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邪馬台国 下関
ブログ紹介


講談社学術文庫 『 倭国伝 』  旧唐書 P205、208
旧唐書に
「倭国は、古(いにしえ) の倭の奴国也。」
「日本国は、倭国の別種也」

竹取翁博物館  邪馬台国や徐福に関心を示された 2014.4.14
http://blogs.yahoo.co.jp/koiiyk/31302118.html
  ↓
中国の古地図 日本国と倭が別に描かれている。


中国正史の古代日本記録
いき一郎 編訳 葦書房  1984年 1992年 第2刷
P49
後漢書 巻80 「烏丸鮮卑列伝」 に、
鮮卑の檀石槐が光和元年(178年) に、魚をつかまえるのが巧みな倭人のいる倭人国を撃って倭人をとらえ、倭人に秦水の魚をとらせ食糧にした、とある。
「三国志」 は倭人を人とし、倭人国を人国としている。

この場所は鳥取県の青谷上寺地遺跡である。 近くに地名「汗入」 がある。

青谷上寺地遺跡展示館 ホームページ
http://www.tbz.or.jp/kamijichi/index.php?view=4095
土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム ホームページ
http://www.doigahama.jp/

佐賀 ・ 徐福国際シンポジウム
http://inoues.net/study/jyuhuku2008.html
  ↓
赤関=天関
文庫書紀@198-末 神武東征
是に、火瓊瓊杵尊、天関を闢き雲路を披け、仙蹕駈ひて戻止ります。



参考文献   以下の本は所有しています。
記号  例   
文庫書紀D74-12 → 岩波文庫 日本書紀(五) P74 の12行目
小学館書紀A469-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 日本書紀 A巻 P469 の 8行目
続日本紀B74-12 → 岩波書店 新日本古典文学大系 続日本紀 三 P74 の12行目
日本後紀 47-8 → 集英社 日本後紀 P47 の8行目
旧事F169-4 → 批評社 先代旧事本紀 訓註: 大野 七三  巻第七 P169 の4行目
訳旧事E305-7 → 批評社 先代旧事本紀 現代語訳  巻第六 P305 の7行目
祝詞393-7 → 岩波書店 日本古典文学大系「古事記 祝詞」 P393 の7行目
風土記71-12 → 小学館 新編日本古典文学全集 風土記 P71 の12行目
岩波風土記183-2 → 岩波書店 日本古典文学大系 風土記 P183 の 2行目
文庫風土記下168-5 → 角川ソフィア文庫 風土記 下 P168 の 5行目
山川風土記27-331行 → 山川出版社 風土記(常陸国 出雲国 播磨国 豊後国 肥前国) P27 行数331
小学館今昔物語C252-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 今昔物語集 C巻 P252 の 8行目
岩波今昔物語A145-6 → 岩波書店 新日本古典文学大系 今昔物語集 二巻 P145 の 6行目
古語拾遺164上-20 → 右文書院 『古語拾遺』 を読む P164上 の20行目
古代氏文集40-364 → 山川出版社 古代氏文集 P40 の 364行 
を示す。

万葉集
おうふう(株) 萬葉集
岩波書店 新日本古典文学大系 萬葉集
笠間書院 万葉集表記別類句索引 編者:日吉盛幸

風土記の索引書
和泉書院 『古風土記 並びに 風土記逸文語句索引』 橋本雅之 編


私は他人の説を摘まみ食いして、それを手直し修正し「自分の案」 を打ち出す「いいとこ取り」 は絶対にやりません。 私はずるくて利口なパクリ行為はやりません。 奔放な当てずっぽうのブログですが、一次資料に基づくものを書くため、記紀・万葉などの文献を読み、市町村史や郷土の自費出版物などの地方資料を渉猟して書いてます。 ネットで見たものはリンクを貼ってブログ主に通達してます。

私は僅かでも何かしらの着想(ヒント、アイデア、思いつき) を得た参照元は漏れなく全部を記してます。
当ブログは学術書レベルで参考文献を示してます。
着眼にあたって参考としたものを記すのは書き物の基本的な礼儀作法です。
他人の発見を尊重してこそ自分の発見やオリジナリティを主張できる。

私のブログは当ブログだけであり、他でブログ等はやってません。 私はネットの投稿、掲示板やコメント欄への書き込み他をしたことはありません。 なりすまし に注意してください。


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日下(くさか) 綾羅木郷遺跡

2017/02/22 02:47

『新版 古事記』 角川ソフィア文庫 平成21年
雄略記
引田部赤猪子
引田部赤猪子は御諸山の住人なので綾羅木の引田ではない。
「御諸」 の表記は風水の龍脈を表し、御諸山は有冨ハンドウ山とその尾根である。

有冨ハンドウ山 登山口にある幅20センチのちょろちょろの用水路が引田の美和河であり、赤猪子の住所はハンドウ山 登山道入口の横に設置されたイノシシの箱罠がある場所である。 赤猪子は高貴な巫女であり独身であるから魏志倭人伝の卑弥呼に通じる。

引田部赤猪子
雄略紀 童女君
常陸国風土記 那賀郡 茨城里 「神の子」
竹取物語 かぐや姫
卑弥呼
は話が似ているので、みな同じ場所である。

有冨 ハンドウ山の登山口は祝詞の「山の口に坐す皇神等」 の場所である。


歌謡番号94
雄略天皇の宮は 日下江の入り江の蓮 近くにある。
綾羅木389番地の福川均さん宅に泊瀬朝倉宮があったと見たい。

雄略天皇陵は綾羅木郷遺跡内 字「惣八」 "マムシに注意" の立て札が立つ所
根拠 多治比(たぢひ)=蝮(たぢひ)
蝮之水歯別命  たくさんの白鷺が留まっていた池の近くか。


阿岐豆野の御狩り
有冨 大迫池の道路下、柿の木がある所


葛城山の大猪
有冨墓地の東側の尾根が葛城山である。 墓地入口の東隣、農家が野菜屑を捨てている場所にイノシシの箱罠が設置されており、昨年11月に大イノシシが捕獲されている。


下関市立考古博物館
休憩所 弥生の里
以前の自販機に警世の句 「古代を知れば− 未来が見える」 とあった。

草香邑、日下  綾羅木郷台地
若日下部王 字「若宮」
綾羅木郷遺跡から出土した犬の骨半分は若日下部王が飼っていた白犬である。

孔舎衛坂、大坂  石松さん宅横の急坂
蘇我蝦夷の畝傍の家は石松さん宅にあった。 文庫書紀C190-12
万葉集52 畝火の

斑鳩寺の墓
上の山古墳の北側を下りて墓がある場所に山背大兄王が居た。


基点 方位
ハンドウ山の登山口付近 藤原宮

冬至の日の出 方位
長府 覚苑寺の裏山(176.6m) 青香具山 仁馬山古墳が向く方角

冬至の日没 方位
ハンドウ山の山頂 天香具山
ハンドウ山の登山口付近 藤原宮
綾羅木 字「宝前」 中世の祭祀跡 日向・日下
綾羅木 字「下田」「船入」 難波宮
綾羅木海岸 字「勝ヶ野」 万葉集275、1171
  ↓
直線上に並ぶ


風土記 日下部氏
以下の場所はみな下関市立考古博物館の駐車場東端

播磨国風土記 美嚢の郡
119-12 日下部の連意美

出雲国風土記 秋鹿の郡
197-8 郡司 主帳 外従八位下勲□等 日下部の臣

豊後国風土記 日田の郡
289-8 邑阿自 日下部の君等が祖

肥前国風土記 松浦の郡
330-2 弟日姫子 日下部の君等の祖
333-9 大屋田子 日下部君等の祖

逸文 丹後国
474-3 筒川の嶼子 日下部の首らが先つ祖




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下関市立考古博物館 駐車場の東側

2017/02/20 06:13

日本書紀に書かれている下関市立考古博物館 駐車場東側の出来事を考察する。 参照 舒明天皇 即位前紀 文庫書紀C170-2

先代旧事本紀 巻第一の日向の橘の小門の橿原に注目して、
神武東征の墺区(文庫書紀238-10) の「墺」 は入江の奥 の意味である。 この場所は綾羅木 字「宝前」 に比定される。

畝傍山  石松さん宅 文庫書紀C170-4 畝傍山 木立薄けど

字「木舩」
境部理勢の「摩」 は研だから砥石。 出土した砥石は摩理勢の持ち物。

綾羅木台地遺跡 (木舩地区)
http://44051510.at.webry.info/201607/article_2.html

字「寺屋敷」  尼寺
字「中屋敷」  泊瀬仲王 墨江中王

字「宝前」  住吉神 宝皇女 浦島太郎(日下部の首の祖) の家

字「宝前」 地区の発掘調査にあたっては浦島太郎の学術書を読んでおくべき。
『古代社会と浦島伝説』 上・下巻  水野祐 著 雄山閣 昭和50年
『浦島子伝』 重松明久 著 古典文庫 現代思想社 1981年
※ ネットで古本を購入する

字「の山」
宮太子(聖徳太子の斑鳩) 近つ飛鳥 饒速日尊 河内の哮峰
f 字鏡板付  戸豊聡耳皇子 蘇我


筒川の嶼子(水江の浦の嶼子)  丹後国風土記 逸文
川 「筒」 は住吉神 男  字「宝前」 
亀姫の龍宮城・蓬山・常世  吉母の御崎
倭  有冨 字「中村畔」

風土記478-1 筒川の ・・・ 綾羅木の「郷」 集落
歌謡
常世辺に 雲立ち渡る  常世の場所は吉母の御崎
辺に 風吹き上げて  倭の場所は有冨 字「中村畔」

子  綾羅木郷台地は原始古代は半島、陸繋島だった。


『新版 古事記』 角川ソフィア文庫 平成21年
仁徳記 吉備の黒日売
P180-5行目 安岡の大浦(安岡漁港の場所)
P181 歌謡番号55
倭方に 西風吹き上げて 雲離れ 退き居りとも 我忘れめや
下注19 丹後国風土記に類歌がある。
やまとへに風吹き上げて雲ばなれそき居りともよ吾を忘らすな
  ↓
風土記479-2

吉備上道采女大海 (雄略紀)
吉備穴戸武媛 (景行紀) 往古、黒嶋と吉母は陸続きでなく離れていた。
吉備嶋皇祖母命 吉母の樋の口神社(祭神 天照大神)
吉母の黒嶋は前方後円墳の形
  ↓
吉備国の場所は下関市 吉母下である。

古事記 吉備の黒日売の歌から仁徳天皇の難波宮も綾羅木郷台地あたり。


枯野という船 古事記
淡道嶋  蓋井島
高安山  原表山または草場山。 草場山の登山林道に山城跡があるという。

歌謡番号74
塩に焼き 吉母浜の古代製塩
海石 吉母の海の岩場 千畳敷


若宮古墳
肥前国風土記 三根の郡


梶栗橋・やよい橋 ・・・ JR梶栗郷台地駅の入口に架かる橋

「山口県風土誌」 9巻 P378 冨任村の境界
メクラ橋」 (目倉橋) は梶栗橋 − 綾羅木新町3丁目と梶栗町4丁目の境
  ↓
古事記の目弱王(書紀は眉輪王)
やよい橋の下には螺(にな貝) がいそうだ。

坂合彦皇子 文庫書紀B18-9
五行配当で黒=北=水。 綾羅木の了元寺付近で最も地勢が高い場所、または池のあたり。

綏靖紀 文庫書紀@250-1
会、手耳命、片丘の大ムロの中に有して、独大牀に臥します。 時に渟名川耳尊、神井耳命に謂りて曰はく、
耳命  「研」 は字「木舩」 出土の砥石
ムロ  弥生貯蔵穴
井命  字「惣

雄略天皇の泊瀬朝倉宮があった場所
休憩所 弥生の里 の東側、福川均(綾羅木389番地) さんあたり。

「雄」 はオス鳥、大きな鳥の意味か。
「惣」  手で束ねて集める、長男、総合

字「惣八」 で稲が栽培されていたなら台地の上なので、竺紫日向の高千穂宮の候補地になる。 つまり神武東征の出発地と上陸地は同じ場所で、バカバカしい話でございました。
吉母の御崎も竺紫、筑紫、日向の候補地である。


惣八  小字「惣八」
大辞林 第3版 三省堂
宗八
カレイ目カレイ科の海魚。 体長45cm 程度。 本州中部以北 ...

惣八・宗八
狂言の一。 もと料理人の俄(にわか)坊主と、還俗したての惣八という料理人が、それぞれの主人から仕事を命じられる。 2人は慣れないので手こずるが、互いに前身をうちあけ、仕事を交換する。

広辞苑 第6版 岩波書店
宗八・惣八
狂言。 元漁師の俄坊主が読経に苦労し、還俗したばかりの宗八が奉公先で料理に手こずるが、互いに身の上を語り交代する。 俄道心。




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有冨の中村大王(おおきみ)

2017/02/17 09:40

高天原の家系  邪馬台国(倭国王) の位置
下関市有冨上 中村さんは皇祖神の直系。 庄屋の儀万さんは天武系「瀛」
下関市吉母の御崎。 とくに奥地の字「淵ヶ谷」 三井(みい) さん
北九州市門司区 小森江 羽山1丁目 庄屋の古野さん (旧姓 富留野)

本当の記紀・万葉の場所は上の3つ。

邪馬台国
有冨上 字「中村畔」、ハンドウ山

神武東征 国見丘の大石 山上の伊勢
ハンドウ山 山頂から平たい尾根を100 m 行った所

邪馬一国
吉母の御崎 字「淵ヶ谷」 「一」 は伊勢

顕宗紀 文庫書記104-2
稚子 長門、吉野の伝い と同じ。
大石尊
 大石 海岸の伊勢
 命でなく
この場所も吉母御崎 字「淵ヶ谷」

室津は「木ノ村」 で紀伊国
播磨国 吉母・永田・吉見

蓬莱の神仙郷 2か所
・ 有冨 ハンドウ山 山頂から平たい尾根を伝わって大迫池の上の尾根 香山
・ 吉母 御崎の奥地 字「淵ヶ谷」 滝がある所 と 下の海岸 天山
逸文 伊予国 の香山・天山である。


御崎神社−樋の口神社(安常)−永田 御堂遺跡−竹生寺−鯨の尾ヒレ
が直線上に並ぶ。
「鯨の尾ヒレ」 とは神武東征 久米歌、常陸国風土記 久慈郡 の鯨であり、
有冨 大迫池横の有冨墓地の東側尾根である。

御崎神社 − 天山 毘沙ノ鼻の万葉歌碑は伊予の天山

鯨の尾ヒレ香山 有冨ハンドウ山の奥の院が倭(大和国) の天加具山
山口県文書館にある地下上申絵図によれば、この場所はかく石峠と記される。
ハンドウ山の奥地は大谷とあり、逸文 常陸国 の大谷村に比定できる。
薬師池の上はふせぎが谷、竹生寺の山号 高山 は風水の玄武だ。

倭の香山 − 有冨ハンドウ山の山頂。 または鯨の尾ヒレ
伊予の天山 − 御崎の淵ヶ谷。 または毘沙ノ鼻・御崎神社
それぞれ候補地が少し離れて2か所ある。

石原の砕石場によって崩されている山の名前 東ヵ嶽は道教の泰山のこと。
毘沙ノ鼻・御崎神社の横は下関市の不燃ゴミ捨て場になっている。

奈良県と下関市有冨上は栗本慎一郎のいう「双分制」 で対応している。
奈良県の山の辺の道にある龍王山は有冨龍王山(ハンドウ山) にあたる。


常陸国風土記=大和国風土記
常陸国風土記は言葉文体、内容から大和国風土記であることが一読瞭然だ。


水江浦島子が行った蓬莱の仙衆は御崎の淵ヶ谷である。
水江浦島子の日下部首の先祖である。 万葉集1023 大埼の神の小浜 を綾羅木郷遺跡近く 字「大森ア」 と見て、水江浦島子の家もこの辺にあった。

草壁連醜経 白雉
今我が親神祖の知らす、穴戸国 は御崎の淵ヶ谷

吉野の場所は複数あり、御崎も吉野。
筑紫、伊予国、丹波国、丹後国、播磨国など、みな御崎である。


病気が心配
集落の人口が50人を越えると伝染病が蔓延して一挙に村が全滅する。
渡来人、外来の者は結核、コレラ、インフルエンザ、肝炎ウィルスを持ってる。
不老長寿の神仙郷 下関は倭の政策によって人口まばらであり、通行は北九州市小倉が使われた。 渡来人、外来の者が集まる人口密集地は医療が進歩してない昔では早死にする。

奈良県の平城京跡 − 人口20万人以上
下関にあった倭国の都 − 万葉集の都には7、8人しか住んでいない。


『古代遺跡 謎解きの旅』 風水ウォーキング 松本司 著 1999年
目次の裏



初め混沌〈〜〉としていた大地〈−〉に


世界を構造的・原理的に理解しようとする陰陽思想〈十〉が生まれ、


シャーマン〈巫〉は地上に十字状の柱を立てて太陽の影を見る土圭法〈土〉によって


時や方位を知るようになり、農耕の鍵を握った。


その中から〈王〉が現れ、大王〈玉〉になり、その後


税〈米〉をたくさん集めて律令国ができたが、


国家の混乱時には〈巫〉女の血を引く女帝が立てられたのだった ・・・・・・。


纏向の「纏」(てん) は風水の「砂」。


文献のカラクリ
記紀、万葉、風土記などで地名はちがっても場所は同じ。
万葉集、続日本紀の年代は50年繰り上がるか。

『日本後紀』 集英社
753-12 773-6
高位の人が入室して来たら、跪伏にかえて起立して深く拝礼しろ
貴い者に会ったら、跪くことをやめて起て
   ↓
天武紀 文庫書紀D184-7 と同じ。
日本後紀も古い時代の下関倭国の史料を使い回している。




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向津具 の考察

2017/02/17 04:03

向津具 久津
大海人皇子 向津具の久津の出身
http://44051510.at.webry.info/201505/article_19.html
大避神社  祭神 秦河勝
http://44051510.at.webry.info/201008/article_103.html

角島の元山遺跡 積石塚 1基。  『 豊北町史 2 』 P582-2行目
『蓬莱山と扶桑樹』(岡本健一 著) によれば、「瀛洲には積み石多し
積み石塚は1基しかない。 古賀市沖の相島に積石塚がある。

向津具には蓬莱の地であることや楊貴妃が本当に渡来したことを証明できる資料はない。 私は名古屋市 熱田神宮の蓬莱島・楊貴妃伝説は向津具の話であると推理する。 向津具から出土した有柄銅剣が本物の草薙剣である

尾張の瀛津世襲 → 尾張は瀛洲 → 向津具は瀛洲
大海人皇子は海部氏、尾張氏と関係深い。


東海
中国の原始地理書に見られる「東海」 であるが、
中国の都 西安の真東は山口県の豊北町の海岸である。
宇賀本郷 〜 島戸 〜 向津具 が西安の真東に位置する「東海」 である。

最寄りの気象台や海上保安本部の「海の相談室」 で風向きや海流を教えてくれる。 対馬中域から土井ヶ浜に向かう真東の海流がある。


秦王国
隋書倭国伝の秦王国は向津具 久津 の可能性もある。
秦王国までは東へ行く。
秦王国 → 十余国 → 倭国 は行く方向が書かれていないので、
向津具 →下関市綾羅木海岸 であったかもしれない。




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小森江の古野さん 筑紫君

2017/02/17 04:00

筑紫君 門司の小森江西説
小森江西校区 ・・・ 略して「小西」 と称されている

『ふるさと 小森江 にしひがし』 1976年  自費出版の郷土史本 
小森江村の庄屋
羽山1丁目 古野文子さんの家 ― 周辺に古野一族の家
古野家の歴史は神武天皇まで遡る。
古野家は古くは富留野といっていた。

門司区小森江西の古野という庄屋は「神武天皇まで遡る」 家伝が興味深い。
筑紫の高千穂宮か。 門司区小森江西の古野(旧 富留野) さんと下関市有冨の中村さんは遠い遠い親戚だ。

古野宅の回りが小森江村の中心地であり、川端さん、植前さん、黒田さん、奈須野さんなどが小森江村有力者の地主たちである。 井戸を持つ家が有力者だった。

下関市有冨 字「中村畔」 から北九州市門司区小森江西小学校は真南である。
西ではなく南の方角だから「竺紫君 石井」 ではない。
でも郷土本から小森江は井戸が特別重視された地だった。

羽山1丁目-番地 の小字は「火の山」 ・・・ 「火」 は方位の南
風師山、外記殿山を「鳥の山」 ともいう。


下関市有冨 字「中村畔」 から門司の小森江西小学校は真南に位置する。




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御崎の三井(みい) さん 筑紫君

2017/02/15 12:03

関西 − 東国兵・蝦夷
山口市 − 浮囚郷
遠賀川 − 新羅 天日槍の弟 知古は直方市の地名
糸島・福岡平野 − 神功皇后が征伐した西蕃の新羅
平戸・宗像 − 百済・秦 渡の屯家
熊本 − 呉国
島根県出雲 荒神谷遺跡 − 石上乙麻呂が流罪となった土左国

那津官家は小倉 三萩野

近江国
近つ淡海 長府
遠つ淡海 土井ヶ浜・油谷湾


万葉集では長門は海岸なので、「長門」 が内陸の有冨上にあったとする自説は誤り。
  ↓
わかった!!
万葉集1024 長門守 巨曾部朝臣対馬の「対」 は御崎を示し、馬が岸の蓋井島へ泳いで渡ることを「対馬」 で表記している。 本州最西端、毘沙ノ鼻の万葉歌碑は正しい。

蓋井島はf 字形をしている。 f 字鏡板付轡は蓋井島の形をデザインしたものである。

の銀、伊予国 御山の銀 は御崎の字「淵ヶ谷」 か。
吉母御崎の奥地「淵ヶ谷」 に銀鉱あり...
  ↓
御崎 字「淵ヶ谷」 は石灰岩のカルストで、セメント会社の船が着いて石灰岩の採掘が行われていた。 地質調査では掘れば温泉がでる可能性があるという。 滝があり銅鉱だったという洞穴がある。

御崎の淵ヶ谷は掘れば温泉がでるかもという。 伊予熟田津石湯は淵ヶ谷か。
持統5年(691) 伊予国産銀を献上も淵ヶ谷だろうか。

魏志倭人伝 対
隋書俀国伝 都斯麻
であり「対馬」 という表記ではない。

室津下の 対田さん → 対馬
http://44051510.at.webry.info/201311/article_1.html

下関市の個人名電話帳で「対馬」 という名前を調べれば3人いる。

日本の古代史は神仙思想との絡みなので、本州最西端の下関市吉母 毘沙ノ鼻・御崎に不老長寿の気配ありだ。 この地にも神功皇后伝説、空海伝説がある。


石井は「竺紫」。 筑紫、竺紫もよくわからない。

万葉集
1128 石井之水者
3235 五十師乃御井者

筑紫の聞物部大手 雄略紀 文庫書紀B80-7

継体紀 文庫書紀B192-9
天皇、親ら鉞を操りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制らむ。 筑紫より西をば制れ。・・・」
「汝」 という字は大汝(大国主命) を示すか。

日本書紀 筑紫と伊勢は場所が同じ。
西の戎 文庫書紀B192-1
賊の磐井 文庫書紀B192-末

筑紫の御井郡の場所は御崎 淵ヶ谷 の三井(みい) さん宅だ。

倭の国王 升等 後漢書倭伝
筑紫君薩野
も御崎の三井さん宅で、家の前の海岸が伊勢だ。

筑紫の君 磐井は福岡県八女市吉田の岩戸山古墳ではなく、下関市 本州最西端 御崎 字「淵ヶ谷」 の三井(みい) さん宅に比定できる。

小学館 新編日本古典文学全集 日本書紀 2
P311 訳
磐井は西戎の狡猾な輩です。 川の阻みを頼みにして朝廷に従わず、山の険しさを利用して反乱を起しました。
  ↓
日本書記 継体紀に書かれた磐井の地勢は福岡県八女市に合致しない。
磐井の墓については風土記の「逸文 筑後国」 が参照されている。


継体天皇が筑紫君磐井を討伐するにあたって物部麁鹿火大連に斧鉞を授けたわけは磐井の住居が下関市吉母 御崎 字「淵ヶ谷」 の三井(みい) さん宅であったためである。 御崎の三井さんは筑紫君磐井、薩野馬の直系子孫である。

万葉集1024 長門守 巨曾部朝臣対
「対」 という表現・表記にある「」 に着目して、「長門」 の地名場所は本州最西端 毘沙ノ鼻にある万葉歌碑の近く、御崎馬の場所ではないかという閃き・思いつきを得た。

御崎馬 ・・・ 下関市に伝わる民話集に載る。
源平合戦時の名馬が御崎の淵ヶ谷の丸山(丸瀬) にいた野生馬だったこと。
子馬が岸の蓋井島へ泳いで渡っていたという。
「対馬」 という表現・表記はこれだ。


万葉集 「長門」 の歌
3243 長門の浦
処女 伊勢乙女

3617 
安芸国長門島 神武東征 安岐の多祁理
大石蓑麻呂という名前
 大石 伊勢
 蓑 御崎馬がいた丸瀬は「大草」「草立」 と呼ばれ、大草が生える場所。

御崎馬は野生馬だった。 筑紫君薩野馬

3621
奈我刀能之麻之 小松原
御崎海岸の地名「小松ヶ瀬」

以上から、「長門」 は下関市吉母の御崎に比定できる。

油谷湾の感じもある。
3242 油谷蔵小田の「みのが峠」
3244 阿胡 阿川
3243 沼名河 土井ヶ浜の沼川

御崎を流れる川の名 未詳


吉母の御崎の奥地 字「淵ヶ谷」 の重要性 本州最西端
石灰岩の地 カルシウム 硬水 不老水
もしかして銀鉱があったか
三井さん宅が筑紫君磐井
丸山(丸瀬) に天斑馬。 大草が生える草立。 筑紫君薩野馬
海岸の岩場に伊勢乙女たちがいた。 大石の上に弁才天の祠が立つ。
対馬暖流で冬暖かい。 「正月不知」 と呼ばれた。

隠国 (こもりく)
吉野の泊瀬、吉野の瀧 も御崎だ。


『よしみ史誌』 P716〜718 は必読である。
浦島太郎の作者 伊予部馬養連は御崎 淵ヶ谷の人だ。

龍宮城
万葉集3245 天橋  向津具だろうか。
『逸文 丹後国』 の天椅立は向津具か。 歌の流れからすれば御崎だ。
御崎の奥地 字「淵ヶ谷」 は神仙の桃源郷だ。 隠国(こもりく)。


わかった!!
「天」 は易経で乾為天
天(あめ) の場所は有冨 字「中村畔」 から北西の方位

「天」 (あま、あめ) は北西の方位の場所だ。

八卦
   父  北西 頭 金

天とは八卦の乾だった。


風土記
伊予国 山 香山

丹後国 奈具社 天女8人=筑後の八女
筑後の御木=扶桑樹 の場所は御崎。
山海経の黒歯国は吉母の黒嶋か。

風土記581下
今まで「常世嶋 男嶋女嶋」 は川棚沖の厚島と思っていたが、ここは御崎か。


続日本後紀(下)  講談社学術文庫
P326  嘉祥2年3月26日
  ↓
この場所は御崎だ。 吉野は複数か所あり、御崎も吉野だ。

野馬台
下関市吉母御崎 淵ヶ谷 の丸山に野生馬がいた。「野馬」 は野生馬を表す。




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有冨大王

2017/02/15 04:00

中村大王
古事記の大年神は下関市有冨 大年池横 中村分家宅の大年社であり、牛を祭る神社だから神武東征の牛酒の地である。 この社は中村分家宅の北側にあった。 80年くらい前か、分家が家を建てた時、池の横に移した。
五行配当 牛=土=中央 で安倍家(御門家) があった所だろう。
この場所から東のハンドウ山を見て詠んだ歌が安倍仲麻呂の
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも

天香具山=高円山=三笠山
※奈良県とは山がちがう。

竹取物語のかぐや姫はハンドウ山 登山口前の土塀が崩れた場所に住んでいた。 お迎えが来たので月の都に帰った。 月の都はハンドウ山の頂にあった。
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでしかも

兎=月=東
兎=菟田
菟田の高城=高安城 は同じ場所。 ハンドウ山下に掘られた謎の溝。

有冨の中村さんは天御中主尊の末裔で倭国の大王(おおきみ) 家の直系。
竹生山の東峰「東ヵ嶽」 は泰山を示すので、中村大王は老子系である。

庄屋 儀万という家は天武天皇の末裔である。 神功皇后、天武天皇は「瀛州」 の土井ヶ浜・角島・向津具の出身で徐福系だから呪術・方術を使う。 神功皇后の出身地である角鹿(=角島) の気比大神は徐福である。

住吉大社神代記によれば、
神功皇后が住吉神と不倫して生まれた子が応神天皇である。

30年前まで白井さん宅前に蓮の池があった。 記紀・万葉の蓮はここであり、飛鳥浄御原宮の朱雀池である。


下関市の原始古代  東海の三神山
老子 有冨上 − 邪馬台国・蓬莱。 蓬莱は吉母か。 
徐福 土井ヶ浜・角島・向津具 − 瀛州

門司の風師山 − 饒速日尊の河内国 哮峰。 門司の葛葉は大阪府和泉の地名。
方丈か。

 


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乾(いぬい) の方位

2017/02/14 04:57

下関の有冨倭国では方位方角が絶対的決め手である。
名前が「儀万」 という珍しい家は天文遁甲の原点を意味する。
「儀万」 という家は有冨村(延行、石原を含む) の庄屋だった。

江戸時代まで日本人は陰陽道で生活していたので、昔のものを読むには陰陽道、陰陽五行、易経、風水などの民俗学、古代の中国哲学の知識は必修である。 これらの学・知識・教養に基づいて方位方角を語ることになる。

地球は丸いので、地点と地点を直線で結ぶことができるのは5万分の1地図 2枚貼り合わせ まで。 地球は球体だから、奈良県の地点と九州の地点を直線で結んでも実際は歪んでいる。 磁石方位は西偏約7°

冨士埜勇 談  長年、下関市菊川町・川棚で発掘調査を担当 
古代人の方位感覚には「約」「だいたい」「おおよそ」 といったものはない。
わずかでもズレるなら、その方位方角への説は間違いである。
1°たりともズレてはいけない。 ピンポイント、ドンピシャあるのみ。

基点
有冨上 字「中村畔」
竹生寺
この2つが基点である。

神武東征の臣は有冨ハンドウ山の登山道の人である。
この「道」 の字は道家、道教を表す。

老荘思想 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%AE%B6


北西の乾(いぬい、乾為天) の方角を調べると、
竹生寺−永田郷の御堂遺跡−吉母の樋の口神社−御崎神社
が直線で結ばれる。

御堂遺跡は隣の字地名が字「宗教」 だから老子の墓ではないか。

吉母の樋の口神社 字「安常」 祭神 天照大神
この神社は字「安常」 にあったが明治17に北側の字「樋の口」 に移された。
『古代氏文集』 住吉大社神代記 P42 381 の広田大神だろう。

御崎神社の登り口にある「阿部」 という家は
文庫書紀C210-1 伊勢阿部堅経 の末裔である。

御崎の海岸 岩の上に弁財天の祠が立つ。

東は誕生、西は死滅。
墓は西に造られる。 本州の西端に位置する吉母は墓の場所である。


 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE




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彦島ピラミッドは伊奘諾尊の墓

2017/02/13 21:17

彦島の高山(70.1 m) 彦島弟子待町
彦島の弟子待から門司へ渡っていた。 対岸は門司の小森江駅。

地図は「高山」。 地元では「岩山」 ともいう。
ttp://blog.livedoor.jp/kotobukishirushi/archives/22764074.html

彦島ピラミッド 龍宮神社 姫塚  ※ 過去記事は今と考えがちがう。
http://44051510.at.webry.info/201410/article_13.html


伊奘諾尊の陵墓
古事記 伊耶那岐大神
淡海の多賀に坐す。

日本書紀
文庫書紀@60-11
幽宮を淡路の洲に構りて

履中紀 5年 文庫書紀A294-7
淡路島で狩りをする。 島に居る伊奘諾尊が飼部の黥を「血の臭きに堪えず」 と言う。


私見 彦島ピラミッドは伊奘諾尊の墓である。

下関市有冨 字「中村畔」−火の見山−丸山町の日和山−彦島の高山
が直線で並ぶ。




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呼野金山 北九州市小倉南区

2017/02/13 05:05

北九州市小倉南区 呼野金山
『福岡県の地名』 日本歴史地名大系 41 平凡社 2004年
P1245中 呼野村
大山祇神社が鎮座。 和銅年間(708−715) 銅鉱採掘のとき鉱山の守護神として創立されたという。 天平年間(729−749) 宇佐宮の神鏡鋳造のため銅を採掘したと伝える。

銀鉱山
http://44051510.at.webry.info/201408/article_17.html



きたきゅう発掘! 『考古学ノート』 1200円
(財)北九州市芸術文化振興財団 埋蔵文化財調査室 2012年11月
P114
「弥生人は中国大陸のトレンドがわかっていたか?」
P118
「北九州市内の終末期古墳」


宗像市の東部、上八(こうじょう) に金鉱があった。 鐘ア貝塚が近い。
宗像の金鉱
宗像は黄金のまち
ttp://d-munahaku.com/news/dtl.jsp?kid=91759&cgid=1001%5D%5B1002
上八(こうじょう) 金山
ttp://www.city.munakata.lg.jp/shigai/chiikisyokai-10.html
平信盛墓所 と 宗像金山
ttp://blog.livedoor.jp/keitokuchin/archives/65585837.html


山の名が仙境を意味する  仙人が住む山、仙人暮らしの山
東ヵ嶽 「東嶽」 は泰山 下関市有冨 竹生山の東峰 無残にも砕石場となった。
風師山 北九州市門司区

万葉集1 漢字原文に「師」 の字があるので、門司の風
万葉集2 「山常」 と「常」 があるので、下関市有冨のハンドウ山。 「取與呂布」 の場所は大迫池の上、有冨墓地の東側の尾根で、ここが鳥見山である。 真朱が出るのか?

『古代物部氏と先代旧事本紀の謎』 安本美典 著 勉誠出版 平成21年
P146  饒速日の尊の天下り
河内の国の河上の哮峰
大倭の国の鳥見の白庭山(または 山)
  ↓
鳥見山は白い山と表現されている。
鳥見山の条件は白い土、白い岩(石灰岩、石英など) がある所である。

下関市有冨 字「中村畔」 は天子南面・天心十道の倭京であり、真南に門司の風師山、小森江西小学校がくる。


小森江  門司区
小森江 小字名の聞書 
http://44051510.at.webry.info/201409/article_14.html

『小森江村志』 によれば、山の高い所に自然または人が掘った洞窟がたくさんあるという。

『門司郷土叢書 第8集』 海峡叢談
P99下 産の子松
応神天皇が誕生した場所と伝えられる。
蚊田は小森江の片上(潟上) か。
場所は神戸製鋼の敷地内なので、大字片上ではない。

『 北九州市史 総論  先史・原史 』  昭和60年12月
P751
丸山古墳  門司区小森江2丁目 (字丸山)
大正5年(1916) 九州鉄道拡張工事の際、古墳が破壊されて五獣鏡 1 ・ 鉄刀 3 が発見された。 鏡は東京国立博物館に保有されている。
墳頂1.2メートルの土中から検出され、石材などはなかったと伝えられるので、土壙墓か粘土槨のような構造であろうかと考えられる。
国鉄門司駅から線路沿いに2キロメートルたらず北上したあたりと思われるが、現在は工場内となり痕跡すらとどめていない。

五獣鏡は表面緑青色を呈し、平縁をなす外周の3分の2 は欠損しているが、復元18.2センチメートルとなる。
内区模様は円座乳で5区に分けられ、各区にS字状の半肉彫長胴とその左上に獣首を付した5つの同形獣を配している。
細線式の手法を加えた鼉龍鏡(だりゅうきょう) の変形とみられる点は珍しい。 鋸歯(きょし)文を加えた隆圏帯で内外区が区分され、その両側に櫛歯文帯と、さらに外区には整った菱雲文帯がめぐらされている。

この種の獣形鏡では、まださして変形していない優れた部類の作品である。
この鏡から推して5世紀代の古墳であろうと考えられ、ほとんど現存しない門司区の古墳時代遺跡のなかで、注目すべき資料である。

《 参考文献 》  1924−1
          1976−1

※ 出土した漢式鏡の鮮明な白黒写真が掲載されている。
獣形鏡(五獣鏡) なので、渦巻く雲のように見えるのは抽象的な獣である。

学芸員 宇野愼敏 談
小森江 丸山古墳から出土した漢式鏡は後漢すなわち卑弥呼の時代に中国で作られた舶載鏡である。
この種の鏡は5世紀代の古墳から出土するため、小森江 丸山古墳も5世紀の古墳と推定される。 つまり伝世鏡である。 奈良県のヤマト政権が後漢時代に作られたこの種の鏡を複数枚保有して、それを5世紀なって各地の豪族に配布したと解されている。


万葉集1 は北九州市門司区 小森江の風師山である!
門司の丸山古墳から出土した鏡に大注目したのは私が最初だ。

万葉集249 隠江(こもりえ)
三津埼
文庫書紀@130-9
吾が児事代主、射鳥遨遊して、三津の埼に在り。
出雲国の三穂の碕、出雲の御大の御前 ・・・ 丸山古墳あたりか

万葉集429
門司の山津波で溺死した出雲娘子を吉野山に葬る。 出雲と吉野は場所が近い。
吉野山は門司の風師山だ。

下関市有冨 字「中村畔」 の真南の方角 ピンポイントで門司の風師山、小森江西小学校(大量の銅滓が散らばっていた場所) がくる。
真南の "こだわり" が見られる。 方位方角のこだわりが凄い。




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角島 徐福祠

2017/02/12 07:03

高志 ― 土井ヶ浜遺跡
(根拠) 沼河比売

角鹿 ― 角島
伊奢沙和気大神、御食津大神、気比大神 ― 徐福

角島の沖田遺跡は関東の土器が出土 ― 徐福祠があったか

角島(都濃島)
都怒朝臣牛飼  D208、210 ・・・・ 角島の牛牧

都怒我阿羅斯等  ・・・・ 角島に百済王子が漂着した伝承がある。

斯摩宿禰 神功紀 
嶋王 武烈紀


応神記 天之日矛
土井ヶ浜から出土した鏡2つは奥津鏡・辺津鏡
ならば土井ヶ浜は多遅摩国。

神功皇后は角鹿の出身である。

土井ヶ浜、角島、向津具は徐福にまつわる地である。

綾羅木川の北岸 有冨は老子だ。
万葉集の人名 小野朝臣老の「老」 は老子が渡来して住んだ地を示す。
有冨の大迫池の上だ。




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城野石棺の被葬者 香坂王・忍熊王 説

2017/02/12 06:51

『おもしろ地名 北九州事典』 増補総集版 
小倉北区 富野 P95
魚池・鳥池を作ったのが魚野鳥野で、鳥野がなまって鳶野、富野になったという説。

小倉北区 富野を熊鰐の地とする説があるようだ。


『福岡県の地名』 平凡社 日本歴史地名大系
P1234中 
萩ア村 (萩ア町、明和町、三萩野 1丁目) は博士(陰陽師)、占者が住んでいたので八卦アと称していたのが転訛したものという。
現在も陰陽師の子孫が住む。


萩ア町三萩野は易者の地、卜占の地だった。
  ↓
事代主命
神吾田鹿葦津姫
熊鰐 大倉主・菟夫羅媛 伊賀彦
裂田溝 の河 「儺」 は追儺・鬼遣らい。 橘の小門の禊ぎ
麛坂王・忍熊王 祈狩 仮庪 赤猪  文庫書紀A158-9
務古水門
などの占い場所はみな同じで、萩ア町である。 
仮庪 八岐大蛇
赤猪 大国主 古事記

吉備 和気清麻呂 安部山 温泉

播磨の赤石 赤坂  文庫書紀A158-6
淡路島の石 彦島の南端、彦島塩浜町4丁目の砕石場

万葉集から播磨国は下関市長府ではなく門司のようだ。


小倉北区 萩崎町 綿津美神社
ttp://blog.goo.ne.jp/noyamany/e/4d2c3dfadf8eccb77ed0064da2391f97
ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/fukuoka-kitakyushu.htm
  ↓
八大龍王は八俣大蛇を連想させる。
私は萩ア町の綿津美神社を「山海経 海外東経」 の朝陽の谷に比定する。
集英社 全釈漢文大系 33 『山海経・列仙伝』 1975年
P430
朝陽の谷、神を天呉と曰ふ。 是れ水伯為り。 虫虫の北、両水の間に在り。 其の獣為るや、八首人面、八足八尾、皆青黄なり。〔大荒東経に云ふ、十尾なりと〕。


下関市 竹生山の山頂−竹生寺−稗田地蔵堂遺跡−小倉城(下屋敷遺跡)
が直線上に並ぶ。

小倉城は大宰府(遠の朝廷) で橿日も小倉城。 豊前国は宇佐町
(根拠) 万葉集959

香椎廟 ― 「廟」 は中国系 徐福祠か。


筑紫 ― 難波 の距離
http://44051510.at.webry.info/201104/article_5.html
  ↓
筑紫と難波は距離が近い。 難波は門司駅、下関の唐戸あたりか。

難波
門司港の 浪花町 ・・・ 筆立山の山麓 〜 老松公園北門に通じる通り
明治32年〜昭和42年

文庫書紀B96-2
難波の来目邑の大井戸の田十町
  ↓
井戸町
明治22年〜昭和42年
旧門司1、2丁目


文庫書紀B58-7 雄略紀
紀岡前来目連  ※ 紀=城(き)=木
文庫書紀B94-8 清寧紀
城丘前来目
 ↓
甲宗八幡神社
樹神社
祭神  句句能智 (句句廼馳、久久能智) 木の神
所在 甲宗社々峯


山口県風土誌(九)  P102
方角抄に、赤間関彼浦を硯海と云ふと見ゆ

仁徳紀 文庫書紀A250-11 歌謡
難波人 鈴船取らせ 腰煩み その船取らせ 大御船取れ

ここの長門関津にも鈴船の繁く往来せし故に、其海畔を鈴振浦と云ひ、其海を鈴振海と云ひけんが、終には布字を省きて須孺理 (すずり) の海と云ひ、硯字を借りたるなり。


胸方神 雄略紀 文庫書紀B54‐10
膳臣
小倉南区 長野角屋敷遺跡から物部今継・膳臣澄信と書かれた木簡が出土

壇所 壇之浦
香賜 舸拕夫 − 関門海峡の梶取り人
三嶋郡の藍原 長府の字「三島」
※「三島」 を地名でなく島とみれば六連島・蓋井島など。

雄略天皇の吉野宮は小倉南区徳吉、長野か?




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和同開珎 「珎」の字義 新説

2017/02/10 12:17

「長門」 の場所は山口県西部〜萩市ではなく、
下関市有冨 字「中村畔」「金鋳ヵ谷」 〜ハンドウ山登山道である。

長門の城=高安城。 場所はハンドウ山

和同開珎の「珎」
武蔵国秩父の場所は埼玉県秩父ではない。

市秋芳町別府 小字「ちち婦

または
美祢の「祢」 と和同開珎の「珎」 は ツクリ が同じである。
そこで漢和辞典で「祢」 を調べてみればの廟、父のみたまの意味であり、
秩父≒美祢 である。

御霊(みたま)=美玉=珎
みたま=珎


新説
・美祢市秋芳町別府に小字「ちち婦」 がある。 ここが秩父か。
・和同開珎の「珎」 は美祢、みたまを表す。


美祢市 秋芳町嘉万
国秀遺跡
ttp://www2.city.mine.lg.jp/www/contents/1318660703759/index.html
ttp://www.youtube.com/watch?v=PmEpxo0uB3I
中村遺跡
ttp://www.isekiwalker.com/iseki/148247/

銀郷 武烈天皇 ※4年前に書いたもの
http://44051510.at.webry.info/201301/article_2.html

武蔵国
http://44051510.at.webry.info/201112/article_18.html?pc=on

武蔵国埼玉郡新羅人徳師ら男女53人を、請に依りて金の姓とす
  ↓
秋芳町の国秀遺跡


和名抄の表記
『山口県の地名』 日本歴史地名大系 36 平凡社 1980年
P369中
「和名抄」 高山本に「美」 と記し、訓はない。 刊本は「美」 と記し、その慶庵元年本は「ミネ」 と仮名を付す。 「みね」 は嶺の義で、郡名はこれによるといわれる(防長地名淵鑑)。
P573中
長門国の中心は美祢郡の赤郷と大田郷であったと考えられ、広大な石灰岩台地が分布し、接触交代鉱床が発達していて、古代の未熟な探鉱法でも容易に銅、、鉄などの露頭探査が可能であった。

私見
でなく美と表記した史料がある。
「みね」 は「み祢」 の義で、漢和辞典で「祢」 を調べて父の御霊屋

長門国の中心は豊浦郡であった。
しかし古代の官道は豊浦郡を通ってなかったという謎がある。
倭国(邪馬台国)=豊浦郡 だったので官道を造らなかった。


閃き、アイデア、思いつきの経緯
『富本銭と謎の銀銭』 今村啓爾 著 小学館 2001年
P20〜25 「文献記録への疑問」 
及び
『日本の美術 No.512 出土銭貨』 松村恵司 著 至文堂 2009年
P40 「開珎の字義」
を読んで、立ち位置 下関市有冨 字「中村畔」 から見た「武蔵国秩父」 の場所を推理してみた。 ここから歩いて10日以内の場所に「武蔵国秩父」 がある。

記紀・万葉などは漢字表記が言霊の呪術を帯びており、漢字表記に強烈なこだわりが見られる。 また和同開珎は美祢市美東町の長登銅山の銅が使われていたことから秋吉台=武蔵国 という案が思いついた。 秋吉台地域の小字を調べて小地名「ちち婦」、美祢の「祢」 が「珎」 に似ることを発見した。


『日本古代貨幣の創出』 今村啓爾 著 講談社学術文庫 2015年
あとがき P252-末から2行目
15年前、私は、松村氏と論争するのは「歴史の真実に至るため、より正当な論理を共同で発見するための過程というべきだろう」 と書いた。 しかし実際に起こったのは、私が期待したような互いの研究を深めあう建設的論争ではなく、右のような不毛な応酬になってしまった。 研究という行為の厳しい一面に直面したと言えばそれまでだが、この決着は、十分な理解能力を有する第三者たちに委ねなければならない。 「本書を読まれたあなたもその候補者の1人です」 と申し上げて筆を擱(お) きたい。
2015年3月  今村啓爾

論争 この本を読んだ第三者の私見
下関市は「北九州」 の地域文化圏に属すので邪馬台国 九州説に入る。
無文銀銭、富夲銭は下関市有冨 ハンドウ山にあった倭国によるものである。
今村啓爾、松村恵司の両氏とも「九州説は問題外」 としている。

邪馬台国(本当の記紀・万葉の地) は下関市綾羅木川流域にあった。
首都の位置は富夲銭の「七曜」 思想から解明できる。

古事記の銀王、武烈紀の銀郷
呪術としての漢字表記
風水の景観
などが今村・松村両氏とも探究が弱体である。

「この決着」 は下関市有冨、長府で片づく。 今村啓爾は馬鹿、松村恵司も馬鹿。 「歴史の真実」 は下関市有冨、長府に至る。


和銅元年(708) 1月11日
武蔵国秩父郡和銅を献ずる。 これにより年号を和銅と改める
・武蔵国秩父郡の場所は埼玉県秩ではなく山口県美だった。
・和同開珎の「珎」 の字義は美祢の「祢」 である。 珎=祢
という衝撃的な新説を発表した。




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城野石棺を読み解く

2017/02/08 04:58

重留銅矛 記紀神話と照合
文庫書紀@120-5
乃ち国平けし時に杖けりし広矛を以て、二の神に授りて曰はく、「吾此の矛を以て、卒に功治せること有り。

常陸国風土記 信太の郡
伊川  門司区伊川 白山神社
普都の大神

出雲 雲に覆われる足立山 霧ヶ丘
小倉北区 大畠は雨の日の濃霧がすごい。

城野石棺の子供2人
 事代主命 絵画は白雲に乗った普都大神
 建御名方命 玉造工房

城野遺跡の現地保存をすすめる会
城野石棺移築記念シンポジウム
ttp://ameblo.jp/jounoiseki/entry-12244823342.html
ttp://ameblo.jp/jounoiseki/entry-12239391364.html
朱の石棺に葬られた子供2人は4才ぐらい。
  ↓
記紀の事代主命・建御名方命ではない。 「出雲」 と断定できない。

玉造工房 古事記の櫛矢玉神か。


考古学
下屋敷遺跡(小倉城 ) の内向花文鏡≒下関市 稗田地蔵堂遺跡の鏡
  ↓
下関市の竹生山(325.2 m) の山頂から小倉城を見る方向ドンピシャに稗田地蔵堂遺跡がある。 下関市の竹生山 山頂と小倉城を結ぶ線上に稗田地蔵堂遺跡がある!
直線 竹生山の山頂 ― 稗田地蔵堂遺跡 ― 小倉城(下屋敷遺跡)

城野石棺、重留銅矛から大国主命の出雲は島根県出雲ではなく北九州市小倉南区 城野か。
  ↓
併せて問題は高天原はどこか?
下関市立考古博物館は腰が重い。

「北部九州」 の地域圏には山口県下関市が含まれる。
邪馬台国九州説は下関市域を含む。

後漢書 倭伝
女王国より、海を度ること千余里、奴国に至る。 皆倭種なりといえども、女王に属せず。
方向がちがうが拘奴国は小倉の城野か。


『風土記』 小学館 新編日本古典文学全集 5
私見
最近 常陸国は下関市有冨と見る。
以前 常陸国は門司区の周防灘沿岸〜小倉南区と見ていた。

355-最後の行  筑波岳は足立山である。 竹馬川が流れる。
359-4  小泊瀬山の石城  苅田町の小波瀬 と 高城山

359-後ろから2行目  「駿河の国 福慈の岳」 は直方市の福地山
363-最後の行  「白壁の郡」 門司区恒見の石灰岩砕石場

365-8  伊川  門司区 伊川
普都大神は伊川の神である。

367-4  浮島  曽根の浮島神社
ttp://44051510.at.webry.info/201402/article_52.html
367-6  塩を火きて  勝円遺跡
377-6  曽尼  小倉南区 曽根

359-後ろから3行目 神祖(みおや) の尊
  ↓
御祖神社 みおやじんじゃ
妙見山北西麓に鎮座
祭神は造化三神  天御中主尊 高皇産霊神 神皇産霊神
和気氏の祖先の神鐸石別命 和気清麻呂
寛政7年(1795) 小倉藩第5代藩主小笠原忠苗が山頂の妙見社に参詣したとき、土中から中国南宋産湖州鏡ほか9面を発掘。

私見
南宋(1127〜1279年) は万葉集とは時代がちがうが、妙見山は鏡山か。
小倉北区 富野の須賀神社では 足立山=鏡山 とする。


下関で天御中主尊を祭る神社
有冨上八幡宮の末社 天御中主神社 (明治末に川北神社に合祀され消滅)
垢田八幡宮 鼻ヅラ海岸の黒ア妙見
室津 若宮神社の相殿

下関で朱が出土した所
下有冨石棺 「川中風土記」 P23 昭和15年頃、住民が棺を開ける。
石原156番地(ホームワイド裏の台地) 朱の精製跡 L字状石杵が出土
吉田八幡宮 石棺
室津の甲山 朱壺
http://44051510.at.webry.info/201304/article_35.html

私見
城野石棺の朱が作られた場所はL字状石杵が出土した石原156番地である。


『おもしろ地名 北九州事典』 増補総集版 文理閣
P77
熊本・同志通り
企救郡誌に、熊本 は「往古この村人は土器を作るを家業とす。 今にその子孫在りて瓦を作る」 とある。
  ↓
土師氏の祖、出雲の野見宿祢

P91
手向山 万葉集
P95
富野 熊鰐伝説あり 


『福岡県の地名』 平凡社 日本歴史地名大系
P1234中 
萩ア村 (萩ア町、明和町、三萩野 1丁目) は博士(陰陽師)、占者が住んでいたので八卦アと称していたのが転訛したものという。 現在も陰陽師の子孫が住む。
萩ア町、三萩野は易者の地、卜占の地だった。
  ↓
事代主命
神吾田鹿葦津姫

萩ア村の村はずれに在方の科者を留置する揚屋(未刑囚を入れる所) があった。
万葉集427 刑部垂麻呂 赤坂の手向山

P1239上
白髭神社  小倉南区 蜷田若園 1丁目
菅原道真が大宰府左遷のとき当社に詣でて大田命を合祀したと伝える。
祭神  猿田毘古神 天児屋根命 天宇受売命 布刀玉命
由緒  高千穂峰に降臨した邇邇芸命に協力して天宇受女命が宮所を求め、当地の丘にしばらくとどまったという。


筑紫日向の高千穂宮は小倉北区か
二上の山 足立山(霧ヶ岳・妙見山)
竹嶋、「筑」紫 の竹は神岳
浮渚在平地 文庫書紀@142-11 曽根の浮島
豊国の宇沙 宇佐町


浮島、製塩
北九州市 小倉南区曽根の浮津島神社  荒神森古墳
ttp://kitaqare.d.dooo.jp/tens18.htm
ttp://www.geocities.jp/kikunosato2005/sub13.html

北九州市の古代製塩
浜田遺跡  製塩遺跡  若松区小竹 「脇ノ浦」 

貫遺跡  縄文晩期に朝鮮半島と交流
勝円遺跡   製塩遺跡  南曽根中学

P1207下
「 周防灘に面する勝円遺跡で8世紀後半−9世紀前半の煎熬用の甕が大量に出土、製塩遺跡と知られた 」
  ↓
常陸国風土記に書かれた浮島の製塩は北九州市小倉南区曽根である。


参照
北九州市 埋蔵文化財調査室 
http://www.kicpac.org/bunkazai/main.html 
卑弥呼がもらった鏡
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku288.htm




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立ち位置を有冨のハンドウ山にとる  

2017/02/07 23:08

原始古代の倭国(邪馬台国、東海姫氏国、本当の記紀・万葉の都) は下関市有冨のハンドウ山(有冨竜王山) の周囲にあった。 有冨には中村という家が本家・分家で3軒ある。 中村本家さんは天御中主尊、高木神、天照大神、中大兄皇子らの直系子孫であり、儀万さんは天武天皇(大海人皇子) の家である。

万葉集4260
皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
万葉集4261
大王者 神尓之座者 水鳥乃須太久水奴麻乎 皇都常成通
渟中原瀛真人天皇
白井さん宅前にあった蓮池または儀万の池で、皇都は中村本家さん宅。
  ↓
天武天皇は天文・遁甲の方術士だったので、中村本家さん宅の入り口に風水の羅盤を置いて方位を見れば皇都があったことを確認できる。

『やすおか史誌』 P779 「儀万の話」

下関市有冨の儀万さんは天武天皇の直系である。
天武天皇は中国哲学である陰陽五行を重視した。
富夲銭の七曜思想=「儀万」 という陰陽五行・易経に基づく名前
  ↓
富夲銭は儀万銭である。

天渟中原真人天皇
「瀛」 の場所 土井ヶ浜(海人族)、向津具(楊貴妃伝説)
トンボ玉 土井ヶ浜、田耕の甲殿遺跡 2ヵ所

土井ヶ浜の中世 祭祀
牛を殺すミトラ神 土井ヶ浜に牛を殺した祭祀遺跡あり。
土井ヶ浜にある広田遺跡は中世の仔ウマの埋納

有冨の儀万さん 天武天皇の家系
吉見船越の儀満さん 額田王の実家か

下関市有冨の「儀万」 という名前の家は富夲銭の七曜思想の表明である。
この「儀万」 という家は天武天皇の家である。 儀万=七曜。 等号である。


有冨内で首都 平城京があった場所
A考
遠山運送裏の字「金鋳ヶ谷」 に古代の産銅・銅精錬の言い伝えがある。
大賀さん(大神の転訛か) 宅の奥の平田さん畑が「平」 の字より平城京跡。
この場所には侍の家 「土井」 の溝が掘られている。

B考
万葉集の寧宮の「楽」 を風水の楽山と見れば、寧宮はハンドウ山の頂である。 種子島 広田遺跡の貝札に彫られた「山」 について考察すれば、山=仙(仙人、仙境)、六十四卦の「艮為山」。 大型漢和辞典で「山」 をひけば「墓」 「墳墓」 の意味もあるので陰宅風水が想起される。 卑弥呼の鬼道=中国古代の鬼神(祖先・死者の霊魂など) を操る者。

有冨のハンドウ山の頂は卑弥呼の冢であり、前方後円墳デザインのモデル。

有冨のハンドウ山 登山道入口付近を立ち位置にすれば、奈良県・大阪府の「ヤマト王権」 「前方後円墳体制」 勢力は蝦夷の親玉 大墓公阿弖流為である。 下関市後田町5丁目の椎の木原墳墓群(古墳時代初頭) から出土した庄内式・布留式土器は幡生の秦氏。 あるいは蝦夷すなわち佐伯部を示す。 前方後円墳を尊んで「古墳時代」 を広めたのは秦氏と蝦夷の佐伯部である。

記紀・万葉の「東国の兵」 は関西蝦夷であり、甲冑・武具を持つ者は蝦夷である佐伯部である。 首都があった下関市有冨上の蓬莱島に身を置けば甲冑・武具は蝦夷である佐伯部の物である。

『角川 大字源』 で「平」 の熟語「平城」 には
漢代の県名。今の山西省大同市の東。 高祖が匈奴を討ったとき、7日間包囲された地 〔史・高祖紀〕
という意味が載り、天武紀の「灰零れり」 文庫書紀D162-4 を連想させる。

万葉集4506
高円の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御世遠そけば
いにしえ、ハンドウ山の頂には松が生えていた。 高松塚=高円野。


浮囚郷 山口市
『山口県の地名』 日本歴史地名大系 平凡社
P42上
「大日本地名辞書」 は「えみし」 と読んでいる
「防長地名淵鑑」 は山口盆地を貫流する椹野川左岸にあたる現山口市の平川・大歳地区(黒川・平井・朝田・矢原) 辺りを比定している。


山口大学 考古学 田中晋作
[PDF] 山口県域に投影された畿内政権の動静
petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/file/.../D160009000008.pdf
(反論)
邪馬台国の位置を下関市有冨 字「中村畔」・ハンドウ山 にとれば、関西の甲冑が出土した天神山1号墳、赤妻古墳の場所は蝦夷(えみし) の浮囚郷に比定できる。

古代関西の 朝鮮カルト
http://44051510.at.webry.info/201305/article_36.html




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無文銀銭を解明する

2017/02/06 07:49

万葉集1024
長門有 奥津借嶋 奥真経而 吾念君者 千歳尓母我母
長門守 巨曾部対馬朝臣

万葉集1576 長門守 巨曾倍朝臣津嶋

漢和辞典で「」 をひくと2つに分かれる意味なので、馬=島。
」 は楽器の鐘を掛ける台座の柱のさま。

「長門」 は山口県ではない。
「長門」 の場所は下関市有冨 ハンドウ山の登山道である。

山口県の「山口」 の場所はハンドウ山の登山口周辺 ・・・ 古事記祝詞
『古事記 祝詞』 日本古典文学大系 1 岩波書店 1958年
P399-6
倭の國の6つの御縣の、山の口に坐す皇神等の前にも
注九 上記6つの御県にある山の入口にいる神。 これを誤字とする説があるが、下文に「山山の口より」 とあるので、山口に坐す皇神であることが知られる。
  ↓
下関市有冨 ハンドウ山の登山口周辺の人たちが皇神
儀万、岩谷、中村、白井、大賀、重岡の各家々


巨曾部の「コソ」
「社」 の読み コソ
金コソ
呉の都 「コソ」
麦の古語

(参照)
『山口県地名考』 高橋文雄 著 昭和53年
P128 徳地町 小古祖


社戸臣(こそへのおみ) 大口 文庫書記D94-11


「嶋」 は海上の島ではなく「陸の孤島」 の意味。
「対馬」 玄海灘の対馬ではなくてハンドウ山の奥にあった。
「対馬下県」 の場所はハンドウ山の最奥部

青丹吉 平山、青丹吉 常山 ・・・ ハンドウ山の頂から行く平たい尾根
平城京、奈良もハンドウ山の奥へ行った所にあった。

雲の上の人、仙人が霞を食って生きている。
その場所は有冨墓地の上、大迫池の上の尾根の場所。
山並が曲がって窪んでいるので雲が湧く所だ。
春は山桜が咲く桃源郷であり中国神仙思想の地である。


『仙境往来』 田中文雄 著 春秋社 2002年
『桃源郷』 川合康二 著  講談社選書メチエ 2013年

『奇景の図像学』 中野美代子 著 1996年
発行 角川春樹事務所 発売 紀伊國屋書店

「桃源郷をめぐる風水 ― 竪坑と井戸と天井」 P203〜223


私は山師
「対馬の銀」 は玄海灘の対馬でなくハンドウ山の平たい尾根にある鉱脈だろう。
古事記の銀王の地、武烈紀の銀郷はハンドウ山の尾根を奥まで行った所にある。

聖地になる極点は曲がり角で地形が大きく曲がっている所 − 有冨墓地の東側
南の朱雀(鳳凰) 火の山 頂上がとんがった円錐形 − 伊倉の火の見山 


ひさかたの 天の香山 ハンドウ山

倭は 国のまほろば  倭(やまと) は下関市有冨上
たたなづく 青垣
山隠れる 倭し 美し

命の全けむ人は
畳薦 平群の山  ハンドウ山の頂から行く平たい尾根
熊白檮が葉を
髺華に挿せ その子

はしけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も

万葉集3843
何所曾 真朱穿岳 薦疊 平群乃阿曾我 鼻上乎穿礼
  ↓
平群氏は真朱を採掘している。


前方後円墳の造形
後円部 下関市有冨のハンドウ山 天の香山
前方部 ハンドウ山の頂から行く平たい尾根 平群の山


参照
「無 文 銀 銭」 その成立と変遷
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho110/kai11002.html




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有冨 ハンドウ山 登山口 の道下の崖に生えるツル草の考察

2017/02/06 01:24

立論やり直し
藤原宮御井は下関市有冨 ハンドウ山登り口下の空地にある井戸 説

万葉集52
畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 
の「畝火乃 此美豆山」 の場所はどこか? が大問題となる。

美豆山 という表記は "美しい豆の山" ・・・ ちっこい山

藤原宮に遷都 文庫書紀D302-5 持統8年
12月6日に、藤原宮に遷り居します。 9日に百官拝朝す。

旧暦12月6日は太陽暦では12月末日。 万葉集52 の東西南北は冬至の日の出・日の入りの方位か?

先代旧事本紀 巻第一 では日向の橘の小戸橿原、橘の小門橿原と記されている。
神武天皇の橿原宮は海岸の橘の小戸にある。
文庫書紀@238-9
観れば、夫れ畝傍山の東南の橿原の地は、蓋し国のか。治るべし」 とのたまふ。
『角川 大字源』 で「」 の字を調べれば
@ おか。 陸。 山のふもとに入り込んだ、住むに適した所
A きし。 みずぎし。入江の奥にある岸。
神武紀 の通説一般的な「墺」 解釈は@
先代旧事本紀 巻第一 の 橘の小戸橿原 では「墺」 の意味はA

万葉集52香具山、菅山であり、香具山ではない。 香具山と香具山は別である。


『風水 気の景観地理学』 渡邊欣雄 著 人文書院 1994年
沖縄・台湾・福建省の風水を研究した学者(東京都立大学 社会学) の書
この本 P237 図43 から風水の明堂・龍穴は
有冨上 ハンドウ山の登り口下の空地(昔、中村本家さんの旧宅跡) の井戸

藤原=葛原 で、葛・ツタに覆われた場所は中村本家さん旧宅跡地の崖
その場所にある井戸が藤原宮御井か。
この空地には野兎がいる。 菟田の「菟」 は「卯」 で方位は東。
推古天皇 19年5月5日  文庫書紀C120-9
田野に薬猟す。 鶏鳴時を取りて、藤原池の上に集う。
真東に形山の青山が位置する。

先代旧事本紀の冒頭の神、天冨道 は有冨 字「中村畔」 の道
古事記の 常道(ひたち) の仲の国の造 も同じ。
日本書紀の片岡=常陸国風土記 那賀郡 茨城里 の片岡
 ↓
原=原=城 ・・・ つる草の類

神代から葛、野バラのツルが生えている。


ハンドウ山 登り口下の崖 片居・片立、磐余

ハンドウ山を100メートル登った所に巨大な山桜の木があった。
その辺に榊が生えていた。
若桜部朝臣五百瀬  文庫書紀D310-2
天香山の五百箇の真坂樹 文庫書紀@76-6

中臣の遠祖、天屋命  雄略紀の少子部など「子」 関係の地

高安城=長門の城 でハンドウ山 登り口付近の溝跡、山城跡
「高」 はハンドウ山の登り口
市中 文庫書紀D258-5 ハンドウ山の登り口下の空地 中村本家旧宅跡

天吉葛 文庫書紀@38-12
土神 埴山姫 ハンドウ山登り口の赤土。 土は五行の中央
埴安池 大歳池
天香具山 ハンドウ山で高松野、高松塚、高円野。 前方後円墳の祖形 

記紀、万葉、風土記など
「中」「長」「常」 の地名・人名は下関市有冨 字「中村畔」〜ハンドウ山 登山道

隋書倭国伝
倭の地勢は東高くして西下り ・・・ 綾羅木川の流れ

下関市綾羅木川流域を風水で見分して流域の明堂・龍穴はハンドウ山 登山口下の空地にある井戸である。

魏志倭人伝では人が死んで葬り終わった後、水に入って禊ぎしている。
墓地と禊ぎの水場が近いことから梶栗浜遺跡である。
梶栗浜遺跡の近くに橘の小戸があり、畝火の美豆山・橿原宮がある。
橿原宮は梶栗か綾羅木郷台地である。

福岡平野に多い多紐細文鏡、細形銅剣から
梶栗浜遺跡は松浦〜福岡市からやって来た神武東征軍の墓地か。

古事記
安寧天皇陵 畝火山の美富登にあり。
 ↓
地形が女の陰部状の谷なので、下関市立考古博物館 駐車場横の石松さん宅下の谷 字「宝前」 に安寧天皇の陵墓がある。
ホト(陰部) の美豆はクリトリス。 この場所で中世の祭祀跡あり。


建国記念の日 2月11日(土) 
鳥見山 有冨のハンドウ山の奥 大迫池の上の尾根
ハンドウ山の頂は卑弥呼の冢で、前方後円墳の祖形

神武天皇の橿原宮は下関市立考古博物館の駐車場にあった。


日本の中心点 下関市有冨 ハンドウ山 登山入口の下 空地
真北 竹生寺横の妙見社
方位磁石 西偏7°
真東 青山
真西 やや梶栗浜遺跡

竹生寺(北)・青山(東)・梶栗浜遺跡(西) の交点が奈良。 字「金鋳ヶ谷」

夏至 東西から北へ27°〜 30°
日の出 ハンドウ山の頂
日の入り 安岡八幡宮
冬至 東西から南へ27°〜 30°
日の出 長府覚苑寺の裏山 長門鋳銭所 ・・・ 万葉集52 青香具山
日の入り 綾羅木郷遺跡 字「宝前」 のホト谷 ・・・ 万葉集52 畝火山


万葉集13、14、15 中大兄近江宮御宇天皇三山歌
竹生寺の山号が高山なので、今まで万葉集の高山は竹生山と思っていた。
高山は長府覚苑寺の裏山(176.6メートル) である。

高山 ・・・ 長府覚苑寺の裏山
耳梨山 ・・・ 竹生山
畝火山 ・・・ 下関市立考古博物館の駐車場
  ↓
『古代の方位信仰と地域計画』 山田安彦 著 古今書院 1986年
P162〜165

『奇景の図像学』 中野美代子 著 1996年
発行 角川春樹事務所 発売 紀伊國屋書店

P260
の図に合致!!

天心十道の地である有冨上 字「中村畔」 から
方位磁石 西偏 7°の南  門司の風師山 山頂  風師
正方位の真南  小森江西小学校 ・・・ 学校を建てる前は大量の銅鉱滓が畑に散らばっていたと伝わる。

小森江 隠国の泊瀬(文庫書紀B42-5)、隠江(万葉集249)

過去記事 記事の半分は今と考えが異なる
小森江 風師山の洞窟 銀鉱
http://44051510.at.webry.info/201408/article_13.html
小森江西  ぐみの木谷 銅鉱口
http://44051510.at.webry.info/201409/article_13.html
「風師」 とは何か  古代史論叢
http://44051510.at.webry.info/201408/article_12.html

小森江貯水池の北岸の上50メートルの場所に銅鉱跡。 石灰岩と緑青が露出。
「北九州市の文化財を守る会」 が2014年11月末ごろに調査確認済み。
武烈紀 小泊瀬宮の銀郷 候補地。
 

有冨 ハンドウ山 登山口 の道下の崖に生えるツル草
  ↓
草壁皇子の「草壁」 の場所


万葉集巻十六を鑑賞する  集歌3840
ttp://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/dfbb3848f48174ea97fa0de48abdacb2
穂積もハンドウ山 登山口下 の崖だ。

穂積=三宅=倉 か。



『古事記 祝詞』 岩波書店 日本古典文学大系
祝詞 P399-6
山の口に坐す皇神等 ・・・ 「山の口」 はハンドウ山 登山道入口

常陸国風土記 那賀郡 茨城里=欽明紀 茨城皇子 文庫書紀B242-末行
茨城の場所は中村本家さん旧宅跡の空地の入り口 野バラが生えた所




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奈良文化財研究所 有冨銭

2017/02/03 21:01

有冨上の家
岩谷 大伴坂上郎女の家があった場所
儀万 天武天皇(飛鳥浄御原宮) の末裔
中村本家 天御中主尊、高木神、長髄彦、天智天皇の末裔

藤原宮の位置
字「善波」、迫本さん宅付近

(根拠) 
『日本の美術 No.512 出土銭貨』 松村恵司 著 至文堂 2009年
P34上
藤原宮の富本銭は「一」 が省略されるとともに、「口」 の第一画が下に突き抜け、「田」 の第一画と一体化した縦画となっている。
  ↓
「富」 が象形文字になっており、左部分の縦線は迫本さん〜西本さん宅。
=迫さん宅〜西さん宅
「田」 の字の中央の縦線は専徳寺北の道祖神から山方向に行く道を表す。
迫本さん宅前に儀万さんの田畑がある。 この儀万の田に藤原宮があったか。

万葉集52 藤原宮御井歌
天香具山はハンドウ山。 東西南北の方位を見て迫本さん宅前あたり。
藤原宮御井は善波湧水池。 (今は埋められて消滅)

私見 「富」 の字を有冨上の地図と見るユニークな解釈

「夲」 は「大」 と「十」 に分解できる。
「大」 は歳池、迫池。 安万侶は迫池ほとりの人で、墓が奈良市にあるのは双分制である。
下関市有冨上にあった倭国(邪馬台国で、本当の記紀・万葉の都) は老子の思想なので考古学が役に立たない。

「十」 は天心十道

長門
長門の「長」 は長身・長寿で長髄彦・長日子
「長」 門の場所はハンドウ山へ上がる道

続日本紀A231-11
丁酉、周防国熊毛郡牛嶋の西の汀、吉敷郡の達理山より出せる銅、冶ち練すことを試み加ふるに、並に用と為すに堪へたり。 便ち、当国をして採り冶たしめ、長門の鋳銭に充つ。

周防国熊毛郡牛嶋の西の汀 ・・・ 下関市吉母
吉母の黒嶋は「久留島」 と呼ばれた。 「牽」、引島か。
吉母は「汀の里」 と呼ばれた。
吉母の字「平山」「金畠」「印内」 に産銅の言い伝えがある。

吉敷郡の達理山 ・・・ 万葉集3011 宜寸川
有冨古墳の横を流れる川。 富さん(今は無い)、本さん宅を流れる川

万葉集1024 長門有 奥津借嶋 はハンドウ山の奥の院(大迫池の上)
毘沙ノ鼻の万葉歌碑は間違い。

長門の城 ・・・ ハンドウ山登り口付近の山城跡



たとえば島采女は六十四卦の「雷火」。
雷はハンドウ山(有冨竜王社)。 天香具山、高円山もハンドウ山の頂。
豊島采女はハンドウ山上に居た采女。

古代史を陰陽五行、風水、易経、老子、道教で解明する。


奈良文化財研究所の根本的弱点
上記の松村恵司氏の著書 P40下
新都建設の平城の地は、和同元年2月の遷都の詔で、「四禽図に叶い、三山鎮を作し、亀筮ならびに従う」(四神相応で三山が鎮護し、亀卜や筮竹による占いでも神意にかなう) 理想の地と謳われている。

2016.9.28
701年 律令国家の完成祝賀か
藤原宮跡で旗の柱穴7つ出土 続日本紀と一致
ttp://www.sankei.com/west/news/160928/wst1609280095-n1.html
日本初の本格的な都、藤原宮跡(奈良県橿原市)から、元日朝賀の儀式で飾る幢幡(どうばん、旗)を立てた柱穴が7カ所見つかり、奈良文化財研究所が28日、発表した。 続日本紀にある「大宝元年(701年) の律令国家完成を祝う儀式で7本の幢幡が立てられた」との記述と一致し、新体制をスタートさせた儀式の様子を知る大きな手掛かりとして注目される。

  ↓
ところが実際実情は藤原京・平城京の風水について疑問が持たれている。
参照
学研のムック本「エソテリカ」 シリーズ
『風水の本』 1998年  P85〜87 
『風水がわかる本』 2012年  P74〜76
を読む。
amazon 中古本 1000円〜2000円。


参照サイト
奈良文化財研究所
https://www.nabunken.go.jp/
稗田地蔵堂遺跡
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/zizodo.html




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双分制 栗本慎一郎

2017/02/02 22:58

ジョー・マグモニーグル
ジョー・マグモニーグル (単行本)
『邪馬台国発見』 権藤正勝 著 学研 2008年 

ジョー・マグモニーグルのサイキック歴史学 (新書版・改訂)
『謎の邪馬台国を発見』 権藤正勝 著 学研 2010年
  ↓
「冬の居城と夏の居城」 は奇異な説に感じられるが、
栗本慎一郎が著書で文化人類学の学術用語「双分制」 を説いている。

豊浦郡で最も高い山である一位ヶ岳(671.6メートル) は風水の太祖山


双分制双子の首都
栗本慎一郎
『パンツを脱いだサル』 現代書館 2005年
P184〜186

『シリウスの都 飛鳥』 たちばな出版 2005年
巻末索引 双分制(双分的)
P68、184、238、350

『シルクロードの経済人類学』 東京農大出版界 2007年
巻末索引 双分制 とくに P133

『栗本慎一郎の全世界史』 技術評論社 2013年
P90-3行目、P183-末行、P188-6行目


ネットで検索せよ。 【双分制】


古代史の問題点 渡海
対馬を出航した後、どうやって激流の関門海峡を通過したか。
北部九州、中国山地、丹後からどの山岳路を通って奈良市に行ったか。
瀬戸内海、日本海側をどう通行したか。
日本列島に着いてからの道程が書かれたものがない。

対馬を出て、次の寄港地が難波である。
長安を出て、次は難波での話である。

奈良県 山辺の道の龍王山=下関市有冨 ハンドウ山(有冨龍王山
双分制で対応している。

記紀・万葉の3分の2は下関市有冨 ハンドウ山 登山口の前、イノシシが土塀を崩した場所である。 祝詞の「山の口に坐す皇神等」 はこの場所である。




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常陸国 有冨上

2017/02/02 03:31

綾羅木川沿いを観察すれば
神社・寺は川の北側にあり、伊倉・川中豊町・稗田には神社・寺がない。
綾羅木川流域で大昔から伝統がある集落は川の北側である。

有冨上 中村本家さん宅の史跡
儀万の池の東側 石を積んだ五輪塔が20ばかりあった。
60年前に家を建てた時、この場所に貝塚があった。

五輪塔は戦国時代の「青山くずれ」 と伝えられる。
これを寺院跡と見れば、
飛鳥浄御原宮の御窟院 文庫書紀D226-2
または
飛鳥寺 蘇我馬子が建立 日本で仏教が開始された場所
である。

日本で最初の本格的な寺院「飛鳥寺」 について調べてみた!!
ttp://deep.wakuwaku-nara.com/asukadera1/
  ↓
大化の改新で大兄皇子と臣(藤原)鎌足が出会った蹴鞠会の場所である。
  ↓
「中」 字「中村畔」 の中村さん宅

有冨の専徳寺住職もビックリ!
日本の仏教は中村本家さん宅の仏壇の場所で始まった。

橘寺か。

飛鳥は有冨 字「中村畔」 なので、
高  天高市、高橋など ハンドウ山の登り口
朱雀(南) 80年代まで白井さん宅前にあった蓮池

常陸国
貝塚 常陸国風土記 那賀郡 大櫛之岡 巨人伝説
古事記 登美の那賀須泥比古
天智紀 文庫書紀D56-10 臣部若子 長尺六寸 年16
古事記 常道のの国の造

常陸国=倭 同じ場所である。
文庫書紀A108-8 日本武尊
是に、神宮に献れる蝦夷等、昼夜喧り譁きて、出入礼なし。 時に倭姫命曰はく、「是の蝦夷等は、神宮に近くべからず」 とのたまふ。 則ち朝廷に進上げたまふ。 仍りて御諸山の傍に安置はしむ。

この伊勢神宮は山上にあり、大迫池の上
御諸山 有冨 ハンドウ山〜大迫池の上
「御諸山」 という表記は中国風水の龍脈をいう。 伊倉の火の見山、一の宮住吉の山は孤峰なので風水の龍脈はない。
豊田湖 安徳天皇陵参考地 風水の太祖山

文庫書紀D238-12
投下ける高麗56人を以て、常陸国に居らしむ。 田賦ひ稟受ひて、生業に安からしむ。

常陸国=倭(やまと) 有冨上
高麗 万葉集 楽浪の近江国


近江国
近江=出雲 下関市 長府安養寺2丁目
近江国は「畿内」 に含まれない。

文庫書紀A102-2 日本武尊
近江の五十葺山(胆吹山) 山の神 大蛇=出雲の八岐大蛇
居醒泉 功山寺名水
蛇 蝮(たぢひ) 多治比


播磨国
風土記37-10
餝磨郡 石作

竹取物語 石作の皇子

古事記 国譲り
建御名方の神、千引きのを手末にフげて来て

長府 安養寺2丁目は花崗岩が砕けたような真砂土で石が加工しやすい。

近江国=出雲国=播磨国=伊予国
みな長府安養寺2丁目の内

持統紀 文庫書紀D236-5
詩賦の興、大津より始れり。
  ↓
長府の覚苑寺近辺には伊予部馬養連などの作家が住んでいた。




[PDF] 資料
xufu.sakura.ne.jp/2015-7ronbun-maeda.pdf  の P8
志賀島出土の金印に根津子命
  ↓
漢委奴国王の国王は有冨の中村さん

常陸国風土記 総記 風土記357-5 古の人、世の国と云へるは

万葉集で「常」 の字
 山常
3236 常山
1682 之倍尓 夏冬往哉 裘 扇不放 山住人


学研 新漢和大字典 (普及版) 2013年
 ゴン
八卦、六十四卦の一つ。
うしとら、東北
解字 会字
「目+ヒ(小刀、ナイフ)」 でのまわりにいつまでもとれない入れ墨をすること。
 ↓
大久
物部大連

水野杏紀 著
『東アジアの宇宙論 易、風水、暦、養生、処世』  講談社選書メチエ

によれば、「艮」 が表すものは
止、山、少男、狗、手、立春、
東北 万物の終りの成す所にして始めを成す所、循環の境界域

八 ・・・ 咫烏

常緑樹
橘、榊、松、椿、若木(扶桑)
万葉集259 香山の鉾椙

「常」 の場所は大迫池の上 岩がある所
  ↓
福草 さきくさ
葛城福草 文庫書紀C270-5
神社福草 文庫書紀C274-2

神社忌寸祖父麻呂、島 文庫書紀C275上 注4

万葉集160 持統天皇 路庭 ・・・ 洞天
昔、有冨墓地の上に火葬場があった。

大迫池上の尾根が「青丹吉 平山」「常」「葛城」「福草」 の場所である。
大迫池上の尾根に「ハンドウ山(有冨 竜王社) の奥の院」 があったと推理できる。 ここが有冨上の天御中主神社があった所だろう。 地元の人も行くことがない場所なので誰も知らない。

有冨上 大迫池の上を大迫山と呼べば
邪馬台国 有冨のハンドウ山〜大迫山
狗奴国 長府安養寺2丁目、3丁目
である。

逸文 伊予国 文庫風土記下360
風土記を案ずるに、天上に山有りと謂ふ。 分かれて地に墜つ。
一片は伊予国の天山と為り、一片は大和国の香具山と為る。

(『日本書紀纂疏』 四)

天上の山 高天原 ・・・ 有冨 ハンドウ山の奥の院(大迫池上の尾根)
香具山 天照大神 ・・・ ハンドウ山
伊予国の天山 素戔嗚尊 ・・・ 長府 覚苑寺の裏山




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富本銭 七曜

2017/01/31 02:53

富夲銭の「富」 は下関市有を示す。
「夲」 は「大」 と「十」 に分解でき、「大」 と「十」 へのこだわりが感じられる。
大 有冨の大歳池、大迫池、蒲生野山田の大池
十 クロスする場所、綾羅木式土器の木葉文(乾艮巽坤か)
     ↓
「十」 の人名 物部十千根、十市皇女など
「十市」 は十日市ではなくクロスする点(基点) の意味


『古代遺跡 謎解きの旅』 風水ウォーキング 松本司 著 小学館 1999年
P245-末行
五角形、五芒星のバリエーションの一つに「大」 がある。
「大」 は人の形であると同時に魔除け、厄除けの形なのである。

呪術性を持って生まれた漢字の歴史

  ↓
「大」 は陰陽五行の相剋説、五芒星、五角形
「十」 は陰陽五行の土王説(土を中心にした十字形)


下関市有冨
県道長安線(県道247号線) から上を俗に有冨上、下を有冨下という。
県道長安線は大正12年にできた道で古くからある道ではない。
明治期の有冨は「上畔」「下畔」 に分かれ、上畔は「西ノ岡」 と「山田」 に分かれていた。 この上畔 「山田」 は隣の蒲生野山田とはちがうことに注意せよ。
有冨上「山田」 に天御中主神社があった。 山口県風土誌 9巻 P374
現在 ハンドウ山の山地番(住宅地・耕作地以外の所) に「山田」 がある。

小字「中村」 は吉見下、安岡、永田、内日下、員光など下関市内のいたるところにある。 有冨は字「中村畔(グロ)」 と「畔」 がつく。

有冨、冨任の「冨」 の字は ウかんむり ではなく ワかんむり で古事記の「冨」 表記と同じ。

綾羅木川の北側では有冨村は有力な集落であり、延行・石原は有冨村に含まれていた。 竹生寺は蒲生野山田にあるが住所は有冨になっている。

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角川日本地名大辞典 35 山口県  巻末小字一覧
豊浦藩村浦明細書
山口県風土誌
山口県地名明細書
など


日本の "中央" 地点
下関市有冨上の中村本家さん宅に全円分度器の中心を当てて、主要な遺跡・史跡・神社・山頂を調べたら東西南北それぞれドンピシャだ。 まさに富夲銭の七曜たる日月火水木金土の方位である。

有冨大歳池の横に牛を祀る大歳社がある。 家を建てる前は裏(家の北側) にあった。 この地点に全円分度器の中心を当てれば、住吉神社は158°、稗田地蔵堂遺跡は202°で八角形の角にくる。

天武天皇の飛鳥浄御原宮は有冨の中村本家さん宅にあった。
(根拠)
東西 青山山頂と梶栗浜遺跡を結ぶ線
南北 竹生寺と熊野町古墳を結ぶ線
字の交点に中村本家さん宅がドンピシャで位置する。

有冨の中村本家さん宅の場所に飛鳥浄御原宮があって簠簋、式盤、羅経盤の地であり、富夲銭は中村本家さん宅の位置をデザインしたものである。
方位磁石は西偏 約7°

景観地形
ハンドウ山の登り口下にある空地は中国風水の明堂である。

梶栗浜遺跡、稗田地蔵堂遺跡は弥生時代前期であるから、弥生前期に有冨の大歳池周辺に中国の風水、陰陽五行、六十干支、六十四卦が存在していた。

種子島 広田遺跡の貝製品に彫られていた「」 は六十四卦の「艮為山」。
有冨上で「艮」 の方位は大迫池の上。 この場所に岩があり、
天石窟、石上振宮、国見丘の伊勢の大石(文庫書紀@224-2) だ。
参照
『易経』 三浦國雄 著 角川ソフィア文庫 ビギナーズクラシック
P208 『春秋左氏伝』 穆姜の占例
  ↓
種子島 広田遺跡の人骨は下関市有冨のハンドウ山にいた巫女たちで、
細身の男性人骨は天照大神が男だった証である。


「青山」 の名称
有冨 字「中村畔」 から見て東(五行配当の色 青) の方位にある。

「火の山」 の名称
関門海峡防衛の狼煙ではなく有冨上から見て火(=南) に位置するから。
火の見山も同様で伊倉の「イク」 は火の意味という説 『山口県地名考』


まほらまの地 有冨上
岩谷さん宅横 山辺の道

勾(まがり)
「匂」 は赤土が映える意味。 ハンドウ山登り口の道カーブの所。

引田部の赤猪子
赤猪子は巫女なのでハンドウ山登り口付近に住んでいた。
雄略紀の童女君、常陸国風土記 那賀郡 茨城里
竹取物語 かぐや姫
の場所もハンドウ山の登り口あたり。

ハンドウ山 天香山
竹生山が岩山であるのに対しハンドウ山は赤土。
ハンドウ山の赤土が野馬台詩の場所。

野馬台詩の「青丘」=山海経 海外東経の青丘国=万葉集1867 阿保山
青 本来は灰色がかった白色をいう。→ 石英、石灰岩、銀 が採れる山
神仙の場所は土地、物、動物、すべてが白い。


考古博物館
下関市立考古博物館 → 下関皇立博物館 に格上げ
予算10倍

有冨上は仙境で仙人が住む土地である。
老荘思想だから考古学では解明できない。




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長門鋳銭所 小字「八島」

2017/01/25 08:33

amazon で中古本を購入
『富本銭と謎の銀銭』 今村啓爾著 小学館 2001年
  ↓
巻末 P228〜 「略年表と史料抜粋」 を見て、その全部が
顕宗紀 文庫書紀B106-2、4
縮見屯倉首は、忍海部造細目なり。
播磨国司 山部連の先祖 伊予来目部小楯
と関係するか?! というアイデアを得た。

持統5年 伊予国産銀を献上 田中朝臣麻呂
持統8年 鋳銭司任命 台忌寸八島
の「八島」 は下関市長府の小字地名にあるし、
「田中」 は長門鋳銭所跡近くの小字地名である。
法麻呂の「法」 輪山 覚苑禅寺 覚苑寺の山号

小字「田中」 の位置
長府宮の内町5-45 付近

万葉集30
楽浪之思賀乃
「辛」 十干の「かのと」(金の弟)、長府の金屋町、辛島氏

下関市長府(豊浦村) に小字「八島」 がある。 出雲、近江は長府だ。
続日本紀@141-15  長府 近江大津
※4年前に書いたものなので、記述の半分は今と考えが異なる。
http://44051510.at.webry.info/201306/article_47.html

長府の歴史
ttp://jchofu.my.coocan.jp/rekisi.htm
  ↓
図17 崇福寺跡、大津宮、南志賀廃寺の位置
  『富本銭と謎の銅銭』 小学館 P88
  『日本古代貨幣の創出』 講談社学術文庫 P86
に掲載
  ↓
下関市長府と滋賀県大津宮は地勢が似ている。
下関市長府、滋賀県大津宮 ともに「逢坂」 がある。
長門鋳銭所跡の裏山=比叡山
長府 安養寺=崇福寺
対応している。
  ↓
崇福寺跡(滋賀県大津市滋賀里町) から無文銀銭が12枚出土していることから、対応地である下関市長府安養寺も無文銀銭の関連地と推理できよう。
  ↓
関西の難波、奈良、飛鳥などに対応する場所も長府近くにある可能性大である。
栗本慎一郎は多くの歴史書を書いていて「騎馬民族の双子の双分制」 を説いている。
関西地域に対応する場所が下関市内のあちこちにある。

仁馬山古墳は覚苑寺の裏山(176.5メートル) を向いている。

無文銀銭と和同開珎 ―日本最古のコイン―
ttp://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/58mumon.html


逸文 伊予国 文庫風土記下360
風土記を案ずるに、天上に山有りと謂ふ。 分かれて地に墜つ。
一片は伊予国の天山と為り、一片は大和国の香具山と為る。

(『日本書紀纂疏』 四)


古事記 足名椎
足名 名前の字に鉄製品
  ↓
長府の金物の歴史は足名に始まる。

壬申の乱 近江軍の合言葉「

文庫書紀@94-9
清の湯山主三名狭漏彦八嶋篠 
清の繋名坂八嶋手命
  ↓
長府の小字「八島」。 長府の忌宮神社は祭神が出雲系である。
湯山=山部。 播磨国司 山部連の先祖 伊予来目部小楯
古事記 軽箭は銅

持統8年3月 文庫書紀D298-3
鋳銭司 忌寸八嶋
下関市菊川町 吉賀 字「台」 ではなく長府の台である。 亀の甲台地か。

天智10年4月 文庫書紀D56-12
剋を新しきに置く。 清の湯山主三名狭彦八嶋篠
始めて候時を打つ。
を動かす。 長府 字「石」、または「鐘撞」

古事記 「漏」 の人名 訶具比売、迦具比売
淡海の野入杵 長府 字「尾」


功山寺
功山寺 Wikipedia  山号は金山(きんざん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9F%E5%B1%B1%E5%AF%BA

下関市長府川端1丁目2-3
功山寺の「川端」 という地名は来目邑の「川辺」 を連想させる。
文庫書紀@240-末行
亦大来目をして畝傍山の西の川辺の地に居らしめたまふ。今、来目邑と号くるは、此れ、其の縁なり。

「近江国の益須郡の醴水」 は功山寺の名水である。
功山寺名水
ttps://www.youtube.com/watch?v=RpAEPu9qZnk
下関・長府城下町散策A功山寺
ttp://4travel.jp/travelogue/10753719



『富本銭と謎の銀銭』 今村啓爾著 小学館 で考察されてないものに
武烈紀 銀郷 文庫書紀B154-4
古事記 銀(しろがね) の王
がある。

銀山
山口市 一の坂 天花

北九州市門司区 小森江の鉱山
明治期の門司新聞に銀を含むという記事がある。

小森江貯水池の北側50メートル登った所に緑青が見える廃鉱がある。
小森江西小学校を建てる前は畑に大量の銅滓が散らばっていたという。


銅山
竹生寺から小野に行く山岳路に銅を採掘した穴があるという。
小野の老僧岩の裏は銅山という。


弥生土器
2001年、長門鋳銭所跡を発掘した時に弥生土器が出土している。
命 
「己」(つちのと)
「貴」 は「貝」 の字を含み、角川 大字源 によれば貨幣の集まる意。
貴=貨幣 (中国銭、富夲銭、謎の銀銭)
大己貴命は子供の頃、鉱夫だった説がある。


古代史維新!
持統8年(694) の鋳銭司
勤大弐 台忌寸八嶋は下関市長府 字「八島」 の人である。
持統天皇の宮は有冨上 大歳池ほとりにあった。


続日本紀B41-7
池上君大歳(朝妻金作大歳) ・・・ 大歳池、金鋳ヶ谷

続日本紀B369-8
薬師寺の僧華達は、俗名山村臣伎波都なり。
有冨の薬師堂跡は山村さんの家の近く、山村さんの田畑の北隣にある。
薬王寺とも記される。

大倭国宇太郡波坂郷
脚注21
大和志に「已廃。 存 平井村」 今奈良県宇陀郡 榛原町平井 のあたりか。
  ↓
昭和40年代まで小字「善波」 に小さな湧水池があった。
有冨の迫本さん宅から平井さん宅に上がる場所の坂が「波坂」 である。
あるいは宇陀郡 榛原町平井 は大迫池から登る尾根、平井さんの持ち山だ。

記紀・万葉、続日本紀、風土記他 ... みな捏造である。 下関倭国を下地にしている。 有冨の竹生山は東嶽(道教で仙人が住む泰山)。

泰山 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E5%B1%B1


日本の古代貨幣史 日本書紀
場所 長門鋳銭所跡 〜 長府の字「田中」

長府(豊浦村) の小字「八島」「田中」 が重要である。

文庫書紀B128-9
顕宗2年10月
冬10月の戊午の朔癸亥に群臣に宴したまふ。 是の時に、天下、安く平にして、民、徭役はるること無し。 歳比に登稔て、百姓殷に富めり。 稲斛に銀銭1文をかふ。 馬、野に被れり。

播磨の縮見の石室 文庫書紀B104-12
正倉院文書 播磨国郡稲帳 上長門国 鋳銭司主典従七位大宅首佐波
  ↓
古事記 丹波の阿治佐波比売
顕宗紀 丹波小子(たにはのわらは) 文庫書紀B106-1

万葉集307
博通法師の、紀伊国に往き、三穂の石室を見て作りし歌3首
紀伊国 有冨上からみて五行のの方角で東。 木国は前勝谷・長府


文庫書紀D118-9
天武3年 3月7日
3月の庚戌の朔丙辰に、対馬国司守忍海大国言さく、「始めて当国に出でたり。 即ち貢上る」 とまうす。 是に由りて、大国に小錦下位を授けたまふ。 凡そ銀の倭国に有ることは、初めて此の時に見えたり。 故、悉くに諸の神祇に奉る。 亦周く小錦より以上の大夫等に賜ふ。

忍海造 忍海角刺宮 文庫書紀B114-2

縮見屯倉首は、忍海部造細目なり。 文庫書紀B106-2
屯倉 三宅、大宅 
和銅元年2月11日 催鋳銭司 従五位上 多治比真人三宅麻呂

大国 出雲の大国主命
この対馬は長府内か長府近辺にある。


文庫書紀D274-8
持統5年 7月3日
秋7月の庚午の朔壬申に、天皇、吉野宮に幸す。 是の日に、伊予国司田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀3斤8両・アラカネ1籠献る。 丙子に公卿に宴したまふ。 仍りて朝服賜ふ。 辛巳に、天皇、吉野より至します。 甲申に、使者を遣して広瀬大忌神竜田風神とを祭らしむ。

伊予 播磨国司 伊予来目部小楯 文庫書紀B106-4
田中 長府 字「田中」

広瀬大忌神
前勝谷の消防庫横の熊野神社跡に住吉神社が注連縄を張る大石がある。
この大石は道敷の大神(塞へます黄泉戸の大神)。
秋根八幡宮も候補。

竜田風神
有冨 字「中村畔」 から巽(八卦で風、南東) の方角 一の宮 龍王山

持統天皇の吉野宮は国道2号線横の楠乃の変電所、テニスコートあたりか。


文庫書紀D298-2
持統8年 3月2日
乙酉に、直広肆大宅朝臣麻呂・勤大弐 台忌寸八嶋・黄書連本実等を以て、鋳銭司に拝す。

八嶋 長府 字「八島」



北九州市 門司区
裏門司 周防灘側の今津・猿喰・伊川が興味深い。

今津
津村島は大小2つからなる。 (淡路島二並び)
津村島は古事記の津島か。

企救郡誌  昭和6年
八阪神社  松ヶ江村今津字丸山
今津沖の津村島にあった津村神社が合祀されている。

津村神社
津経羅比古神 津経羅比売神 大倉主神
文庫書紀A128-5  仲哀紀 熊鰐
山鹿岬から岡浦へ入る時の水門
大倉主 菟夫羅媛

猿田彦 ・・・ 猿喰
阿耶訶で比良夫貝に手を引っぱられて海塩に沈んだ時に「つぶ立つ御魂」 は菟夫羅媛の「菟夫」 の音に通じる。 大倉主=大国主 という説がある。

「菟」 は稲羽の素兎に関係するか。


伊川
門司区 伊川  普都の大神
http://44051510.at.webry.info/201508/article_10.html




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―縄文・弥生・古墳―

2017/01/20 17:53

考古学
『日本列島の石器時代』 岡村道雄 著 青木書店 2000年
P69-1行目
この時期のこのような状況を日本化のはじまりととらえ、日本文化の誕生に引き継がれ、現代の地域性の原形ができ上がりつつあったと理解したい。

P68 図7 後期旧石器時代後半の日本列島の地域性

九州型ナイフ形石器文化地域圏 の範囲を見ると、
  下関市〜山口市 を含む。
  長門市沿岸〜萩市 は含まれない。

下関市域と長門市域は文化圏が異なる。
下関市と長門市の市境界は後期旧石器時代後半にはあった。


山口大学 考古学
売れ筋ランキング:新刊 2016年12月
ttp://www.book61.co.jp/blist_seller.php?LC=N&ym=201612

古代学協会
近畿地方における初期農耕集落形成をめぐる考古学的研究
研究期間: 2013年4月 - 2017年3月 代表者: 森岡 秀人

いのちのたび博物館・企画展「企救の国の青銅器文化」
http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-4497.html

「高地性集落からみた弥生社会と銅鐸(森岡秀人氏講演会)」
http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_f23e.html
森岡秀人氏の年代論のおかしさ
http://ameblo.jp/torashichi/entry-11775447544.html

倭国には「原倭国」 と「新生倭国」 の二つがあった!?
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_07_29.html
伊勢遺跡のここがすごい!
http://ise-iseki.yayoiken.jp/index.htm


宇土市 デジタルミュージアム
海を渡った熊本の石棺
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/kouhou-uto/h170401.html
馬門石とは
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/makadoisitowa.html


北九州市芸術文化振興財団 埋蔵文化財調査室
北九州の歴史を考古学の力で紡ぐ
http://www.kicpac.org/bunkazai/shiminkouza28-4.html

城野石棺 移築記念シンポジウム
「城野石棺を読み解く〜古墳出現前夜の北九州〜」
http://kitakyushu-culcul.jp/history/7315/


響灘の弥生墓
山口県の古代遺跡〔T〕 集落・墳墓編  古代遺跡教材化研究会 平成7年
土井ヶ浜遺跡の珍品としてシャコ貝製頸飾りがあり、南中国との密接な交流を物語る貴重な遺物で、国内には類例がない。

「川中風土記」 を読む
http://44051510.at.webry.info/201407/article_2.html

油谷町史 P101
岡ノ鼻遺跡  油谷町久富の長久
遺構には弥生時代末期の方形周溝墓とみられるもの一基と、古墳時代の竪穴住居跡および中世の掘立柱建物跡が検出された。 ここで注目すべきことは、同所の排土中に羽状文をもつ弥生前期末の土器片(綾羅木V式に比定) が含まれており、付近に弥生時代前期のムラ跡の存在を示唆していることである。

遺跡ウォーカー  ttp://www.isekiwalker.com/iseki/195626/


歴史作家
『倭人伝を徹底して読む』 古田武彦 著 ミネルヴァ書房 2010年 
『邪馬一国への道標』 古田武彦 著 ミネルヴァ書房 2016年 
※ 80年代に出版された本の復刊

『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 著 三一書房 1996年
『野馬台詩の謎』 小峯和明 著 岩波書店 2003年 立教大学教授


私見
弥生時代の開始
徐福東渡(紀元前210年) ・・・ 下関市域の倭国 泰山

古墳時代の開始
呉王孫権の東方遠征(230年) ・・・ 関西政権 前方後円墳
呉の鏡が見つかった所
  山梨県 富士山麓
  宝塚市
  人吉盆地 免田町 鍍金鏡

倭国の終焉 680年〜730年 700年説(古田史学の会)
野馬台詩の場所は下関市有冨上


関西の「ヤマト王権」 と熊本県は日本書紀の国だった。
関西の巨大古墳に宇土半島の阿蘇ピンク石が使われる。

関西「ヤマト王権」 の遺跡・古墳は下関市域のコピーなので、阿蘇ピンク石に相当するのは下関市吉見漁港・永田本町の海岸に広がる赤石である。 吉見の人が亡くなったので関西ヤマト王権は熊本県宇土から似た石を運んだ。


筑紫(竺紫) 松浦市
秦王国 太宰府

倭国(邪馬台国、俀国) 下関市有冨上
卑弥呼が帯方郡に遣使 「親倭王」(239年

隋書俀国伝 「阿蘇山あり」
俀国は熊本・関西かも。


多婆那国 新羅の脱解
倭国は下関であり、倭国の東北1千里は長門市。

古代の地図 日本列島が逆さまに描かれている。
「倭国の東北1千里」 は福岡県春日市・大野城市か。

弥生時代の考古学 下関市青山麓には福岡市域から来た人が住んでいた。
古事記 須佐之男命は「青山を枯山なす泣き枯らし」 とあり、下関市の青山だ。
民俗 下関市田倉には忌籠り行事がなかった。 「よしみ史誌」 P543-12行

下関市形山 → 一の宮 → 椋野
出雲の肥の河 楠乃川。 または武久川 生野神社
八俣大蛇 八塩折の酒 椋野の岩谷古墳から出土した甕
鳥髪 下関市宝町の鳥越山

下関の住吉神社=出雲説
一の宮住吉2丁目 - 4 - 5 アパート「ギャロップ」 横に
太夫」 という住吉神社の神木がある。
清の湯山主三名狭漏彦八嶋篠 文庫書紀@94-9
清の繋名坂軽彦命 ・・・  椋野の字「蜘手」

有冨上 字「中村畔」 から住吉神社は「巳」(蛇) 南南東 の方角である。

下関の住吉神社内に検非違使社がある。 祭神 火須勢理命→須勢理比売
 

熊成峯 飯塚市 穂波 出雲(JR 桂川駅近く)
根の国 福岡県春日市

熊成峯が彦山なら根国は筑後川流域


紀伊国
の国の「木」 は陰陽五行の配当で東なので、紀伊国は下関市勝谷・長府
前勝谷の熊野神社、勝谷神社の伊邪那美命、聖武天皇の紀伊行幸

紀の湯 
楠乃の字「湯出」 ビッグモーター前  温泉伝説
http://44051510.at.webry.info/201411/article_26.html


中央地点
有冨 はんどう山の登り口下 付近が中央地点である。
有冨 はんどう山の登り口下を基点にして方位磁石 西偏7°で測れば
  北方向 竹生寺・妙見社
  東方向 青山
  南方向 石原156番地、火の山、椋野の妙見山
  西方向 梶栗浜遺跡


面土国
綾羅木郷遺跡から出土した人面土製品 黥面文身 

【黥面文身】 について
http://www.geocities.jp/ydna_d2/geimenbunshin.html
縄文稲作は中国江南地方から来た
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_03_01nettaijaponica_ha_dokokarakitaka.html

倭面土国
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106b.htm


『山口県風土誌』 第11巻 P325
阿武郡 大井村  
名義
不知。 延喜兵部省式長門国駅に阿武。 また和名鈔本郡郷名に阿武とある本村の事なり。 海外にもはやく聞えたる地名にて図書編に倭委と見えたり


  ↓
「倭」 の字は「大」(おほ) である。

大型漢和辞典で
「面」
「土」
を調べる。




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常陸国那賀郡 下関市有冨 字「中村畔」

2017/01/16 23:20

下関市 有冨銀郷説
文庫書紀B154-4 武烈紀
伏して願はくは、陛下、仰ぎて霊祇に答したまひて、景きなる命を弘め宣べ、日本に光り宅しませ。 誕き銀郷を受けたまへ」 とまうす。


富夲銭
「富」 は下関市有の「富」
「夲」 は『角川 大字源』 によれば、十人の力を兼ね合わせたほど、く進む意
速=建須佐之男命

「夲」 は「大」 と「十」 に分解できる。
「大」 は常陸国風土記 那賀郡の巨人
常陸国 那賀郡の場所は下関市有冨 字「中村畔」
中村本家さん宅に貝塚があったという証言がある。
本当の飛鳥池は中村本家さん宅横の「儀万の池」 である。

「十」 は隅田八幡神社 人物画像鏡の日大王、仏教の王。 有冨上の人家は10軒程度。 十大王の「日」 の場所は はんどう山の登り口で、ここが神武紀の「道臣」(文庫書紀@212-5)。

山口県風土誌(第9巻 P357-末行 有冨村 境界) によれば
竹生山の東峰は山名が東ヵ嶽である。

太山府君
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B1%B1%E5%BA%9C%E5%90%9B
  ↓
東嶽=泰山。 泰山府君祭は長寿・不老不死の祭祀。
「東嶽」 は冥府である。 昔、有冨墓地の上に火葬場があった。
東嶽=冥府=冥土=常世。 常陸国は常世の国。
有冨墓地は道教仙人の地である。

竹生観音は蒲生野山田にあるが住所は有冨であることから有冨の寺である。
竹生観音の山号は高山。 竹生観音の横に妙見社がある。
高山は風水の玄武、鼈亀(べっき)。
妙見=北極星。

易の「乾」(=天) の方位は経筒が埋められている竹生観音の奥の院。
「艮」(鬼門) の方位は大迫池の上。

竹生観音の真南の方位に名字が儀万という家がある。
儀万という名は易経の根源によると考えられる。
万葉集 漢字原文で使われている「儀」 の字は儀万の家を示す。

下関市有冨上は四神相応の地である。
奈良盆地南部の明日香村は川が南から北へ流れる愚地である。
奈良県南部は天子南面にならない。

奈良県の遺跡は下関市有冨上のコピーである。
コピーする根拠は栗本慎一郎が説く「騎馬民族の双分制」 である。

常陸国風土記は茨城県ではなく下関市有冨である。
常陸国風土記は文体から大倭国風土記であり、倭は下関市有冨上である。


渡海
元寇が参考になる。
元の使者が下関市室津に来たことから下関市室津は倭国の玄関だった。

『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子著 日本経済新聞出版社 2007年
口絵7 広輪疆理図(『水東日記』所収) 大倉集古館蔵 に「徐福祠 長門 赤関」 とあるので徐福が住んで死んだ所が下関市域内にある。

元軍は鷹島と志賀島に上陸した。
私見では松浦市が竺紫高千穂宮である。

日本書紀、万葉集などでは中国、朝鮮南端、対馬、五島を出航して次の寄港地が記されていない。 どうやって関西まで行ったか、日本海経由、北九州、中国山地、瀬戸内海をどう行ったかの記録がない。 中国、朝鮮、対馬、五島を出航した後いきなり難波に着いていることから、難波の場所は玄海灘〜響灘の沿岸にあり大阪府ではない。


精神文化、心、信仰
縄文晩期は3000〜2400年前
2017年−2400年=紀元前383年
日本の縄文晩期〜弥生前期は中国の殷・周・春秋戦国時代の精神である道教、風水、易、陰陽五行、諸子百家が勃興した時代である。
原始古代の中国哲学は縄文期を見る教養である。
日本の縄文晩期〜弥生前期は理数系アプローチでなく文学部の王道「中国哲学」 で考察したい。 日本の民俗・祭祀の陰陽道も必修である。


地名・方位
蒲生野(かもうの) は奈良県方言。 万葉集20 題詞
有冨上の小字地名「善波」 (ぜんなみ、よきなみ) も雅風がある地名だ。

火の山、青山の「火」「青」 は五行・風水の地名だ。
磁針方位 西偏約7°
有冨上を基点として火(=南) 青(=東) である。 青銅器が出土した梶栗浜遺跡は有冨上の西方(=金、死滅)に位置する。

伊倉の火ノ見山は日見山とも書く。
伊倉の「イク」 は別説として「イク」=火神説  『山口県地名考』(高橋文雄)

朱の精製跡が出土した石原156番地
L字状石杵が出土した場所は石原コスパ裏の崖上
この場所は はんどう山 登り口と火の山を結ぶ直線上にある。
はんどう山 登り口から火(朱、赤、南) の方位に石原156番地がある。

纏向の「纏」 の字は中国風水を表す。
垂仁天皇、景行天皇の頃には既に陰陽五行、風水で暮らしていた。
場所は奈良県ではなく下関市有冨上。



『富本銭と謎の銀銭』 貨幣誕生の真相 今村啓爾 著 小学館 2001年
  ↓
この本の欠陥
武烈紀 「銀郷」 文庫書紀B154-4行目
古事記 銀(しろがね) の王
について論及されてない。


『「日本」国はいつできたか』 改訂版 大和岩雄 著 大和書房 1996年
P69
道教思想によれば、東海の日の出の場所にある桑に似た神木、扶桑の上に東王公のいる大帝宮がある。
「大王(おほきみ) は神にしませば」、「天雲の雷(いかずち) の上に廬(いほ) りせるかも」、または「雲隠る雷山(いかずちやま) に宮敷きいます」 という柿本人麻呂の歌は、「廬り」 や「」 を大帝宮とみての歌とも考えられる。
大帝宮は扶桑の上にあるから、雷山のある地を扶桑とすれば、当然、大帝宮は雷山の上の「廬」 や「宮」 である。 その宮にいるのが神である大王(おほきみ)、つまり扶桑大帝東王公である天皇である(中国の「天皇(てんこう)」 とは扶桑大帝東王公のこと)。


『蓬莱山と扶桑樹』 岡本健一 著 思文閣出版 2008年
P16
(蓬莱山など三山の別名)三壺はすなはち海中の三山なり。
一に曰はく方壺、すなはち方丈なり。 二に曰はく蓬壺、すなはち蓬莱なり。 三に曰はく瀛壺、すなはち瀛洲なり。 形は壺器のごとし。
(王子年 『拾遺記』 巻一)

東王父は・・・・・・万神の先なり。 ・・・・・・東方に治す。 下に蓬莱山在り。
(葛洪 『雲笈七籖』 第三神仙)


P25-4行目
中国・晋代の『王子年拾遺記』 によると、三神山の一つ「瀛洲」 は「積み石多し」 という。

  ↓
十=扶桑説
「十」 は隅田八幡神社 人物画像鏡の日大王、仏教の王。
銭の「夲」 の字は「大」 と「」 に分解できる。

私見では「十」 は扶桑樹を表す。

淮南子 の太陽

扶桑 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91
烏が乗る10の太陽

和同開珎 関西仏教デザイン
富夲銭 方士だった天武天皇 道教・陰陽五行デザイン

七曜の地 下関市有冨上 字「中村畔」。 とくにハンドウ山の登り口下

万葉集の雷山は有冨のハンドウ山である。
竹取物語のかぐや姫は有冨の岩谷さん裏の竹林 字「金鋳ヵ谷」 に住んでいた。
お迎えが来たのでハンドウ山を登って月の都に帰った。

竹生山の東峰は山口県風土誌によれば「東ヵ嶽」 という山である。
東嶽=泰山 蓬莱山
神仙の岩山が石原の砕石場になって無残に崩された。


別な見方
私は山海経 海外東経 の「青丘国」 を下関市有冨上にする。
なら扶桑は吉見上 鬼ヶ城山〜吉母上か、もう少し北か。

私見
中国の古い地図では九州の南方海上に扶桑があり日本列島が南北逆転した図になっている。 これは約6400年前(縄文早期後半〜縄文前期) に大噴火した鹿児島県硫黄島付近の鬼界カルデラを「扶桑」 とした固定観念による。

鬼界カルデラは種子島の広田遺跡に近い。
男が女装した広田遺跡の人骨は下関市有冨上から来た巫覡であろう。

考古学 土井ヶ浜遺跡と広田遺跡の貝製品は加工の仕方が似る。
広田遺跡の貝製品の文様には大陸の影響が見られ、「山」 の字が彫られる。

戦前まで有冨のハンドウ山は松が茂る山だった。 高松塚古墳の「高松」 は有冨のハンドウ山のことであり、高松塚古墳壁画の天女は下関市有冨のハンドウ山にいた女たちである。

私見では、方丈は下関市室津、瀛洲は土井ヶ浜・向津具(楊貴妃伝説)


日本書紀 神武東征
文庫書紀@218-6
高尾張邑(葛城邑) 赤銅の八十梟師 有冨 字「金鋳ヶ谷」
文庫書紀@236-2
又高尾張邑に、土蜘蛛あり。 其の為人、身短くして手足長し侏儒に相類たり。
土蜘蛛 穴の中や粗末な廬に住んでいる。
手足流し 長髄彦、七掬脛、高田八掬脛
侏儒 南方系
ただし葛城山は仙人の山である。
仁徳記 石の比売の葛城 高宮はハンドウ山の上、石がある所である。

八俣大蛇の「高志」 は続日本紀では行基の出身地で和泉にある。
古事記 黄泉、日本書紀 泉津、続日本紀 和泉 

母木邑 「母」 は伊弉冉尊か 
前勝谷 熊野神社跡 戦時中まで松の大木あり。
住吉神社 神木

巨樹 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E6%A8%B9
  ↓
播磨、近江は長府。 長府に巨樹があったので「日本」「日下」 か。
記紀・万葉などでは東西が逆に記述されているのか。

住吉忌宮 北樹社
http://44051510.at.webry.info/201411/article_23.html
  ↓
書いたのが3年前なので今とは見解が異なるところが多い。
北樹社は吉見の龍王神社だろうか。





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辛酉

2016/12/09 12:18

蚊取り線香 金鳥のロゴマークの鶏

「金鳥」 商標のいわれ なぜニワトリなの?
ttp://www.kincho.co.jp/kaisha/mark/index.html

金鳥の会社名の由来を教えてください。 - とさかの ... - Yahoo! JAPAN
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1414676984


私見
金鳥=辛酉 か

辛酉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E9%85%89

辛酉革命と甲子革令の王朝
ttp://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu5/sinkyukk.html

【新設】「干支」にひそむ三千年の謎
ttps://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/973e122d-ecee-59d4-e2bd-581558a68fe9




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「干支による方位を付した分度器」 を使ってアイデアを得る

2016/10/30 04:27

必需品
Amazon | プラスチック加工専門店【井上製作所】 方位分度器 (S-418 ...

国土地理院 地図 2万5000分の1
綾羅木川と関門海峡の地図を外枠を切り取ってセロテープで貼り合わせる。

ゼンリン住宅地図
コンビニのコピー機で縮尺を調整した4枚をセロテープで貼り合わせる。

地図は紙の地図にかぎる。 あちこち蛍光ペンで印を付けて方位分度器を当てる。


竹生寺の横にある妙見社は北極星であることに注目して、
amazon で売られている井上製作所の方位分度器を当てる。

青山の「青」 は東の意味である。
梶栗浜遺跡は西の方位にある。
中心は有冨上の儀万さん宅、中村本家さん宅あたりとなる。

一の宮本町の龍王山は「巳」(蛇) の方位になる。
椋野上町の妙見山は方位磁石の南(西偏7°)

西偏7°で測れば、中心は岩谷さんの家前にあった有冨上八幡宮となる。
真東は石原の小原山 
真西は梶栗浜遺跡

大年池の横、中村勝さん宅は低い丘上にあり、風水で見て家裏にあった大年社は重要である。 この場所が「土」 (中央) か。 大己貴神の「己」 も「つちのと」 で中央を表している。

耳成山
八卦の「坎」 は北で、身体の部位は耳。北=耳。 竹生山か。

虚津
「虚」 は二十八宿の字。 真北の東隣
危−虚−女−牛− ・・・


下関市始原文化
東西南北の座標 「中央」「原点」 は有冨上 字「中村畔」 の
  儀万さん宅  「儀」 は易の両儀、「万」 は万物
  岩谷さん宅前の東側の山道  「平田さんの山」
  中村勝さん宅の裏、昔牛小屋があった場所 大年社
  中村本家さん宅西側  「丑」 の方位に牛を祀る大年社がくる
が座標「ゼロ」 のピンポイント候補地である。 微妙だ。


奈良県の天香久山
 国立神社 ・・・ 金印の根津日子命
 天岩戸神社
  ↓
下関市有冨のハンドウ山が本当の天香久山である。
漢の国は有冨 字「村畔」 にあった。
円筒埴輪の節は竹生寺縁起の孟宗竹を表す。
前方後円墳は下関市有冨のハンドウ山をデザインしたものである。
(根拠)
有冨 字「中村畔」 からの八卦(乾・坎・艮・震・巽・離・坤・兌) の方位がドンピシャだ。 方位磁石の西偏7°も重要である。




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下関市域 伊勢

2016/10/24 02:02

吉野裕子(民俗学) の説によれば、西は死滅の地
下関市の西端は吉母・室津。 本州西端でもある。 毘沙ノ鼻

下関市域の伊勢神社 天照大神を祭る神社
石原にあった大神宮 場所、祭神とも不明  『村浦明細書』(安政5年)
  ↓
福江八幡宮
  ↓
吉見上にあった滝本神社 逸文 伊勢国 瀧原神宮か
  ↓
吉母 樋の口神社 明治期までは字「安常」 にあった。

垂仁紀 豊耜入姫の「耜」 は福江の鍬先山
「東の美濃」 は吉見の字「美野田」

風土記 伊勢国 逸文 の吉津島は下関市吉母の黒嶋である。
下関市吉母の黒嶋は前方後円墳の形をしている。
黒嶋は久留島とも呼ばれていたので牽島で引島か。

太平洋戦争時、黒嶋には人間魚雷基地があり、線路が敷かれたトンネルが2つ開いていた。 戦後、人間魚雷のトンネルは埋められた。

黒嶋観音  郷土史本 『汀の里』 P9
長門仏法大師新四国第69番札所
奈良時代、行基菩薩が聖武天皇の勅命を受けておとずれ、この地の風光と地形に霊を感じ、自ら十一面観音像を刻みまつられた。
黒嶋は現在陸続きとなっているが、古くは島で、黒嶋普門院観世音縁起によれば「久留島」 とも呼ばれていた。 この島には十一面観音像をまつる観音堂があり、毎年旧暦の6月17日には「十七夜祭」 で大般若経の転読が行われ夕方から多くの人が、無病息災を祈って参拝する。 境内には松尾芭蕉などの句碑24基がある。


地元の学術関係者は吉母の黒嶋に関心を示さないが、東京・京都から来た人は吉母の黒嶋を見たら前方後円墳の形をしていることに驚くはずだ。


吉母の漁業
http://44051510.at.webry.info/201209/article_110.html

吉母上には大仏が置かれた東光坊という寺があった。
廃寺になって大仏は豊浦町厚母郷の安養寺に移された。
この大仏は坂上田村麻呂が関与したとされ、重要文化財、戦前は国宝。

吉母上は宗像の海も見えて、海の見通しがきく場所だ。

【厚母大仏】 凄い力を感じる、山口県下関市郊外にひっそり鎮座する重要文化財
ttp://katsulog.net/150627-atsumo-daibutsu/
厚母大仏
ttp://www.shoai.ne.jp/chugoku-w/furusato.shiseki-atumodaibutu-yamaguchi.html


天照大神、最晩年の伊勢は下関市吉母である。
吉母 字「江良」 山本さん宅 西隣の竹藪は禁忌の場所とされる。

黒嶋先端の先にある岩礁「威勢」 に万葉集228434 の「難波姫島松原嬢子死」 と似た民話がある。 『よしみ史誌』 P711 地下上申 

御崎に「小松ヶ瀬」 がある。 "西" の河辺、久米は御崎か。
万葉集で「小松」 の場所は御崎の海岸である。

御崎が下関市吉母に編入されたのは昭和30年で、それまでは豊浦町室津上に属していた。 御崎は本来の吉母域ではない。 歴史的には「吉母の御崎」 ではなく「室津上の御崎」 である。
室津海岸の松林は「木ノ村」 といわれる。 吉母の御崎地区は古くは室津に属していたので「木の国」「紀伊国」 だ。


瀧、洞窟がある場所は御崎。
風土記 伊勢国 逸文 瀧原神宮は御崎神社か。

文庫書紀C210-1 伊勢阿部堅経 吉母御崎の阿部さん宅

万葉集3233 この芳野の瀧は御崎の淵ヶ谷

万葉集32343235
五十師の原 御崎 字「淵ヶ谷」  カルスト台地
御井 三井さん宅


文庫風土記下-193
逸文 伊勢国 伊勢国号、一説 石城
天日別命、勅を奉り、に入ること、幾百里。 其の邑に神あり、名を伊勢津彦と曰ふ。
伊勢津彦の神は、近く信濃国に住ましむ。
天日別命の封地の国と為し、宅地を大倭耳梨の村に賜ふ。


  又云ふ。 伊勢と云ふは、伊賀の安志(あなし) の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名、伊勢津彦命、又の名、天櫛玉命。 此の神、昔、石もて城を造り、其の地に坐す。 ここに、安倍志彦の神、来集ふ。 勝たずして還り却る。 因りて名を為すなり。


私見
東の伊勢 有冨上、または石原にあった大神宮
信濃 赤田代
大倭の耳梨 蒲生野山田か

内日の赤田代は垢田の人が移住した説がある。

垢田の字「沓」 は靴を履いた人が上陸した場所という。
垢田八幡宮近くの山の上に蓋弓帽の稗田地蔵堂遺跡がある。

蓋弓帽の稗田地蔵堂遺跡の近くに「秦屋敷」 という地名場所があるという。
稗田の小字「畑」(ハタ) は 稗田南町〜山の田の県住 といわれる。

稗田に石炭層があった。
稗田町 町民館 の坂入り口に「稗田のあゆみ」 看板があり、
第5幼稚園 と 旧川中中学校 の場所に石炭層があったと書かれている。
構造船の祭祀土器が出土した要須遺跡は石炭層にあったので墨江か。

鼻ヅラ海岸の黒ア妙見に天御中主尊が祭られていた。

山口県鹿野(かの)町
2003年 徳山市、新南陽市、熊毛町と合併し、新たに周南市となり消滅した。
鹿野町 鹿野下 字「天子」  建御名方神がここに逃げてきて住んだと伝わる。


伊勢 御崎の字「淵ヶ谷」 の海岸、岩の上に弁財天を祭る祠がある。
この場所は出雲でもある。
安倍志彦は御崎の阿部さん宅か。

万葉集で「留西」 (とまりにし) とは御崎か。
西、黄泉、出雲。

天照大神の黄泉である伊勢は五十師の原
黄泉の出雲は五十田狭の小汀


続日本紀から発想  作成日時 : 2011/11/27
不破の道 = 鈴鹿関  吉見 農免道路横の千石岩
美濃と尾張は場所がほとんど同じで吉見温泉センター
美濃の養老の泉  吉見温泉(アルカリ性単純温泉 25.1度)
岐蘇(吉蘇)  吉見峠
信濃  赤田代
5年前の思いつきなので今とは比定地が異なる。 「吉蘇」 は吉見峠だろう。


陰陽五行と幕の色彩
http://sansenshinbunsya.net/index.php?%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C%E3%81%A8%E5%B9%95%E3%81%AE%E8%89%B2%E5%BD%A9
  これは五行思想が伝わると共に世界認識軸に加わった「南北軸」 を表現していたのではないかと筆者は見ています。 五行思想が入ってくるまでの日本には、「南北」 という世界観がなく、「東西」 の区分けがすべてでした。 「東」 は「生命誕生」、「西」 は「死の方位」 で太陽が再生されるまでそこに籠もる「子宮・胎・」 の方位です。 ところが五行思想が日本に入ってくるなり、「南北」 という新しい世界軸が脚光を浴びます。 「南北軸」 は星を神聖化したもので、北には満天の星を司る「太一(たいいつ)」 という神が北極星に座し、向かい合う南には皇帝の祖先の霊をまつる「天廟」 と位置づけられる「南斗六星」 があり、天子の寿命を司るとされていました。 天を支配し、祖霊と寿命を司る北斗と南斗の軸は、当時の人にとっては太陽軸以上の存在になっていくのです。「赤」 は南、「黒」 は北。 現在ではあまり見ない「赤と黒」 の斑幄が宮中の行事などに盛んに使われたのは、その時代の流行だったのではないでしょうか。


下関市川中
 妙見 竹生寺の横にある妙見社
中央 有冨上 牛を祭る大年社、ハンドウ山の登山口、儀万さん宅
 皇帝の祖霊を祭る天廟があり天子の寿命を司る。
石棺に朱が塗ってあった下有冨石棺、方墳の上ヶ原古墳
伊倉の龍王田遺跡
熊野町の古墳

有冨上 大年池堤防の西にある大年社はかつては中村勝(まさる) さん家屋敷の北辺にあったものを家を建てた時に現在地に移動した。
この大年社は牛を祭るので、神武東征時の牛酒である。 文庫書紀@214-5
彦火火出見尊の軍が倭に入った時、倭には牛がいた。


字「大西」  東は誕生、西は死滅。
有冨の字「大西」 は有冨でも古い家々の墓地がある。

伊倉
伊倉の字「大西」 も古墳時代の埋葬地
字「龍王田」 遺跡あり
字「浅山」  風水の朝山か

孟宗竹は江戸中期に中国から伝来したとされる。
竹生寺縁起では、787年(延暦6) に寺を建てた時、この場所に生えていた竹は孟宗竹だったという。


磁針方位は 西偏約 7°
地図で知る真南だけでなく、方位磁石が指す南も重要である。




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長き人、仙(ひじり)  下関市福江

2016/10/23 23:02

下関市福江 長仙古墳
真鋒田高天 雄略紀 文庫書紀B30‐12
有冨のハンドウ山か。

A案
雄略天皇が遊猟をした場所は蒲生野。 参考 万葉集20 題詞
膳臣長野 文庫書紀B30-8  蒲生野の長尾池か
大津馬飼 大津は友田川下流で安岡港
安野 文庫書紀B38-11 安岡の上げ

B案
安岡の野村病院の横を流れる水路は竹内川 石川楯 文庫書紀B28-1
雄略天皇が遊猟をした場所は吉見。 参考 万葉集27
吉野宮は吉見で御馬瀬は 字「尾袋」(馬の尾につける飾り)


葛城一言主
葛城山 葛城一言主は福江の長仙古墳(人丸神社 福江 迫85番地)
近くに1200年前からあったと伝わる役行者像が立つ。 場所は農免道路横 細川ふとん店の前
文庫書紀B34-4 長き人  B34-10 で「長仙」


ゆめゆめ
雄略紀 文庫書記B38-1 努力努力(ゆめゆめ)

皇極紀 4年4月1日 文庫書記C226-10 慎矣慎矣(ゆめゆめ)
鞍作得志 → 鞍作 → 安岡の玄空寺に伝わる仏像に「鞍作鳥作」 がある。
玄空寺の裏山が葛城山か。
福江に字「山王」 があり、農免道路横 流水庵あたり。


文庫書記B36-末行 葛城山の「霊しき
  ↓
防長地下上申 第三巻  P318  安岡村由来
鳥声山
但往古一ノ宮二ノ宮両社之御神、毎年極月七日暮六ツ時より八ツ時迄、十七日之間御巡廻被成、此所ニて鶏鳴候間、御帰り被成たる由、其故鳥声山と申伝候事


防長地下上申 第三巻  P325上
井川と云小池  横の之内安岡境ニ有り
但往古弥左衛門と申者堀申ニ付弥左衛門川と申伝候事


横野の妙光寺前あたりに池があった。
来目水、百済の池津媛 文庫書紀B28-1
仁徳紀 横野堤 文庫書紀A244-10




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大和三山はなかった。

2016/10/22 22:01

奈良県の大和三山は3つとも孤立峰であり、風水の龍脈・龍穴ではない。

文庫書紀B44-3  菟田の墨坂神=大物主神、注七 斎戒
=文庫書紀@236-末行  天の香山の埴土、埴安
  ↓
異説異伝
菟田の墨坂神=大物主神
「斎戒」 の共通字で示される同じ所
を採って「大和三山」 はなかった。

大物主神は三諸山ではなく菟田の墨坂=香山の埴安にいる。
三諸山=三輪山=天香山 である。

「三諸山」 いう表記は山々の連なりを表す。 風水の龍脈である。

住吉の中筒男は赤土命で埴安にいる。
穴門の大田、山田は有冨 大年池の下の田である。

『山口県の地名』 平凡社 日本歴史地名大系 によれば、
延行と有冨に住吉神社の神領があった。


下関市の綾羅木川流域では青山、火の見山、一の宮本町の山は美しい円錐形である。 しかし風水では山々が連なる龍脈の先に気の力があるので、孤立峰は神聖な山ではない。 風水による景観見分から、山々が連なる龍脈があって、その先に龍穴・明堂がある天子南面の場所は有冨上 字「中村畔」 である。


雄略紀 文庫書紀B44
7年の秋7月甲戌の朔丙子に、天皇、少子部連蜾蠃に詔して曰はく、
「朕、三諸岳の神の形を見むと欲す。
或いは云はく、此の山の神をば大物主神と為ふといふ。
或いは云はく、菟田の墨坂神なりといふ。
汝、膂力人に過ぎたり。 自ら行きて捉て来」 とのたまふ。

蜾蠃、答へて曰さく、「試に往りて捉へむ」 とまうす。
乃ち三諸岳に登り、大蛇を捉取へて、天皇に示せ奉る。
天皇、斎戒したまは
其の雷虺虺きて、目精赫赫く。
天皇、畏みたまひて、目を蔽ひて見たまはずして、殿中に却入れたまひぬ。
岳に放たしめたまふ。 仍りて改めて名を賜ひてとす。



大和三山 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E4%B8%89%E5%B1%B1

蜾蠃 = ジガバチ Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%AC%E3%83%90%E3%83%81

虺=マムシ

Google 画像検索 【 虺虺の雷 】

美術史ゼミナール 「中国の青銅器」
ttp://chinaalacarte.web.fc2.com/seidouki-9-3.html


菟田の 「菟」=卯 で五行方位の東。 雷=震 で五行方位の東。
角川ソフィア文庫 新訂古事記 P54
「吾をば倭の青垣のの山の上に斎きまつれ」 とのりたまひき。 こは御諸の山の上にます神なり。
本文 伊都岐 ― 伊都の尾羽張の神
古事記 大年の神の系譜  有冨上 大年池の横にある大年社


膂力人  天手力雄神 文庫書紀@84-12
子部(児部)=天児屋根命。
神八井耳命は小子部連の祖。 小学館 新編日本古典文学全集 注

これは有冨のハンドウ山に伝わる大甕の民話に通じる。
ハンドウ山は住吉神社の神官が来て雨乞いする山だった。


土器の話
下有冨遺跡 2012年度調査 瓦質土器 足鍋
  ↓
ttp://auction.artron.net/paimai-art5030361216/

下有冨遺跡 2012年度調査 青花 皿 「壺中」
  ↓
壺中の天(こちゅうのてん) とは - コトバンク

万葉集989 湯原王打酒 歌一首
焼刀之 加度打放 大夫之 禱豊御酒尓 吾酔尓家里


キトラ古墳
キトラ古墳 - 国営飛鳥歴史公園
ttps://www.asuka-park.go.jp/kitora/

キトラ古墳 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%88%E3%83%A9%E5%8F%A4%E5%A2%B3

キトラ古墳が大きな話題に!天文図や四神の壁画についても紹介します
find-travel.jp/article/28374

キトラ古墳壁画、第一回特別公開に行ってきました | ブックづか
bookzuka.blue/キトラ古墳壁画、第一回特別公開に行ってきまし/

【考古学】キトラ天文図、謎の描き直し ミスか故意か見解分かれる [無断転載禁止]©2ch.net

A案
安倍氏−土御門家−古事記 大土の神−大年の神− 下関市有冨の大年社
安倍御主人(みうし)−牛を祭る有冨上 大年社
というわけで、奈良県明日香村 安部山 に対応する場所は
下関市有冨 大年池の横、屋敷内に大年社がある中村勝(まさる) さん宅か。

B案
キトラ古墳の位置 檜隈の南東
檜隈は有冨の重岡さん宅なので、その南東は遠山運送

「牛」 がつく人名 身狭君勝(舒明即位前紀)
身狭君は身狭村主。 青は五行方位で東
蘇我氏も蘇我日向。 日向は東
陶津耳はパチンコ K-1 横 の甑土器出土地

山背国は生協配送センターあたり。
続日本紀@201-5
丁亥、始めて山背国をして、乳牛戸五十戸を点せしむ。
続日本紀A55-14  補8-30
典薬寮乳長上

乳牛が飼われていた。


県道長安線 有冨のレンタカー屋付近に身狭、蘇我、三輪がいた。
遠山運送裏の畑に馬場があり、蘇我馬子の島宮があった。

キトラ古墳と有冨古墳は形が似る。

日本一の風水の景観が見られる場所は下関市有冨 字「中村畔」であり、
奈良県の明日香村、藤原京は風水になっていない。

奈良県南部は南が高く北が低く、川が南から北に流れているので、
天子南面、四神相応の吉祥の地となる設計配置はできない。

正真正銘の明日香村は奈良県でなく下関市有冨 字「中村畔」 である。
これは景観の風水見分でわかる。




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阿保山 阿毎  「阿」 は有冨墓地の東側の地形

2016/10/20 02:23

山辺の道
有冨古墳−大年池−大迫池−薬師池−竹生観音の参道下
大年池 埴安池
大迫池 石上池
薬師池 藤原の山池か

葛城山=石上山=鳥見山=蓬莱山 ・・・ 葛城一言主は仙人、神仙境
場所 有冨 ハンドウ山の山頂から平たい尾根伝いに20分歩いて登る。

先代旧事本紀 巻第三 饒速日尊の天下り
鳥見の庭山
神仙境は白い所である。
ハンドウ山 乳白色の石英は国の重要文化財に値する。


文庫書紀@236-2
又高尾張邑に、土蜘蛛有り。 其の為人、身短くして手足長し。 侏儒と相類たり。
手足長し ・・・ 長髄彦、七束脛

高尾張邑  有冨上 大迫池の上の尾根
懼坂  ハンドウ山の登山道 



『抱朴子 列仙伝・神仙伝 山海経』 平凡社 中国古典シリーズ
大荒南経  P499下-末から2行目
不死の国あり、の姓、甘木(不死のき) を食う。
  ↓
万葉集1867 保山
春が来れば桜の花が咲く。 有冨の山には山桜が多い特徴がある。

学研 新漢和大字典など大型の漢和辞典で「」 を調べる。
かぎ形になった丘、くま、山や川の曲がって入りこんだ所

青(あを)、阿保(あほ) は字音仮名の表記が異なる。
」 の地形は有冨墓地の東側である。

甘木は花に蜜がある椿か。 椿は日本の特産で中国・朝鮮にはなかった。


隋書俀国伝
倭王の姓は毎、字は多利思比弧、号して阿輩雞弥という
これも「」 は音だけではなく意味(山並みがかぎ状に曲がった所) も表していたと見れる。




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青銅器、鉄器  記紀

2016/10/19 12:25

古墳時代
日本書紀 「剣」 は青銅製だと思う。

神功紀 裂田溝 文庫書紀A142-9
大磐の上に・鏡を置いて、落雷を招いて磐を砕く。

推古紀26年 河辺臣 安芸国 霹靂の木 文庫書紀C132-1
大雨の中にを持って立ち、落雷を呼ぶ記述

七支  Wikipedia
七支刀(しちしとう) は、古代倭王家に仕えた豪族物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市の石上神宮に伝来した剣。 全長74.8cm。
私見
七支刀は「剣」 でなく「刀」 なので鉄製である。 避雷針の形だ。


五行  木、東、青天、霹靂
六十四卦  震


弥生時代
私見 青銅器は雨乞い占で使用ゆえ大型化か。

古事記 鉄
角川ソフィア文庫 新版 古事記 八俣の大蛇
P48-6
足名


仙術=占術、呪術  陰陽道
役君小角 続日本紀@17-8
続日本紀の始まり部分で役君小角がでてくるので、修験道の知識は必要。




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飛鳥は 下関市有冨上 自治会長の中野さん宅あたり

2016/10/14 12:57

記紀・万葉の飛鳥
奈良県の明日香村ではなく下関市の有冨上 字「中村畔」 中野さん宅の周囲。
ここが履中記の遠つ飛鳥である。 ハンドウ山を登って山頂から平たい尾根を進んで行く先に石上、葛城がある。

文庫書紀D226-2
飛鳥浄御原宮 有冨 中村本家さんの家
宮中の御窟院 中村本家さんの便所の横、五輪塔が約20個もあった所。
家を建てた時、この場所から貝塚が出土したと中村さんの家族親類は言う。
「儀万の池」 が本当の飛鳥池か。

引田部の赤猪子 古事記
場所は大年池の山側の用水路で、青い軽トラのおばさんが畑仕事している。
大神=大賀だから、美和河は大賀さんの家前を流れるちょろちょろ用水路。

『ふるさと散歩みち』  川中地区まちづくり協議会 平成7年
P142 小字 こあざ
有冨 ハンドウ山の登山口 字「龍王田」 は「畜犬」(たき) 王田と記されている。
「畜犬」 で一字の合成漢字。 私見では犬は出雲系。 大物主神か。


万葉集1844
寒過 暖来良思 朝烏指 鹿能山尓 霞軽引
「滓」 より有冨の小字「金鋳ヶ谷」 か。
次の1845の末尾の「侶」 は太安万 だ。
「朝烏指」 の表記は朝烏が飛ぶ方向をいうので、
有冨交差点の電柱→ハンドウ山→大迫池横の有冨墓地→竹生山の東ヶ嶽

朝烏が飛ぶルートから春日山は竹生山の東峰〜有冨墓地の東尾根である。
朝烏指 滓鹿能山鳥見山 皇祖天神を祭りたまふ。 文庫書紀@242-8

「皇祖天神」 は何か
A案 有冨上八幡宮(岩谷さん宅の前) の末社である天御中主神社
B案 石原にあった大神宮
ハンドウ山の尾根は有冨と石原の境界である。
皇祖天神を祭る社があった所を推理すれば有冨墓地の東側尾根だ。

万葉集の関西読み 漢字を入れ換えて、ひらがな表記にして文法中心の研究。
万葉集が下関市有冨の歌集なら同時代の続日本紀は有冨の郷土史である。

文庫書紀D154
泊瀬 有冨古墳から少し登った所。 枕詞 隠国
迹驚淵 有冨古墳の横を流れる沢川
迹見駅家 遠山運送の裏、中野さんの畑にあった馬場

雩(あまごひ) の場所はハンドウ山

万葉集990 題詞 跡見 茂岡 重岡さん宅
万葉集988 市原王 有冨の字「市ヶ原」



『川中風土記』 昭和45年
P23
下有富石棺  秋本さん墓地
有富村字市ヶ原にあり、すでに破壊され、石材に朱塗のあとが鮮明に残存しているが、墳墓の全容を知る由もない。 土地の人達について事情を調査してみると、約30年くらい前に発掘され、そのとき曲玉など多くの出土品があったと伝えられている。 石組みもすでに解かれているが、石棺の原位置はほとんど移動していないらしく、専徳寺前の田の一隅にある、雑木林の中に積まれたままになっている。

字「市ヶ原」 にある下有冨石棺は箸墓かもしれない。

『塚の原遺跡』 発掘調査報告書
2003年 P18 下岡地区 石原156番地 L字状石杵 朱の精製


推古天皇 屍 古事記
大野の岡の上は大迫池の横にある有冨墓地
後に推古天皇の屍を移した科長の大陵は有冨古墳

(古墳の前の案内看板から)
有冨古墳  市指定記念物(史跡) 指定年月日 昭和54年8月7日
  綾羅木川を中心として広がる沖積層平野の北側丘陵には多くの遺跡が残っています。 特に綾羅木郷遺跡、梶栗浜遺跡、仁馬山古墳、上ノ山古墳は、本市の主要遺跡として知られています。
  有冨古墳は、この丘陵地の北東に接するハンドウ山のすそに位置し、明治32年(1899) の調査の際、有冨古墳群として5基の円形墳が発見されましたが、現在は2基を残して他は消滅しています。
  横穴式石室を持つ古墳は、墳丘、石室とも旧状をよく保っており、2段築成で墳丘が築かれています。
 玄室は胴張りがほとんどなく、石材は小さいものを使用し、奥壁は1枚の板石を使い鏡石としています。
  直径12メートル、高さ6メートルの規模を持つこの古墳は、6世紀末ごろに築造されたもので、本市でも代表的な円形墳としてその形状をとどめています。
   下関市教育委員会


有冨古墳の場所 下関市石原180‐1 アパート「シャーメゾン石原」 横の竹林の中に白い案内看板が見える。

長安線 (県道247号) は大正12年に開通した道である。 それまで有冨古墳裏の暗くて険しい山道が街道だった。 石原→有冨古墳の裏→有冨 重岡さん宅前 が大正時代までの道だった。 有冨古墳は旧街道沿いにあった点に着目。


持統天皇
万葉集160
燃火物 取而褁而 福路庭 入燈不言八面 智男雲
万葉集161
向南山 陳雲之 青雲之 離去 矣離而

大迫池の横の有冨墓地の上に火葬場があった。 雲が籠る場所だ。
万葉集160161 の場所は有冨墓地だ。
路庭 ・・・ 洞天
  ↓
有冨墓地から登る場所に桃源郷がある。
有冨墓地の東側は山桜の木が多く、春は咲きほこる。

向南山 ・・・ 竹生寺、いや大迫池の上の尾根か
星 ・・・ 妙見 天武天皇
月 ・・・ 竹取物語 月の国のお姫様である持統天皇


石上
万葉集664  大伴宿祢
石上 零十方雨二 将関哉 妹似相武登 言義之鬼尾

像見 ・・・「像」 は徐福祠か老子か。 皇祖天神(文庫書紀@242-8) か。
関 ・・・ 天関
義之 ・・・ 書道の王義之 東晋(呉の領域)
鬼 ・・・ 葛城一言主、斉明紀 住吉の松嶺 空飛ぶ仙人 唐人に似る

場所は大迫池の上の尾根。 大迫池の上を「大迫山」 と呼ぶことにする。
有冨墓地のコンクリート屋根付き小屋の墓(大隅さん墓) の所は「山門開き」 と呼ばれていた。 この「山門開き」 の地点から大迫山に登る道が昔あった。

山口県文書館 地下上申絵図 1263 有冨村地下図 によれば
大谷 (有冨墓地)
ふせぎが谷 (薬師池の上) 
かく石峠 (有冨墓地の東) 
石山 (石原の壁石山) 市宮 天万国万押磐尊 文庫書紀B112-3  
と書かれている。

「かく石峠」 は古事記の天迦久神だろう。
「大谷」 は 逸文 常陸国 大谷 榛


忍壁皇子
「忍壁」 は石原の小字「壁石」 で、砕石場の入口
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E5%A3%81%E7%9A%87%E5%AD%90
万葉集  仙人が住む仙境は岩山である。
194 題詞
235 左注  雷岳は雨乞いのハンドウ山
1682 題詞  仙人形 常之倍尓 山住人
 

太安万侶
たー坊at太安萬侶墓
ttps://www.youtube.com/watch?v=KgB_7Dfr918

奈良市の東部、すごい山奥地の此瀬町に太安万侶墓がある。
『奈良県の地名』 平凡社 日本歴史地名大系 P650上
昭和54年(1979) 1月偶然に発見され、発掘調査された。
被葬者は墓壙以外の所で火葬され、また遺存した骨・歯からやや小太りの壮年男子と推定された。


私見
太安万侶は「太=大」 の名から字「大迫」 の有冨墓地に住んでいた。
稗田阿礼による口承は文字を使わない老荘思想による。


『 山口県地名考 』 高橋文雄 著  昭和53年 
石原 イシハラ
イシハラ、イシワラという地名は県下に約百ヵ所ばかりあり、多くは文字通りらしいが「原」 をラというのは、単に訛りばかりでなく「集落」 を意味するものがあるという。
私見 石 イワレ

伊倉
また別の説に「火神」 のことともいう。
私見
「火」 は陰陽五行の方位で南。
火の山、火の見山の「火」 は五行配当の方位で南。


山水画の世界
有冨墓地の反対側は石原の砕石場である。
仙界は山水画の絵である。 山水画の岩山が砕石場となって無残に崩された。

Google 画像検索 【 山水画 】

山水画 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%B0%B4%E7%94%BB

下関市石原の山は中国の山水画の山である。 山水画は仙人の仙界を描いている。 山水画の山の上に竹取物語の月の都がある。
石原交差点近くの農協駐車場から有冨方面の岩山を見て、その岩山の上に記紀・万葉の天上人、天女たちが住んでいた。 これが明日香の高松塚古墳の壁画である。 高松塚の「高松」 とは、古くは松が生い茂る山だった有冨のハンドウ山のことで、ハンドウ山は雨乞いの雷山だった。

奈良県の古代遺跡に見られる神仙思想は下関市有冨がモデルとなっている。

下関市有冨 字「中村畔」 が倭京なら風水の大吉地なので、
韓国・中国・台湾から風水師を呼んで場所を見分すればよい。
中村本家さんの旧屋敷跡(空地) は倭京の明堂である。


在丘 雄略紀 歌謡
在富村 1610年の検知帳
雄略紀 歌謡 文庫書紀B38-7 在丘
在丘、榛の枝 の場所は有冨墓地の上か。
有冨墓地の上は現在でも猟犬で追いこんでイノシシを射止める猟場である。


寺、山号
竹生寺は「高山」 と号す。
万葉集の高山

専徳寺は「栄山」 と号す。
  ↓
文書


有冨の薬師寺−安岡の玄空寺
山田薬師(薬王寺) 安岡の玄空寺末
続日本紀B439-9
山村王  有冨の山村さん
池上女王  有冨の大年池

安岡の玄空寺に 百済人 鞍作止利 の仏像が伝わる。

Wikipedia によれば、蘇我入鹿の別名が林大臣、鞍作大郎である。
林は福江の字「林」 か、有冨の林さんか。 蘇我山田石川麻呂は蒲生野山田の倉光さんか。

『やすおか史誌』
P689
玄空寺には「太平真君一年」 ― 中国北魏 太武帝440年
と刻まれた青銅仏もある。
西安岡の人が所有する青銅仏に「普通六年」 の刻字あり。
「普通六年」 は中国梁の武帝の時代525年 ― 仏教渡来の10年前


石原の大神宮
石原は古くは有冨村内だった。
『村浦明細書』(安政5年) に「大神宮」という神社が載る。
手元にある古い広辞苑で「大神宮」 の意味は
皇大神宮(内宮) と豊受大神宮(外宮) の総称。 伊勢大神宮

有冨古墳から少し登った所にお稲荷さんがあった。 とても頭が良かったに未亡人が建てた民話がある。 天照大神、神功皇后、陰陽師安倍晴明の母「信太(しのだ)の森、白狐」 を連想させる。


有光文書 重要文化財
図説 日本の歴史 35
『図説 山口県の歴史』  河出書房新社 1998年
P109 正吉郷の中世史 
P113 中世の村世界  偽文書? 「伍位職補任状」

鎌倉後期、永田神社の裏に塩田があった。 山口県教育委員会の渡辺一雄氏(現梅光学院大学 考古学教授) が古式入り浜と命名された。
その絵図は山口県文書館にある国の重要文化財 有光文書である。

P113
永田郷の谷を支配していた鎌倉時代の地頭の名字や名前はわからない。
実際の支配は地頭代(地頭の代理人) だった。
この地頭代が発給した文書に、中世古文書学の常識を破る奇妙な物がある。
伍位職補任状」 と呼ぶべき文書である。
であり、五位などという位は、いうまでもなく天皇のみが与えることができる。 したがって、常識的にはこの文書は偽文書ということになる。
  中世史の専門家にこの文書の活字化されたものか、筆写したものをみせれば、10人中10人が偽文書と答えるはずだ。
ところが、現在山口県文書館に所蔵されているこの文書には、正吉郷入江塩浜絵図とともに有光文書として国指定重要文化財になっている。
偽文書も含めての指定というのもないことはないが、この文書は実物をみると、じつに下手な字であるが、間違いなく鎌倉時代のものであり、紙についても問題ない。 (文 木村忠夫)


私見 有光=有冨 だと思う。 鎌倉時代でも存続していた有冨の天皇家。


有冨の儀万さん
」 の意味を漢和辞典(角川 新字源) で調べると
宇宙のおおもと、天地または陰陽をいう。 「両儀」
  ↓
「儀万」 という珍しい名字は易による。

日本書紀、万葉集では「儀」 の訓みは「すがた」 である。


有冨の人斬り庄屋、儀万の話 
http://44051510.at.webry.info/201510/article_11.html

儀万さん宅の上に中村本家さん旧宅跡と岩谷さん宅がある。
『風水 気の景観地理学』 渡邊欣雄 著 人文書院 1994年
P155-14行 沖縄 与那国島の事例
自分の屋敷の後ろに家が2軒あると自分の家は栄えるという。


譲畔而耕
小字「中村畔」 漢字「畔」
http://44051510.at.webry.info/201605/article_17.html


奈良県の大型遺跡は真の老子ではない。
<kitunoの旅−飛鳥編−> 飛鳥亀型遺跡
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/8674/asuka.html

導水構造の亀形石造物
http://inoues.net/study/kamechan.html
飛鳥・酒船石遺跡
http://inoues.net/ruins/sakahuneisi.html

私見
奈良県の飛鳥池は老子の思想ではない。 似非道教だ。

道教の神仙境
下関市有冨と石原の境界である岩山の長い尾根続き。
ここが種子島 広田遺跡の貝札「山」 の場所である。


邪馬台国の位置
下関市 石原交差点近くの農協駐車場から有冨の山を見て山頂・尾根伝い
にあった。 有冨墓地の東側、春は山桜が咲きほこる尾根の上。

下関市有冨村の庄屋だった儀万という家 名字「儀万」 は易の「儀」 の意味による。 「万」 は万物。
仙人は霞を食って生きる。 霞が立つ場所は有冨墓地の東上である。

有冨のハンドウ山 登山口 の下が「遠つ飛鳥」
ハンドウ山の山頂から尾根を進んで石上神宮があり、
有冨墓地の東上が仙人の葛城山。




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天孫族の村を発見

2016/10/13 00:33

元号
元号とは? 【一覧】で大化〜平成までをチェック
http://idea1616.com/gengo/

日本の国旗(日の丸)、国歌(君が代)、天皇の称号、元号(明治、大正、昭和、平成) の起源、天皇陛下ビデオメッセージ(東日本大地震)、とは(2011.3.21)
http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/167.html

明治、大正・・こんなにあるの?? 『易経』 由来の日本の元号
ttp://eikahounet.com/2016/05/08/gengo_ekikyo/


古墳
古墳入門 古墳めぐりウォーキング - 古墳めぐりウォーキング in 福岡 - FC2
http://kofunmeguriwalking.web.fc2.com/0_nyuumon.html

[PDF] 古墳の整備事例について キトラ古墳の諸要素を持つ古墳を中心として
www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/.../shiryo_4_3.pdf


神仙思想
記紀・万葉、古風土記、邪馬台国などは仙人である。 易経の六十四卦、五行配当を単語カードを作って覚える。 仙術=占術の知識を持たねばならい。

漢和辞典の巻末「付録」「資料集」 を覚える。 図書館でコピーする。


山城国 Wikipedia
 延暦13年11月8日(794年12月4日) の平安京命名の際に、桓武天皇が、山河が襟帯して自然に城をなす形勝から「山城国」 に改称した。

私見
京都市は山城になる地形ではない。 山の背でもない。


倭国  下関市 有冨上 遠山運送・レンタカー屋の裏
山城国  塚の原遺跡(ホームワイド新下関店裏の高層マンションが建つ所)


『倭国伝』 講談社学術文庫
P205
旧唐書 倭国
倭国は、古の倭の奴国也。 京師を去ること1万4千里、新羅の東南、大海の中に在り。
  ↓
Google 地図
新羅の首都だった慶州市の東南は山口県油谷町、美祢市、山口市である。

いろいろ調べて「倭の奴国」 の場所は下関市有冨 字「中村畔」 と判明した。
儀万さんは天万尊、中村本家さんは中皇子の皇裔だろう。

天御中主神社があった場所  山口県風土誌に3か所が載る。
有冨上 山田 ・・・ 場所はハンドウ山の登山口あたりの山地番「山田」 か
垢田 堀 ・・・ 当初は黒崎妙見(海岸の鼻ヅラ) に祀られていた
室津下 若宮神社の場所に素鵝神社があり、相殿 天御中主神社
※明治11年、疫神社を素鵝神社と改称

北九州市小倉北区 御祖神社 みおやじんじゃ
妙見山北西麓に鎮座  ttp://myouken.or.jp/page-139/page-159/
祭神は造化三神  天御中主尊 高皇産霊神 神皇産霊神
和気氏の祖先の神鐸石別命 和気清麻呂
寛政7年(1795) 小倉藩第5代藩主小笠原忠苗が山頂の妙見社に参詣したとき、土中から中国南宋産湖州鏡ほか9面を発掘。
小倉北区富野の須賀神社では足立山を鏡山と言い伝える。
  ↓
【県指定】 足立山頂出土 古鏡 9面
ttps://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/02100194.html
湖州鏡は湖州から始まる銘文から付せられた名称であり、中国南宋で生産されたものである。 1号鏡の銘文から、承安4年(1174) に眼病平癒、延命のために奉納したことがわかっている。

南宋は日本の平家〜鎌倉前半


竺紫
松浦市 志佐 住吉神社が元あった所
  ↓
松浦市 志佐町浦免1038-3
ttp://matsuura-guide.com/matsuura-kanko-bussan-kyokai/

星鹿町 星の神 香香背男
魚固島 淤能碁呂島

松浦市の地名 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%B8%82%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%90%8D


大宝元年
古田武彦の史学では大宝元年(701年) ごろに王朝交替があったという。


『あざむかれた王朝交替 日本建国の謎』
斎藤忠 著 学研 2011年

『 『野馬台詩』 の謎 』 小峯和明 著 岩波書店 2003年



山城国
日本後紀 延暦13年11月8日
講談社学術文庫 『日本後紀』(上) P71-末

集英社 『日本後紀』
本では訓読文にルビがつくし、語の注釈もあるので読みにくい文ではない。
P45-13
此の国山河襟帯して、自然に城を作す。 斯の形勝に因りて、新号を制す可し。 宜しく山背国を改めて山城国と為すべし。 又子来の民、謳歌の輩、異口同辞にして、号して平安京と曰ふ。 又近江国滋賀郡の古津は先帝の旧都なり。 今輦下に接す。 昔の号を追いて大津と改称す可し。


京都市は「山背」 や「山城」 の地形ではない。 奈良県と京都府南部を比較すれば、川の上流で山城に適しているのは奈良県である。

上の文を長門国西部に適用すれば
近江国滋賀郡古津  長門市油谷町(渡)〜日置町(古市) 長門国大津郡 
山城国  長門市俵山〜豊田湖〜下関市豊田町殿敷

油谷町  柿本人麻呂歌の伝承地
豊田湖北岸  安徳帝 陵墓参考地
豊田町殿敷 字「高熊」  須恵器生産地


日本書紀を除く六国史は編纂過程が不明である。
日本後紀、続日本後紀を読むと、歴史的人物の書き方が遠い昔の別の国の人を断定的にぞんざいな扱いで書いた感じである。 正史、歴史書の文体ではなく歴史小説家による酷な人物評である。

下関倭国の史書を使って、それに関西の史実を加えて編集したのが平安時代の日本後紀、続日本後紀だ。




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老子、風水は考古学と対立する。

2016/10/06 23:53

江戸時代まで日本人は陰陽道で生活していた。 陰陽道は修験道も含む。

Wikipedia 「老子」「太上老君」「道教」 を検索して読む。

老子 Wikipedia 
老子の社会階級
老子が描く理想的な 「小国寡民」 国家は、とても牧歌的な社会である。
小國寡民。使有什伯之器而不用;使民重死而不遠徙。 雖有舟輿,無所乘之,雖有甲兵,無所陳之。 使民復結繩而用之,甘其食,美其服,安其居,樂其俗。 鄰國相望,雞犬之聲相聞,民至老死,不相往來 — 道コ經80

老子が言う小国寡民の国。 そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。 船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。 民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、料理も衣服も住居も自給自足で賄い、それを楽しむ社会であるという。 隣の国との関係は、せいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。 このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するようにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭している(9章)。



寡民 ・・・ 人口は少ない
甲冑 ・・・ 山口大学 考古学 田中晋作 の研究あり

「文字を用いず縄の結び目」 の文言は隋書俀国伝の 文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。 に通じる。
俀国の古(いにしえ) の民は無学文盲ではなく老子の教養で暮らしていた。

考古学と風水は対立する。 風水は道教であり老子の思想である。
神仙思想は人工的なものを斥け大自然そのままを尊重する。
仙人の世界では考古学関係者が注目するモノは元から無い。

太上老君の上には絶えず稲妻が光っている ※1 → 万葉集235

万葉集3344
大土 「土」 は五行で「中央」
「火穂跡而」 は反閇(へんぱい)

日本書紀の道臣の「道」 は道教である。
老子の思想は厭世隠遁なので目立つ巨大建造物は造らず、大自然そのままを維持した中で暮らす。
奈良県、大阪府、福岡県の遺跡・古墳は巨大で豪華だから道教・老子ではない。

考古学はサイエンスであるが風水は迷信・呪術である。
考古学は正確な情報であるが風水・五行・易経は古い中国の教養である。
考古学は即物的・俗物的で哲学がない。

風水では川の流れや道はくねくね蛇行していなければならず、直線は殺気であるとして嫌う。 直線基調である都城の条坊制は風水本来のものではない。


北部九州型弥生人、土井ヶ浜弥生人などが中国から渡来した人々だったなら、殷・周から前漢までの中国思想も日本列島に入って来た。

古代史シンポジウムで配布されるレジメ
弥生時代の遺跡図で、東側の川・溝は青龍、南側は朱雀池 に見えるものがある。

遺跡を風水や陰陽五行で解明する。
弥生時代には風水・陰陽五行は日本に伝来していた。
遺跡の東部に川や溝があれば青龍である。

下関市
梶栗浜遺跡は海浜の埋葬遺跡であり多紐細文鏡と細形銅剣が出土している。
「西」 は死滅の方位で五行の「金」 である。
多紐細文鏡、細形銅剣は五行の「金」 を示している。


福岡県大野城市
牛頸 須恵器の生産地
牛頸 − 牛頭天王 − 素戔嗚尊
韓語で「牛頭」 を「ソシモリ」 という。 ※2

下関市形山 福岡県春日市の須玖式土器が出土
角川ソフィア文庫 新版古事記 P37-末行
其の泣く状は、青山を枯山如す泣き枯らし、河海は悉く泣き乾しき。
  ↓
青山は地名で下関市形山。 往古、青山には木が生えてなく、茅と蓬(よもぎ) の山だったという。 陰陽五行で「青」 は東。 有冨上の東。

私見
「天皇」 という称号は「皇帝」 よりも位が上である。 ※3
始皇帝より位が上の者は始皇帝の臣下である徐福ではなく神たる老子である。

老子が晩年に渡った国が邪馬台国だった。
記紀・万葉などの神仙思想は倭の源が老子の渡来とその後裔を示している。

志賀島の金印は偉大なる老子の国に授けたものある。
旧唐書の倭国(古の倭の奴国) は下関にあった。 「新羅の東南」 は新羅の首都 金城(慶州) から東南とすれば、山口県西部の 向津具・秋吉台 あたりか。
美祢市、山口市、防府市はよく調べたが下関市の方が邪馬台国くさい。

魏志倭人伝、隋書俀国伝は老子の国を示している。

老子から不老山(長崎県松浦市の徐福伝説地) が連想される。

万葉歌人の名「老」 は老子の場所にちなむか。
間人老、川上老、小野老、石川老夫、日置少老
奈良県五條市 北宇智駅 こんな山奥地が日本史の舞台であるはずがない。

邪馬台国、隋書の俀国は末盧国、竹斯からだいぶ離れた場所にあることから、
下関市有冨の大年池は万葉集の隠沼と私は判断した。


山口大学 考古学(田中、田畑) とは異なる私見
長門国豊浦郡 (平成合併後の広域下関市) は "老子の国"
をここに発表した。


2014/10/25 応神陵と古市古墳群
ttp://members2.jcom.home.ne.jp/taigaa_kok7/html_history/history_i.html
  ↓
日本列島 原始古代の中央の場所は
考古学の成果によれば ・・・ 大阪府 古市古墳群
私見の風水検分では ・・・ 下関市 有冨上


参照 (出典、ソース)
『現代に息づく 陰陽五行 増補改訂版』 稲田義行 著 日本実業出版社
※1 P100-10行目 
※2 P342-11行目

※3 『日本人なら知っておきたい 陰陽道の知恵』
武光誠 著 河出夢新書 P160 



大秦国
老子 Wikipedia
伝説では、老子は周を去る際、水牛に乗っていたという。

「老子」『列仙伝』 においては大秦国、ローマ帝国へ向かった。

郭沫若は、この関尹とはの稷下の学者の一人である「環淵」が訛ったものという説を述べた。 これに基づけば、環淵の黄老思想が老子の思想体系化に影響を与えたと考えられる。
  ↓
老子は西域ではなく山東半島の斉へ行った。


日本の「大秦」 は
神奈川県秦野市大秦町。 相模、富士山周辺の秦氏伝説
京都市 太秦

隋書俀国伝 秦王国
続日本紀 大秦公

私見
Wikipedia 老子 の 「文字を用いず縄の結び目」 の文言は隋書俀国伝の 文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。 に通じる。
  ↓
大秦国=隋書の俀国 である!
私は隋書俀国伝に老子の言を発見した!!
隋書俀国伝の 文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。 は老子である。

私見は岡田英弘、渡邊義浩の魏志倭人伝論とは異なる。
邪馬台国は老子の国だった。


小国寡民 老子
(私の想像)
生活はいたって古式であり、歴史時代に入ろうとしている時期に何百年も前の弥生時代の暮らし方をあえてしている。 文明の利器である鉄鍬は使用せず木鍬。 横穴式石室は導入せず箱式石棺墓のまま。 王侯でも家は粗末で小さな茅葺き。
  ↓
邪馬台国(倭国、蓬莱島) は "老子の考古学" で発見される。
古式の執着、驚くべき停滞、逆行。 時代の流れから取り残された場所。
贅沢品なし、ショボイ生活。 人口寡。
兵はおらず戦いはなく武器がない。

下関考古 老子流の 「小国寡民」 を実践していることを明らかにする。

下関市の勝谷丸山古墳群は古墳時代後期のものである。 横穴式石室墳だけでなく2基の箱式石棺があり、一部に古式の執着が認められる。


ネットで検索
「小国寡民」 老子
ttp://erikaishikoro.blog.fc2.com/blog-entry-818.html

[DOC] 松塾資料I『黄帝内経』と古代思想(3)黄老思想Ver.2
tokyo89am.or.jp/.../松塾資料I『黄帝内経』と古代思想(3)黄老思想Ver.2.docx
 ※従来、この『素問』 の文章は『老子』 から引用されたと考えられてきたが、『荘子』 から引用されたのかもしれない。
『荘子』外篇の胠篋(きょきょう=つづらを開くの意味)篇にも『老子』第80章と同じ文がある。
福永光司は、『荘子 外篇』(新訂中国古典選 朝日新聞社)で、注記している。


結縄 knotted cord
ttp://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_column_5.html
中国では,周易繋辞下伝,荘子外篇に登場する。倭人の風俗として『隋書倭国伝』(隋書巻 81 東夷伝倭国条)は,「無文字,唯刻木結繩」と記す。(文字無し,唯〻木を刻み繩を結ぶのみ)→ 布目

◆縄を結んで数を表す・結繩…隋書・老子・易経繋辞伝◆
ttp://ikaebitakosuika.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-cb0c.html

【900冊目】『荘子』
ttp://hachiro86.hatenablog.com/entry/20100515/p1

  ↓
反文明の老荘思想
文明=シュメール文明



『ゆがめられた 地球文明の歴史』 栗本慎一郎 著
技術評論社 2012年
P31-9行目
巨大建造物造りと文字使用の合体による文化を基盤とした文明はシュメールに始まる。




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ヤマト王権 「倭の五王」 は呉から来た

2016/09/26 20:20

リチャード・コシミズ_部落と在日
ttps://www.youtube.com/watch?v=rOLSzAsOrHM

『天皇陵の真相』 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 共著
三一新書 1994年
P51、52
住井 私は天皇家は中国系だと思っているんですがね。 飛鳥へ入ると中国系の村がね、完全に中国から渡来した村がありますよ。
飛鳥の人は、だいたい中国系だと思われるのは男でも足にも脛にも毛がないですよ。



『「神武」は呉からやって来た』 竹田昌暉 著 徳間書店 1997年
著者は東京大学医学部卒 虎ノ門病院 初代麻酔科部長を経て開業医

『徐福王国相模』 前田豊 著 彩流社 2010年
P30〜34
富士山麓 山梨県 山中湖 長生村
毎日新聞 昭和49年9月24日 の夕刊記事
「伝奇始皇帝の "金印" 富士山麓で見つけた」
  ↓
1991年、中国徐州博物館の李氏によって呉国 黄巾軍の大将の名と判明。


山梨県 八代町 狐塚古墳 呉の紀年鏡(238年) 出土

『三国志』 で陳寿が書かなかった孫権の外交戦略
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_04_26.htm
  ↓
■ 呉の紀年銘鏡の出土例はもう一面報告されている。
兵庫県宝塚市安倉南二丁目に築かれた古墳時代前期の円墳の安倉高塚(あくらたかつか)古墳から、昭和12年(1937)に赤烏7年の銘がある鏡が見つかっている。 やはり対置式神獣鏡である。 赤烏7年は西暦244年にあたる。


呉の鏡
山梨県 市川三郷町  鳥居原狐塚古墳 赤烏元年銘鏡
兵庫県 宝塚市  安倉高塚古墳 画文帯神獣鏡(赤烏七年)
熊本県 人吉盆地 免田町  才園古墳 鍍金鏡

沖田遺跡  下関市豊北町角島  
縄文時代終わり〜弥生時代初めの拠点集落 夜臼土器、陶塤
遠賀川・宗像地域と交流か。 関東の土器が出土。 


模擬講義 動画公開(文学部) 龍谷大学教授陣の研究を動画で視聴しよう
ttp://www.ryukoku.ac.jp/admission/movie/academic/let.html

龍谷大学 文献史学 生田敦司
「倭の五王と内政・外政」 下関市立考古博物館 講演レジメ 
百済・高句麗は長史(文官)を派遣、倭は司馬(武官
平西、征虜、冠軍、輔國將軍:中国三国時代に同じ将軍号
倭は朝鮮半島の南岸に拠点を築き、竹幕洞祭祀遺跡から黄海を渡っていた。
朝鮮半島海岸部に点在する倭遺跡を観察して、倭は百済を仲介させずに勝手に中国と往来していた。


私見
宋書の「倭の五王」 は呉の孫権が派遣した遠征軍の後裔である。
中国南朝からの冊封を求めている。 これが関西のヤマト王権である。

旧唐書 倭国
貞観2年 (648) 倭国王は新羅の来た使者にことづけて上表文を届けた。
旧唐書は倭国と日本国を分けて編集しており、倭国は新羅に上表文を預けて唐にあいさつした。

下関 邪馬台国  長崎県松浦市から渡海
関西 ヤマト王権 福岡県宗像市から渡海

万葉集865 松浦の
君を待つ松浦の浦の娘子らは常世の国の海人娘子かも
2002年頃、佐賀県浜玉町、七山村を2回訪れて役場の教育委員会から多くの郷土資料をいただいた。 実際に川を見て、この場所は記紀・万葉の松浦、玉島ではないと言える。

最近、『松浦市史』(1975年) を読んだ。 記紀・万葉の松浦は松浦市である。
筑紫(竺紫、竹斯) の場所は松浦市である。


魏志倭人伝、隋書俀国伝 ・・・ 王、家臣、官は倭名
狗奴国の王・官も倭名

宋書倭国伝 ・・・ 王、武官(司馬曹達) は大陸風の一文字名 


後漢書 地 会稽海外に東鯷人あり。

梁書 倭人は呉の太伯の後裔と自称している。

呉書 亶州に住んだ徐福の子孫は会稽に来て商売をした。
 ↓
土井ヶ浜遺跡から出土のシャコ貝製頸飾りは、南中国との密接な交流を物語る貴重な遺物で、国内には類例がない。
(山口県の古代遺跡〔T〕 古代遺跡教材化研究会 P77左)


山口県史だより  第20号 平成15年10月
北浦地方では親が子供を叱る時に 「そんな事をしよるとゴンゴチィーに連れて行かれるよ」 「ゴンゴーが出てきてかぶられるよ」 と言っていた。
北浦地方にある、恐ろしい化け物を連想させる「ゴンゴチィー」 や「ゴンゴー」 とは一体何なのでしょうか。
この地方では蒙古の兵士に由来すると理解されているようです。

※ 「北浦」 とは山口県の山陰沿岸のこと。 山口県の地元言葉

私見 「ゴンゴチィー」 は呉国の遠征軍来襲か。
孫権 Wikipedia
即位の翌年、衛温・諸葛直に1万を与え、夷州と亶州の捜査を行わせた。 夷州から数千人を連行するも、この捜査は失敗に終わり、孫権は、衛温・諸葛直を処刑した。

『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 著 三一書房 1996年
P46 「万の兵が数千人しか帰らなかった」 とも読める。

「ゴンゴチィー」 から山口県の山陰沿岸が夷州か。


昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。
  ↓
記紀には織田信長のような戦国武将だった天皇はいない。

隋書 倭国は百済・新羅の東南にあり。 ・・・ 山口県西部
宋書 倭国は高麗の東南大海の中にあり。 ・・・ 関西

聖徳太子の仏教の師は高句麗の僧 恵慈であり、倭と高句麗は友好的な関係だった。(栗本慎一郎)
この倭は下関にあった倭である。

好太王碑文の倭は関西のヤマト王権である。

下関市と長門市西部には古代官道が通ってない。
この "謎" が邪馬台国の場所である。


『現代に息づく 陰陽五行』 増補改訂版 稲田義行著 日本実業出版社
P54 
孝謙天皇と聖武天皇には「皇帝」 の尊号が贈られた。 中国的だ。
「宝字称徳孝謙皇帝」
「勝宝感神聖武皇帝」

古田武彦史学の会
701年(大宝1) 九州王朝から近畿王朝への易姓革命があったと見る。


古代学協会
http://kodaigaku.org/index.html
研究題目 「近畿地方における初期農耕集落形成をめぐる考古学的研究」 班
に問題提起する私の見解 「倭の五王」 は孫権の遠征軍の後裔
をここに発表した。

弥生時代の開始 ― 徐福集団の渡来定着。 夷州、亶洲
古墳時代の開始 ― 呉国の遠征軍が襲来定着

呉の遠征軍は徐福の夷州、亶州に行った。 徐福東渡と呉の遠征は場所が同じ。

古墳に関して、騎馬民族の渡来よりも中国南朝 呉国遠征軍の襲来を重視する。


関西幕府、下関朝廷
宋から授けられた倭国王の称号は百済よりも位が低い。 倭は文官でなく武官を派遣している点から「幕府」 の観がある。
私見では関西は「王朝」 というより「幕府」 だったのではないか。 「東国の強兵」 は関東ではなく関西だった。

日本書記の「呉」 は関西のヤマト幕府だった。 熊本県宇土にも分国があった。 倭の朝廷は下関にあった。 「朝廷」 という言葉は 崇神紀 60年7月14日 の時から使われている。 文庫書紀@300-12

倭の朝廷が下関市域のどこにあったかは風水で解明する。

蓬莱山
前方後円墳=蓬莱山説  岡本健一
下関市域にある前方後円墳の形をした山、丘陵を探す。


沖ノ島祭祀とは何か
倭国  邪馬台国=下関朝廷
百済(ソウル) と国交があるので朝鮮半島の内陸部も通行できる。

魏志倭人伝によれば壱岐・対馬は倭の領地
渡海  松浦市−壱岐−対馬−狗邪韓国−半島縦断 可

関西のヤマト王権
壱岐・対馬は倭(下関の王朝) の領地なので寄港できない。
渡海  宗像市・福津市−沖ノ島−全羅南道の沿岸に無断でキャンプ

全羅道に前方後円墳がある。
在日は韓国の全羅道の出身者が多い。

現代の韓国内の地域対立が古代にもあった。
倭国(下関の王朝) ・・・ ソウルの百済と国交あり
関西のヤマト王権 ・・・ 全羅道との結びつき




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古代史に関心がある人たちを分類する

2016/09/26 03:50

とりくみ方、ジャンル分け
考古学  地方自治体の遺跡発掘職員 発掘調査報告書
考古学志望の学生
ttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/ach/study_room.html

文献史学の大学教授  専門書・学術書 12,500円+税、学会の論文

作家、歴史愛好家  書店 単行本 2,200円+税、新書・文庫 1,100円+税

床屋談義の人たち 


邪馬台国論争を行うのは「学会」 とは別の作家、歴史愛好家の人たちである。
邪馬台国は1960年代前半に浮上し、1970年代前半に大ブームとなる。
現在論争が始まった昭和40年当時から50余年経つ。
邪馬台国・古代史のブームは1974年、1984年。

『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 著 三一書房 1996年 

私が所有する考古学の邪馬台国本
『邪馬台国と吉野ヶ里』 学生社 1997年
松下孝幸 など 東京新聞 吉野ヶ里取材班 編

『倭人伝の国々』 学生社 2000年
小田富士雄 編者 武末純一・渡辺貞幸 など


作家もプロ研究家であり、歴史愛好家も地道な個人研究をしている。
私見では、
邪馬台国の山師になるには10年以上、毎年5万円以上、計80万円はかかる。

床屋談義はマスコミやネットの情報を得て自説を語るが、自分で身を入れた研究はしていない。 物知り自慢の年寄りが知ってることを言ってるだけ。

文章に読点が多い者は訓み下し文を読んでいる。
話題が系図だけの人、文章に訓み下し文の引用がない者は現代語訳しか読んでない。 岩波、小学館などの訓み下し文を読んでない者は研究者ではない。

漢字は重要である。 厚さ10センチの大型漢和辞典は必需品だ。
漢字の表記を問題にしない現代語訳は使えない。

難しい漢字を手で書いて覚える。 「漢字が書ける」 は教養だ。
本を読んだときに出てきた難読漢字を方眼ノートに書いて覚える。
書いて覚えるために自分に合う筆記具を見つける。

学術書を読んでない者は参照元を記さない。 文はネットの誰かのパクリである。
1000冊の本を読んだと豪語する人がいるが学術書は1年に20冊も読めない。
学術書やルビがふられる漢字が多い本は読むのに3週間かかる。

日本書紀、万葉集、風土記等を研究する大学院の学生は40回くらい読んでいる。 素人の愛好家は4、5回くらいだから桁がちがう。


在野研究のススメvol.20 : 小室直樹
http://www.en-soph.org/archives/43685452.html
在野研究のススメvol.04 : 吉野裕子
http://www.en-soph.org/archives/33524678.html


小学生用ノート  勉強法
『安倍晴明占術大全』 藤巻一保 訳・解説 学研 2000年
この本を今年2月、amazon で中古の程度の良いものを4,000円で買ったが、今は49,800円 〜 となっている。 表紙の紙カバーをはずして文具店で売っている布カバーをつけると古本が華やぐ。

先週からこの本に出てくる用語、難読語を方眼ノートに書きなぐって覚えている。
方眼ノートは小学生が使うもので 7mm、10mm、12mm。

風水、易経、陰陽道、仏教関係の用語、人名は見たことない漢字や変な訓みのオンパレードだ。 本に出てくる用語、難読語を小学生用の方眼ノートに何度も書いて覚える。

用語、術語、人名、神名、地名、件名などを小学生ノートに書いて覚える。
手で語が書けるようになるには5年前後かかりそうだ。


『舛添要一の6ヵ国語勉強法』 舛添要一 著 講談社 1997年
ネットによれば舛添要一は高校時代、全国模試でいつも3番、4番だったという。
陸上の短距離選手(スプリンター) としてインターハイ出場もしている。
氏が「上達への近道」 という勉強法は
昔の新聞折り込み広告チラシは裏に印刷がなかった。 その紙に書いて覚える。
辞書(「現代英和辞典」) をひきまくってボロボロにした。
子供の時からの教科書、テストは捨てずに今も家にあるなど。

人が捨てるような紙でも字を書いて勉強できる。 字が書ける紙を見つけたら鬼と化して紙が真っ黒になるまで書く。 これが舛添式。 紙は真っ黒になるまで字を書いてから捨てる。 コクヨの大学ノートに書くのはダメ。 あくまで広告の裏、または藁半紙。 はさみで切っておくこともある。


私が使っている筆記具
品名 パイロット 「タイムライン」 の各種 7本所有
油性インキ、ゲルインキ(替芯を 0.7 に交換)

ソフト下敷き A4サイズ
紙を押さえる文鎮 20cm 1本 10cm 4本


BGM
時々、YouTubeで昔のジャズ




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重留銅矛は何を語るか  北九州市 文化企画課

2016/09/19 16:25

平成28年 9月17日(土)
重留遺跡出土広形銅矛 国重要文化財指定記念シンポジウム
「重留銅矛は何を語るか 〜邪馬台国の時代in北九州〜」
場所 北九州市立いのちのたび博物館  13:00〜16:30
北九州市市民文化スポーツ局 文化企画課


パネリストの1人
橿原考古学研究所共同研究員/桜井市纏向学研究センター共同研究員
もびっくりの 邪馬台国 九州説の私見を披露する。

重留銅矛を記紀神話と照合させれば
文庫書紀@120-5
乃ち国平けし時に杖けりし広矛を以て、二の神に授りて曰はく、「吾此の矛を以て、卒に功治せること有り。


常陸国風土記 信太の郡
伊川  門司区伊川 白山神社
普都の大神
 ↓
 私見
重留銅矛は布都の御魂であろう。

パネルディスカッション
「銅矛が出土した大型の住居跡は高床式倉庫ではないか」
 ↓
記紀 熊野の高倉下

マンガチックであるが、
重留銅矛は祭祀の埋納用ではなく大魔神の魔剣であり至高の武器だった。


小倉の足立山は畝火山か? ははははッ
JR 門司駅から見れば足立山は雲に覆われている。
城野・曽根側から見れば雲のない快晴だ。

門司駅〜小倉北区富野は日本海式気候
周防灘側の小倉南区は瀬戸内式気候

万葉集 畝火山の表記に「雲」 があるものがある。
13 雲根火雄
1335 雲飛山

「雲飛山」 という表記から高さ500〜700 m の山か。
畝火山の「火」 から関門海峡の烽火の山を連想する。

万葉集1047 飛火賀「山鬼」
この表記もよくわからない。


日向の橘の小戸橿原
旧事@36-3  
先代旧事本紀に「日向の橘の小戸橿原」 とある。
橿原は日向の橘の小戸と同じ場所である。
これもよくわからない。

三諸岳、三輪山
文庫書紀B44-3  菟田の墨坂神=大物主神、注七 斎戒
=文庫書紀@236-末行  天の香山の埴土、埴安
  ↓
異説 菟田の墨坂神=大物主神
「斎戒」 の共通字で示される同じ所
を採用する。

奈良県の三輪山は円錐形の単独峰である。
三諸山という表記は山々の連なりを表し、風水の龍脈がある。
私見では、三輪山は三諸山の一部分なので奈良県の山ではない。


観光
九州説 いのちの旅
井出浦  北九州市小倉南区 平尾台
北九州市の平尾台に素戔嗚尊が住民といっしょに八俣大蛇を弓矢で退治した言い伝えがある。 弓矢で射られた土井ヶ浜遺跡 124号人骨 に通じる。

井手浦 尻振り祭
ttps://www.youtube.com/watch?v=2ZCNy-7Na40

ttp://kitaqare.d.dooo.jp/tens13.htm

ttp://blogs.yahoo.co.jp/merope0310/39858365.html

井出浦の尻振り祭りはよく知られている。 毎年陰暦11月15日、回り持ちの座主が新米を刈って酒を調え正月7日に集まり、藁で作った「八俣の大蛇」 をで射る。 その後、ときの声をあげて大蛇を切り、宴会に移る。 スサノオノミコトが「八俣の大蛇」 を退治したとき、村人も射手に加わったというのが祭りの縁起で「射手裏」 の由来だという
『おもしろ地名 北九州事典 増補総集版』 1997年
P121


礫岩 つぶていわ  平戸島の南部 礫岳 287 m
ttp://www.sairosha.com/yama/tubuteiwa2.htm

逸文 日向国
文庫風土記下432
吐濃峯 日向国 庾(こゆ) 郡
  ↓
平戸島の南部
田(こた) 現 辻町、神船町、大佐志町、無代寺町


王位石  野ア島 小値賀島の東
ttp://blog.goo.ne.jp/kitadake3193masa/e/036f5a29d0d12b771f1ceb1601d7c088

ttp://blog.livedoor.jp/ii_wanco/archives/806397.html




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松浦市  日向 近江

2016/09/19 15:45

景行天皇が九州遠征した時の行宮 伝説地
平戸島の南端 野子町の宮ノ浦
松浦市 志佐川の下流

日向の場所は松浦市の中心街
天孫降臨の高千穂宮は不老山か

星鹿町の地名は星の神 香香背男 文庫書紀@120-9、136-6
星鹿は防人がいた場所と伝えられる。 黒曜石を産する。
元寇の戦いで、御厨半島の星鹿は鷹島に渡る日本軍の拠点だった。

伊都国の一大率は星鹿町の防人だろう。
防人=ア守り (三省堂国語辞典、広辞苑)

画期的な発見!
天津甕星、天香香背男の地は松浦市 星鹿町 である。

鷹島  日本山 (75.4 m)
壱岐→鷹島→松浦市 志佐町 は主要な航路だった。

浦免に住吉宮があるので、浦島太郎は松浦市浦免の人か。

淀姫 御厨の星鹿に沙加羅龍王の干満二珠、龍宮伝説がある。

淀姫神社詳細の項
ttp://yodohimejinja.com/details-of-a-shrine


長崎県内で滋賀県の大津付近と同じ地名がある所
小値賀島
松浦市 柏アは膳ア

小値賀島の笛吹は松浦市笛吹の住民が移り住んだという。
松浦市域は淡海国の地名である。

継体紀 文庫書紀B208-4
是歳、毛野臣、召されて対馬に到りて、疾に逢ひて死ぬ。
送葬るときに、河の尋に、近江に入る。
其の妻歌して曰はく、
枚方ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る


途中、関西まで長いのに山陰沿岸や瀬戸内海の行く記述がない。
近江は朝鮮と一衣帯水の位置にあり、北部九州または山口県沿岸にある。
  ↓
文庫書紀B208-4 の場所は松浦市 志佐川の上流 笛吹である。

万葉集3238
相坂  松浦市 御厨町 相坂免


『松浦市史』 1975年
P50
志佐  贈唹の君 多利 志佐申し言う
御厨  伊勢の御供所即ち厨物を差上げる御厨
調川  租庸調の調の皮

文庫書紀@134-9
伊勢の狭長田の五十鈴の川上 ・・・ 御厨町の竜尾川


淀姫墓郭
ttp://yodohimejinja.com/details-of-a-shrine#bokaku
  ↓
「鉄片は双刃の剣であろう」


P66
宮日のお潮とりの場所に「浮床」 と称する所があった由、潮満ちくれば浮き、干潮時は土地が落ちついていたそうである。 前の住吉神社の地らしく、住吉神社は現在は移転して、西肥バス営業所になっている。
この浮床よりが出土し、辻尾(松浦高校) の所に鉾神として祭った由、後世道祖神となっていた。

  ↓
天孫降臨の「浮渚在平処」 文庫書紀@122-2


P485
高野免は昔は鷹狩をした野、鷹野であった。
万葉集 大伴家持 越中国  鷹狩

魚固島 おごの島  (星鹿町)
魚がたくさん固まっている島だった。
「おのころ島」 ではないかという人もいる。


文献で淤能碁呂島に関する記述は
古事記 仁徳記 吉備の黒日売
歌謡
仁徳天皇が難波の埼に立って眺めると
粟島 淤能碁呂島、檳榔の島も見ゆ

『古代氏文集』 山川出版社
新撰亀相記 P206〜207
415 此の三つの島は艮より坤に連なれり。
  ↓
鷹島の西にある魚固島に合致する。


肥前風土記 海松橿媛  風土記333-7
通説では古代の賀周駅(かすのえき) は唐津市 見借(みるかし) とされる。
私見
肥前風土記 海松橿媛の「海松」 は浅海の岩場の海藻であるが唐津市見借は内陸の山奥地にある。 唐津市見借は「海松橿媛」 の名に適さない。

大屋田子 日下部君等が祖 ・・・ 浦島太郎と同じ



「サイエンス」 を自認する考古学 弥生時代早期の遺跡
佐賀県唐津市 菜畑遺跡
長崎県平戸市 田平町里免 里田原遺跡
に注目する。

九州大学大学院 人文科学研究院 考古学研究室
ttp://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/kennkyusitukatudou.htm
佐賀県 東松浦郡呼子町 大友遺跡
ttp://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/ootomosite.htm

素人流儀の私
地名と民話の観点から松浦市が重要である。




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土井ヶ浜遺跡  124号人骨は英雄か? 術師(シャーマン) か? 

2016/09/19 14:02

『郷土資料事典 長崎県』 人文社 1998年
P124下 日本にもいたアマゾネス(女戦士)
  根獅子の竹久保箱式石棺墓は、弥生文化遺産として知られ、貝輪17個・骨銛2本・須恵式土器1個・人骨4体を出土しているが、なかでも話題をまいたのが女人骨である。
  というのも、頭のてっぺん近くに銅鏃片が射込まれていたからで、銅鏃は、その時代としては最先端をいく武器である。 兵隊たちが使っていたのは主として石鏃ということから、この女性は兵隊同士の戦いではなく、大将同士の射ち合いで命を落としたと思われ、したがって、この女性の軍隊における地位はかなり高かったのではないかと考えられるわけである。
  このことから、戦いに女同士が参加したと考えられるのは早計だが、戦いのシンボルとして、たとえば有名な卑弥呼のような、祭祀的首長であったのではないかということは十分考えられることである。
  また、鏃の突きささったのが胸や背中ではなく、頭のてっぺんであることも奇妙である。 これが何を意味するのかなどと考えながら、頭のなかで古代絵巻を想像するのも楽しい。



山口県 土井ヶ浜人類学ミュージアム
124号人骨は英雄か? 術師(シャーマン) か?
長崎県平戸市 根獅子の人骨と似て、頭に鉄鏃が射込まれている。

私見
記紀神話と照合させれば土井ヶ浜124号人骨は八俣大蛇か。 ミュージアム裏門を流れる川の名は沼川だから古事記 高志国の沼河比売の地か。

「術」 の本
『術の思想』 医・長生・呪・交霊・風水
三浦國雄 編 風響社 2013年


私見
倭人=西北九州型弥生人 説
弥生人 形質人類学による分類
北部九州・山口 ・・・ 中国 山東省の人骨に似る
西北九州 ・・・ 縄文人がそのまま弥生人になった
南九州・南西諸島 ・・・ ベトナム、カンボジアなどのインドシナ系?

北部九州・山口は中国人の顔だち
鹿児島県の南端は侏儒
縄文人は日本独特の人種である。

縄文人の容貌は日本独特である。
中国人が人種的に区別した「倭人」 は縄文人である。
中国の古い文献に登場する「倭」 は縄文系である長崎県の弥生人である。

「倭」 の位置=長崎県
倭は「縄文人がそのまま弥生人になった」 西北九州 弥生人であるため、基本的文化思考は縄文的である。 日ユ同祖論は間違いである。 巨大建造物をこれみよがしに造るシュメール文明に影響されてないため、倭人の遺跡はちょびちょびの物しか出ない。


松野連
”中国が提唱した日本誕生伝説” が『凄まじくダメな雰囲気』 を醸し出している模様。 年代的にも辻褄が合わない
ttp://u1sokuhou.ldblog.jp/archives/50487588.html
  ↓
コメント欄
15. 名無しさん
2016年09月20日 00:58
徐福がやって来たという話は全国にある、と言うだけでその痕跡もなく、史書を読めば誰でもそんな話をでっち上げられる話よりも、松野連が呉王夫差の末裔って話の方が、熊襲にはなまずを祀っていた宗教的共通性があるだけ、信憑性がある。

私見
松野連 ― 民進党 松野頼久 熊本県鹿本郡菊鹿村 (現・山鹿市)
『熊襲は列島を席巻していた』 内倉武久 著 ミネルヴァ書房 2013年
P271〜274

なまず ・・・ 東鯷人



土井ヶ浜弥生人の特徴
土井ヶ浜弥生人は土民との混血がない100%渡来系である。
長崎の「西北九州タイプ」 の弥生人骨が1体出土している。

吉野ヶ里遺跡も在来の人たちと混血してない。 ただし土井ヶ浜と吉野ヶ里では人骨が少し違う。

渡来は男だけでなく女も来て、土民の女との混血はない。

長崎大学 歯学部 真鍋義孝の研究
歯の形態学的特徴から、
北部九州弥生人の歯は黄河流域、朝鮮と類似する。
土井ヶ浜弥生人の歯はモンゴル、バイカルと類似する。
ただし満州民の歯とは異なる。 中国周辺(北部) の集団である。

私見 福岡市金隈の弥生人は漢人。 土井ヶ浜弥生人は鮮卑か。
秦の始皇帝も北方の匈奴、青い目の月氏の系統といわれる。

土井ヶ浜では子供は大事にされていた。熊本大学 木下尚子
しかしの子供の墓が2割程度しかなく高齢の人骨が多い。

私見では、土井ヶ浜遺跡の再葬墓・集骨墓は中国流の風水か。

土井ヶ浜遺跡は土坑墓、配石墓が多く、箱式石棺墓は少ない。
土井ヶ浜遺跡より川棚の中ノ浜遺跡の方がやや古い。中ノ浜遺跡には支石墓があり、箱式石棺が4割。

土井ヶ浜の貝輪は作り方が中国的であり、北部九州のものとは異なる。

土井ヶ浜遺跡の珍品としてシャコ貝製頸飾りがあり、南中国との密接な交流を物語る貴重な遺物で、国内には類例がない。

土井ヶ浜遺跡の東700 m に片瀬遺跡があり、土井ヶ浜遺跡と同時代の水田跡が発見された。 土井ヶ浜の生産域・居住域・墓域が揃った。

参考
日本人と弥生人 松下孝幸 著 祥伝社 平成6年
山口県の古代遺跡〔T〕 集落・墳墓編  古代遺跡教材化研究会 平成7年
土井ヶ浜シンポジウム 「響灘の弥生時代」
わがまち .サイト 〜豊北の遺跡最前線!〜 企画展 展示図録 2007年


持衰説
矢を浴びた英雄は持衰かシャーマン?
http://lunabura.exblog.jp/20387364/

持衰については
文庫風土記下432
逸文 日向国 吐濃峯


土井ヶ浜遺跡 124号人骨の再検討
私見 術師=徐福=八俣大蛇

中国人は食人種である。
渡来して土井ヶ浜に定住した徐福は原住民の若い娘を奪って食人する八俣大蛇だった。 中国人は人食い人種なので土井ヶ浜では子供を食べていた。 聖人孔子も赤ちゃんを食べていた。




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投馬国  熊本県 岱明町

2016/09/15 03:56

伊都国  佐世保市 相浦

投馬国
玉名市 岱明町 野口 字大原 大原箱式石棺群
http://flower-k.at.webry.info/201210/article_57.html

大原箱式石棺群
http://kofunoheya.blog.fc2.com/blog-entry-2811.html


柳川市から筑後川の川上り 10日
浮羽町あるいは夜須町で川舟を降りる。 陸行1か月で、邪馬台国に到着。

吾跡川楊
http://44051510.at.webry.info/201006/article_37.html


角川日本地名大辞典 長崎県
P1133左 松浦市 〔中世〕 宇野御厨
寛治3年(1089) に贄駈士の松永法師という者が、観世音寺領の筑前国上座郡杷岐庄内の畠地子等を贄人源順の先祖相伝の所領であるとして押妨する事件が起きている (東南院文書)。

  ↓
朝倉市ホームページ  杷木神籠石
ttp://www.city.asakura.lg.jp/www/contents/1297731982594/index.html




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徐福の薬草

2016/09/13 19:54

姫路などから竹取翁博物館に訪問者あり 邪馬台国や徐福に関心を示された 2014.4.14
http://blogs.yahoo.co.jp/koiiyk/31302118.html
  ↓
中国の古地図 日本国と倭が別に描かれている!

下関 遺跡
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/nagata_ishimidou.html


記紀によって偽書に追いやられた日本の超古代文書たち
http://lucky2zacky.jugem.jp/?eid=626

日本列島は龍である(その2)
http://lucky2zacky.jugem.jp/?cid=18


徐福が探した薬草は何か
強精剤 「海狗腎」 を手にして家康は天下取りに成功した
http://kenkoubook.seesaa.net/article/389166374.html

ネットで検索せよ。 【 徐福 明日葉 】

東京都八丈島の巻
ttp://touyoko-ensen.com/mini%E2%80%90info/cook/ht-txt/793urasi-2.html
当店のあしたば製品はこちらからどうぞ
ttp://www.asakusa-kagetudo.com/modules/pico/index.php?content_id=9

明日葉(あしたば) は東京都 八丈島の原産である。
文献では唐人が値嘉島に来て香薬を採集していた記述がある。

『長崎県の地名』 日本歴史地名大系 平凡社
値嘉島 
P677中 左端
唐人らはまずこの島に寄って香薬を多く採集し、海浜に多くみられる奇石を鍛練して銀を得たり、磨いて玉に似せるために唐人がその石を好んで取りに来ていたらしい (「三代実録」 貞観18年3月9日条)
  ↓
 私見
論衡など 倭人、鬯艸を貢す。 ※暢草とも記される。

徐福が薬草を得た場所は
平戸島の南部、宇久島、小値賀島、五島、佐世保市 相浦 であろう。


福草、三枝 さきくさ
福草部
文庫書紀B130-7 補注15-8 P368下
サキクサが何を指すか諸説(山百合・朱草・葛草・薺苨等) あって不明。

文庫書紀D193上 注20

万葉集9041895 三枝(さきくさ)

萬葉集索引 新 日本古典文学大系 別巻  岩波書店
枕詞索引 P516左 「さきくさの」

『万葉植物文化誌』 木下武司 著  帝京大学 薬学部教授
三枝はイカリソウであるとする。


私見
福草、山百合 説
山百合といえば、古事記の 
七媛女 高佐士野 伊須気余理比売 大久米命 黥ける利 佐韋
の箇所と繋がる。

ここにその伊須気余理比売の命の家は、狭井河の上にあり。 天皇、その伊須気余理比売のもとに幸行でまして、一宿御寝したまひき。
  ↓
雄略紀の童女君と似る出来事である。  文庫書紀B24-末行
登場人物の名に「目」 がつく。
春日和珥臣深
物部大連


学研 新漢和大字典 (普及版) 2013年
 ゴン
八卦、六十四卦の一つ。
うしとら、東北
解字 会字
「目+ヒ(小刀、ナイフ)」 で目のまわりにいつまでもとれない入れ墨をすること


水野杏紀 著
『東アジアの宇宙論 易、風水、暦、養生、処世』  講談社選書メチエ
によれば、「艮」 が表すものは
止、山、少男、狗、手、立春、八、
東北 万物の終りの成す所にして始めを成す所、循環の境界域

日本の古代史を徐福で解明するなら、徐福は方士だったので陰陽五行・風水を勉強しておく。


ユダヤ王国、ユリの花のコイン
http://www.parisii.jp/diary-detail/53


お薦めの本
ユダヤ、シュメール、騎馬民族に関する本
栗本慎一郎 著
『ゆがめられた地球文明の歴史』
『栗本慎一郎の全世界史』

徐福に関する本
いき一郎 著 『徐福集団渡来と古代日本』


雲に飛ぶ仙薬
万葉集847848
山の高い所、雲がかかる場所で得られる物か
雲飛山 訓み うねびやま のことか

竹取物語の考察 5
http://44051510.at.webry.info/201602/article_6.html




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古代史シンポジウム IN しものせき 2016

2016/09/11 01:57

武末純一  福岡大学
縄文人は基本的に溝を掘らないが、弥生人は盛んに溝を掘って自然と人間を区別する ・・・

私見
下関の遺跡に縄文時代の溝がある。
潮待貝塚 縄文中期〜後期
秋根遺跡の大溝(東西方向) 縄文〜弥生 場所 勝山支所

秋根遺跡の大溝は風水の朱雀であろう。
明堂 秋根遺跡
主山・玄武 石原の山か
艮(方位で東北) 青山
白虎 秋根神社の小丘
青龍 勝山中学の山
朱雀 秋根遺跡の大溝、砂子多川
案山 一の宮住吉の山


『勝山あれこれ』 郷土史本
P14
北田(きたんだ) の泉
秋根の北田という所に大旱魃でも涸れない泉があった。


M田竜彦  鳥取県埋蔵文化財センター
鳥取市 本高弓ノ木遺跡(4区)
有富川の西岸では、鳥取平野でも比較的早い時期に水稲耕作が開始されていると考えられる。

私見
「有富」 という地名 「ある」 の意味 
文庫書紀B131 注1
荒樔(あらす) は、産(あ)るの他動詞。 神の誕生の意


根獅子  平戸
【長崎】弥生時代の女性とみられる人骨見つかる…平戸・根獅子遺跡に「配石墓」
http://blog.livedoor.jp/waruneko00326-002/archives/48161731.html
【長崎】弥生時代の女性とみられる人骨見つかる…平戸・根獅子遺跡に「配石墓」
ameblo.jp/f4fhgww8/entry-12184038507.html

日本の人骨発見史3.根獅子遺跡(弥生時代):頭部に傷のある女性人骨
http://blog.goo.ne.jp/garfsn1958/e/975fd9d1a50fca280e90ee1b22a0594f

平戸島南部の原始古代
http://44051510.at.webry.info/201102/article_85.html
平湖島  平壺島
http://44051510.at.webry.info/201102/article_84.html




『豊浦町史』  昭和54年12月
P61-11行目  田島遺跡の発掘
完全に破壊された粘土ばかりのピットから米とが検出された。 土器に収蔵されていたと思うが破壊がひどく、その状況から明らかにすることができなかった。 破壊されたピット群の底部から得られた土器は弥生時代前期末か、せいぜい中期とみられる。 花崗岩が風化した層でできている田島台地には麦作が弥生前期末には行われていた。 稲作は周囲の無田の低湿地で行なわれていたとみるよりほかなかろう、といわれている。


『山口県地名考』(高橋文雄) 昭和53年
P128
佐波郡徳地町の「小古祖」 の記述で、「コソ」 は呉国王城の名か、とある。
麦の古語という説もある。

下関市吉永に小字「小祖」 がある。


弥生時代早期
私見
弥生時代の開始年代は徐福の渡来からである。 B.C.219 〜
下関市武久浜 半両銭が出土

「長門 赤関 徐福祠」 と書かれた中国の古地図がある。

『地図は語る モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮紀子 著
日本経済新聞出版社  2007年 2800円+税

口絵7 右端  徐福祠 長門 赤関  「広輪疆理図」
口絵8 右端  迎江 徐福相 長門  「東南海夷図・西南海夷図」
P69 図  「声教広被図」

P2
京都駅のすぐそば、龍谷大学大宮校の附属図書館に、二十世紀初頭より世界中の注目をあつめてきた一枚の地図が収蔵されている。 題して「混一疆理歴代国都之図」。

龍谷大学 日本史学専攻
ttp://www.let.ryukoku.ac.jp/faculty_info/country.html




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東夷 − 暘谷 音楽 皮服

2016/09/05 02:02

神武天皇は実在した
文庫書紀B202-4  継体紀
文庫書紀D102-12  天武紀

壬申の乱で「神日本磐余彦天皇の陵」 が出てくる。


膏腴
隋書俀国伝 土地は膏腴にして

文庫書紀B202-12 土地膏腴えて
文庫書紀B216-6 膏腴えたる雌雉田

常陸国風土記 総記 風土記357-4 物産の膏腴くになり


東夷
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku8/izenwa1.html

暘谷 ・・・ 隋書俀国伝 「日出ずる処の天子」
燕 ・・・ 土井ヶ浜弥生人か

暘谷を「東の果てにあって朝日が昇る地」 と見て、茨城県の鹿島神宮に比定する人もいる。
暘谷について書かれた本としては、
『「日本」 国はいつできたか 改訂版』 大和岩雄 著 大和書房  P87

蓋国
@考 土井ヶ浜の小字「釡蓋」(往古は「亀蓋」)
A考 蓋井島

東夷の音楽 弥生の土笛(陶塤)


[PDF] 資料
xufu.sakura.ne.jp/2015-7ronbun-maeda.pdf  の P8
志賀島出土の金印に根津日子命

陸国風土記 総記 風土記357-5 古の人、世の国と云へるは

万葉集で「常」 の字
 
3236 

1682 之倍尓 夏冬往哉  扇不放 山住人
  ↓
『尚書』 の 島夷、皮服す。

下関市豊田町の矢田遺跡(弥生前期 B.C.150年頃) から鞣(なめし)革用石器が出土している。
下関市 豊田町矢田は弥生前期では革の大産地だった。


本を購入
『倭人伝を徹底して読む』 古田武彦 著 ミネルヴァ書房
『邪馬一国への道票』 古田武彦 著 ミネルヴァ書房


長崎県か
古之  平戸島の南部
根獅子は慶長国絵図では禰子古村

古田(こた) 現 辻町、神船町、大佐志町、無代寺町
  ↓
万葉集の「古之」 こしの国

山海経 海外東経 の最初、長差丘は平戸島 南西部の佐志・志々伎か。
野子町の西側、高島の海岸で瑪瑙が拾える。
長差丘は佐世保だろうか。


越中国  佐世保市 相浦川
万葉集3881 大野路
この場所は佐世保市 大野町である。
松原町の淀姫神社(祭神 豊玉姫命) のヤモード神事は山人、山の神

万葉集3884 皮服 
        ↓
『尚書』 島夷、皮服す。

佐世保市 下本山町の四反田遺跡、門前遺跡は拠点集落だった。
万葉集の越中国は佐世保市相浦川流域である。

佐世保市の箱式石棺は下関市、宗像市と同じ。
長崎市、大村市の箱式石棺は短い。

台与が献上した大量の真珠は佐世保市 宮津町、大村湾、値賀島、五島の産であろう。


日向 高千穂
万葉集38813884 の「越中国歌四首」 は竺紫日向高千穂を想起させる。
佐世保市の箱式石棺墓は下関市、宗像市と形が同じ。

竺紫日向高千穂宮は佐世保市の相浦と考えられる。
大潟の高岳 ・・・ 竹嶋
高島町の宮ノ本遺跡 ・・・ 山幸彦が訪れた海神(豊玉彦) の宮
  ↓
北海道 有珠モシリ遺跡の貝輪

佐世保市 大潟 では水銀山があり、小字「水ノ浦」 は水江浦島子か。
平戸島の南端、小田町の船越に海亀信仰がある。

佐世保市には洞窟遺跡が25か所もある。

魏志倭人伝の伊都国は佐世保市 相浦川下流か。


(参照したサイト)
原始時代の佐世保人
http://www.lifesasebo.com/99view/supesyaru/special/142/special142.html
佐世保 高島 宮の本遺跡: 仮称リアス式
http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-f1a0.html

長崎県の遺跡大辞典
四反田遺跡
ttp://www.pref.nagasaki.jp/jiten/index.php/view/30

門前遺跡(もんぜんいせき) 佐世保市愛宕町・中里町
ttp://www.pref.nagasaki.jp/jiten/index.php/view/35

宮の本遺跡
ttp://www.pref.nagasaki.jp/jiten/index.php/view/29


相浦水銀
佐世保市 大潟町 相ノ浦水銀山についての記録は江戸時代 弘化3年(1846) からであり、それ以前の記録、言い伝えは佐世保にはない。

松浦市の不老山に徐福伝説があり相浦水銀の言い伝えがある。

松浦市 不老山の解説看板 より
紀元前3世紀 中国の秦の始皇帝の命を受け、徐福が不老不死の薬を求めて、この山に登ったという伝説があります。 しばらくここにとどまり不老不死の薬を探したことから、この山を不老山と言うようになりました。
日本ではただ1カ所 佐世保相浦白玉山で産出した自然水銀をもとに、この地で仙丹(不老不死の薬) を作ることに成功したので、それを中国に送り王侯・貴族の人々に珍重されたと言うことです。
はじめ、欽明天皇24年(563) 山頂に不老権現を祀りその後、大宝2年(702) 徐福の教えを修得した「役小角」(えんのおつの) が徐福をあとを慕って不老山に来ました。 山頂でシメを張り 紫燈護摩の法を修し、熊野権現を祀りました。 その時の座前石( 1 m ) と思われる石が伝わっています。
現在、里免にある寿昌寺は、はじめここに創建されたようです。

松浦市・松浦市教育委員会・松浦市観光協会


松浦市
今福町「中ノ瀬」 に渡来系の住居跡か

星鹿町 星の神 香香背男 文庫書紀@120-9、136-6
龍尾川という川の名は興味深い。 草薙剣は八岐大蛇の尾から出た。

松浦市の民話・伝説
http://44051510.at.webry.info/201102/article_38.html

鷹島  日本山 (75.4 m)




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隋書倭国伝  占筮、元日の射戯、双六

2016/08/26 17:13

隋書倭国伝
卜筮を知り、もっとも巫覡に信ず。
正月1日に至るごとに、必ず射戯・飲酒す。
その余の節はほぼ華と同じ。
棊博・握槊・樗蒲の戯を好む。


倭人は卜を知っているが巫覡をより好む。
卜は獣骨・鹿角・亀甲を火であぶる占い、筮は筮竹を使う占いである。
倭人には周易、漢易、易経の知識があった。

正月の弓行事 日本書紀
  文庫書紀C290-8 孝徳 大化3年 正月15日
  文庫書紀D120-9 天武 下 4年 正月17日

他に弓矢を使う行事として、奈良・平安時代、大晦日に方相氏の追儺があった。

隋書倭国伝の射戯は正月1日、つまり元日の行事である。

倭人の「節」行事はほぼ中国と同じとあるから中国暦が倭国に定着していた。


文庫書紀D258-7 持統3年12月8日 双六の禁止
注には「双六はから渡来した遊戯」 とあるが、
隋書倭国伝に「握槊」 があるので唐以前の隋の時代に倭国に双六があった。


長崎県松浦市 百手講(ももてこう) 1月8日
ttp://www.city-matsuura.jp/www/contents/1317081826214/index.html


公伝
文庫書紀B180-1 継体紀 7年6月 513年
百済 五経博士 段楊爾

文庫書紀B304-7 欽明紀 14年6月 553年
百済に使いを出して
「医博士、易博士、暦博士を交代勤務させよ。
卜書、暦本、薬物を送れ。」

文庫書紀B312-7 欽明紀 15年2月 554年
百済 暦博士 固徳王保孫




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熊本大学 考古学

2016/08/04 19:12

熊本大学 考古学 杉井 健
対中国・朝鮮半島との交渉 中心的な港

前期前半 博多湾沿岸

前期後半〜中期前葉 津屋崎・宗像地域のテコ入れ、沖ノ島祭祀を主導
博多湾沿岸の地位低下は「寒冷化による砂丘形勢」 が原因とみる。


反論
原始古代の船は砂浜から船出していた。

『津屋崎町史 通史編』  平成11年
P227-末から3行目
古代における港湾施設は、現在のように岩礁性のところが好まれるのではなく、竜骨をもたない平底の船の時代は砂地の傾斜のゆるやかなところが適地であった。 砂地に直接船をのりあげ停泊し、干満の差を利用して出港するという手段がとられたものと考えられる。

原始古代の船は平底だったので砂浜に港があった。
博多湾沿岸に神功皇后が侵攻した新羅があった。
文庫書紀A170-4 早羅城は早良区

2015年5月
福岡県春日市 須玖タカウタ遺跡 多紐鏡の鋳型が出土

沖ノ島祭祀と関係する港湾遺跡は津屋崎の在自にある。

福岡市西区 宮浦の唐泊
こんな所が万葉集の場所であるはずがない。




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常陸国筑波山麓 安倍晴明の生誕地

2016/08/04 19:11

原始古代の中央政権は下関市有冨 字「中村畔」 にあった。
記紀・万葉の中心地は有冨の大年溜池、ハンドウ山の登り口あたりである。

吉備真備  Wikipedia 
母:楊貴氏、又は、倭海直男足の娘・髪長支姫
  ↓
向津具の楊貴妃伝説、あるいは綾羅木の小字「柳」

また、吉備真備は、陰陽道の聖典『金烏玉兎集』 を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。 金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」 を表す。 安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』 は晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。 伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた。 このときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』 を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』 であるという。

金烏 神武東征の金鵄
玉兎 兎=卯 で方位の東か


陰陽道の祖 吉備真備
ttp://ameblo.jp/yippee-happy/entry-12186695511.html

安倍晴明 生誕の地
ttp://blogs.yahoo.co.jp/srx_kitakan/5756290.html

明野町(あけのまち)  茨城県真壁郡 現 筑西市
こんな所に「安倍晴明 生誕の地」 があるはずがない。

常陸国風土記の筑波山は下関市有冨 竹生寺 である。
明野=万葉集の阿騎野 有冨 林さん宅の東側
島 「猫」=根 で「子」 は方位で北。 「子」 は「水」 の性質をもつ。
竹生寺の横にある妙見社から真南 大年池の西側、中村勝さん宅
(「ウオッちず」 を見る)


有冨 大年社
阿倍御主人 あべのみうし 「牛」 を祀る大年社がある中村勝さん宅
  ↓
地勢の風水検分で判定できる。

雄略紀 文庫書紀B32-5
阿閉臣国見、更の名は、磯特牛
神武東征の国見丘は有冨上の中村勝さん宅で、地勢は丘状だ。

天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも
この歌は有冨の大年溜池の横、中村勝さん宅からハンドウ山の上に出た月を詠んだものであろう。

2016年8月18日(木) 快晴 満月
19時07分 長府方向より、月の出
20時07分 場所 有冨 中野利通・中村勝さん宅の北側、道路
        石原の小原山の頂から満月が出る。

百人一首 安倍仲麻呂の歌
「天の原」 を地名とみる。

2016年8月20日(土) 快晴
21時15分 場所 川中公民館の南隣、小西循環器・内科医院の信号機
        火の見山の頂に月が出る。

百人一首 安倍仲麻呂の歌
出航時の歌。 安倍氏の家系は陰陽師。
「三笠山」 という名は円錐形だから伊倉の火の見山に注目
火の見山の西方向に構造船の祭祀土器が出土した要須遺跡がある。


文庫書紀@214-5 神武東征
已にして、弟猾大きに酒を設けて、皇師にす。
牛 ・・・ 有冨 大年池の西側 中村勝さん宅にある大年社は牛を祀る。
饗 ・・・ 「アヘ」 の音より阿閉臣

「猾」(うかし) の音は「穿」(うが) つ に通じる。 → 「穴」

顕宗紀3年 文庫書紀B128-12
阿閉臣事代 神託を解する者として陰陽師に通じる

兄猾 ・・・ 戊 (土の兄)
弟猾 ・・・ 己 (土の弟)

古事記 大年神の系譜
の神 「土」 の方位は中央
万葉集3344 大土  防人の妻の歌 → 阿閉臣事代の任那派遣 

御門家は安倍氏

五行の「土」



甘 ・・・ 可美真手命
中央

孝元天皇 大日本根子彦国 「牽」=牽



万葉集
3838
3839
安倍朝臣子祖父は
歌の牛から有冨の大年社付近に住んでいた。




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風水 陰陽道 易学

2016/07/31 07:51

ネットのサイト
古事記と易学
http://www.maroon.dti.ne.jp/uqmk/k_e/

中国の神話や文化を知っている人に合わせた書き方をしている、「日本書紀」
と中国神話の類似点とは
http://oryouridaisuki.at.webry.info/201608/article_11.html

現代風水ニュース
http://blog.gendaifusui.com

易占日々研鑽日誌
http://blog.livedoor.jp/shinji0436-anzenman/archives/327854.html

易占い?
http://blogs.yahoo.co.jp/omatsu123/37605336.html
人物・諸本講座 第一回 今東光 『今氏易學史』
http://blog.livedoor.jp/schlegeliia/archives/2065787.html

旧暦の仕組み
http://homepage2.nifty.com/o-tajima/rekidaso/calendar.htm
旧暦カレンダー Japanese Lunar Calendar
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoss/tuki/kyureki3.html


購入物 amazon
井上製作所 方位分度器
島川建築計画室 透明方位盤 (A4サイズ) ver.2
ウチダ 全円分度器 12センチ、15センチ

羅経盤(香港製) 9.5センチ、12層
筮竹 39センチ

コンパスグラス ・・・ アウトドアの必需品
ttp://compassglass.net/

『理科年表』 2016年版 国立天文台 編
『天文年鑑』 2016年版 誠文堂新光社



ネットで以下の本を新品・中古で購入した。

『日本人なら知っておきたい 陰陽道の知恵』 武光誠 著 KAWADE 夢新書
『現代に息づく 陰陽五行 増補改訂版』 稲田義行 著 日本実業出版社
『陰陽道の発見』 山下克明 著 NHKブックス
『日本陰陽道史話』 村山修一 著 平凡社ライブラリー
『陰陽道』 鈴木一馨 著 講談社選書メチエ
『陰陽道とは何か』 戸矢学 著 PHP新書
『図解 陰陽師』 高平鳴海 著 新紀元社
『陰陽道の本』 学研のムック本 1993年

『五行大義』 上・下 中村璋八 著 明治書院

『安倍能晴占術大全』 藤巻一保 著 学研
『陰陽師列伝』 志村有弘 著 学研
『図説 日本呪術全書』 豊島泰国 著 原書房

『日本史を学ぶための<古代の暦>入門』 細井浩志 著 吉川弘文館

『易経』 三浦國雄 著 角川ソフィア文庫
『増訂 易経』 三浦國雄 著 東洋書院
『易の話』 金谷治 著 講談社学術文庫
『易』 本田濟 著 朝日選書
『易占大全』 盧恆立・山道帰一・島内大乾 著 河出書房新社
『自分で答えをだしたい人の はじめての易占』 古藤友子 著 青土社

『実践 四柱推命』 盧恆立・山道帰一・島内大乾 著 太玄社 
『四柱推命大鑑』 御堂龍児 著 国書刊行会

『高島易断本暦』 平成28年版
『時を読む! 財と投資の「干支学」 森田真守 知道出版

『道教の歴史』 横手裕 著 山川出版社
『道教の世界』 菊地章太 著 講談社選書メチエ
『日本の道教遺跡を歩く』 福永光司・千田稔・高橋徹 著 朝日新聞出版

『道教の本』 学研のムック本 1992年
『桃源郷』 川合康三 著 講談社選書メチエ
『崑崙山への昇仙』 曽布川寛 著 中公新書
『不老不死という欲望』 三浦國雄 著 人文書院
『中国神話』 中島みどり 訳注 東洋文庫 平凡社

『 「老子」 を読む 』 楠山春樹 著 PHP文庫
『老子』 蜂屋邦夫 訳注 岩波文庫 青
『老子の読み方』 谷沢永一・渡部昇一 共著 PHP

『マンガ 老荘の思想』 蔡志忠・和田武司・野末陳平 講談社+α文庫
『老子・列子』 奥平卓+大村益夫 訳 徳間文庫
『荘氏』 岸陽子 訳 徳間文庫

『仙境往来』 田中文雄 著 春秋社
『道法変遷』 山田利明 著 春秋社
『老子神化』 菊池章太 著 春秋社
『飛翔天界』 浅野春二 著 春秋社
『神仙幻想』 土屋昌明 著 春秋社

『中国思想を学ぶ』 森三樹三郎 編 世界思想社

『抱朴子 列仙伝 神仙伝 山海経』 平凡社 1973年 1987年 第12刷
『淮南子の思想』 金谷治 著 講談社学術文庫

『龍の住むランドスケープ』 中野美代子 著 福武書店
『ひょうたん漫遊録』 中野美代子 著 朝日選書
『仙界とポルノグラフィー』 中野美代子著 青土社
『中国の青い鳥』 中野美代子著 平凡社ライブラリー

『儒教・仏教・道教』 菊地章太 著 講談社選書メチエ
『儒教と中国』 渡邊義浩 著 講談社選書メチエ

『日本古代呪術』 吉野裕子 著 講談社学術文庫
吉野裕子全集 全12巻 人文書院


私見
倭人の教養は陰陽五行、中国思想(三浦國雄、中野美代子) だった。

原始古代の中国思想、旧暦、陰陽論、干支方位占い等は江戸時代まで民衆レベルでの学・教養だった。 これに精通しておかなければ昔の人が書いたものは読めない。

場所の地勢・景観・山の形は風水で見る。
風水は特殊な知識なので風水の本を買って習得する。

呪術迷信の類いを猛勉強したい。




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古代史 風水・五行

2016/07/08 10:03

陰宅風水
万葉集
160
燃火物 取而裹而 福路庭 入燈不言八面 智男雲
福路庭 ・・・ 洞天
八面 ・・・ 大八字・小八字、八角形

161
向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而
向南山 ・・・ 主山、父母山


amazon で検索 【 周易八面体サイコロ 】

数の神秘 「八」
ttp://samukawajinjya.jp/houi/houi07.html


陽宅風水
岩波文庫 『古語拾遺』
P32 造殿の斎部
P74上 天御量 ・・・ 風水尺(魯班尺・門公尺)

古語拾遺は陰陽道の書であり、天富命は下関市有冨の山に住む。
杣山から木材の伐り出し、棟上げなどは風水・陰陽道で日程を決める。
造殿は風水の魯班尺を用いる。


五行  垂仁記の戸、上の王
垂仁記 本牟智和気の御子 ・・・ 有冨の字「中村畔」 の人

鷺巣池は儀万池か。 儀万池からの方位は、
南 火の山展望台  「火」 の方位は真南
「未」 の方位は火ノ見山の西側 字「龍王田」(遺跡)、字「浅山」(朝山か)
「丑」 の方位に大年池横の大歳社(牛を祀る)

国土地理院 25.000分の1 地形図 磁針方位は西偏約7 °

那良戸 有冨の字「金鋳ヶ谷」 の遠山運送→吉本さん家→白銀荘
大坂戸 岩谷新宅の前の道 上ヶ原古墳・下有冨古墳(秋本さん墓地)
戸 「木」 の方位は東北東、東。 石原へ下がる。 季節は春(旧暦1月、2月)

上王の 「菟」=卯 と見て、卯の方位は東

曙立の王は陰陽五行の方士である。 曙立の王は超能力で木に留まった鳥を落とす仙人である。 夏至の日の出は有冨のハンドウ山 と 石原の小原山の間の鞍部から昇るので、ここの鞍部の住人か。

有冨自治会 道作り 2組
植松古墳→上ヶ原古墳→下有冨古墳 は風水の道作りなので湾曲する。
箸墓は下有冨古墳か。

肥長比売は蛇に化けた。
蛇は十二の方位で南南東だから門司区の伊川が出雲になるか。
伊川・猿喰の縄文土壙墓(黄泉の穴)、白山神社、企救(菊理姫) 

小学館 風土記 新編日本古典文学全集
常陸国風土記
P365-8行目 普都大神 伊川

本牟智和気の御子
下関市有冨 字「中村畔」 の倭から門司区伊川にあった出雲へ行った。
船を担いで逃げ帰った峠道は長府の逢坂である。




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綾羅木郷台地遺跡 (木舩地区)

2016/07/03 08:26

発掘調査 了元寺の場所 古墳時代 
土師器の甑(こしき) は雄略記 春日の袁杼比売が酒造りに使ったものである。

また天皇、丸邇の佐都紀の臣が女、袁杼比売を婚ひに、春日に幸行でましし時、媛女、道に逢ひて、すなはち幸行を見て、辺に逃げ隠りき。 かれ御歌よみしたまへる、その御歌、
嬢子の い隠る岡を
金鉏も 五百箇もがも。
鉏き撥ねるもの。
かれその岡に号づけて、金鉏の岡と謂ふ。

(角川ソフィア文庫 新訂 古事記 41版 平成13年 P181)

丸邇 字「丸ノ内」

袁杼
音が橘の小戸に同じ。「袁」(長い着物、遠) 「杼」 (機織のヒ、ドングリ)

岡 字「岡」 下関市立考古博物館の建物がある場所
隠る 弥生貯蔵穴の中に逃げ隠れる
金鉏 木舩地区の貯蔵穴から砥石が出土している


万葉集3168
衣袖之 真若之浦之 愛子地 間無無 吾恋
  ↓
金鉏とは似る。
真若之浦 字「若宮」
愛子地は綾羅木郷台地の珪砂である。

往昔、綾羅木の浜は「時浦」 と呼ばれた。

愛子地
1392
1393
2734 細砂裳

大埼
1023 字「大森ア」
3072

字「宝前」 は住吉である。


綾羅木郷の了元寺から出土した古墳時代の甑(こしき) は古事記の袁杼比売が雄略天皇に酒を献上した時に使ったものである。

春日は東だから以前は有冨の東にあるサンヨー跡下 甑土器の出土地か
と考えていた。

三重の伊勢の国の婇が雄略天皇に酒を持ってきた話がある。 三重県の伊勢市から雄略天皇の宮まで険しい山道を通って酒を持ち運んでくるは実行不可能である。 記紀・万葉の舞台は下関市綾羅木川の北側である。




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竹生山は鳳凰の形だ

2016/07/02 05:08

竹生寺は蒲生野山田にあるが住所は有冨である。
竹生寺の真南に有冨村の庄屋だった儀万さんの家がある。
古くは石原、延行は有冨村に入っていた。

竹生山の形
梶栗側から見たら双峰山である。
県道長安線の有冨交差点から見たら鳳凰の山である。

参照
『定本 地理風水大全』 御堂龍児 著 1997年 国書刊行会
P40 【鳳凰の山】
鳳が羽を広げて、今まさに飛び立たんとする鳳凰の姿に似ている。
これを 「飛鳳冲天形」 という。


専徳寺
立地が韓国の独立記念館がある場所と似ており、風水の大明堂である。

大年池の横 中村勝さん宅から西の田 迫本の田 庚申塔のT字路まで低い丘が続く。 専徳寺の地勢は寺の裏が高くて南に傾斜し、また西側に傾斜するので土地の水はけがよい。 寺の前面は谷に突き出ており、風水の「穴」「明堂」 に立地する。 「穴」 の形状は大乳穴である。
寺の方位はやや「未」 で、竹生寺− 専徳寺−下有冨石棺(秋本さん墓)

案山 仁馬山古墳
朝山 火の見山

羅盤の縫針で偏角 7.5度 か? ※ 正確に測定したものでない。
竹生寺−専徳寺−下有冨石棺(秋本家の墓)−「弓削畳麿」 の木簡出土地
専徳寺の山門の方位 も同じ。

有冨の墓地
有冨墓地(大迫池) 艮(うしとら) の方角で鬼門  昔、墓地の上は火葬場
河内實さん宅 東側の墓地 坤(ひつじさる) の方角 裏鬼門

河内實さん宅 東側の墓地は有冨でも古い家の墓地であり、儀万、中村本家の墓がある。 儀万さんの墓は何十年か前に大迫池上の墓地に移した。

河内實さん宅 東側の墓地の真東に儀万の家がある。
西 ・・・死滅の方位
東 ・・・ 誕生の方位
であるから、「誕生の場所」 は有冨古墳の北側を登った所と推理できる。 昔、稲荷社があったという。

有冨古墳  纏向
『風水の本』 学研のムック本 1998年
P62 中
砂は、ほかに 「砂城」 とも、「幕」 とも、「」(てん) ともいう。 穴を取り巻くところから 「幕」 といい、穴に纏わりつく姿なので 「」 というのである。

「後方に気を託し送れる山があり、傍らに護り纏いつく山がある。 託が多く、護が多ければ、その龍神はたいへん貴い」 (『博山篇』)


『古代遺跡謎解きの旅』 松本司 著 小学館 1999年
P38-13行目
例えば、初期ヤマト王権発祥の地と考えられる向遺跡の「纏」 は、気が集中する大龍穴を取り巻く丘を意味する風水用語「」(てん) だと考えられる。

纏向は下関市有冨 字「中村畔」 の青龍にある有冨古墳の場所である。

P64 中・下
青龍は男児、白虎は女をつかさどる。
纏向(=青龍砂) 日代宮 景行天皇の男児は日本武尊である。

纏向の「纏」 は青龍、「向」 は坐向法である。

「纏向」 は風水地名である。 日本武尊は青龍の男児である。
古代史の解明では風水・易は必修である。


綾羅木郷
夏至の日の出、冬至の日の入り ・・・ 祭事あり
綾羅木郷 字「中屋敷」 祭祀遺跡−了元寺−有冨 専徳寺−儀万さん宅
−石原の小原山・有冨 ハンドウ山の鞍部(凹部)  が一直線上に並ぶ。

有冨の人の話によれば、江戸時代はお寺の宗門改で住民を管理していた。 寺がある集落は古い歴史があり統治する上で重要な所だった。 綾羅木川北側の集落には寺がある。 対して綾羅木川南側の綾羅木本町、伊倉、川中豊町、稗田、熊野には寺がない。 寺の有無から見て、綾羅木川流域で歴史的に重要な地域は有冨など川の北側である。

了元寺の立地は地勢が高くなっている場所であり、また土質が珪砂なので水はけがよい。 綾羅木は水不足の土地だったが、了元寺の西側には溜池があって耕作地の水やりができる。 川沿いは海水が入るので飲料水に困る。 北側の地勢が高い所は「上座」 にあたるので村の有力者や本家が住んでいたと想定できる。

風水 若宮古墳の場所は龍脈の末端なので凶の地だ。
風水の観点から綾羅木郷遺跡には住居跡がないと考えられる。
  ↓
弥生時代前期に綾羅木郷では風水判断があった。


種子島の広田遺跡
貝札の 「山」(サン) は風水、墓の意
いや、
占術の五術に照らして
「山」(サン) は仙道修行による霊験
風水は「相」(ソウ) に属すか。

張明澄  Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%98%8E%E6%BE%84
  ↓
五術の「相」「山」 について記述あり。


卑弥呼の鬼道
「鬼」 を中国流に死霊の意と解して「鬼道」 は祖先崇拝の術。
いや、
「鬼」 とは幽霊の意だろう。
鬼道は神功皇后の神託である。
文庫書紀A130-8〜(仲哀紀)、A138-2(神功紀)

安本美典は卑弥呼=天照大神 説であるが、鬼道の「鬼」 を中国流に幽霊と解するなら鬼道は神功皇后の神託である。 卑弥呼=神功皇后 である。




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