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邪馬台国 下関
ブログ紹介


講談社学術文庫 『 倭国伝 』  旧唐書 P205、208
旧唐書に
「倭国は、古(いにしえ) の倭の奴国也。」
「日本国は、倭国の別種也」

竹取翁博物館  邪馬台国や徐福に関心を示された 2014.4.14
http://blogs.yahoo.co.jp/koiiyk/31302118.html
  ↓
中国の古地図 日本国と倭が別に描かれている。


中国正史の古代日本記録
いき一郎 編訳 葦書房  1984年 1992年 第2刷
P49
後漢書 巻80 「烏丸鮮卑列伝」 に、
鮮卑の檀石槐が光和元年(178年) に、魚をつかまえるのが巧みな倭人のいる倭人国を撃って倭人をとらえ、倭人に秦水の魚をとらせ食糧にした、とある。
「三国志」 は倭人を人とし、倭人国を人国としている。

この場所は鳥取県の青谷上寺地遺跡である。 近くに地名「汗入」 がある。

青谷上寺地遺跡展示館 ホームページ
http://www.tbz.or.jp/kamijichi/index.php?view=4095
土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム ホームページ
http://www.doigahama.jp/

佐賀 ・ 徐福国際シンポジウム
http://inoues.net/study/jyuhuku2008.html
  ↓
赤関=天関
文庫書紀@198-末 神武東征
是に、火瓊瓊杵尊、天関を闢き雲路を披け、仙蹕駈ひて戻止ります。



参考文献   以下の本は所有しています。
記号  例   
文庫書紀D74-12 → 岩波文庫 日本書紀(五) P74 の12行目
小学館書紀A469-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 日本書紀 A巻 P469 の 8行目
続日本紀B74-12 → 岩波書店 新日本古典文学大系 続日本紀 三 P74 の12行目
日本後紀 47-8 → 集英社 日本後紀 P47 の8行目
旧事F169-4 → 批評社 先代旧事本紀 訓註: 大野 七三  巻第七 P169 の4行目
訳旧事E305-7 → 批評社 先代旧事本紀 現代語訳  巻第六 P305 の7行目
祝詞393-7 → 岩波書店 日本古典文学大系「古事記 祝詞」 P393 の7行目
風土記71-12 → 小学館 新編日本古典文学全集 風土記 P71 の12行目
岩波風土記183-2 → 岩波書店 日本古典文学大系 風土記 P183 の 2行目
文庫風土記下168-5 → 角川ソフィア文庫 風土記 下 P168 の 5行目
山川風土記27-331行 → 山川出版社 風土記(常陸国 出雲国 播磨国 豊後国 肥前国) P27 行数331
小学館今昔物語C252-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 今昔物語集 C巻 P252 の 8行目
岩波今昔物語A145-6 → 岩波書店 新日本古典文学大系 今昔物語集 二巻 P145 の 6行目
古語拾遺164上-20 → 右文書院 『古語拾遺』 を読む P164上 の20行目
古代氏文集40-364 → 山川出版社 古代氏文集 P40 の 364行 
を示す。

万葉集
おうふう(株) 萬葉集
岩波書店 新日本古典文学大系 萬葉集
笠間書院 万葉集表記別類句索引 編者:日吉盛幸

風土記の索引書
和泉書院 『古風土記 並びに 風土記逸文語句索引』 橋本雅之 編


私は他人の説を摘まみ食いして、それを手直し修正し「自分の案」 を打ち出す「いいとこ取り」 は絶対にやりません。 私はずるくて利口なパクリ行為はやりません。 奔放な当てずっぽうのブログですが、一次資料に基づくものを書くため、記紀・万葉などの文献を読み、市町村史や郷土の自費出版物などの地方資料を渉猟して書いてます。 ネットで見たものはリンクを貼ってブログ主に通達してます。

私は僅かでも何かしらの着想(ヒント、アイデア、思いつき) を得た参照元は漏れなく全部を記してます。
当ブログは学術書レベルで参考文献を示してます。
着眼にあたって参考としたものを記すのは書き物の基本的な礼儀作法です。
他人の発見を尊重してこそ自分の発見やオリジナリティを主張できる。

私のブログは当ブログだけであり、他でブログ等はやってません。 私はネットの投稿、掲示板やコメント欄への書き込み他をしたことはありません。 なりすまし に注意してください。


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蓬莱山 (とこよのくに) の銅色 −古宿の串山に露出する赤石ー

2017/06/25 20:32

有使者銅色而龍形


◆ 徐福伝説 in 熊野
ttp://www.mikumano.net/setsuwa/jofuku.html

私をすぐに蓬莱山へ連れていってくださいました。 そこには霊芝に囲まれた宮殿があり、仙界の使者がいました。
それは灼銅色の龍のような身体をもち、発する光は天まで照らしていました。

  ↓
串山の赤石
串山が本当の熊野山である。

徐福らは波田須に住み着くことを決め、「徐」 姓を使わず、「秦」 から波田・波多・羽田・など「ハタ」 と読む漢字をあてて名乗った。
  ↓
古宿の畑さん家
永田神社の先祖 秦氏


関西の河内王朝が運んだ肥後産の赤石は古宿の串山の赤石に憧れたもの。
倭国の河内は汐入川の潟湖で、吉見本町2丁目・吉見竜王町。
倭国の肥後はフィッシングパークの駐車場付近か。




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木国の鮑玉

2017/06/24 16:13

出雲国風土記 意宇郡の国引き神話で、「の長浜」 は古宿(こずく) 浜
字「中」 バス停「古宿」〜ダイビングショップ

万葉集
妹山は古宿の丸山
勢能山は古宿の串山

串山を登って串本岬に鮑玉を採りに行っていた。
木国(紀伊国) は串本岬
串山の山道が万葉集の「木道」

「木」 とは、江戸時代の地下図で「三ヶ首」(串本岬) に生えていた大木

木の国だから狗奴国。 場所は串本岬
串本岬は昔の地名が「三ヶ首」 だから出雲の三穂の崎
万葉集1667〜1684 は串本岬。 現在も釣り場。


下関市 吉見古宿町は神の国
串山は神の山


神功紀 文庫書記A158‐末行
則ち軍を引きて更に返りて、住吉に屯む。 時に皇后、忍熊王 師を起こして待てりと聞こしめして、武内宿禰に命せて、皇子を懐きて、横に海より出でて、紀伊水門に泊らしむ。 皇后の船、直に難波を指す。 時に、皇后の船、海中を廻りて、進むこと能はず。 更に務古水門に還りまして占ふ。

難波長柄豊碕宮=穴門豊浦宮
場所は古宿 国道七曲の畑建設付近
神功皇后が穴門豊浦宮の海中で拾った如意玉は畑建設前の岩場で採取される「船釘」 と呼ばれる光る石。 これは海神が山幸彦に授けた潮満玉・潮干玉で、海神の宮は どさん子ラーメン店の場所に大正期の鉄道敷設工事まであった綿津見神社(龍王神社) の下宮(浜宮)。
海幸彦はフィッシングパーク〜串本岬で釣りをしていた。

難波の海=続郊(をみの) 「麻」 の字は穴門の麻山
難波の堀江 小津見第一踏切

斉明紀 文庫書記C366‐7 続麻郊(をみの)
駿河国 船越川の上流
科野国 船越 巨坂は船越峠

下関に伝わる伝説では鵜葺草葺不合命は吉母で産まれた。
ならば海神の宮、豊玉姫は吉母である。
誕生神社(祭神 木花開耶姫命、彦火々出見尊) 吉母 字「平松」 か
海神社(祭神 大綿津見之命) 吉母の大迫


播磨国風土記 揖保郡 に船越  風土記65‐4
記述は吉見の船越のようにも読めるし、永田本町のようにも読める。

(石海国の候補地)
眼の崎〜吉母  高羅折の岩場 ・・・ 石海国か
永田郷の石王田
福江大塚 ふくふくうどん近くの絶壁海岸 大塚 字「神田」 ・・・ 石見国か




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豊国 国の崎

2017/06/24 00:55

播磨国風土記、出雲国風土記の場所は下関市吉見の古宿である。

しかし出雲国風土記の「巻末記」 は古宿でなくは吉母から御崎へ行く道だ。
江戸時代の地下図では大河原−御崎 の道は描かれてなく、室津上の椿原から御崎へ行く山越え道のみ。

御崎の淵ヶ谷は石灰岩層で掘れば温泉がでる可能性があるという。
豊後国風土記の国埼の郡は御崎。 豊前は御崎、豊後は吉母。

通説は大分県の国東半島に比定されるが、実は"国崎" の場所は下関市吉母の御崎(本州の最西端)。 毘沙の鼻は江戸時代の室津村地下図では「御崎鼻」 となっている。


肥前風土記の場所も吉母。
風土記321‐2
物部の若宮部は吉母の若宮神社であり、綾羅木郷の字「若宮」 ではない。




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狗奴国 三穂の崎  古宿の串本岬

2017/06/24 00:24

播磨国風土記 賀古の郡
望理(まがり) の里 風土記23‐後ろから2行目
下関市吉見 古宿 スーパー F サニー吉見店付近の汐入川の曲がり
大部の造等の始祖 理売 「古」 の字は古宿(こずく) を表す。 古宿(こずく、こじゅく) は地下上申絵図では「小ぢく浜」 と記されている。

この里に舟引原あり。 昔、神前の村に荒ぶる神ありて毎に行人の舟を半ば留めき。 ここに、往来の舟、悉に印南の大津江に留まり、川頭に上り、賀意理多の谷より引き出でて、赤石の郡 林の潮に通し出しき。 故れ、舟引原と曰ふ。

神前の村  串本岬、フィッシングパーク
荒ぶる神  出雲の神
印南の大津江  汐入川の河口
賀意理多の谷  スーパーFサニー横の墓地

赤石郡
どさん子ラーメン店前の岩礁 〜 海上自衛隊 下関基地まで赤石の海岸である。
記紀、万葉、風土記の赤石、明石、丹波・丹後の地。 丹=赤

林の潮  吉見古宿町7−28 の林さんの家

スーパー F サニー横の墓地に三野王の厩舎があった。
三野王は野海さん家か。


江戸時代 元文4年(1739) 年の 「吉見村地下図」 を見ると、串本岬は天の橋立であり、地名は「三ヶ首」 で海に長い岩場が突き出た "橋立" から巨樹が扶桑のように生えている。 船の難破を防止するため人が松を植えて大木に生長したものか。

逸文 丹後国 天の椅立、久志浜
出雲の三穂の埼
夜見の嶋
また
稲羽の素兎 淤岐嶋
安来の毘売埼
扶桑の巨樹の下にいるから日下部という名前が付けられた
などに比定できる。

地下上申絵図では地名が「串本岬」 ではなく「三ヶ首」 であり、海に長く突き出た天の橋立があり、その天の橋立から巨樹が生えているのが描かれている。

狗奴国(木の国) の位置は串本岬、フィシングパークである。
素戔嗚尊、大国主命、事代主命が居た場所は串本岬だった。

住吉大社神代記で木国 藤代嶺(古代氏文集62‐626) は串山
難波の南へ回って紀伊国  串本岬 

播磨国 藤江浦の鮪漁の場所はフィッシングパーク

出雲の五十田狭の小汀はフィッシングパークの駐車場
1988年1月発行のゼンリン地図  串本岬は採石場である。

昔のことを考察する時、江戸時代の古地図は必見である。
下関市 吉見古宿町の串山半島は日本の神話のふるさと。
しかし採石場となり、すべて破壊されたもよう。


蓬莱山は古宿の串山
海上に「亀の首」 のように突き出て天橋立になっていた串本岬
亀の首=亀旨
串本岬は江戸時代の地下上申絵図では「三ヶ首」
  ↓
地形と「首」 という地名は長崎県 宇久島の宮ノ首遺跡と共通する。
風土記 逸文 で魚を献上してくる任那は宇久島か。





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串触峯 古宿の串山

2017/06/19 01:36

龍王神社  『山口県神社誌』 平成10年
奉納芸能 花踊り
古来より旱天には雨乞祈願が行われているが、更に雨のない時には雨乞のため、花踊りを奉納する。 記録によれば、寛政7年(1795) から昭和14年(1939) の間、25回行れている。
  ↓
文庫書記@40‐5 伊奘冉尊 熊野の有馬村 花祭り

由緒沿革
神功皇后凱旋の時、今の吉見小津久の渓谷に御上陸
古宿を「小津久」 と表記している。

八大龍王大神  海上守護の神、雨乞いの御神


吉見上八幡宮
祭神は大歳神だったと思う。 神社の前 字「大田代」

常陸国風土記 久慈の郡 風土記411‐5
太田の郷 長幡部の社 綺日女の命

筑紫の国の日向の二の峰
他の本では
文庫風土記上58‐2  二の峰
山川風土記30‐372 二の峰

古事記・日本書紀は筑紫の日向の二の峰
常陸国風土記 久慈の郡 は二の峰

「二折」 は下照姫(高比売) の歌
谷 二渡らす に通じる。

出雲国風土記 意宇の郡 国引き 風土記137‐2
絶(おりたえ) 訳 山の線がすとんと落ちるあたり

出雲の神戸  風土記147‐11 二所の大神
熊野加武呂の命、大穴持の命

風土記152 郡家の正南に熊野山 石鎚大権現の南側の頂が熊野山
風土記155 注12 島根県の比定地では天狗山


三野の国 引津根の丘
西田川沿いの字「野添」「美野田」「野田」 か
引津根の丘とは善光寺 字「横尾」 あたりか
万葉集の引津、天漢(あまのがは)、渡守
  酒屋さざん 横の墓地か
  第一生命保険 吉見ビル の東側に守川さん家

播磨国風土記 賀古の郡
望理(まがり) の里 風土記23‐末行
ゼンリン地図 川が曲がる場所は吉見本町2丁目
川が蛇行し、山に囲まれた地域を吉と見るのは中国風水である。
纏向の「纏」 は風水の用字なので、景行天皇は風水の教養を身につけていた。

舟引原 風土記25‐1

神前の村
神は石鎚大権現の所。神前はフィッシングパーク・串本岬方面か。

赤石郡 林の潮
ゼンリン地図を見たら古宿には林さん家が数軒ある。
汐入川の下流から 古宿のバス停 に舟を上げて引いた。

風土記25‐9 駅家の里
さざん吉見店の信号機・横断歩道
横断歩道の両側は低い丘陵になっている。
万葉集 三野王、三野連石守、三野連岡麻呂より三野王は厩舎を構える。
古宿の野海さん家の先祖か。

万葉集1644 三野連石守
攀而 折者可落 梅花 袖尓寸入津 染者雖染
引 引津根
古 古宿
を示す表現である。

敏馬浦はどさん子ラーメン店がある字「大駅」


常陸国風土記 久慈の郡
太田の郷 長幡部の社 綺日女の命 の記述を読むと、
筑紫の日向の二の峰→三野国→常陸国の久慈郡 太田郷 は距離で2キロくらいかと読める。

日向の二の峰 古宿の石鎚大権現
触峰 古宿の
  ↓
日向三代の山上陵は古宿の石鎚大権現にある。
石鎚大権現 吉見教会がある所は
  出雲国の国庁
  住吉社・墨江 橘の小戸の禊ぎ場
  筑紫の日向の高千穂宮
  神武天皇の橿原宮
  丹後国 与謝郡 水江浦島子
であり、「神」 の地である。

記紀・万葉で「神」 の字は古宿の石鎚大権現である。
古宿の石鎚大権現の創立は太平洋戦争中であり新しいが、その場所は記紀・万葉の「神」 である。
  記紀 産巣日の神
 万葉集 島、の渡り、の門

吉見上八幡宮 字「大田代」 が常陸国久慈郡 太田郷の長幡部の社 である。


滝本神社  吉見上 内畑集落
http://44051510.at.webry.info/201210/article_41.html

逸文 伊勢国
滝原神宮 風土記572-下
瀧原神宮 文庫風土記下198
  
滝原神宮とは吉見上にあった滝本神社である。

山口県風土誌 9巻 P414-3
滝本神社
祭神 天照皇大神・豊受大神 (旧号神明社)

日本書紀 伊勢の狭長田の五十鈴の川上 は吉見上の滝本神社だろう。


石鎚大権現
が咲く場所に建てられた ― 木花開耶姫


藤原宮 万葉集50、52
淡海国  大葉山堤の横 内海さん
田上山  葦原の水穂国、広田国は上本さん家
物部の八十氏河  汐入川 横尾鼻堤の用水路
泉の河  千石岩→横尾鼻堤→汐入川 の水路

日本の青香具山  龍王神社の上宮
畝火の水山  石鎚大権現 串山
吉野の山  蒲生野 妙蓮寺 山号 長谷山

藤原宮  横尾鼻堤あたりか
難波の大道  上本さん家から吉見竜王町への農道


風土記(出雲国、播磨国、常陸国) の
「あふみ」 淡海、近江
「おほみ」 大見、邑美、意保美
は同じ場所か。

古宿のスーパー F・サニー 吉見店 の北側に架かる橋は
出雲国の安来=安川原=安の渡 の場所である。

古事記、書紀、万葉、風土記各国の記述 は下関市吉見 古宿(こずく) を中心に書かれている。

今は舗装されてない農道でも軽トラが通れる道幅がある。 1960年頃まで車がなかったので、道は人と牛が通れるだけの細い道だった。 横尾鼻堤から千石岩へ農業用運搬車(トップカー) で行く山道に倭の首都があった。


邪靡堆
裴世清が来た倭の首都 邪靡堆 の位置
下関市吉見下 光善寺の南、横尾鼻堤〜上本さん家


着眼
表記で「古」 の字は下関市吉見宿町を示す。

日向の日の高千穂の峯 の「槵」 は石鎚大権現がある古宿の山である。

先代旧事本紀 巻第一 に 日向の橘の小戸橿原 と書かれているので、畝火の瑞山は古宿の串山である。 日本の青香具山は竜王山の上宮である。

出雲国風土記 意宇の郡  風土記143‐10
仍りて和尓をば、殺割きてに挂け、路のに立てき。 安来の郷人、語臣の父なり。
和尓  汐入川の潟湖にいた河童、水上生活者。 字「丸尾」「丸山」
串  串山
垂  石鎚大権現 吉見教会の手前にある崖に立てた。
安来 = 安の渡り スーパー F ・サニー 吉見店の北側の橋
語臣与  風土記各国はみな自分の家のまわり。 記紀、万葉、風土記の作家


古事記 天孫降臨
竺紫日向之高千穂之久士布流多気
  ↓
場所 下関市 吉見古宿町の

「くじふるたけ」 霊峰
古代朝鮮語の亀旨(峰) と同語か。 新版古事記(角川) P76 注20 




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対馬は蓋井島、壱伎は吉母の黒嶋

2017/06/18 07:46

記紀・万葉
下関の昔話「御崎馬」 から対は蓋井島、壱伎は吉母の黒嶋である。
吉母の黒嶋は前方後円墳の祖形となった蓬莱山で浦島太郎の竜宮城である。
浦島太郎の家は吉見古宿の石鎚大権現付近にあった。

住吉・墨江  古宿の石鎚大権現
海若  吉母漁港

聖帝 仁徳天皇は下関市 吉見古宿町の人だった。


万葉集
3694 六 − 佐波

3698 蓋井島の乞月山

3699 蓋井島から見る首都の吉見古宿

3700 敷の浦 蓋井島の竹

『馬関大平記』 P24
序に「蓋井竹」 について簡単に述べよう。
この島の竹は県下でも有名である。 大体、潮風にあたるこうした小島には竹は育たないというのが常識であるが、この蓋井島に良質の竹がとれるというのは、上古三韓征伐のあと、これに用いた旗竿をこの地に埋めたため、それが芽をふき今日に至ったのだといっている。


4232 蒲生娘子  永田本町 サンエイハイツ西嶋あたり 字「蒲」
千世尓開奴可 「千世」 の文言から神仙境の黒嶋か。



過去記事  ※内容の半分以上は今と見解が異なる。
邪馬台国 は下関市吉見
http://44051510.at.webry.info/201504/article_12.html


文庫風土記下446 逸文 壱岐国  朴樹(えのき) 常世の祠
吉母の郷土史家 蔵田正彦氏によれば、
誕生社(近江浦堂 「近江」 はツクモ と読む) には榎の木が植えられていた。

文庫風土記下214 逸文 志摩国  吉津嶋
吉津嶋の行基は吉母 黒嶋観音 の行基伝説


周防国の佐波
娑麼
沙麼
娑婆水門

土師娑婆連猪手

佐波=鯖 風土記197‐3


仲哀紀の熊鰐を読むと、周防の佐波は永田本町で、熊鰐が献じた塩地所は永田本町の塩田である。

私は香椎宮を永田郷の御堂遺跡に比定する。
香椎宮は古くは香椎廟だった。
香椎廟の「廟」 は中国系の祖霊信仰である。
御堂遺跡は中国系渡来人で徐福、あるいは晩年日本に渡った説もある老子の墓だろう。


纏向宮は永田郷 妙寺か。
「正吉村地下図」 では妙音寺の東北川に厳島社があった。 伊都国か。
単なる鬼門か。

「正吉村地下図」 ではラブホテル セピア前の溜池は「石神池」 とある。


美濃
豊浦町 豊洋台  美濃ヶ迫溜池
豊浦町 宇賀 蓑ヶ岳 福徳稲荷神社に伝わる景行天皇伝説

吉見上 野添の字「美野田」
吉見温泉センターの南西500 mの堰に「キシイ温泉」 がわく。




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出雲国風土記 語臣与 は下関 古宿の人

2017/06/16 02:35

出雲国風土記 総記 風土記131‐6
、枝葉を細しく思ひ、詞源を裁ち定む。

この「老」(おきな) とは誰か?
推理すれば、
出雲国風土記 意宇の郡 風土記143‐11
語臣与 かたりのおみ あたふ
  ↓
この人物こそが上代文学の作家、ゴーストライター
住所は下関市吉見本町2丁目−12 付近


記紀、万葉、風土記の各国などは下関市吉見の古宿(こずく) である。
石鎚大権現の駐車場に語臣与の家があり、語臣与が夕方、線路を越えて散歩
石鎚大権現下の家→吉見竜王町→大葉山堤近くの上本さん家
→小津見第一踏切→スーパー F ・サニー 吉見店 で買い物→帰宅
の毎日で書いたものが記紀、万葉、風土記の各国である。
〇〇国、〇〇郡などはみな家の近所、古宿であって、国や郡、郷がちがっても同じ場所である。 「古老曰く」 の古老は自分の父親の猪麻呂である。

水上生活者のワニがいた場所は字「丸尾」「汐入」
場所 古宿のスーパー F ・サニー、信号機

稲羽の素菟 高山の尾の上に伏せ
仁徳天皇 高山に登りて、四方の国を見たまひて、詔りたまはしく、「国中に烟(けぶり) 発たず。
  ↓
「高山」 は石鎚大権現がある山

石鎚大権現の駐車場に墨江の津があった。
風土記143‐2 出雲国風土記 意宇の郡
大神和魂は静まりて、荒魂は皆悉に猪麻呂に乞む所に依り給へ。
  ↓
和魂、荒魂より大神は住吉神である。

風土記141
屋代、社  住吉大社
天の壁  石鎚大権現の岩壁
安来  スーパー F ・サニー の北側か
北の海  文庫書記A20‐3 伊都都比古 嶋浦→北海→出雲国

毘売埼 = 播磨国風土記 賀古郡 南毘都麻
= 難波の姫島 万葉集228、434

浦島太郎  万葉集1740
丹後国風土記 逸文
後の「丹」 は吉見港・永田本町の海岸に露出する
常陸国風土記 久慈の郡 静織 丹き石 風土記409‐12

天の椅立、久志浜  風土記472
石鎚大権現がある場所が速石の里
古宿の半島 本岬、

謝の「与」 は語臣与
与謝は雄略紀(文庫書記B84‐6)では余で社は住吉社
筒川の「筒」 は住吉神の名 筒男

播磨国風土記 賀古の郡 風土記20
遂に赤石の郡 廝の御井に到り、御食を供進たまひき。
  ↓
「遂に」 の文体から播磨国風土記の著者である語臣与の家 F ・サニーの北か


大和三山
東の香具山 竜王山
西の畝山 石鎚大権現の山
=伯耆の神岳 風土記139‐12

先代旧事本紀 巻第一 橘の小戸橿原
橿原宮は住吉神の橘の小戸、すなわち石鎚大権現下にあった。

山の「火」 は火打ち石か。
常陸国風土記 久慈の郡 静織の里 玉川 風土記409‐12
丹(あか)き石 火鑚(ひうち) に尤も好し
  ↓
龍王神社近くの赤石堤か
文庫書記A20‐8 赤織の絹
  ↓
尾田の吾田節の淡郡に所居る神有り  文庫書記A138‐7
尾袋 字「井ノ上」 赤石堤


万葉集1740 水江浦嶋子の歌中に「」 の字

門(かなと) は汐入川の水門か。
万葉集1230 千磐ノ三埼 は石鎚大権現にあった住吉社
千磐 は石鎚大権現の岩壁、海岸岩場である。
  ↓
神宅の臣 太理 は吉見古宿町の石鎚大権現の人である。


万葉集1023 石上乙麻呂 大埼乃 之小浜 ・・・ 宅臣

旧事@36‐3
日向の橘の小戸橿原

旧事@31‐15
常陸国の鹿嶋に坐す大神即ち石上布都大神是なり。



意宇郡の最後 風土記158‐末行
此れすなはち国の(はじめ) なり。

他の本は国庁とする。
岩波「大系」 国の(まつりごと) どころ
  ↓
文庫書記A160‐3 更に古水門に還りまして卜ふ。

講談社学術文庫 出雲国風土記 国(国庁がある)
平凡社ライブラリー 国庁
角川ソフィア文庫 上 国廓
山川 国の廓

日置 風土記145‐1、149‐9
郡司 主帳 海臣 ・・・籠神社の海部氏に対応する
京都府丹後 籠神社の周辺地名と共通する。
籠神社の近くに地名「難波野」「府中」 がある。

海部氏系図 Wikipedia
推古天皇朝に丹波国造であった海部直止羅宿祢等が『丹波国造本記』 を撰述
  ↓
国引き 栲衾志羅紀の三埼を

風土記145‐1  日置の臣 志毘 舎人の郷 ・・・ 日本書紀の編纂 舎人親王
志毘(マグロ) から古宿 フィッシングセンターの海岸である。 藤江浦もここ。
石見国もここか。

万葉集3839 舎人親王


もしかして石鎚大権現の山上に天磐窟、天真名井があるか?

石鎚本教 吉見教会 ・・・ 創立は新しいが古代史の核心地点
ttp://www.tip.ne.jp/tengu-yoshimi/

石鎚大権現 吉見教会の場所は
出雲国意宇郡にあった出雲国の国庁、忌部の神戸
=筑紫の日向の高千穂の宮
=橘の小戸橿原
=戸籍 筑前国 嶋郡 川辺里 肥君猪手
=務古水門

語臣麻呂= 肥君手。 同一人物であろう。


着眼点
播磨国風土記 賀古郡、出雲国風土記 意宇郡
下関市の吉見古宿 スーパー F ・サニー の場所である。

(難点) 汐入川の下流に「神の湯」 があったのか。 伝わってない。


阿閉
播磨国風土記 賀古郡 風土記21‐9 阿閇津

「閇」 は「 閉」 の俗字・異体字

阿閉臣
 推古18 文庫書記C120‐1
国見(磯特牛) 雄略3 文庫書記B32‐5
事代 顕宗3 文庫書記B128‐12


住吉大社神代記
古代氏文集62-622 
一、明石郡 魚次浜一処。
四至。〔東は大久保尻限を限る。 南は海棹の及ぶ際を限る。 西は歌見江尻限を限る。 北は大路を限る。〕
明石は古宿のフィッシングセンター〜吉見港〜永田本町 の海岸の赤石
大久保(古宿 どさん子ラーメン店の小字)、江尻(吉母 草場川河口の地名)

古代氏文集63-634 
一、賀胡郡 阿閉津浜一処。
四至。 〔東は余郷を限る。南は海棹の及ぶを限る。 西は大きなる湖の尻を限る。 北は大路を限る。〕
大きなる湖 潟湖だった汐入川


吉見浦の神社
防長地下上申 第3巻 P334上
蛭子社 浦恵美須である
弁才天 室津観音院より勧請

豊浦藩 村浦明細書 P153下
稲荷社 尾崎八幡宮境内
秋葉社 浦手
弁才天 鴨島
蛭子社 汐谷 (ゼンリン地図 汐入川の河口 汐谷橋)

住吉大社神代記
古代氏文集45‐420 塩谷の国

小字 「塩谷」  彦島江の浦町3‐11 と 吉母小学校の場所にある。
今、吉見の汐入川河口にも小地名「汐谷」 があることを発見した。

倭国(邪馬台国、記紀・万葉の都、風土記の各国) は下関市吉見の古宿。
汐入川の源は横尾鼻堤のさらに上、千石岩近くから流れでる。

邪馬台国の道
石鎚大権現→光善寺→横尾鼻堤→(山道)→千石岩

字「横尾」 (光善寺−横尾鼻堤) の場所が根の国。
日の本 は大葉山堤近くの上本(うえもと) さん家あたり。





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平城京は吉見下 字「平石」 にあった

2017/06/13 15:20

記紀・万葉の平城京があった場所は吉見下 字「平石」 である。
場所
山陰(やまかげ) にあってゼンリン地図を見ても場所がわかりにくい
"秘境の池" 横尾鼻堤の上の耕作放棄地

風土記37 注18
野は原とちがって起伏ある段丘。 ヒラ野は傾斜地。 『神代記』に「黄泉比良坂」。 沖縄県の方言では上り坂をピラという。
  ↓
「ヒラ」 は傾斜になっている所。
県道下関川棚線 船越〜尾袋配水場 の間は、山の急斜面を走るだけでなく道のアップ・ダウンがジェットコースターである。

難波の高津宮近くの高山、高台(たかどの) は石鎚大権現の山
石鎚本教 吉見教会
www.tip.ne.jp/tengu-yoshimi/

横尾鼻堤(光善寺がある字「横尾」 の集落では「横鼻堤」 と呼ぶ) から流れ出る用水路の源は千石岩付近なので、この川は石河である。 石上振宮は千石岩の上あたりになる。

文庫書記A244‐末行
乃ち石河の水を引きて、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦の四処の郊原に潤けて、墾りて四万余頃の田を得たり。

開墾地の地名 小治田


山背 字「後山」
文庫書記A252‐7
つぎねふ 山背河を 宮泝り 我が泝れば 青丹よし 那羅を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家のあたり

文庫書記A254‐末行
つぎねふ 山背女の 木鍬持ち 打ちし大根
この歌の場所 横尾鼻堤上の畑

山背の平坂
崇神紀10年9月27日 文庫書記@286‐10
横尾鼻堤の山道は難波の大道、大坂、山背の平坂、天皇の夜這い

万葉集3313
雄略天皇が黒馬に乗って夜這い
ttp://manyuraku.exblog.jp/14088274/

万葉集3314 次嶺経(つぎねふ)

大猪子が原 横尾鼻堤近くに設置されたイノシシの箱罠


仁徳天皇の大后、磐之媛命
山背川=石河=出雲の簸河(肥の河 肥=膏腴)

石の比売 名前の「石」 は千石岩にちなむ。

出雲の肥河、石の比売が上った山代河、開墾した河内の石河流域は
吉見 古宿の山にある秘境の池 長尾鼻堤から流れる用水路の上流だった!!

舎人 鳥山=鳥髪
鳥は出雲国風土記 嶋根郡 法吉の郷 ウグイス

「鳥」 の地名 飛鳥
千石岩→横尾鼻堤→古宿の田んぼ を流れる細い用水路は飛鳥川

竜王山 香具山


大阪府の地名集
folklore2006.jp/kenmei/273.htm

蘇我石川 - Wikipedia
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/蘇我石川


考察の着眼点
伊都都比、葛城の曾都 の名にある「古」 の字は下関市吉見の宿である。

「毘」 の字義
人体の腹部中央にある臍(へそ)
そばについて助ける
  ↓
千石岩が高天原の天関・天磐座・天磐盾・天磐窟か!
「比」 と「毘」 の字は位、格、重要度がちがう。
風土記229‐8 塩冶古能命


千石岩  現在撤去されている。
大綿津見神社  吉見下
http://44051510.at.webry.info/201210/article_59.html

倭国伝  講談社学術文庫  P191
阿蘇山有り。 其の石故無くして火起こり、天に接する者(こと) あり、俗、以って異と為し、因って禱祭を行う。

阿蘇仍君
隋書倭国伝の阿蘇山は吉見下の農免道路脇にある千石岩の伝説に似る。
漢和辞典で「仍」 の字を引けば、「しきりに起こる」 という意味がある。
「仍」 の字は千石岩の伝説に通じるので、阿蘇仍君は千石岩の人であろう。


出雲国風土記に登場する下関市吉見 竜王山の千石岩
神門の郡
風土記231‐1 志の郷
下関市吉見 宿  堤(溜池) があるので上本さん家あたり。

風土記236
神門川。 源は飯の郡の琴引山より出て、
  ↓
  千石岩
琴引山  千石岩の山が琴を弾いているように鳴る

飯石の郡 風土記242
飯石の郷。 郡家の正東22里なり。 伊毘志都幣(いひしつべ) の命、天降り坐しし処なり。 故れ、伊志(いびし) と云ふ。 神亀3年、字を飯石と改む。

伊毘志都幣  飯石の

私見 伊志は「鼻」 の字から鼾(いびき) を連想させる。

いび(威部)
奄美・沖縄地方で御嶽の内奥にある神域。 神の依代(よりしろ) とされる岩石・神木などがあり、神女が神をまつる。 また、そこにいる神。
三省堂 大辞林 第3版

奄美・沖縄地方で、巫女たちが神祭りを行う聖地。 または、神。 うたき(御岳) の中でも最も神聖な場所で、神の依代(よりしろ) として神木や自然石があり、香炉が置かれている。 いべ。
岩波書店 広辞苑 第6版

飯石の郡 風土記245‐5
琴引山。 郡の役所の正南35里200歩にある。 高さ300丈、周り11里である。 土地の古老が語り伝えて言ったことには、この山の岩屋がある。 内部にこの世をお造りになった大神の御がある。 長さ7尺、広さ3尺、厚さ1尺5寸である。 また、石神がある。 高さ2丈、周り4丈である。 だから、琴引山という。 塩味葛(えびかずら) が生えている。

石神が神の琴を鳴らしていると解されている。

琴引山は頂の岩屋に琴がある。 下関市吉見の竜王山の千石岩は麓近くにある。

塩味葛  ・・・ 葛城


邪馬台国の場所  下関市吉見 光善寺の近くにある横尾鼻堤 の周辺
横尾鼻堤は仁徳天皇が造った横野池である。

聖帝と呼ばれた仁徳天皇は石鎚大権現の展望台から下を見て、家々から煙が立ってないことを嘆かれた。

山口県文書館で江戸時代の地下上申絵図を見ると汐入川は潟湖である。
この潟湖が記紀・万葉の草香江であり、潟湖の奥に位置する上本さん家が「葦原の水穂の国」 の場所である。 隋書倭国伝は上本さん家あたり。

ネット 国土地理院地図を見ると、
農免道路 千石岩下の泉池 ― 横尾鼻堤 ― 汐入川 の用水路がある。
耕作放棄地となっている横尾鼻の水路と山道が倭である。

吉見竜王町には蛇がいっぱいいたと思うので丹比邑(たぢひ、蝮)。



過去記事  ※ 記事内容の半分以上は今と見解が異なる。
邪馬台国 は下関市吉見
http://44051510.at.webry.info/201504/article_12.html

哮峰 斑鳩  吉見の千石岩
http://44051510.at.webry.info/201403/article_11.html




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比古の「古」 は古宿を表す

2017/06/11 15:00

伊都都比の「比古」 の「古」 は下関市吉見 宿 の住人を示す。

穴門は畑建設前の海岸岩場で船釘と呼ばれる光る石が採取されるので、この光る石が神功皇后が穴門豊浦宮の海中で拾われた如意珠である。

難波の高津宮は石鎚大権現の展望台か。
www.tip.ne.jp/tengu-yoshimi/


仁徳紀 文庫書記A244‐10
横野堤  吉見下 横尾鼻堤(地元では横鼻堤と呼ぶ)
猪甘津 小橋  吉見上 字「橋本」 か

万葉集904 の古日は大葉山堤の近く。

大葉山堤
欽明紀23年7月 文庫書紀B338
韓国の 城の上に立ちて 大葉子は 領巾振らすも 日本へ向きて
韓国の 城の上に立たし 大葉子は 領巾振らす見ゆ 難波へ向きて
  ↓
大葉子を大葉山堤に住んでいた人と見る。 日本、難波は大葉山堤 付近である。
上本さん家(738‐2番地) がある。

河内国の石川は横尾鼻堤(地元では横鼻堤) から流れる水路と考えられる。
秘境の池 横尾鼻堤の上、字「平石」 の耕作放棄地が もしかして平城京か。

古宿の山側
横尾鼻堤の水路は大昔からあって農免道路(県道 下関川棚線) 吉見配水場近くが源になっている点が興味深い。


雄略紀 草香幡梭姫皇女=橘姫皇女 文庫書記B24‐6
泊瀬、橘の小戸も大葉山堤の近く。


先代旧事本紀 巻第一 では日向の橘の小戸橿原橘の小門橿原と記されている。
神武天皇の橿原宮は海岸の橘の小戸にある。
文庫書紀@238-9
観れば、夫の畝傍山の東南の橿原の地は、蓋し国の区か。治るべし」 とのたまふ。
『角川 大字源』 で「」 の字を調べれば
@ おか。 陸。 山のふもとに入り込んだ、住むに適した所
A きし。 みずぎし。入江の奥にある岸。
神武紀 の通説一般的な「墺」 解釈は@
先代旧事本紀 巻第一 の 橘の小戸橿原 では「墺」 の意味はA


古宿の小津見第一踏切あたりか。

開闢
下関市吉見 古宿の汐入川に往昔あった潟湖が草香江だ。
出雲国風土記の神門の水海も同じ場所で汐入川にあった潟湖。

国常立尊、可美葦牙彦舅尊は古宿の踏切にいた神である。


風土記
出雲国風土記 神門の郡  志 ・・・ 宿

記紀、万葉、風土記の地名・人名で 「古」 の字は下関市吉見 宿を示す。
例 人名 比

出雲国風土記の国引き 八束水臣野の命
万葉集 藤原八束
古宿のどさん子ラーメン店がある場所は 「の地」 ともいう。
大正3年の鉄道工事まで龍王神社 下宮(浜宮) があり、汐を汲んで身を清めて参詣してたのは島根県出雲大社の神事と似る。 この浜宮が本当の出雲大社である。 神功皇后が武器を収めた洞窟があったという。 武蔵、武庫か。 大久保古墳群あり。


  稲葉の素菟
汐入川の河口近く 字「丸山」「丸尾」
出雲国風土記 意宇の郡 風土記143‐10 串 古宿の字「串山」

古宿の字「中園」  国道 ダイビングショップ前 〜 バス停「古宿」 の砂浜
の松山 風土記237‐15  〜 嶋の埼 風土記239‐末行

播磨国風土記 賀古の郡 風土記19‐11
度子、紀伊の国の人  古宿の津見第一踏切
紀伊国は砂浜の松林か


河伯
鰐は河伯なので、
万葉集3373  多麻河伯
常陸国風土記 久慈の郡 静織 風土記409‐13  玉川

河伯 仁徳紀 文庫書記A242‐1


Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] ≫ 【今週のことわざ】井の ...
dictionary.sanseido-publ.co.jp ? 三省堂教科書・教材
2007/11/05 - 河伯(かはく)が初めて海へ行って、その大きいのに驚き、北海(ほっかい)の神である若(じゃく)に、「今まで黄河がいちばん大きいと思っていたのに、こんなに広いものがあるとは知らなかった。」と言った。)
北海の神の若が言った。「井戸の中の ...

北海 永田本町の海、吉見漁港
若 海若 


『よしみ史誌』 P703 猿猴銭の由来
場所は吉見上 字「丸尾」 か。 吉見上八幡宮の西、川沿い
猿猴が貨幣を持っていた点が興味深い。





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下関市 吉見周辺は記紀・万葉の中心地

2017/06/10 02:41

(考察の方向性)
上代文学(記紀・万葉、風土記各国)、地名捏造のカラクリを暴く。
  ↓
(結論)
天地の開闢、葦原の中国 の位置を下関市吉見 古宿の踏切 と特定する。


草香江
小学館 新編日本古典文学全集 6 万葉集@
P311 万葉集575 草香江の図

私見では、古代史の草香江は下関市 吉見古宿町の汐入川の河口にあった潟湖である。 山口県文書館 地下上申絵図に描かれている。 今でも古宿踏切、吉見竜王町は草ぼうぼうの地であり、正に草ヶ江だ。

騰波の江 (常陸国風土記 筑波の郡) 風土記363‐13
「騰波の江」 の字面は古宿の汐入川で草香江。 吉見竜王町だ。

私流の読み方、解釈
日本武尊の東国遠征は捏造だ。 都の某所を国名・地名を替えて書いている。
龍田は竜王山の農免道路。 船越は足柄の峠でもある。


射水川
越国の射水川は下関市の永田川である。
永田郷 字「的場」  的場公会堂
永田郷の石川書道教室看板近くに昔あった日野八幡宮では1月19日に弓の行事が行われていた。 万葉集3236 の石田之社之須 は石田さん家(永田郷 598番地) 近くの日野八幡宮跡である。
山口県風土誌 第9巻 P414

永田郷 石川書道教室さんの先祖は北陸の越国から来たと伝わる。
大伴家持 越中国  梅ヶ峠の山菅溜池に家があった。

大伴池主 越前国 万葉集4073 深見村
  永田郷 和田第一踏切近く 国道の西側 字「深田」
  永田郷 字「石王田」 の道向かい 字「深井田」
のどちらか。 字「深田」 だろう。

伊都国の一大率は永田郷の武者たちだったか。


永田川は国道で谷迫るラブホテル セピア 前にある大池がある所では宇治川である。 山代の国の淵が女 苅羽田刀弁。 この「大国」 が「大池」 の地名由来である。 ゼンリン地図ではラブホテル セピア前の溜池名が記されてないが「大池」「大堤」 という。


常陸国風土記 信太の郡  風土記365‐14
その里の西に、飯名の社あり。 こはすなはち筑波の岳に有す飯名の神の別属なり。 榎の浦の津あり。 すなはち駅家を置けり。 東海の大き道にして、常陸路の頭なり。 所以に、伝駅使等、初めて国に臨まむとするに、先ず口と手を洗ひ、東に面きて鹿嶋の大神を拝み、然る後に入ることを得。

竜王山を真東に望む場所はJR吉見駅、吉見支所あたり。
吉見支所がある所 字「四ノ宮」


龍王神社の乳母屋(ちもや)社の祭神 玉依姫命
播磨国風土記 神前の郡  高野の社 玉依比売の命 風土記99‐末行

龍王神社 乳母屋は聖徳太子の壬生部に通じる。

播磨国風土記 餝磨の郡 含藝の郡  風土記29−末行
他田の熊千、瓶の酒を馬の尻に着けて この記述より尾袋

「乳母」 の読み
国語辞典では ウバ
永田郷妙寺 の郷土史家 福本 上(のぼる) さんの本では チオモ


助川
常陸国風土記 久慈の郡  風土記415‐3
助川は吉見の西田川

日本書紀 神武東征
大来目は畝傍山の西の川辺の地 文庫書記@240‐末行
西田川の下流 字「西」「西田」。 来目邑は吉見里町か。


膏腴
隋書俀国伝 土地は膏腴にして

文庫書紀B202-12 土地膏腴えて
文庫書紀B216-6 膏腴えたる雌雉田

常陸国風土記 総記 風土記357-4 物産の膏腴くになり

出雲国風土記
秋鹿の郡 風土記191‐3
出雲の郡  風土記219‐10 百姓の膏腴なるなり

出雲の大川 源は伯耆と出雲との堺なる鳥上山より流れ

伯耆(ははき) は母(妣) で、鳥上山は古宿の大葉山堤・横尾鼻


妣の国、根の堅洲国
母木邑
万葉集1732(祖母山)、1224
文庫風土記下328 伯耆国号

古宿踏切の南 字「中
  ↓
膏腴の場所  吉見古宿町 踏切北側の田んぼ
出雲国の斐伊川も吉見古宿の汐入川で、河内国の草香江と同じ所



葦原色許男の命 葦原醜男
葦原の中つ国 葦原の瑞穂の国

難波江の風物、葦

葦浦  近江、安房
葦北  肥後
※ 以上はすべて同じ場所。 下関市 吉見古宿町・吉見竜王町

葦茂る場所は吉見古宿町のJR 踏切の北側で、ここが高天原の天つ神が出雲勢力と葦原の "中つ国" の支配をめぐって争った場所である。
吉見の古宿踏切の北側が記紀・万葉の「葦原の水穂の国」 で、隋書倭国伝などにある膏腴の地である。


開闢  古宿のJR踏切 ・・・ 原始・古代の潟湖
船 水蛭子
牙の如し  国常立尊 可美葦牙彦舅尊
譬へば浮の猶くして 


皇居の位置
湿地、雨降ればぬかるむ場所は住居に適さない。
昔から多くの人がいた所には寺がある。

倭国の吉見王朝(河内国) の首都は光善寺あたりだ。





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奈良時代の吉見文学

2017/06/08 04:06

記紀・万葉、風土記などは下関市吉見の話である。
播磨国風土記、出雲国風土記、常陸国風土記はどれも吉見。
主な場所は吉見下で、永田、福江大塚も入る。

出雲  福江大塚の踏切
宇迦  大塚の踏切 〜 国道下のサザエを採っている岩場

高志=播磨国讃容郡 仲川 船越の中川さん家
高志の道前の角賀は ふくふくうどん前の崖海岸
角賀の気比の大神=宇迦の御魂 国道下でサザエを採っている岩場

黄泉の穴  断崖海岸 建設資材置場の海岸に昔あった洞窟「姥ヶ懐」

大和の倭は有冨上。 平城京は永田郷妙寺か。
以前は常陸国風土記は下関市有冨と思っていたが、駿河の福慈の岳は福江の鋤先山で、筑波の岳は竜王山である。

同じ場所を国名・地名を替えて書いており、船越は高志、越、上野、信濃などである。 難波、穴門豊浦宮は古宿の畑建設あたり。 JR吉見駅近くの踏切から眺めて坂東(関東) は船越の峠で、防人の地は吉母の御崎。

根の堅州国は光善寺。 万葉集の「片山」 は光善寺。
陸奥の石城は鬼ヶ城。

隋書俀国伝の場所は吉見古宿町、尾袋である。



顕宗紀 歌謡 文庫書記B110‐4
脚日木の この傍山(かたやま) に

傍山=片山 で光善寺
「脚日木」 は母木(おものき) の巨樹。 槻の百垂る枝か。

小字「木ノ下」 は2か所ある。
吉見下 光善寺の西「田中」 ・・・ 母木邑 「母」 とは根の堅洲国の「妣」
永田郷 吉母へ行く道のラブホテル 水中の巨樹 扶桑  暘谷は妙寺


山海経 海外東経
青丘国  有冨上の字「中村畦」  (根拠) 綾羅木川北岸の有力集落
黒歯国  船越または古宿  次説 豊浦町黒井か
湯谷  永田郷妙寺  次説 吉見温泉センターか
扶桑  永田郷 御堂遺跡近くのラブホテル 次説 吉見の光善寺西「田中」 か 


五十日子王 「五十日」 より扶桑樹があった永田郷の人である。
ttp://nihonsinwa.com/page/2808.html




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吉見下 尾袋の赤石堤 多利思比孤

2017/06/05 18:33

農免道路(県道244号 下関川棚線)
船越−千石岩の間 アップダウンの場所は古い街道で 字「縄手」
「縄手」 広辞苑で意味を調べると「まっすぐな道」 である。
  ↓
 カタ(条)
万葉集3412 上野国 碓氷峠か
岩波 万葉集の注釈から「天能梯建」(あまのはしだて) もここか。
天磐盾、来目部小楯のまたの名は磐楯 に通じる。


播磨国風土記 宍禾郡 御方の里 風土記91‐3

播磨国 宍禾郡  福江大塚〜船越〜尾袋配水場

文庫風土記A214‐末
乃ち石河の水を引きて、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦、四処の郊原に潤けて、墾りて四万余頃の田を得たり。

「墾りて」 の文言より、常陸国の新治、推古天皇の小墾田 に通じる。
葦原志許乎の葦原は難波宮の葦原でもあるので、大国主神は吉見竜王町の生まれ育ちだった。
福江大塚の字「矢瀬」「矢びつ」 は矢田(八田、八上)、八丘八谷
天八湍河 (先代旧事本紀) 字「矢瀬」

安師(あなし) 穴門 豊浦宮 伊都都比古


風土記89‐5
ここに、大神、大く瞋り、以ての源を塞ぎ、三形の方に流し下しましき。 故、この川に水少し。
  ↓
石川の地名由来

播磨国風土記 宍禾郡 安師(あなし) の里、石作の里 の記述は
農免道路(県道244号 下関川棚線) の千石岩あたりである。

河内の石川 吉見の尾袋・光善寺あたり
山守、大石 も千石岩なので、億計王・弘計王が隠れた石屋は千石岩だ。
播磨国赤石郡は尾袋の赤石池 

風土記112 賀茂郡
玉野の村 意奚・袁奚 二はしらの皇子等

風土記119‐11 美郡 吉見下 尾
於奚・袁奚の天皇等

讃容郡 風土記83‐10
雲濃の里 大石の命


播磨国
讃容郡  船越
宍禾郡
 奪谷  船越川下流の曲がり地点 平野さん家
 国作りの伊和村 福江の大塚 1999番地 字「巴き」

出雲国風土記 意宇(おう) 郡  福江の
字「屋代」
福江 大塚  「王塚」 とも書く。


吉見下
山口県文書館 地下上申絵図 「吉見村清図(写)」「吉見村地下図(写)」
吉見下 古宿 汐入川の近辺を見ると
「小ぢく」
「津ノぢ」

「しほ入」「塩入」 の潟湖


角川日本地名大辞典 山口県 巻末小字一覧
古宿に「コヅク」 のルビ


字「夕立」 万葉集の「夕占」(ゆふけ)
字「赤石」 播磨国赤石郡 億計王・弘計王

字「後山」 山背・山代

字「立道」 立田(龍田)

字「横尾鼻」
2013年 ゼンリン地図 「横野鼻堤」
地元では「横鼻堤」 と呼んでいる。

大葉山堤
欽明紀23年7月 文庫書紀B338
韓国の 城の上に立ちて 大葉子は 領巾振らすも 日本へ向きて
韓国の 城の上に立たし 大葉子は 領巾振らす見ゆ 難波へ向きて


吉見=日本 説
http://44051510.at.webry.info/201602/article_23.html

尾袋の「袋」(タイ) で隋書の
帯志比古大稲男 風土記122‐2
玉帯志日子 風土記83‐9
  ↓
多利思比孤

尾袋→袋耳→豊聡耳命
尾袋配水場あたりに厩戸があった。 字「上宮尾」

尾袋→帒を負う幼少時の大国主神 古事記 兎とワニ

「日本」 は扶桑で母木邑か。 私見では光善寺あたり。

阿倍仲麻呂
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
JR 吉見駅から竜王山の月を見たものか。


奴国は難波宮で、その場所は吉見下 古宿 小津見第一踏切あたり。
万葉集4396 こつみ
小津見(つみ) 、木積(つみ) は音が異なるが「古宿」 の地名考察より通じる。   

草香津は古宿の汐入川河口  地下上申絵図を閲覧すれば潟湖あり。

福江大塚 猿田池から須賀は大塚公会堂あたり。
用明記の須賀志呂古は大塚踏切近くの白石さん家(1927番地) か。

地下上申絵図 福江村清図
新免川の下流 「白石」「西畠」
船越川の下流 「川の上」「北小路」

C227-3
尾張国山田郡 少治田連薬
吉見下 字「山田」




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永田郷 妙寺 伊都国

2017/05/29 00:27

梅光学院大学 梅ヶ峠校舎跡の周辺
万葉集564 山菅溜池

大伴家持の家は梅ヶ峠にあり梅の歌を詠んでいた。

穴門の都比古と播磨国風土記 賀古郡 都比古は名が似る。

風土記25−4 赤石の郡 林の潮  永田神社の北隣 字「林」

扶桑
梅光学院大学 梅ヶ峠校舎跡の周囲には若王子溜池、王地溜池、山菅溜池があり、これは「淮南子」 の暘谷、咸池である。

末盧国は室津・御崎
永田郷の妙寺、梅ヶ峠は越中国、筑紫の高千穂宮、伊都国

奴国 難波 吉見古宿 小津見第一踏切  万葉集4396 こつみ
小津見(つみ) 、木積(つみ) は音が異なるが通じる。   
草香津 吉見古宿 汐入川河口

龍田の「龍」 は竜王山だ。
万葉集81の伊勢処女は吉見上にあった滝本神社である。

母木邑 光善寺あたり 住職 二木さん家、字「木の中」 
紀伊国の熊野の有馬村 文庫書記@40−5
道の辺に大きなる桃の樹あり 文庫書記@54‐2

続日本紀C279-1 歌垣
少女らに 男立ち添ひ 踏み平らす 西の都は 万世の宮
淵も瀬も 清く爽けし 博多川 千歳を待ちて 澄める川かも


双子の都
西の都 永田郷 妙寺
東の都 有冨 字「中村畦」


下関市立考古博物館の周辺
播磨国風土記 揖保郡 風土記67−7
神嶋。 伊刀嶋の東なり。 神嶋と称ふ所以は、この嶋の西の辺に、石神在す。 形、仏のみ像に似たり。 故れ、因りて名と為す。 この神の顔に、五色の玉あり。 また、胸に流るる涙あり。 是も亦五色なり。 泣く所以は、品太の天皇のみ世に、新羅の客来朝けり。 すなはちこの神の奇偉しきを見て、非常之珍の玉と為ひ、その面の色を屠りてその一瞳を掘りき。 神、由りて泣く。 ここに、大く怒るすなはち暴風を起こし、客の船を打ち破りき。 高嶋の南の浜に漂ひ没みて、人悉に死亡りぬ。 すなはちその浜に埋めき。 故れ、号けて韓浜と曰ふ。 今に、其処を過ぎる者、心を慎み固く戒み、韓人と言はず、盲の事に拘はず。

  ↓
神嶋  原始・古代は嶋または半島だった綾羅木郷台地
石神  字「石佛」
高嶋  高山遺跡 (綾羅木駅近く)  
南の浜  明見田川の河口 鼻ヅラの黒崎妙見

中山神社 字「勝ヶ野」
万葉集275、1171

揖保郡  勝部(勝谷・秋根)、漢部(綾羅木)


記紀、万葉集、風土記などの上代文献は美辞麗句の文学であって、地名を整然とした行政地名と解してはいけない。 都道府県(和名抄の国名) とは無関係である。






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日本史の出発点  下関市 永田郷の大池

2017/05/27 23:37

播磨国風土記  風土記71−8
その時、客神、剣以て海水を攪きて宿る。

播磨国風土記 揖保郡
天日槍のオノゴロ島に通じる記述がある。
播磨国風土記は下関市永田なのでオノゴロ島は下関市永田の海岸にあった。

オノゴロ島に通じる話は
垂仁紀 34年3月2日 文庫書記A46−12
山背大国不遅が女なり。
天皇、玆に、矛を執りて祈ひて曰はく
に見られる。 この場所も下関市永田である。

垂仁記 山代の国のが女、苅羽田刀弁


文庫書記A24−9 近江の鏡村の谷の陶人
豊浦町黒井 大門の鏡山を近江の鏡村とすれば菟道河は永田川である。
永田川で急流の場所はラブホテル セピア前、溜池名「大池」 の場所である。
この場所が記紀・万葉の宇治だ。

万葉集7
金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兔道乃宮子能 借五百磯所念


菟道稚郎子と大鷦鷯尊の譲りあい
億計王と弘計王の譲りあい
は同じ場所であり、この場所もラブホテル セピア前の大池溜池 あたり。


万葉集96
久米禅師、石川郎女
石川郎女は石川書道教室さんの先祖
久米禅師は伊予来目部小楯と同族

山門
神功紀 文庫書記A140‐8 山門県 土蜘蛛 田油津媛
播磨国風土記 美袋郡 風土記121‐9
間の国の山門の領に遣はえし山部連少楯
  ↓
神功紀の山門県と針間国の山門は同じ場所である。
国道沿い ラブホテル セピア がある所の地勢は「針間」 と表現される。

山門は大池溜池の出入り口 字「白潰」「石神」「入尾」
字「入尾」 は記紀・万葉の三尾だ。

文庫書記B48−5
石田君は石川書道教室近く、徳永第一踏切を渡る永田郷598番地の石田さん家だ。

下照媛 歌謡 文庫書記@128‐末
天離る 夷つ女の い渡らす迫門 石川片淵 片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵

文庫書記@112‐8
下照姫、亦の名は
万葉集277  山背 槻村
風土記61‐12  宇治連等の遠つ祖、兄太加奈志

石川書道教室さんの先祖は石川王、石川卿、石川朝臣、石川郎女、石川夫人

万葉集
154 石川夫人 大山守
155 日野八幡宮は天智天皇の山科陵か。 この山科は黒井大門の鏡山か


Google で 【 白潰 】 を検索したら、愛媛県(伊予) の山岳地である。
東温市 Wikipedia
白潰は松山市、今治市の両方の境にある。

丹後国風土記 逸文 筒川の嶼子(水江の浦の嶼子)
伊預部の馬養の連  永田郷の石川書道教室付近に家があったか。


日本史  永田郷 国道 ラブホテル セピア付近
石田社(いはたのもり)  日野八幡宮跡 石田さん家(永田郷598番地) 近く

顕宗紀
文庫書記B110−4 歌謡 脚
「足木の山道を越える」 は ラブホテル セピア前の山道である。

五十  永田郷 字「石原」 あたりか

風土記39−4
大野 村上の足嶋  妙寺の村上さん家か

風土記115−4 間・端鹿(はしか)
山の木に菓子なし。  万葉集101 巨勢郎女
風土記113−7 頭注14 石川と同じき祖

穂積の里  妙寺の穂積さん家

風土記27−14 斗形山
海岸部ではないが妙寺の形山さん家を思わせる。




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播磨国風土記=永田風土記

2017/05/25 07:28

久しぶりに播磨国風土記を読み返してみたら下関市永田の地誌だった。


笠間書院の案内誌 『リポート笠間』 No.62
特集1 いま全力で取り組むべきことは何か
  ↓
邪馬台国の場所を発見することである。


1994年の電話帳
梅光女学院大学 永田郷 永田妙寺365

古事記、万葉集、播磨国風土記、竹取物語の現地は下関市永田本町、永田郷、妙寺だった。




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近江国の鏡村

2017/05/24 15:00

下関市豊浦町 黒井の大門 に善明寺があり、当寺の東の方に鏡山という山林がある。 『豊浦町史 三 民俗編』 P454

また、
吉永の 植田遺跡  吉永839番地
大門古墳に近い植田遺跡から鏡片が出土している。
参照 『 豊浦町史 三 考古編 』  P503〜510  平成4年
梅光女学院大学 地域文化研究所 国分コレクションの資料 となっている。
「漢式鏡の残欠」 といわれていたが、調査で倭製方格規矩鏡の破片とされる。
製作年代は、4世紀後半〜5世紀半ば  
丹朱が付着し、手慣れの跡
6世紀半ばに投棄

この場所を 文庫書記A24‐9 の
垂仁紀 天日槍の「近江国の鏡村の谷の陶人」 とすれば、

菟道河  永田川
鏡村  黒井の大門
近江  黒井
若狭  涌田
の出嶋  「馬」 より御崎馬がいた御崎 字「淵ヶ谷」 の丸瀬
御崎の淵ヶ谷は石灰岩層
  ↓
豊前国風土記 逸文 鹿春の郷 新羅の国の神
の場所は下関市吉母の御崎 字「淵ヶ谷」 である。




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日本の出発点 下関市永田 説

2017/05/23 03:35

当ブログの過去記事
日野神社の宮守をしてきた石川家
http://44051510.at.webry.info/201303/article_83.html

邪馬台国の都は梅光学院大学 梅ヶ峠廃校舎付近にあった
http://44051510.at.webry.info/201211/article_2.html

永田郷の由緒古跡
http://44051510.at.webry.info/201405/article_6.html


妙寺の小字「そら」  空、虚見津

広辞苑 第6版 で「そ」 を引いて
馬を追う声「そ」
十、背、磯、阻(山が険しい)、麻(そ) など。


永田郷 妙寺
万葉集
3236 隴屋(おかのや)  字「岡ノ屋敷」

3242 三野の国 
高北  字「北ノ迫」  場所的に妙寺は高北である。
八十隣之宮  若王子溜池など
山 奥山 おきそやま

梅光学院大学 校舎跡南側の字「若王子」 は「なっこうじ」 と読む。
文庫書記C342 歌謡 若王子は建王か。

天若日子  美濃の国の藍見河の河上なる喪山
豊洋台1丁目 美濃ヶ迫溜池

梅ヶ峠は山口県地名明細書によれば「楳ヶ垰」 と表記されている。

国道の梅ヶ峠は新しい道であり、それまでは東側のヶ峠が利用されていた。 人と牛が通れる幅だけの細い山道で通行する人は少なかったという。
ヶ峠は厚母の字「王地」 集落から永田郷 字「大原」 に抜ける道である。
  ↓
万葉集3327 百小竹の三野王

景行記  坂手の池を作りて、すなはちその池にを植ゑしたまひき。
笹ヶ峠溜池か、あるいは字「植竹」

万葉集
越中国 大伴池主  若王子溜池
梅を詠む歌  梅ヶ峠
山菅  山菅溜池
谷迫 (たにせばみ)  字「石神」 ラブホテル セピア 


永田郷 妙寺 福本 上(のぼる) さん家あたり ・・・本を何冊も出した郷土史家
福本 上さん隣の永野さん家が妙寺の庄屋だった。

字「大原」 に大原真人今城の家があった。
山口県風土誌 9巻 P403
永田郷
境界
西之方より北之方え廻り厚母村との境は、右寺之上山より蕨ノ尾伝ひに下り、アサラノ浴を横切り梅ヶ垰え下り、畠の岸え廻り堀切り有り此堀切境、此□当村之妙音寺より厚母村の大休庵え出る道を横切、尾筋え取付、遠見場山・長尾山迄尾続峰尾切、長尾村より大原浴を横切、堀切境ひ尾筋に取付、船ヵ浴北之尾え取登り、榎ヵ谷頭迄尾続を登り、此所迄厚母村との境也。


遠見場山  梅光学院大学 校舎跡の高台か。
長尾  永尾さん家かとも思えるが大学跡の東側か。
大原浴  字「大原」

船ヵ浴
北之尾
榎ヵ谷頭
といった場所は梅光学院大学 校舎跡の東側だろう。

草場山は永田側の浄満寺、厚母大仏南の集落から見たら峰2つの二上山だ。




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永田本町 永田郷  −日本の出発点−  

2017/05/23 01:51

鰐(和珥、和邇、丸邇、丸部) は吉見の古宿 字「丸山」「丸尾」 の海人。
熊鰐は永田本町3丁目 日の出幼稚園(浄専寺)、永田神社の海人である。
万葉集3193 嶋熊山

出雲の石クマの曾の宮にます、葦原色許男の大神をもち斎く祝が大庭
大国主命は 吉見竜王町−古宿−船越−福江大塚 の人である。
葦原は難波なので難波宮は古宿か。 難波根子建振熊命は古宿の人。


永田
永田本町3丁目に津守さん家は2軒ある。 永田川沿いの家は町内の別の場所から移ってきて新しい。 津守氏は住吉神と関係深いので、住吉神は永田神社付近。


万葉集109 永田郷 バス停 永田石原 石川書道教室
津守之 永田本町3丁目−3−6 津守さん家
  ↓
万葉集5 讃岐国安益郡
歎居者
永田本町3丁目 字「浦」 が「占」 の地
神功皇后の船が洞海を通る時に祈祷のため伊賀彦を祝として祭らした所。

水産大学校  製塩の六連式土器が出土

寸乎
永田郷の塩田地に鶴が飛来 字「白潰」
網能浦  網代ノ鼻 字」「安代」  海上自衛隊 下関基地隊

竹取物語の冒頭 讃岐の造
水産大学校裏、寮がある所に竹が生え赤土である。 字「丸山」

万葉集
220
221
上乃宇波疑 字「野屋敷」 浄
作美(さみ) 乃山
歌人 誓沙弥 まんぜいさみ もとの名 笠朝臣麻呂
吉見との境に笠山がある。

222

4472 讃岐守安宿王
於保乃宇良 大浦
1763 左注 沙弥女王
間人宿祢大浦 290 に既出

於保乃宇良、大浦 は永田郷 字「御堂」 か。
1615 安岡港の字「大浦」 は遠江国で投馬国か。

291 小田事 勢能山
永田郷 妙寺 字「小田」 「小田ノ内」

永田郷 妙寺の字「日ノ殿」
妙寺の春光苑の裏、446-2番地 穂積さん家の横に日野殿の廟がある。
  ↓
288 穂積朝臣老

3 間人連老 内野
4 内乃大野
妙寺 字「野中」「内山」 か

妙寺 字「大居」 (「ダイ」 と読む)

梅光学院大学 梅ヶ峠校舎跡 テニスコートの下 字「王地甲」「王地乙」
羽白熊鷲は妙寺の熊野さん家の先祖であろう。
神仙境では土地・動植物、すべてが白い。 羽白熊鷲は空飛ぶ仙人である。

妙寺 国道の道は新しく、古い道は消防機庫の前にあり県道だったという。

妙音寺の陽光苑南側の小字「白石」
しずかうどん梅ヶ峠店があった場所(現 コーヒー店) の小字「神ノ前」

山門県は妙音寺の字「寺門」「山ノ内」 か。 

永田川は天の川(天漢)


佐伯山 佐伯は武具を身につけた蝦夷(関西系) である。
  ↓
海上自衛隊下関基地−網代山−箙山−コオラ折−砕石場−吉母
佐伯山は箙山であろう。 コオラ折は「高浦折」「河原折」 と書かれる。


国道 水産大前信号機 セブンイレブンの東に宮地嶽神社がある。
ここが金之三埼か。

浄専寺 山号 金出山
『よしみ史誌』 P536‐4行目
なお往昔当山はエビヤ金出山麓に在りたるを後、現地に移転せり。
  ↓
昔は水産大学校の裏あたりにあったもよう。
金之三埼は水産大学校の裏山であろう。

塩津  浄満寺の南 字「古塩浜」
高島  浄専寺・日の出幼稚園か。 綾羅木の高山遺跡か。

1232 神乎斎祀
永田本町 字「浦」(109 津守の
  ↓
浄満寺
「よしみ史誌」 山号 桜尾山 師 津守土佐之助宗綱
明治初年まで境内に遥船寺と称する下寺があった。
「山口県風土誌」 山号 海福
  ↓
浄満寺は航海で神の助けを祈る寺だった。


大海  永田本町・吉母の海
播磨国風土記 託賀郡 風土記101‐10
昔、明石の郡の大海の里人
兵庫県明石市の海は「大海」 という表現はできない。 「大海」 なら外海だ。

文庫書記A132‐2 仲哀天皇
便ち高き岳に登りて、遥に大海を望るに、曠遠くして国も見えず。
水沼県主猿大海  猿田彦が阿耶訶で比良夫貝に手を咋われて沈んだ場所も永田本町1丁目 セブンイレブンあたり。

吉備上道采女大海

大海人皇子(天武天皇)

今昔物語集
震旦付国史 「秦始皇、在感楊宮政世語 第一」 に「大海」 の文言が出てくる。
岩波書店 新日本古典文学大系 今昔物語集A285-8、10、12
大海ニ高大魚ト云フ大魚有リ


1233 栲島  蓋井島


不老不死の里である吉見・永田の海岸は赤石である。 「明石」 とも表記。
  ↓
関西政権は吉見・永田の赤石を信仰して熊本県宇土の赤石を石棺に使う。
関西政権は呉の孫権の遠征軍が建てた国で日本書紀では呉国と書かれる。




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船越

2017/05/22 03:59

邪馬台国(記紀・万葉、風土記などの全国範囲) はバチカン、モナコ、ルクセンブルクより小さい米粒ほどの国である。
久々に万葉集 漢字原文 を読んでみたら吉見の船越周辺が主舞台である。

千石岩の「千石」 は万葉集では千石破で「ちはやぶる」 と訓む。
神功記の待酒と読み併せると淡海国は福江の猿田池あたり。
角賀は船越川の下流。
金の三埼は古宿のどさん子ラーメン店前の岩礁 「船釘」 か。
「ちはやぶる」 場所の範囲は農免道路脇の千石岩から船越川河口。

山背の氏河 船越川
木国(紀伊国) は竜王山の巨樹を伐採して船を造り山から下した船越峠
船越川は木積(材木流し) の川で、田上山は船越の田上さん家。

待酒は八俣大蛇の酒と場所と同じ。
万葉集555 丹比縣守 「たぢひ」 はマムシ 

船越川流域は山・川が風水の吉祥地である。

福江の猿田池〜船越〜龍王神社〜光善寺〜古宿浜
は記紀、万葉、風土記の主舞台である。


山口県風土誌(九)
船越   
大綿津見神社々説に、神功皇后三韓を征伐に幸させ給ひし時、此山<千母乎嶽>に登臨み玉ひて大神に祈り玉ひ、又山内屏風谷に楠樹ありしを伐て四十八艘の御艦を造らせ、山の峠を引越して海辺たに出させ給ふ故、其峠を船越と名づくと云へり   P402


防長地下上申 第三
右小村之内船越村と申ハ、往古神功皇后異国御退治之節竜王社より為御船馳走数千艘之御船御造被成候て、大久保と申処迄御下被成候、其節船越と申ならわし候由申伝候   P333上

大久保山共津の嶋山共云
但往古竜王山より数千艘之船造り下し被成御跡有之ニ付、大久保山と申伝、又ハ津の嶋山とも申ならわし候   P334下


播磨国風土記
神前の郡 風土記99‐13 的部(いくはべ)
永田郷の字「的場」 ではなく吉見の尾袋
  ↓
古事記 倭建命  尾張国 美夜受比売 大御酒盞=的部

冑丘 都比古 伊予来目部小楯 伊都都比古と名が似る。

石坐の神山 千石岩の竜王山
高野の社 乳母屋社の祭神 玉依比売


讃容の郡 風土記81‐11
船引山  船越から大久保の海に出した。

「近江の天皇のみ世」 とあるが斉明紀 文庫書記C366‐6 に
駿河国に勅して船を造り続麻郊に引いて夜中に艫舳が反転した。
難波の近くと思える。

古事記 倭建命の東征 走水の海 船を廻らし

万葉集
3430 斯太(しだ) の浦 駿河国
3431 足柄の安伎奈の山に引こ船

3397 常陸の浪逆(なさか) の海の玉藻 引けば

有間皇子 文庫書記C344‐7
守君大石 景行40年7月 大皇子の後
坂合部薬  物部薬  続日本紀 少治田連薬(尾張国山田郡) 





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石田

2017/05/21 08:54

万葉集
1730
石田  永田郷 字「石田」「石王田」
山道  永田郷から吉母に入る道。 須恵器生産の稗尻遺跡がある。

真土山 稗尻遺跡

木国(紀伊国) 船越
永田郷 字「木の中」 ラブホテルがある所

55 木人
543 木道  
1680 木方

室津へ行く山道も考えられる。


永田郷 妙寺 から梅ヶ峠を越える国道191号

バス停 永田石原
平野鉄工所から東へ行って踏切を渡った所に石田さん家がある。
永田郷598番地 石田さん家
万葉集3236 山科之 石田之社之 須




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みぬめ

2017/05/19 10:05

みぬめ浦 敏馬、見宿女、三犬女

敏馬の浦=文庫書記@188‐1 海神の乗る駿馬
高速船を駿馬とする騎馬民族風のたとえ。

仁徳記 枯野 も同じ場所か。

田辺史福麻呂
「福」 は福江、吉母の字「福太夫」(吉母郵便局)

表記 三犬女は宗像三女神、犬女は犬食い人種を思わせる。
海幸彦の隼人も犬吠えをしてた。

永田と吉母の海岸境界にある眼ノ崎は (ミヌ)メの崎 の転化か。
敏馬の崎 岬  眼ノ崎か
敏馬浦 砂浜

若宮年魚麻呂
永田郷 永田石原バス停前の小字「若宮」 か。
塩津菅原が永田郷の塩田地なので、鶴の飛来が多かったと推理できる。


候補地
古宿 どさん子ラーメン店
眼ノ崎
吉母漁港
大河原にある砂浜




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万葉集下関の海

2017/05/19 04:02

記紀、万葉、風土記の範囲は 石原・有冨〜吉見・吉母〜室津・黒井

万葉集を読むと、秋根、一の宮、勝谷、長府はない。
綾羅木川の右岸、石原・有冨から室津の範囲である。

海岸部は地形から場所を見つけやすい。

黒嶋の北側−吉母の大河原
遠浅の岩場が広がり海産物が多く「海部」「海幸彦」 の地
吉母浜遺跡 弥生時代のアワビおこしが出土

神功皇后の三韓出征は 吉母漁港→黒嶋→蓋井島 と渡ったと地元で伝わる。

吉母は鯛の一本釣り漁が盛んで浦島太郎を連想させる。
1715 吉母 字「平山」 か。

淡海は室津ヨットハーバー
相坂は吉母上と室津上の境 「一盃堂」

宇治は船越川 字「赤松ヶ尾」「王仁」
赤松子は中国仙人の名前


1236 竹嶋  蓋井島
日本書紀 竹嶋  毘沙の鼻に上がる急坂にある竹林


1732・1733・1734
碁師  吉見 古宿 どさん子ラーメン店前の岩礁 「船釘」
祖母山(おほばやま)  古宿 字「大葉山」 溜池
水尾埼  吉見小学校 字「尾崎」
真長の浦  永田本町
塩津  永田郷の塩田地

祖母山の「祖母」 は伊耶那美命を表す。
吉見の古宿 大葉山堤 に伊耶那美命の墓があり、
出雲の国と伯伎の国との堺なる比婆の山
紀伊国の熊野の有馬村
に比定できる。
黄泉比良坂の千引の石は農免道路脇の千石岩である。

竜王山は内日側では権現山というので、権現=熊野 である。
紀伊国とは木の国で、船越の地名由来が神功皇后が竜王山の材木を伐って船を造った言い伝えによる。
五十猛命と関係する。


3164 室津
3165 黒井ゴルフ場 字「木ノ村」 金実中伝説 飛ぶ幡

4491 菅原  永田郷 永田石原のバス停付近




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− タイトルなし −

2017/05/16 02:42

出雲国
福江の大塚、船越、龍王神社

高志は船越。 古宿の七曲、どさんこラーメン店の場所に浜宮という神社が昔あって、ここが本当の出雲大社。 根の国は吉見下の龍王神社あたり。 「堅州」 とは川が流れていない場所。

万葉集
3153 越の大山  竜王山
3883 伊夜彦  出雲の伊賦夜坂で、農免道路脇の千石岩付近

播磨国風土記 託賀郡 に伊夜丘がでてくる。 風土記105‐9
播磨国風土記は下関市永田(永田本町、永田郷、妙寺、妙音寺) なので、
伊夜彦、越国は吉見ではなく永田である。

永田郷 国道のへり、石川書道教室の石川さん家の先祖は北陸の越国から来たと伝わるが、越国=播磨国=下関市永田郷 である。


鞆浦 円方、佐伯山
永田本町の水産大学校 字「えびや」 箙山




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壱岐は吉母の黒嶋

2017/05/15 08:32

邪馬台国の場所は下関市有冨・石原〜豊浦町室津である。
この範囲に記紀・万葉、風土記の全部がある。


風土記 逸文 から、記紀・万葉の壱岐は吉母の黒嶋と思える。
吉母の黒嶋は前方後円墳の形をしているから蓬莱山であろう。
仏教以前の信仰は不老不死の蓬莱山信仰だった。

ゼンリン地図
吉母の黒嶋と字「西条」 の宗像さん家 市杵嶋姫 (瀛津嶋姫)
壱岐 「いちき」 と訓める。

淤能碁呂島、伊岐島(天比登都柱) は吉母の黒嶋で、場所が同じ。

対馬は表記の「馬」 より御崎馬が泳いで渡った蓋井島か。


前方後円墳を造った関西政権
呉の孫権の遠征軍が建てた国であり、東漢氏である。




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− タイトルなし −

2017/04/10 02:10

記紀・万葉の越(高志) は下関市吉見下の船越である。

常陸国風土記の場所は今まで下関市有冨・冨任と見ていたが、
ここ2日読み返して、御崎、吉母、吉見下、船越、福江大塚 の場所を見つけた。


小学館 新編日本古典文学全集 『風土記』
常陸国風土記
桃源郷、ユートピア、神仙思想、仙界 の文学表現が目立つ。 総論に「常世の国か」 という持ち上げはあっても不老不死や仙人の記述は見られない。

茨城の郡
P371 歌謡
「高浜」 は万葉集3220 豊国の聞の高浜 で吉母 御崎の崖海岸
豊国は北九州市ではなく下関市の本州西端 御崎の集落

行方の郡
P381‐6 行方の馬 御崎 淵ヶ谷の野生馬
P383‐9
その南を田の里と名づく。 息長足日売の皇后の時に、この地の人、名を古津比古と曰ふものあり。 三度 韓国に遣はされ、その功労を重みして田を賜へり。
  ↓
魏志倭人伝の持衰

那賀の郡
P407‐9
泉坂の中に出づ。
  ↓
継体紀の坂中井 福江の大塚・船越が近江・越の国
「曝井」 は船越 中川さん宅横の湧水「清水川」

久慈の郡
P407‐末から3行目
鯨に似た小さい丘 福江の大塚 字「生墓」 あたり
慈光寺の西50メートル

P408‐末行
池 福江の猿田池
谷会山 字「谷」

P409‐3 河内の里 船越集落の北側 字「河内前」

P409‐9 久慈河 船越川
P409‐15 清河 船越川

P411‐2 久慈の味酒 八岐大蛇を退治した時の八醞酒

P412‐3
賀比礼の高峰 竜王山
立速男の命 素戔嗚尊

多珂の郡
P416‐1
道の前 吉見下
道の後 陸奥の国 石城 吉見上

P419‐2 観世音菩薩の像、仏の浜 石槌大権現か

P419‐5
藻島の駅家 古宿の字「大駅」 どさんこラーメン店
碁石 船釘  参照 下関郷土本 『よしみ史誌』 P700


万葉集 漢字原文 にある「常」(と) を調べると常陸国は有冨上だ。




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河内国は福江、出雲国は福江大塚

2017/04/05 21:52

常陸国風土記の河内郡=記紀・万葉の河内国
河内国は大阪府ではなく下関市安岡・福江である。

崇神天皇は河内に溜池を何か所も造った。
桑間宮 文庫書記@302‐11 福江の字「桑」
  ↓
応神紀 桑津邑 文庫書記A200‐7
福江の字「天神」 か。

福江の馬渡川は大内川ともいう。 大内=内裏 の意味。

安岡ポンプ場 → 野村病院 を流れる川 竹内川 竹内宿禰か

江(あふみ) 福江は「近江」 でもある。
百済大寺 皇極紀 文庫書記C196‐6 
越(高志)、 は船越、近江は福江。

百済大寺、百済大井の候補地
 福江大塚の字「王仁」
 安岡上げの玄空寺
 横野町1丁目の水路沿い

福江の地名由来は福江与三左エ門伝説による。
『やすおか史誌』 P795 〈注〉@ に
宗広らは常陸よりの落人という。
とあり、常陸の人が登場する。

福江与三左エ門は福江の農免道路脇の流水庵に住んでいた。
河内国渋川郡に宅があった物部守屋だろう。

福江大塚の小字「王仁」 は「応神」 とも記す。
応神天皇の5世の孫で近江・越国から来た継体天皇は船越の人である。
常陸国風土記の高向大夫は船越の人である。


大己貴神を祀る神社
安岡八幡宮
河内神社 船越、吉見竜王町。 龍王神社の境内に移転。

福江の大塚 1999番地 小川さん宅の北 小字「巴キ」(わき)

常陸国風土記 久慈郡 賀比礼の高峰 の立速男命は根の堅州国の素戔嗚尊で龍王神社の上宮。

黄泉の比良坂は農免道路脇の千石岩

古宿(こずく) の どさん子ラーメン店がある所に昔あった龍王神社 下宮(浜宮) は大国主命の出雲大社である。

福江大塚の新免川または船越川は万葉集2002 の天漢(あまのがわ)。

越の八俣大蛇=日本武尊 近江の五十葺山 大蛇
古事記では白猪。 白い動物は神仙境の生き物である。
船越の中川さん宅の押入れに白蛇がいた。

居醒泉は中川さん宅横の「清水川」 という湧水池である。
藤原清河はここの人だ。
清水川は藤原池か。 清水川から夏至 日の出を見れば竜王山の頂から上る。

船越の地勢は天子南面で風水の吉祥地である。
船越の字「赤松ヶ尾」 は仙人の「赤松子」 によるか。

播磨国風土記 讃容郡
丸部の具 仲川の人 ・・・ 船越の中川さん宅
弥加都岐原 清水 執政大臣の女 ・・・ 清水川

河内の国 免寸の村人
「免寸」 は仁徳記 「枯野という船」 の免寸河。 この「河内の国」 は吉母 大河原の河内社だろうから、巨樹は吉母の大河原にあった。 穴門館、河内馬飼は吉母の大河原。


『やすおか史誌』 P47
観音岬古墳 (横野) 前方後円墳
八貫古墳 (福江林) 円墳1、金環、土器

長仙古墳の「長仙」 は身長が高い葛城一言主を連想させる。 来目水か。

福江・安岡の境 農免道路脇 細川ふとん店近くにある役行者像は
1200年前からあると地元で伝わる。 山際の小字「山王」。


上記で常陸国風土記の久慈郡を吉見下としたが無理があるように思える。

鯨形の丘は有冨墓地上の尾根、または有冨 大年池西側の小丘とも思える。

常陸国は綾羅木川の北岸で、福江・吉見・永田の海沿岸ではない。
しかし下関の郷土史本を読むと、そう断言はできない。


角川ソフィア文庫 『風土記 上』
常陸国風土記
(現代語訳)
久慈郡
「慈」 を大型漢和辞典で調べると母の幼子に対する愛情、幼子を育てる親心。
豊浦町の厚母、吉見の乳母屋社(当初吉母にあったという) が連想される。

P90‐末行
そこの切り立った岩壁は、形が一枚岩のようで、黄色く階段を掘ってある
石の「階段」 がある所は毘沙ノ鼻 畳石
(参照) 『吉母「胞塚」 伝説』 福本上(のぼる) 著 P10

P92‐15
ここ(太田の里) から北の方角に都の里がある。
大型漢和辞典で「薩」 の字を調べると仏教の漢字である。

P94‐4
助川は綾羅木川か。 下関市立考古博物館 正門前の坂道 字「助三」


多珂郡
P94‐末行
陸奥国の石城郡の苦麻の村を道後とした。
「石城」 の地形
石原の砕石場 字「壁石」
毘沙ノ鼻・御崎の断崖海岸

「道後」
・応神紀 文庫書記A202‐7 日向の髪長媛 歌謡
道の後 古破儴嬢女(こはだをとめ
・伊予の道後温泉

高向大夫
「纏向」 と「高向」 は表記が似ている。

「多珂」 と「多賀」 は似る。
古事記 伊耶那岐の大神は、淡路の多賀にまします。

P96‐1
国守が川原宿禰黒麻呂であった時に、観世音菩薩の像を彫って造った。

『よしみ史誌』 P716
毘沙ノ鼻は海上保安庁水路部調製の海図には観音岬と記してある。

吉母の大河原・御崎の空海伝説、室津のお遍路道は吉母・御崎・室津が仏教が栄えた地であった名残である。

『やすおか史誌』 P614 玄空寺
宝物 紫雲山十一面観世音菩薩木造 1尺1寸 縁起によると、安岡観音岬に、もと紫雲山東福寺という寺があって、その境域を紫野と呼んでいた。 この寺の本尊であった観世音菩薩は正徳4年(1714) 7月 紫野の海中より現じ給うたと伝えられ ...

下関市立考古博物館がある字「岡」 の南隣 字「石仏」

常陸国多珂郡では碁石を産する。 8世紀初頭の常陸国では碁が盛んだった。
下関市域で碁石を産していた場所は筋ヶ浜

大坪・武久 地誌
http://44051510.at.webry.info/201211/article_42.html

ネットの国土地理院地図で御崎を見れば、室津側に「斑石」 がある。
蓋井島の岩門、斑岩も奇観の石として有名である。




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神仙境でお花見 天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊

2017/04/04 02:10

神仙境  次の3か所で、記紀・万葉の主舞台の地である。

・有冨墓地の東上の尾根、大迫池の上 山筋が曲がった所
雲が立つ。山桜が多い。

『先代旧事本紀』 の冒頭、天祖 天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊の地
仙人が住む葛城山
万葉集3843 真朱の鉱山
皇極紀 文庫書記C218‐10 菟田山 紫の菌 芝草 があった所

文庫書記C222‐8 東国の不尽河の辺の人 大生部多、虫祭る ...
この場所は有冨墓地か。 富士山、駿河は有冨墓地の上で採石場の山。


・吉母の黒嶋 前方後円墳の形で蓬莱山

・吉母の御崎の奥地 淵ヶ谷 御崎馬の伝説、石灰岩層
銀鉱があったか。


鹿島
先代旧事本紀 巻第一
兒 建甕槌之男神 
今、常陸国の鹿嶋に坐す大神 即ち石上布都大神是なり。
  ↓
常陸国鹿島=石上神宮
石上神宮は奈良県天理市ではなく下関市有冨 ハンドウ山の尾根筋にあった。


新説 前方後円墳の形の変化
天照大神は当初、有冨のハンドウ山の上に居た。 倭姫の伊勢神宮の地。
初期の前方後円墳は有冨のハンドウ山の形で帆立貝式、撥形。

垂仁紀 天照大神は晩年に伊勢に移った。 度会県は吉母の黒嶋にあった。
中期の前方後円墳は吉母の黒嶋の形になった。




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日高見国 と 火ノ見山  (書きかけ)

2017/04/02 13:05

下関市伊倉の火ノ見山は日見山とも書き、国の表記と似ている。

日高見国
日本書紀 景行紀 文庫書記A84‐2、98‐5
常陸国風土記 信太郡は本(もと)、日高見国なり。

祝詞
『古事記 祝詞』 日本古典文学大系 岩波書店 1989年 第35刷
大倭日高見の国 P423‐末行、P449‐11

常陸国風土記の信太(しだ)郡は下関市冨任(とみとう) である。

常陸国風土記の正体は文体表現、内容、人物名から大和国風土記である。
根拠は常陸国風土記は神武東征の倭での戦いの記述と似ている。

大和国は奈良県ではなく下関市有冨上である。 常陸国風土記も下関市有冨のはずなのだが、記述の地勢・方向が有冨の地理になっていない。 角川ソフィア文庫 『風土記 上』 平成27年 P112〜117 「常陸国風土記 解説」 中村啓信 を読むと、常陸国風土記のもともとの記述が茨城県の地理にあわないので、茨城県の地理のあわせようとして原本をあちこちいじり修正して「これが正しい訓読文」 としている。

私は以下を本を所有している。 が信太郡に「黒坂命、日高見国、日高之国」 が入れられている本である。
角川ソフィア文庫 『風土記 上』
平凡社ライブラリー 『風土記』
小学館 新編日本古典文学全集 『風土記』
岩波書店 日本古典文学大系 『風土記』
山川出版社 『風土記』
講談社学術文庫 『常陸国風土記』

素戔嗚尊がいる根の国は吉見下。
久慈郡の賀比礼の高峰は竜王山だ。


纏向 有冨古墳 「纏」 は風水で使われる漢字である。
伊勢の綺宮 石原コスパ ペットショップの小字「伊勢防」
倭姫の伊勢神宮 ハンドウ山の尾根上


日本武尊
出雲 船越・福江大塚・古宿(こずく)  出雲国風土記 字「屋代」
根国 吉見下
熊成峯は吉見の竜王山である。
竜王山は内日の赤田代では権現山と呼ぶから竜王山は熊野山である。

熊襲 吉母・御崎

東征 有冨の遠山運送→石原→井田→一之瀬・内日上→赤田代→吉見上
竹水門 形山の字「竹ノ下」 蝦夷 山陰系土器、板付式土器
下毛野 井田
上毛野 一之瀬、内日上
信濃国 赤田代
美濃 吉見上 字「美野田」
越 船越
碓日坂 深坂

近江の胆吹山 大蛇 =播磨国風土記 讃容郡 仲川の里 蛇の如き剣
居醒泉 船越 中川さん宅横の清水川

石占横立 吉見 農免道路の千石岩

日高見国 小野の山
常陸国 ハンドウ山の尾根

日高皇女(新家皇女)
蘇我常陸娘

天智10年 文庫書記D56‐10 常陸国 中臣部若子 長尺6寸
=常陸国風土記 那賀郡 大櫛之岡 貝塚 巨人

筑波 竹生寺

日並べて 夜には九夜 には日を
日並皇子
隅田八幡神社人物画像鏡 日十大王

東国=

上総 小野
馳水 石原橋
駿河 当麻 砕石場

七掬脛 長髄彦

山の東の諸国 文庫書記A100‐3 吾嬬国 御諸山
=山海経 海外東経 青丘国 青は東















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城野遺跡を守る会

2017/03/30 01:55

3月25日 小倉南生涯学習センター

私見
城野遺跡 小倉南区
西は死滅 朱の石棺
東は誕生 勾玉(胎児の形)の埋納
南の窪地・溝地 朱雀
重留銅矛の埋納地 風水の案山
重留銅矛は天日矛か

潤地頭給遺跡 糸島
西は酉で金 内向花文鏡(デザインは陰陽五行) の埋納
東は若い生命力 玉作り工房
南の大溝 朱雀
南南東は巳 巳は「祀」 の つくり 祭祀


通説  九大 岩永先生
風水・陰陽五行などは飛鳥時代または奈良時代からで弥生時代にはない。
私見
仏教が入ってくるまで日本で支配的だった文化思想は神仙思想であり、神仙思想は中国思想の風水、陰陽五行、桃源郷、仙人、蓬莱山、道家、老子などである。 老子は無為(何もしない) を説いた。 日本書紀の道臣の「道」 は老子の教えである。

方格規矩四神鏡 (ほうかくきくししんきょう)
ttp://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/houkaku.html


下関市 朱
下有冨古墳
『川中風土記』 によれば、昭和15年ごろ住民が古墳をあばいたら朱塗の石棺と勾玉などが出た。 市の文化財保護課(澤下さん他) は考古資料にならないとする。 北九州市埋文の佐藤さんは「朱色はベンガラかもしれない」 という。 詳しい調査はされてない。

塚の原遺跡
ホームワイド裏の台地上で朱を作るL字形石杵が出土。 かなり使い込んだもので完成度は高い。 弥生後期。

直線上に並ぶ
竹生寺(妙見社)―塚ノ原遺跡の L字形石杵が出土した地点―秋根神社(秋根古墳)―椋野の妙見山―門司の風師山
  ↓
この西偏6°が「南北線」 として扱われていた。
「東西線」 は梶栗浜遺跡と有冨ハンドウ山登山口を結ぶ線である。

続日本紀の都は有冨の大年池堤防の破れ小屋あたり。
春日山田皇女は岩谷さん宅前のトラクター、コンバインをしまう小屋あたり。
老子の「無為」 思想なので目立つ物的証拠がない。
安河はハンドウ山登山口付近にある溝を掘った跡で水無し川。


吉田八幡宮
朱塗の石棺、仿製の内行花文鏡
私見は、内向花文鏡のデザインは方位に関する。
吉田八幡宮は有冨のハンドウ山登山口から方位磁石 西偏7°で寅(東北東) の方位である。
※ ハンドウ山登山口付近または竹生寺を基点として方位を見る。

『豊浦町史』 によれば、室津の甲山、黒井の八ヶ浜で朱が入った壺を拾った人がいる。




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日明一本松塚古墳の壁画は「八紘一宇」 を描いたものである。

2017/03/30 01:03

邪馬台国の位置は下関市有冨のハンドウ山登山口付近である。
この場所が記紀・万葉、続日本紀の都である。
考古学の業界はまったく的はずれだ。

青銅器、鉄器その他副葬品から階層性を分析する考古学業界の在り様は馬鹿であり、重要なのはモノよりも文化思想である。 倭国の文化思想は神仙思想であり、神仙思想は中国伝来のものであるから風水、陰陽五行、易経、道家思想を観察のモノサシにすべきである。 神仙思想は不老不死の仙薬などモノもあるが、まずは方位である。 方位は神威である。


十二支 
十干
八卦 連弧文鏡のデザインは八卦鏡に似る。
五行 上の山古墳(6世紀前半) の鈴付き釧


連弧文鏡 前漢
稗田地蔵堂遺跡
立岩堀田遺跡

ネットの国土地理院地図を使って
下関市有冨ハンドウ山登山口 と 立岩堀田遺跡 を線で結べば
  仁馬山古墳
  垢田交差点東側(稗田地蔵堂遺跡)
  武久浜(半両銭)
  彦島八幡宮北側
  小倉北区 日明小学校(日明一本松塚古墳)
  槻田小学校付近(高槻遺跡)
が直線で並ぶ。 方位は未(南南西) だ。 夜の食国の方位か。

『安倍晴明占術大全』 藤巻一保 著 学研 2000年
P86‐1行目
(未は) 卦では天山遯をあてる。


日明一本松塚古墳の壁画
下関市有冨字「中村畦」から各方面の方位が描かれている。
竹生寺−有冨墓地東側 の尾根筋も描かれている。
  ↓
この壁画は「八紘一宇」 の絵である!!

前漢の連弧文鏡と6世紀後半の日明一本松塚古墳とは600年以上の隔たりがある。 しかし「神威の方位」 は消せない。

弥生前期
前漢時代の風水、陰陽五行、易経、道家思想は「最先端の文化」 として北部九州・下関に入っていた。



『金属器登場』 歴史発掘 7  講談社 1997年
岩永省三 著
P44 倭人は、中国鏡の図像の意味と、その細部表現が理解できなかった。

私見は岩永先生とは逆で
倭人は中国鏡のデザインの意味を理解して欲しがったので威信財ではない。
「倭人」 は下関の人たちで俗物たる関西の連中ではない。

『岩波講座 日本歴史 第1巻 原始・古代1』 2013年
P103〜P134
「東アジアにおける弥生文化」 執筆 岩永省三 
私見・反論
日本書紀では神宝は倉の奥にしまって人前で見せるものではない。
日本書紀には考古学者がいうような威信財は登場しない。

邪馬台国九州説の文献的根拠は旧唐書である。
古田武彦に影響を受けた人たちは、西暦700年前後まで関西政権の「日本国」 とは別に九州王朝の「倭国」 が存在しており、東遷はなかったと見る。

私は邪馬台国=旧長門国豊浦郡 説である。 その根拠は和名抄の豊浦郡には古代官道が造られなかったことである。
下関市域と長門市油谷・日置には古代官道が通っていない。

前方後円墳=蓬莱山 説
前方後円墳のデザインは神仙思想の蓬莱山である。




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吉母 自費出版の郷土本から

2017/03/21 14:37

『よしみ史誌』 P714 出合薬師
室津村の田中殿という御仁と吉母村の真鍋殿と申される御仁

『豊浦町史 二』 にある中世の豪族
真鍋氏は室津上 字「山中」  後に吉母に進出
吉母 若宮神社の記録に真鍋氏
万葉集1669 三名部(みなへ)の浦 「なへ」 は真鍋の「なべ」
万葉集1 語呂で「ナベ」

若宮神社の宮司 須子さん宅 江良にある。
「須子」 は広辞苑などに「素子」(すこ) として意味が載る。

田中殿 田中朝臣法麻呂
『汀の里』 吉母の婦人会 1996年 自費出版
P93
御崎の淵ヶ谷付近の小字「田中殿」

古事記 田中臣
舒明紀 田中宮 文庫書記C176‐10

来原氏 和名抄の豊浦郡栗原郷か
古代の地名領域は広い面でなくポツンとした点だった説あり。


『吉母(汀の里)の歴史』 神功皇后は吉母を隠した
蔵田正彦 著 平成21年 自費出版
P54 三本松
石王田の栗原曲がり

P51 黒嶋神社
長門国一の宮住吉神社史料(文明13年 1431年) の「一の宮御神事年中記録注進案」 に、九月廿九日吉母大将軍並びに黒嶋神、御供へ御神楽神祭とあり、三韓退治の守護神也とし、若宮神社の左側下に祭られ、後に合祀されて居ります。


ふるさと史話(その一)
『天平の島と杜と神の水』
ふるさと史話(その二)
史料がかたる 吉母「胞塚(よなづか) 伝説』
福本 上(のぼる) 著 平成10年

私見
P6〜
住吉神社
高良大明神は吉母海岸の甲良折または大河原(こうら、こら) であろう。

穴門の速都鳥=隼 隼人
穴戸の大田、白雉=三島の雌雉田、大河内直
大河原・ゴミ埋立地あたりか。

P29‐4
「時の浦」 俗に西ノ浜という本宮より一里半ばかりにある。 「中古より神事場となれり」 向かいに小戸という浜あり。 このわたりの東の下に巌穴あり(中略)
私見
「小戸」 という浜が綾羅木か蓋井島か他どっかにある。
私見では綾羅木郷 字「宝前」 が小戸だ。

P36‐2
さざなみの里 私見では吉母漁協がある所

P47-3、P48 図
全国郷社以上の神社の約30%は「三つ巴」
長門住吉神社の神紋は「水巴」 で全国唯一

「巴」 といえば考古学の巴形銅器である。
巴形銅器と長門住吉神社の「水巴」 は関係する。

万葉集
76 巴形銅器の歌を発見!
77 御名部皇女


蔵田正彦 著 平成21年
『吉母(汀の里)の歴史』 神功皇后は吉母を隠した
P69‐9
吉母若宮神社の開基大略には『上棟南謄部州大日本国山陽道長門国豊浦郡吉母邑若宮大明神と云うは、住吉御本宮也。 古昔、神功皇后異国三韓退治の砌、新羅百済国を従え御さる。 蓋井嶋岩戸と申す所へ着かれ夫れより当所の御崎尻之御着船、玉井浜辺浦に揚がられ、近江浦堂にて御誕生御座せらる。

『住吉大社神代記』 の場所は下関市吉母、永田、吉見。 とくに吉母である。

一の宮住吉神社の神紋「水巴」 の「巴」(ともえ)
  ↓
吉母の若宮神社は住吉神社の本宮 説
  ↓
本当の水巴の場所は吉母の若宮神社がある所


角川 大字源 1992年発行 1993年3版
 象を食べる大蛇

篆文 の絵が草場川下流の流路である。
上部の日形の場所は吉母の下方
吉母若宮神社付近の字「石井迫」「宮ノ前」「大迫」



ttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%B4
小篆の絵が吉母の草場川下流の流路と合致する。


朝倉社
江良の山本さん宅の裏山 疫神社

熊襲
『下関市年表』 2011年 P6
3世紀末〜4世紀初
吉母海岸の砂丘では、弥生時代終末から古墳時代初めのころ、畿内で生産された庄内式土器や、布留式土器を使った人達が、台の付いた小型の粗製の鉢を使って、塩を作っていた。

  ↓
字「川ノ上」 にいた川上梟帥
万葉集496 三熊野の浦のハマユウ

熊襲は志賀の製塩者だったのか?
吉備の穴海 綾羅木浜 「黍」 か?


豊国
腠碕(みさき) 御崎

藤原広嗣の乱
大宰府 吉母の若宮神社
長門 毘沙ノ鼻
隼人 大河原〜御崎
豊後 御崎の奥地

藤原広嗣の乱は舞台が北九州市なのに九州南部の隼人が登場する謎がある。 北九州市在の郷土史家は和布刈神社の速門と見てきた。 風速で潮・波が荒い場所は下関市御崎だ。

大家島・値嘉島
蓋井島

関西勢力
関西系武人は東人で漢部。 山口市の関西系は俘囚(えみし) 郷。




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新説 三韓征伐

2017/03/20 04:27

新説 神功皇后の三韓征伐
万葉集366 角賀 下関市豊浦町 吉永 構造船の祭祀土器
田道間守 吉永の田島
渟田門 吉永の野田
若狭国 魚が酒に酔ったように浮いて口パクパク 涌田(わいた) の海岸

穴門豊浦宮 吉母の大河原。 海岸部 浅い岩場が広がる
万葉集304 筑紫国の嶋門=都怒我阿羅斯等の嶋浦 吉母漁港 
遠朝廷 吉母の若宮神社あたり
筑紫君の磐井 吉母 字「石井迫」
周防の佐波 吉母浜埋葬遺跡
筑後の大三輪社 吉母 字「成久」 四宮八幡宮

新羅国の王の門前に置いた矛 小倉南区 重留遺跡


都怒我阿羅斯等
都怒我阿羅斯等 額(ぬか)に角有ひたる人
神功皇后の母 葛城高媛 「顙」 (ぬか)は 頭の ひたい

高志 黒井か
出雲国 福江の大塚、船越
出雲大社 龍王神社の下宮(浜宮) 古宿の七曲にあった。

纏向 有冨古墳 「纏」 は風水の用字
倭は 国のまほらま 畳づく 青垣 山籠れる 倭し麗し
「畳づく 青垣」 は風水の表現。 有冨上は風水の都

万葉集 筑前の志賀島の製塩 志賀島は吉母の黒嶋
辛人・辛の埼  塩辛い。 関西系の佐伯部が製塩

吉母の黒嶋は蓬莱山で、吉母漁港は神楽浪
吉母漁港は黒嶋があるため波風が穏やか。
吉母漁港が「さざなみの里」 である。

吉母漁港に宗像さん宅がある。 昔から住んでいる人である。

吉母の字「東条」 胞塚 江浦(つくも)堂
『吉母(汀の里)の歴史』 蔵田正彦 著 P69 近江浦堂
応神天皇は西光寺の北 「平松」 で産まれたと伝わる。
近つ淡海、遠つ淡海だけでなく「近江」 は何か所もあるようだ。

整然とした行政地名ではないので自分なりに地名場所のカラクリを解明する。

九十九と書いて「つくも」 とは?
ttp://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kokufu/math/math_8.html


高志
A案
土井ヶ浜人類学ミュージアム裏門の川 沼川 高志国の沼河比売
高志の前 角島
渟田門 酒 『油谷町史』 P147 伊上 鴨野海中出土の須恵器甕

B案
思いつき 豊浦町吉永の地名「野田むた」 は渟田(沼田) を思わせる。
高志は黒井、または川棚



風土記 逸文 任那は魚の産地
  ↓
涌田漁港


海幸彦・山幸彦、浦島太郎
  ↓
吉母漁港 昔は鯛の一本釣り漁の地 朝鮮まで出漁




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いせどの森 吉母の字「西条」

2017/03/17 02:11

『よしみ誌史』 P711 威瀬
いせどの森 地下上申 ※威瀬の死体は「難波の姫島松原 美人死」 の話に似ている。

風土記333‐5  肥前国風土記 松浦の郡
各、弟姫子の骨と謂ひて、すなわちこの峰の南に就きて、を造りて治め置きき。 その墓見に在り。
  ↓
場所は吉母の字「西条」 小西さん宅の家裏 崖下のお堂

肥前国風土記 松浦の郡 では山の頂に沼がある。 峰の南に墓がある。
この記述に合致する所は吉母 字「明見」 の妙見。 西光寺の西にある溜池の上。

万葉集853〜865  松浦は神仙で巫峡、

大水口宿禰 Wikipedia
『先代旧事本紀』 「国造本紀」 には、次の国造が後裔として記載されている。
末羅国造 - 志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に穂積臣同祖の大水口足尼の孫の矢田稲吉を国造に定める。 のちの肥前国松浦郡周辺にあたる。


古事記 筑紫の末羅県の玉嶋里
口、沼、城、門、江浦島子

倭の人 魏志倭人伝
吉母浜遺跡からアワビオコシが出土し潜水漁が行われていた。

伊勢続麻

文庫書記A132‐2
便ち高き岳に登りて、遥に大海を望るに、曠遠くして国も見えず。
水沼県主大海  猿田彦、大伴狭手彦
吉備上道采女大海

「大海」 は地名だ。
仲哀紀 文庫書記A132‐2
便ち高き岳に登りて、遥に大海を望るに、曠遠くして国も見えず。

大海人皇子(天武天皇)

今昔物語集
震旦付国史 「秦始皇、在感楊宮政世語 第一」 に「大海」 の文言が出てくる。
岩波書店 新日本古典文学大系 今昔物語集A285-8、10、12
大海ニ高大魚ト云フ大魚有リ。


黒嶋 普陀山
http://44051510.at.webry.info/201504/article_13.html
黒嶋の細い海峡「切れ戸」 が洞海
いせどの森 神功紀の神託 向津媛
向津野大済=伊勢の度会県=いせどの森

穴門豊浦津の如意珠=潮満瓊・潮涸瓊

穴門から筑紫に向かう時、熊鰐・五十迹手が天の磐戸の儀式で仲哀天皇一行を迎えた。


神功皇后は吉母の黒嶋から渡海したと言い伝えられる。
『下関の伝説』 下関市教育委員会 昭和57年 改訂版
P133 蓋井島 見付の瀬
皇后さまが宗像の三女神に戦勝を祈られたあと、黒アの浜から船出されたとき、波間にこの島をみつけられたところからつけられました。
吉母の西条に宗像さん(433番地) という家がある。


『 卑弥呼の墓 』 原田美涼 著  平成12年 下関図書館 蔵書
P141
「この黒嶋は "墓域" で、フタオイ島とは "棺の蓋をおおう" の意味がこめられての名前ではないでしょうか?」
私の問いかけに、小野泰應氏は大層驚かれた。 心当たりがあると、ご自分で纏められた、冊子『 黒嶋観音と吉母海岸 』 を下さった。
次にその一文を紹介する。

「黒嶋は、黒嶋観音縁起によりますと、往昔は諸神集会の霊地であったと記されており、吉母のシンボルであり、信仰の霊地であります。
又、吉母の里を港を風雪から守る天然の要害として、或は、風景の要として往古より今日に至るまで、大事に守ってきているところで、鎌や鋸などを持って山に立ち入らぬという、大昔からの不文律が、厳重に伝え守られているのです。 ・・・」



伊勢は2か所ある。
伊勢  御崎
伊勢の度会県に坐す神  吉母の字「西条」 いせどの森


いや違う。 いせどの森は伊勢神宮ではない。
神功紀の神託は「向津媛」 なので陸の対岸のだ。 黒嶋が伊勢の度会県だ。
黒嶋観音 黒嶋山普門院が伊勢神宮で吉備島皇祖母だ。
黒嶋は「久留島」 ともいう。 久留=牽=引。 穴門の引島は吉母の黒島だ。


万葉集1668〜1673 吉母の黒嶋か

山口県風土誌 9巻 P437‐末行
辨天社(吉母村) 黒島神社(同上)
若宮由緒書に、辨天・黒島神と申二社は神功皇后異国への御つれ被遊候神と申伝候と見ゆ

  ↓
太平記 巻第40 神功皇后高麗を攻め給ふ事
小学館 新編日本古典文学全集 57 太平記C
P430‐7 竜宮に宝とする旱珠・満珠
頭注13
「安曇磯良ト申スハ、筑前国ニテハ鹿嶋(シカノ)大明神、常陸国ニテハ鹿嶋大明神、大和国ニテハ春日大明神ト申ケリ。 一体分身、同躰異名ノ御事也」(八幡愚童訓)。
大和国 万葉集667左注 安曇外命婦
春日大明神の場所は有冨上八幡宮(岩谷さん宅前の坂上にあった)

高良明神 大河原(おおこうら)、吉母海岸の甲原折





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逸文 志摩国 文言「可怜」

2017/03/15 15:42

下関市吉母の海岸で応神天皇が産まれた説が伝わり、いや応神天皇ではなく鵜葺草葺不合命であろう説も古くからある。日本書紀 神代下の塩土老翁・彦火火出見尊の記述は吉母の海岸だ。 吉母の海では鯛の一本釣が行われてきた。

角川ソフィア文庫 『風土記下』 P214
逸文 志摩国 吉津嶋
の記述は下関市吉母の黒嶋である。

吉母の大河原 吉津さん宅
永田本町 永田川沿い 津守さん宅

『よしみ誌史』 P711
弁財天、恵美須堂
威瀬(いせの瀬)

吉母に字「柏」 がある。 樋の口神社は天照大神を祭る。
住吉大社神代記は吉母・永田・吉見だ。

文庫書記@160‐8
可怜小汀
汀 吉母は「汀の里」 と呼ばれる

文庫書記A38‐12
是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり。 傍国の可怜し国なり。

豊玉彦の海神の宮=天照大神の伊勢国=下関市吉母の黒嶋=前方後円墳の祖形=蓬莱山


吉母の黒嶋は前方後円墳の形をしているが段築がない。 でも日本書紀 神代下と垂仁紀の「可怜」 の文言から吉母の黒嶋は前方後円墳の祖形になったと言える。

天照大神は晩年、有冨のハンドウ山上から吉母の黒嶋に移った。
 初期 前方後円墳の祖形 有冨のハンドウ山
 中期 前方後円墳の祖形 吉母の黒嶋


考古学者 広瀬和雄もたじろく私見の前方後円墳説を披露した。
下関市・山口県で考古学をやっている連中は小田富士雄含めて吉母の黒嶋を見て何も感じないので、関西・東京の研究家に訪れてもらいたい。


ゼンリン住宅地図で吉母港を見ると宗像さん宅がある。 昔からここに住んでいた人である。

三重県伊勢の志摩=福岡県糸島の志摩  両者は同じ場所か。


山口県風土誌 9巻
P434 誕生神社

P438‐1行目 乳母屋社・守屋社
吉見下の乳母屋社、黒井の杜屋神社は吉母にあった社を移した。

P439 黒島観音堂
なぜ「普門院」 を称えるのか不詳




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豊浦町の王氏

2017/03/11 14:33

『豊浦町史 二』 P220‐6行目
杜屋神社の鐘銘に見える矢田部氏、本姓を王氏、橘氏とする人々
 ↓
王氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BB%81

百済王氏
百済王 禅広(善光) 文庫書記D270‐2、D30‐12

明軍が歌一首
ttp://achikochitazusaete.web.fc2.com/manyoutorai/yomyougun/sijin.html

厚母 梅光学院大跡北側の小字「王地」

百済系王氏がいた場所は黒井・厚母か。


新羅 涌田後地

任那 文庫書記A20‐7
是を以て、汝が本国の名を改めて、追ひて御城天皇の御名を負りて、便ち汝が国の名にせよ
  ↓
室津の字「」(はざま)

新羅は涌田後地、任那は室津 字「間」 である。


角川日本地名大辞典 35 山口県
吉永 <豊浦町> P887左

吉永別府 南限 大池 隼人之流也
吉永の南に大池があった。 これが淡海か。

隼人の 「流」 は支流、あるいは血筋。
吉永と黒井の境、または黒井に隼人がいた。

『豊浦町史 二』 P307 吉永村地下上申絵図では吉永川は野川とある。

継体紀 近江毛野臣 文庫書記B208‐6
枚方ゆ 笛き上る 近江のや 毛野の若子い 笛き上る

室津・黒井の海岸の松林を「木ノ村」というので朝鮮半島に出兵していた氏は室津・黒井の人たちだろう


文庫書記D32‐11 天智3年
是の月に、海国言さく、「坂田郡の人 小竹田史身が猪槽の水の中に、忽然に稲生れり。 身、取りて収む。 日日に富を致す。 栗太郡の人 磐城村主が新婦の床敷の頭端に、一宿の間に、稲生ひて穂いでたり。 其の旦に垂頴して熟なり。 明日の夜、更に一つ穂を生せり。 新婦庭に出づ。両箇の鑰匙、天より前に落ちたり。 婦取りてに与ふ。 始めて富むことを得たり」 とまうす。

近江でなく海の表記である。
名前の「殷」 が中国王朝の殷と関係しているようで興味深い。
話は 稲穂=富む である。

村主(すぐり) 中国系朝鮮人、渡来人
万葉集30 楽浪の思賀の辛碕

室津下 松原遺跡(縄文) 潟湖


岩波 新日本古典文学大系 今昔物語集 五 P514
太郡の巨樹 柞はクヌギ

小学館 新編日本古典文学全集 今昔物語集 4 P37

長門国豊浦郡 原郷





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出雲国は吉母〜安岡。 とくに福江大塚、船越、吉見

2017/03/11 04:12

島、島浦 御崎
纏向 有冨古墳
出雲国は吉母〜安岡。 とくに福江大塚、船越、吉見

猿田彦 福江大塚の字「猿田」「猿田下」

新羅 涌田・吉永・黒井

高志 船越
鳥上 福江大塚 字「王仁」 の皇子社。 または竜王山
清(すが)、出雲八重垣 福江大塚の字「清水」「神田」、皇子社

熊成峯 竜王山
道返の大神、出雲の平坂 千石岩
根の堅州国 吉見
出雲大社 古宿 七曲の どさんこラーメン店付近にあった浜宮

福江与三左衛門の「与三」 は黄泉

八岐大蛇 播磨国風土記 讃容郡 仲川の里 船越の中川さん宅
河内の国 兔寸 吉母の大河原 河内社
肥の川 船越川、または新免川

船越の小字「赤松ヶ尾」 は仙人の「赤松子」 か。

大国主命の出雲国 福江の大塚
根国 吉見の龍王神社あたり

矢田、矢田部、矢上  福江大塚の字「矢びつ」、または「矢瀬」

万葉集1065〜1067
どさんこラーメン店前の砂浜、古宿。
大和太の浜 「七曲」 と呼ばれる海岸線




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シンポジウム 鋳銭司・陶

2017/03/05 12:24

3月4日(土) 山口南総合センター ホール
シンポジウム 古代テクノポリス 鋳銭司・陶
山口大学 山口学研究センター

パネリスト
司会 櫻木晋一 下関市立大学 教授
小田富士雄 福岡大学 名誉教授
松村恵司 奈良文化財研究所 所長
高橋照彦 大阪大学 教授
池田善文 長登銅山文化交流館 館長
青島啓 山口市教育委員会 文化財保護課

私見 考古学よりもレジメの文献を見てアイデアが得られた。

配布資料の小冊子
P10 小田富士雄
豊前の国の風土記に云わく、田河の郡。 鹿春の郷郡の東北のかたにあり。 此の郷の中に河あり。 年魚あり。 其の源は、郡の東北のかた、杉坂山より出でて、直に正西を指して流れ下りて、真漏川に湊い会えり。 此の河の瀬清浄し。 因りて清河原の村と号けき。 今、鹿春の郷と謂うは訛れるなり。 昔者、新羅の国の神、自ら度り到来りて、此の河原に住みき。 便即ち、名づけて鹿春の神と曰う。 又、郷の北に峯あり。 頂に沼あり。 周り卅六歩ばかりなり。 黄揚樹生い、兼、龍骨あり。 第二の峯には銅、并に黄楊・龍骨あり。 第三の峯には龍骨あり。

鹿春の郷
岩波書店 日本古典文学大系 風土記(P511) は読みにくいので、小学館 新編日本古典文学全集 風土記(P548)、角川ソフィア文庫風土記下(P404) を開いた方がよい。

豊前国の鹿春は福岡県春でなく下関市吉母の御崎である。
古事記 末羅県の玉嶋里 は御崎の小川さん宅
清河原 藤原清河
新羅の国の神 日矛 「天」 は竹生寺からの方位の御崎を表す。

文庫書記@80‐3 紀伊国に所坐す日前神
文庫書記A24‐4 日鏡

近江国も御崎だ。 若狭国は涌田。
但馬国は吉永の「無田の田島」 だ。

長門、筑前、筑後、伊勢、豊前、肥前、穴戸、伊予、近江 みな御崎だ。
伊予の天山(御崎)、天香具山(有冨上)

白村江の戦 筑紫の長津は御崎
下関倭国の渡海 出航・帰港は御崎だった。

吉野宮 室津上のどこか
近江宮 御崎

伊賀の青墓
椿原の遍路道を上がり砂防ダムの場所にある石仏墓地は隠(なばり、名張山)

邪馬台国は室津だ ※5年前に書いたもの
http://44051510.at.webry.info/201211/article_11.html


P39 池田善文
和歌山県隅田八幡宮所蔵の古鏡「人物画像鏡」 の銘文に「癸未年八月十、大王年、男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻、念長寿、遣開中費直穢人今州利二人等、取白上同二百旱、作此意」 とあって、干支年号から443年か503年と考えられている。

斯麻=嶋 御崎
御崎の淵ヶ谷は石灰岩層で洞窟が2つあり銅を掘っていたと伝える。

筑紫の各羅嶋の「各羅」 は「カラ、河原」 と訓むべきである。
文庫書記B40‐11 雄略紀
文庫書記B156‐3 武烈紀

癸未年八月十、大王年(×)
癸未年八月十大王年(〇) 「日」 が入る
大王 「十」 は天心十道

周防国熊毛郡牛嶋西汀、吉敷郡達理山も下関旧市域だろう。
山口県風土誌 9巻 P420
吉母の印内・金畠の「金山」
字「山口」 の山口さんの話によれば字「金畠」 には金・銅の鉱脈はないという。 字「平山」 で銅を採掘していたと話す人がいるので、吉母の字「平山」 が周防国熊毛郡牛嶋西汀だろう。

吉備嶋皇祖墓 土師娑婆連猪手 文庫書記C206‐5  吉備は吉母
文庫書記C94‐3 久目皇子薨せぬ。仍りて周芳の娑婆に殯す。乃ち土師連猪手を遣して殯の事を掌らしむ。故、猪手連の孫を娑婆連と曰ふ。

吉備子 継体紀24年 文庫書紀B204-8

天平10年12月廿日
豊浦団五十長凡海部我妹、部領使として周防国を過ぎて上京・・・
凡海部 吉母の大河原
周防国 吉母浜
上京 京の場所は有冨の字「中村畦」

続日本紀は下関倭国の書に関西の出来事を所々加えて編集されている

宜寸川 万葉集3011 有冨の金鋳ヶ谷か。
門司の大里に字「金鋳小路」 という地名がある。

伊予国の銀は御崎か。

長寿
押坂臣 霊芝 文庫書記C218‐9


田中朝臣法麻呂
『汀の里』 下関市吉母の郷土史本
P65 銅の発掘
昭和10年ころ、銅が出ると云うことで大河原の「茶臼岩」(=地名) で、1年間位発掘が行われ大きな穴が出来ていた

P93下 御崎の小字「田中殿」

下関市立考古博物館 平成28年度 第6回 考古よもやま話
『長門鋳銭司を解明せよ! 〜長門鋳銭所跡発掘調査の最前線〜』
配布レジメ 掲載地図 長門鋳銭所の真前の小字「田中」

伊予国は下関市吉母の御崎 淵ヶ谷の馬牧伝説地




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下関市有冨の岩谷さん宅は斉明天皇の帝闕である。

2017/03/03 08:55

有冨上
邪馬台国の場所、すなわち記紀・万葉の飛鳥は下関市有冨の中村である。
集落では高い位置にある家が村長の格。

中村さん旧宅跡の空地に邪馬台国があった。
火事の後、下に移動した今の中村さんの家 小墾田宮、橘寺

儀万さんの家 飛鳥浄御原宮  文庫書記D148‐9 西門に射ふ。
岩谷さんの家 後飛鳥岡本宮

文庫書紀C340-7
秋7月の辛巳の朔甲申に、蝦夷200余、に詣でて朝献る。

「闕」 を漢和辞典で調べる。
岩谷さん宅の石垣が斉明紀の記述である。 重要文化財指定にあたいする。
有冨の岩谷の家は斉明天皇が造営した石造りの王城である。
中野さん宅横の細い道にある石組みの土手にも注目したい。

有冨の岩谷さん宅は岡本宮跡に比定されるので、日本書紀の記述は中国人流の白髪三千丈である。


綾羅木
綾羅木の若宮古墳  仁徳天皇陵
根拠 「若宮神社」 の多くが仁徳天皇を祭る。

JR梶栗郷台地駅の駐車場  百舌鳥土師連土徳
川北神社・上の山古墳  山ア・大坂。 北側の墓地は山背


室津上 字「山中」
昭和30年まで御崎は室津上に所属していた。 御崎は下関市有冨 中村にあった邪馬台国の筑紫島門・遠朝廷なので室津上も重大な場所である。
室津・黒井海岸の松林を「木ノ村」 というので紀伊国は室津
室津の光蓮寺の先祖は藤原鎌足・淡海公なので室津浦は近江国

万葉集
1664 小椋山 字「山中」 の西側 小倉ヶ辻(308.7 m)
以下、御崎・室津の歌が並ぶ。

室津下に「古殿池」 という池がある。
古人大兄皇子、大市皇子、吉野太子

吉野、近江の場所は複数か所ある。

室津下「松原」 に縄文遺跡がある。
古墳時代後期か、室津に忽然と人がいなくなった遺跡があると聞いた。


 奈良県は遺跡は超立派だけど天子南面や風水に合致しない。 福岡市板付の遺跡には幅10メートルの道があったが、風水では直線道は凶である。 古い時代の学・教養は漢字陰陽五行風水易経道家だから、これらに則った場所は「中国学の博士の連中がいた」 と見れる。 富夲銭の七曜に合致する場所は下関市有冨の中村のみ。 奈良県は日本書紀の陸奥である。

古墳から青銅の剣・鏡が出た所は古事記・日本書紀の人たちではない。


偽装社会
『日本古代貨幣の創出』 今村啓爾 著  講談社学術文庫 2015年
P19-5行目
本書で私がとった論理は、基本的に考古学データと文献記録の突き合わせである。 考古学データとは遺跡で確認される各貨幣の年代とか扱われかた、貨幣の形の変化とか重さ、残っている量的比率などの物的証拠である。 これらは積極的に何かを語るような性質のものではないが、けっして嘘をつくことはない。 人に読ませるために書いたものではないから嘘をつく意味はないし、嘘をつくことができない史料たちなのだ。 貨幣の重さ、金属量というものが、その貨幣に付与された性格を偽りなく話す。 その寡黙な一言には確かな重みがある。 粉飾に満ちて雄弁な『続日本紀』 の言葉の裏を見透かす重みが。 本書で長々と続く重量と価格の関係の退屈な議論は、貨幣をして、自分がどのような性格を与えられたものであったかを語らせる基本的で不可欠な作業なのである。

今村啓爾は馬鹿である。 奈良県の遺跡は "古代の偽装社会" であることを見破ることが出来ずに出土物を真に受けている。

奈良国立文化財研究所が発掘する藤原宮跡やキトラ古墳壁画は真の風水ではない。 関西圏、畿内の遺跡・遺物は古代人の偽装である。


真実 史実
高松塚古墳の「高松」 の場所は下関市有冨のハンドウ山の上であり、奈良県の高松塚古墳は有冨ハンドウ山の上にいた天女を描いたものである。

大日本豊秋津洲
大州 文庫書紀@32-5
大八嶋国 など。
これらは日本列島の本州ではなく有冨のハンドウ山〜その尾根である。

八嶋国 文庫書記B180‐7
「八嶋国」 は日本列島の本州ではなく有冨ハンドウ山。 ここでは登り口

忌寸八嶋
長府の小字「八島」 ではなく古事記の大八嶋国で有冨ハンドウ山上の尾根
邪馬台国は有冨ハンドウ山の尾根、大迫池の上、有冨墓地の東上の尾根

大州の「大」 は富夲銭の「夲」 の構成要素「大」
「大」 という字は五角形。 隋書俀国伝 俀国 → 「大国」
「十」 は天心十道、扶桑の10個の太陽

大口 ハンドウ山の登り口
大口の真神原
三輪君大口
社戸臣大口 



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任那、火葦北、野島  吉母の大河原

2017/03/01 08:53

魚介類・アワビの献上 考古遺跡
『長崎県の地名』 日本歴史地名大系 平凡社
P570下
宮ノ首遺跡
宇久島の西端、南向きの入江に臨む貝塚。 平成2年 (1990) に発掘調査。
縄文時代前期から弥生時代中期後半、平安期・鎌倉期の遺物が発見されているが、主体は古墳時代末期から奈良期にかけての玄海灘式製塩土器などを含む須恵器・土師器類である。 貝塚では大型のアワビ貝の純粋貝層がみられ、「肥前風土記」 値賀島の条にみえる干鮑の貢納を裏付けるものといえよう。 また中国製陶磁器片(青磁・白磁) も出土。


宗像市 神湊
浜宮貝塚、新波止貝塚  5世紀〜7世紀末

角島
角島の後浜遺跡 場所 夢ヶア 角島灯台の駐車場北
古墳時代後期の貝塚では大型アワビの選択がされた。

土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム の本
※5年前に書いたものなので、半分は今と考えが異なる。 
http://44051510.at.webry.info/201203/article_58.html


嶋曲、美佐祁
『日本書紀U』 現代語訳 中公クラシックス  2003年
P198  継体紀
23年の春3月に、百済の王は下哆唎国の国守穂積押山臣に、
「日本への朝貢の使者は、嶋曲 〔海中の嶋の出入りのア岸(さき) をいう。 人々は美佐祁(みさき) という〕 を避けようとしていつも風波に苦しみ、貢納の物を湿らせたり、こわしてしまったりしております。 なにとぞ加羅の多沙津(蟾津江河口の地) を賜わり、私どもの朝貢の路にしたいと存じます」
と言った。 そこで押山臣は、この要請を天皇に奏上した (以上7年条参照)。

この月に、物部伊勢連父根・吉士老らを遣わし、津(多沙津) を百済の王に賜わろうとした。 すると加羅(大加羅=高霊加羅) の王は勅使に、
「この津(多沙津) は官家(みやけ) が置かれて以来、私どもが朝貢するための津渉(つわたり) としております。 そうたやすく隣国に賜うということができましょうか。 統治せよと定められた、最初の領域を違えることになります」
と言った。  勅使の父根らは、その場で津を百済に賜うのはむずかしいとみて、大嶋(南海島か) にもどり、別に録史(ふびと 文書・記録をつかさどる下級の官人) を遣わして扶余(百済) に賜わった (以上9年条参照)。



宗像三女神 「海の北の道の中、道主貴」 を連想させる。
福岡市博多区の官家、宗像、門司、豊北町、向津具・油谷などではない。

記述から下関市西端の御崎と見れる。

大嶋
御崎にあった遠朝廷・伊都国 ・・・ 戸数が少ない
または
皇都有冨 ハンドウ山上の尾根 ・・・ 鏡王女の大嶋嶺

雄略7年 大嶋 文庫書記B48-7
私見 以前は大嶋を彦島の福浦と見ていたが、今は御崎と考えている。

万葉集
91 大嶋嶺
3638 大嶋鳴門

水城は吉母の明見(みょうけん) さんの池。 窪田さん宅の上にある。
吉母港には宗像という家があるので、筑紫の水沼君はこの池か。


とりあえずの仮説 加羅の多沙津は室津の交番あたりか?

阿利斯等(任那の王) は黒井・吉永に在住か。
中公クラシックスの日本書紀は加羅と任那は別で阿利斯等を任那の王とする。
文庫書紀C32-11 敏達紀 火葦北国造 阿利斯登が子 達率日羅 の場所を解明することが鍵となる。

以前の私見 都怒我阿羅斯等がいた場所  
・ 「田舎」 は日本語なので地名の「田舎」 を探して対馬と見た。
意富加羅国は対馬。 魏志倭人伝で対馬は官ではなく大官である。
・ 意富加羅国の「意富」 という地名表記は倭風であり朝鮮風の表記ではない。
都怒我阿羅斯等は宗像市の光岡八幡宮にいた人と見ていた。


垂仁紀 都怒我阿羅斯等
文庫書紀A20-3 浦  御崎
出雲国 御崎 〜 福江
纏向 有冨上の東側。 有冨古墳がある所

風土記
御魚家 文庫風土記下169
任那は様々の魚物多き国にて毎度日本の朝廷に献上す。
  ↓
涌田漁港 養殖場の料理屋

立ち位置 大王家は有冨上の字「中村畔」
魚を献上してくる地域は涌田になる。 任那の御魚家は涌田である。

マリンレスト恵美寿 - 黒井漁業協同組合
ttp://www.kuroi-gyokyo.com/rest/rest.html

任那は魚が産物という記述は記紀・万葉にはない。
淡路の野嶋の海子がアワビの御調を難波朝に献上している。 万葉集933

問題点
涌田の心光寺古墳は新羅系であり、百済・加羅系ではない。


火葦北国造
火の国 吉母浜埋葬遺跡から出る火の玉
葦 吉母
葦北 吉母の北、大河原(おおこら) は意富加羅の転訛と考えられる。
野坂 字「野地ノ下」 万葉集246
水島 蓋井島、水島
姫島 字「姫畠」
吉備児島 吉母の黒嶋
吉備海部 吉母漁港

文庫書紀C36-3
火葦北国造 刑部靫部 阿利斯登 吉母の大河原の人

また、室津のヨットハーバーに入る所を流れる小川は河原(こうら)川である。
この場所は加羅か。

吉母の大河原(おおこら) は意富加羅の転訛である。
淡路の野嶋も大河原の小字「野地ノ下」 である。

長い間探してきた「葦北」の場所は下関市吉母の大河原と判明した。
葦北の坂の浦(万葉集246)=淡路の島(万葉集933) 字「地ノ下」

加羅の多沙津の位置は吉母の大河原。 または室津浦の河原川。


白雉
文庫書紀C88-6 推古紀
秋9月の癸亥の朔に、百済、駱駝1匹、驢1匹、羊2頭、白雉1隻を貢れり。
文庫書紀D112-7 天武紀
3月の丙戌の朔壬寅に、備後国司白雉を亀石郡に獲て貢れり。

穴戸の麻山の白雉=百済の白雉=備後国司の白雉
吉備国は吉母である。 吉母の大河原は百済の領地だった。

白雉の生息地
吉母 大河原の字「仙堂」 (不燃ゴミ埋立地へ上る急坂)〜不燃ゴミ埋立場内
  ↓
穴門館の候補地

敏達紀 文庫書紀C24-11
戊戌に、船史王辰爾が弟に詔して、姓を賜ひて史とす。
斉明紀 文庫書紀C338-1
西海使小花下阿曇連頬垂・小山下臣傴僂

「津」 の地名
角島は「津の島」 とも書く。
吉見 古宿の国道 七曲 どさんこラーメン店がある所を「津の地」 という。
吉母の大河原 私見によれば「加羅の多沙津」 の場所

津島、津臣、津史、津守など「津」 の名前は吉母の大河原の可能性がある。
都怒我阿羅斯等の黄牛は角島かもしれないが吉母 大河原の方が可能性大だ。


出雲
斉明5年 是歳 文庫書紀C354-末
郡 おうのこほり
  ↓
田川で安岡は出雲

纏向は有冨古墳がある所




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倭王は有冨の中村さん

2017/02/27 18:46

歴史教科書の邪馬台国、倭は下関市有冨の中村さん家の先祖である。
有冨村の庄屋だった儀万さんは天武天皇の血筋である。

中村さん 老子の家系 大王家の直系
儀万さん 徐福の家系 「瀛」 は豊北町の海岸

徐福は豊北町の海岸に住んだ。
鬼道は徐福の方士に通じるので神功皇后は豊北町海岸の人である。

日本の原始古代の「中央」「政権」 は下関市は有冨 字「中村畔」 にあった。
磯城  岩山である竹生山。 有冨 薬師池の上

黒山 文庫書記304-4
黒は五行配当で北だから、立ち位置 字「中村畔」 真北の竹生山。
  ↓
蘇我倉山田麻呂の末裔である蒲生野山田の倉光さん家。

関西勢力は蝦夷である。
武久浜 半両銭  漢人、東漢直の地

下関市域の関西系蝦夷の居住地
後田町5丁目 椎の木原墳墓郡 庄内式土器が出土
  ↓
蘇我蝦夷 幡生の生野神社
文庫書紀C218-8 フクロウ

生野神社の幸せふくろうなど
ttp://jeezblog.blog.fc2.com/blog-entry-317.html

幡生の生野神社は「豊浦大臣の大津の宅の倉」 に比定される。


稗田地蔵堂遺跡は漢人の墓。 弥生中期後半で半両銭の武久浜と同じ。
  蓋弓帽 楽浪郡
  連弧文鏡(前漢) は陰陽五行のデザインであり教養ある漢人の鏡である。
稗田地蔵堂遺跡の被葬者は楽浪郡の漢人官吏か。


文庫書紀C224-11 皇極紀
更家を畝傍山の東に起つ。 池を穿りて城とせり。 庫を起てて箭を儲む。 恒に五十の兵士を将て、身に繞らして出入す。 健人を名付けて、東方の儐従者と曰ふ。
文庫書紀C226-1
漢直等、全ら2つの門に侍り。

関西勢力は蝦夷で東漢直。 応神朝の時に渡来した阿知使臣の集団が奈良県の纏向を造った。

蘇我蝦夷の家は3つある。
 大津の家 フクロウ
 甘檮岡
 畝傍山の東 池を掘って砦とする。


文庫書紀C218-9
菟田山は有冨のハンドウ山の尾根で不老長寿の霊芝が生えていた。
ハンドウ山の登山口は大口の真神原。 勾金橋があった。
春日山田皇女は有冨ハンドウ山の人。


神武東征の歌の倒語、壬申の乱の合言葉「金」 は同じ場所である。

綾羅木の川北神社(上の山古墳) は記紀の生駒山である。
上の山古墳から出土した鈴釧は陰陽五行を表す。

五芒星
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%8A%92%E6%98%9F


椋野の岩屋古墳 吉野の国樔 醴酒  文庫書紀A208-3


近江国  室津、涌田後地
室津の光蓮寺 先祖は鎌足
※3年以上前に書いたもので今とは見解が異なる部分あり。
http://44051510.at.webry.info/201310/article_51.html

継体天皇
近江国高嶋 室津の甲山は高山とも書く。
越前国高向 向津具の久津か 

欽明紀の三韓・任那は黒井・吉永周辺か

三韓を攻めた紀氏は室津・黒井の海岸 字「木ノ村」 の人
近江毛野臣は室津の人


三島
飯飯(いひぼ)
安閑紀 文庫書紀B218-8
三嶋県主の飯粒は、古事記の神功記で
「筑紫の末羅県の玉島の里で、飯粒を餌にして年魚を釣った。
小河 勝門比売 」

摂津国三島は室津下か。
御崎に小川さんの家がある。

津守さん 永田川下流
宗像さん 吉母港

藤原鎌足
疾を称して退でて三嶋に居り。  文庫書紀C214-8 皇極紀

藤原内大臣薨せぬ。 文庫書紀D50-9
私第に薨せぬ。 遷して山の南に殯す。

山の南 → 山科野(文庫書紀D48-6、万葉集21 蒲生野)、山階

私見
蒲生野山田の王子権現山古墳は藤原鎌足の墓
涌田後地の心光寺古墳は新羅系。 乙巳の変の「韓人」 は百済系。


松浦
万葉集
865 松浦仙媛 仙境の媛だから御崎の淵ヶ谷
3681 肥前国松浦郡狛嶋亭 狛より御崎の淵ヶ谷 丸瀬 野生馬がいた

綾羅木 若宮古墳横 字「馬場」 も松浦郡狛嶋の候補地。 綾羅木馬場遺跡

万葉集501

風土記333‐5  肥前国風土記 松浦の郡
各、弟姫子の骨と謂ひて、すなわちこの峰の南に就きて、を造りて治め置きき。 その墓見に在り。
  ↓
場所は吉母の字「西条」 小西さん宅の家裏 崖下のお堂

肥前国風土記 松浦の郡 では山の頂に沼がある。峰の南に墓がある。
この記述に合致する所は吉母 字「明見」 の妙見。西光寺の西にある溜池の上。
吉母 字「明見」 窪田さんの上にある溜池は「筑紫の水城」 に見える。

綾羅木郷 了元寺の西にある池は篠原なので、ここも肥前国風土記 松浦の候補地。

万葉集では松浦船が難波の穿江を漕いでいる。
1143
3173


御崎
筑前国嶋郡
福岡県糸島の志摩ではなく下関市吉母 御崎が記紀・万葉の「嶋」 である。

嶋曲 文庫書紀B194-5 継体紀

御崎が吉母に編入されたのは昭和30年(1955) で、それまでは豊浦町室津上に属していた。

室津の観音院は真言宗で戦前まで狗留孫山修禅寺の独身僧が籠る寺だった。 この寺は椿原の道を上がった砂防ダムの上にあって現在はない。 戒律が厳格だった寺だから法隆寺、吉野寺などの候補。

『豊浦町史 二』
P262 地図
室津上
出合堤前のお地蔵さんがある場所の地名は 天子の浴 である。
近江宮、吉野宮の候補地
※ 近江、吉野の場所は何か所もある。

室津上・吉母上、厚母の阿蔵は仏教史跡が多い。
私見では、吉永・黒井の古代朝鮮集落から日本に仏教が入ってきた。

万葉集
黒牛の海 室津下 字「牛迫」 か
1218
1672
1798

白 五行配当の西、御崎 淵ヶ谷の石灰岩
1671 白神の
1668 白埼は

玉津島 室津西側の絶壁海岸に行き、命懸けで鮑玉を採る。


信濃国
木曽(岐蘇、吉蘇) 吉見峠
信濃国 内日の赤田代
水派山 一之瀬、または竹生山



研究の方法
本州最西端 毘沙ノ鼻 駐車場にある「自然と伝説の里」 吉母マップ
から邪馬台国の要衝が御崎にあったことが判明する。
  ↓
畳石
毘沙ノ鼻の岩下附近にあり、海中より階段状に黄茶褐色の岩の事。
神功皇后が帰朝の折、ここから上陸されたと伝えられている。


毘沙門天
甲冑を着けて鉾または宝棒を持ち北方世界を守護する。
  ↓
宗像三女神の「海北道中、道主貴」 を連想させる。


文庫書紀B228-7 宣化紀
夫れ筑紫国は、遐く邇く朝で届る所、去来の関門にする所なり。 是を以て、海表の国は、海水を候ひて来賓き、天雲を望りて貢奉る。

文庫書紀B194-4 継体紀
  23年の春3月に、百済の王、下哆唎国守、穂積押山臣に謂りて曰はく、 「夫れ朝貢ぐる使者、恒に嶋曲を避るごとに、 海中の嶋の曲(くま) のア岸(さき) を謂ふ。 俗、美佐祁(みさき) と云ふ。 毎に風波に苦しぶ

物部伊勢連父根
加羅の多沙津 万葉集30 楽浪の思賀の
布那牟羅(ふなむら) 川棚 字「舟郡」(ふなごおり)

黒井の石印寺は関印寺とも書き、背後に鬼ヶ城山がある。
黒井、川棚は渡来人集落があって山に要塞があった。


  記紀・万葉の「島」 は吉母の御崎
文庫書紀A20-3 嶋浦 都怒我阿羅斯等 垂仁紀
文庫書紀D64-4 天智紀 歌謡
み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 傍も良き

野嶋  夏草、淡路

万葉集
304 遠朝廷 島門 
389 島伝い
1400 島伝う
3232 島伝い み吉野の瀧

筑紫 御崎の海岸
筑紫の防人、島守
筑紫娘子 遊行女婦

筑紫、長門、伊勢、伊予 など、みな御崎内 


私見
三韓の朝貢船は毘沙ノ鼻下の畳石に着岸していた。 ここが筑紫国の関門。
御津、三保の津、御大の御前 はここか。

御崎の海岸は波風が強いし岩場だから船を着けるには場所が悪い。

室津浦は元寇時に元の使者が来た港で、日本の玄関だった。
室津の阿弥陀院 山号 蓬莱山

わかった!!
吉母の大河原だ。




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日下(くさか) 綾羅木郷遺跡

2017/02/22 02:47

『新版 古事記』 角川ソフィア文庫 平成21年
雄略記
引田部赤猪子
引田部赤猪子は御諸山の住人なので綾羅木の引田ではない。
「御諸」 の表記は風水の龍脈を表し、御諸山は有冨ハンドウ山とその尾根である。

有冨ハンドウ山 登山口にある幅20センチのちょろちょろの用水路が引田の美和河であり、赤猪子の住所はハンドウ山 登山道入口の横に設置されたイノシシの箱罠がある場所である。 赤猪子は高貴な巫女であり独身であるから魏志倭人伝の卑弥呼に通じる。

引田部赤猪子
雄略紀 童女君
常陸国風土記 那賀郡 茨城里 「神の子」
竹取物語 かぐや姫
卑弥呼
は話が似ているので、みな同じ場所である。

有冨 ハンドウ山の登山口は祝詞の「山の口に坐す皇神等」 の場所である。


歌謡番号94
雄略天皇の宮は 日下江の入り江の蓮 近くにある。
綾羅木389番地の福川均さん宅に泊瀬朝倉宮があったと見たい。

雄略天皇陵は綾羅木郷遺跡内 字「惣八」 "マムシに注意" の立て札が立つ所
根拠 多治比(たぢひ)=蝮(たぢひ)
蝮之水歯別命  たくさんの白鷺が留まっていた池の近くか。

綾羅木V式(古) の文様は日の出または日の入りの図


阿岐豆野の御狩り
有冨 大迫池の道路下、柿の木がある所


葛城山の大猪
有冨墓地の東側の尾根が葛城山である。 墓地入口の東隣、農家が野菜屑を捨てている場所にイノシシの箱罠が設置されており、昨年11月に大イノシシが捕獲されている。


下関市立考古博物館
休憩所 弥生の里
以前の自販機に警世の句 「古代を知れば− 未来が見える」 とあった。

草香邑、日下  綾羅木郷台地
若日下部王 字「若宮」
綾羅木郷遺跡から出土した犬の骨半分は若日下部王が飼っていた白犬である。

孔舎衛坂、大坂  石松さん宅横の急坂
蘇我蝦夷の畝傍の家は石松さん宅にあった。 文庫書紀C190-12
万葉集52 畝火の

斑鳩寺の墓
上の山古墳の北側を下りて墓がある場所に山背大兄王が居た。


基点 方位
ハンドウ山の登山口付近 藤原宮

冬至の日の出 方位
長府 覚苑寺の裏山(176.6m) 青香具山 仁馬山古墳が向く方角

冬至の日没 方位
ハンドウ山の山頂 天香具山
ハンドウ山の登山口付近 藤原宮
綾羅木 字「宝前」 中世の祭祀跡 日向・日下
綾羅木 字「下田」「船入」 難波宮
綾羅木海岸 字「勝ヶ野」 万葉集275、1171
  ↓
直線上に並ぶ


風土記 日下部氏
以下の場所はみな下関市立考古博物館の駐車場東端

播磨国風土記 美嚢の郡
119-12 日下部の連意美

出雲国風土記 秋鹿の郡
197-8 郡司 主帳 外従八位下勲□等 日下部の臣

豊後国風土記 日田の郡
289-8 邑阿自 日下部の君等が祖

肥前国風土記 松浦の郡
330-2 弟日姫子 日下部の君等の祖
333-9 大屋田子 日下部君等の祖

逸文 丹後国
474-3 筒川の嶼子 日下部の首らが先つ祖




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下関市立考古博物館 駐車場の東側

2017/02/20 06:13

日本書紀に書かれている下関市立考古博物館 駐車場東側の出来事を考察する。 参照 舒明天皇 即位前紀 文庫書紀C170-2

先代旧事本紀 巻第一の日向の橘の小門の橿原に注目して、
神武東征の墺区(文庫書紀238-10) の「墺」 は入江の奥 の意味である。 この場所は綾羅木 字「宝前」 に比定される。

畝傍山  石松さん宅 文庫書紀C170-4 畝傍山 木立薄けど

字「木舩」
境部理勢の「摩」 は研だから砥石。 出土した砥石は摩理勢の持ち物。

綾羅木台地遺跡 (木舩地区)
http://44051510.at.webry.info/201607/article_2.html

字「寺屋敷」  尼寺
字「中屋敷」  泊瀬仲王 墨江中王

字「宝前」  住吉神 宝皇女 浦島太郎(日下部の首の祖) の家

字「宝前」 地区の発掘調査にあたっては浦島太郎の学術書を読んでおくべき。
『古代社会と浦島伝説』 上・下巻  水野祐 著 雄山閣 昭和50年
『浦島子伝』 重松明久 著 古典文庫 現代思想社 1981年
※ ネットで古本を購入する

字「の山」
宮太子(聖徳太子の斑鳩) 近つ飛鳥 饒速日尊 河内の哮峰
f 字鏡板付  戸豊聡耳皇子 蘇我


筒川の嶼子(水江の浦の嶼子)  丹後国風土記 逸文
川 「筒」 は住吉神 男  字「宝前」 
亀姫の龍宮城・蓬山・常世  吉母の御崎
倭  有冨 字「中村畔」

風土記478-1 筒川の ・・・ 綾羅木の「郷」 集落
歌謡
常世辺に 雲立ち渡る  常世の場所は吉母の御崎
辺に 風吹き上げて  倭の場所は有冨 字「中村畔」

子  綾羅木郷台地は原始古代は半島、陸繋島だった。


『新版 古事記』 角川ソフィア文庫 平成21年
仁徳記 吉備の黒日売
P180-5行目 安岡の大浦(安岡漁港の場所)
P181 歌謡番号55
倭方に 西風吹き上げて 雲離れ 退き居りとも 我忘れめや
下注19 丹後国風土記に類歌がある。
やまとへに風吹き上げて雲ばなれそき居りともよ吾を忘らすな
  ↓
風土記479-2

吉備上道采女大海 (雄略紀)
吉備穴戸武媛 (景行紀) 往古、黒嶋と吉母は陸続きでなく離れていた。
吉備嶋皇祖母命 吉母の樋の口神社(祭神 天照大神)
吉母の黒嶋は前方後円墳の形
  ↓
吉備国の場所は下関市 吉母下である。

古事記 吉備の黒日売の歌から仁徳天皇の難波宮も綾羅木郷台地あたり。


枯野という船 古事記
淡道嶋  蓋井島
高安山  原表山または草場山。 草場山の登山林道に山城跡があるという。

歌謡番号74
塩に焼き 吉母浜の古代製塩
海石 吉母の海の岩場 千畳敷


若宮古墳
肥前国風土記 三根の郡


梶栗橋・やよい橋 ・・・ JR梶栗郷台地駅の入口に架かる橋

「山口県風土誌」 9巻 P378 冨任村の境界
メクラ橋」 (目倉橋) は梶栗橋 − 綾羅木新町3丁目と梶栗町4丁目の境
  ↓
古事記の目弱王(書紀は眉輪王)
やよい橋の下には螺(にな貝) がいそうだ。

坂合彦皇子 文庫書紀B18-9
五行配当で黒=北=水。 綾羅木の了元寺付近で最も地勢が高い場所、または池のあたり。

綏靖紀 文庫書紀@250-1
会、手耳命、片丘の大ムロの中に有して、独大牀に臥します。 時に渟名川耳尊、神井耳命に謂りて曰はく、
耳命  「研」 は字「木舩」 出土の砥石
ムロ  弥生貯蔵穴
井命  字「惣

雄略天皇の泊瀬朝倉宮があった場所
休憩所 弥生の里 の東側、福川均(綾羅木389番地) さんあたり。

「雄」 はオス鳥、大きな鳥の意味か。
「惣」  手で束ねて集める、長男、総合

字「惣八」 で稲が栽培されていたなら台地の上なので、竺紫日向の高千穂宮の候補地になる。 つまり神武東征の出発地と上陸地は同じ場所で、バカバカしい話でございました。
吉母の御崎も竺紫、筑紫、日向の候補地である。


惣八  小字「惣八」
大辞林 第3版 三省堂
宗八
カレイ目カレイ科の海魚。 体長45cm 程度。 本州中部以北 ...

惣八・宗八
狂言の一。 もと料理人の俄(にわか)坊主と、還俗したての惣八という料理人が、それぞれの主人から仕事を命じられる。 2人は慣れないので手こずるが、互いに前身をうちあけ、仕事を交換する。

広辞苑 第6版 岩波書店
宗八・惣八
狂言。 元漁師の俄坊主が読経に苦労し、還俗したばかりの宗八が奉公先で料理に手こずるが、互いに身の上を語り交代する。 俄道心。


字「惣八」 は山幸彦・海幸彦の場所である。

塩土老翁・山幸彦の場所は吉母海岸と読めるので、まだ検討すべき。


天孫降臨
高天原の天磐座 有冨 ハンドウ山
日向の高千穂宮 下関市立考古博物館の駐車場 休憩所 弥生の里




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有冨の中村大王(おおきみ)

2017/02/17 09:40

高天原の家系  邪馬台国(倭国王) の位置
下関市有冨上 中村さんは皇祖神の直系。 庄屋の儀万さんは天武系「瀛」
下関市吉母の御崎。 とくに奥地の字「淵ヶ谷」 三井(みい) さん
北九州市門司区 小森江 羽山1丁目 庄屋の古野さん (旧姓 富留野)

本当の記紀・万葉の場所は上の3つ。

邪馬台国
有冨上 字「中村畔」、ハンドウ山

神武東征 国見丘の大石 山上の伊勢
ハンドウ山 山頂から平たい尾根を100 m 行った所

邪馬一国
吉母の御崎 字「淵ヶ谷」 「一」 は伊勢

顕宗紀 文庫書記104-2
稚子 長門、吉野の伝い と同じ。
大石尊
 大石 海岸の伊勢
 命でなく
この場所も吉母御崎 字「淵ヶ谷」

室津は「木ノ村」 で紀伊国
播磨国 吉母・永田・吉見

蓬莱の神仙郷 2か所
・ 有冨 ハンドウ山 山頂から平たい尾根を伝わって大迫池の上の尾根 香山
・ 吉母 御崎の奥地 字「淵ヶ谷」 滝がある所 と 下の海岸 天山
逸文 伊予国 の香山・天山である。


御崎神社−樋の口神社(安常)−永田 御堂遺跡−竹生寺−鯨の尾ヒレ
が直線上に並ぶ。
「鯨の尾ヒレ」 とは神武東征 久米歌、常陸国風土記 久慈郡 の鯨であり、
有冨 大迫池横の有冨墓地の東側尾根である。

御崎神社 − 天山 毘沙ノ鼻の万葉歌碑は伊予の天山

鯨の尾ヒレ香山 有冨ハンドウ山の奥の院が倭(大和国) の天加具山
山口県文書館にある地下上申絵図によれば、この場所はかく石峠と記される。
ハンドウ山の奥地は大谷とあり、逸文 常陸国 の大谷村に比定できる。
薬師池の上はふせぎが谷、竹生寺の山号 高山 は風水の玄武だ。

倭の香山 − 有冨ハンドウ山の山頂。 または鯨の尾ヒレ
伊予の天山 − 御崎の淵ヶ谷。 または毘沙ノ鼻・御崎神社
それぞれ候補地が少し離れて2か所ある。

石原の砕石場によって崩されている山の名前 東ヵ嶽は道教の泰山のこと。
毘沙ノ鼻・御崎神社の横は下関市の不燃ゴミ捨て場になっている。

奈良県と下関市有冨上は栗本慎一郎のいう「双分制」 で対応している。
奈良県の山の辺の道にある龍王山は有冨龍王山(ハンドウ山) にあたる。


常陸国風土記=大和国風土記
常陸国風土記は言葉文体、内容から大和国風土記であることが一読瞭然だ。


水江浦島子が行った蓬莱の仙衆は御崎の淵ヶ谷である。
水江浦島子の日下部首の先祖である。 万葉集1023 大埼の神の小浜 を綾羅木郷遺跡近く 字「大森ア」 と見て、水江浦島子の家もこの辺にあった。

草壁連醜経 白雉
今我が親神祖の知らす、穴戸国 は御崎の淵ヶ谷

吉野の場所は複数あり、御崎も吉野。
筑紫、伊予国、丹波国、丹後国、播磨国など、みな御崎である。


病気が心配
集落の人口が50人を越えると伝染病が蔓延して一挙に村が全滅する。
渡来人、外来の者は結核、コレラ、インフルエンザ、肝炎ウィルスを持ってる。
不老長寿の神仙郷 下関は倭の政策によって人口まばらであり、通行は北九州市小倉が使われた。 渡来人、外来の者が集まる人口密集地は医療が進歩してない昔では早死にする。

奈良県の平城京跡 − 人口20万人以上
下関にあった倭国の都 − 万葉集の都には7、8人しか住んでいない。


『古代遺跡 謎解きの旅』 風水ウォーキング 松本司 著 1999年
目次の裏



初め混沌〈〜〉としていた大地〈−〉に


世界を構造的・原理的に理解しようとする陰陽思想〈十〉が生まれ、


シャーマン〈巫〉は地上に十字状の柱を立てて太陽の影を見る土圭法〈土〉によって


時や方位を知るようになり、農耕の鍵を握った。


その中から〈王〉が現れ、大王〈玉〉になり、その後


税〈米〉をたくさん集めて律令国ができたが、


国家の混乱時には〈巫〉女の血を引く女帝が立てられたのだった ・・・・・・。


纏向の「纏」(てん) は風水の「砂」。


文献のカラクリ
記紀、万葉、風土記などで地名はちがっても場所は同じ。
万葉集、続日本紀の年代は50年繰り上がるか。

『日本後紀』 集英社
753-12 773-6
高位の人が入室して来たら、跪伏にかえて起立して深く拝礼しろ
貴い者に会ったら、跪くことをやめて起て
   ↓
天武紀 文庫書紀D184-7 と同じ。
日本後紀も古い時代の下関倭国の史料を使い回している。




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向津具 の考察

2017/02/17 04:03

向津具 久津
大海人皇子 向津具の久津の出身
http://44051510.at.webry.info/201505/article_19.html
大避神社  祭神 秦河勝
http://44051510.at.webry.info/201008/article_103.html

角島の元山遺跡 積石塚 1基。  『 豊北町史 2 』 P582-2行目
『蓬莱山と扶桑樹』(岡本健一 著) によれば、「瀛洲には積み石多し
積み石塚は1基しかない。 古賀市沖の相島に積石塚がある。

向津具には蓬莱の地であることや楊貴妃が本当に渡来したことを証明できる資料はない。 私は名古屋市 熱田神宮の蓬莱島・楊貴妃伝説は向津具の話であると推理する。 向津具から出土した有柄銅剣が本物の草薙剣である

尾張の瀛津世襲 → 尾張は瀛洲 → 向津具は瀛洲
大海人皇子は海部氏、尾張氏と関係深い。


東海
中国の原始地理書に見られる「東海」 であるが、
中国の都 西安の真東は山口県の豊北町の海岸である。
宇賀本郷 〜 島戸 〜 向津具 が西安の真東に位置する「東海」 である。

最寄りの気象台や海上保安本部の「海の相談室」 で風向きや海流を教えてくれる。 対馬中域から土井ヶ浜に向かう真東の海流がある。


秦王国
隋書倭国伝の秦王国は向津具 久津 の可能性もある。
秦王国までは東へ行く。
秦王国 → 十余国 → 倭国 は行く方向が書かれていないので、
向津具 →下関市綾羅木海岸 であったかもしれない。




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小森江の古野さん 筑紫君

2017/02/17 04:00

筑紫君 門司の小森江西説
小森江西校区 ・・・ 略して「小西」 と称されている

『ふるさと 小森江 にしひがし』 1976年  自費出版の郷土史本 
小森江村の庄屋
羽山1丁目 古野文子さんの家 ― 周辺に古野一族の家
古野家の歴史は神武天皇まで遡る。
古野家は古くは富留野といっていた。

門司区小森江西の古野という庄屋は「神武天皇まで遡る」 家伝が興味深い。
筑紫の高千穂宮か。 門司区小森江西の古野(旧 富留野) さんと下関市有冨の中村さんは遠い遠い親戚だ。

古野宅の回りが小森江村の中心地であり、川端さん、植前さん、黒田さん、奈須野さんなどが小森江村有力者の地主たちである。 井戸を持つ家が有力者だった。

下関市有冨 字「中村畔」 から北九州市門司区小森江西小学校は真南である。
西ではなく南の方角だから「竺紫君 石井」 ではない。
でも郷土本から小森江は井戸が特別重視された地だった。

羽山1丁目-番地 の小字は「火の山」 ・・・ 「火」 は方位の南
風師山、外記殿山を「鳥の山」 ともいう。


下関市有冨 字「中村畔」 から門司の小森江西小学校は真南に位置する。




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御崎の三井(みい) さん 筑紫君

2017/02/15 12:03

関西 − 東国兵・蝦夷
山口市 − 浮囚郷
遠賀川 − 新羅 天日槍の弟 知古は直方市の地名
糸島・福岡平野 − 神功皇后が征伐した西蕃の新羅
平戸・宗像 − 百済・秦 渡の屯家
熊本 − 呉国
島根県出雲 荒神谷遺跡 − 石上乙麻呂が流罪となった土左国

那津官家は小倉 三萩野

近江国
近つ淡海 長府
遠つ淡海 土井ヶ浜・油谷湾


万葉集では長門は海岸なので、「長門」 が内陸の有冨上にあったとする自説は誤り。
  ↓
わかった!!
万葉集1024 長門守 巨曾部朝臣対馬の「対」 は御崎を示し、馬が岸の蓋井島へ泳いで渡ることを「対馬」 で表記している。 本州最西端、毘沙ノ鼻の万葉歌碑は正しい。

蓋井島はf 字形をしている。 f 字鏡板付轡は蓋井島の形をデザインしたものである。

の銀、伊予国 御山の銀 は御崎の字「淵ヶ谷」 か。
吉母御崎の奥地「淵ヶ谷」 に銀鉱あり...
  ↓
御崎 字「淵ヶ谷」 は石灰岩のカルストで、セメント会社の船が着いて石灰岩の採掘が行われていた。 地質調査では掘れば温泉がでる可能性があるという。 滝があり銅鉱だったという洞穴がある。

御崎の淵ヶ谷は掘れば温泉がでるかもという。 伊予熟田津石湯は淵ヶ谷か。
持統5年(691) 伊予国産銀を献上も淵ヶ谷だろうか。

魏志倭人伝 対
隋書俀国伝 都斯麻
であり「対馬」 という表記ではない。

室津下の 対田さん → 対馬
http://44051510.at.webry.info/201311/article_1.html

下関市の個人名電話帳で「対馬」 という名前を調べれば3人いる。

日本の古代史は神仙思想との絡みなので、本州最西端の下関市吉母 毘沙ノ鼻・御崎に不老長寿の気配ありだ。 この地にも神功皇后伝説、空海伝説がある。


石井は「竺紫」。 筑紫、竺紫もよくわからない。

万葉集
1128 石井之水者
3235 五十師乃御井者

筑紫の聞物部大手 雄略紀 文庫書紀B80-7

継体紀 文庫書紀B192-9
天皇、親ら鉞を操りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制らむ。 筑紫より西をば制れ。・・・」
「汝」 という字は大汝(大国主命) を示すか。

日本書紀 筑紫と伊勢は場所が同じ。
西の戎 文庫書紀B192-1
賊の磐井 文庫書紀B192-末

筑紫の御井郡の場所は御崎 淵ヶ谷 の三井(みい) さん宅だ。

倭の国王 升等 後漢書倭伝
筑紫君薩野
も御崎の三井さん宅で、家の前の海岸が伊勢だ。

筑紫の君 磐井は福岡県八女市吉田の岩戸山古墳ではなく、下関市 本州最西端 御崎 字「淵ヶ谷」 の三井(みい) さん宅に比定できる。

小学館 新編日本古典文学全集 日本書紀 2
P311 訳
磐井は西戎の狡猾な輩です。 川の阻みを頼みにして朝廷に従わず、山の険しさを利用して反乱を起しました。
  ↓
日本書記 継体紀に書かれた磐井の地勢は福岡県八女市に合致しない。
磐井の墓については風土記の「逸文 筑後国」 が参照されている。


継体天皇が筑紫君磐井を討伐するにあたって物部麁鹿火大連に斧鉞を授けたわけは磐井の住居が下関市吉母 御崎 字「淵ヶ谷」 の三井(みい) さん宅であったためである。 御崎の三井さんは筑紫君磐井、薩野馬の直系子孫である。

万葉集1024 長門守 巨曾部朝臣対
「対」 という表現・表記にある「」 に着目して、「長門」 の地名場所は本州最西端 毘沙ノ鼻にある万葉歌碑の近く、御崎馬の場所ではないかという閃き・思いつきを得た。

御崎馬 ・・・ 下関市に伝わる民話集に載る。
源平合戦時の名馬が御崎の淵ヶ谷の丸山(丸瀬) にいた野生馬だったこと。
子馬が岸の蓋井島へ泳いで渡っていたという。
「対馬」 という表現・表記はこれだ。


万葉集 「長門」 の歌
3243 長門の浦
処女 伊勢乙女

3617 
安芸国長門島 神武東征 安岐の多祁理
大石蓑麻呂という名前
 大石 伊勢
 蓑 御崎馬がいた丸瀬は「大草」「草立」 と呼ばれ、大草が生える場所。

御崎馬は野生馬だった。 筑紫君薩野馬

3621
奈我刀能之麻之 小松原
御崎海岸の地名「小松ヶ瀬」

以上から、「長門」 は下関市吉母の御崎に比定できる。

油谷湾の感じもある。
3242 油谷蔵小田の「みのが峠」
3244 阿胡 阿川
3243 沼名河 土井ヶ浜の沼川

御崎を流れる川の名 未詳


吉母の御崎の奥地 字「淵ヶ谷」 の重要性 本州最西端
石灰岩の地 カルシウム 硬水 不老水
もしかして銀鉱があったか
三井さん宅が筑紫君磐井
丸山(丸瀬) に天斑馬。 大草が生える草立。 筑紫君薩野馬
海岸の岩場に伊勢乙女たちがいた。 大石の上に弁才天の祠が立つ。
対馬暖流で冬暖かい。 「正月不知」 と呼ばれた。

隠国 (こもりく)
吉野の泊瀬、吉野の瀧 も御崎だ。


『よしみ史誌』 P716〜718 は必読である。
浦島太郎の作者 伊予部馬養連は御崎 淵ヶ谷の人だ。

龍宮城
万葉集3245 天橋  向津具だろうか。
『逸文 丹後国』 の天椅立は向津具か。 歌の流れからすれば御崎だ。
御崎の奥地 字「淵ヶ谷」 は神仙の桃源郷だ。 隠国(こもりく)。


わかった!!
「天」 は易経で乾為天
天(あめ) の場所は有冨 字「中村畔」 から北西の方位

「天」 (あま、あめ) は北西の方位の場所だ。

八卦
   父  北西 頭 金

天とは八卦の乾だった。


風土記
伊予国 山 香山

丹後国 奈具社 天女8人=筑後の八女
筑後の御木=扶桑樹 の場所は御崎。
山海経の黒歯国は吉母の黒嶋か。

風土記581下
今まで「常世嶋 男嶋女嶋」 は川棚沖の厚島と思っていたが、ここは御崎か。


続日本後紀(下)  講談社学術文庫
P326  嘉祥2年3月26日
  ↓
この場所は御崎だ。 吉野は複数か所あり、御崎も吉野だ。

野馬台
下関市吉母御崎 淵ヶ谷 の丸山に野生馬がいた。「野馬」 は野生馬を表す。




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有冨大王

2017/02/15 04:00

中村大王
古事記の大年神は下関市有冨 大年池横 中村分家宅の大年社であり、牛を祭る神社だから神武東征の牛酒の地である。 この社は中村分家宅の北側にあった。 80年くらい前か、分家が家を建てた時、池の横に移した。
五行配当 牛=土=中央 で安倍家(御門家) があった所だろう。
この場所から東のハンドウ山を見て詠んだ歌が安倍仲麻呂の
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも

天香具山=高円山=三笠山
※奈良県とは山がちがう。

竹取物語のかぐや姫はハンドウ山 登山口前の土塀が崩れた場所に住んでいた。 お迎えが来たので月の都に帰った。 月の都はハンドウ山の頂にあった。
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでしかも

兎=月=東
兎=菟田
菟田の高城=高安城 は同じ場所。 ハンドウ山下に掘られた謎の溝。

有冨の中村さんは天御中主尊の末裔で倭国の大王(おおきみ) 家の直系。
竹生山の東峰「東ヵ嶽」 は泰山を示すので、中村大王は老子系である。

庄屋 儀万という家は天武天皇の末裔である。 神功皇后、天武天皇は「瀛州」 の土井ヶ浜・角島・向津具の出身で徐福系だから呪術・方術を使う。 神功皇后の出身地である角鹿(=角島) の気比大神は徐福である。

住吉大社神代記によれば、
神功皇后が住吉神と不倫して生まれた子が応神天皇である。

30年前まで白井さん宅前に蓮の池があった。 記紀・万葉の蓮はここであり、飛鳥浄御原宮の朱雀池である。


下関市の原始古代  東海の三神山
老子 有冨上 − 邪馬台国・蓬莱。 蓬莱は吉母か。 
徐福 土井ヶ浜・角島・向津具 − 瀛州

門司の風師山 − 饒速日尊の河内国 哮峰。 門司の葛葉は大阪府和泉の地名。
方丈か。

 


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乾(いぬい) の方位

2017/02/14 04:57

下関の有冨倭国では方位方角が絶対的決め手である。
名前が「儀万」 という珍しい家は天文遁甲の原点を意味する。
「儀万」 という家は有冨村(延行、石原を含む) の庄屋だった。

江戸時代まで日本人は陰陽道で生活していたので、昔のものを読むには陰陽道、陰陽五行、易経、風水などの民俗学、古代の中国哲学の知識は必修である。 これらの学・知識・教養に基づいて方位方角を語ることになる。

地球は丸いので、地点と地点を直線で結ぶことができるのは5万分の1地図 2枚貼り合わせ まで。 地球は球体だから、奈良県の地点と九州の地点を直線で結んでも実際は歪んでいる。 磁石方位は西偏約7°

冨士埜勇 談  長年、下関市菊川町・川棚で発掘調査を担当 
古代人の方位感覚には「約」「だいたい」「おおよそ」 といったものはない。
わずかでもズレるなら、その方位方角への説は間違いである。
1°たりともズレてはいけない。 ピンポイント、ドンピシャあるのみ。

基点
有冨上 字「中村畔」
竹生寺
この2つが基点である。

神武東征の臣は有冨ハンドウ山の登山道の人である。
この「道」 の字は道家、道教を表す。

老荘思想 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%AE%B6


北西の乾(いぬい、乾為天) の方角を調べると、
竹生寺−永田郷の御堂遺跡−吉母の樋の口神社−御崎神社
が直線で結ばれる。

御堂遺跡は隣の字地名が字「宗教」 だから老子の墓ではないか。

吉母の樋の口神社 字「安常」 祭神 天照大神
この神社は字「安常」 にあったが明治17に北側の字「樋の口」 に移された。
『古代氏文集』 住吉大社神代記 P42 381 の広田大神だろう。

御崎神社の登り口にある「阿部」 という家は
文庫書紀C210-1 伊勢阿部堅経 の末裔である。

御崎の海岸 岩の上に弁財天の祠が立つ。

東は誕生、西は死滅。
墓は西に造られる。 本州の西端に位置する吉母は墓の場所である。


 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE




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彦島ピラミッドは伊奘諾尊の墓

2017/02/13 21:17

彦島の高山(70.1 m) 彦島弟子待町
彦島の弟子待から門司へ渡っていた。 対岸は門司の小森江駅。

地図は「高山」。 地元では「岩山」 ともいう。
ttp://blog.livedoor.jp/kotobukishirushi/archives/22764074.html

彦島ピラミッド 龍宮神社 姫塚  ※ 過去記事は今と考えがちがう。
http://44051510.at.webry.info/201410/article_13.html


伊奘諾尊の陵墓
古事記 伊耶那岐大神
淡海の多賀に坐す。

日本書紀
文庫書紀@60-11
幽宮を淡路の洲に構りて

履中紀 5年 文庫書紀A294-7
淡路島で狩りをする。 島に居る伊奘諾尊が飼部の黥を「血の臭きに堪えず」 と言う。


私見 彦島ピラミッドは伊奘諾尊の墓である。

下関市有冨 字「中村畔」−火の見山−丸山町の日和山−彦島の高山
が直線で並ぶ。




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呼野金山 北九州市小倉南区

2017/02/13 05:05

北九州市小倉南区 呼野金山
『福岡県の地名』 日本歴史地名大系 41 平凡社 2004年
P1245中 呼野村
大山祇神社が鎮座。 和銅年間(708−715) 銅鉱採掘のとき鉱山の守護神として創立されたという。 天平年間(729−749) 宇佐宮の神鏡鋳造のため銅を採掘したと伝える。

銀鉱山
http://44051510.at.webry.info/201408/article_17.html



きたきゅう発掘! 『考古学ノート』 1200円
(財)北九州市芸術文化振興財団 埋蔵文化財調査室 2012年11月
P114
「弥生人は中国大陸のトレンドがわかっていたか?」
P118
「北九州市内の終末期古墳」


宗像市の東部、上八(こうじょう) に金鉱があった。 鐘ア貝塚が近い。
宗像の金鉱
宗像は黄金のまち
ttp://d-munahaku.com/news/dtl.jsp?kid=91759&cgid=1001%5D%5B1002
上八(こうじょう) 金山
ttp://www.city.munakata.lg.jp/shigai/chiikisyokai-10.html
平信盛墓所 と 宗像金山
ttp://blog.livedoor.jp/keitokuchin/archives/65585837.html


山の名が仙境を意味する  仙人が住む山、仙人暮らしの山
東ヵ嶽 「東嶽」 は泰山 下関市有冨 竹生山の東峰 無残にも砕石場となった。
風師山 北九州市門司区

万葉集1 漢字原文に「師」 の字があるので、門司の風
万葉集2 「山常」 と「常」 があるので、下関市有冨のハンドウ山。 「取與呂布」 の場所は大迫池の上、有冨墓地の東側の尾根で、ここが鳥見山である。 真朱が出るのか?

『古代物部氏と先代旧事本紀の謎』 安本美典 著 勉誠出版 平成21年
P146  饒速日の尊の天下り
河内の国の河上の哮峰
大倭の国の鳥見の白庭山(または 山)
  ↓
鳥見山は白い山と表現されている。
鳥見山の条件は白い土、白い岩(石灰岩、石英など) がある所である。

下関市有冨 字「中村畔」 は天子南面・天心十道の倭京であり、真南に門司の風師山、小森江西小学校がくる。


小森江  門司区
小森江 小字名の聞書 
http://44051510.at.webry.info/201409/article_14.html

『小森江村志』 によれば、山の高い所に自然または人が掘った洞窟がたくさんあるという。

『門司郷土叢書 第8集』 海峡叢談
P99下 産の子松
応神天皇が誕生した場所と伝えられる。
蚊田は小森江の片上(潟上) か。
場所は神戸製鋼の敷地内なので、大字片上ではない。

『 北九州市史 総論  先史・原史 』  昭和60年12月
P751
丸山古墳  門司区小森江2丁目 (字丸山)
大正5年(1916) 九州鉄道拡張工事の際、古墳が破壊されて五獣鏡 1 ・ 鉄刀 3 が発見された。 鏡は東京国立博物館に保有されている。
墳頂1.2メートルの土中から検出され、石材などはなかったと伝えられるので、土壙墓か粘土槨のような構造であろうかと考えられる。
国鉄門司駅から線路沿いに2キロメートルたらず北上したあたりと思われるが、現在は工場内となり痕跡すらとどめていない。

五獣鏡は表面緑青色を呈し、平縁をなす外周の3分の2 は欠損しているが、復元18.2センチメートルとなる。
内区模様は円座乳で5区に分けられ、各区にS字状の半肉彫長胴とその左上に獣首を付した5つの同形獣を配している。
細線式の手法を加えた鼉龍鏡(だりゅうきょう) の変形とみられる点は珍しい。 鋸歯(きょし)文を加えた隆圏帯で内外区が区分され、その両側に櫛歯文帯と、さらに外区には整った菱雲文帯がめぐらされている。

この種の獣形鏡では、まださして変形していない優れた部類の作品である。
この鏡から推して5世紀代の古墳であろうと考えられ、ほとんど現存しない門司区の古墳時代遺跡のなかで、注目すべき資料である。

《 参考文献 》  1924−1
          1976−1

※ 出土した漢式鏡の鮮明な白黒写真が掲載されている。
獣形鏡(五獣鏡) なので、渦巻く雲のように見えるのは抽象的な獣である。

学芸員 宇野愼敏 談
小森江 丸山古墳から出土した漢式鏡は後漢すなわち卑弥呼の時代に中国で作られた舶載鏡である。
この種の鏡は5世紀代の古墳から出土するため、小森江 丸山古墳も5世紀の古墳と推定される。 つまり伝世鏡である。 奈良県のヤマト政権が後漢時代に作られたこの種の鏡を複数枚保有して、それを5世紀なって各地の豪族に配布したと解されている。


万葉集1 は北九州市門司区 小森江の風師山である!
門司の丸山古墳から出土した鏡に大注目したのは私が最初だ。

万葉集249 隠江(こもりえ)
三津埼
文庫書紀@130-9
吾が児事代主、射鳥遨遊して、三津の埼に在り。
出雲国の三穂の碕、出雲の御大の御前 ・・・ 丸山古墳あたりか

万葉集429
門司の山津波で溺死した出雲娘子を吉野山に葬る。 出雲と吉野は場所が近い。
吉野山は門司の風師山だ。

下関市有冨 字「中村畔」 の真南の方角 ピンポイントで門司の風師山、小森江西小学校(大量の銅滓が散らばっていた場所) がくる。
真南の "こだわり" が見られる。 方位方角のこだわりが凄い。




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