になったという地名伝承がある。 ※ ネットで検索

長登銅山から万葉歌の木簡が発見されている。
木簡に書かれた人たちは主要な氏族である。
美東町は倭国の範囲内である。


続日本紀 に書かれている都
聖武天皇 神亀元年11月8日  724年
講談社学術文庫 続日本紀 (上)  P265
岩波書店 新 日本古典文学大系 続日本紀  二巻 157ページ
今、平城京に見られる板屋や草ぶきの家は、大昔のなごりで、造るのに難しく、こわれ易くて、人民の財を無駄に費やすことになっています。
そこで五位以上の官人や、庶民のなかでも造営する力のある者には、瓦ぶきの家を建てさせ、赤や白の色を塗らせるように、有司に命ぜられるよう要望します。 この奏言を許可された


724年まで、京には瓦ぶきの家がなかった。
奈良県の平城京復元模型はいつ頃を想定しているのか知らないが、続日本紀によれば8世紀初めまで、京には瓦の家はなかった。
Google 画像 で検索   【  平城京 復元  】
続日本紀に書かれた都の姿 と 奈良県が地域興しのために復元しようする建物群はちがう。

万葉集では天皇の御殿は、
刺竹の大宮所 ・・・・ 竹を刺し組んで作った家 ?
黒木で作った家
板葺き
であり、宮殿ではなく宮室である。
こんな場所に大規模な碁盤の目状の条坊制があるはずがない。

楢(寧楽) の京師と平城京が同じかどうかは検討中です。
倭国の京の建物は、まさに国秀遺跡の復元家屋そのとおりであった。


有馬
熊野の有馬
熊野の神邑
この熊野を三隅町との境にある権現山(560メートル) とみて、有馬山は権現山とみる。 有馬温泉は三隅町の湯免温泉(38度) になるか。

楢・佐保は秋芳町嘉万の国秀遺跡
春日野は美東町の赤

有馬山は権現山と推定





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万葉メモ 2  作業用

2012/03/05 09:20
アゴの浦
44
1154
12
1157
3243  門の浦
3244
3610
662  萩市大井の浜に「貞平」 がある。


アゴはトビウオのことなので、Google で【  山口県 トビウオ  】 を検索
【  jsnfri.fra.affrc.go.jp/publication/shuuroku/shuuroku-12,39-51.pdf  】
で分布がわかる。


阿武町の奈古
浜崎 ― 住吉神社
鹿島 ― 鹿島明神
鶴ケ嶺八幡宮 ― ナンジャモンジャの木がある。


萩市 玉江駅 の緯度  北緯34度24分18.6秒
国土地理院 地図閲覧ホームページ で中心座標による測定値


山口市仁保上郷に小字「栖郷」 ⇒ 吉野の国
岩波文庫 日本書紀(一)  P217上

南宇賀に小字「八ヶ峯駅」
万葉集の八峯
1262
4166
4177
4266
4149
4152
4481
4164
椿は萩市。
難波は萩市か。

越国は須佐町になろう。


959  宇努首男人 ・・・・ 山口市の上宇野令・下宇野令 和名抄の吉敷郡宇努郷

1795  宇治若郎子・菟道稚郎子 ・・・・ 三隅町 中 に字「宇治」。
湯免温泉の兎伝説。


531  海上女王 ・・・・ 「山口県の地名」 平凡社  P519下 
金道の字に「海上」

3841  大神朝臣奥守 ・・・・ 「奥」 は向津具の「向津奥」 か


息長 ・・・・ 近江の場所は土井ヶ浜遺跡で、神功皇后神社がある。
土井ヶ浜南遺跡より鎌倉時代の牛骨の卜占跡


1579、1580  文忌寸馬養 ・・・・ 馬養は宇賀か

626  八代女王 ・・・・ 「八代」 は北宇賀の八城  
1031  思泥ア ・・・・・ 向津具 川尻の「恩ア」 か
2727  須蛾島
紀臣大音  文庫書紀 5巻 P98   ・・・・ 「大音」 は阿川の地名

吉川弘文館の 『日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇實録 索引』 オンデマンド版 には「碧海(あおみ)」 がない。

和名抄の額部郷は豊浦町の宇賀だといわれていた。
「考古学による知見」 では田倉や長府だという。
吉田東伍は楠乃説だったと思う。

油谷島の西側の海に岩礁の高原瀬がある。
高天原と関係するか。
油谷島中央部の小字は「天鳥」


古事記
葛城の忍海の高木の角刺の宮
@考  宗像市の孔大寺山を葛城山ともいう。
A考  豊北町矢玉の高木山。 直子川が安河。


万葉集3293
吉野の御金高は阿東町の嘉年(かね)
十種ヶ峰にスキー場がある。










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文系宣言

2012/03/05 07:25

考古学では弥生・古墳時代の遺跡の量と質 及び 人口密度の観点から邪馬台国畿内説で決まりである。

しかし「畿内」 に滋賀県の近江国が含まれてないのはオカシイ。

畿内 の意味定義
大和 山城 河内 和泉 摂津
和泉が河内から分置される奈良時代までは四畿内といった。


考古学から見て、滋賀県が「畿内」 に含まれないのは大きな疑問である。

記紀・万葉の近江国は下関市豊北町の矢玉と土井ヶ浜の江尻である。
なぜ近江国が畿内でないのかは 万葉集33 による。
淡海は国都美神(つまり出雲勢) の浦だった。

考古学では万葉集は歴史時代のものであり、弥生時代末期の邪馬台国とは関係ないとされる。

文科系宣言
理数系でなく文系なら、邪馬台国と併せて暘谷(湯谷)、扶桑、蓬莱 の場所を考察せざるをえない。
参考になる本は、
『「日本」国はいつできたか』 改訂版 大和岩雄 大和書房 1996年
『扶桑国は関西にあった』  いき一郎  葦書房  1995年




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粟野川 と 万葉集

2012/03/04 18:57

中国の原始的地理書である山海経、淮南子、論衡などに書かれた扶桑は豊浦町宇賀から豊北町神田岬にかけてである。
古代人が土井ヶ浜の埋葬にこだわる理由は扶桑の場所だからである。

この緯度にこだわって、内陸の豊田町方向を調べる。
荒木・一ノ俣の温泉(30度) は扶桑の湯谷かもしれぬ。

高天原は狗留孫山である。
狗留孫山の川は杢路子川であり、粟野川に流れているので、粟野川は倭国(すなわち邪馬台国) の基幹河川である。

万葉集1348
三嶋江之 玉江之薦乎 従標之 己我跡曽念 雖未苅
三島江の 玉江のを 標めしより 己がとぞ思ふ いまだ刈らねど


この歌の場所は粟野の三島である。
いや、玉江は萩市の地名だ。 萩市かもしれぬ。

「山口県の地名」  平凡社  P548下
粟野川では12月から1月にかけて、青ノリの口開けがあり、
2月には中島に白魚梁がかけられ、四手網で白魚をとった。
また三島には梁がかけられ、鮎・鰻・蟹などがとれた。

字「三嶋」 は粟野川が コの字に曲がった場所で、字「市之瀬」 の北側


万葉集1349
如是為而也 尚哉将老 三雪零 大荒木野之 小竹尓不有九
かくしてや なほや老いなむ み雪降る 大荒木野の 篠にあらなくに


この歌の場所は豊田町の荒木だろう。


万葉集1355
杣人 ⇒ 田耕(たすき) の杣地

犬上御田鍬は田耕の人か。

阿閉臣磯特牛は特牛(こっとい) の人である。
日本書紀 雄略天皇3年4月 註
岩波文庫 日本書紀(三)  P32

奈良や平城京は粟野川の流域にあったのではないか。



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粟野川 の 川船

2012/03/04 16:32

山口県の地名  平凡社 日本歴史地名大系

粟野川   P532中
粟野川の通船がいつ頃始まったか不明であるが、おそらく江戸初期から行われ、元禄期(1688−1704) に粟野蔵ができて盛んになったのであろう。
粟野川から蔵跡(現粟野八幡宮) までは俗に運河とよばれる堀がある。
粟野川の通船にはベツカイと高瀬船があり、ベツカイは比較的瀬の多い上流の田耕方面で用いられ、高瀬船は下流の粟野村で用いられた。

佐野村   P518下
一ノ俣川が粟野川に流れこむ近辺を下荒木というが、湯場または湯の尻ともいい、湯の湧出地帯である。
木津は湯の尻の粟野川沿いの地で、木材を集散する河川港であったといい、粟野川上流を木津川とも称する。
木津川は木材を流す川である。
木津には木津渡瀬があるが、これも往昔川向うの浮石村下浮石へ瀬を歩いて渡った所である。


高天原が狗留孫山なら、杢路子川は粟野川に注いでいるので、粟野川は倭国の基幹河川である。
粟野川では川船が行き来していた。
上流を木津川といい、下流の粟野八幡宮の地に運河とよばれる堀があった。
粟野八幡宮の祭神に仁徳天皇がいる。

堀江がある難波宮は粟野か。

倭国は扶桑の緯度にこだわっているなら、山奥地でも軽視できない。



国生み神話
角島は津の島で、津島。
肥中(ひじゅう)沖に双子島がある。


粟野  寛文3年(1663)の記録には「長府領青野村」 とある。
字「三島」 がある。
粟野小迫の鮎が有名で、川下では白魚や青海苔がとれた。

阿川金山  大音にあった。
阿川 山砂鉄  野地
阿川 土井 に遺跡(弥生土器・土師器・須恵器)
阿川 中原 に良質の陶土がとれる。「安土」 とよばれた。
阿川浦  阿皷(あこ) の浦 ともいった。

神田岬
矢玉鼻ともいわれ、御崎神社 がある。
祭神は豊北町史では保食神
山口県神社誌では伊勢外宮祭神の豊受比売命
天武天皇2年(674) の創建。 白鳳時代からの神社という。

神田岬は山海経 海外東経、淮南子、論衡などに書かれた「扶桑」の視点から最重要の場所である。
三穂や出雲の御大の前、さらに伊勢とも考えられる。
神田岬へ行く細い農道は舗装されているが、蜜柑農家もあまり利用しないので、木の枝が落ちて通行不能となっている。
神田岬は卑弥呼の冢がありそうな所である。




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万葉メモ  作業用

2012/03/03 20:50

10 紀温泉は津波敷温泉 ?  野島 ?
11241251 知鳥 知原  砂子多川沿いの字「知原」
4211  知努  茅渟も字「知原」 か

3236  相坂山は津波敷の杖坂山
3237  物部の氏川は二見川
3157  安河は宇賀の本郷川。相海は二見の夫婦岩の海
吉野の場所は複数あり、滝上の三船山は華山

土井ヶ浜弥生人は潜水漁をしていた。潜水漁の歌は土井ヶ浜の近く。
参照 『珈琲タイムの考古学』  1994年

3860  筑前国志賀白水郎  大浦田沼
参照 正倉院 「筑前国郡川辺里戸籍」 の肥君猪手、占部
北九州市域で「島」 とは若松区である。
大浦は矢玉なので、筑前国は矢玉か。
潜水をしているので大浦は土井ヶ浜か。

土井ヶ浜南遺跡から牛の骨を使った卜占跡 ⇒ 大浦大津の地 ※ 鎌倉期
218  楽浪の志賀津 「罷道」 は土井ヶ浜埋葬遺跡
淡海は土井ヶ浜か。尻 ⇒近

50  田上山は神田上。物部の八十氏河は矢玉川
片瀬遺跡は山口県最古の水田跡 ⇒ 稲見野

寛永4年、土井ヶ浜の江尻に鯨が寄った。

317  駿河の富士山は形山の青山。田子の浦は田倉
旧長門国で富士の山は
新下関の青山
一ノ俣温泉北の一位ヶ岳
阿東町の十種ヶ峰
北九州市では
企救富士 (貫山)  小倉南区
 
大伴宿祢駿河麻呂は砂子多川の上流 田倉の人。
佐保川は砂子多川。有馬温泉は場所不明。
721  風流 曲水の宴の砂子多川
足引きの山住まいとあるので、佐保は秋根ではない。
一ノ俣温泉(アルカリ性単純硫黄温泉 30度 ) に近い佐野か。
荒木温泉もある。
佐保は「足引きの山の中」 にあるので、新下関の秋根ではない。
邪馬国の「壱」 より、一位ヶ岳・一ノ俣温泉か。
万葉集461 より、佐保の近くに有馬温泉がある。
湯原王は木屋川の新湯の原ダムの場所でなく温泉の人だろう。 一ノ俣温泉ではないか。

角川の地名辞典 山口県巻 巻末小字一覧  を調べて、
豊田町 一ノ俣 小字(一部)
河内 砂田 湯ノ原 柳 坂ノ上 迫
大伴坂上郎女は一ノ俣温泉の人か。


723 題詞
跡見庄は任 または 有
1560  「はつみのア」 は場所不明。
いや、佐保は砂子多川沿いではない。
山口市に富田原がある。


567
秋芳町の青景に小字「周防地」 「周防地2」 「周防地3」 がある。
周防の磐国山は秋吉台の青景である。








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河内国 は 新下関の秋根

2012/03/03 14:45

万葉集
4457  河内国伎人里の馬国人

岩波文庫 日本書紀(三)   P328
欽明天皇 22年
穴門館の工匠河内馬飼首押勝
この記述より、河内と穴門はすごく近い。

4458  馬史国人  於吉奈我河波(おきなが) 川
綾羅木川右岸の広い水田地帯を「沖田」 という。
「於吉奈我河波」 は息長川ではない。


住吉神社の濁池 ・・・・ 御馬のすそを洗うため、年中濁る。
この言い伝えより、「河内の馬飼」 の場所を特定できる。

一の宮町3丁目 ホンダ店近くに馬市橋がある。
鍛冶屋橋・市の坪橋も小字「馬市」 である。


4397  向つ峰 江南 館門 ⇒ 穴門館 
4483  三王 ⇒ 形山の人か。

河内が住吉神社の濁池の場所なら、穴門は近い。


住吉の岸の黄土  ※ 「黄土」 は赤土のこと。
69
1002  馬
932
1146
1148  馬
馬に乗った人が住吉の岸の黄土の場所で歌を詠む。
砂子多川 ほたる公園の東端、別所橋の山側の小字「埴生山」 に比定できる。

3845  駒造る土師
土師は字「埴生山」

1145 は陳奴の海なので、住吉と茅渟は近い。

河内、穴門、住吉、難波は新下関の秋根から綾羅木だろう。
穴門の大田 と 茅渟の大田田根子の大田は同じ所である。




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