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プロフィール

ブログ名
邪馬台国 下関
ブログ紹介


講談社学術文庫 『 倭国伝 』  旧唐書 P205、208
旧唐書に
「倭国は、古(いにしえ) の倭の奴国也。」
「日本国は、倭国の別種也」

竹取翁博物館  邪馬台国や徐福に関心を示された 2014.4.14
http://blogs.yahoo.co.jp/koiiyk/31302118.html
  ↓
中国の古地図 日本国と倭が別に描かれている。


中国正史の古代日本記録
いき一郎 編訳 葦書房  1984年 1992年 第2刷
P49
後漢書 巻80 「烏丸鮮卑列伝」 に、
鮮卑の檀石槐が光和元年(178年) に、魚をつかまえるのが巧みな倭人のいる倭人国を撃って倭人をとらえ、倭人に秦水の魚をとらせ食糧にした、とある。
「三国志」 は倭人を人とし、倭人国を人国としている。

この場所は鳥取県の青谷上寺地遺跡である。 近くに地名「汗入」 がある。

青谷上寺地遺跡展示館 ホームページ
http://www.tbz.or.jp/kamijichi/index.php?view=4095
土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム ホームページ
http://www.doigahama.jp/

佐賀 ・ 徐福国際シンポジウム
http://inoues.net/study/jyuhuku2008.html
  ↓
赤関=天関
文庫書紀@198-末 神武東征
是に、火瓊瓊杵尊、天関を闢き雲路を披け、仙蹕駈ひて戻止ります。



参考文献   以下の本は所有しています。
記号  例   
文庫書紀D74-12 → 岩波文庫 日本書紀(五) P74 の12行目
小学館書紀A469-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 日本書紀 A巻 P469 の 8行目
続日本紀B74-12 → 岩波書店 新日本古典文学大系 続日本紀 三 P74 の12行目
日本後紀 47-8 → 集英社 日本後紀 P47 の8行目
旧事F169-4 → 批評社 先代旧事本紀 訓註: 大野 七三  巻第七 P169 の4行目
訳旧事E305-7 → 批評社 先代旧事本紀 現代語訳  巻第六 P305 の7行目
祝詞393-7 → 岩波書店 日本古典文学大系「古事記 祝詞」 P393 の7行目
風土記71-12 → 小学館 新編日本古典文学全集 風土記 P71 の12行目
岩波風土記183-2 → 岩波書店 日本古典文学大系 風土記 P183 の 2行目
文庫風土記下168-5 → 角川ソフィア文庫 風土記 下 P168 の 5行目
山川風土記27-331行 → 山川出版社 風土記(常陸国 出雲国 播磨国 豊後国 肥前国) P27 行数331
小学館今昔物語C252-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 今昔物語集 C巻 P252 の 8行目
岩波今昔物語A145-6 → 岩波書店 新日本古典文学大系 今昔物語集 二巻 P145 の 6行目
古語拾遺164上-20 → 右文書院 『古語拾遺』 を読む P164上 の20行目
古代氏文集40-364 → 山川出版社 古代氏文集 P40 の 364行 
を示す。

万葉集
おうふう(株) 萬葉集
岩波書店 新日本古典文学大系 萬葉集
笠間書院 万葉集表記別類句索引 編者:日吉盛幸

風土記の索引書
和泉書院 『古風土記 並びに 風土記逸文語句索引』 橋本雅之 編


私は他人の説を摘まみ食いして、それを手直し修正し「自分の案」 を打ち出す「いいとこ取り」 は絶対にやりません。 私はずるくて利口なパクリ行為はやりません。 奔放な当てずっぽうのブログですが、一次資料に基づくものを書くため、記紀・万葉などの文献を読み、市町村史や郷土の自費出版物などの地方資料を渉猟して書いてます。 ネットで見たものはリンクを貼ってブログ主に通達してます。

私は僅かでも何かしらの着想(ヒント、アイデア、思いつき) を得た参照元は漏れなく全部を記してます。
当ブログは学術書レベルで参考文献を示してます。
着眼にあたって参考としたものを記すのは書き物の基本的な礼儀作法です。
他人の発見を尊重してこそ自分の発見やオリジナリティを主張できる。

私のブログは当ブログだけであり、他でブログ等はやってません。 私はネットの投稿、掲示板やコメント欄への書き込み他をしたことはありません。 なりすまし に注意してください。


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万葉集19 有冨の林さん宅

2018/06/01 15:00

万葉集18 三輪乃山 大賀(大神か)さん宅付近か
万葉集19 始乃 ・・・林さん宅

綜麻形乃
竹生観音の真南 林さん家の持ち山
綜麻形 は薬師寺跡地の地勢でっぱりか。

和我 「勢」 は狩猟の勢子か
  ↓
有冨墓地の西側〜薬師池の上 ・・・ ここが猟場で「勢子」 が動く所

万葉集2021 蒲生野
万葉集22 題詞
十市皇女の伊勢神宮に参り赴きし時に、波多横山の巌を見て、
  ↓
深坂幹線用水路
竹生観音から流れ落ちる渓流の出口から渓流伝いに竹生観音に登った。
当時すでに登山道があったのかもしれない。
湯津盤村の伊勢神宮は竹生観音だ。


万葉集29
 字「中村畔」
青丹吉平山 平井さん宅。 山口県風土誌では地名「平台」


万葉集の蒲生野は下関市の蒲生野である。
有冨から蒲生野山田に入る場所に林という家がある。
万葉集19 の「林始」 を発見!

下関市有冨上の人家の名が奈良県の地名になっている。


林臣 古事記
下関の林さん
  有冨の林さん 字「谷町」
  綾羅木郷の林さん 了元寺の裏 字「木舩」
  福江の林さん 字「林」
など。

有冨の林さん談
  家の裏が林だから林という名前。
  明治になった時に長府の侍から「林」 という姓を買った。




木の国
楠乃 説 楠乃川
住吉神社の大楠 武内宿祢が植えた伝説
蓋井島の船の木材から楠が生えた伝説 高速道路の西側

一の宮住吉3丁目 以前、下関中央卸売市場があった所 字「山」

火の山 「火」 は五行配当で南

南北の測定
 北極星の北
 方位磁石の北 西偏7°
 竹生観音の妙見宮と椋野上町の妙見山を結ぶ線


有冨の 薬師池周辺
字「谷町」の「町」 は満致か。 木満致、蘇我満致
木満致の「木」 は榑木か。



影面・影友  万葉集52 かげとも 南側

山下比売  ・・・ 竹生観音がある山の南側 麓
  ↓
有冨墓地の西側〜薬師池〜林さんの山〜林さんの家

万葉集74 吉野の山下

木の国は住吉神社付近、有冨の薬師池周辺のどちらか。
下影比売の「山」 は竹生観音の山だと思う。

万葉集54 巨勢山 坂門
有冨墓地から大迫池上の尾根に登る山道が昔あって「山門」 と呼ばれていた。
岩谷さん家前の坂には椿が多い。

万葉集55 木人樹人 亦打山  植林か


の宿祢
味師の宿祢

万葉集3、4 野、の大野

「内」 の場所は狩猟場なので、
有冨墓地〜薬師池下の田〜大迫池西側の柿の木
の場所に比定できる。



天子南面 有冨の「林の山」 
記紀・万葉の中心舞台は竹生観音の南麓に位置する「林の山」
薬師池の西側 孟宗竹を伐採した場所


有冨の南方向の吉野は椋野、藤ヶ谷
神武東征の吉野は竹生観音、蒲生野山田
懐風藻の吉野は竹生観音




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万葉集48  有冨 小字「谷町」 の考察

2018/05/26 20:56

直線上
ハンドウ山の頂 ― 上の山古墳 ― 明見田川の河口
方位 西南西。 万葉集 2 香具山はハンドウ山(有冨竜王社) である。

植松古墳 ― 観音堂古墳 ― 秋根古墳 ― 一の宮住吉の山


小字「谷町」
有冨 字「谷町」 場所 竹生観音の登り口〜林さん宅〜薬師池

老子 六章 谷神不死、玄牝 の場所である。
竹生観音では、かつて馬の祭事が行われていた。


天斑馬
万葉集 内野の大野、阿騎野での乗馬・狩猟

内野、阿騎野の場所は
竹生観音の参道入口〜林事務所〜薬師池〜有冨墓地
「林の山」 の孟宗竹の竹林を伐採したら平地が現れた。
薬師池〜有冨墓地 は今でも猟犬と猟銃による狩猟場である。

字「谷町」 は、老子 六章 谷神不死 玄牝 の聖地である。

竹生観音の隣に妙見社があり、風水の北方の山 玄武。
玄武の麓に位置するので玄牝。

水の神  猛田邑 菟田主水部 水取(もひとり)

薬師池の西側を「イナリ山」 といい豊受大神のことなら穀物を表す。
字「谷町」 の町を漢和辞典で調べると、田の畔、Tの形

薬師池の南側に薬師寺跡がある。 尼寺だったという。
2、3年前に市の文化財保護課 小林氏が調査済み。

薬師如来は徐福が求めた不死の仙薬と関係する。
天の真名井 薬師池

竹生観音の山は鳳(おおとり) の形をしており、とくに大年池東側からの眺めは威厳があって立派である。
  ↓
倭京の明堂は大年池の入り口付近にあった。
字「中村畔」 万葉集 なかなかに


江戸時代の地下上申絵図では有冨墓地は「大谷」 と記されている。
逸文 常陸国 に「大谷」 があり、榛の巨樹は榑木=高木神 であろう。
東国の常陸国はハンドウ山の尾根筋で、有冨上は青丘国です。


青丘
山海経 海外東経 丘国
「青」 は東

野馬台詩  青丘与赤土 茫々遂為空

万葉集48
東 野 立所見而 反見為者 月西渡

荘子 逍遥遊 では野馬=陽炎(かげろう)
万葉集48 は 林さん宅から大迫池の上の尾根を見て詠んだ歌
有冨の平田さんが所有する古地図では大迫池の上の尾根の地名 「草境」

高野、高松野、高円野
「野」 はハンドウ山の頂 〜 大迫池の上の尾根筋 「草野境」 をさす。
野の「円」  前方後円墳はハンドウ山の尾根の形

魏志倭人伝=老子(道家)+墨家
諸子百家の観点から魏志倭人伝の思想を調べると老子と墨子である。
道家、墨家は薄葬。 関西、北部九州の厚葬がある場所は邪馬台国ではない。


  牛に乗った老子 
万葉集の間人老、穂積老の「老」 は老子
老人=大歳。 大年池の西側、中村勝さん宅に牛を祭る大歳社がある。
真人は「道」 を得た人  大原真人、伊香真人、瀛真人
有冨の庄屋 儀万さん 「儀万」 の意味は「道」 または天皇 を表す。

下関市有冨上は老子の里!


新説
有冨 字「谷町」 場所 竹生観音の登り口〜林さん宅〜薬師池
「谷町」 の地名由来は 老子 六章 谷神不死、玄牝

万葉集48
林さん宅から大迫池上の尾根を眺めて詠んだ歌である。



林の臣 古事記
竹生観音は蒲生野山田にあるが住所は有冨の字「谷町」 である。
老子 六章 の 谷神不死、玄牝 は竹生観音も候補地である。

蒲生野山田 字「横山」 とは別に、
山口県風土誌 第9巻 蒲生野 〇境界 P380 では、
蒲生野と有冨の境界
蒲生野と小野との境界
が横山であり、竹生観音の山を蒲生野側では横山と呼んでいる。

孝元記に林の臣がでてくる。 波多の臣と親類か。
白川静 「新訂 字統」 では林の字に「祖霊を迎える礼の整ったさま」 の意味がある。

万葉集18 三輪乃山 大賀(大神か)さん宅付近か
万葉集19 始乃 ・・・林さん宅
万葉集2021 蒲生野
万葉集22 題詞
十市皇女の伊勢神宮に参り赴きし時に、波多横山の巌を見て、
  ↓
深坂幹線用水路
竹生観音から流れ落ちる渓流の出口から渓流伝いに竹生観音に登った。
当時すでに登山道があったのかもしれない。
湯津盤村の伊勢神宮は竹生観音だ。


続日本紀
続日本紀B369-8
薬師寺の僧華達は、俗名山村臣伎波都なり。

有冨の薬師寺跡は山村さんの家の近く、山村さんの田畑の北隣にある。


続日本紀B41-7
池上君大歳(朝妻金作大歳) ・・・ 大歳池、金鋳ヶ谷

市原王 ・・・ 字「市ヶ原」


続日本紀@201-16
大倭国宇太郡波坂郷
脚注21
大和志に「已廃。 存 平井村」 今奈良県宇陀郡榛原町平井のあたりか。
  ↓
昭和40年代まで字「善波」 に小さな湧水池があった。 坂がある。
有冨の平井さんの家

続日本紀の奈良県は下関市有冨上のコピー!


神仙思想の書
懐風藻 道家
吉野は竹生観音

常陸国風土記
筑波山の歌垣は竹生観音

老子 六章 谷神不死、玄牝=筑波山の歌垣=下関市有冨の竹生観音




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その位置は?

2018/05/13 03:09

古代史で、その位置が問題の項目
邪馬台国
東海の君子国
東海の三神山 (瀛洲、蓬莱山、方丈)
扶桑  扶桑が日本国内にあるなら羿(ゲイ) は日本人である。

燕地 倭人
呉地 東鯷人

徐福の東渡 夷洲、澶州

呉王孫権の東方遠征
230年(黄龍2年)、衛温・諸葛直に1万を与え、夷州と亶州の捜査を行わせた。 夷州から数千人を連行するも、この捜査は失敗に終わり、孫権は、衛温・諸葛直を処刑した  Wikipedia 孫権

論語 九夷
論衡 周の時に、倭人が鬯艸を貢す


中国正史
東夷伝 Wikipedia
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7%E4%BC%9D

東夷 Wikipedia
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7

(私見)
「東夷」 に中国東北部や朝鮮半島の各国は含まれず、「東夷」 は日本を示す。


諸子百家 Wikipedia 
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E5%AD%90%E7%99%BE%E5%AE%B6

(私見)
諸子百家の記述は古代の中国ではなく縄文時代の日本だった!
韓国人が「孔子は韓国人だった」 と言って顰蹙をかったが、諸子百家とそこで語られる聖人君子たちは原日本人だった。

中国の諸子百家=縄文時代の原日本人 説



歴史作家 前田豊  出版社 彩流社
『古代神都 東三河』 1996年4月
P221
山海経は日本の出羽出身者が中国に渡って書いたもので、山海経は紀元前2000年代の古代日本風土記が元になっている。


『倭国の真相』 1997年1月
P221
「太平御覧」 南海経 南倭・北倭
「釈日本紀」 南倭は東海の女国、女王国、東海の姫氏国

小林恵子「三人の神武」 東倭


『消された古代東ヤマト』 2003年2月
P86
平田篤胤 三皇五帝は扶桑国の出で、日本の皇神等である。




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白水郎 崎守 伊勢国

2018/05/11 00:45

記紀・万葉、風土記の全部は下関市域である。

白水郎
淡路島の野島 製塩 ・・・ 六連島の音次郎遺跡

白水郎、白崎の 白=西。 揚子江の白水ではない。
吉母の淵ヶ谷は石灰岩の白い岩壁で宇部興産が採掘していた。

筑前 志賀の白水郎 製塩 ・・・吉母浜の製塩
白水郎は揚子江河口、江南の海人族ではない。 「下関市年表」 によれば、3〜4世紀に近畿系の庄内式土器・布留式土器を使って吉母浜で製塩していた人たちがいた。

仁賢紀 文庫書記B138‐末行 白水郎ハタケ
住道は吉母の若宮神社。

肥前国風土記の値賀島は蓋井島である。

あるいは、韓白水郎ハタケについて次のような考察もできる。
小文字で家系を記されるのは垂仁紀の都怒我阿羅斯等、天日槍である。
天日槍は海人なので、韓白水郎ハタケに通じる。 古語拾遺では 天日槍は「海檜槍」と記されている。 天日槍が最終的に落ち着いた但馬国 出嶋 は御崎 淵ヶ谷 丸瀬 である。 御崎馬の伝説がある所で「高麗の意呂山」 の「高麗」 は駒に通じる。 韓白水郎ハタケは天日槍、五十迹手、その家系の神功皇后と親戚。 韓白水郎ハタケは御崎の淵ヶ谷 丸瀬(丸山) の海人ではないか。

御崎の小川から海岸に出ると、大岩の上に弁財天の祠が立っている。
ここが角(つの、つぬが、つのしま) で、神功皇后の故郷か。
御崎は韓国語のペットボトルが数多く漂着して夜は密航者の上陸地だった。

黒嶋は「久留島」 ともいう。 久留=牽=引。 穴門の引島は吉母の黒嶋。
神功皇后の三韓征伐 下関の地元では吉母から渡海したと伝わる。

吉母、厚母と「母」 の字がある。
吉母の「母」 とは西王母であり、吉母浜〜毘沙ノ鼻が山海経の渤海である。
崑崙、西王母、渤海、流沙は吉母である。

山海経 常緑で花が赤い「若木」 は椿。 椿は日本原産。
山海経には日本の事が書かれている。


防人は崎守で、御崎の「御」 は神が居る所を表すという。
毘沙門天=防人。 「沙」 は流沙か。

神功皇后は吉母の不燃ゴミ埋立地から上陸した。
末盧国は御崎。 梁書では未盧国である。 御崎は室津に属していた。

宗像は環境センター吉母管理場か。
雄略紀で宗像に遣わされた凡河内直は大河原の河内社の人。


孟子によれば、舜は東夷の人、文王は西夷の人。
呂氏春秋では太公望は東夷の人。
宋書倭国伝 西は衆夷を服すること六十六国。
  ↓
西夷 吉母 本州の最西端 御崎
東夷 有冨 ヤマトは山東で、中国の山東は有冨 字「中村畔」 だった。

太公望は浦島太郎と同じく吉母で釣りをしていた。
黄帝、伏羲、堯、舜、禹、羿などは下関市有冨、吉母の御先祖である。
下関市の有冨上、吉母は中華文明発祥の地である!

下関市秋根 勝山支所 縄文の大溝は禹の治水事業跡!


蓬莱山が吉母の黒嶋なら、瀛洲は毘沙ノ鼻、御崎、蓋井島か。
方丈は鳳凰の形の山で、竹生観音の山。

静岡県の富士山は原始古代は煙を出す活火山であった。
蓬莱山は火山ではない。

隋書俀国伝。 俀=泰=大
泰山  東ヵ嶽 竹生観音の山 東側の峰 砕石場
大  有冨墓地の大迫池 日十大王 富本銭の「本」=大+十 

泰山は中国の山東省でなく下関市有冨の山なので、書経は偽書とされる。

魏志倭人伝の神仙思想=老荘の道家+墨子

邪馬台国の位置と併せて東海の君子国の位置もまた大きな論点である。

東海の君子国 考古資料
 飯塚市 立岩遺跡の清白鏡
 下関市 稗田地蔵堂遺跡の蓋弓帽


伊勢国
万葉集40
嗚呼見乃浦 ・・・ 垢田の鼻ヅラ 黒崎妙見
垢田のバイパス下の農業ハウス「山の神」看板

武久浜は因幡国。

内日の赤田代 五年神 垢田から移住してきた伝承がある。




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韓流 (半島起源説) 

2018/05/07 18:23

積石塚
福岡県新宮町 相島
山口県萩市 見島 ジーコンボ古墳群


前方後円墳
韓国で「日本式古墳」発掘される!4〜5世紀の朝鮮半島南部は日本人が支配していたことが判明! 追記
blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/033b10a5224397b63bad5b4dfa236d8f

歴史秘話ヒストリア - NHK - NHKオンライン
www.nhk.or.jp/historia/backnumber/303.html

前方後円墳の起源や原型、意味は?形の理由が気になる!全体が見える ...
ryuusnews.com カルチャー


2017年5月12日(金)放送の歴史秘話ヒストリア「飛鳥美人 謎の暗号を解け〜高松塚壁画のヒミツ〜」を視聴して
blog.goo.ne.jp/chiku39/e/572fb36683b41790d8d12c1154b0f4dd


「庚寅」銘文太刀の発見が意味する「日十大王」の真実
blog.livedoor.jp/wakankousa/archives/50629834.html


四隅突出型墳丘墓
四隅突出型“墳丘墓”は「古墳」では無いのか?その2
ameblo.jp/feijoahills/entry-10544554437.html

四隅突出型方墳の示唆すること【高句麗・新羅→出雲→東国のつながり】
web.joumon.jp.net/blog/2009/03/759.html


角川ソフィア文庫 風土記 下
五十跡手 逸文 筑前国
怡土郡
五十跡手奏して曰ひしく、「高麗国の意呂山により降り来し日桙の苗裔、五十跡手是なり



栗本慎一郎の本

『ゆがめられた地球文明の歴史』 栗本慎一郎 著 技術評論社 2012年
P237-末行
日本皇室は高麗の皇室も自らその祖と仰ぐ扶余と関係がある可能性がある。

『栗本慎一郎の全世界史』 栗本慎一郎 著 技術評論社 2013年
P8-3行目
北満州は蘇我氏の故郷
P168-12行目
物部氏は蘇我氏と同じく東北地方から日本に入った
P198-9行目
聖徳太子が異常にコマ(高句麗) との関係を重視していた



茨城県・岩手県
虎塚古墳 | ニッポン旅マガジン
tabi-mag.jp 県別・エリア別 08茨城県
   ↓
  ひたちなか市にある7世紀前半に築造された全長56.5mの前方後円墳が虎塚古墳(とらづかこふん)。 昭和48年に明治大学・大塚初重(おおつかはつしげ) 教授による発掘調査が行なわれ、横穴式石室内部に赤色のベンガラ(第二酸化鉄) が使用された装飾壁画 ...


岩手県唯一の前方後円墳の角塚古墳にカビゴンを倒しに行く
papurutentakuru2.hatenablog.com/entry/2016/10/10/210159

角塚古墳 奥州市胆沢区南都田
www.bunka.pref.iwate.jp/ciss/bunkazai/detail/id/170


前方後円墳は男根 - その形状に迫ってみた 定説から性交モチーフ、蓬莱山型まで
www.buccyake-kojiki.com/archives/1025422926.html


関東は朝鮮系か  埼玉県・群馬県の古墳、高麗神社
私見では、元寇の高麗軍と鎌倉武士は「人間性」 が異なるので、関東の人たちを朝鮮系とみることはできない。




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畔 「ぐろ」 と読む

2018/04/29 07:02

[PDF]山口県周辺の不老長寿伝承
petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/file/27285/.../D560014000008.pdf
  ↓
「畔」 は防長においては「ぐろ」 と読み、何らかの神霊の宿る石塁のことであるから ...

下関市有冨 字「中村畔(ぐろ)」


[PDF]中世 - 梅光学院
www.baiko.ac.jp/university/uploads/3dd35bfac6ee5e38f9577a53262f4e47.pdf




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幡生=高千穂宮 説

2018/03/31 14:33

幡生 字「桜田」 宗像神社の社殿跡。 その南に後山古墳
後山古墳の巨石は福津市の宮地嶽古墳に通じるか。

小字地名 「桜田」  桜井田部、木の花の佐久夜毘売
                       ↓
                竺紫日向の高千穂宮

小字地名 「狭間」 神武天皇の年少時の名前 狭野尊
場所は下関市教育センター付近
武久川下流条里遺跡は日本書紀の 「豊葦原瑞穂国」

日向の吾田、隼人
万葉集248  薩麻の迫門
もバス停 狭間町 付近

吉野の滝 藤ヶ谷町


生野神社の境内
岩瀬八幡宮 筑紫の磐瀬行宮か  伊予の湯の場所 不明 
人丸神社 万葉集の304 島門

穴門館 大穴牟遅の神

白雉 麻山は幡生の山。 生野神社、後山、中央工高の高台など。
文庫書記C308‐7
草壁連経 「醜」  葦原醜男、黥面、阿曇磯良
百済君(豊璋)

私見は皇子は山海経 海外東経 の大人国(宗像市・福津市) の人
宗像市と関西ヤマトは関係深い。
  ↓
壬申の乱の後、天武天皇の親族である関西ヤマトに政権がスムーズに移行



白川静 『新訂 字統』 によれば、
「醜」 酒を酌む
「経」 縦糸、測量して南北線

南北線は竹生寺(妙見宮) から南へ引く線で、
竹生寺 → 大年池の山側 → 国際高校の裏山(字「四方山」) →...

白川静によれば、山の「香」 も鬯の意味がある。
白雉の麻山は有冨の大年池付近である。

明治10年の山地番図によれば、ハンドウ山の尾根筋を「草野」 と記している。


参照
11/18 「土木の日」「もりとふるさとの日」
blogs.yahoo.co.jp/akasakahiro/57785907.html



穴戸、穴門の伝承地 異伝
穴戸  宇部市棚井
穴門  大木森住吉神社(厚狭郡 楠町 船木)

穴戸 山田  異伝
http://44051510.at.webry.info/201301/article_4.html




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岩谷古墳 八俣大蛇 幡生海人

2018/03/29 07:54

椋野町 岩谷古墳
有冨 字「中村畔」から見て、方位磁石の南 「火の国」 火=南

『下関市史 原始−中世』 平成20年
p.135
往古何時ノ時代ナリシカ火ノ風火ノ雨降リシ時此ノ内ニイワヤノ住ミシモノナルニヨリ...
  ↓
古事記 沙本毘古の反乱、燃やされる稲城
八塩折の紐小刀 → 八俣大虵の八塩折の酒 → 岩谷古墳から出土した甕

白川静 『新訂 字統』 で
熊襲の「熊」(ユウ) を引くと、熊=火・炎=融 の意味
「曾」 は甑から上る湯気。 鬼やらい の意味もある。 

熊=融 から、
融通王(弓月君)、功満王、波多、秦公酒、狛姓 蚕・絹織り
仲哀・応神・仁徳・雄略の時に百済から来朝した。


椋野町 字「蜘手」
鳥髪は幡生との境の字「鳥越」「甘吹」。 宝町(宝蔵寺) になるか。
「甘吹」 という地名は金属加工、鍛冶を連想させる地名だ。 足名
  ↓
鳥取の河上宮 横刀壱仟口
nihonsinwa.com/page/2838.html



土井ヶ浜遺跡 人骨 「英雄」  顔が潰されている。
綾羅木郷遺跡 人面土製品  安曇目か

斉明紀 文庫書記C370‐8
是の夕に、倉山の上に、有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。


海神の場所
http://44051510.at.webry.info/201410/article_15.html
  ↓
彦島 竹ノ子島の北側は 「鬼ヶ島」 と呼ばれていた。

武久川の河口→竹ノ子島の北側→六連島 の航路があった。
六連島の島民は生野神社の氏子 淡道の水夫
万葉集 野島の崎 六連島の製塩 音次郎遺跡

新説 幡生海人
福岡県宗像市の「宗像海人」 に伍する新説 「幡生海人」 をここに発表する。
魏志倭人伝の水人は「幡生海人」 である。

天武天皇(大海人皇子) は幡生の出身か。

宗像大明神
 武久 字「桜田」  葦原中国の宇佐嶋=武久川下流域条里遺跡
 吉母の西条 宗像さん家  海の北の道の中 主貴  道家の「道」 か 


万葉集2578 寝髪 触義之
  ↓
 王義之 中国人
 鬼 海人の入れ墨
新説 この女の相手の男は大海人皇子である。

参照
天武天皇2
ameblo.jp/oyasumipon/entry-11277353168.html
乳母は和泉郷の大豪族、安曇氏の中から大海人連が選ばれました。 これにより大海人皇子と名付けられたものでしょう。

私見
安曇氏は背の低い西北九州型弥生人
大海人皇子は土井ヶ浜の「英雄」 タイプ。 方士 徐福 を感じさせる漢人系
  ↓
皇子は山海経 海外東経 の大人国の出身である。
大人国=福岡県宗像市・福津市の宗像海人。 隋書俀国伝の王国の地


 山海経 海外東経 陽の谷=幡生の 旭 交差点 
東西に開けた谷 武久―宝町―椋野町 武久川の流域
朝日の直刺す国、夕日の日照る国  幡生の地名「旭」

『山海経・列仙伝』 全釈漢文大系 33 集英社 1975
p.430
朝陽の谷、神を天呉と曰ふ。 是れ水伯為り。 虫虫の北、両水の間に在り。
其の獣為るや、首人面、尾、皆青黄なり。

  ↓
八俣大蛇
椋野町 字「蜘手」 蜘蛛は手足が8本

天呉 川または海の神

新説
八俣大蛇は天呉という水伯で、荘子 神亀寓話の河伯か。
河伯は稲羽の素莵の鰐。

小倉北区 馬島 字「天志」

海人 須佐之男命 「汝が命は海原を知らせ」


伊勢の朝日郎
吉野の朝宮
泊瀬の朝倉
筑前の朝倉


白菊稲荷  武久浜遺跡 半両銭の出た石棺の横にお堂がある
稲羽の素莵
白水郎
白鳥の陵 (倭建命の墓)


地名 武久  武=建
建速須佐之男
倭建
熊曾建
武内宿祢
など


私は今まで 山海経 海外東経 朝陽の谷・天呉 を北九州市小倉南区 城野 と考えていたが、この2、3日、気が変わって下関市 武久川流域 かと思い立った。

吉母・永田・吉見 を重視していたが、武久・幡生の重要性を見直した。
伊勢は新垢田の絶壁海岸かも。




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生野神社 武久 幡生 

2018/03/27 20:51

生野神社 宮山古墳 (前方後円墳)
生野神社の幸せふくろうなど
jeezblog.blog.fc2.com/blog-entry-317.html

諸子百家など、古代の中国ではフクロウは縁起が悪い不吉な鳥とされる。
参照 漢和辞典で「梟」 を調べる。

耳がある 「木莵」 について
謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀(ひばり)ー10
blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/0c32e566289d70570fc7755eb3e32a7f

天武天皇の年齢 てんむてんのう
www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage640.htm


熊襲

蘇我蝦夷 文庫書紀C218-8 フクロウ
3月に、休留(いひどよ) 休留は茅鴟( ぼうし フクロウ のこと) なり、
豊浦大臣の大津(和泉国和泉郡の大津と解されている) の宅(いへ) の倉に子産めり。

倭国の菟田山 紫の菌(たけ)
有冨 ハンドウ山の尾根 大迫池の上


幡生の生野神社は「豊浦大臣の大津の宅の倉」 に比定される。
和泉なら、黄泉の泉津 か。


生野神社 付属博物館
展示物
小さな縄文風ストーンサークル
 ↓
日時計→日見彦→卑弥弓呼

生野神社の宮司が「磐座」 と呼ぶ小型ストーンサークルは卑弥弓呼が天文観測に使っていた物である。


遺跡
後山古墳 「掘ったほ!下関 2017」 p.11

後山古墳の北100メートルに宗像神社の社殿跡(幡生本町20番地)
参照 『ふるさと 生野史』 平成11年 p.371

字「桜田」 幡生駅の南600メートル 線路沿い
万葉集271 桜田部 「田部」 生野神社の宮司の氏名


武久浜遺跡
半両銭が出た場所の傍に毘沙門堂・正一位白菊稲荷大明神のお堂


六連島
島民は生野神社の氏子

六連島の山の神の森
 南の台 宗像大明神
 西の台 雲海大明神―青海大明神

朝鮮系無文土器
製塩土器


長門凡 下関市史 原始−中世  平成20年
p.158

白川静の漢和辞典 『新訂 字統』 で「凡」 (ハン) を調べると
方と呼ばれる異族  私見では竹生寺の山は「東海の三神山」 の方丈
祖祭の名  中国道教の大聖地だった邪馬台国 下関市有冨

凡=風=鳳  竹生寺がある山は鳳凰の形

長門凡の位置 有富 字「中村畔」 (記紀・万葉の倭京)

白川静 『新訂 字統』 『説文新義』 で、漢字 「大」「中」 を調べる。
和名抄 長門国豊浦郡 私見
 田部 幡生 字「桜田」
 日内 有富のハンドウ山 登山道・山頂・尾根
 額部 有富 大迫池・大年池の周辺

関西ヤマトの木簡工作
大宝律令(701年) の時に下関倭国から関西ヤマトに政権が移った。
この時、下関倭国の小区が関西ヤマトによる木簡工作によって列島全体に配布され、新設で国・郡・郷、大神社の「設定」 となり、行政祭祀の場ともなった。 突然、場所が「糸島」 とされ韓鉄の施設ができ、場所が「出雲」 とされた所には巨大な出雲大社が建設された。
太安万侶の墓は有冨墓地の周辺にある。 奈良県の太安万侶の墓は工作物である。

『川中風土記』(増補改訂) 徳見光三 著 昭和45年
p.23
下有冨石棺 字「市ヶ原」
石材に朱塗のあとが鮮明に残存している
と載っているが、『下関市史』 の遺跡・古墳では取り上げられていない。


有冨    青丘の榑木 日本武尊
幡生宮の下町  不吉の鳥 フクロウ 熊襲

六連島―武久川流域 渡来系の地
山海経 海外東経  朝陽の谷・天呉 か?




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響灘の古代人

2018/03/26 06:33

響灘の弥生人
日本古代史をとりまく謎 - 邪馬台国大研究
inoues.net/mystery/mystery.html

黒歯国・侏儒国 - 邪馬台国大研究
inoues.net/mystery/kokusikoku.html
  ↓
私の見方
「混一疆理歴代国都之図」 によれば、壱岐から最も近い場所は本州の最西端(下関市御崎・室津) である。

邪馬壹国の場所
azuminodiary.blog82.fc2.com/blog-entry-501.html
  ↓
現在の江蘇省宿遷市宿城区の行政府がなぜ会稽東治と言えるのか?


北部九州の弥生人 「戦乱逃れ渡来か」
horubai.jp/content/nnp_news/126

田中良之遺稿集
www.scs.kyushu-u.ac.jp/~yt1/activity/ytworks.html



ゼンリン住宅地図
1971年版
安岡八幡宮の真南麓に 日名子さん家
懿徳天皇、考昭天皇の陵墓 畝火山の真名子谷

蒲生野 三郎山 の東側 安川さん
竹生寺から流れる渓流が天の安河か


幡生宮の下町 無敵さん家  下関酒造の東側 大通り沿い
「無敵」 とは日本武尊に誅された熊襲の川上梟帥だろう。
文庫書記A86‐8
是を以て、当時の諸の人、我が威力に勝へずして、従はずといふ者無し。

女郎ヶ迫古墳  下関市史 原始−中世 p.141

熊襲の川上梟帥の発言は穴門の伊都都比古と似る。 文庫書記A20‐1
吾は是の国の王なり。吾を除きて復二の王無し。


生野神社の宮司 田部さん
「武久川下流域条里遺跡」
『掘ったほ!下関 2017』 p.15下
弥生時代中期から古墳時代にかけての水田稲作の展開
  ↓
記紀の 「葦原中国」 の場所


邪馬台国 有冨の儀万さん
狗奴国 幡生宮の下町 無敵さん




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秋根遺跡 土坑墓 LG039

2018/03/23 03:05

秋根遺跡 仿製鏡が出土した場所 
新幹線 新下関駅 新幹線乗り場 の西に ダイハツ店・しんしもクエスト

ネットの国土地理院地図で計測
 竹生寺、またはその横の妙見宮
 椋野の妙見山、または門司の風師山 (風師は仙人) の頂
を直線で結べば、
 塚の原遺跡 石原156番地  L字状石杵 朱の精製地
 ダイハツ新下関店・しんしもクエスト東棟
が線上にくる。 西偏 5°
楠乃の字「小山田」 もこの線上なので、仲哀天皇の墓地とみれる。

新幹線 新下関駅の建設 秋根遺跡の発掘調査報告書
1974年 書店は空前絶後の邪馬台国ブームに沸く


土坑墓
LG039  ダイハツ店の横 しんしもクエストの東棟の中央 
内行花文仿製鏡 鋳上りは不良 破砕 
ガラス製小玉164個 五百津の御統の珠か

出土した内行花文仿製鏡の分類
UA式 小田富士雄による分類

『弥生時代の青銅器生産体制』 田尻義了 著 2012
p.179 図103
によれば、第2型 c類 (比恵遺跡)

下関市立考古博物館 公開講座 20140719
「邪馬台国前夜 小形仿製鏡の広がり」
講師 九州大学 田尻義了 先生
この時のレジメを見てもよい。


LG025  円盤形鉄製品 場所は不詳
1974年の報告では鉄鏡とされた。
土坑墓の土から平安後期以降の土器片が見つかっている。 これを「混入」 と見れば、古事記の伊斯許理度売の鉄鏡といえそう。 私見は、「弥生時代の鉄製品とすれば他に類例がない」 (文化財保護課 小林さん談) から平安時代の土坑とされたか。


小字地名
秋根 字「本」

新下関駅 新幹線乗り場 字「志満」 その北隣「燈台」
万葉集867
枳美可由伎 気那我久奈理奴 奈良遅那留 志満乃己太知母 可牟佐飛仁家里
志満のすぐ近くに奈良がある。 地名「燈台」 は天照大神の伊勢か。

秋根 字「塚本」 の土坑墓 LG039 は紀伊国の日前
仿製鏡は日像の鏡


伊倉 地名と歴史
『三代実録』 の貞観15年(873) 12月15日 に
長門国正六位上 意久神に従五位下を授ける
とする記事がある。

久神の「意」=思金の神 の「思」 に通じる。
  ↓
秋根遺跡の仿製鏡を調べたら「鉄鏡」 と報告された鉄製品も出土していた。



考古博物館
[PDF] ごあいさつ - 下関市立考古博物館
www.koukohaku.shimonoseki.yamaguchi.jp/forth.pdf

年々、入館者が減少する考古博物館
秋根の消防署の前から出土した弥生の仿製鏡は天石屋戸の鏡とすれば行列ができる博物館に変わる。


ヤマト政権、ヤマト王権 ・・・ カタカナ書き
桜井市纒向学研究センター
www.makimukugaku.jp/

大倭朝廷 ・・・歴史ある漢字書き
有富 字「中村畔」
纏向の場所は県道長安線 有冨の遠山運送の裏であり、畑の西側奥に大きな溝が残る。 これが「纏向の大溝」
2018/03/22 09:40 市の文化財保護課 藤原さんが「大溝」 を視察


有冨のハンドウ山に生えていた松は1955年ごろ全滅した。
戦前は岩谷さん宅前の山には幹の直径1m の松の森があり、ハンドウ山の頂にも大きな松が何本も生えていた。 松は、漢字のツクリが「公」 で常緑、吉祥の印。

彦香殖稲天皇はハンドウ山の頂・尾根に居た。

墓は畝傍山南繊紗谿上陵
  ↓
「繊紗」 は珪砂で、綾羅木郷台地、あるいは安岡八幡宮の迫山

畝傍山は綾羅木郷台地か
畝傍山南 繊紗谿上 の場所 考古博物館の正面 現在宅地造成中の所
または谷地形の字「宝前」


1972年 ゼンリン住宅地図
安岡八幡宮の真南麓に 日名子さん家 がある。 日名子さん家が大昔からこの場所に住む土着の人なら、畝傍山は安岡八幡宮がある迫山だ。



漢字の「草」 には創(物事のしはじめ) の意味もある。

吉母の草場川、草場山
有冨のハンドウ山の尾根 明治10年の地図で「草野」 と書かれている。

天地の開闢 地名の「草」 から
 吉母の黒嶋 オノゴロ島
 有冨のハンドウ山の尾根 邪馬台国の場所


倭、委奴 漢字「倭」 の新解釈
古(いにしえ) の中国磁石では、上が南、下が北

漢字 「委」 は北が「女」、南が「禾」(アワ、イネ、田畑)

北 ハンドウ山の頂・尾根・山腹 に女王さま、巫女たち
南 字「中村畔」  麓に稲田の畔、農民の村

続日本紀B41-7
池上君大歳 は有冨の大歳溜池の人である。
池上女王、広野姫 から農協勤務の中村勝さん宅に比定できる。


白川静の大型漢和辞典で「倭」「委」 を調べると、
禾の作り物を被り、稲魂・穀霊に扮して身を低くして舞う女
農耕儀礼で田舞をする男を「年」、女を「委」 という。

文庫書紀D58-4 天智天皇10年5月5日
天皇、西の小殿に御す。 皇太子・群臣、宴に侍り。 是に、田儛再び奏る。

続日本紀D37-16  田儛


邪馬台国である下関
下関の邪馬台国は中国神話の神仙境であり、道家の発祥地。

勝山支所を建て替えた時に発見された「縄文時代の東西大溝」
は、禹が洪水を防ぐため東方向に掘った水路だ。


関西のヤマト政権 精神文化、エートス
ピラミッド、パルテノン神殿など巨大建築物の文化
シルクロード、グローバリズム、ユダヤ金融資本、移民都市、摩天楼
  ↓
近年、九州大学 考古学 が力を注ぐ 「ユーラシアの物質文化」
宮本一夫 先生 (九州大学 人文科学研究院)
www.youtube.com/watch?v=D_WqCmh5TT0


下関の大倭朝廷 精神文化、エートス
山上で霞を食べて生きる仙人たち。 道家の文化、質素倹約、小国寡民
山紫水明、花鳥風月。 山水画の世界

老子 素樸
漢字 「樸」
 切ったままで全く加工してない丸太
 皮は剥いであるが細工してない生地のままの木材、しらき

万葉集 「黒木」
1637
1638
太上(元正) 天皇、聖武天皇は皮を剥がない材木の掘っ立てに住んでいた。


魏志倭人伝は老荘の道家思想である。
墨子の語 「大率」「鬼道」。 神道の「神社」 も墨子に出てくる語である。



室津の光蓮寺 先祖は鎌足
http://44051510.at.webry.info/201310/article_51.html
  ↓
下関の郷土史料によれば、藤原鎌足は室津の人だった。


有冨の中村大王(おおきみ)
http://44051510.at.webry.info/201702/article_18.html

『日本後紀』 集英社
753-12  773-6
高位の人が入室して来たら、跪伏にかえて起立して深く拝礼しろ
貴い者に会ったら、跪くことをやめて起て

   ↓
天武紀 文庫書紀D184-7 と同じ。
日本後紀も古い時代の下関倭国の史料を使い回している。




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有冨 牛肉と酒を饗す地

2018/03/17 10:17

有冨
白川静 の漢和辞典で調べて
「有」 肉の御馳走を薦める
「富」 酒樽のように、器腹の大きいふくらみ型の器
  ↓
神武東征の皇軍 菟田 弟猾 牛肉と酒
牛 大年池横の中村勝さん宅に牛を祀る大年社がある。
酒 ハンドウ山の頂に割れた大甕の伝説

大年神と牛 古語拾遺の「御歳の神」 に通じる。

南北 竹生山と火ノ見山の頂を結ぶ線
東西 ハンドウ山と梶栗浜遺跡を結ぶ線

梶栗浜遺跡は先代旧事本紀 巻第一 橘の小戸橿原

東西南北の方位については
 地図上の東西南北 (真東、正東など)
 北極星 (竹生観音の隣に妙見宮がある。 玄武)
 方位磁石 下関市では 西偏 7°(原始古代の西偏角は不明)
 夏至・冬至の日の出、日の入り (西南西など)
の4種類がある。

ハンドウ山を前方後円墳に見立てれば、クビレ部、造り出しに相当する場所が重要ある。

ハンドウ山から西南西の方向は
ハンドウ山 登山口前の空地―綾羅木郷 石松さん宅の祭祀遺跡
山は了元寺の前、土器を作る時の焼き場 (現地説明会あり)
  ↓
(参照) 平成29年度 発掘速報
「掘ったほ! 下関 2017」
p.4下
綾羅木郷台地遺跡(木舩地区)
弥生土器を焼いた窯跡か!?
焼け締まった土坑110

山の「火」 の意味が解明された。
弥生土器の野焼き場のことだった。


牛は五行配当の中央
藤原宮は大年池横の中村勝(まさる) さん家
新益京の「益」 水が皿から溢れる、盈(みつる)

地勢 中村勝さん宅は有冨上盆地の中央に位置する小丘


伊倉
意久神  「意」=思い 思金の神
秋根遺跡から出土した仿製鏡は天磐戸の鏡
秋根は紀伊国 和歌山市秋月と地名対応する。
紀伊は「木」 で東の方位


吉野
神武東征の吉野 蒲生野の横田(須玖式土器で国つ神)

持統紀の吉野
A案
福江八幡宮 境内 伊勢神社 祭神 天照大神
吉野は蒲生野か

B案
吉見上 滝本神社(お伊勢さま) 祭神 天照大神
吉野 吉見の竜王山、船越  

C案
有富古墳の上 吉岡さん家があった。 吉岡、吉本という家
伊勢は石原橋〜秋根 の綾羅木川の旧川筋
石原コスパ ペットショップの小字「伊勢防」

万葉集52 熊野町


三笠山
月には兎、ヒキガエルがいる。
卯 東の方位
形山に「蟇畠」 (ひきばたけ) という地名
三笠山は青山で月人男
青山は茅とヨモギの禿山だった。 若草山

阿倍仲麻呂
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

しかし、
阿倍氏は安倍晴明の土御門家なので、「土」 は五行配当では中央だから、
有冨上盆地の中央位置の小丘にある中村勝さん、中野利通さん宅に住んでいたと考えられる。 その場所から見える三笠山はハンドウ山である。


方位・方角  一 直線上にくる
俵山の能満寺山―菊川町の植松古墳―仁馬山古墳― 武久川の河口

小倉北区 日明 一本松塚古墳の線画
北北東 方向の端 は下関市 豊田盆地 に似る。

長門市俵山 能満寺山に空海伝説がある。
能満寺山の頂と武久川の河口を直線で結べば仁馬山古墳などが直線上にくる。


方位磁石の西偏角 7°
若宮古墳の後円部―仁馬山古墳―形山の須玖式土器 出土地―菅原神社



出雲
八所神社 北九州市 八幡西区 野面1-18-53
西側に 「日隅の丘」 と呼ばれていた場所


大、十
隅田八幡神社 人物画像鏡 日十大
古い方位 上が南、下が北

大 有富の大迫池、大年池 ハンドウ山の尾根すじ
十 太陽の東西線・南北線がクロスする地点 大年池近く、字「中村畔」

富本銭 実物 「本」 の字体は 「大」 +「十」


日 神武東征 道臣=日臣。 老荘思想の「道」。 ハンドウ山の登山道
十 風水の 「天心十道」



前方後円墳の形
前期 有富のハンドウ山(有冨竜王社) がモデル
中期 吉母の黒嶋がモデル

有冨のハンドウ山上に居た天照大神が晩年、吉母に移った。


シリーズ 「遺跡を学ぶ」 新泉社 1500円+税
『邪馬台国の候補地 纏向遺跡』 石野博信 著 2008年

箸中山(箸墓)型古墳
纏向勝山古墳
p.72
北側のクビレ部 出土のU字型木製品
私見 電(銅鐸の鈕 に似る。 いなずまの光)

有冨のハンドウ山は住吉神社の神官が来て雨乞をしてた雷山で、山上の奥に落雷で倒れた木がある。
倭の長尾市、大倭の長岡  ハンドウ山上の尾根続き の場所
乳白色の石英があり、伊勢神宮の火打ち石  伊勢=天照大神の場所
鳥見茂岡の白庭の地 長髄彦が居た場所

神仙境で霞を食べて生きる仙人ゆえ考古学の遺跡・遺物が発見できない。


大和三山はなかった
奈良県の大和三山は3つとも孤立峰であり、風水の龍脈・龍穴ではない。

文庫書紀B44-3  菟田の墨坂神=大物主神、注七 斎戒
=文庫書紀@236-末行  天の香山の埴土、埴安
  ↓
異説異伝
菟田の墨坂神=大物主神
「斎戒」 の共通字で示される同じ所
を採って大和三山はなかった。

日本書紀の異説異伝として、
大和は3つの有名な山に囲まれてないという記述がある。


畝傍山には木が少ない。
文庫書紀C170-4 畝傍山 木立薄けど ...


日本書紀 允恭天皇 42年11月
ここに新羅人、恒(つね)に京城(みやこ)の傍の耳成山・畝傍山を愛づ。

耳成山 鳳凰の形をしている竹生山
畝傍山 綾羅木郷台地か

火ノ見山、一ノ宮本町の山 は目立つ円錐形で美しい。
しかし孤立峰だから風水パワーがある山ではない。

青山は孤立の山に見えるが勝山、四王司山から連なりがある。
須玖式土器が大量に出てくるので狗奴国系夷(えみし) の地である。

倭国の領域は綾羅木川の北側。 石原・有冨〜吉見・永田・吉母。
綾羅木川沿いで形山の青山は一番目立つ立派な山であるが倭の国内ではない外様の地である。

風水で見たら最高に立派な山は鳳凰の形をした竹生山である。
竹生山の麓が山海経 海外東経 の青丘国である。
竹生山は 「東海の三神山」 の方丈である。

新羅人は風水によって山の形の良さを見た。


投馬国
私が邪馬台国の場所とする下関市 「石原・有冨〜吉見・永田・吉母」
から見て「北九州市〜筑豊」 は海を渡り、遠賀川を川上りして行く所なので、
筑豊=投馬国 が考えられる。
投馬国は 「水行」 で行く場所である。

投馬 ツマ

飯塚市立岩の周辺
出雲 イヅモ
泉 イヅミ


老荘思想の 「道」

寿命
不老長生


根の堅州国
地名で 「堅」 は 博多の堅粕、飯塚市片島の堅磐(かたしま)郷




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衒学財  東海の君子国

2018/03/10 18:26

飯塚市 立岩遺跡から出土した連弧文鏡は衒学財である。
九州大学の考古学者、岡崎 敬(たかし) は明き盲だった。

従来的な「威信財」 説とは異なる「衒学財」 説を私は提示する。
「威信財」 はパッパラパーの大衆に自分の権威・権勢を誇示する物
「衒学財」 は学識がある層に自分の学力を自慢げに見せる物


広辞苑によれば、
衒学 学問のあることをひけらかし、自慢すること。
ペダンチック

連弧文清白鏡は中国・楽浪郡の役人や使者に見せたい衒学の物だ。
自分が老荘思想等の研究家であることを披露する物であり、外交交渉でも相手が「先生」 視してくるので役に立つ物である。

私は『山海経』 海外東経 君子国 の場所を遠賀川下流の岡垣町、もう少し広げて中間市までに比定する。
立岩遺跡から出土した衒学鏡は東海の君子国が付近にあることを示唆している。


キーワード
衒学
君子国


稗田地蔵堂遺跡 下関市
立岩遺跡と同類の連弧文清白鏡
楽浪郡の蓋弓帽

蓋弓帽が持つ政治的意味
従来の威信財説
自分の権威づけを誇示しようと、棒の先につけて公衆の前で振っていた。
ローカル権力の財宝
被葬者は東夷の蛮人

私見 衒学財説
楽浪郡が 「東方の君子国」 の王にプレゼントした物
被葬者は楽浪郡の役人を脱帽させる老荘思想等の学問家 「先生」
高い徳を持ち礼を知る人
  ↓
「東方の君子国」 の位置
綾羅木川の流域
または
同類の連弧文清白鏡から遠賀川流域 (二次的に配布されたもの)


従来解釈
一介の(ちり芥、わずかなもの、とるにたりないもの、たいした価値のないつまらないもの)地域政権が持っていた威信財
  ↓
私が従来からの認識を一変させる「東アジアにおける ... 」 解釈を提案
九大考古学者 岡崎 敬 の学説になかった新たな切り口 「君子国」
「東海の君子国」 の所在を示唆する物 連弧文清白鏡、蓋弓帽
  ↓
下関市立考古博物館の来館者が展示されている蓋弓帽を見る目が変わる。
『山海経』 海外東経、『淮南子』 地形訓 の 「君子国」 王が所持していた物!
  ↓
東アジア
中国、朝鮮半島の考古学界も注目する古代史 「君子国」 の発見


マトメ、主張
「君子国」 を発見!
蓋弓帽は 「君子国」 の証拠


梶栗浜遺跡 朝鮮半島系
細形銅剣
多紐細文鏡

『最古の王墓 吉武高木遺跡』 常松幹雄 (著) 2006年 2014年2刷 
シリーズ「遺跡を学ぶ」 新泉社 1500円+税
p.51 図37
各地の多紐細文鏡
外区の鋸歯文から、太陽光線を幾何学的文様であらわしたとする説がある
  ↓
天日槍の日鏡(ひのかがみ) を想起させる。

稗田地蔵堂遺跡の多紐細文鏡は携行用の小型風水羅盤に似る。
「日鏡」 を持っていた天日槍は風水師だった。

外区のギザギザ文様に合わせて方位を測定していたのだろう。
梶栗浜遺跡と青山の頂を結ぶ線の西偏から当時すでに指南車があった。

綾羅木川流域の古代人は方位方角に強烈な関心を持ち、正確に方位を調査していた。

一直線上に並ぶ
仁馬山古墳―稗田地蔵堂遺跡―武久浜遺跡―立岩堀田遺跡


日明一本松塚古墳 赤い線の壁画  小倉北区
中国の方位は上が南、下が北である。

天(あめ) 邪馬台国  下関市 有冨 字「中村畔」
地(つち) 出雲  飯塚市 立岩遺跡、桂川町 大塚古墳

日明一本松塚古墳の放射する線画は大きな木に広がる枝のよう。

日明一本松塚古墳を中心点として、南東の方向は
南小倉駅―城野駅―阿部山公園駅―下曽根駅
少し曲がる日豊本線の線路が描かれている。


ゼンリン住宅地図を調べると、桂川町の東隣、嘉麻市に 「野見山」 姓が多い。
野見宿祢の末裔の人たちと思われる。

ノミヤマ 【野見山】5 日本姓氏語源辞典
name-power.net/fn/%E9%87%8E%E8%A6%8B%E5%B1%B1.html

下関市吉母 字「安常」
飯塚市 安恒

下関市吉母 大河原 字「国枝」
飯塚市 枝国

下関市の西端と飯塚市 平塚の出雲 周辺の地名が似ることは北九州市小倉北区 日明一本松塚古墳 壁画 線画の枝分れ方向 の解読につながる。
  ↓
地名やゼンリンで住民の名前を調べたりしても 「考古学」 の論文が書けない。
  ↓
素人の出番。 学者、学術研究者でない素人だからできる発見だ。

素人は科学的証明の「考古学」 でなく、何でもありの宝探しなので、「考古学」 のガチガチのやり方に固執せず、「黒い猫でも、白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫だ」 で行くから、素人は恐い。 ハズレてもその失敗を次にいかすだけだ。


飯塚市 枝国  山ノ神古墳 昭和8年(1933) 頃に発掘。 消滅。
6世紀前半 前方後円墳。 前方部、石室は南東方向を向く。 円筒埴輪列
遺物は後漢末頃の 「王氏作」 銘盤竜鏡、画文帯神獣鏡、衝角付冑・挂甲・轡・辻金具・雲珠・杏葉・木芯鉄張輪鎧・ガラス製丸玉・金銅製三輪玉・鉄刀・鉄剣・鋤先・鉄斧・金銅製胡籙金具などが出土している。
画文帯神獣鏡は熊本県菊水町 江田船山古墳、宮崎県西都市 妻古墳、同県高鍋町 持田20号古墳のものと同范関係にある。 遺物は九州大学に保管されている。

(参照) 『福岡県の地名』 日本歴史地名大系 41 平凡社 2004年
p.302上 嘉穂郡穂波町



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笠沙=扶桑 説

2018/03/09 06:12

下関市立考古博物館
「よみがえる下関の歴史T−吉母浜遺跡−」
  平成9年度企画展冊子

小田富士雄は1990年代中盤、下関市立考古博物館ができた時の初代館長であり、まず吉母浜遺跡の企画展をした。 だが吉母の黒嶋が前方後円墳の形をしていることに注目しなかったので明き盲だった。
東海の三神山の瀛洲は下関市吉母の黒嶋である。

扶桑は瀛洲である吉母にあった。


白川静 「説文新義」 はどこの図書館にもある。 たいへん難解で読んでも書いてることがさっぱり分からんけど、古代史に関して漢字からアイデア、ヒントを得たい人は手元に持っておきたい必需品の漢和辞典 全集 である。 凡人に思いつかない漢字の意味が載るので、表記の漢字から思いつきの突破口を開く時にうってつけだ。
  ↓
『白川静著作集 別巻 説文新義 3 』 平凡社 2002年
巻六下 桑部 p.110
地名としては桑林、動詞としてはの義であると論じている。
  ↓
の「桑」 は「喪」 だ。

扶桑の地は墓地だった。 前方後円墳の造形は扶桑の墓地を表す。
徐福は扶桑の瀛洲に葬られた。

岩波書店 日本古典文学大系 1 古事記 祝詞 p.129
此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。 故、此地は甚(いと)き地。

「笠沙」 と は扶桑だろう。

扶桑=瀛洲 説 吉母
吉母 字「安常」 安常さん家がある所。 畑に杉の木が1本植えられている。


扶桑=御堂遺跡 説 永田郷 字「木の中」 「御堂」
「韓国」 は室津・黒井・吉永・川棚にあった韓人の入植地域か。
古事記の文言を読むと高千穂宮は永田郷 妙寺 または字「永田石原」 にあり、
扶桑は縄文遺跡の御堂遺跡 付近とも読める。

扶桑の場所は吉母、永田郷、どっちか決めがたい。
笠沙=扶桑 説を出しておく。


日立の樹 この木なんの木 歌詞付き
www.youtube.com/watch?v=WYNC8JzV5j8




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狗奴国を掘る

2018/03/08 12:14

狗奴国を掘る
下関市立考古博物館 学芸員 松永さん談 2015年頃
「私らは考古学をやってるので、狗奴国の場所は濃尾平野、または関東」

私見
下関市形山 青山の南西麓から遠賀川以東系の須玖式土器が大量出土
1970年代はじめ 高松塚古墳の発見
1980年代半ば 神庭荒神谷遺跡の発見
最近
下関市形山から須玖式土器の大量出土は狗奴国の位置を示す大発見である。


「天子南面す」と言いますが、「南に面する」 ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14176847689
〇〇〇さん
左のは太陽などが上り、軍師国政の助言をする尊師の席。

青山の「青」 は五行配当の方位で東である。
青山の「青」=東 軍師、尊師 ・・・ 素戔嗚尊


学問研究 「考古学」 のやり方
弥生時代の拠点集落、青銅器祭祀、威信財、青銅器の出土地から地域の階層性を判定、鏡の再分配、首長墓・王墓 を定義
「クニ」 の場所を認定
  ↓
綾羅木川流域には「クニ」 はなかった。

素人研究のやり方
地名、方位方角、ゼンリンで個人宅の名前 を調べる。

飯塚市 立岩遺跡、桂川町 大塚古墳の近くに地名「出雲」 がある。
ネットの国土地理院地図で 仁馬山古墳 ― 立岩遺跡 を直線で結べば線上に稗田地蔵堂遺跡、武久浜遺跡、小倉北区の日明 一本松塚古墳がある。
  ↓
北九州市小倉北区 日明 一本松塚古墳の赤い線画の方位方角に大注目
下関市有冨 字「中村畔」 に天子が居て八紘一宇 を表していると解読

ゼンリン
有冨村の庄屋だった儀万さん。 「儀万」 とは道家思想の「道」 のことだと解明
  ↓
すごい素人流!
ゼンリン住宅地図の家を見て邪馬国を発見できた。

邪馬国の「一」 は老子の「一」 である。
私は古田武彦、安本美典もなしえなかった新解釈 「老子の一」 を提示する。


古田武彦 著 『邪馬国の証明』  角川文庫 1980年
安本美典 著 『邪馬国はなかった』 徳間文庫 1988年

私 ゼンリン地図で発見
邪馬国の場所は下関市有冨213 「儀万」 という家の名前そのものである。
  ↓
邪馬台国の嫡流(総本家の家筋。 正統) を発見


鏡 
立岩遺跡出土の前漢鏡の図柄、とくに連弧文鏡は中国思想の根本である陰陽五行の世界を精巧に表現しており、鏡の所有者はパッパラパーの百姓ではなく高度な知識人・学者である。 清白文は楚辞を引用しており、詩文にも通じている。 脱字は意図的なものだろう。

「緻密な論理」 だけでなく、モノをパッと見ての第一印象 「直感」「感性」 が研究者の「センス」 として大事である。
立岩遺跡、稗田地蔵堂遺跡から出土した前漢 清白鏡を並べて見て、
 この2つの遺跡は強い関係がある→素人流で両遺跡をGoogle 地図 で結ぶ
 陰陽五行の学者が持つ鏡である
   ↓
「論文書ける」 資料であると ゛直感力゛ で判断


総括  とどのつまり。 畢竟、結論として言えること
有冨 字「中村畔」  倭
筑豊 立岩遺跡、大塚古墳  出雲
稗田地蔵堂遺跡(弥生中期) と大塚古墳(古墳後期) は時代差が700年もあるが 「倭と出雲」 の関係であり、宿命・天命・天地(あめつち) の絶対的な決まり、という必然性を見つけることができる。



『北九州市史 総論 先史・原史』 昭和60年
p.829 日明一本松塚古墳の石室 赤で描かれた線画
出土物は北九州市立 いのちのたび博物館で常設展示


『きたきゅう発掘! 考古学ノート』 2012年 1200円
北九州市 埋蔵文化財調査室 (著)
p.114
「弥生人は中国大陸のトレンドがわかっていたか?」


『描かれた黄泉の世界 王塚古墳』 柳沢一男 (著) 新泉社 2004年
1500円+税 amazon で購入




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桂川町 寿命 王塚古墳

2018/03/07 17:59

下関市有冨と筑豊で有名な装飾古墳の王塚古墳は重大に関係する。

一直線上に並ぶ  ネットの国土地理院地図を使って
有冨 字「中村畔」 ― 仁馬山古墳 ― 稗田地蔵堂遺跡 ― 王塚古墳(桂川町
※ 北北東の延長は                        ※ 南南西の延長は
長門市の                               吉野ヶ里遺跡の近く
仙崎・市役所・湊

下関市 考古博 学芸員 澤下さん談
「偶然、たまたまでしょう。 学問となるには必然性がないといけません。
Google で線を引けば遺跡・古墳は多いので、どっか引っ掛かる。
稗田地蔵堂遺跡と大塚古墳は年代が650年以上ちがう」


2004年頃、私は王塚装飾古墳館を訪問して館長に 「近くに出雲という地名がありますが、出雲という地名とこの古墳は何か関係がありますか」 と聞いたら、地名はあちこち同じものがあるし、地名は時代を遡れないので資料にあたいしない」 と館長さんは答えられた。


下関の始原文化と桂川町王塚古墳との関係 必然性
天子さま の位置  下関市有冨 字「中村畔」 
小倉北区 日明 一本松塚古墳 の壁画は有冨 字「中村畔」 の八紘一宇であり、赤色線刻画の 南南西―北北東 の線が倭京(下関市有冨 字「中村畔」) と出雲(立岩遺跡、大塚古墳)を結ぶ。
  ↓
倭と出雲の関係なので、時代が700年ちがっても上下関係ありだ。

地名  史料の初見は江戸時代
飯塚市 平塚町 地名「出雲」 泉河内川が流れる。 出雲の比良坂、泉津、土師
飯塚市 安恒 ― 下関市吉母 字「安常」 は明治期まで天照大神が祀られていた

飯塚市 楽市 大倭が管理する市 特産品は仙人膏薬

飯塚市 天道 大将陣山の藤原純友伝説
「天当」 とも書く。


桂川町 寿命  不老長寿の地名

※ 福岡県京都郡 みやこ町 豊津 に小字「寿」 がある。
文庫書記@102‐8 国作大己貴命
国作 みやこ町の地名
葦原醜男 小倉北区の足原 城野の東側

穂波町 椿 スダレ遺跡  磨製石剣 戦闘による殺傷


邪馬台国の位置
綾羅木川の北側 石原・有冨〜永田郷・吉母
道家思想の大聖地ゆえ遺跡・遺物に乏しい。
瀛洲(吉母の黒嶋)、蓬莱山(吉見古宿の串山)、方丈(竹生山)
東洋のバチカン、東方のエルサレム 小国寡民、扶桑樹(吉母)

狗奴国の位置
綾羅木川の南側 熊野原遺跡
下関市立考古博物館 受付 で 「熊野原遺跡 調査報告書」 を販売中。

狗奴国は下関市伊倉・熊野町〜筑豊〜福岡市・春日市〜吉野ヶ里
秋根遺跡、稗田地蔵堂遺跡は狗奴国の北限に位置する。

幡生  関西系(蝦夷) がいた所。 関西政権は呉王孫権の将軍が東方遠征して建てた国である。 日本書紀の呉国、東漢氏であり甲冑を着る。

豊浦町の室津、黒井、吉永  韓・朝鮮系のコロニー 「狗邪韓国」
梅ヶ峠は倭韓の国境だった。

「狗邪」 と立岩遺跡 森 の「柏」(かや) は音が似る。

漢和辞典 「柏城」 (はくじょう) 天子の墓地。 御陵。 黄泉の国、出雲である立岩遺跡、王塚古墳は下関市有冨の大王墓だったか。




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星型

2018/03/05 12:39


倭で化けた鏡D日十大王: pentacross 古代 ペンタクロス文化 ...
pentacross.seesaa.net/s/article/391806843.html

世界最古級の地図?大湯・万座環状列石
pentacross.seesaa.net/article/391806489.html

縄文五芒星を「設計定規」に用いた古代巻向の治水事業
pentacross.seesaa.net/article/391807008.html


十の太陽を司る『扶桑大王』
ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11888753255.html



羲和、太陽、鳥、扶桑 - memo
memo.medamayaki.xyz/2016/.../羲和、太陽、鳥、扶桑、日本、鳥居、少昊、殷、/
medamayaki @medamayaki1
さっき何となく思いついた鳥居起源説。
扶桑→日本ぽい
扶桑樹→10の太陽、鳥がいる所
扶桑樹と鳥→三星堆の青銅神樹のイメージ
日本天照大神は太陽神→扶桑の太陽?
鳥居→鳥の止り木でこの太陽神がとまる場所?
中国の10の太陽→羲和
羲和→東夷の先祖系
→天照≒羲和、鳥居≒扶桑樹


14:40 - 2015年11月8日




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板付遺跡、立岩遺跡 と 下関市考古  一体的関係か

2018/03/03 09:32

九州大学
70年代半ば 考古学教授 岡崎 敬  板付遺跡、立岩遺跡 の調査

1973年〜1976年 空前の邪馬台国ブーム
末盧国、伊都国、奴国の比定地は1975年前後に確定し、不動の地位を得て地域の町興しとなっている。

1972年、高松塚古墳 壁画 の発見で考古学ブームくる。
下関市 有冨古墳 は高松塚古墳と似ている。


板付遺跡

『最古の農村・板付遺跡』 山崎純男 (著) 新泉社 2008年
1500円+税 amazon で購入


板付遺跡
museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/438/index02.html
弥生時代前期の環濠と重複して、「コ」 字形に巡る溝がみつかっており、一辺の長さが50 m 近くあります。 溝や柵を方形に巡らして有力者の居住域などを区画する事例がありますが、本例もそのような区画溝の一部と考えられます。

2015年11月14日 下関市立考古博物館
講演 「板付初期弥生集落を考える」 板付遺跡弥生館 館長  
レジメ p.1 中  弦状溝 と 弧状溝

  ↓
下関市
形山 遠賀川東部系の須玖式土器が出土
秋根 勝山公民館 縄文末の大溝
板付遺跡には貯蔵穴があり、綾羅木郷、伊倉、川棚にも貯蔵穴がある。
秋根遺跡  夜臼式土器が出土し板付初期弥生集落の時代まで遡る。

冨任 神田遺跡 溝

伊倉 仿製の内行花文鏡 完形
火ノ見山 山頂に石祠

 

弥生鉄史観の見直し - 国立歴史民俗博物館
www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185006.pdf
  ↓
綾羅木郷遺跡、豊浦町吉永の山の神遺跡
岡崎 敬 の鉄観



九州説の皆さんのための古代史掲示板
rara.jp/kunakoku2/


豊浦町 半島人の入植地帯
川棚 高地性集落

中ノ浜遺跡 銅戈、支石墓
合口甕棺に大人の長管骨が束ねて納めてあった。 豊浦町史 1979
室津小学校で甕棺が出土したが行方不明

川棚駅付近 弥生前期末 豊浦町史 1979
麦の栽培、水田用木製品、桃の核、青銅の釣り針、鉄類のかす(判別不能)

吉永 山の神遺跡 鉄鋤
黒井浜 日本武尊の農耕指導伝説
古代伽藍が多く仏教が栄えた地

華山 銅矛4振


立岩遺跡

『立岩遺蹟』 福岡県飯塚市 立岩遺蹟調査委員会編 河出書房新社
1977年 代表 岡崎 敬  ネットで中古本を購入

楚辞
明治書院 新釈漢文大系 楚辞
平凡社 中国古典文学大系 詩経・楚辞
角川書店 鑑賞 中国の古典 11 詩経・楚辞
学習研究社 中国の古典 20 楚辞
岩波文庫 楚辞 1935年 1997年第12版
 ↓
これら全部をネットで中古本を購入


稗田地蔵堂遺跡 その他 下関市の遺跡古墳

『下関市史 原始−中世』 平成20年刊
下関市立歴史博物館 (旧 長府博物館) 受付で購入 2017/11/27


岡崎 敬に引導を渡す
誉田山古墳の陪塚から出土した金ピカの鞍は古賀市 船原古墳から出土した馬具に似る。 黒海北のスキタイ文明→シルクロード 北側の草原の道 に通じる美術品だ。

古賀市船原古墳出土馬具 - 邪馬台国大研究
inoues.net/museum2/5gatsu10nichi.html


倭人は金ピカの宝飾品よりも知的、オカルト的なワビサビを好んだ。

立岩遺跡から出土した鏡はキンキラキンの金銀宝飾品ではない。 見た感じは漢の宮廷の大学の先生が天文・陰陽を観察して今年の暦を作る時に使う物のようで、このようなモノを持つ者は学者である。 立岩遺跡の被葬者は学者でもある王だった。 鏡は公衆に我が権威を見せびらかす威信財ではなく、人に見せびらかしたい気持ちがあったなら楽浪郡の役人に見せたい衒学であろう。

清白文は邪馬台国の大王に対して自分が不運だったことを嘆いており、淮南王 劉安の境遇に近い。 立岩遺跡の被葬者は老荘思想や淮南子の読者だった。 立岩遺跡被葬者の漢文読解力は学者レベルであった。




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卑弥弓呼の位置 伊倉、熊野町

2018/03/02 12:11

下関市形山の須玖式土器の出土地―伊倉の火ノ見山―福岡市 板付遺跡
一直線上 にあり、北東・南西 鬼門・裏鬼門 の方位である。


天子は南面  卑弥呼は 有冨 字「中村畔」  天照大神、神功皇后
下関市有冨 字「中村畔」 天使の居場所 倭京
朝、カラスが東ヵ嶽の頂に飛んでいく。 大迫池の上が鳥見山

儀万さん家  天武天皇の皇居 西側の正門で弓儀式
岩谷さん家  後岡本宮 石垣あり

天武天皇は方士で瀛真人。 「瀛」 は宗像で下関市吉母の西条、黒嶋
方士の徐福の墓は吉母だろう。
吉母の黒嶋は前方後円墳デザインの祖型である。 前方後円墳は 「瀛洲型古墳」 「吉母黒嶋型古墳」 と呼ぶべき。

難波宮 永田本町、吉見古宿 ・・・ 海岸が赤い岩で覆われる 
熊本県宇土産のピンク岩は吉見海岸の赤岩にあやかりたいため。
蓬莱山は古宿の串山。 大阪府の宇土産石棺は蓬莱山信仰である。


臣下は北面  卑弥弓呼は 伊倉 豊神社、熊野町 字「立石」  素戔嗚尊
卑弥弓呼は卑弥呼の元臣下で、下関市伊倉、熊野町に在住していた。
伊倉の火ノ見山(日見山) の音は卑弥弓呼に通じる。

垢田八幡宮の東側鳥居は稗田地蔵堂遺跡、熊野町を向く。


竹生観音 方位
真東 四王司山の頂

角川日本地名大辞典 山口県 オンデマンド版  p. 410左
四王司山は宝鏡山ともいう。 神功皇后が三韓出兵の時、戦勝を祈願して四天王を勧請した。 五合目に不動滝がある。

真南 薬師池の西側 「いなり山」、有冨 字「中村畔」、熊野 字「立石」


熊野町 字「立石」 岩名古墳
熊野公会堂の上に立石神社があるが、元は岩名山にあり、しまむら ・リバティ の近くだという。 岩名古墳がある。

『川中風土記』 昭和42年 p.59
立石社は立石某という大力の勇士の霊神といわれている。

遺跡ウォーカー 下関市熊野 岩名古墳群
www.isekiwalker.com/iseki/149093/


仲哀紀 文庫書記A124‐9
紀伊国の徳勒津宮 熊襲 の位置
 ・ 遠賀川の木屋瀬(こやのせ) みやこ町の仲哀峠
 ・ 小倉の紫川 木町 徳勒津宮は徳力か
 ・ 新説 下関市 稗田北町−川中豊町 を流れる稗田川沿いが熊襲の紀伊国


熊野 稗田 垢田  山口県地名明細書
http://44051510.at.webry.info/201407/article_17.html

神功紀 文庫書記A162‐6
天野の祝 字「天野」 稗田中町のトヨタ店
小竹の祝 稗田地蔵堂遺跡の一帯は篠に覆われていた。
紀伊国 日高 は丘の頂にあたる垢田ノ辻 交差点、垢田八幡宮 になるか。
いや日高は四方が山の熊野町1丁目 「負之森」 か。


東側は軍師、国政を助言する尊師
有富古墳は纏向宮 日本武尊
航海時に使う水筒といわれる須恵器の提瓶が出土。


「天子南面す」と言いますが、「南に面する」 ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14176847689
〇〇〇さん
2017/7/2009:40:56
古来、北は先祖のおられるところ。
その伝統とバックアップを背中にして天子は南に向かって天下を治める。
南は領民や国土、この世のこと。
南面する天子の右が西、左が東。
右は財などを管理する実務臣下。
左のは太陽などが上り、軍師国政の助言をする尊師の席。
つまり北を背にして南に向かうことを南面という。




天子は南面、臣下は北面  yahoo 知恵袋
南面で検索すると、天子、君主、君子など色々 ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q131670168

漢文の言葉で 南面とか 北面っていうのありますよね ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14149085324

「天子南面す」 と言いますが、「南に面する」 ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14176847689

「天子南面して東に座す」 との言葉がありますが ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1095384445

神社の拝殿は南面が多いですよね。 天子南面す ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10165150925

「天子南面す」 として宮を都の北の端に配置した ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1047183700

「太陽信仰」 と 「南面思想(天子南面説)」 が ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1055095390

「天子南面す」 という言葉の出典が「論語」 であるという ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q107227790

「前方後円墳と南面思想(天子南面説 ) の関係 ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1155304796

前方後円墳と南面思想(天子南面説) の関係について
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1354614083

「敗北」 の「北」 にはなぜ逃げるという意味があるのでしょうか
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q117426181


天子南面 - 日本神話・神社まとめ
nihonsinwa.com/page/1126.html

雍也第六 121
www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/s-06-121.htm


下関市
川中豊町のレッドキャベツ(スーパー)、熊野町 交差点 は弥生遺跡が広がる。
熊野村は「堀田ヶ迫」 と呼ばれた場所で、のちに紀州から熊野権現を勧請したから「熊野」 ともいわれるようになったとされる。 「熊野」 の地名由来に疑問をもつ人もいる。 権現山から経筒が出土。

伊倉に神功皇后の お忌み石 3か所
伊倉 古代は「伊久」「意久」「生倉」 と書かれた。
延行条理遺跡の伊倉から仿製の内行花文鏡 完鏡 が出土している。
伊倉遺跡 合口壺棺(口径 38.5センチ 高さ 93センチ)、鉄鏃、貯蔵穴

江戸時代であるが、川中地域は有冨村と熊野村が有力だった。
 綾羅木川の北岸 有冨支配  邪馬台国 石原・有富〜永田・吉母
 綾羅木川の南岸 熊野支配  狗奴国 田倉・形山・秋根〜稗田・垢田

幡生 近畿系土器の地
吉母浜 古墳前期 近畿系土器を使って製塩
室津・黒井・吉永 韓人の入植地

 
竹生観音の山が風水の玄武である。
北の位置・南北線  竹生観音にある妙見社 椋野の妙見山(92m)

有富 字「中村畔」 の南側に臣下の古墳がある。 観音堂古墳

風水の明堂、龍穴から見て、
邪馬台国の大王墓はハンドウ山の登山道入り口の上。
道家思想で遺体を埋めただけだから何もない。




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雲気 雨乞山

2018/02/26 06:45

香川 まんのう町 二宮飛行神社 ( にのみやひこうじんじゃ )
blogs.yahoo.co.jp/fudasyosanpai/37288233.html


香川 善通寺市 雲気神社 ( くもげじんじゃ )
blogs.yahoo.co.jp/fudasyosanpai/36628596.html

雲氣神社 香川県善通寺市弘田町 - 神社と古事記
www.buccyake-kojiki.com/archives/1060856587.html

雲気神社
wanikawa.com/jinnjya/zentu/kumog/kumog.html


[延喜式内社] 雲気神社 (香川県善通寺市)
www.youtube.com/watch?v=iyOtLt2yAgs


香川県の雲気神社
山陽新幹線の新山口駅から山口市嘉川の雨乞山(160 m) に向かって歩く時の景色に似る。



邪馬台国論 新説
広辞苑 「霊台」

邪馬国の 「台」 は陰陽天文の変を観る台であろう。

雨乞山であったか。


川の 「香」 → 香山
白川 静 新訂 字統  平凡社の大型漢和辞典 2004年
「香」 の字を調べると、鬯酒の香り
「嘉」 の字も神事

学研 新漢和大字典、角川 大字源には 「香」 に「鬯酒の香り」 の記述はない。

白川 静 の漢和辞典から山の「香」 は「鬯」 というアイデアを得た。


参照
明治書院の新釈漢文大系 論衡 上 
p. 331 通釈
p. 333 語釈 霊台




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下関倭国の思想  道家、墨家

2018/02/24 05:01

考古学 有形を見る

下関倭国 無形の文化がある。
ここで 「無形」 とは行政上の無形文化財でなく風水方位などである。


「方位」「方向」「方角」 に関する発言  A点―B点 を直線で結ぶ方法論
下関市 文化財保護課 東さん、松永さん談  2003年頃
考古学では方位はない。 たまたま、偶然に一致したもの。 たまたま一致しただけ。 偶然、偶然。 たまたま、たまたまの一致でしょう。

同 小林さん談 2018年2月末
考古学はその場所から出てきた物で考えるので、地図に線を引くことはしない。

下関市 菊川町・豊浦町の遺跡調査員 富士埜 勇さん談  2010年頃 
古代人には「約」 「おおよそ」 「方向が だいたい一致」 という考え方はない。
ほんの 1°でもズレたらそれは違う。 ちょっとでもズレたら違う。
ドンピシャ、ピンポイントで一致しないものは古代人の方位ではない。

『風水ウォーキング 古代遺跡 謎解きの旅』 松本司 著 小学館 1999年
地球は丸いので、地点と地点を直線で結ぶことができるのは 5万分の1地図 2枚貼り合わせ まで。

九州大学 考古学  岩永省三教授の談 2017年
風水は飛鳥時代後半か奈良時代からで、弥生時代に風水はありません。


方位磁石
下関市有冨 字「中村畔」 庄屋の 「儀万」 は道家の道を表す。
日の縦 梶栗浜遺跡(金属の金、死滅の西方位)、青山の山頂(青は東方位)
西偏7°だから、弥生時代前期で方位磁石が使われていた。

立岩遺跡の連弧文鏡、稗田地蔵堂遺跡や小倉城跡の内行花文鏡は風水羅盤として使われ、中国天文学に基づく讖緯説の道具だった。
清白文 銘文は君(高天原) に対する恨みであり出雲系人物である。


関西政権  ヤマト王権、前方後円墳体制、創価の全羅道
中国からの輸入物 沖ノ島祭祀 金銀財宝、宝飾美術品

下関倭国
  道家思想、墨家の禁欲
中国からの輸入物 知的な文物、讖緯説の道具

卑弥呼の鏡
天変地異を占い、見えない鬼が見える鏡か。

鏡の使われ方 抱朴子 内篇
http://44051510.at.webry.info/201709/article_11.html



狗奴国  須玖岡本遺跡の熊野神社
老子、風水は考古学と対立する。
http://44051510.at.webry.info/201610/article_2.html

九州の王墓を訪ねて〜奴国編〜「須玖岡本遺跡」
plaza.rakuten.co.jp/utiwauke/diary/201802180000/


須玖岡本遺跡の熊野神社 ― 下関市形山 青山の山頂 を直線で結ぶ
方位 約45 東北、南西 の 鬼門、裏鬼門の方位

下関市形山の須玖式土器の出土地 ― 火ノ見山 ― 武久浜 ― 板付遺跡
方位 直線上に並ぶ

伊倉の火ノ見山は日見山とも書き、音がヒミコ、ヒミクコに通じる。 ただし火ノ見山、住吉神社の一ノ宮本町1丁目の山は円錐形で形は美しいが孤立しており、風水の龍脈ではない。

『よしみ史誌』
近郊の御斉祭(おいみさい) 伝承について  P543
田倉にはお斉がなかった。



四維 広辞苑 「四維」 参照
弥生時代の方形住居の柱、古墳の石棺の置き方は方位の「四維」 であり、
四隅の角(かど) の向け方に決まりがあった。 弥生時代に「四維」 があった。

方形の角を東西南北にあわせている。


儒家
儒者は葬式屋であり礼楽で営業していた。
原始古代、日本列島には漢字が伝わらず儒家作法の流入はなかったのか?
儒家 身分によって埋葬に等級あり。 被葬者の口に玉を食わえさせる等



扶桑
地名「扶桑」 下関市 豊浦町宇賀 字「扶桑」  犬鳴川 合流地点の南側

山海経 海外東経 扶桑  下関市吉見

明治書院の新釈漢文大系 淮南子 上 第五 時則訓
p. 279下 訓下文 2行目
榑木の地、青丘樹木の野  下関市有冨 有冨墓地の東側・大迫池の上


『扶桑国は関西にあった』 いき一郎 著 葦書房 1995年
p.96
若木、四海に躍り、扶桑、瀛洲に翳る (阮籍)

私見 「瀛洲」 の比定地 吉母の黒嶋・西条

阮籍の文言は仁徳記 「枯野という船」 に通じる。
古墳時代初め 吉母浜で製塩業
吉母 海中の石畳み 仁徳記 歌謡 「門中の 海石」

吉母は鵜葺草葺不合命が誕生した伝説がある地である。
吉母ではの一本釣りが盛んだった。 赤海鯽魚、浦島太郎

塩椎の神、海神は吉母である。
高安山は草場山、淡道島は蓋井島
兔寸(とのき)河 が草場川なら扶桑は吉母の西光寺または明見社の場所か

吉母 樋の口神社
祭神 天照大御神 = 扶桑の羲和
もと、字「安常」 にあったので、扶桑の位置は吉母 字「安常」 である!

安  「ウ」 かんむり の下に 「女」
常  常緑、常世

『新訂 字統』  白川 静 平凡社 2004年
「安」 の解説に真床襲衾がある。
筑紫の日向の高千穂宮は吉母 字「安常」 かも。

枯野という船は海神の船に通じる。
文庫書記@188‐2 八尋鰐、‐5 一尋鰐魚

吉母は大河原の海岸が岩場の遠浅で海産物を拾いやすい。
神功皇后のお忌み石がある大河原も軽視できない場所である。

戸屋ノ鼻の「戸屋」 という地名も気になる。

扶桑は瀛洲の吉母にあった。




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立岩知識人

2018/02/22 09:13

立岩知識人
飯塚市 立岩遺跡から出土した漢鏡は中国から最新の学問を輸入していた知識人のコレクションであって、連弧文鏡は風水 羅経盤として使われた。
鏡の所有者は知識人ゆえ、陰陽五行、周易、中国医学、中国暦、中国星占い、方位忌み、房中術等を駆使して生活する高い教養を持つ人物だった。

清白鏡 楚辞の文言を引用
楚の出身だから楚辞なのだ。

飯塚市 平塚  地名「出雲」
立岩遺跡の石包丁生産  古事記 建御名方の神は千引きの石を手末に ...
熊成峯 文庫書記@102‐6  八木山峠 あるいは 英彦山

根の堅州国
 福岡市博多区 堅粕 板付遺跡
下関市
 古事記 速須佐男命は青山は枯山なす泣き枯らし
 形山 須玖式土器
 横野八幡宮の社伝  形山から菅原公が来て船出した

八俣大蛇
 小倉城の八坂神社
 平尾台の井手浦で素戔嗚尊が村民と弓矢で八俣大蛇を退治した伝説
 土井ヶ浜遺跡 英雄

第21号 立岩遺跡
ttp://home.b06.itscom.net/kodaishi/page080.html

小倉城下屋敷跡の発掘調査で平成8年に出土した後漢代の鏡
【市指定】 長宜子孫内行花文鏡 1面
ttp://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/02100206.html


竹原古墳の壁画、蓬莱山説
『蓬莱山と扶桑樹』 岡本健一 著 思文閣出版 2008年
p.122
竹原古墳壁画新解 ― 『楚辞』 の神仙世界 ―


『楚辞』
 遠遊篇  黄帝、赤松子の仙人の話
 天問篇  不死の国、蓬莱山


遠賀川流域の熊襲伝説
遠賀川の記紀伝承 23
http://44051510.at.webry.info/201008/article_12.html
  ↓
仲哀天皇 御一行 は中間市底井野の八幡社で熊襲討伐の協議を した。
福岡市東区香椎宮とは異なる伝承を発見。


八幡西区 野面(のぶ) の八所神社は、元は日隅宮だという。
大国主命の天日隅宮は北九州市八幡西区 野面 にあった伝承

木屋瀬町誌 p. 3  香月家譜
熊襲の大将である火国の川上梟師の弟の江上梟師が金剛の丘に居た。

日本武尊は直方市の福智山の山頂から国見して熊襲の国に行った。

添田町の岩穴に熊襲が住んでいた。

山田市の摺鉢山(帝王山) に羽白熊鷲の伝承がある。



魏志倭人伝の道
 末盧国 下関市御崎・室津  ※ 梁書では盧国
 不弥国 吉見・船越
 邪馬台国 綾羅木川北岸の有冨村(延行、石原、竹生寺を含む)

狗奴国 福岡県


山海経 海外東経
 大人国  宗像市、福津市
 君子国 (出雲の国譲り) 遠賀郡宗像郷(中間市)、岡垣町
 朝陽の谷・天呉  門司区の東側、または小倉南区の城野、曽根
 青丘国  下関市有冨上


稗田地蔵堂遺跡 蓋弓帽  狗奴国王墓か。 秦氏系か。
下関市 武久浜から秦の時代の貨幣である半両銭が出土している。
稗田地蔵堂遺跡近くに 「秦屋敷」 という地名場所があるという。
稗田の小字「畑」(ハタ) は 稗田南町〜山の田の県住

日明一本松塚古墳の壁画は 「八紘一宇」 を描いたものである。
http://44051510.at.webry.info/201703/article_13.html

稗田地蔵堂遺跡 ― 日明一本松塚古墳 ― 立岩堀田遺跡
(下関市 稗田)   (小倉北区 線刻画)   (飯塚市)

  ↓
同一直線上にあるので、稗田地蔵堂遺跡は立岩遺跡と結びつく。

仁馬山古墳、武久浜遺跡も同一線状にある。
立岩遺跡と日明一本松塚古墳は時代が700年も違う。
時代を越えた直線!

稗田地蔵堂遺跡がある「垢田の辻」 交差点 には江戸時代に関所があった。
垢田八幡宮 東側の小さい鳥居 は稗田地蔵堂遺跡、熊野町を向いている。
稗田地蔵堂遺跡は 山頂の関所 に位置する。

稗田地蔵堂遺跡 方位
 東北、、鬼門  勝山(361 m)、秋根神社
 北北東   仁馬山古墳、有冨 字「中村畔」 
 南南西 (「新訂 字統」 枝葉の先が長く伸びてゆく形)  立岩遺跡

蓋弓帽は車傘を意味する。



立岩5号鏡 銘文  我流で解釈
君  大王、天つ神、高天原
明を おおわれる  明察が蓋される
佳人  女王卑弥呼、天照大神

清白文 「明を おおわれるをうらむ」
清白文 君(天つ神) を恨みます ― 出雲系首長である
誰、何を恨むのか。 楚辞だから楚王か、それとも天つ神か。
驩兜 (かんとう)  堯帝のときの悪人。 舜帝のとき、祟山に追放された。

驩兜 については 集英社 全釈漢文大系 『山海経・列仙伝』
海外南経 p.387 補説

素戔嗚尊=驩兜


連弧文 「日有喜」 鏡
銘文  韻文の修辞法 掛詞 2つ以上の意味を持たせる
月有富
竹取物語 月の都 有富のハンドウ山を登った先に月の国があった。
万葉集 「鏡と月」 は有冨 ハンドウ山に上がる月 を見て詠んだものである。
(根拠・理由)
有富のハンドウ山 登山口 と 立岩遺跡 を直線で結べば、
仁馬山古墳、稗田地蔵堂遺跡、武久浜遺跡、日明一本松古墳 が線上にくる。
邪馬台国の明堂(朝廷) はハンドウ山の登山道入口にあった。

連弧文鏡、内行花文鏡などは、方位・天文現象を観測して天子が農事暦を作るなど、天象と人事の関係をつかんで国家治政をおこなう道具だった。

九州大学 考古学 鏡 (岡崎敬、岩永省三 他) とは異なる見方
  ↓
北部九州と下関の弥生人は中国最新の学術に精通していた。 倭人は中国に用もないのに朝貢して中国の知的文物を拾い集め、諸子百家、史記、淮南子、呂氏春秋、楚辞 などの漢学を修めていた。 不老長生、神仙、道家に強い関心があった。

楚辞  東方の神仙郷への憧れ


809 連弧文銘文鏡
blog.goo.ne.jp/guu19seki3/e/b278e738aff7d8689298ebf35e1fca98

古代遺跡
www9.plala.or.jp/na7na/angelic/aiiseki.html

立岩堀田遺跡出土 前漢鏡(1号 3号鏡)拓影  「飯塚市歴史資料館蔵」
www9.plala.or.jp/na7na/angelic/kagami.html



下関市立考古博物館
H28 企画展示V 「響灘沿岸の弥生時代墳墓」 展示解説
配布資料
稗田地蔵堂遺跡 弥生中期後半 B.C.  蓋弓帽は金印よりも前
漢委奴国王 金印 弥生後期初−前半 A.D.

p.6 弥生中期後半における鏡の再分配システムの確立
学芸員 澤下さん
稗田地蔵堂遺跡の前漢鏡は1枚であることから、漢楽浪郡との交流で得たものではなく2次的分配の可能性もある。




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大型の石包丁

2018/02/19 00:56

川中風土記(増補改訂) 徳見 光三 (著) 昭和45年
p.13 末
1953年 下有冨 字「中尾」 239番地 の道路上 磨製石斧 1個 が発見される。

1959年 綾羅木郷 高野一正 宅地内で弥生時代前期の土器とともに超大型の石包丁が掘り出された。 刃部の長さが30センチもあり、穂つみ具とは考えられない。 用途は何だったか問題が残る。

豊浦町黒井の永富家でも 「神代石」(かみよいし) といって、先祖から代々持ち伝えられた大型石包丁があるといわれている。




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瀛洲には積み石多し 一盃堂

2018/02/18 17:59

瀛洲には積み石多し

瀛洲 下関市吉母の黒嶋
積み石 吉母と室津の境にある史跡の一盃堂

本州の最西端
毘沙ノ鼻 の駐車場にある 吉母の名所 解説看板
一盃堂
吉母と室津の境界近く、森の中に五厘石や仏石などが積み重なっている。
両方の村人が、徳利を持って登って来て、お互いに一杯ずつ仏様に供え飲み交わした。


よしみ史誌 p. 714
豊浦藩村浦明細書の吉母村の寺の項に
一盃地蔵堂 境堂ト云 とある。
この庭に鎌倉期のものと思われる五輪石の集積された古い塋域がある。



他に「積み石」 に相当するものといえば、
吉母 不燃物埋立場の畳石がある。 毘沙ノ鼻の南隣
参照 吉母「胞塚」 伝説 福本 上 著 p. 10

吉母の黒嶋 前方後円墳の形
西 死滅 本州西端の吉母は死に場所
東 誕生 勾玉は子宮胎内の子で、集落や墳墓の東側から出土する。

吉母の西条に宗像さん家がある。


蓬莱山 吉見古宿町の串山半島
水産大学校前 〜 フィッシングパーク  永田本町・吉見漁港の海岸は赤銅色の赤岩である。

江戸時代 元文4年(1739) 年の 「吉見村地下図」 を見ると、串本岬は天の橋立をしており、岬の名前は「三ヶ首」 で、海中に長い岩瀬が突き出て先端に巨樹が生えている。 江戸期に描かれた串山半島は亀の形をしてる。

海中に長く突き出た岩瀬は蓋井島 筏瀬の古地図にもある。


方丈 竹生観音がある山。 鳳凰の形をした山である。



巫山 はんどう山 
かんたが谷稲荷
http://44051510.at.webry.info/201110/article_110.html

有冨村の庄屋は儀万さん家で吉岡さん家は年貢取立係の侍(役人)。
昭和30年頃の事かと思えるが有冨古墳の上は 「いわれ」 がありそう。
理由 有冨村(石原・延行含む) を支配する役人が住んでいた場所

姫氏の禹は遠山運送の東側に住んでいた。

長安線(県道247号 安岡港長府線) は大正12年にできたもので新しい道である。 古い街道は有冨古墳の横を通っていた。 有冨古墳は観音堂古墳よりも立派であり、出土した須恵器も寸分の狂いもない精巧な物である。 有冨古墳と奈良県の高松塚古墳は似ている。

有冨村庄屋の儀万
「儀万」 というとても珍しい名前は中国の陰陽五行、易経の思想を連想させる。 万民の手本、万物を照らす方、天地の本(はじめ)。

「儀万」 とは道家思想の 「道」 である。




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蓋国 の考察

2018/02/18 05:17

山海経 海内北
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。


弥生貯蔵穴 中国北方系 下関市綾羅木郷遺跡
高床式倉庫 中国南方系 昔の中学教科書 静岡県登呂遺跡

弥生貯蔵穴は北朝鮮の楽浪郡、燕国と結びつく。

地下式倉庫と高床式倉庫
44051510.at.webry.info/201010/article_7.html


思いつきの考察  下関市の地名より
「蓋」 の地名
蓋井島
土井ヶ浜の 「釜蓋」 ・・・ バス停 岡林 の東側

倭は下関市の永田郷〜有冨

倭の北
豊浦町・豊北町・油谷町の海岸
韓国の釜山・金海


思いつきの考察 B 「蓋」 より、支石墓か
支石墓 下関市
中ノ浜遺跡 川棚  支石墓状のもの

若宮支石墓
若宮古墳の横の弥生墳丘墓は解説看板によれば、昭和60年、61年の調査で発見された、とある。
郷土史本 『川中風土記』 (1970年) p. 21 によれば、
昭和28年 (1953)、吉村次郎氏と伊東照雄氏が調査して、若宮古墳の後円部のうしろに支石墓を発見した、という記述がある。


巨石組み
三浦山遺跡 特牛
44051510.at.webry.info/201401/article_30.html

後山古墳 古墳時代後期 幡生本町  「掘ったほ! 下関 2017」 p.11


蓋国は支石墓がある地域と思える。
韓国の全羅道
宇久島 宇久松原遺跡(平郷)  支石墓・甕棺・石棺  貝輪・貝製垂飾品

福岡県糸島
糸島には韓人系の遺跡が多く、とくに糸島西部は渡来系である。 しかし引津の新町支石墓群は低頭・低身長の縄文人的人骨が出土した。


蓋国の「蓋」 の字は支石墓、甕棺を思いつき連想させる。


漢和辞典
漢和辞典で「蓋」 をひくと、
草カンムリの字だから菅、茅で屋根を覆う
車上に立てる傘
の意で支石墓のような石ではない。



侏儒、長身  倭人とちがう人種差別
日本書紀
神武東征
長髄彦  手足が長い半島系か。 梶栗浜遺跡は長髄彦の墓地か
高尾張邑(葛城邑) の土蜘蛛 侏儒に似る 文庫書記@236‐3

雄略紀 葛城山の一事主神 長身

常陸国 中臣部若子 長尺6寸 天智10年 文庫書記D56‐10 
常陸国風土記 那賀郡 大櫛之岡 貝塚 巨人

日高皇女(新家皇女)
蘇我常陸娘

猨田彦大神 背の長さ7尺余り  文庫書記@132‐10

日本武尊 長身

鹿児島県 弥五郎どん伝説 巨人


門司・彦島の巨人伝説
門司区 小森江東小学校前の「 巨人坂」
門司の 白木ア(新羅)、葛葉(百済)、小森江(高麗)  地名 転訛説

巨人の足跡は彦島の老にもあるという。

『ひこしま昔ばなし』  p. 163〜167
おおひと ・・・ 大江屋敷 本村町5丁目の山手
こびんおおひと


考古学 半島系遺物
六連島
綾羅木川
涌田後地、吉永 ・・・ 渡来系で注目したい場所




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考古学 よもやま話

2018/02/16 12:37

仏解説 「支那が日本と韓国の野蛮人を文明化させた。 ハングルは支那語の表記のため19世紀に作った」
deliciousicecoffee.jp/blog-entry-6980.html

倭王の軍団 巨大古墳時代の軍事と外交
d.hatena.ne.jp/skycommu/20140503/1399070582


國學院大學博物館は考古学ファンにはたまらないだろう
blog.livedoor.jp/ota416/archives/52266572.html


[PDF]- 古代の鉄 - その2 鉄が日本列島へやってきた
www.honnet.jp/metro/kodaishi/k298/kodaishi298.pdf

春秋戦国時代 燕国の考古学
utsunomiyatakanori.com/2018/02/08/春秋戦国時代-燕国の考古学/

春秋戦国時代の燕国と遼寧地域に関する考古学的研究
www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2014/66.html
  ↓
下関市 吉永 山の神遺跡 最古の鉄関連遺跡
燕・楽浪と結びつくか。


秦の始皇帝、その激動すぎる人生マトメ! 呂不韋を退け、不老不死に走り ...
bushoojapan.com その日、歴史が動いた 秦の始皇帝

平成30年2月10日(土) 北九州市 いのちのたび博物館
午後1時30分〜午後3時30分
講演 「シルクロード・グローバル社会の先駆けを訪れる」
講師 下関市 東亜大学 黄 暁芬 (西安の出身。京都大学 博士課程卒)

平成22年度 歴史講演会 予定
rekishitomonokai.at.webry.info/201003/index.html


毎日新聞-2018/02/12
埋蔵文化財専門職員 考古学支える「花形」、減少の一途 採用ミスマッチ ...
坂井秀弥・奈良大教授(文化財学) によると、開発事業が減少した90年代末からしばらくは、正職員の募集がほとんどない状態が続いた。 この時期、専門職を志した若者の多くが嘱託職員として現場に入り、経験を積みながら欠員補充の形で正職員を目指した。 埋蔵文化財行政の礎を築いた世代が退職期に入った5年ほど前から、各地で職員募集が増加。 しかし、考古学を専攻する学生数の減少や、景気の回復で学生側が売り手市場に回ったこと、やりがいより安定を求める学生気質の変化などが、近年 ...


人を幸せにする人になろう 文化財専門職員の数
onepeace2054.blog.shinobi.jp/未選択/文化財専門職員の数



中学社会
【古代(〜平安時代)】 「漢書」地理志,「後漢書」東夷伝,「魏志」倭人伝
benesse.jp/teikitest/chu/social/social/c00715.html

日本古代史つれづれブログ 後漢書倭伝を読む その1〜 ここに歴史上 ...
aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-22.html


古墳は語る(4) 〜 甕棺葬の起源地
aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-177.html

古墳は語る(22)〜巨大古墳はすべてが人工物 ...
aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-199.html

古墳は語る(23)〜魏の曹操の「薄葬令」の与えた影響
aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-200.html


九州の王墓を訪ねて〜奴国編〜「須玖岡本遺跡」
plaza.rakuten.co.jp/utiwauke/diary/201802180000/




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韓国の倭系遺物

2018/02/15 12:06

季刊 古代文化 古代学協会
参考となる考古学論文

第63巻 2011年 
金海會峴里貝塚出土の近江系土器  武末純一など

第64巻 2012年 
勒島遺跡衰退の歴史的背景
朝鮮半島南部における後1世紀代の交易体系について  井上主税

第66巻 2015年3月   
「外来系土器からみた対外交流の様相」  森本幹彦 


ネット
伽耶 Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6

[PDF] 韓国における祭祀遺跡・祭祀関連遺物 - 神宿る島
www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_31_file.pdf
要旨:沖ノ島の祭祀を理解し、位置づけるための有効な比較検討資料として、韓国における祭祀遺跡・遺構の事例を概観し、祭祀関連遺物について考察を行った。 中でも、扶安竹幕洞祭祀遺跡は ...


九州前方後円墳研究会  熊本大学 文学部 杉井研究室
ttp://snow.advenbbs.net/bbs/kyuzenken.htm
第15回 (2012年度) 九州前方後円墳研究会 北九州大会
投稿者:杉井 健 投稿日:2012/04/10(Tue) 18:14 No.8
【テーマ】 沖ノ島祭祀と九州諸勢力の対外交渉
この沖ノ島祭祀の成立は、古墳時代初頭から続いていた西新町遺跡における半島系土器の集中に代表される 「博多湾貿易」 の衰退以後に開始されることが注目される。


韓国考古学学会、5世紀墓発掘したら日本独自スタイルでアイゴー!
toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2176.html



岩波文庫 魏志倭人伝 等
魏志 倭人伝
帯方の東南大海の中にあり、
水行
北岸狗邪韓国  官、副官はいない。

後漢書 倭伝
倭はの東南大海の中にあり
西北界拘邪韓国

倭の奴国 倭国の極南界なり。  下関市有冨 字「中村畔」
魏志倭人伝の奴国と後漢書倭伝の金印の奴国は別である。
魏志倭人伝の奴国は下関市永田本町、吉見の古宿。 旁国の奴国は長門市か。

宋書 倭国伝
高驪の東南大海の中にあり、世々 貢職を修む
高句麗の東南は島根県出雲、関西。

p.93 現代語訳
句驪  「高驪」 ではない。
天路をとじふさぐ
「天路」 の表記は峠越えの山道か。 句驪と倭国は陸続きで山越えの隣国か。 

水行  沿岸を行く

「東南」 の方向  宗像市・福津市〜北九州市〜下関市 川棚
韓国の東南に倭国(の都) があるのだから、倭国は関西ではない。

中国古典の「大海」  私見 「大海」 は普通名詞でなく固有名詞(地名)
「大海」 の場所 対馬 → 下関市永田本町・吉母沖 の海

隋書 俀国伝
全羅南道から対馬へ渡る。 金海には寄らない。


梁職貢図
blog.goo.ne.jp/yoshinogawa3/e/d74b3790a7d6cfbb62bf03ced789b205

斯盧国、新羅 – 古代史俯瞰 by tokyoblog
tokyox.matrix.jp/wordpress/斯盧国、新羅/

梁書倭国伝は末盧国を盧国と記す。


邪馬台国への道  新説 不彌国=吉見、船越
末盧国(盧国) は下関市室津。
御崎は1955年まで室津上に所属し下関市でなく豊浦町だった。

万葉集 楽浪の志賀の唐崎 は室津である。

中国(帯方郡) の使者は本州最西端の御崎に上陸した。
御崎から山を越えて 「室津の遍路道」 を進み、厚母から梅ヶ峠を越えて永田郷 バス停「永田石原」 の伊都国に行く。

新説 不彌国は吉見、船越である。


山鹿市
『熊襲は列島を席巻していた』 内倉武久 著 ミネルヴァ書房 2013年
P273
熊本県 山鹿市の国会議員 松野 頼久 (維新の党)
松野家は古くからこの地の豪族で、家系図である 「松野連倭王系図」 (国会図書館蔵、静嘉堂文庫蔵) には、先祖に倭の五王(済・珍・讃など)、熊襲の厚鹿文・市乾鹿文・取石鹿文などの名がある。

  ↓
北九州市いのちのたび博物館
企画展 「写真で見る装飾古墳 (福岡県・熊本県)」
平成29年12月23日(土・祝)〜平成30年4月8日(日)




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日鏡 (ひのかがみ) 考察

2018/02/09 21:15

鏡村の谷の陶人 文庫書記A24‐9 天日槍
  ↓
天日槍の従者は仿製鏡を作り、陶人から鋳型は石製でなく土製である。

天日槍が持参した宝物に日鏡 1面がある。

日鏡は日時計として利用された説がある方格規矩鏡か

参照サイト
(6)方格規矩鏡
www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/1600.html
このサイトの下端 (*1)福岡教育大学の波田野珠美さんによれば、W.P.イエッツは方格規矩鏡を日時計と考え、


菟道河 下関市永田川
近江国の鏡村 下関市黒井 善明寺の東にある「鏡山」
但馬国 下関市 本州最西端 御崎の淵ヶ谷


吉永の 植田遺跡  吉永839番地
大門古墳に近い植田遺跡から鏡片が出土している。
参照 『 豊浦町史 三 考古編 』  P503〜510  平成4年
梅光女学院大学 地域文化研究所 国分コレクションの資料 となっている。
「漢式鏡の残欠」 といわれていたが、調査で倭製方格規矩鏡の破片とされる。
製作年代は、4世紀後半〜5世紀半ば  
丹朱が付着し、手慣れの跡
6世紀半ばに投棄


下関市域で出土した鏡
植田遺跡 吉永  方格規矩渦文鏡の破片か   
吉田八幡宮 裏山石棺  連弧文鏡 ※ 仿製の内行花文鏡
吉見上越第2号石棺  乳文鏡
土井ヶ浜遺跡  弧文鏡 素文鏡 ともに完鏡
上の山古墳  六鈴鏡

秋根遺跡(弥生後期後半) R‐]XU地区 内行花文日光鏡  土壙墓
延行条里制遺跡(伊倉集落) 内行花文鏡 完鏡


以上を書く時に見たサイト
古代東アジアの銅鏡 - 邪馬台国大研究
inoues.net/study/kagami.html
2007/11/11 - そんな中、歴史倶楽部の郭公さんが紹介してくれたこの講演会は「鏡」を中心に据えもので全4回のシリーズ なのだが、...


【書評】日本の米の故郷が絞り込まれた!『列島初期稲作の担い手は誰か ...
bushoojapan.com 書籍・映画
2017/03/24 - 日本文化とはなにかと日本人に問えば、多くの人が「米」「稲作」と答えるのではないか。 弥生時代の始まりは普通、水田稲作が日本列島で始まった ...

反論
弥生土器は朝鮮無文土器の影響 (下関考古 奥野)
 縄文土器 外傾
 弥生土器 内傾
製作法のちがいは人が渡ってきたから。


本・文献・論文
『弥生時代の青銅器生産体制』 田尻義了 著 九州大学出版会 2012年
p.191
図110 朝鮮半島における倭系青銅器と小型仿製鏡の出土分布図

※ 絶版で Amazon 中古価格 も高い。 楽天に「在庫あり」 で新品を購入。


『列島初期稲作の担い手は誰か』 古代学協会 編 すいれん舎 2014年
下條信行 監修

※ 中古本を購入。 土井ヶ浜人類学ミュージアム「渡来人説」 に批判的。




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狗邪韓国の位置

2018/02/04 22:32

糸島説
朝鮮半島南端の勒島から福岡県糸島の弥生土器が出土している。
糸島から璧が出土しているので、糸島に狗邪韓国の首都があった。
糸島には「狗邪」 と音が似る「可也山」(365.1m) がある。

伊都国=糸島説 が粉砕された。
支石墓の糸島にあったのは伊都国ではなく狗邪韓国だった。


須玖・岡本説 福岡県春日市
多紐細文鏡の鋳型が出土。


古賀市青柳説
通説では狗邪韓国は金海にあったという。
北部九州で金海に関係する場所は福岡県古賀市である。

古賀市青柳に弥生時代−中世の 馬渡・束ヶ浦遺跡 がある。
弥生時代の環濠・住居跡・貯蔵穴群、甕棺墓群 
金海式甕棺(前期末−中期初頭)。 銅剣・銅戈・銅釧、碧玉製管玉・勾玉

福岡県の地名 平凡社  479上
「 弥生前期末−中期初頭の早い段階に当地に有力集団がいたことなど、魏志東夷伝倭人条における北部九州地域のクニの成立過程を探る上で重要な遺跡といえる ... 」


宗像説
魏志倭人伝が書かれたのは古墳時代はじめである。

当時、渡海の基地だった場所は宗像市・福津市だった。
宗像−沖ノ島−全羅南道 の航海ルートだった。 宗像海人は壱岐・対馬を中継してない。


畿内説
宗像は関西のヤマト政権と結びついている。
奈良県・大阪府のヤマト政権は魏志倭人伝の狗邪韓国である。


下関説
金海は下関の西北に位置する。


狗邪韓国の本拠地は朝鮮半島ではなく九州または関西にあった。

通説は金海に狗邪韓国とみる。

朝鮮半島で倭の青銅器が多数出土している場所
金海・釜山・梁山  北九州市・下関市の西北に位置している。

朝鮮半島南端の「北岸 狗邪韓国」 には邪馬台国の官、副官はおらず、戸数なども記されてない。


後漢書倭伝
狗邪韓国は邪馬台国の位置から西北方向にある。
邪馬台国は 北九州市・下関市 にあったと見れる。

下関市の西北方向に金海・釜山・梁山があるので、下関市の山陰側、室津・黒井・吉永に狗邪韓国の本拠地があった。


以上を書く時に読んだブログ
朝鮮からの「支石墓と稲作」の伝播
japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-87c2.html

A倭人 支石墓(しせきぼ) は語る
ameblo.jp/taishi6764/entry-11980478110.html

●朝鮮半島の倭と日本列島の倭
blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/99966d9deb33daa2ab8224cfef65b589

志登支石墓群・倭は朝鮮半島まであったみたいだけど
lunabura.exblog.jp/24368052/


なぜ卑弥呼神社がないのか | 田中英道ホームページ
hidemichitanaka.net/?page_id=1124

中川八洋掲示板
“記紀ごろし” 成って、皇室亡ぶ ──赤い古代史を粉砕し、古代史に日本を取り戻そう(2)
nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/02/153406


私見 卑弥呼神社の候補地
下関市
永田郷 御堂遺跡の場所にある天照大神碑
有冨上 天御中主神社(場所不明。 はんどう山か)

思想哲学
墨子の墓
道家 魏志倭人伝は老子など道家の神仙思想である。

日本の神道は中国の道家、墨子から派生したものである。

道家思想は女性的である。

老子 28 の冒頭
淮南子 第一 原道訓
 新釈漢文大系 淮南子 上 p.58下 訓読文 末から3行目 「雌節」
 中国古典文学大系 淮南子 説苑(抄) p.9下‐1行目 「雌のさだめ」


常陸国風土記の場所は下関市 綾羅木川北岸〜吉見である。

ゼロの焦点
考古学には「ゼロ」 概念がなく、数値が大であることのみに注目する。
「出土なし」 のゼロもまた地域の特色を示す顕著なデータである。

青銅器(銅剣、銅矛、銅戈、銅鏡、銅貨) を持つのは渡来系住民である。
邪馬台国は渡来系ではない。 青銅器が出土しない所、青銅器の出土が乏しい場所には原住民のクニがあった。


渡海ルート
全羅南道−沖ノ島−宗像  関西ヤマト政権

金海−対馬−壱岐−下関市室津(末盧国)  邪馬台国


以上、あれやこれや「思いつき」 説を錯雑と書いた。
結論は、
「北岸 狗邪韓国」 の位置は通説どおり金海付近でよく、下関市吉永・黒井付近に狗邪韓国の分国または本拠地があった。 末盧国は室津にあった。 邪馬台国は梅ヶ峠を越えて永田郷、吉見の古宿、有冨方面にあった。

根拠
下関市室津、黒井、川棚の西北方向に金海がある。




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下関市吉見 黒歯国の船越地区

2017/12/22 08:13

夏王朝 中国の夏王朝は東夷の扶桑の地にあった。
義和 Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C

「お歯黒」 と支那の神話
oyakochoco.jp/blog-entry-2062.html

夏王朝
www.allchinainfo.com/history/simply/xia


東嶽 泰山 竹生観音の山
西嶽 華山 吉母
南嶽 霍山 伊倉の火の見山
北嶽 恒山 永田郷 妙寺
中嶽 嵩山 有冨 字「中村畔」 ハンドウ山

箕山 有冨 字「箕越」 有冨古墳、レンタカー屋、空地

甘水 吉見の西田川沿いの温泉、養老の泉・醴泉


龍王神社 吉見
大比留女 其娘為七歳
http://44051510.at.webry.info/201209/article_48.html
  ↓
応神記 天の日矛 阿加流比売
難波の比売曾の社 碁石から吉見古宿の「船釘」 龍王神社の浜宮
また
「震旦国から来た」 は楊貴妃とも通じる。
今昔物語集  震旦付国史 「秦始皇、在感楊宮政世語 第一」
岩波書店 新日本古典文学大系


垂仁紀 都怒我阿羅斯等
豊国 国前郡 比売語曾社の候補地
・ 吉母の弁財天・威瀬・いせどの森  参照 「よしみ史誌」 p.711
・ 御崎の河口 海岸の岩上に弁財天の祠
・ 吉母の大河原 干潟が広がる


熊野 船越
斉明紀 文庫書記C354‐末行
屋(いふや)社は吉見 農免道路の千石岩
熊野(ゆうや、伊賦夜坂) の有馬村 花の時には亦花を以て祭る。
船越地区の花卉栽培は伊奘冉尊の泉津平坂まで遡る。

菊理媛神
文庫書記@56‐4
時に泉守道者白して云さく、「(のたまふこと) 有り。 ... 」
  ↓
出雲の屋社

吉見の農免道路(県道244号 下関川棚線) の脇にあった千石岩は現在撤去されている。 その場所に泉が湧いて道路に水が出ている。

また、
『防長地下上申』 第3巻 p.334上
壱盃水  船越峠ノ前ニ有
清水故往来之人、夏ハ一盃呑申ゆへか一ぱい水と申伝候

  ↓
船越 中川さん家横の湧水池「清水川」

黄泉の泉 候補地
・ 千石岩があった所の湧水
・ 船越 中川さん家の横の湧水池「清水川」


小治田宮
竜王山の千石岩伝説はとても重要である。
吉見の光善寺から千石岩へ行く農道と用水路がある。
ここに小治田宮、蘇我倉山田石川、山田寺があったような気がする。

高麗(狛、こま)氏、厩戸皇子はここか。

※ 蘇我倉山田石川麻呂は蒲生野山田も候補地
蒲生野山田に倉光さん家があるので、倉山田か。


饒速日尊
河内国の河上の峯(いかるがのたけ)に天降り、
山を越え、大和国鳥見の白庭山(有冨墓地の東側尾根上) に移った。

法隆寺 斑鳩(いかるが)寺

吉見の竜王山は乕伏山という。 「乕」 は虎の俗字


黒歯常之
『三国史記 下 雑志 列伝』  林英樹(訳) 三一書房 1975年
三国史記 巻 第四十四 列伝 第四 〔10〕 黒歯常之
p.150‐1行目
黒歯常之は百済の西部の人で、身長が七尺余もあって、すばやく強く且つ智略があった。 百済の達率兼風達郡将になった。

風達 竜田の風神
船越→千石岩(竜田)→吉見漁港・永田本町(難波)
風神は千石岩または竜王山の風穴か
風神=風伯=仙人

万葉集1682
常之倍尓 夏冬往哉 裘 扇不放 山住人


『黒歯常之』という人物
blog.livedoor.jp/tragic_history/archives/136130.html
  ↓
私見 江の大塚
地」 は山に囲まれた桃源郷
黒歯(コシ)→越 で船越。 百済から船で越してきた人々か。

「風達郡将」 であった黒歯常之の守備位置は下関市吉見の船越、または竜王山の千石岩 であり、言屋社の泉守道者だった。


関ヶ原
地形から船越は防衛上の要衝地である。
農免道路沿い 字「原」、「船越原」


 「碁」 の字から以下の場所は同じ
常陸国風土記の末尾
多珂郡 藻島駅家 東南の浜 (ごいし)の色、珠玉の如し。

古事記
淤能呂島
応神記 天の日矛 阿加流比売 難波の比売曾の社

場所
吉見古宿 国道191号沿い 七曲がり
どさんこラーメン店・畑建設前の海岸岩場

参照
「よしみ史誌」
p.705 神さん岩と帆柱瀬
p.706 浜宮さん

考古学 大久保古墳群



『古代氏文集』 山川出版社
新撰亀相記
p.206  三 伊佐諾・伊佐波両神、生淤能己侶島本辞
  ↓
吉見古宿の串山半島か




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中国の歴史 神話伝説 「三皇五帝」 は下関 の人たち

2017/12/17 20:31

三皇五帝 Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%9A%87%E4%BA%94%E5%B8%9D#.E4.B8.89.E7.9A.87

中国の正史で邪馬台国が重視された理由は三皇五帝の国だからである。

『先代旧事本紀』 の冒頭
天祖 天日天狭霧国日国狭霧尊 = 堯・舜・禹 など

中国考古学  仰韶、半坡、城子涯の遺跡
しかし、
三皇五帝は東夷(=山口県下関市) の人たちだった。


『孟子』 全釈漢文大系 集英社
P266
離婁章句 下
孟子曰く、「は諸憑に生れ、負夏に遷り、鳴條に卒(をは)る。東夷の人なり。


『山海経・列仙伝』 全釈漢文大系 集英社
若木 日本原産の椿 赤い花、青い葉

大荒北経 p.591 783 若木
下関市宇賀(南宇賀、北宇賀) ・・・ 中国の西安と同じ緯度 
鯖釣山に椿の原生林

海内経 p.599 794 若木
南海は綾羅木の海
黒水(黒=玄=北) 竹生観音がある山(東ヵ嶽・竹生山)
青水(青=東) 石原・形山

霊山 ハンドウ山 若木
鳥氏 八咫烏、鳥見 有冨墓地
場所は有冨上

安岡・蒲生野・有冨上  伏羲、黄帝、堯、舜がいた所
紫野遺跡、潮待貝塚、神田遺跡




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舜は東夷の人である。 有冨の小字「夏越」

2017/12/13 22:19

私は8月下旬から 『中国古典文学大系』 平凡社 (中国古典の現代語訳) を読みだした。 10月下旬から中国神話の場所は倭国である下関市(有冨〜吉母) と思うようになった。
11月下旬から淮南子を読みだし、一昨日ネットで YouTube 【淮南子】 を検索したら、この方の動画を見つけた。

衝撃!日本神話は真実だった。天照大御神様は存在した。その3(記紀編) 天照大神
www.youtube.com/watch?v=0uRNqsdrfDc
(コメント欄)
nihontenjin1 年前
孟子曰、舜生於諸馮、遷於負夏、卒於鳴條、東夷之人也
孟子は舜は東夷の人であるとその血統を述べている。


『孟子』 全釈漢文大系 集英社
P266
離婁章句 下
孟子曰く、「舜は諸憑に生れ、負夏に遷り、鳴條に卒(をは)る。 東夷の人なり。
  ↓
「邪馬台国の場所」 は中国神話に深く関係し、日本のみならず中国の根本問題でもあり、とても奥が深い。


平成25年8月25日(日)  文化財保護課 濱崎
掘ったほ!下関 2013 第3回展示解説会  配布資料 
  ↓
綾羅木川流域の小字地図 有冨 「箕越」
角川日本地名大辞典 山口県 巻末小字一覧 では「越」 (なごし)

場所は有冨古墳前のパチンコ屋跡の空地。 レンタカー屋がある所。
夏王朝は下関市有冨 遠山運送の東側 にあった。

遠山運送の東側の空地、サンヨー、生協配送センターは有冨の中村本家さんの田があった所で、1960年代半ば、市が「下関の発展のために売ってくれ」 と言うので手放したものという。
  ↓
有冨 中村本家さんのルーツは夏王朝の禹である。

夏禹 夏后氏 夏の姓 「姒」 ジ 女の年長者


舜は禹に国を譲った ・・・ 出雲の国譲りか

堯 ・・・・・舜を召し因りてる ・・・ 堯は「天」「国」 では「国」 の者
  ↓
『先代旧事本紀』 の冒頭、天祖 天日天狭霧国日国狭霧尊
  ↓
日天狭霧国日国狭霧尊 は堯・舜・禹 の中の誰か。 あるいは黄帝か。
天 ・・・ 「譲」 の字
国 ・・・ 「禅」 の字



夏の扈(ゆうこ)氏 
虞(ゆうぐ)氏 −帝舜のこと


天一  淮南子
【特集】木星とガリレオ衛星(2017年) - アストロアーツ
www.astroarts.co.jp/special/2017jupiter/

荘子と進化論 その200。 | 人生朝露 - 楽天ブログ
plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201701010000
  ↓
青龍 有冨の字「中村畔」 から東方向に位置する字「夏越」 と青山


神聖な方位
方位は道具(指南車、羅針盤) を使わなければ観測できない。 西偏7°
梶栗浜遺跡 ― 青山の山頂 を結ぶ線
竹生観音から南の方位 西偏7°

風水の方位 「方忌み」 等の意味を持つ。
本格的な方位の測定はネット地図ではなく風水羅盤を使う。


山海経
『山海経・列仙伝』 全釈漢文大系 集英社
青丘 巻末索引
p.51 南山経
p.431 海外東経
p.514 大荒東経

私見では、
「南」 は洛陽の南方ではなく下関市綾羅木の海
「北」 は黄海の北側・北朝鮮の海ではなく下関市吉母・御崎・涌田の海

南山経
p.71 丹穴の山 渤海 鳳凰

羲和の国   羲和は「十日」 を生んだ。
山海経 大荒南経
p.543


明治書院
『中国古典小説選 1』 穆天子伝 漢武故事 神異経 山海経 他
山海経(抄)
p.53 清の学者の説 「大荒経」 は「海外経」 の注釈


書経
『書経・易経(抄)』 中国古典文学大系 平凡社
書経 〔六 舜が帝業を継ぐ〕
p.23上 その年の春二月には、東方に巡守して、泰山のところに至り、柴を焼いて泰山と天とを祭り、

p.33下 注25 泰山に柴を燔(や) いて祭る

『尚書』 全釈漢文大系 集英社 p.68


竹生観音がある山の名 東ヵ嶽 = 東岳(泰山)


千葉大学 井上孝夫 1992年
Google で検索せよ
【 PDF 古代採鉱民族の構成 】
 ↓
P72
はんどう山の北西に位置し、中腹に竹生観音のある通称「竹生山」 は2つの峰から成るが、西峰を「観音山」、東峰を「千束焚」と呼んでいる。

書経(尚書) 堯典 泰山で柴を焼いて天を祭る記述
下関市蒲生野山田・有冨上 竹生観音の山に「千束焚」 としてある!




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北京大学 道教中心先生 驚愕

2017/12/13 12:08

探寻庄子文化之源(上)——庄子之谜
www.youtube.com/watch?v=EQoLLvh5sIo

孔子05/ 孔子與老子論道-後1/3處
www.youtube.com/watch?v=QyTDb0Cqy_s

周易《易经》伏羲篇第03集:河圖顯形
www.youtube.com/watch?v=ieBO7UerjnY


邪馬台国
・ 墨家、日本渡来  下関市永田郷  山海経 海外東経 雨師妾・赤松子
・ 青丘国  下関市蒲生野・有冨  竹生寺 東嶽=下関泰山

・ 隋書俀国伝 邪靡堆  下関市永田本町


蓬莱山  下関市吉見 串山
瀛洲  下関市吉母 黒嶋
方丈山  下関市蒲生野・有冨 東嶽




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淮南子で、日本の歴史とルーツが解明される

2017/12/12 23:43

天照大神様は存在した。日本神話は真実だった。天照大神 その1 伝説 羲和
www.youtube.com/watch?v=HmtfGF8kFGg

天照大御神様は存在した。衝撃!日本神話は真実だった。 2 天照大神
www.youtube.com/watch?v=QVazLrfg6yw


青丘国=倭面上国=有冨上国
『淮南子・説苑(抄)』 中国古典文学大系 平凡社
時則訓 第五 P72下‐末
 東方の極は〔遼西の〕 碣石山から朝鮮をすぎ、大人国をとおって、東のかた日出の処、榑木(榑桑・扶桑の国) の地、青丘の樹木しげる原野に達する。 そこは太r(庖犠氏) の帝と句芒の神が司宰していて、一万二千里のひろさである。

その政令には、いうよう、
「集会禁止(群禁) を解除し、閉鎖したものを開放せよ。 窒(ふさ) ぎとめた処(行きどまり) や障塞(とりで) を開通させよ。 交游を厚く行ない、怨みごとを棄てよ。 労役者や罪人を釈放し、憂患者を放免させ、刑罰をさしとめよ。 関梁(関所や渡し守) を開き、貯蔵の財貨をひろくゆきわたらせよ。 外敵とは講和し、四方〔の異族〕 を撫(なつけ) よ。 柔恵の施政をおこない、剛強策をさしとめよ」
と。


  ↓
弥生時代の年代測定論争に一石
環濠集落の消滅は2世紀後半から3世紀初頭とされるが、淮南子が書かれた時(紀元前2世紀) には既に環濠は消えていた?

青丘国は魏志倭人伝の記述、墨子の兼愛、続日本紀の天皇に通じる。


下関市有冨 字「中村畔」 儀万さん家 ・・・ 有冨村の庄屋
「儀万」 は次の文言によるか。
同上書  泰族訓 第二十  P320下‐10行目
さて、宮室を高くしないわけは、材木を惜しんだのではなく、鐘や鼎を大きくしないわけは、金属を惜しんだのでもない。 ただ性命の情況どおりにやれば、制度が民の表(てほん、目標) となりうるからである。

珍しい名前「儀万」 は淮南子の文言と思える。


年代測定
yama06.at.webry.info/201305/article_81.html

【新設】基礎 縄文時代
www.asahiculture.jp/shinjuku/course/266ac4a4-882a-404c-fb9b-59dca71068dd

中国語の7割が日本製という事実
www.youtube.com/watch?v=IMUBw9Q52p0

中国人が日本人には絶対言わない日本旅行の意外な本音
「あまり豊かじゃないけど、いい国ね」
kuromacyo.livedoor.biz/archives/1903323.html
  ↓
常陸国風土記
『風土記』 新編日本古典文学全集 小学館 に収録。




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「史跡の道」 ガイドブック を使って

2017/12/12 03:59


下関考古博物館の受付でもらえる 『 「史跡の道」 ガイドブック 』 を使って。

私は、
三郎山古墳と有冨古墳を斜めに直線で結ぶ着想はできなかった。
秋根上の若宮神社跡とその「西北」 にある蒲生野山田内の某所を結ぶ着想もできなかった。

『 「史跡の道」 ガイドブック 』 を見ると、圃場整備がされて畑の形、道路が昔と違っているものの、おおまかな方向は 東‐西‐南‐北 ではなく、
西北(乾・天)‐東北(艮・山)‐東南(巽・風)‐西南(坤・地) である。

綾羅木の上の山古墳、延行の古墳群は東北(艮・山) の方位に位置する場所と関係するのだろう。

数年前に 『古代氏文集』 山川出版社 に収録されている 「住吉大社神代記」 を初めて読んだ時に P47 443 「此の内の字」 は蒲生野山田の小字「此地」 ではないかと思ってみたものの、蒲生野山田に住吉があった郷土史料を見つけることはなかったので、そこから先に推測が利かなかった。

各集落の神社が合祀された川北神社の世話係(崇敬総代) に蒲生野山田からも1人出るので、場所が不明な有冨村山田の天御中主神社は蒲生野山田にあったかと思って昔の事を知ってそうな方に聞いみたが、みな知らないと言う。

蒲生野山田の中央道路は王子権現山古墳から西南へ行く田の畔である。 または球場前のセブンイレブン横から上る道である。

住吉大社神代記の P47 440 から、竹生観音から流れ出る谷川と深坂用水路と交叉する場所が住吉神が所有する穴門山田の堰で、この堰から溝を掘って東側の倭(有冨上 忍海刀自の親族の田畑) に水を引こうとしたが、なかなかうまくできなかった。 というふうに私は解した。
P47 442 「東は倭岑」 は ハンドウ山−有冨墓地の尾根筋 である。


やすおか史誌  平成2年
P6
(蒲生野) 山田
地形は三郎山台地によって安岡平野と方向を変え、隣村有冨村と接続して南面する。 王子ヶ森古墳はに有冨古墳群、に延行古墳群、西に三郎山古墳群を見下ろす中央部に存在したことは何かを意味していないだろうか? (時代考証は別にして

住吉社の南東に山田邑を置き、西北社領の分岐点にこの山田邑を設けたのには住吉社領として意味があるかと思えるが推測を出ない。 市合併以後蒲生野の一部とされたが近年また一自治会としてのまとまりを持っている。


※ 蒲生野山田が「住吉神社 西北方位の神領の分岐点」 になっていたとある。
蒲生野山田を「住吉社領」 に認定することがそもそも初耳だし、どのようにしてその着想を得たか、「やすおか史誌」 の著者に質問してみたい。

やすおか史誌 P589
冨任八幡宮に蒲生野八幡宮が合祀されている。
蒲生野・冨任は安岡地区、有冨・延行・綾羅木は川中地区である。
蒲生野山田は有冨支配( P583) だったので、蒲生野八幡宮が山田集落にあったとは思えないし、山田集落に住吉社があったとは知らないし、思いもつかなかった。 郷土史料に載ってるが場所不明だから私が探していたのは「有冨村山田の天御中主神社」 があった所だ。

有冨村内の住吉神社の神田 が蒲生野山田 字「大山田」 だったのだろうか。
よくわからん。



日本書紀
山田史御
「方」 は丈山である東ヶ嶽・竹生山
山田 有冨上の山麓〜蒲生野山田

三宅臣藤麻呂
新羅・百済は朝鮮半島ではなく室津(御崎含む)・涌田・吉永・黒井の新羅人・百済人の入植地で倭国の「三宅」 だった。
田道間守  天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏) の祖


万葉集の三方沙弥は永田郷の人だと思う。

山田三方は懐風藻に歌が3首ある。 懐風藻の場所は竹生観音である。




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蒲生野山田 横田遺跡

2017/12/11 12:39

蒲生野 妙蓮寺の山号 長谷山 はせやま
一の瀬 バス停 小字「長五郎」「榊」
深坂 神功皇后の腰かけ石 場所未詳


深坂用水路 蒲生野山田→有冨
『古代氏文集』 山川出版社 2012年
住吉大社神代記

436 沙古田里 砂子多川
439 末地 川がない有冨 あるいは字「末田」
441 水分・水越 竹生観音の谷川が流れてくる所 字「大山田」
443 此の内 字「此の地」 か 場所 なごみの里


続日本紀@217-16
十一月戌子、
大倭国
添下郡の人 大倭忌寸果安、
添上郡の人 奈良許知麻呂、 ・・・・ 蒲生野山田の字「此の地」?
有智郡の女 四比信紗、

並に身を終ふるまで事勿からしむ。


大倭忌寸 ― 椎根津彦 倭直 長岡

奈良許知麻呂 ― 添上郡 山村 三林公 ・・・・ 山村、林という家がある

日名照額田比道男伊許知迩神



魏志倭人伝 皆徒跣(はだし)
穴門の践立 字面は践祚

字「大山田」
深坂用水路 幹線 竹生観音から流れ出る谷川
蒲生野山田の取水口 堰

用水路の山側に石組の跡があり、
有冨の迫本さん談 「この場所には戦争中、田があって米を作っていた」


字「横田」 万葉集22 題詞 波多横山

山口県風土誌 第九巻 P380
蒲生野村 境界 記述文中に「横山」


字「此地」 此の地、此ノ地
場所は なごみの里 の南西側 丘陵

『古代氏文集』 山川出版社
住吉大社神代記 P47  442・443 「此の内」

古事記 天孫降臨
此地は韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて、


字「蓮池」 万葉集の隠沼



過去記事 
安岡の地名考
http://44051510.at.webry.info/201402/article_51.html

三笠の山 春日の山 高座
http://44051510.at.webry.info/201503/article_31.html


有冨古墳 吉岡の家は吉野  蒲生野山田に平城京があった
http://44051510.at.webry.info/201406/article_13.html

東国 常世の虫 大生部多
http://44051510.at.webry.info/201508/article_13.html




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荘子の北海若 下関市吉母

2017/12/11 01:33

下関市吉母〜豊浦町〜豊北町二見 は若宮神社が多い。
吉母、室津、松谷、二見

文庫書記A20‐3
都怒我阿羅斯等 穴門の伊都都比古 嶋浦→北海→出雲国→都


涌田の海を古くは若海と呼んでいた。
(参照)
角川日本地名大辞典 山口県  オンデマンド版
吉永
P887左
「若海」 と書かれた場所は涌田 (わいた)

黒井の杜屋神社の社伝に亀甲に乗った三穂津命

吉母の黒嶋に宗像さん家があり、海北道中、道主貴


荘子 有名な「北海の若」 は吉母であろう。


通説
北海 北朝鮮の海岸
東海 山東半島の海岸
南海 揚子江河口南側〜海南島

私見
東海 永田本町・吉見漁港 ・・・ 海岸の赤石が特徴
東海の大魚=万葉集 難波の海の鯨

北海 吉母・御崎・豊浦町沿岸。 北浦。 特に吉母の黒嶋
南海 綾羅木川の河口


荘子
荘子 第一 逍遥遊篇
 北冥の鯤 吉母・御崎・室津・涌田
 南冥の鵬 綾羅木海岸。 「鵬」 は竹生観音の山

荘子 第十七 秋水篇
 北海若 吉母
 東海の大亀 吉見古宿の串山、吉母の黒嶋
 鵷雛(えんすう) 南海は綾羅木海岸。 鳳凰は竹生観音の山

荘子の逍遥遊篇、秋水篇は中国の雄大な幻想文学ではなく、下関市の吉永・室津・吉母から綾羅木へ行く "鳥の大船" だった。
考古資料 構造船の祭祀土器 吉永遺跡、要須遺跡




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孔子は下関の人

2017/12/11 01:10

孔子の「孔」=穴門の「穴」

中国の山東半島ではなく日本の山東(やまと、倭)


『史記 中』 中国古典文学大系 平凡社
P58下 孔子世家 第十七

『呪の思想』 白川静・梅原猛 平凡社ライブラリー
P76
孔子が巫女の私生児というのはショッキングな説ですね、あれは。


有冨上
竹生観音がある山の名 東ヵ嶽。 道教では東岳=泰山

薬師池の上 ふせぎが谷 ・・・ 孔子の父が葬られた防山
「地下上申絵図 有冨村地下図」 による


蒲生野山田
万葉集の田庄 生観音の参道入口
(こもりく) 白川静のシンボルマークである漢字「口」 の象形

平凡社 『新訂 字統』 P296 口(コウ) によれば、象形は
口耳の口とみるべきものはほとんどなく、おおむね祝禱・盟誓を収める器の形 ・・・ 他の漢和辞典と異なるユニークな解

『初期万葉論』 白川静 著 中公文庫
第三章 呪歌の伝統
二 遊猟と招魂
P95‐末から2行目 石が根 禁樹おしなべ
石が根もここでは「葬式のイメーヂを持つ」 語である。

石が根=湯津石村

私は蒲生野山田の王子権現山古墳は日並皇子陵かと思う。
市の文化財保護課は発掘調査の予定はないという。
 
の雨 「礼」 は祭祀。 記は葬式・墓の書

竹田庄の隣に「隠口」 がある。
隠口の始瀬 ・・・ 谷川

万葉集210 柿本人麻呂
大鳥乃 羽易乃山尓 吾恋流 者伊座等 

竹生観音の山の形は鳳凰の形である。
(参照)
『定本 地理風水大全』 御堂龍児 著 1997年 国書刊行会
P40 【鳳凰の山】
鳳が羽を広げて、今まさに飛び立たんとする鳳凰の姿に似ている。
これを 「飛鳳冲天形」 という。





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当ブログ 過去記事

2017/12/09 11:39

当ブログの過去記事  大半は今と考えがちがう。

穴門 の 場所
http://44051510.at.webry.info/201110/article_105.html

軽嶋の明宮
http://44051510.at.webry.info/201110/article_108.html

永田郷の由緒古跡
http://44051510.at.webry.info/201405/article_6.html

永田郷 妙寺の若王子池の読みは「にゃっこうじ」 ? 「びゃっこうじ」 ?
市役所土地係では「わかおうじ」 で登録されている。

溜池が決壊すれば下の集落に甚大な被害を及ぼすので、もしや水城かとも見て各地の池を見る。


宇賀本郷  なぎなた岩
http://44051510.at.webry.info/201203/article_57.html

扶桑日本の緯度
http://44051510.at.webry.info/201306/article_2.html

対馬 ⇒ 沖ノ島 ⇒ 向津具 の潮流 
http://44051510.at.webry.info/201211/article_6.html




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応神天皇の巻

2017/12/06 18:50

筑紫の蚊田
神功皇后は応神天皇を産んだので、その場所に鎮懐石を置いてきた。
万葉集813 「筑前国怡土郡深江村子原」 と同じ場所であり、
バス停 永田石原 の付近である。


日高  伊倉のお忌み石=鎮懐石 説
文庫書記A160‐末から2行目
南、紀伊国に詣りまして、太子に日高に会ひぬ。

日高  火の見山 「見山」 とも書かれた。

古代氏文集 住吉大社神代記 P43‐末行 400
木伊国伊都県 道の側  伊倉。 または綾羅木川沿いの字「糸田」
大河  綾羅木川

『ふるさと散歩みち』 下関市川中地区まちづくり協議会 平成7年
P80下 お忌石 (伊倉本町) 2か所
P84下 おう神社 (熊野町1丁目) 之森
  ↓
紀伊国伊都は下関市伊倉の火の見山 麓の道 という発見


軽島の豊明宮
有冨上の八幡宮 字「中村畔」 祭神は応神天皇のみ。
岩谷さん家前の山道入口に明治末まで社があった。
軽=銅 なら、銅山伝説が伝わる金鋳ヶ谷のへりである。

有冨 儀万さん家 ・・・ 有冨村の庄屋
「儀万」 は次の文言によるか。
  ↓
『淮南子 下』 明治書院 新釈漢文大系
巻二十 泰族訓
P1219下 訓読文 13行目
制度、以て民の為る可ければなり。


天一  淮南子では太歳、木星
淮南子 巻三 天文訓
『淮南子 上』 明治書院 新釈漢文大系 P155下 訓読文 1行目
『淮南子 説苑(抄)』 平凡社 中国古典文学大系 P45上 注78

淮南子 天文訓 は呂氏春秋 有始覧 を参考にして書いている。
『呂氏春秋 中』 明治書院 新編漢文選 巻十三 有始覧

韓国の研究家によれば、下関市の遺跡・墳墓は木星の配置で設計されているという。


難波の大隅宮
船越川沿い、大塚と船越の境に字「王仁」 があり、皇子八幡宮跡がある。
「王仁」「皇子」 は山口県風土誌などでは「応神」 と記されている。
吉母・正吉・吉見 の端にあるから「大隅」 か。

大国主神の 天の日隅宮 も福江の大塚
福江の大塚は出雲だった。

大塚は「王塚」 とも書かれる。


(参照)
山口県風土誌 第九巻 P386
福江川(単流) 応神ノ前
「矢ビツ」 は ふくふくうどん の小字



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「大津の渟中倉の長峡」 の住吉 浄満寺

2017/12/06 15:40

「よしみ史誌」 浄満寺 P534‐2行目 津守土佐之助宗綱

永田本町には津守さん家が2軒ある。
永田川下流の津守さんは浄専寺付近から越してきた。
浄満寺の国道向かいに津守さん家がある。 

ネットで検索 【 津守氏 】

万葉集
109 津守之  大津皇子 石川女郎 津守連通
2646 住吉乃 津守引之  網代橋


文庫書記A160‐9
大津の渟中の長峡

倉  文庫書記A128‐5 熊鰐 岡浦 大
古事記 猿田彦が沈んだ阿耶訶=万葉集121 住吉乃 浅鹿乃浦尓


「大津の渟中倉の長峡」 の住吉は浄満寺あたりにあった。




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角賀 神功皇后

2017/12/06 06:58

神功皇后の出身地は角賀。 福井県敦賀とされている。

万葉集366
手結我浦

手結(てつがい) とは - コトバンク
ttps://kotobank.jp/word/手結%28てつがい%29-1565672

手結 (てい) とは - コトバンク
ttps://kotobank.jp/word/手結-99706
世界大百科事典 第2版の解説
てつがい 【手結】
射術を競う朝廷の年中行事である射礼(じやらい),賭射(のりゆみ),騎射(うまゆみ) の前に行う武芸演習をいう。 手は射手,結は番(つがう) (2人を組み合わせる) の意味。 射手を前後,左右に分け競争させる。 射礼(1月17日) の手結は式日の2日前の15日に,兵部省では親王以下五位以上の者30人を選定し,その中から能射者20人をえらび,南門の射場において行い,これを兵部手結という。 六衛府の射手は六衛府で簡定しその庁で行う。
  ↓
永田郷 日野八幡宮 者祭
  ↓
万葉集20 良前野

万葉集295 麻呂
江乃 木松原 遠神 我王之 幸行

岩波 新日本古典文学大系、小学館 新編日本古典文学全集
万葉集 注釈 によれば、原文について
西本願寺本 木笶
紀州本・広瀬本 野木笶

「笶」 は竹 の意味。 魏志倭人伝に「竹箭」
「野木」 は野中の立木か
「処」 は遺跡または予定地

「清」 の字
古事記 天の日矛 多遅摩国 日子
荘子 外物 第二十六 清江  河伯 漁師の余且 神亀


永田郷 石川書道教室さん談 ・・・ 御堂遺跡の地権者、日野八幡宮の宮守
「先祖はから来たと家に伝わる」
「バス停 永田石原 の国道脇から土器が大量に出た所がある」

卑弥呼の「鬼道」 は墨子の「鬼神」 に通じる。
墨子 第三十一 明鬼篇 下


卑弥呼の女、壹與 ・・・ 御堂遺跡の小字「宗教」
「宗」 は「おおもと」 の意味か。

台与、壱与
原文 「與」
『角川 大字源』 によれば、「壹」 の解字は を入れた壺+

文庫書記A126‐2
渟田門
皇后、を以て鯽魚(たひ) に灑きたまふ。 鯽魚、即ち酔ひて浮びぬ。

「吉」 は母・正(永田)・見  ※ 正吉の「正」 は中央の意味

難波


角賀の場所は永田郷 御堂遺跡の近くである。




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邪靡堆の位置 日の出幼稚園

2017/12/05 23:36

隋書俀国伝 俀国の都、邪靡堆の場所は
下関市永田本町3丁目 永田神社、浄専寺・日の出幼稚園 である。

洞海は北九州市の洞海湾でなく下関市永田の浄満寺前の国道にあったであろう水道である。

菟夫羅媛の「つぶら」 は古事記の比良夫貝
その海水のつぶたつ時の名を、つぶ立つ御魂といひ、
  ↓
額田部連比羅

阿倍臣 ・・・ 洞海の鳥池

物部依連抱 ・・・ 網代橋

中臣地連烏麻呂 ・・・ 永田神社 字「宮」 


推古紀 裴世清を接客した人の名から推理して、
邪靡堆の場所は永田本町の日の出幼稚園である。




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半島有事 と 岩国  万葉集から

2017/12/05 03:13

下関市御崎・室津は韓国の難破船、漂流者、漂流物が着く所である。
その記述が豊浦町史にあった覚えがある。
室津は元寇時に元の使者が来た港なので、末盧国といえる。

室津・黒井に来た渡来人は梅ヶ峠を越えて永田郷に来る。
永田郷 バス停 永田石原 は冬の寂寥感で侘しい所である。

しかし、
ラブホテル セピアの峡谷は「平成の吉田松陰」「防衛省自衛隊 研究所」
の観点から、古代では朝鮮半島有事における戦略的要衝地点である。

古代を知れば - 未来が見える

ラブホテル セピア前の池は「大池」「石神池」 という。
万葉集 周防の岩国山 は永田郷 ラブホテル セピアの場所 字「石神」
である!




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穴門の大田、山田 再考 またまた再考

2017/12/05 01:28

私は記紀・万葉他の地名場所を都道府県下の通俗場所で解していない。


2017-12-04 10:00:06
住吉大神が希望
した穴門の山田邑は住吉神社の現在地とは違う
ttp://ameblo.jp/shimonose9m/

航空写真
山田地区の旧住吉神社、北西方向に見下ろす(3D)

現地写真
旧住吉神社の跡地あたりに、雨乞い祭りの神事の場らしき囲いがある

  ↓
角川日本地名大辞典 35 山口県 オンデマンド版 2009年
延行 P665
〔中世〕 延行名
文明13年6月日一宮神領豊東・豊西両郡田数并土貢注文案写(住吉神社文書/住吉神社史料上) に「壱所貞応参百歩 延行名内 平田弐反 分米捌斗」 と見え、わずかながらこの地に一宮社領のあったことがわかるが、天正17年5月3日 一宮神領付立(同前) には見当たらない。
  ↓
これか。
私の判断では、蒲生野山田は土質が赤土でないので神々しい所ではない。




<< 作成日時 : 2010/06/23 22:25 >>
http://44051510.at.webry.info/201006/article_66.html
邪馬台国下関説

  ↓

www.manyo-world.com/ 2011 年 12 月 15 日
万葉集 20 番歌の「蒲生野」の所在地について
竹 生 政 資*
On the Location of “Kamafuno” in the 20th Poem in Manyo-shu
Masasuke TAKEFU

私見
私のブログの方が先行している。 当ブログを開始したのが2009年秋で、
2010年〜2011年8月 に万葉集 20 の蒲生野は下関市蒲生野山田であるブログ記事を私はよく書いていた。
蒲生野山田
  イノシシ、鹿、野ウサギ、鳥など獲物が多い。
  馬を走らせるに適した平地が安岡〜蒲生野にある。

(難点)
安岡自動車学校の村崎ノ鼻→蒲生野山田 は距離があり過ぎる。
蒲生野山田は狩猟の追い込みに適していない。

そこで半島地形で獲物を追い込みやすい安岡漁港の脇ノ浦に「蒲生野」 があったかと推理した。 安岡漁協にある神社の「猟」 は「漁」 でなく「狩猟」 のことかと思った。

(最近)
「住吉大社神代記」 の場所は下関市母・永田(正)・見の「」 字の地
であり、住吉神社の穴門・穴戸は永田郷の字「石原屋敷」 あたりと考えている。

神功紀の羽白熊鷲は白い色をした空飛ぶ仙人であり、誅した場所は「安」。
神功紀の松峡宮=斉明紀の唐人仙人 「住吉の松嶺」 文庫書記C332‐3
  ↓
バス停 永田石原 から近い所

万葉集の蒲生野は永田石原、豊浦郡大領 額田部直塞守 は永田石原、
白雉の穴門は永田石原。 近頃はみな「永田石原」 ばかりと思いはじめた。


穴門の山田は下関市 バス停 永田石原 あたり。


穴門豊浦宮
私見は龍王神社の浜宮である。 「よしみ史誌」 P706

『古代氏文集』 山川出版社 2012年
住吉大社神代記
P17 139
十四代にあたりたまふ足仲彦天皇、穴門豊浦宮御宇めたまふ。
〔長門国豊浦郡に在る北樹社なり。 今、住吉斎宮と謂ふ。〕


斎宮については「よしみ史誌」 P544‐末行 「龍王山之記」

北樹社 ・・・ 「樹」 は山海経 海外東経 の扶桑


小字「木の中」
永田郷 御堂遺跡の南側 字「木の中」
文庫書記@46‐末から3行目
筑紫の日向の小戸の橘の


吉見 尾袋の南側 字「木の中」


「穴門の山田」 は吉見か
文庫書記A244‐末行
乃ち石河の水を引きて、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦の四処の郊原に潤けて、墾りて四万余頃の田を得たり。

「古代氏文集」 山川出版社
住吉大社神代記 P44 401
西は河内の泉の上鈴鹿・下鈴鹿・雄浜・日禰野公田・宮処・志努田公田・三輪里道を限る。


横尾鼻堤(光善寺がある字「横尾」 の集落では「横鼻堤」 と呼ぶ) から流れ出る用水路の源は千石岩付近である。

吉見下
字「山田」  龍王神社の東側の山際
字「片山田」 光善寺の北側
横尾鼻堤

「穴門の山田」 は龍王神社が所有する神田、宮田、社田?




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東風  あゆのかぜ

2017/12/03 14:58

下関市永田郷 バス停 永田石原 の川沿いに小字「若宮」 がある。
この字「若宮」 の場所に
万葉集
若宮年魚麻呂
越中国 大伴家持 4017歌 東風(あゆのかぜ)
石川朝臣子(君子、吉美侯、少郎子)
丹後国風土記 逸文 水江の浦の嶼子
の住所があった。

越中国
永田郷 国道沿い 石川書道教室さん談
「先祖は北陸の越から来たと家に伝わる」


山口県風土誌 第九巻 吉母
若宮神社 祭神中の住吉荒魂大神は塩土郎翁に通じる。
P431
万葉集の海堺、古事記の海坂を吉母−蓋井島 の海底に広がる石畳に比定している。 吉母浜には豊玉姫が彦波瀲尊を生んだ伝説があり、海神の地であろう。

文庫書記@190‐末から3行目

吉母の黒嶋と対岸の 字「西条」 に宗像さん家がある。


大宰府 菅原道真の歌
東風(こち) 吹かば 匂い起こせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ


大宰府、越中国、伊都国は下関市永田郷 バス停 永田石原 である。





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墨子  大率 神社 尚同

2017/12/01 12:55

魏志倭人伝の「一大率」
大率

『古代国家と道教』 重松明久 著 吉川弘文館 昭和60年
P35‐末から4行目
「大率」 の言葉は 墨子 第六十八 迎敵祠篇 にある。


『韓非子 墨子』 中国古典文学大系 平凡社 1968年
墨子 P499‐末から8行目 に「大率」(方面軍の大将) の言葉がある。

P499‐1行目
占に長じた巫(みこ) を任用し、霊薬を備え、家を与えて養う。 巫を必ず公社(国土の神を祭るところ)近くのよい家に住ませ、巫をのように敬う。 望気を行なう巫は、その結果を守将に知らせる。守将だけが、巫から得た望気の結果を知っている。

第七十 号令篇
P507下‐15行目
望気(雲気を占う) を行なう者の宿舎は、必ず大守の官邸の近くにおき、巫(みこ) の宿舎は必ず公社の近くにおき、必ずの如く敬う。 巫・祝・吏と望気の者は、必ずよい知らせを人々に告げ、実情は守将に報告する。 守将だけが実情を知っている。 巫と望気の者が勝手によからぬことを言って人々を驚かせるならば、処罰して容赦はない。 望気(雲気を占う) を行なう者の宿舎は、必ず大守の官邸の近くにおき、巫(みこ) の宿舎は必ず公社の近くにおき、必ずの如く敬う。 巫・祝・吏と望気の者は、必ずよい知らせを人々に告げ、実情は守将に報告する。 守将だけが実情を知っている。 巫と望気の者が勝手によからぬことを言って人々を驚かせるならば、処罰して容赦はない。

  ↓
魏志倭人伝の卑弥呼、記紀の武内宿祢に通じる。
墨子の城には神の如く敬れた巫がいた。

置厨給事
『墨子 下』 全釈漢文大系 集英社
P541上 【給事之】 について注釈あり。

墨子 下』 新釈漢文大系 明治書院
P755 語釈 〇之 



言葉 「神社」 が出てくる
墨子 第三十一 明鬼篇 下

『韓非子 墨子』 中国古典文学大系 平凡社
P414上‐2行目 斉の神社で盟いをさせる

  ↓
墨子の鬼神は仲哀紀・神功紀の神託に通じる。


「尚同」
角川 新字源 改定版  学生・一般向けの小辞典
角川 大字源  大型辞典
には漢字「尚」 の熟語に「尚同」 がある。

広辞苑 2008年 第6版
新漢和大字典 2013年 第4刷 学研
字通 平凡社
には「尚同」 は載ってない。




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儀狄之酒  下関市永田郷 石川さんの家周辺

2017/11/28 20:31

漢字学者の論争
ネット検索 【 白川静 藤堂明保 】

『新訂 字統』 白川 静 (著) 平凡社 2004年
P416中
【酒】
形声
事物起源説話として、儀狄(ぎてき) がを作り、(う)が嘗(な)めてこれを(うま)しとし、ついに儀狄を疎んじ、杜康(とこう)がきび酒を作った話をしるしている。 〔戦国策 魏策〕


天の美禄
www1.odn.ne.jp/kushida/hk_kwb-j/hk_0412j.html

「儀狄之酒」 (ぎてきのさけ) の意味 - 四字熟語辞典オンライン
yoji.jitenon.jp/yojik/5176.html
「儀狄」 は人の名前で、中国のの時代に、酒を生み出したとされている伝説上の人物。 または、酒のたとえ。 中国のの国の禹王が儀狄の酒を飲み、そのうまさから、酒に溺れて国を滅ぼすものが出ると言い、酒を禁じたという故事から。 出典, 『戦国策』 「魏策」


夏花 文庫書記A66‐9
神夏磯媛 文庫書記A66‐10
夏羽 文庫書記A140‐9

夏王朝 禹 九州
「九州」 は永田郷 バス停 永田石原 の周辺
景行天皇の九州遠征は バス停 永田石原 の周辺 だった!


「酒と日本民族」
www.geocities.jp/m_kato_clinic/alco-yowa-minzoku-1.html
[古代中国人と酒について。今回は伝説の世界の話です。]
最も古い中国の酒の伝説
中国の酒の始祖といわれるのは「儀狄(ぎてき)」 でありまして、の時代(約四千百年前) のことであります。 この人は『戦国策』 によりますと禹の娘とありますが、一説には身の丈九尺五寸、ひたい黄色で鼻曲り、頭ゆがみ、耳薄い男であったともいわれます。 その儀狄がはじめて酒を造って、これを禹王に献上しました。 禹は明君として後世まで有名な人ですが、いかに明君でもうまいものはうまいにきまっています。 そこで「うむ、これは美味いものだ」 と感心し、その酔い心地に陶然となりましたが、しかしさすがは禹で、酔いながらも、「後世、その甘美なるを貪り、これを飲むこと節ならずして、必ず国を亡ぼし家を敗る者あらん」 といったといわれます。(参考 : 『酒おもしろ語典』 板倉又吉著、大和出版、1986年)




『戦国策 下』 全釈漢文大系 集英社
322 梁王魏嬰諸侯
P51〜54


『戦国策 国語(抄) 論衡(抄)』 中国古典文学大系 平凡社
332 国をほろぼす4つの悦楽
P263下


比定場所 考察
A案
狄 有冨の万さん先祖
禹 有冨の中村本家さん先祖


B案
吉備の酒

万葉集554
古人乃 令食有 吉備能酒 病者為便無 貫簀賜牟

石川王 (吉備大宰) Wikipedia



万葉集544 吉備酒より B案 を採る。

儀狄、禹が居た場所は下関市永田郷 石川さん・石田さんの付近である。

永田郷 石川書道教室の場所は「儀狄之酒」 の地である。


杜康 - china radio international
japanese.cri.cn/304/2006/12/11/1@81154.htm
  2006/12/11 - では、杜康とは何者? これはいい表現ではありませんから、杜康とは誰なのでしょうかとしておきましょう。 昔の本「説文解字」は、「康が杜康なり」 としています。 この康とは、大昔の有名な王である禹の息子の啓が打ちたてた中国最初の ...

  ↓
康 とつながる
神功紀
文庫書記A170‐8
皇太后、を挙げて太子に寿したまふ。
因りて歌して曰はく、
此の御酒は 吾が御酒ならず 神酒の司 常世に坐す
いはたたす 御神の豊寿き 寿き廻ほし 神寿き 
寿き狂ほし 奉り来し御酒そ あさず飲せ ささ



万葉集
石川君子(若子、吉美侯。 号は郎子) 風流侍従



『神仙伝』 墨子
周狄山は下関市永田郷 石川さん家・日野八幡宮跡あたりである。

下関市永田郷 バス停 永田石原
この場所に "中国4000年の歴史" の始原文化があった。

下関市永田郷 石川さんの家周辺は "酒発祥の地" である。




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永田郷 石川さん、家屋敷横の用水路

2017/11/28 17:21

角川ソフィア文庫 新訂 古事記  平成13年 41版
鎮懐石と釣魚
  また筑紫の末羅県の玉島の里に到りまして、その河の辺に御食したまふ時に、4月の上旬なりしを、ここにその河中の礒にいまして、御裳の糸を抜き取り、飯粒(いひぼ) を餌にして、その河の年魚を釣りたまひき。

日本書紀 岩波文庫
雄略 9年2月 文庫書紀B56-1
時に香賜、退り逃げ亡せて在らず。 天皇、復 弓削連豊穂を遣して、普く国郡県に求めて、遂に三嶋郡の藍原にして、執へて斬りつ。

安閑 元年閏12月 文庫書紀B218-8
閏12月の4日に、三嶋に行幸す。 大伴連金村 従へまつる。 天皇、大伴大連を使して、良田を県主飯粒 (いひぼ) に問いたまふ。 県主飯粒 (いひぼ)、慶悦ぶること限無し。

欽明 23年11月 文庫書紀B340-10
今の摂津国の三嶋郡の埴廬の新羅人の先祖

推古 9年4月 文庫書紀C92-4
夏4月の1日に、将軍来目皇子、筑紫に到ります。乃ち進みて嶋郡に屯みて、船舶を聚めて軍の粮を運ぶ。

皇極3年 正月 文庫書紀C214-8
中臣鎌子連を以て神祇伯に拝す。 再三に固辞びて就らず。疾を称して退でて三嶋に居り。



飯飯(いひぼ)
安閑紀 文庫書紀B218-8
三嶋県主の飯粒は、古事記の神功記で
「筑紫の末羅県の玉島の里で、飯粒を餌にして年魚を釣った。
小河 勝門比売 」


石川とは、
石が多い川
石の堰 目的 水田・灌漑
石で川などをせき止めて川魚をとる仕掛け


垂仁紀
文庫書記A46−10
行宮に至ります比に、大亀、河の中より出づ。 天皇、矛を挙げて亀を刺したまふ。 忽にに化為りぬ。 左右に謂りて曰はく


3234 五十師の原  永田郷 字「石原屋敷」
3236 石田の社  石田さん家、日野八幡宮跡

玉島 末羅県 年魚 飯粒 礒
三島 大阪府
三島野 富山県

  ↓
じつは同じ場所である。
永田郷 石川さん(606番地)、石田さん(598番地)
平野鉄工所 徳永第1踏切 
バス停 永田石原 字「宮の上」「石原屋敷」

肥国の玉島川、筑前の糸島、摂津の三島、越中国の三島
は同じ場所で、永田郷 石川さん家屋敷の横の細い水路


邪馬国の 「壹」 の字は 酒+吉
「吉」 は母・正(永田)・見。 正吉(永田) の中心は石原であるから、
邪馬国の場所は永田郷の石川さん家屋敷の周辺である。

邪馬壹国 永田郷 バス停 永田石原
邪馬臺国 有冨上 字「中村畔」
邪靡堆 吉見古宿 大葉山堤 上本さん家 小津見第1踏切



筑紫の防人
永田郷の石原

島守
永田郷の石原
または吉母〜御崎

地政学
室津、涌田、吉永、黒井は韓人の地であるが倭の属国。 仏教盛ん。

朝鮮からの渡航船は室津・涌田に着く。
吉母の大河原・御崎は海難の地で倭の見張りが立つ。
渡航船が室津・涌田に来た時は倭国に貢物をさせる。


老子「小国寡民」
弥生時代、いやそれ以前の縄文時代も、人々は食料確保や交易のため活発に移動していた。
ところが下関倭国は老子「小国寡民」 だったので、人の移動はなく生活範囲は家の回り20メートルだった。 外部から人を入れない関が永田郷の石原に築かれた。 伊都国、筑紫大宰府は下関市永田郷の石原にあった。

西関の関守 尹喜
= 伊都国の一大率
= 続日本紀 長門国豊浦団塞守




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1000年前の詩がえがく日本の明日

2017/11/27 20:11


『邪馬台の詩』 1000年前の詩がえがく日本の明日
武智 鉄二 (著)  白金書房 1975年
P180
窘急にして城に寄す

胡 ・・・ 匈奴(フン族) のことで、インド・ヨーロッパ系

『神仙伝』 墨子 にある周狄山に関係するか。
狄 ・・・ 中国北方の異民族


永田王朝
邪馬台国の都は梅光学院大学 梅ヶ峠廃校舎付近にあった
http://44051510.at.webry.info/201211/article_2.html

讃岐国 軍王
http://44051510.at.webry.info/201110/article_116.html



『下関市史 原始−中世』 平成20年
など、下関市が編集する歴史の本は下関市立歴史博物館(旧 長府博物館)
の受付で販売している。




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