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ブログ名
邪馬台国 下関
ブログ紹介


講談社学術文庫 『 倭国伝 』  旧唐書 P205、208
旧唐書に
「倭国は、古(いにしえ) の倭の奴国也。」
「日本国は、倭国の別種也」

竹取翁博物館  邪馬台国や徐福に関心を示された 2014.4.14
http://blogs.yahoo.co.jp/koiiyk/31302118.html
  ↓
中国の古地図 日本国と倭が別に描かれている。


中国正史の古代日本記録
いき一郎 編訳 葦書房  1984年 1992年 第2刷
P49
後漢書 巻80 「烏丸鮮卑列伝」 に、
鮮卑の檀石槐が光和元年(178年) に、魚をつかまえるのが巧みな倭人のいる倭人国を撃って倭人をとらえ、倭人に秦水の魚をとらせ食糧にした、とある。
「三国志」 は倭人を人とし、倭人国を人国としている。

この場所は鳥取県の青谷上寺地遺跡である。 近くに地名「汗入」 がある。

青谷上寺地遺跡展示館 ホームページ
http://www.tbz.or.jp/kamijichi/index.php?view=4095
土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム ホームページ
http://www.doigahama.jp/

佐賀 ・ 徐福国際シンポジウム
http://inoues.net/study/jyuhuku2008.html
  ↓
赤関=天関
文庫書紀@198-末 神武東征
是に、火瓊瓊杵尊、天関を闢き雲路を披け、仙蹕駈ひて戻止ります。



参考文献   以下の本は所有しています。
記号  例   
文庫書紀D74-12 → 岩波文庫 日本書紀(五) P74 の12行目
小学館書紀A469-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 日本書紀 A巻 P469 の 8行目
続日本紀B74-12 → 岩波書店 新日本古典文学大系 続日本紀 三 P74 の12行目
日本後紀 47-8 → 集英社 日本後紀 P47 の8行目
旧事F169-4 → 批評社 先代旧事本紀 訓註: 大野 七三  巻第七 P169 の4行目
訳旧事E305-7 → 批評社 先代旧事本紀 現代語訳  巻第六 P305 の7行目
祝詞393-7 → 岩波書店 日本古典文学大系「古事記 祝詞」 P393 の7行目
風土記71-12 → 小学館 新編日本古典文学全集 風土記 P71 の12行目
岩波風土記183-2 → 岩波書店 日本古典文学大系 風土記 P183 の 2行目
文庫風土記下168-5 → 角川ソフィア文庫 風土記 下 P168 の 5行目
山川風土記27-331行 → 山川出版社 風土記(常陸国 出雲国 播磨国 豊後国 肥前国) P27 行数331
小学館今昔物語C252-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 今昔物語集 C巻 P252 の 8行目
岩波今昔物語A145-6 → 岩波書店 新日本古典文学大系 今昔物語集 二巻 P145 の 6行目
古語拾遺164上-20 → 右文書院 『古語拾遺』 を読む P164上 の20行目
古代氏文集40-364 → 山川出版社 古代氏文集 P40 の 364行 
を示す。

万葉集
おうふう(株) 萬葉集
岩波書店 新日本古典文学大系 萬葉集
笠間書院 万葉集表記別類句索引 編者:日吉盛幸

風土記の索引書
和泉書院 『古風土記 並びに 風土記逸文語句索引』 橋本雅之 編


私は他人の説を摘まみ食いして、それを手直し修正し「自分の案」 を打ち出す「いいとこ取り」 は絶対にやりません。 私はずるくて利口なパクリ行為はやりません。 奔放な当てずっぽうのブログですが、一次資料に基づくものを書くため、記紀・万葉などの文献を読み、市町村史や郷土の自費出版物などの地方資料を渉猟して書いてます。 ネットで見たものはリンクを貼ってブログ主に通達してます。

私は僅かでも何かしらの着想(ヒント、アイデア、思いつき) を得た参照元は漏れなく全部を記してます。
当ブログは学術書レベルで参考文献を示してます。
着眼にあたって参考としたものを記すのは書き物の基本的な礼儀作法です。
他人の発見を尊重してこそ自分の発見やオリジナリティを主張できる。

私のブログは当ブログだけであり、他でブログ等はやってません。 私はネットの投稿、掲示板やコメント欄への書き込み他をしたことはありません。 なりすまし に注意してください。


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「干支による方位を付した分度器」 を使ってアイデアを得る

2016/10/30 04:27

必需品
Amazon | プラスチック加工専門店【井上製作所】 方位分度器 (S-418 ...

国土地理院 地図 2万5000分の1
綾羅木川と関門海峡の地図を外枠を切り取ってセロテープで貼り合わせる。

ゼンリン住宅地図
コンビニのコピー機で縮尺を調整した4枚をセロテープで貼り合わせる。

地図は紙の地図にかぎる。 あちこち蛍光ペンで印を付けて方位分度器を当てる。


竹生寺の横にある妙見社は北極星であることに注目して、
amazon で売られている井上製作所の方位分度器を当てる。

青山の「青」 は東の意味である。
梶栗浜遺跡は西の方位にある。
中心は有冨上の儀万さん宅、中村本家さん宅あたりとなる。

一の宮本町の龍王山は「巳」(蛇) の方位になる。
椋野上町の妙見山は方位磁石の南(西偏7°)

西偏7°で測れば、中心は岩谷さんの家前にあった有冨上八幡宮となる。
真東は石原の小原山 
真西は梶栗浜遺跡

大年池の横、中村勝さん宅は低い丘上にあり、風水で見て家裏にあった大年社は重要である。 この場所が「土」 (中央) か。 大己貴神の「己」 も「つちのと」 で中央を表している。

耳成山
八卦の「坎」 は北で、身体の部位は耳。北=耳。 竹生山か。

虚津
「虚」 は二十八宿の字。 真北の東隣
危−虚−女−牛− ・・・


下関市始原文化
東西南北の座標 「中央」「原点」 は有冨上 字「中村畔」 の
  儀万さん宅  「儀」 は易の両儀、「万」 は万物
  岩谷さん宅前の東側の山道  「平田さんの山」
  中村勝さん宅の裏、昔牛小屋があった場所 大年社
  中村本家さん宅西側  「丑」 の方位に牛を祀る大年社がくる
が座標「ゼロ」 のピンポイント候補地である。 微妙だ。


奈良県の天香久山
 国立神社 ・・・ 金印の根津日子命
 天岩戸神社
  ↓
下関市有冨のハンドウ山が本当の天香久山である。
漢の国は有冨 字「村畔」 にあった。
円筒埴輪の節は竹生寺縁起の孟宗竹を表す。
前方後円墳は下関市有冨のハンドウ山をデザインしたものである。
(根拠)
有冨 字「中村畔」 からの八卦(乾・坎・艮・震・巽・離・坤・兌) の方位がドンピシャだ。 方位磁石の西偏7°も重要である。




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下関市域 伊勢

2016/10/24 02:02

吉野裕子(民俗学) の説によれば、西は死滅の地
下関市の西端は吉母・室津。 本州西端でもある。 毘沙ノ鼻

下関市域の伊勢神社 天照大神を祭る神社
石原にあった大神宮 場所、祭神とも不明  『村浦明細書』(安政5年)
  ↓
福江八幡宮
  ↓
吉見上にあった滝本神社 逸文 伊勢国 瀧原神宮か
  ↓
吉母 樋の口神社 明治期までは字「安常」 にあった。

垂仁紀 豊耜入姫の「耜」 は福江の鍬先山
「東の美濃」 は吉見の字「美野田」

風土記 伊勢国 逸文 の吉津島は下関市吉母の黒嶋である。
下関市吉母の黒嶋は前方後円墳の形をしている。
黒嶋は久留島とも呼ばれていたので牽島で引島か。

太平洋戦争時、黒嶋には人間魚雷基地があり、線路が敷かれたトンネルが2つ開いていた。 戦後、人間魚雷のトンネルは埋められた。

黒嶋観音  郷土史本 『汀の里』 P9
長門仏法大師新四国第69番札所
奈良時代、行基菩薩が聖武天皇の勅命を受けておとずれ、この地の風光と地形に霊を感じ、自ら十一面観音像を刻みまつられた。
黒嶋は現在陸続きとなっているが、古くは島で、黒嶋普門院観世音縁起によれば「久留島」 とも呼ばれていた。 この島には十一面観音像をまつる観音堂があり、毎年旧暦の6月17日には「十七夜祭」 で大般若経の転読が行われ夕方から多くの人が、無病息災を祈って参拝する。 境内には松尾芭蕉などの句碑24基がある。


地元の学術関係者は吉母の黒嶋に関心を示さないが、東京・京都から来た人は吉母の黒嶋を見たら前方後円墳の形をしていることに驚くはずだ。


吉母の漁業
http://44051510.at.webry.info/201209/article_110.html

吉母上には大仏が置かれた東光坊という寺があった。
廃寺になって大仏は豊浦町厚母郷の安養寺に移された。
この大仏は坂上田村麻呂が関与したとされ、重要文化財、戦前は国宝。

吉母上は宗像の海も見えて、海の見通しがきく場所だ。

【厚母大仏】 凄い力を感じる、山口県下関市郊外にひっそり鎮座する重要文化財
ttp://katsulog.net/150627-atsumo-daibutsu/
厚母大仏
ttp://www.shoai.ne.jp/chugoku-w/furusato.shiseki-atumodaibutu-yamaguchi.html


天照大神、最晩年の伊勢は下関市吉母である。
吉母 字「江良」 山本さん宅 西隣の竹藪は禁忌の場所とされる。

黒嶋先端の先にある岩礁「威勢」 に万葉集228434 の「難波姫島松原嬢子死」 と似た民話がある。 『よしみ史誌』 P711 地下上申 

御崎に「小松ヶ瀬」 がある。 "西" の河辺、久米は御崎か。
万葉集で「小松」 の場所は御崎の海岸である。

御崎が下関市吉母に編入されたのは昭和30年で、それまでは豊浦町室津上に属していた。 御崎は本来の吉母域ではない。 歴史的には「吉母の御崎」 ではなく「室津上の御崎」 である。
室津海岸の松林は「木ノ村」 といわれる。 吉母の御崎地区は古くは室津に属していたので「木の国」「紀伊国」 だ。


瀧、洞窟がある場所は御崎。
風土記 伊勢国 逸文 瀧原神宮は御崎神社か。

文庫書紀C210-1 伊勢阿部堅経 吉母御崎の阿部さん宅

万葉集3233 この芳野の瀧は御崎の淵ヶ谷

万葉集32343235
五十師の原 御崎 字「淵ヶ谷」  カルスト台地
御井 三井さん宅


文庫風土記下-193
逸文 伊勢国 伊勢国号、一説 石城
天日別命、勅を奉り、に入ること、幾百里。 其の邑に神あり、名を伊勢津彦と曰ふ。
伊勢津彦の神は、近く信濃国に住ましむ。
天日別命の封地の国と為し、宅地を大倭耳梨の村に賜ふ。


  又云ふ。 伊勢と云ふは、伊賀の安志(あなし) の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名、伊勢津彦命、又の名、天櫛玉命。 此の神、昔、石もて城を造り、其の地に坐す。 ここに、安倍志彦の神、来集ふ。 勝たずして還り却る。 因りて名を為すなり。


私見
東の伊勢 有冨上、または石原にあった大神宮
信濃 赤田代
大倭の耳梨 蒲生野山田か

内日の赤田代は垢田の人が移住した説がある。

垢田の字「沓」 は靴を履いた人が上陸した場所という。
垢田八幡宮近くの山の上に蓋弓帽の稗田地蔵堂遺跡がある。

蓋弓帽の稗田地蔵堂遺跡の近くに「秦屋敷」 という地名場所があるという。
稗田の小字「畑」(ハタ) は 稗田南町〜山の田の県住 といわれる。

稗田に石炭層があった。
稗田町 町民館 の坂入り口に「稗田のあゆみ」 看板があり、
第5幼稚園 と 旧川中中学校 の場所に石炭層があったと書かれている。
構造船の祭祀土器が出土した要須遺跡は石炭層にあったので墨江か。

鼻ヅラ海岸の黒ア妙見に天御中主尊が祭られていた。

山口県鹿野(かの)町
2003年 徳山市、新南陽市、熊毛町と合併し、新たに周南市となり消滅した。
鹿野町 鹿野下 字「天子」  建御名方神がここに逃げてきて住んだと伝わる。


伊勢 御崎の字「淵ヶ谷」 の海岸、岩の上に弁財天を祭る祠がある。
この場所は出雲でもある。
安倍志彦は御崎の阿部さん宅か。

万葉集で「留西」 (とまりにし) とは御崎か。
西、黄泉、出雲。

天照大神の黄泉である伊勢は五十師の原
黄泉の出雲は五十田狭の小汀


続日本紀から発想  作成日時 : 2011/11/27
不破の道 = 鈴鹿関  吉見 農免道路横の千石岩
美濃と尾張は場所がほとんど同じで吉見温泉センター
美濃の養老の泉  吉見温泉(アルカリ性単純温泉 25.1度)
岐蘇(吉蘇)  吉見峠
信濃  赤田代
5年前の思いつきなので今とは比定地が異なる。 「吉蘇」 は吉見峠だろう。


陰陽五行と幕の色彩
http://sansenshinbunsya.net/index.php?%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C%E3%81%A8%E5%B9%95%E3%81%AE%E8%89%B2%E5%BD%A9
  これは五行思想が伝わると共に世界認識軸に加わった「南北軸」 を表現していたのではないかと筆者は見ています。 五行思想が入ってくるまでの日本には、「南北」 という世界観がなく、「東西」 の区分けがすべてでした。 「東」 は「生命誕生」、「西」 は「死の方位」 で太陽が再生されるまでそこに籠もる「子宮・胎・」 の方位です。 ところが五行思想が日本に入ってくるなり、「南北」 という新しい世界軸が脚光を浴びます。 「南北軸」 は星を神聖化したもので、北には満天の星を司る「太一(たいいつ)」 という神が北極星に座し、向かい合う南には皇帝の祖先の霊をまつる「天廟」 と位置づけられる「南斗六星」 があり、天子の寿命を司るとされていました。 天を支配し、祖霊と寿命を司る北斗と南斗の軸は、当時の人にとっては太陽軸以上の存在になっていくのです。「赤」 は南、「黒」 は北。 現在ではあまり見ない「赤と黒」 の斑幄が宮中の行事などに盛んに使われたのは、その時代の流行だったのではないでしょうか。


下関市川中
 妙見 竹生寺の横にある妙見社
中央 有冨上 牛を祭る大年社、ハンドウ山の登山口、儀万さん宅
 皇帝の祖霊を祭る天廟があり天子の寿命を司る。
石棺に朱が塗ってあった下有冨石棺、方墳の上ヶ原古墳
伊倉の龍王田遺跡
熊野町の古墳

有冨上 大年池堤防の西にある大年社はかつては中村勝(まさる) さん家屋敷の北辺にあったものを家を建てた時に現在地に移動した。
この大年社は牛を祭るので、神武東征時の牛酒である。 文庫書紀@214-5
彦火火出見尊の軍が倭に入った時、倭には牛がいた。


字「大西」  東は誕生、西は死滅。
有冨の字「大西」 は有冨でも古い家々の墓地がある。

伊倉
伊倉の字「大西」 も古墳時代の埋葬地
字「龍王田」 遺跡あり
字「浅山」  風水の朝山か

孟宗竹は江戸中期に中国から伝来したとされる。
竹生寺縁起では、787年(延暦6) に寺を建てた時、この場所に生えていた竹は孟宗竹だったという。


磁針方位は 西偏約 7°
地図で知る真南だけでなく、方位磁石が指す南も重要である。




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長き人、仙(ひじり)  下関市福江

2016/10/23 23:02

下関市福江 長仙古墳
真鋒田高天 雄略紀 文庫書紀B30‐12
有冨のハンドウ山か。

A案
雄略天皇が遊猟をした場所は蒲生野。 参考 万葉集20 題詞
膳臣長野 文庫書紀B30-8  蒲生野の長尾池か
大津馬飼 大津は友田川下流で安岡港
安野 文庫書紀B38-11 安岡の上げ

B案
安岡の野村病院の横を流れる水路は竹内川 石川楯 文庫書紀B28-1
雄略天皇が遊猟をした場所は吉見。 参考 万葉集27
吉野宮は吉見で御馬瀬は 字「尾袋」(馬の尾につける飾り)


葛城一言主
葛城山 葛城一言主は福江の長仙古墳(人丸神社 福江 迫85番地)
近くに1200年前からあったと伝わる役行者像が立つ。 場所は農免道路横 細川ふとん店の前
文庫書紀B34-4 長き人  B34-10 で「長仙」


ゆめゆめ
雄略紀 文庫書記B38-1 努力努力(ゆめゆめ)

皇極紀 4年4月1日 文庫書記C226-10 慎矣慎矣(ゆめゆめ)
鞍作得志 → 鞍作 → 安岡の玄空寺に伝わる仏像に「鞍作鳥作」 がある。
玄空寺の裏山が葛城山か。
福江に字「山王」 があり、農免道路横 流水庵あたり。


文庫書記B36-末行 葛城山の「霊しき
  ↓
防長地下上申 第三巻  P318  安岡村由来
鳥声山
但往古一ノ宮二ノ宮両社之御神、毎年極月七日暮六ツ時より八ツ時迄、十七日之間御巡廻被成、此所ニて鶏鳴候間、御帰り被成たる由、其故鳥声山と申伝候事


防長地下上申 第三巻  P325上
井川と云小池  横の之内安岡境ニ有り
但往古弥左衛門と申者堀申ニ付弥左衛門川と申伝候事


横野の妙光寺前あたりに池があった。
来目水、百済の池津媛 文庫書紀B28-1
仁徳紀 横野堤 文庫書紀A244-10




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大和三山はなかった。

2016/10/22 22:01

奈良県の大和三山は3つとも孤立峰であり、風水の龍脈・龍穴ではない。

文庫書紀B44-3  菟田の墨坂神=大物主神、注七 斎戒
=文庫書紀@236-末行  天の香山の埴土、埴安
  ↓
異説異伝
菟田の墨坂神=大物主神
「斎戒」 の共通字で示される同じ所
を採って「大和三山」 はなかった。

大物主神は三諸山ではなく菟田の墨坂=香山の埴安にいる。
三諸山=三輪山=天香山 である。

「三諸山」 いう表記は山々の連なりを表す。 風水の龍脈である。

住吉の中筒男は赤土命で埴安にいる。
穴門の大田、山田は有冨 大年池の下の田である。

『山口県の地名』 平凡社 日本歴史地名大系 によれば、
延行と有冨に住吉神社の神領があった。


下関市の綾羅木川流域では青山、火の見山、一の宮本町の山は美しい円錐形である。 しかし風水では山々が連なる龍脈の先に気の力があるので、孤立峰は神聖な山ではない。 風水による景観見分から、山々が連なる龍脈があって、その先に龍穴・明堂がある天子南面の場所は有冨上 字「中村畔」 である。


雄略紀 文庫書紀B44
7年の秋7月甲戌の朔丙子に、天皇、少子部連蜾蠃に詔して曰はく、
「朕、三諸岳の神の形を見むと欲す。
或いは云はく、此の山の神をば大物主神と為ふといふ。
或いは云はく、菟田の墨坂神なりといふ。
汝、膂力人に過ぎたり。 自ら行きて捉て来」 とのたまふ。

蜾蠃、答へて曰さく、「試に往りて捉へむ」 とまうす。
乃ち三諸岳に登り、大蛇を捉取へて、天皇に示せ奉る。
天皇、斎戒したまは
其の雷虺虺きて、目精赫赫く。
天皇、畏みたまひて、目を蔽ひて見たまはずして、殿中に却入れたまひぬ。
岳に放たしめたまふ。 仍りて改めて名を賜ひてとす。



大和三山 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E4%B8%89%E5%B1%B1

蜾蠃 = ジガバチ Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%AC%E3%83%90%E3%83%81

虺=マムシ

Google 画像検索 【 虺虺の雷 】

美術史ゼミナール 「中国の青銅器」
ttp://chinaalacarte.web.fc2.com/seidouki-9-3.html


菟田の 「菟」=卯 で五行方位の東。 雷=震 で五行方位の東。
角川ソフィア文庫 新訂古事記 P54
「吾をば倭の青垣のの山の上に斎きまつれ」 とのりたまひき。 こは御諸の山の上にます神なり。
本文 伊都岐 ― 伊都の尾羽張の神
古事記 大年の神の系譜  有冨上 大年池の横にある大年社


膂力人  天手力雄神 文庫書紀@84-12
子部(児部)=天児屋根命。
神八井耳命は小子部連の祖。 小学館 新編日本古典文学全集 注

これは有冨のハンドウ山に伝わる大甕の民話に通じる。
ハンドウ山は住吉神社の神官が来て雨乞いする山だった。


土器の話
下有冨遺跡 2012年度調査 瓦質土器 足鍋
  ↓
ttp://auction.artron.net/paimai-art5030361216/

下有冨遺跡 2012年度調査 青花 皿 「壺中」
  ↓
壺中の天(こちゅうのてん) とは - コトバンク

万葉集989 湯原王打酒 歌一首
焼刀之 加度打放 大夫之 禱豊御酒尓 吾酔尓家里


キトラ古墳
キトラ古墳 - 国営飛鳥歴史公園
ttps://www.asuka-park.go.jp/kitora/

キトラ古墳 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%88%E3%83%A9%E5%8F%A4%E5%A2%B3

キトラ古墳が大きな話題に!天文図や四神の壁画についても紹介します
find-travel.jp/article/28374

キトラ古墳壁画、第一回特別公開に行ってきました | ブックづか
bookzuka.blue/キトラ古墳壁画、第一回特別公開に行ってきまし/

【考古学】キトラ天文図、謎の描き直し ミスか故意か見解分かれる [無断転載禁止]©2ch.net

A案
安倍氏−土御門家−古事記 大土の神−大年の神− 下関市有冨の大年社
安倍御主人(みうし)−牛を祭る有冨上 大年社
というわけで、奈良県明日香村 安部山 に対応する場所は
下関市有冨 大年池の横、屋敷内に大年社がある中村勝(まさる) さん宅か。

B案
キトラ古墳の位置 檜隈の南東
檜隈は有冨の重岡さん宅なので、その南東は遠山運送

「牛」 がつく人名 身狭君勝(舒明即位前紀)
身狭君は身狭村主。 青は五行方位で東
蘇我氏も蘇我日向。 日向は東
陶津耳はパチンコ K-1 横 の甑土器出土地

山背国は生協配送センターあたり。
続日本紀@201-5
丁亥、始めて山背国をして、乳牛戸五十戸を点せしむ。
続日本紀A55-14  補8-30
典薬寮乳長上

乳牛が飼われていた。


県道長安線 有冨のレンタカー屋付近に身狭、蘇我、三輪がいた。
遠山運送裏の畑に馬場があり、蘇我馬子の島宮があった。

キトラ古墳と有冨古墳は形が似る。

日本一の風水の景観が見られる場所は下関市有冨 字「中村畔」であり、
奈良県の明日香村、藤原京は風水になっていない。

奈良県南部は南が高く北が低く、川が南から北に流れているので、
天子南面、四神相応の吉祥の地となる設計配置はできない。

正真正銘の明日香村は奈良県でなく下関市有冨 字「中村畔」 である。
これは景観の風水見分でわかる。




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阿保山 阿毎  「阿」 は有冨墓地の東側の地形

2016/10/20 02:23

山辺の道
有冨古墳−大年池−大迫池−薬師池−竹生観音の参道下
大年池 埴安池
大迫池 石上池
薬師池 藤原の山池か

葛城山=石上山=鳥見山=蓬莱山 ・・・ 葛城一言主は仙人、神仙境
場所 有冨 ハンドウ山の山頂から平たい尾根伝いに20分歩いて登る。

先代旧事本紀 巻第三 饒速日尊の天下り
鳥見の庭山
神仙境は白い所である。
ハンドウ山 乳白色の石英は国の重要文化財に値する。


文庫書紀@236-2
又高尾張邑に、土蜘蛛有り。 其の為人、身短くして手足長し。 侏儒と相類たり。
手足長し ・・・ 長髄彦、七束脛

高尾張邑  有冨上 大迫池の上の尾根
懼坂  ハンドウ山の登山道 



『抱朴子 列仙伝・神仙伝 山海経』 平凡社 中国古典シリーズ
大荒南経  P499下-末から2行目
不死の国あり、の姓、甘木(不死のき) を食う。
  ↓
万葉集1867 保山
春が来れば桜の花が咲く。 有冨の山には山桜が多い特徴がある。

学研 新漢和大字典など大型の漢和辞典で「」 を調べる。
かぎ形になった丘、くま、山や川の曲がって入りこんだ所

青(あを)、阿保(あほ) は字音仮名の表記が異なる。
」 の地形は有冨墓地の東側である。

甘木は花に蜜がある椿か。 椿は日本の特産で中国・朝鮮にはなかった。


隋書俀国伝
倭王の姓は毎、字は多利思比弧、号して阿輩雞弥という
これも「」 は音だけではなく意味(山並みがかぎ状に曲がった所) も表していたと見れる。




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青銅器、鉄器  記紀

2016/10/19 12:25

古墳時代
日本書紀 「剣」 は青銅製だと思う。

神功紀 裂田溝 文庫書紀A142-9
大磐の上に・鏡を置いて、落雷を招いて磐を砕く。

推古紀26年 河辺臣 安芸国 霹靂の木 文庫書紀C132-1
大雨の中にを持って立ち、落雷を呼ぶ記述

七支  Wikipedia
七支刀(しちしとう) は、古代倭王家に仕えた豪族物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市の石上神宮に伝来した剣。 全長74.8cm。
私見
七支刀は「剣」 でなく「刀」 なので鉄製である。 避雷針の形だ。


五行  木、東、青天、霹靂
六十四卦  震


弥生時代
私見 青銅器は雨乞い占で使用ゆえ大型化か。

古事記 鉄
角川ソフィア文庫 新版 古事記 八俣の大蛇
P48-6
足名


仙術=占術、呪術  陰陽道
役君小角 続日本紀@17-8
続日本紀の始まり部分で役君小角がでてくるので、修験道の知識は必要。




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飛鳥は 下関市有冨上 自治会長の中野さん宅あたり

2016/10/14 12:57

記紀・万葉の飛鳥
奈良県の明日香村ではなく下関市の有冨上 字「中村畔」 中野さん宅の周囲。
ここが履中記の遠つ飛鳥である。 ハンドウ山を登って山頂から平たい尾根を進んで行く先に石上、葛城がある。

文庫書紀D226-2
飛鳥浄御原宮 有冨 中村本家さんの家
宮中の御窟院 中村本家さんの便所の横、五輪塔が約20個もあった所。
家を建てた時、この場所から貝塚が出土したと中村さんの家族親類は言う。
「儀万の池」 が本当の飛鳥池か。

引田部の赤猪子 古事記
場所は大年池の山側の用水路で、青い軽トラのおばさんが畑仕事している。
大神=大賀だから、美和河は大賀さんの家前を流れるちょろちょろ用水路。

『ふるさと散歩みち』  川中地区まちづくり協議会 平成7年
P142 小字 こあざ
有冨 ハンドウ山の登山口 字「龍王田」 は「畜犬」(たき) 王田と記されている。
「畜犬」 で一字の合成漢字。 私見では犬は出雲系。 大物主神か。


万葉集1844
寒過 暖来良思 朝烏指 鹿能山尓 霞軽引
「滓」 より有冨の小字「金鋳ヶ谷」 か。
次の1845の末尾の「侶」 は太安万 だ。
「朝烏指」 の表記は朝烏が飛ぶ方向をいうので、
有冨交差点の電柱→ハンドウ山→大迫池横の有冨墓地→竹生山の東ヶ嶽

朝烏が飛ぶルートから春日山は竹生山の東峰〜有冨墓地の東尾根である。
朝烏指 滓鹿能山鳥見山 皇祖天神を祭りたまふ。 文庫書紀@242-8

「皇祖天神」 は何か
A案 有冨上八幡宮(岩谷さん宅の前) の末社である天御中主神社
B案 石原にあった大神宮
ハンドウ山の尾根は有冨と石原の境界である。
皇祖天神を祭る社があった所を推理すれば有冨墓地の東側尾根だ。

万葉集の関西読み 漢字を入れ換えて、ひらがな表記にして文法中心の研究。
万葉集が下関市有冨の歌集なら同時代の続日本紀は有冨の郷土史である。

文庫書紀D154
泊瀬 有冨古墳から少し登った所。 枕詞 隠国
迹驚淵 有冨古墳の横を流れる沢川
迹見駅家 遠山運送の裏、中野さんの畑にあった馬場

雩(あまごひ) の場所はハンドウ山

万葉集990 題詞 跡見 茂岡 重岡さん宅
万葉集988 市原王 有冨の字「市ヶ原」



『川中風土記』 昭和45年
P23
下有富石棺  秋本さん墓地
有富村字市ヶ原にあり、すでに破壊され、石材に朱塗のあとが鮮明に残存しているが、墳墓の全容を知る由もない。 土地の人達について事情を調査してみると、約30年くらい前に発掘され、そのとき曲玉など多くの出土品があったと伝えられている。 石組みもすでに解かれているが、石棺の原位置はほとんど移動していないらしく、専徳寺前の田の一隅にある、雑木林の中に積まれたままになっている。

字「市ヶ原」 にある下有冨石棺は箸墓かもしれない。

『塚の原遺跡』 発掘調査報告書
2003年 P18 下岡地区 石原156番地 L字状石杵 朱の精製


推古天皇 屍 古事記
大野の岡の上は大迫池の横にある有冨墓地
後に推古天皇の屍を移した科長の大陵は有冨古墳

(古墳の前の案内看板から)
有冨古墳  市指定記念物(史跡) 指定年月日 昭和54年8月7日
  綾羅木川を中心として広がる沖積層平野の北側丘陵には多くの遺跡が残っています。 特に綾羅木郷遺跡、梶栗浜遺跡、仁馬山古墳、上ノ山古墳は、本市の主要遺跡として知られています。
  有冨古墳は、この丘陵地の北東に接するハンドウ山のすそに位置し、明治32年(1899) の調査の際、有冨古墳群として5基の円形墳が発見されましたが、現在は2基を残して他は消滅しています。
  横穴式石室を持つ古墳は、墳丘、石室とも旧状をよく保っており、2段築成で墳丘が築かれています。
 玄室は胴張りがほとんどなく、石材は小さいものを使用し、奥壁は1枚の板石を使い鏡石としています。
  直径12メートル、高さ6メートルの規模を持つこの古墳は、6世紀末ごろに築造されたもので、本市でも代表的な円形墳としてその形状をとどめています。
   下関市教育委員会


有冨古墳の場所 下関市石原180‐1 アパート「シャーメゾン石原」 横の竹林の中に白い案内看板が見える。

長安線 (県道247号) は大正12年に開通した道である。 それまで有冨古墳裏の暗くて険しい山道が街道だった。 石原→有冨古墳の裏→有冨 重岡さん宅前 が大正時代までの道だった。 有冨古墳は旧街道沿いにあった点に着目。


持統天皇
万葉集160
燃火物 取而褁而 福路庭 入燈不言八面 智男雲
万葉集161
向南山 陳雲之 青雲之 離去 矣離而

大迫池の横の有冨墓地の上に火葬場があった。 雲が籠る場所だ。
万葉集160161 の場所は有冨墓地だ。
路庭 ・・・ 洞天
  ↓
有冨墓地から登る場所に桃源郷がある。
有冨墓地の東側は山桜の木が多く、春は咲きほこる。

向南山 ・・・ 竹生寺、いや大迫池の上の尾根か
星 ・・・ 妙見 天武天皇
月 ・・・ 竹取物語 月の国のお姫様である持統天皇


石上
万葉集664  大伴宿祢
石上 零十方雨二 将関哉 妹似相武登 言義之鬼尾

像見 ・・・「像」 は徐福祠か老子か。 皇祖天神(文庫書紀@242-8) か。
関 ・・・ 天関
義之 ・・・ 書道の王義之 東晋(呉の領域)
鬼 ・・・ 葛城一言主、斉明紀 住吉の松嶺 空飛ぶ仙人 唐人に似る

場所は大迫池の上の尾根。 大迫池の上を「大迫山」 と呼ぶことにする。
有冨墓地のコンクリート屋根付き小屋の墓(大隅さん墓) の所は「山門開き」 と呼ばれていた。 この「山門開き」 の地点から大迫山に登る道が昔あった。

山口県文書館 地下上申絵図 1263 有冨村地下図 によれば
大谷 (有冨墓地)
ふせぎが谷 (薬師池の上) 
かく石峠 (有冨墓地の東) 
石山 (石原の壁石山) 市宮 天万国万押磐尊 文庫書紀B112-3  
と書かれている。

「かく石峠」 は古事記の天迦久神だろう。
「大谷」 は 逸文 常陸国 大谷 榛


忍壁皇子
「忍壁」 は石原の小字「壁石」 で、砕石場の入口
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E5%A3%81%E7%9A%87%E5%AD%90
万葉集  仙人が住む仙境は岩山である。
194 題詞
235 左注  雷岳は雨乞いのハンドウ山
1682 題詞  仙人形 常之倍尓 山住人
 

太安万侶
たー坊at太安萬侶墓
ttps://www.youtube.com/watch?v=KgB_7Dfr918

奈良市の東部、すごい山奥地の此瀬町に太安万侶墓がある。
『奈良県の地名』 平凡社 日本歴史地名大系 P650上
昭和54年(1979) 1月偶然に発見され、発掘調査された。
被葬者は墓壙以外の所で火葬され、また遺存した骨・歯からやや小太りの壮年男子と推定された。


私見
太安万侶は「太=大」 の名から字「大迫」 の有冨墓地に住んでいた。
稗田阿礼による口承は文字を使わない老荘思想による。


『 山口県地名考 』 高橋文雄 著  昭和53年 
石原 イシハラ
イシハラ、イシワラという地名は県下に約百ヵ所ばかりあり、多くは文字通りらしいが「原」 をラというのは、単に訛りばかりでなく「集落」 を意味するものがあるという。
私見 石 イワレ

伊倉
また別の説に「火神」 のことともいう。
私見
「火」 は陰陽五行の方位で南。
火の山、火の見山の「火」 は五行配当の方位で南。


山水画の世界
有冨墓地の反対側は石原の砕石場である。
仙界は山水画の絵である。 山水画の岩山が砕石場となって無残に崩された。

Google 画像検索 【 山水画 】

山水画 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%B0%B4%E7%94%BB

下関市石原の山は中国の山水画の山である。 山水画は仙人の仙界を描いている。 山水画の山の上に竹取物語の月の都がある。
石原交差点近くの農協駐車場から有冨方面の岩山を見て、その岩山の上に記紀・万葉の天上人、天女たちが住んでいた。 これが明日香の高松塚古墳の壁画である。 高松塚の「高松」 とは、古くは松が生い茂る山だった有冨のハンドウ山のことで、ハンドウ山は雨乞いの雷山だった。

奈良県の古代遺跡に見られる神仙思想は下関市有冨がモデルとなっている。

下関市有冨 字「中村畔」 が倭京なら風水の大吉地なので、
韓国・中国・台湾から風水師を呼んで場所を見分すればよい。
中村本家さんの旧屋敷跡(空地) は倭京の明堂である。


在丘 雄略紀 歌謡
在富村 1610年の検知帳
雄略紀 歌謡 文庫書紀B38-7 在丘
在丘、榛の枝 の場所は有冨墓地の上か。
有冨墓地の上は現在でも猟犬で追いこんでイノシシを射止める猟場である。


寺、山号
竹生寺は「高山」 と号す。
万葉集の高山

専徳寺は「栄山」 と号す。
  ↓
文書


有冨の薬師寺−安岡の玄空寺
山田薬師(薬王寺) 安岡の玄空寺末
続日本紀B439-9
山村王  有冨の山村さん
池上女王  有冨の大年池

安岡の玄空寺に 百済人 鞍作止利 の仏像が伝わる。

Wikipedia によれば、蘇我入鹿の別名が林大臣、鞍作大郎である。
林は福江の字「林」 か、有冨の林さんか。 蘇我山田石川麻呂は蒲生野山田の倉光さんか。

『やすおか史誌』
P689
玄空寺には「太平真君一年」 ― 中国北魏 太武帝440年
と刻まれた青銅仏もある。
西安岡の人が所有する青銅仏に「普通六年」 の刻字あり。
「普通六年」 は中国梁の武帝の時代525年 ― 仏教渡来の10年前


石原の大神宮
石原は古くは有冨村内だった。
『村浦明細書』(安政5年) に「大神宮」という神社が載る。
手元にある古い広辞苑で「大神宮」 の意味は
皇大神宮(内宮) と豊受大神宮(外宮) の総称。 伊勢大神宮

有冨古墳から少し登った所にお稲荷さんがあった。 とても頭が良かったに未亡人が建てた民話がある。 天照大神、神功皇后、陰陽師安倍晴明の母「信太(しのだ)の森、白狐」 を連想させる。


有光文書 重要文化財
図説 日本の歴史 35
『図説 山口県の歴史』  河出書房新社 1998年
P109 正吉郷の中世史 
P113 中世の村世界  偽文書? 「伍位職補任状」

鎌倉後期、永田神社の裏に塩田があった。 山口県教育委員会の渡辺一雄氏(現梅光学院大学 考古学教授) が古式入り浜と命名された。
その絵図は山口県文書館にある国の重要文化財 有光文書である。

P113
永田郷の谷を支配していた鎌倉時代の地頭の名字や名前はわからない。
実際の支配は地頭代(地頭の代理人) だった。
この地頭代が発給した文書に、中世古文書学の常識を破る奇妙な物がある。
伍位職補任状」 と呼ぶべき文書である。
であり、五位などという位は、いうまでもなく天皇のみが与えることができる。 したがって、常識的にはこの文書は偽文書ということになる。
  中世史の専門家にこの文書の活字化されたものか、筆写したものをみせれば、10人中10人が偽文書と答えるはずだ。
ところが、現在山口県文書館に所蔵されているこの文書には、正吉郷入江塩浜絵図とともに有光文書として国指定重要文化財になっている。
偽文書も含めての指定というのもないことはないが、この文書は実物をみると、じつに下手な字であるが、間違いなく鎌倉時代のものであり、紙についても問題ない。 (文 木村忠夫)


私見 有光=有冨 だと思う。 鎌倉時代でも存続していた有冨の天皇家。


有冨の儀万さん
」 の意味を漢和辞典(角川 新字源) で調べると
宇宙のおおもと、天地または陰陽をいう。 「両儀」
  ↓
「儀万」 という珍しい名字は易による。

日本書紀、万葉集では「儀」 の訓みは「すがた」 である。


有冨の人斬り庄屋、儀万の話 
http://44051510.at.webry.info/201510/article_11.html

儀万さん宅の上に中村本家さん旧宅跡と岩谷さん宅がある。
『風水 気の景観地理学』 渡邊欣雄 著 人文書院 1994年
P155-14行 沖縄 与那国島の事例
自分の屋敷の後ろに家が2軒あると自分の家は栄えるという。


譲畔而耕
小字「中村畔」 漢字「畔」
http://44051510.at.webry.info/201605/article_17.html


奈良県の大型遺跡は真の老子ではない。
<kitunoの旅−飛鳥編−> 飛鳥亀型遺跡
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/8674/asuka.html

導水構造の亀形石造物
http://inoues.net/study/kamechan.html
飛鳥・酒船石遺跡
http://inoues.net/ruins/sakahuneisi.html

私見
奈良県の飛鳥池は老子の思想ではない。 似非道教だ。

道教の神仙境
下関市有冨と石原の境界である岩山の長い尾根続き。
ここが種子島 広田遺跡の貝札「山」 の場所である。


邪馬台国の位置
下関市 石原交差点近くの農協駐車場から有冨の山を見て山頂・尾根伝い
にあった。 有冨墓地の東側、春は山桜が咲きほこる尾根の上。

下関市有冨村の庄屋だった儀万という家 名字「儀万」 は易の「儀」 の意味による。 「万」 は万物。
仙人は霞を食って生きる。 霞が立つ場所は有冨墓地の東上である。

有冨のハンドウ山 登山口 の下が「遠つ飛鳥」
ハンドウ山の山頂から尾根を進んで石上神宮があり、
有冨墓地の東上が仙人の葛城山。




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天孫族の村を発見

2016/10/13 00:33

元号
元号とは? 【一覧】で大化〜平成までをチェック
http://idea1616.com/gengo/

日本の国旗(日の丸)、国歌(君が代)、天皇の称号、元号(明治、大正、昭和、平成) の起源、天皇陛下ビデオメッセージ(東日本大地震)、とは(2011.3.21)
http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/167.html

明治、大正・・こんなにあるの?? 『易経』 由来の日本の元号
ttp://eikahounet.com/2016/05/08/gengo_ekikyo/


古墳
古墳入門 古墳めぐりウォーキング - 古墳めぐりウォーキング in 福岡 - FC2
http://kofunmeguriwalking.web.fc2.com/0_nyuumon.html

[PDF] 古墳の整備事例について キトラ古墳の諸要素を持つ古墳を中心として
www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/.../shiryo_4_3.pdf


神仙思想
記紀・万葉、古風土記、邪馬台国などは仙人である。 易経の六十四卦、五行配当を単語カードを作って覚える。 仙術=占術の知識を持たねばならい。

漢和辞典の巻末「付録」「資料集」 を覚える。 図書館でコピーする。


山城国 Wikipedia
 延暦13年11月8日(794年12月4日) の平安京命名の際に、桓武天皇が、山河が襟帯して自然に城をなす形勝から「山城国」 に改称した。

私見
京都市は山城になる地形ではない。 山の背でもない。


倭国  下関市 有冨上 遠山運送・レンタカー屋の裏
山城国  塚の原遺跡(ホームワイド新下関店裏の高層マンションが建つ所)


『倭国伝』 講談社学術文庫
P205
旧唐書 倭国
倭国は、古の倭の奴国也。 京師を去ること1万4千里、新羅の東南、大海の中に在り。
  ↓
Google 地図
新羅の首都だった慶州市の東南は山口県油谷町、美祢市、山口市である。

いろいろ調べて「倭の奴国」 の場所は下関市有冨 字「中村畔」 と判明した。
儀万さんは天万尊、中村本家さんは中皇子の皇裔だろう。

天御中主神社があった場所  山口県風土誌に3か所が載る。
有冨上 山田 ・・・ 場所はハンドウ山の登山口あたりの山地番「山田」 か
垢田 堀 ・・・ 当初は黒崎妙見(海岸の鼻ヅラ) に祀られていた
室津下 若宮神社の場所に素鵝神社があり、相殿 天御中主神社
※明治11年、疫神社を素鵝神社と改称

北九州市小倉北区 御祖神社 みおやじんじゃ
妙見山北西麓に鎮座  ttp://myouken.or.jp/page-139/page-159/
祭神は造化三神  天御中主尊 高皇産霊神 神皇産霊神
和気氏の祖先の神鐸石別命 和気清麻呂
寛政7年(1795) 小倉藩第5代藩主小笠原忠苗が山頂の妙見社に参詣したとき、土中から中国南宋産湖州鏡ほか9面を発掘。
小倉北区富野の須賀神社では足立山を鏡山と言い伝える。
  ↓
【県指定】 足立山頂出土 古鏡 9面
ttps://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/02100194.html
湖州鏡は湖州から始まる銘文から付せられた名称であり、中国南宋で生産されたものである。 1号鏡の銘文から、承安4年(1174) に眼病平癒、延命のために奉納したことがわかっている。

南宋は日本の平家〜鎌倉前半


竺紫
松浦市 志佐 住吉神社が元あった所
  ↓
松浦市 志佐町浦免1038-3
ttp://matsuura-guide.com/matsuura-kanko-bussan-kyokai/

星鹿町 星の神 香香背男
魚固島 淤能碁呂島

松浦市の地名 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%B8%82%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%90%8D


大宝元年
古田武彦の史学では大宝元年(701年) ごろに王朝交替があったという。


『あざむかれた王朝交替 日本建国の謎』
斎藤忠 著 学研 2011年

『 『野馬台詩』 の謎 』 小峯和明 著 岩波書店 2003年



山城国
日本後紀 延暦13年11月8日
講談社学術文庫 『日本後紀』(上) P71-末

集英社 『日本後紀』
本では訓読文にルビがつくし、語の注釈もあるので読みにくい文ではない。
P45-13
此の国山河襟帯して、自然に城を作す。 斯の形勝に因りて、新号を制す可し。 宜しく山背国を改めて山城国と為すべし。 又子来の民、謳歌の輩、異口同辞にして、号して平安京と曰ふ。 又近江国滋賀郡の古津は先帝の旧都なり。 今輦下に接す。 昔の号を追いて大津と改称す可し。


京都市は「山背」 や「山城」 の地形ではない。 奈良県と京都府南部を比較すれば、川の上流で山城に適しているのは奈良県である。

上の文を長門国西部に適用すれば
近江国滋賀郡古津  長門市油谷町(渡)〜日置町(古市) 長門国大津郡 
山城国  長門市俵山〜豊田湖〜下関市豊田町殿敷

油谷町  柿本人麻呂歌の伝承地
豊田湖北岸  安徳帝 陵墓参考地
豊田町殿敷 字「高熊」  須恵器生産地


日本書紀を除く六国史は編纂過程が不明である。
日本後紀、続日本後紀を読むと、歴史的人物の書き方が遠い昔の別の国の人を断定的にぞんざいな扱いで書いた感じである。 正史、歴史書の文体ではなく歴史小説家による酷な人物評である。

下関倭国の史書を使って、それに関西の史実を加えて編集したのが平安時代の日本後紀、続日本後紀だ。




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老子、風水は考古学と対立する。

2016/10/06 23:53

江戸時代まで日本人は陰陽道で生活していた。 陰陽道は修験道も含む。

Wikipedia 「老子」「太上老君」「道教」 を検索して読む。

老子 Wikipedia 
老子の社会階級
老子が描く理想的な 「小国寡民」 国家は、とても牧歌的な社会である。
小國寡民。使有什伯之器而不用;使民重死而不遠徙。 雖有舟輿,無所乘之,雖有甲兵,無所陳之。 使民復結繩而用之,甘其食,美其服,安其居,樂其俗。 鄰國相望,雞犬之聲相聞,民至老死,不相往來 — 道コ經80

老子が言う小国寡民の国。 そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。 船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。 民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、料理も衣服も住居も自給自足で賄い、それを楽しむ社会であるという。 隣の国との関係は、せいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。 このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するようにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭している(9章)。



寡民 ・・・ 人口は少ない
甲冑 ・・・ 山口大学 考古学 田中晋作 の研究あり

「文字を用いず縄の結び目」 の文言は隋書俀国伝の 文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。 に通じる。
俀国の古(いにしえ) の民は無学文盲ではなく老子の教養で暮らしていた。

考古学と風水は対立する。 風水は道教であり老子の思想である。
神仙思想は人工的なものを斥け大自然そのままを尊重する。
仙人の世界では考古学関係者が注目するモノは元から無い。

太上老君の上には絶えず稲妻が光っている ※1 → 万葉集235

万葉集3344
大土 「土」 は五行で「中央」
「火穂跡而」 は反閇(へんぱい)

日本書紀の道臣の「道」 は道教である。
老子の思想は厭世隠遁なので目立つ巨大建造物は造らず、大自然そのままを維持した中で暮らす。
奈良県、大阪府、福岡県の遺跡・古墳は巨大で豪華だから道教・老子ではない。

考古学はサイエンスであるが風水は迷信・呪術である。
考古学は正確な情報であるが風水・五行・易経は古い中国の教養である。
考古学は即物的・俗物的で哲学がない。

風水では川の流れや道はくねくね蛇行していなければならず、直線は殺気であるとして嫌う。 直線基調である都城の条坊制は風水本来のものではない。


北部九州型弥生人、土井ヶ浜弥生人などが中国から渡来した人々だったなら、殷・周から前漢までの中国思想も日本列島に入って来た。

古代史シンポジウムで配布されるレジメ
弥生時代の遺跡図で、東側の川・溝は青龍、南側は朱雀池 に見えるものがある。

遺跡を風水や陰陽五行で解明する。
弥生時代には風水・陰陽五行は日本に伝来していた。
遺跡の東部に川や溝があれば青龍である。

下関市
梶栗浜遺跡は海浜の埋葬遺跡であり多紐細文鏡と細形銅剣が出土している。
「西」 は死滅の方位で五行の「金」 である。
多紐細文鏡、細形銅剣は五行の「金」 を示している。


福岡県大野城市
牛頸 須恵器の生産地
牛頸 − 牛頭天王 − 素戔嗚尊
韓語で「牛頭」 を「ソシモリ」 という。 ※2

下関市形山 福岡県春日市の須玖式土器が出土
角川ソフィア文庫 新版古事記 P37-末行
其の泣く状は、青山を枯山如す泣き枯らし、河海は悉く泣き乾しき。
  ↓
青山は地名で下関市形山。 往古、青山には木が生えてなく、茅と蓬(よもぎ) の山だったという。 陰陽五行で「青」 は東。 有冨上の東。

私見
「天皇」 という称号は「皇帝」 よりも位が上である。 ※3
始皇帝より位が上の者は始皇帝の臣下である徐福ではなく神たる老子である。

老子が晩年に渡った国が邪馬台国だった。
記紀・万葉などの神仙思想は倭の源が老子の渡来とその後裔を示している。

志賀島の金印は偉大なる老子の国に授けたものある。
旧唐書の倭国(古の倭の奴国) は下関にあった。 「新羅の東南」 は新羅の首都 金城(慶州) から東南とすれば、山口県西部の 向津具・秋吉台 あたりか。
美祢市、山口市、防府市はよく調べたが下関市の方が邪馬台国くさい。

魏志倭人伝、隋書俀国伝は老子の国を示している。

老子から不老山(長崎県松浦市の徐福伝説地) が連想される。

万葉歌人の名「老」 は老子の場所にちなむか。
間人老、川上老、小野老、石川老夫、日置少老
奈良県五條市 北宇智駅 こんな山奥地が日本史の舞台であるはずがない。

邪馬台国、隋書の俀国は末盧国、竹斯からだいぶ離れた場所にあることから、
下関市有冨の大年池は万葉集の隠沼と私は判断した。


山口大学 考古学(田中、田畑) とは異なる私見
長門国豊浦郡 (平成合併後の広域下関市) は "老子の国"
をここに発表した。


2014/10/25 応神陵と古市古墳群
ttp://members2.jcom.home.ne.jp/taigaa_kok7/html_history/history_i.html
  ↓
日本列島 原始古代の中央の場所は
考古学の成果によれば ・・・ 大阪府 古市古墳群
私見の風水検分では ・・・ 下関市 有冨上


参照 (出典、ソース)
『現代に息づく 陰陽五行 増補改訂版』 稲田義行 著 日本実業出版社
※1 P100-10行目 
※2 P342-11行目

※3 『日本人なら知っておきたい 陰陽道の知恵』
武光誠 著 河出夢新書 P160 



大秦国
老子 Wikipedia
伝説では、老子は周を去る際、水牛に乗っていたという。

「老子」『列仙伝』 においては大秦国、ローマ帝国へ向かった。

郭沫若は、この関尹とはの稷下の学者の一人である「環淵」が訛ったものという説を述べた。 これに基づけば、環淵の黄老思想が老子の思想体系化に影響を与えたと考えられる。
  ↓
老子は西域ではなく山東半島の斉へ行った。


日本の「大秦」 は
神奈川県秦野市大秦町。 相模、富士山周辺の秦氏伝説
京都市 太秦

隋書俀国伝 秦王国
続日本紀 大秦公

私見
Wikipedia 老子 の 「文字を用いず縄の結び目」 の文言は隋書俀国伝の 文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。 に通じる。
  ↓
大秦国=隋書の俀国 である!
私は隋書俀国伝に老子の言を発見した!!
隋書俀国伝の 文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。 は老子である。

私見は岡田英弘、渡邊義浩の魏志倭人伝論とは異なる。
邪馬台国は老子の国だった。


小国寡民 老子
(私の想像)
生活はいたって古式であり、歴史時代に入ろうとしている時期に何百年も前の弥生時代の暮らし方をあえてしている。 文明の利器である鉄鍬は使用せず木鍬。 横穴式石室は導入せず箱式石棺墓のまま。 王侯でも家は粗末で小さな茅葺き。
  ↓
邪馬台国(倭国、蓬莱島) は "老子の考古学" で発見される。
古式の執着、驚くべき停滞、逆行。 時代の流れから取り残された場所。
贅沢品なし、ショボイ生活。 人口寡。
兵はおらず戦いはなく武器がない。

下関考古 老子流の 「小国寡民」 を実践していることを明らかにする。

下関市の勝谷丸山古墳群は古墳時代後期のものである。 横穴式石室墳だけでなく2基の箱式石棺があり、一部に古式の執着が認められる。


ネットで検索
「小国寡民」 老子
ttp://erikaishikoro.blog.fc2.com/blog-entry-818.html

[DOC] 松塾資料I『黄帝内経』と古代思想(3)黄老思想Ver.2
tokyo89am.or.jp/.../松塾資料I『黄帝内経』と古代思想(3)黄老思想Ver.2.docx
 ※従来、この『素問』 の文章は『老子』 から引用されたと考えられてきたが、『荘子』 から引用されたのかもしれない。
『荘子』外篇の胠篋(きょきょう=つづらを開くの意味)篇にも『老子』第80章と同じ文がある。
福永光司は、『荘子 外篇』(新訂中国古典選 朝日新聞社)で、注記している。


結縄 knotted cord
ttp://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_column_5.html
中国では,周易繋辞下伝,荘子外篇に登場する。倭人の風俗として『隋書倭国伝』(隋書巻 81 東夷伝倭国条)は,「無文字,唯刻木結繩」と記す。(文字無し,唯〻木を刻み繩を結ぶのみ)→ 布目

◆縄を結んで数を表す・結繩…隋書・老子・易経繋辞伝◆
ttp://ikaebitakosuika.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-cb0c.html

【900冊目】『荘子』
ttp://hachiro86.hatenablog.com/entry/20100515/p1

  ↓
反文明の老荘思想
文明=シュメール文明



『ゆがめられた 地球文明の歴史』 栗本慎一郎 著
技術評論社 2012年
P31-9行目
巨大建造物造りと文字使用の合体による文化を基盤とした文明はシュメールに始まる。




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ヤマト王権 「倭の五王」 は呉から来た

2016/09/26 20:20

リチャード・コシミズ_部落と在日
ttps://www.youtube.com/watch?v=rOLSzAsOrHM

『天皇陵の真相』 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 共著
三一新書 1994年
P51、52
住井 私は天皇家は中国系だと思っているんですがね。 飛鳥へ入ると中国系の村がね、完全に中国から渡来した村がありますよ。
飛鳥の人は、だいたい中国系だと思われるのは男でも足にも脛にも毛がないですよ。



『「神武」は呉からやって来た』 竹田昌暉 著 徳間書店 1997年
著者は東京大学医学部卒 虎ノ門病院 初代麻酔科部長を経て開業医

『徐福王国相模』 前田豊 著 彩流社 2010年
P30〜34
富士山麓 山梨県 山中湖 長生村
毎日新聞 昭和49年9月24日 の夕刊記事
「伝奇始皇帝の "金印" 富士山麓で見つけた」
  ↓
1991年、中国徐州博物館の李氏によって呉国 黄巾軍の大将の名と判明。


山梨県 八代町 狐塚古墳 呉の紀年鏡(238年) 出土

『三国志』 で陳寿が書かなかった孫権の外交戦略
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_04_26.htm
  ↓
■ 呉の紀年銘鏡の出土例はもう一面報告されている。
兵庫県宝塚市安倉南二丁目に築かれた古墳時代前期の円墳の安倉高塚(あくらたかつか)古墳から、昭和12年(1937)に赤烏7年の銘がある鏡が見つかっている。 やはり対置式神獣鏡である。 赤烏7年は西暦244年にあたる。


呉の鏡
山梨県 市川三郷町  鳥居原狐塚古墳 赤烏元年銘鏡
兵庫県 宝塚市  安倉高塚古墳 画文帯神獣鏡(赤烏七年)
熊本県 人吉盆地 免田町  才園古墳 鍍金鏡

沖田遺跡  下関市豊北町角島  
縄文時代終わり〜弥生時代初めの拠点集落 夜臼土器、陶塤
遠賀川・宗像地域と交流か。 関東の土器が出土。 


模擬講義 動画公開(文学部) 龍谷大学教授陣の研究を動画で視聴しよう
ttp://www.ryukoku.ac.jp/admission/movie/academic/let.html

龍谷大学 文献史学 生田敦司
「倭の五王と内政・外政」 下関市立考古博物館 講演レジメ 
百済・高句麗は長史(文官)を派遣、倭は司馬(武官
平西、征虜、冠軍、輔國將軍:中国三国時代に同じ将軍号
倭は朝鮮半島の南岸に拠点を築き、竹幕洞祭祀遺跡から黄海を渡っていた。
朝鮮半島海岸部に点在する倭遺跡を観察して、倭は百済を仲介させずに勝手に中国と往来していた。


私見
宋書の「倭の五王」 は呉の孫権が派遣した遠征軍の後裔である。
中国南朝からの冊封を求めている。 これが関西のヤマト王権である。

旧唐書 倭国
貞観2年 (648) 倭国王は新羅の来た使者にことづけて上表文を届けた。
旧唐書は倭国と日本国を分けて編集しており、倭国は新羅に上表文を預けて唐にあいさつした。

下関 邪馬台国  長崎県松浦市から渡海
関西 ヤマト王権 福岡県宗像市から渡海

万葉集865 松浦の
君を待つ松浦の浦の娘子らは常世の国の海人娘子かも
2002年頃、佐賀県浜玉町、七山村を2回訪れて役場の教育委員会から多くの郷土資料をいただいた。 実際に川を見て、この場所は記紀・万葉の松浦、玉島ではないと言える。

最近、『松浦市史』(1975年) を読んだ。 記紀・万葉の松浦は松浦市である。
筑紫(竺紫、竹斯) の場所は松浦市である。


魏志倭人伝、隋書俀国伝 ・・・ 王、家臣、官は倭名
狗奴国の王・官も倭名

宋書倭国伝 ・・・ 王、武官(司馬曹達) は大陸風の一文字名 


後漢書 地 会稽海外に東鯷人あり。

梁書 倭人は呉の太伯の後裔と自称している。

呉書 亶州に住んだ徐福の子孫は会稽に来て商売をした。
 ↓
土井ヶ浜遺跡から出土のシャコ貝製頸飾りは、南中国との密接な交流を物語る貴重な遺物で、国内には類例がない。
(山口県の古代遺跡〔T〕 古代遺跡教材化研究会 P77左)


山口県史だより  第20号 平成15年10月
北浦地方では親が子供を叱る時に 「そんな事をしよるとゴンゴチィーに連れて行かれるよ」 「ゴンゴーが出てきてかぶられるよ」 と言っていた。
北浦地方にある、恐ろしい化け物を連想させる「ゴンゴチィー」 や「ゴンゴー」 とは一体何なのでしょうか。
この地方では蒙古の兵士に由来すると理解されているようです。

※ 「北浦」 とは山口県の山陰沿岸のこと。 山口県の地元言葉

私見 「ゴンゴチィー」 は呉国の遠征軍来襲か。
孫権 Wikipedia
即位の翌年、衛温・諸葛直に1万を与え、夷州と亶州の捜査を行わせた。 夷州から数千人を連行するも、この捜査は失敗に終わり、孫権は、衛温・諸葛直を処刑した。

『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 著 三一書房 1996年
P46 「万の兵が数千人しか帰らなかった」 とも読める。

「ゴンゴチィー」 から山口県の山陰沿岸が夷州か。


昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。
  ↓
記紀には織田信長のような戦国武将だった天皇はいない。

隋書 倭国は百済・新羅の東南にあり。 ・・・ 山口県西部
宋書 倭国は高麗の東南大海の中にあり。 ・・・ 関西

聖徳太子の仏教の師は高句麗の僧 恵慈であり、倭と高句麗は友好的な関係だった。(栗本慎一郎)
この倭は下関にあった倭である。

好太王碑文の倭は関西のヤマト王権である。

下関市と長門市西部には古代官道が通ってない。
この "謎" が邪馬台国の場所である。


『現代に息づく 陰陽五行』 増補改訂版 稲田義行著 日本実業出版社
P54 
孝謙天皇と聖武天皇には「皇帝」 の尊号が贈られた。 中国的だ。
「宝字称徳孝謙皇帝」
「勝宝感神聖武皇帝」

古田武彦史学の会
701年(大宝1) 九州王朝から近畿王朝への易姓革命があったと見る。


古代学協会
http://kodaigaku.org/index.html
研究題目 「近畿地方における初期農耕集落形成をめぐる考古学的研究」 班
に問題提起する私の見解 「倭の五王」 は孫権の遠征軍の後裔
をここに発表した。

弥生時代の開始 ― 徐福集団の渡来定着。 夷州、亶洲
古墳時代の開始 ― 呉国の遠征軍が襲来定着

呉の遠征軍は徐福の夷州、亶州に行った。 徐福東渡と呉の遠征は場所が同じ。

古墳に関して、騎馬民族の渡来よりも中国南朝 呉国遠征軍の襲来を重視する。


関西幕府、下関朝廷
宋から授けられた倭国王の称号は百済よりも位が低い。 倭は文官でなく武官を派遣している点から「幕府」 の観がある。
私見では関西は「王朝」 というより「幕府」 だったのではないか。 「東国の強兵」 は関東ではなく関西だった。

日本書記の「呉」 は関西のヤマト幕府だった。 熊本県宇土にも分国があった。 倭の朝廷は下関にあった。 「朝廷」 という言葉は 崇神紀 60年7月14日 の時から使われている。 文庫書紀@300-12

倭の朝廷が下関市域のどこにあったかは風水で解明する。

蓬莱山
前方後円墳=蓬莱山説  岡本健一
下関市域にある前方後円墳の形をした山、丘陵を探す。


沖ノ島祭祀とは何か
倭国  邪馬台国=下関朝廷
百済(ソウル) と国交があるので朝鮮半島の内陸部も通行できる。

魏志倭人伝によれば壱岐・対馬は倭の領地
渡海  松浦市−壱岐−対馬−狗邪韓国−半島縦断 可

関西のヤマト王権
壱岐・対馬は倭(下関の王朝) の領地なので寄港できない。
渡海  宗像市・福津市−沖ノ島−全羅南道の沿岸に無断でキャンプ

全羅道に前方後円墳がある。
在日は韓国の全羅道の出身者が多い。

現代の韓国内の地域対立が古代にもあった。
倭国(下関の王朝) ・・・ ソウルの百済と国交あり
関西のヤマト王権 ・・・ 全羅道との結びつき




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古代史に関心がある人たちを分類する

2016/09/26 03:50

とりくみ方、ジャンル分け
考古学  地方自治体の遺跡発掘職員 発掘調査報告書
考古学志望の学生
ttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/ach/study_room.html

文献史学の大学教授  専門書・学術書 12,500円+税、学会の論文

作家、歴史愛好家  書店 単行本 2,200円+税、新書・文庫 1,100円+税

床屋談義の人たち 


邪馬台国論争を行うのは「学会」 とは別の作家、歴史愛好家の人たちである。
邪馬台国は1960年代前半に浮上し、1970年代前半に大ブームとなる。
現在論争が始まった昭和40年当時から50余年経つ。
邪馬台国・古代史のブームは1974年、1984年。

『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 著 三一書房 1996年 

私が所有する考古学の邪馬台国本
『邪馬台国と吉野ヶ里』 学生社 1997年
松下孝幸 など 東京新聞 吉野ヶ里取材班 編

『倭人伝の国々』 学生社 2000年
小田富士雄 編者 武末純一・渡辺貞幸 など


作家もプロ研究家であり、歴史愛好家も地道な個人研究をしている。
私見では、
邪馬台国の山師になるには10年以上、毎年5万円以上、計80万円はかかる。

床屋談義はマスコミやネットの情報を得て自説を語るが、自分で身を入れた研究はしていない。 物知り自慢の年寄りが知ってることを言ってるだけ。

文章に読点が多い者は訓み下し文を読んでいる。
話題が系図だけの人、文章に訓み下し文の引用がない者は現代語訳しか読んでない。 岩波、小学館などの訓み下し文を読んでない者は研究者ではない。

漢字は重要である。 厚さ10センチの大型漢和辞典は必需品だ。
漢字の表記を問題にしない現代語訳は使えない。

難しい漢字を手で書いて覚える。 「漢字が書ける」 は教養だ。
本を読んだときに出てきた難読漢字を方眼ノートに書いて覚える。
書いて覚えるために自分に合う筆記具を見つける。

学術書を読んでない者は参照元を記さない。 文はネットの誰かのパクリである。
1000冊の本を読んだと豪語する人がいるが学術書は1年に20冊も読めない。
学術書やルビがふられる漢字が多い本は読むのに3週間かかる。

日本書紀、万葉集、風土記等を研究する大学院の学生は40回くらい読んでいる。 素人の愛好家は4、5回くらいだから桁がちがう。


在野研究のススメvol.20 : 小室直樹
http://www.en-soph.org/archives/43685452.html
在野研究のススメvol.04 : 吉野裕子
http://www.en-soph.org/archives/33524678.html


小学生用ノート  勉強法
『安倍晴明占術大全』 藤巻一保 訳・解説 学研 2000年
この本を今年2月、amazon で中古の程度の良いものを4,000円で買ったが、今は49,800円 〜 となっている。 表紙の紙カバーをはずして文具店で売っている布カバーをつけると古本が華やぐ。

先週からこの本に出てくる用語、難読語を方眼ノートに書きなぐって覚えている。
方眼ノートは小学生が使うもので 7mm、10mm、12mm。

風水、易経、陰陽道、仏教関係の用語、人名は見たことない漢字や変な訓みのオンパレードだ。 本に出てくる用語、難読語を小学生用の方眼ノートに何度も書いて覚える。

用語、術語、人名、神名、地名、件名などを小学生ノートに書いて覚える。
手で語が書けるようになるには5年前後かかりそうだ。


『舛添要一の6ヵ国語勉強法』 舛添要一 著 講談社 1997年
ネットによれば舛添要一は高校時代、全国模試でいつも3番、4番だったという。
陸上の短距離選手(スプリンター) としてインターハイ出場もしている。
氏が「上達への近道」 という勉強法は
昔の新聞折り込み広告チラシは裏に印刷がなかった。 その紙に書いて覚える。
辞書(「現代英和辞典」) をひきまくってボロボロにした。
子供の時からの教科書、テストは捨てずに今も家にあるなど。

人が捨てるような紙でも字を書いて勉強できる。 字が書ける紙を見つけたら鬼と化して紙が真っ黒になるまで書く。 これが舛添式。 紙は真っ黒になるまで字を書いてから捨てる。 コクヨの大学ノートに書くのはダメ。 あくまで広告の裏、または藁半紙。 はさみで切っておくこともある。


私が使っている筆記具
品名 パイロット 「タイムライン」 の各種 7本所有
油性インキ、ゲルインキ(替芯を 0.7 に交換)

ソフト下敷き A4サイズ
紙を押さえる文鎮 20cm 1本 10cm 4本


BGM
時々、YouTubeで昔のジャズ




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重留銅矛は何を語るか  北九州市 文化企画課

2016/09/19 16:25

平成28年 9月17日(土)
重留遺跡出土広形銅矛 国重要文化財指定記念シンポジウム
「重留銅矛は何を語るか 〜邪馬台国の時代in北九州〜」
場所 北九州市立いのちのたび博物館  13:00〜16:30
北九州市市民文化スポーツ局 文化企画課


パネリストの1人
橿原考古学研究所共同研究員/桜井市纏向学研究センター共同研究員
もびっくりの 邪馬台国 九州説の私見を披露する。

重留銅矛を記紀神話と照合させれば
文庫書紀@120-5
乃ち国平けし時に杖けりし広矛を以て、二の神に授りて曰はく、「吾此の矛を以て、卒に功治せること有り。


常陸国風土記 信太の郡
伊川  門司区伊川 白山神社
普都の大神
 ↓
 私見
重留銅矛は布都の御魂であろう。

パネルディスカッション
「銅矛が出土した大型の住居跡は高床式倉庫ではないか」
 ↓
記紀 熊野の高倉下

マンガチックであるが、
重留銅矛は祭祀の埋納用ではなく大魔神の魔剣であり至高の武器だった。


小倉の足立山は畝火山か? ははははッ
JR 門司駅から見れば足立山は雲に覆われている。
城野・曽根側から見れば雲のない快晴だ。

門司駅〜小倉北区富野は日本海式気候
周防灘側の小倉南区は瀬戸内式気候

万葉集 畝火山の表記に「雲」 があるものがある。
13 雲根火雄
1335 雲飛山

「雲飛山」 という表記から高さ500〜700 m の山か。
畝火山の「火」 から関門海峡の烽火の山を連想する。

万葉集1047 飛火賀「山鬼」
この表記もよくわからない。


日向の橘の小戸橿原
旧事@36-3  
先代旧事本紀に「日向の橘の小戸橿原」 とある。
橿原は日向の橘の小戸と同じ場所である。
これもよくわからない。

三諸岳、三輪山
文庫書紀B44-3  菟田の墨坂神=大物主神、注七 斎戒
=文庫書紀@236-末行  天の香山の埴土、埴安
  ↓
異説 菟田の墨坂神=大物主神
「斎戒」 の共通字で示される同じ所
を採用する。

奈良県の三輪山は円錐形の単独峰である。
三諸山という表記は山々の連なりを表し、風水の龍脈がある。
私見では、三輪山は三諸山の一部分なので奈良県の山ではない。


観光
九州説 いのちの旅
井出浦  北九州市小倉南区 平尾台
北九州市の平尾台に素戔嗚尊が住民といっしょに八俣大蛇を弓矢で退治した言い伝えがある。 弓矢で射られた土井ヶ浜遺跡 124号人骨 に通じる。

井手浦 尻振り祭
ttps://www.youtube.com/watch?v=2ZCNy-7Na40

ttp://kitaqare.d.dooo.jp/tens13.htm

ttp://blogs.yahoo.co.jp/merope0310/39858365.html

井出浦の尻振り祭りはよく知られている。 毎年陰暦11月15日、回り持ちの座主が新米を刈って酒を調え正月7日に集まり、藁で作った「八俣の大蛇」 をで射る。 その後、ときの声をあげて大蛇を切り、宴会に移る。 スサノオノミコトが「八俣の大蛇」 を退治したとき、村人も射手に加わったというのが祭りの縁起で「射手裏」 の由来だという
『おもしろ地名 北九州事典 増補総集版』 1997年
P121


礫岩 つぶていわ  平戸島の南部 礫岳 287 m
ttp://www.sairosha.com/yama/tubuteiwa2.htm

逸文 日向国
文庫風土記下432
吐濃峯 日向国 庾(こゆ) 郡
  ↓
平戸島の南部
田(こた) 現 辻町、神船町、大佐志町、無代寺町


王位石  野ア島 小値賀島の東
ttp://blog.goo.ne.jp/kitadake3193masa/e/036f5a29d0d12b771f1ceb1601d7c088

ttp://blog.livedoor.jp/ii_wanco/archives/806397.html




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松浦市  日向 近江

2016/09/19 15:45

景行天皇が九州遠征した時の行宮 伝説地
平戸島の南端 野子町の宮ノ浦
松浦市 志佐川の下流

日向の場所は松浦市の中心街
天孫降臨の高千穂宮は不老山か

星鹿町の地名は星の神 香香背男 文庫書紀@120-9、136-6
星鹿は防人がいた場所と伝えられる。 黒曜石を産する。
元寇の戦いで、御厨半島の星鹿は鷹島に渡る日本軍の拠点だった。

伊都国の一大率は星鹿町の防人だろう。
防人=ア守り (三省堂国語辞典、広辞苑)

画期的な発見!
天津甕星、天香香背男の地は松浦市 星鹿町 である。

鷹島  日本山 (75.4 m)
壱岐→鷹島→松浦市 志佐町 は主要な航路だった。

浦免に住吉宮があるので、浦島太郎は松浦市浦免の人か。

淀姫 御厨の星鹿に沙加羅龍王の干満二珠、龍宮伝説がある。

淀姫神社詳細の項
ttp://yodohimejinja.com/details-of-a-shrine


長崎県内で滋賀県の大津付近と同じ地名がある所
小値賀島
松浦市 柏アは膳ア

小値賀島の笛吹は松浦市笛吹の住民が移り住んだという。
松浦市域は淡海国の地名である。

継体紀 文庫書紀B208-4
是歳、毛野臣、召されて対馬に到りて、疾に逢ひて死ぬ。
送葬るときに、河の尋に、近江に入る。
其の妻歌して曰はく、
枚方ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る


途中、関西まで長いのに山陰沿岸や瀬戸内海の行く記述がない。
近江は朝鮮と一衣帯水の位置にあり、北部九州または山口県沿岸にある。
  ↓
文庫書紀B208-4 の場所は松浦市 志佐川の上流 笛吹である。

万葉集3238
相坂  松浦市 御厨町 相坂免


『松浦市史』 1975年
P50
志佐  贈唹の君 多利 志佐申し言う
御厨  伊勢の御供所即ち厨物を差上げる御厨
調川  租庸調の調の皮

文庫書紀@134-9
伊勢の狭長田の五十鈴の川上 ・・・ 御厨町の竜尾川


淀姫墓郭
ttp://yodohimejinja.com/details-of-a-shrine#bokaku
  ↓
「鉄片は双刃の剣であろう」


P66
宮日のお潮とりの場所に「浮床」 と称する所があった由、潮満ちくれば浮き、干潮時は土地が落ちついていたそうである。 前の住吉神社の地らしく、住吉神社は現在は移転して、西肥バス営業所になっている。
この浮床よりが出土し、辻尾(松浦高校) の所に鉾神として祭った由、後世道祖神となっていた。

  ↓
天孫降臨の「浮渚在平処」 文庫書紀@122-2


P485
高野免は昔は鷹狩をした野、鷹野であった。
万葉集 大伴家持 越中国  鷹狩

魚固島 おごの島  (星鹿町)
魚がたくさん固まっている島だった。
「おのころ島」 ではないかという人もいる。


文献で淤能碁呂島に関する記述は
古事記 仁徳記 吉備の黒日売
歌謡
仁徳天皇が難波の埼に立って眺めると
粟島 淤能碁呂島、檳榔の島も見ゆ

『古代氏文集』 山川出版社
新撰亀相記 P206〜207
415 此の三つの島は艮より坤に連なれり。
  ↓
鷹島の西にある魚固島に合致する。


肥前風土記 海松橿媛  風土記333-7
通説では古代の賀周駅(かすのえき) は唐津市 見借(みるかし) とされる。
私見
肥前風土記 海松橿媛の「海松」 は浅海の岩場の海藻であるが唐津市見借は内陸の山奥地にある。 唐津市見借は「海松橿媛」 の名に適さない。

大屋田子 日下部君等が祖 ・・・ 浦島太郎と同じ



「サイエンス」 を自認する考古学 弥生時代早期の遺跡
佐賀県唐津市 菜畑遺跡
長崎県平戸市 田平町里免 里田原遺跡
に注目する。

九州大学大学院 人文科学研究院 考古学研究室
ttp://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/kennkyusitukatudou.htm
佐賀県 東松浦郡呼子町 大友遺跡
ttp://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/ootomosite.htm

素人流儀の私
地名と民話の観点から松浦市が重要である。




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土井ヶ浜遺跡  124号人骨は英雄か? 術師(シャーマン) か? 

2016/09/19 14:02

『郷土資料事典 長崎県』 人文社 1998年
P124下 日本にもいたアマゾネス(女戦士)
  根獅子の竹久保箱式石棺墓は、弥生文化遺産として知られ、貝輪17個・骨銛2本・須恵式土器1個・人骨4体を出土しているが、なかでも話題をまいたのが女人骨である。
  というのも、頭のてっぺん近くに銅鏃片が射込まれていたからで、銅鏃は、その時代としては最先端をいく武器である。 兵隊たちが使っていたのは主として石鏃ということから、この女性は兵隊同士の戦いではなく、大将同士の射ち合いで命を落としたと思われ、したがって、この女性の軍隊における地位はかなり高かったのではないかと考えられるわけである。
  このことから、戦いに女同士が参加したと考えられるのは早計だが、戦いのシンボルとして、たとえば有名な卑弥呼のような、祭祀的首長であったのではないかということは十分考えられることである。
  また、鏃の突きささったのが胸や背中ではなく、頭のてっぺんであることも奇妙である。 これが何を意味するのかなどと考えながら、頭のなかで古代絵巻を想像するのも楽しい。



山口県 土井ヶ浜人類学ミュージアム
124号人骨は英雄か? 術師(シャーマン) か?
長崎県平戸市 根獅子の人骨と似て、頭に鉄鏃が射込まれている。

私見
記紀神話と照合させれば土井ヶ浜124号人骨は八俣大蛇か。 ミュージアム裏門を流れる川の名は沼川だから古事記 高志国の沼河比売の地か。

「術」 の本
『術の思想』 医・長生・呪・交霊・風水
三浦國雄 編 風響社 2013年


私見
倭人=西北九州型弥生人 説
弥生人 形質人類学による分類
北部九州・山口 ・・・ 中国 山東省の人骨に似る
西北九州 ・・・ 縄文人がそのまま弥生人になった
南九州・南西諸島 ・・・ ベトナム、カンボジアなどのインドシナ系?

北部九州・山口は中国人の顔だち
鹿児島県の南端は侏儒
縄文人は日本独特の人種である。

縄文人の容貌は日本独特である。
中国人が人種的に区別した「倭人」 は縄文人である。
中国の古い文献に登場する「倭」 は縄文系である長崎県の弥生人である。

「倭」 の位置=長崎県
倭は「縄文人がそのまま弥生人になった」 西北九州 弥生人であるため、基本的文化思考は縄文的である。 日ユ同祖論は間違いである。 巨大建造物をこれみよがしに造るシュメール文明に影響されてないため、倭人の遺跡はちょびちょびの物しか出ない。


松野連
”中国が提唱した日本誕生伝説” が『凄まじくダメな雰囲気』 を醸し出している模様。 年代的にも辻褄が合わない
ttp://u1sokuhou.ldblog.jp/archives/50487588.html
  ↓
コメント欄
15. 名無しさん
2016年09月20日 00:58
徐福がやって来たという話は全国にある、と言うだけでその痕跡もなく、史書を読めば誰でもそんな話をでっち上げられる話よりも、松野連が呉王夫差の末裔って話の方が、熊襲にはなまずを祀っていた宗教的共通性があるだけ、信憑性がある。

私見
松野連 ― 民進党 松野頼久 熊本県鹿本郡菊鹿村 (現・山鹿市)
『熊襲は列島を席巻していた』 内倉武久 著 ミネルヴァ書房 2013年
P271〜274

なまず ・・・ 東鯷人



土井ヶ浜弥生人の特徴
土井ヶ浜弥生人は土民との混血がない100%渡来系である。
長崎の「西北九州タイプ」 の弥生人骨が1体出土している。

吉野ヶ里遺跡も在来の人たちと混血してない。 ただし土井ヶ浜と吉野ヶ里では人骨が少し違う。

渡来は男だけでなく女も来て、土民の女との混血はない。

長崎大学 歯学部 真鍋義孝の研究
歯の形態学的特徴から、
北部九州弥生人の歯は黄河流域、朝鮮と類似する。
土井ヶ浜弥生人の歯はモンゴル、バイカルと類似する。
ただし満州民の歯とは異なる。 中国周辺(北部) の集団である。

私見 福岡市金隈の弥生人は漢人。 土井ヶ浜弥生人は鮮卑か。
秦の始皇帝も北方の匈奴、青い目の月氏の系統といわれる。

土井ヶ浜では子供は大事にされていた。熊本大学 木下尚子
しかしの子供の墓が2割程度しかなく高齢の人骨が多い。

私見では、土井ヶ浜遺跡の再葬墓・集骨墓は中国流の風水か。

土井ヶ浜遺跡は土坑墓、配石墓が多く、箱式石棺墓は少ない。
土井ヶ浜遺跡より川棚の中ノ浜遺跡の方がやや古い。中ノ浜遺跡には支石墓があり、箱式石棺が4割。

土井ヶ浜の貝輪は作り方が中国的であり、北部九州のものとは異なる。

土井ヶ浜遺跡の珍品としてシャコ貝製頸飾りがあり、南中国との密接な交流を物語る貴重な遺物で、国内には類例がない。

土井ヶ浜遺跡の東700 m に片瀬遺跡があり、土井ヶ浜遺跡と同時代の水田跡が発見された。 土井ヶ浜の生産域・居住域・墓域が揃った。

参考
日本人と弥生人 松下孝幸 著 祥伝社 平成6年
山口県の古代遺跡〔T〕 集落・墳墓編  古代遺跡教材化研究会 平成7年
土井ヶ浜シンポジウム 「響灘の弥生時代」
わがまち .サイト 〜豊北の遺跡最前線!〜 企画展 展示図録 2007年


持衰説
矢を浴びた英雄は持衰かシャーマン?
http://lunabura.exblog.jp/20387364/

持衰については
文庫風土記下432
逸文 日向国 吐濃峯


土井ヶ浜遺跡 124号人骨の再検討
私見 術師=徐福=八俣大蛇

中国人は食人種である。
渡来して土井ヶ浜に定住した徐福は原住民の若い娘を奪って食人する八俣大蛇だった。 中国人は人食い人種なので土井ヶ浜では子供を食べていた。 聖人孔子も赤ちゃんを食べていた。




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投馬国  熊本県 岱明町

2016/09/15 03:56

伊都国  佐世保市 相浦

投馬国
玉名市 岱明町 野口 字大原 大原箱式石棺群
http://flower-k.at.webry.info/201210/article_57.html

大原箱式石棺群
http://kofunoheya.blog.fc2.com/blog-entry-2811.html


柳川市から筑後川の川上り 10日
浮羽町あるいは夜須町で川舟を降りる。 陸行1か月で、邪馬台国に到着。

吾跡川楊
http://44051510.at.webry.info/201006/article_37.html


角川日本地名大辞典 長崎県
P1133左 松浦市 〔中世〕 宇野御厨
寛治3年(1089) に贄駈士の松永法師という者が、観世音寺領の筑前国上座郡杷岐庄内の畠地子等を贄人源順の先祖相伝の所領であるとして押妨する事件が起きている (東南院文書)。

  ↓
朝倉市ホームページ  杷木神籠石
ttp://www.city.asakura.lg.jp/www/contents/1297731982594/index.html




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徐福の薬草

2016/09/13 19:54

姫路などから竹取翁博物館に訪問者あり 邪馬台国や徐福に関心を示された 2014.4.14
http://blogs.yahoo.co.jp/koiiyk/31302118.html
  ↓
中国の古地図 日本国と倭が別に描かれている!

下関 遺跡
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/nagata_ishimidou.html


記紀によって偽書に追いやられた日本の超古代文書たち
http://lucky2zacky.jugem.jp/?eid=626

日本列島は龍である(その2)
http://lucky2zacky.jugem.jp/?cid=18


徐福が探した薬草は何か
強精剤 「海狗腎」 を手にして家康は天下取りに成功した
http://kenkoubook.seesaa.net/article/389166374.html

ネットで検索せよ。 【 徐福 明日葉 】

東京都八丈島の巻
ttp://touyoko-ensen.com/mini%E2%80%90info/cook/ht-txt/793urasi-2.html
当店のあしたば製品はこちらからどうぞ
ttp://www.asakusa-kagetudo.com/modules/pico/index.php?content_id=9

明日葉(あしたば) は東京都 八丈島の原産である。
文献では唐人が値嘉島に来て香薬を採集していた記述がある。

『長崎県の地名』 日本歴史地名大系 平凡社
値嘉島 
P677中 左端
唐人らはまずこの島に寄って香薬を多く採集し、海浜に多くみられる奇石を鍛練して銀を得たり、磨いて玉に似せるために唐人がその石を好んで取りに来ていたらしい (「三代実録」 貞観18年3月9日条)
  ↓
 私見
論衡など 倭人、鬯艸を貢す。 ※暢草とも記される。

徐福が薬草を得た場所は
平戸島の南部、宇久島、小値賀島、五島、佐世保市 相浦 であろう。


福草、三枝 さきくさ
福草部
文庫書紀B130-7 補注15-8 P368下
サキクサが何を指すか諸説(山百合・朱草・葛草・薺苨等) あって不明。

文庫書紀D193上 注20

万葉集9041895 三枝(さきくさ)

萬葉集索引 新 日本古典文学大系 別巻  岩波書店
枕詞索引 P516左 「さきくさの」

『万葉植物文化誌』 木下武司 著  帝京大学 薬学部教授
三枝はイカリソウであるとする。


私見
福草、山百合 説
山百合といえば、古事記の 
七媛女 高佐士野 伊須気余理比売 大久米命 黥ける利 佐韋
の箇所と繋がる。

ここにその伊須気余理比売の命の家は、狭井河の上にあり。 天皇、その伊須気余理比売のもとに幸行でまして、一宿御寝したまひき。
  ↓
雄略紀の童女君と似る出来事である。  文庫書紀B24-末行
登場人物の名に「目」 がつく。
春日和珥臣深
物部大連


学研 新漢和大字典 (普及版) 2013年
 ゴン
八卦、六十四卦の一つ。
うしとら、東北
解字 会字
「目+ヒ(小刀、ナイフ)」 で目のまわりにいつまでもとれない入れ墨をすること


水野杏紀 著
『東アジアの宇宙論 易、風水、暦、養生、処世』  講談社選書メチエ
によれば、「艮」 が表すものは
止、山、少男、狗、手、立春、八、
東北 万物の終りの成す所にして始めを成す所、循環の境界域

日本の古代史を徐福で解明するなら、徐福は方士だったので陰陽五行・風水を勉強しておく。


ユダヤ王国、ユリの花のコイン
http://www.parisii.jp/diary-detail/53


お薦めの本
ユダヤ、シュメール、騎馬民族に関する本
栗本慎一郎 著
『ゆがめられた地球文明の歴史』
『栗本慎一郎の全世界史』

徐福に関する本
いき一郎 著 『徐福集団渡来と古代日本』


雲に飛ぶ仙薬
万葉集847848
山の高い所、雲がかかる場所で得られる物か
雲飛山 訓み うねびやま のことか

竹取物語の考察 5
http://44051510.at.webry.info/201602/article_6.html




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古代史シンポジウム IN しものせき 2016

2016/09/11 01:57

武末純一  福岡大学
縄文人は基本的に溝を掘らないが、弥生人は盛んに溝を掘って自然と人間を区別する ・・・

私見
下関の遺跡に縄文時代の溝がある。
潮待貝塚 縄文中期〜後期
秋根遺跡の大溝(東西方向) 縄文〜弥生 場所 勝山支所

秋根遺跡の大溝は風水の朱雀であろう。
明堂 秋根遺跡
主山・玄武 石原の山か
艮(方位で東北) 青山
白虎 秋根神社の小丘
青龍 勝山中学の山
朱雀 秋根遺跡の大溝、砂子多川
案山 一の宮住吉の山


『勝山あれこれ』 郷土史本
P14
北田(きたんだ) の泉
秋根の北田という所に大旱魃でも涸れない泉があった。


M田竜彦  鳥取県埋蔵文化財センター
鳥取市 本高弓ノ木遺跡(4区)
有富川の西岸では、鳥取平野でも比較的早い時期に水稲耕作が開始されていると考えられる。

私見
「有富」 という地名 「ある」 の意味 
文庫書紀B131 注1
荒樔(あらす) は、産(あ)るの他動詞。 神の誕生の意


根獅子  平戸
【長崎】弥生時代の女性とみられる人骨見つかる…平戸・根獅子遺跡に「配石墓」
http://blog.livedoor.jp/waruneko00326-002/archives/48161731.html
【長崎】弥生時代の女性とみられる人骨見つかる…平戸・根獅子遺跡に「配石墓」
ameblo.jp/f4fhgww8/entry-12184038507.html

日本の人骨発見史3.根獅子遺跡(弥生時代):頭部に傷のある女性人骨
http://blog.goo.ne.jp/garfsn1958/e/975fd9d1a50fca280e90ee1b22a0594f

平戸島南部の原始古代
http://44051510.at.webry.info/201102/article_85.html
平湖島  平壺島
http://44051510.at.webry.info/201102/article_84.html




『豊浦町史』  昭和54年12月
P61-11行目  田島遺跡の発掘
完全に破壊された粘土ばかりのピットから米とが検出された。 土器に収蔵されていたと思うが破壊がひどく、その状況から明らかにすることができなかった。 破壊されたピット群の底部から得られた土器は弥生時代前期末か、せいぜい中期とみられる。 花崗岩が風化した層でできている田島台地には麦作が弥生前期末には行われていた。 稲作は周囲の無田の低湿地で行なわれていたとみるよりほかなかろう、といわれている。


『山口県地名考』(高橋文雄) 昭和53年
P128
佐波郡徳地町の「小古祖」 の記述で、「コソ」 は呉国王城の名か、とある。
麦の古語という説もある。

下関市吉永に小字「小祖」 がある。


弥生時代早期
私見
弥生時代の開始年代は徐福の渡来からである。 B.C.219 〜
下関市武久浜 半両銭が出土

「長門 赤関 徐福祠」 と書かれた中国の古地図がある。

『地図は語る モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮紀子 著
日本経済新聞出版社  2007年 2800円+税

口絵7 右端  徐福祠 長門 赤関  「広輪疆理図」
口絵8 右端  迎江 徐福相 長門  「東南海夷図・西南海夷図」
P69 図  「声教広被図」

P2
京都駅のすぐそば、龍谷大学大宮校の附属図書館に、二十世紀初頭より世界中の注目をあつめてきた一枚の地図が収蔵されている。 題して「混一疆理歴代国都之図」。

龍谷大学 日本史学専攻
ttp://www.let.ryukoku.ac.jp/faculty_info/country.html




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東夷 − 暘谷 音楽 皮服

2016/09/05 02:02

神武天皇は実在した
文庫書紀B202-4  継体紀
文庫書紀D102-12  天武紀

壬申の乱で「神日本磐余彦天皇の陵」 が出てくる。


膏腴
隋書俀国伝 土地は膏腴にして

文庫書紀B202-12 土地膏腴えて
文庫書紀B216-6 膏腴えたる雌雉田

常陸国風土記 総記 風土記357-4 物産の膏腴くになり


東夷
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku8/izenwa1.html

暘谷 ・・・ 隋書俀国伝 「日出ずる処の天子」
燕 ・・・ 土井ヶ浜弥生人か

暘谷を「東の果てにあって朝日が昇る地」 と見て、茨城県の鹿島神宮に比定する人もいる。
暘谷について書かれた本としては、
『「日本」 国はいつできたか 改訂版』 大和岩雄 著 大和書房  P87

蓋国
@考 土井ヶ浜の小字「釡蓋」(往古は「亀蓋」)
A考 蓋井島

東夷の音楽 弥生の土笛(陶塤)


[PDF] 資料
xufu.sakura.ne.jp/2015-7ronbun-maeda.pdf  の P8
志賀島出土の金印に根津日子命

陸国風土記 総記 風土記357-5 古の人、世の国と云へるは

万葉集で「常」 の字
 
3236 

1682 之倍尓 夏冬往哉  扇不放 山住人
  ↓
『尚書』 の 島夷、皮服す。

下関市豊田町の矢田遺跡(弥生前期 B.C.150年頃) から鞣(なめし)革用石器が出土している。
下関市 豊田町矢田は弥生前期では革の大産地だった。


本を購入
『倭人伝を徹底して読む』 古田武彦 著 ミネルヴァ書房
『邪馬一国への道票』 古田武彦 著 ミネルヴァ書房


長崎県か
古之  平戸島の南部
根獅子は慶長国絵図では禰子古村

古田(こた) 現 辻町、神船町、大佐志町、無代寺町
  ↓
万葉集の「古之」 こしの国

山海経 海外東経 の最初、長差丘は平戸島 南西部の佐志・志々伎か。
野子町の西側、高島の海岸で瑪瑙が拾える。
長差丘は佐世保だろうか。


越中国  佐世保市 相浦川
万葉集3881 大野路
この場所は佐世保市 大野町である。
松原町の淀姫神社(祭神 豊玉姫命) のヤモード神事は山人、山の神

万葉集3884 皮服 
        ↓
『尚書』 島夷、皮服す。

佐世保市 下本山町の四反田遺跡、門前遺跡は拠点集落だった。
万葉集の越中国は佐世保市相浦川流域である。

佐世保市の箱式石棺は下関市、宗像市と同じ。
長崎市、大村市の箱式石棺は短い。

台与が献上した大量の真珠は佐世保市 宮津町、大村湾、値賀島、五島の産であろう。


日向 高千穂
万葉集38813884 の「越中国歌四首」 は竺紫日向高千穂を想起させる。
佐世保市の箱式石棺墓は下関市、宗像市と形が同じ。

竺紫日向高千穂宮は佐世保市の相浦と考えられる。
大潟の高岳 ・・・ 竹嶋
高島町の宮ノ本遺跡 ・・・ 山幸彦が訪れた海神(豊玉彦) の宮
  ↓
北海道 有珠モシリ遺跡の貝輪

佐世保市 大潟 では水銀山があり、小字「水ノ浦」 は水江浦島子か。
平戸島の南端、小田町の船越に海亀信仰がある。

佐世保市には洞窟遺跡が25か所もある。

魏志倭人伝の伊都国は佐世保市 相浦川下流か。


(参照したサイト)
原始時代の佐世保人
http://www.lifesasebo.com/99view/supesyaru/special/142/special142.html
佐世保 高島 宮の本遺跡: 仮称リアス式
http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-f1a0.html

長崎県の遺跡大辞典
四反田遺跡
ttp://www.pref.nagasaki.jp/jiten/index.php/view/30

門前遺跡(もんぜんいせき) 佐世保市愛宕町・中里町
ttp://www.pref.nagasaki.jp/jiten/index.php/view/35

宮の本遺跡
ttp://www.pref.nagasaki.jp/jiten/index.php/view/29


相浦水銀
佐世保市 大潟町 相ノ浦水銀山についての記録は江戸時代 弘化3年(1846) からであり、それ以前の記録、言い伝えは佐世保にはない。

松浦市の不老山に徐福伝説があり相浦水銀の言い伝えがある。

松浦市 不老山の解説看板 より
紀元前3世紀 中国の秦の始皇帝の命を受け、徐福が不老不死の薬を求めて、この山に登ったという伝説があります。 しばらくここにとどまり不老不死の薬を探したことから、この山を不老山と言うようになりました。
日本ではただ1カ所 佐世保相浦白玉山で産出した自然水銀をもとに、この地で仙丹(不老不死の薬) を作ることに成功したので、それを中国に送り王侯・貴族の人々に珍重されたと言うことです。
はじめ、欽明天皇24年(563) 山頂に不老権現を祀りその後、大宝2年(702) 徐福の教えを修得した「役小角」(えんのおつの) が徐福をあとを慕って不老山に来ました。 山頂でシメを張り 紫燈護摩の法を修し、熊野権現を祀りました。 その時の座前石( 1 m ) と思われる石が伝わっています。
現在、里免にある寿昌寺は、はじめここに創建されたようです。

松浦市・松浦市教育委員会・松浦市観光協会


松浦市
今福町「中ノ瀬」 に渡来系の住居跡か

星鹿町 星の神 香香背男 文庫書紀@120-9、136-6
龍尾川という川の名は興味深い。 草薙剣は八岐大蛇の尾から出た。

松浦市の民話・伝説
http://44051510.at.webry.info/201102/article_38.html

鷹島  日本山 (75.4 m)




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隋書倭国伝  占筮、元日の射戯、双六

2016/08/26 17:13

隋書倭国伝
卜筮を知り、もっとも巫覡に信ず。
正月1日に至るごとに、必ず射戯・飲酒す。
その余の節はほぼ華と同じ。
棊博・握槊・樗蒲の戯を好む。


倭人は卜を知っているが巫覡をより好む。
卜は獣骨・鹿角・亀甲を火であぶる占い、筮は筮竹を使う占いである。
倭人には周易、漢易、易経の知識があった。

正月の弓行事 日本書紀
  文庫書紀C290-8 孝徳 大化3年 正月15日
  文庫書紀D120-9 天武 下 4年 正月17日

他に弓矢を使う行事として、奈良・平安時代、大晦日に方相氏の追儺があった。

隋書倭国伝の射戯は正月1日、つまり元日の行事である。

倭人の「節」行事はほぼ中国と同じとあるから中国暦が倭国に定着していた。


文庫書紀D258-7 持統3年12月8日 双六の禁止
注には「双六はから渡来した遊戯」 とあるが、
隋書倭国伝に「握槊」 があるので唐以前の隋の時代に倭国に双六があった。


長崎県松浦市 百手講(ももてこう) 1月8日
ttp://www.city-matsuura.jp/www/contents/1317081826214/index.html


公伝
文庫書紀B180-1 継体紀 7年6月 513年
百済 五経博士 段楊爾

文庫書紀B304-7 欽明紀 14年6月 553年
百済に使いを出して
「医博士、易博士、暦博士を交代勤務させよ。
卜書、暦本、薬物を送れ。」

文庫書紀B312-7 欽明紀 15年2月 554年
百済 暦博士 固徳王保孫




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熊本大学 考古学

2016/08/04 19:12

熊本大学 考古学 杉井 健
対中国・朝鮮半島との交渉 中心的な港

前期前半 博多湾沿岸

前期後半〜中期前葉 津屋崎・宗像地域のテコ入れ、沖ノ島祭祀を主導
博多湾沿岸の地位低下は「寒冷化による砂丘形勢」 が原因とみる。


反論
原始古代の船は砂浜から船出していた。

『津屋崎町史 通史編』  平成11年
P227-末から3行目
古代における港湾施設は、現在のように岩礁性のところが好まれるのではなく、竜骨をもたない平底の船の時代は砂地の傾斜のゆるやかなところが適地であった。 砂地に直接船をのりあげ停泊し、干満の差を利用して出港するという手段がとられたものと考えられる。

原始古代の船は平底だったので砂浜に港があった。
博多湾沿岸に神功皇后が侵攻した新羅があった。
文庫書紀A170-4 早羅城は早良区

2015年5月
福岡県春日市 須玖タカウタ遺跡 多紐鏡の鋳型が出土

沖ノ島祭祀と関係する港湾遺跡は津屋崎の在自にある。

福岡市西区 宮浦の唐泊
こんな所が万葉集の場所であるはずがない。




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常陸国筑波山麓 安倍晴明の生誕地

2016/08/04 19:11

原始古代の中央政権は下関市有冨 字「中村畔」 にあった。
記紀・万葉の中心地は有冨の大年溜池、ハンドウ山の登り口あたりである。

吉備真備  Wikipedia 
母:楊貴氏、又は、倭海直男足の娘・髪長支姫
  ↓
向津具の楊貴妃伝説、あるいは綾羅木の小字「柳」

また、吉備真備は、陰陽道の聖典『金烏玉兎集』 を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。 金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」 を表す。 安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』 は晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。 伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた。 このときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』 を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』 であるという。

金烏 神武東征の金鵄
玉兎 兎=卯 で方位の東か


陰陽道の祖 吉備真備
ttp://ameblo.jp/yippee-happy/entry-12186695511.html

安倍晴明 生誕の地
ttp://blogs.yahoo.co.jp/srx_kitakan/5756290.html

明野町(あけのまち)  茨城県真壁郡 現 筑西市
こんな所に「安倍晴明 生誕の地」 があるはずがない。

常陸国風土記の筑波山は下関市有冨 竹生寺 である。
明野=万葉集の阿騎野 有冨 林さん宅の東側
島 「猫」=根 で「子」 は方位で北。 「子」 は「水」 の性質をもつ。
竹生寺の横にある妙見社から真南 大年池の西側、中村勝さん宅
(「ウオッちず」 を見る)


有冨 大年社
阿倍御主人 あべのみうし 「牛」 を祀る大年社がある中村勝さん宅
  ↓
地勢の風水検分で判定できる。

雄略紀 文庫書紀B32-5
阿閉臣国見、更の名は、磯特牛
神武東征の国見丘は有冨上の中村勝さん宅で、地勢は丘状だ。

天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも
この歌は有冨の大年溜池の横、中村勝さん宅からハンドウ山の上に出た月を詠んだものであろう。

2016年8月18日(木) 快晴 満月
19時07分 長府方向より、月の出
20時07分 場所 有冨 中野利通・中村勝さん宅の北側、道路
        石原の小原山の頂から満月が出る。

百人一首 安倍仲麻呂の歌
「天の原」 を地名とみる。

2016年8月20日(土) 快晴
21時15分 場所 川中公民館の南隣、小西循環器・内科医院の信号機
        火の見山の頂に月が出る。

百人一首 安倍仲麻呂の歌
出航時の歌。 安倍氏の家系は陰陽師。
「三笠山」 という名は円錐形だから伊倉の火の見山に注目
火の見山の西方向に構造船の祭祀土器が出土した要須遺跡がある。


文庫書紀@214-5 神武東征
已にして、弟猾大きに酒を設けて、皇師にす。
牛 ・・・ 有冨 大年池の西側 中村勝さん宅にある大年社は牛を祀る。
饗 ・・・ 「アヘ」 の音より阿閉臣

「猾」(うかし) の音は「穿」(うが) つ に通じる。 → 「穴」

顕宗紀3年 文庫書紀B128-12
阿閉臣事代 神託を解する者として陰陽師に通じる

兄猾 ・・・ 戊 (土の兄)
弟猾 ・・・ 己 (土の弟)

古事記 大年神の系譜
の神 「土」 の方位は中央
万葉集3344 大土  防人の妻の歌 → 阿閉臣事代の任那派遣 

御門家は安倍氏

五行の「土」



甘 ・・・ 可美真手命
中央

孝元天皇 大日本根子彦国 「牽」=牽



万葉集
3838
3839
安倍朝臣子祖父は
歌の牛から有冨の大年社付近に住んでいた。




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風水 陰陽道 易学

2016/07/31 07:51

ネットのサイト
古事記と易学
http://www.maroon.dti.ne.jp/uqmk/k_e/

中国の神話や文化を知っている人に合わせた書き方をしている、「日本書紀」
と中国神話の類似点とは
http://oryouridaisuki.at.webry.info/201608/article_11.html

現代風水ニュース
http://blog.gendaifusui.com

易占日々研鑽日誌
http://blog.livedoor.jp/shinji0436-anzenman/archives/327854.html

易占い?
http://blogs.yahoo.co.jp/omatsu123/37605336.html
人物・諸本講座 第一回 今東光 『今氏易學史』
http://blog.livedoor.jp/schlegeliia/archives/2065787.html

旧暦の仕組み
http://homepage2.nifty.com/o-tajima/rekidaso/calendar.htm
旧暦カレンダー Japanese Lunar Calendar
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoss/tuki/kyureki3.html


購入物 amazon
井上製作所 方位分度器
島川建築計画室 透明方位盤 (A4サイズ) ver.2
ウチダ 全円分度器 12センチ、15センチ

羅経盤(香港製) 9.5センチ、12層
筮竹 39センチ

コンパスグラス ・・・ アウトドアの必需品
ttp://compassglass.net/

『理科年表』 2016年版 国立天文台 編
『天文年鑑』 2016年版 誠文堂新光社



ネットで以下の本を新品・中古で購入した。

『日本人なら知っておきたい 陰陽道の知恵』 武光誠 著 KAWADE 夢新書
『現代に息づく 陰陽五行 増補改訂版』 稲田義行 著 日本実業出版社
『陰陽道の発見』 山下克明 著 NHKブックス
『日本陰陽道史話』 村山修一 著 平凡社ライブラリー
『陰陽道』 鈴木一馨 著 講談社選書メチエ
『陰陽道とは何か』 戸矢学 著 PHP新書
『図解 陰陽師』 高平鳴海 著 新紀元社
『陰陽道の本』 学研のムック本 1993年

『安倍能晴占術大全』 藤巻一保 著 学研
『図説 日本呪術全書』 豊島泰国 著 原書房

『日本史を学ぶための<古代の暦>入門』 細井浩志 著 吉川弘文館

『易経』 三浦國雄 著 角川ソフィア文庫
『増訂 易経』 三浦國雄 著 東洋書院
『易の話』 金谷治 著 講談社学術文庫
『易』 本田濟 著 朝日選書
『易占大全』 盧恆立・山道帰一・島内大乾 著 河出書房新社
『自分で答えをだしたい人の はじめての易占』 古藤友子 著 青土社

『実践 四柱推命』 盧恆立・山道帰一・島内大乾 著 太玄社 
『四柱推命大鑑』 御堂龍児 著 国書刊行会

『高島易断本暦』 平成28年版

『道教の歴史』 横手裕 著 山川出版社
『道教の世界』 菊地章太 著 講談社選書メチエ
『日本の道教遺跡を歩く』 福永光司・千田稔・高橋徹 著 朝日新聞出版

『道教の本』 学研のムック本 1992年
『桃源郷』 川合康三 著 講談社選書メチエ
『崑崙山への昇仙』 曽布川寛 著 中公新書
『不老不死という欲望』 三浦國雄 著 人文書院
『中国神話』 中島みどり 訳注 東洋文庫 平凡社

『 「老子」 を読む 』 楠山春樹 著 PHP文庫
『老子』 蜂屋邦夫 訳注 岩波文庫 青
『老子の読み方』 谷沢永一・渡部昇一 共著 PHP

『マンガ 老荘の思想』 蔡志忠・和田武司・野末陳平 講談社+α文庫
『老子・列子』 奥平卓+大村益夫 訳 徳間文庫
『荘氏』 岸陽子 訳 徳間文庫

『仙境往来』 田中文雄 著 春秋社
『道法変遷』 山田利明 著 春秋社
『老子神化』 菊池章太 著 春秋社
『飛翔天界』 浅野春二 著 春秋社
『神仙幻想』 土屋昌明 著 春秋社

『中国思想を学ぶ』 森三樹三郎 編 世界思想社

『抱朴子 列仙伝 神仙伝 山海経』 平凡社 1973年 1987年 第12刷
『淮南子の思想』 金谷治 著 講談社学術文庫

『龍の住むランドスケープ』 中野美代子 著 福武書店
『ひょうたん漫遊録』 中野美代子 著 朝日選書
『仙界とポルノグラフィー』 中野美代子著 青土社
『中国の青い鳥』 中野美代子著 平凡社ライブラリー

『儒教・仏教・道教』 菊地章太 著 講談社選書メチエ
『儒教と中国』 渡邊義浩 著 講談社選書メチエ

『日本古代呪術』 吉野裕子 著 講談社学術文庫
吉野裕子全集 全12巻 人文書院


私見
倭人の教養は陰陽五行、中国思想(三浦國雄、中野美代子) だった。

原始古代の中国思想、旧暦、陰陽論、干支方位占い等は江戸時代まで民衆レベルでの学・教養だった。 これに精通しておかなければ昔の人が書いたものは読めない。

場所の地勢・景観・山の形は風水で見る。
風水は特殊な知識なので風水の本を買って習得する。

呪術迷信の類いを猛勉強したい。




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古代史 風水・五行

2016/07/08 10:03

陰宅風水
万葉集
160
燃火物 取而裹而 福路庭 入燈不言八面 智男雲
福路庭 ・・・ 洞天
八面 ・・・ 大八字・小八字、八角形

161
向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而
向南山 ・・・ 主山、父母山


amazon で検索 【 周易八面体サイコロ 】

数の神秘 「八」
ttp://samukawajinjya.jp/houi/houi07.html


陽宅風水
岩波文庫 『古語拾遺』
P32 造殿の斎部
P74上 天御量 ・・・ 風水尺(魯班尺・門公尺)

古語拾遺は陰陽道の書であり、天富命は下関市有冨の山に住む。
杣山から木材の伐り出し、棟上げなどは風水・陰陽道で日程を決める。
造殿は風水の魯班尺を用いる。


五行  垂仁記の戸、上の王
垂仁記 本牟智和気の御子 ・・・ 有冨の字「中村畔」 の人

鷺巣池は儀万池か。 儀万池からの方位は、
南 火の山展望台  「火」 の方位は真南
「未」 の方位は火ノ見山の西側 字「龍王田」(遺跡)、字「浅山」(朝山か)
「丑」 の方位に大年池横の大歳社(牛を祀る)

国土地理院 25.000分の1 地形図 磁針方位は西偏約7 °

那良戸 有冨の字「金鋳ヶ谷」 の遠山運送→吉本さん家→白銀荘
大坂戸 岩谷新宅の前の道 上ヶ原古墳・下有冨古墳(秋本さん墓地)
戸 「木」 の方位は東北東、東。 石原へ下がる。 季節は春(旧暦1月、2月)

上王の 「菟」=卯 と見て、卯の方位は東

曙立の王は陰陽五行の方士である。 曙立の王は超能力で木に留まった鳥を落とす仙人である。 夏至の日の出は有冨のハンドウ山 と 石原の小原山の間の鞍部から昇るので、ここの鞍部の住人か。

有冨自治会 道作り 2組
植松古墳→上ヶ原古墳→下有冨古墳 は風水の道作りなので湾曲する。
箸墓は下有冨古墳か。

肥長比売は蛇に化けた。
蛇は十二の方位で南南東だから門司区の伊川が出雲になるか。
伊川・猿喰の縄文土壙墓(黄泉の穴)、白山神社、企救(菊理姫) 

小学館 風土記 新編日本古典文学全集
常陸国風土記
P365-8行目 普都大神 伊川

本牟智和気の御子
下関市有冨 字「中村畔」 の倭から門司区伊川にあった出雲へ行った。
船を担いで逃げ帰った峠道は長府の逢坂である。




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綾羅木郷台地遺跡 (木舩地区)

2016/07/03 08:26

発掘調査 了元寺の場所 古墳時代 
土師器の甑(こしき) は雄略記 春日の袁杼比売が酒造りに使ったものである。

また天皇、丸邇の佐都紀の臣が女、袁杼比売を婚ひに、春日に幸行でましし時、媛女、道に逢ひて、すなはち幸行を見て、辺に逃げ隠りき。 かれ御歌よみしたまへる、その御歌、
嬢子の い隠る岡を
金鉏も 五百箇もがも。
鉏き撥ねるもの。
かれその岡に号づけて、金鉏の岡と謂ふ。

(角川ソフィア文庫 新訂 古事記 41版 平成13年 P181)

丸邇 字「丸ノ内」

袁杼
音が橘の小戸に同じ。「袁」(長い着物、遠) 「杼」 (機織のヒ、ドングリ)

岡 字「岡」 下関市立考古博物館の建物がある場所
隠る 弥生貯蔵穴の中に逃げ隠れる
金鉏 木舩地区の貯蔵穴から砥石が出土している


万葉集3168
衣袖之 真若之浦之 愛子地 間無無 吾恋
  ↓
金鉏とは似る。
真若之浦 字「若宮」
愛子地は綾羅木郷台地の珪砂である。

往昔、綾羅木の浜は「時浦」 と呼ばれた。

愛子地
1392
1393
2734 細砂裳

大埼
1023 字「大森ア」
3072

字「宝前」 は住吉である。


綾羅木郷の了元寺から出土した古墳時代の甑(こしき) は古事記の袁杼比売が雄略天皇に酒を献上した時に使ったものである。

春日は東だから以前は有冨の東にあるサンヨー跡下 甑土器の出土地か
と考えていた。

三重の伊勢の国の婇が雄略天皇に酒を持ってきた話がある。 三重県の伊勢市から雄略天皇の宮まで険しい山道を通って酒を持ち運んでくるは実行不可能である。 記紀・万葉の舞台は下関市綾羅木川の北側である。




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竹生山は鳳凰の形だ

2016/07/02 05:08

竹生寺は蒲生野山田にあるが住所は有冨である。
竹生寺の真南に有冨村の庄屋だった儀万さんの家がある。
古くは石原、延行は有冨村に入っていた。

竹生山の形
梶栗側から見たら双峰山である。
県道長安線の有冨交差点から見たら鳳凰の山である。

参照
『定本 地理風水大全』 御堂龍児 著 1997年 国書刊行会
P40 【鳳凰の山】
鳳が羽を広げて、今まさに飛び立たんとする鳳凰の姿に似ている。
これを 「飛鳳冲天形」 という。


専徳寺
立地が韓国の独立記念館がある場所と似ており、風水の大明堂である。

大年池の横 中村勝さん宅から西の田 迫本の田 庚申塔のT字路まで低い丘が続く。 専徳寺の地勢は寺の裏が高くて南に傾斜し、また西側に傾斜するので土地の水はけがよい。 寺の前面は谷に突き出ており、風水の「穴」「明堂」 に立地する。 「穴」 の形状は大乳穴である。
寺の方位はやや「未」 で、竹生寺− 専徳寺−下有冨石棺(秋本さん墓)

案山 仁馬山古墳
朝山 火の見山

羅盤の縫針で偏角 7.5度 か? ※ 正確に測定したものでない。
竹生寺−専徳寺−下有冨石棺(秋本家の墓)−「弓削畳麿」 の木簡出土地
専徳寺の山門の方位 も同じ。

有冨の墓地
有冨墓地(大迫池) 艮(うしとら) の方角で鬼門  昔、墓地の上は火葬場
河内實さん宅 東側の墓地 坤(ひつじさる) の方角 裏鬼門

河内實さん宅 東側の墓地は有冨でも古い家の墓地であり、儀万、中村本家の墓がある。 儀万さんの墓は何十年か前に大迫池上の墓地に移した。

河内實さん宅 東側の墓地の真東に儀万の家がある。
西 ・・・死滅の方位
東 ・・・ 誕生の方位
であるから、「誕生の場所」 は有冨古墳の北側を登った所と推理できる。 昔、稲荷社があったという。

有冨古墳  纏向
『風水の本』 学研のムック本 1998年
P62 中
砂は、ほかに 「砂城」 とも、「幕」 とも、「」(てん) ともいう。 穴を取り巻くところから 「幕」 といい、穴に纏わりつく姿なので 「」 というのである。

「後方に気を託し送れる山があり、傍らに護り纏いつく山がある。 託が多く、護が多ければ、その龍神はたいへん貴い」 (『博山篇』)


『古代遺跡謎解きの旅』 松本司 著 小学館 1999年
P38-13行目
例えば、初期ヤマト王権発祥の地と考えられる向遺跡の「纏」 は、気が集中する大龍穴を取り巻く丘を意味する風水用語「」(てん) だと考えられる。

纏向は下関市有冨 字「中村畔」 の青龍にある有冨古墳の場所である。

P64 中・下
青龍は男児、白虎は女をつかさどる。
纏向(=青龍砂) 日代宮 景行天皇の男児は日本武尊である。

纏向の「纏」 は青龍、「向」 は坐向法である。

「纏向」 は風水地名である。 日本武尊は青龍の男児である。
古代史の解明では風水・易は必修である。


綾羅木郷
夏至の日の出、冬至の日の入り ・・・ 祭事あり
綾羅木郷 字「中屋敷」 祭祀遺跡−了元寺−有冨 専徳寺−儀万さん宅
−石原の小原山・有冨 ハンドウ山の鞍部(凹部)  が一直線上に並ぶ。

有冨の人の話によれば、江戸時代はお寺の宗門改で住民を管理していた。 寺がある集落は古い歴史があり統治する上で重要な所だった。 綾羅木川北側の集落には寺がある。 対して綾羅木川南側の綾羅木本町、伊倉、川中豊町、稗田、熊野には寺がない。 寺の有無から見て、綾羅木川流域で歴史的に重要な地域は有冨など川の北側である。

了元寺の立地は地勢が高くなっている場所であり、また土質が珪砂なので水はけがよい。 綾羅木は水不足の土地だったが、了元寺の西側には溜池があって耕作地の水やりができる。 川沿いは海水が入るので飲料水に困る。 北側の地勢が高い所は「上座」 にあたるので村の有力者や本家が住んでいたと想定できる。

風水 若宮古墳の場所は龍脈の末端なので凶の地だ。
風水の観点から綾羅木郷遺跡には住居跡がないと考えられる。
  ↓
弥生時代前期に綾羅木郷では風水判断があった。


種子島の広田遺跡
貝札の 「山」(サン) は風水、墓の意
いや、
占術の五術に照らして
「山」(サン) は仙道修行による霊験
風水は「相」(ソウ) に属すか。

張明澄  Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%98%8E%E6%BE%84
  ↓
五術の「相」「山」 について記述あり。


卑弥呼の鬼道
「鬼」 を中国流に死霊の意と解して「鬼道」 は祖先崇拝の術。
いや、
「鬼」 とは幽霊の意だろう。
鬼道は神功皇后の神託である。
文庫書紀A130-8〜(仲哀紀)、A138-2(神功紀)

安本美典は卑弥呼=天照大神 説であるが、鬼道の「鬼」 を中国流に幽霊と解するなら鬼道は神功皇后の神託である。 卑弥呼=神功皇后 である。




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大穴牟遅神は龍穴にいた

2016/06/28 22:41

『古代遺跡謎解きの旅』 松本司 著 小学館 1999年
著者はストーンサークルや三内丸山遺跡の巨大木柱も風水で方位測定する装置と見ている。 ならば妻木晩田遺跡、吉野ヶ里遺跡、唐古・鍵の楼観も風水を測る建物かもしれない。

同 P20-3行目 土圭法
私見では糸島の平原遺跡にあった大柱は土圭法である。

文献史学の学者 森田悌は日本には祖霊信仰はなかったと言っている。 
墓地風水は祖霊信仰である。 私は記紀・万葉は風水で表現されていると思う。

穴門、穴戸の「穴」 とは風水の穴(ケツ) である。

大穴牟遅神の「大穴」 も風水の龍穴で、女性の性器にあたる場所にちなむ。
大穴牟遅神=大物主神 で、箸墓など女の陰部に関係する話となる。

『風水思想と東アジア』 渡邊欣雄 著 人文書院 1990年
P28-10行目
「穴」 にはがとぐろを巻いて滞在するごとく、「生気」 が貯えられる
  ↓
龍=蛇 と見て大物主神

倭の龍穴は勾(まがり) にあり、勾は墓地風水の地だった。
下関市有冨上 字「中村畔」 では大年池の手前に「曲がり」 がある。
この場所は女の股の恥丘である。

穴穂部皇子の「穴穂」 も風水の龍脈に関係する場所か。

貴命 ・・・ 「己」 は方位の中央


2016年6月21日は夏至で、朝日を拝む時である。
有冨上 西の田 迫本さん田の前、T字路の庚申塔−青山崩れの五輪塔
の場所に立つとハンドウ山の山頂から朝日が昇る(朝6時15分)。

有冨村の庄屋は字「中村畔」 の儀万さんだった。
以前、白井さん宅の前に蓮根の小沼があった。
この蓮根を作っていた小沼が倭京の朱雀池だ。
林さんは「奈良県の明日香村は有冨上にそっくり」 と語る。

吉見の船越にも儀満という家がある。
夏至の朝、船越の儀満さん・中川さん宅から見て竜王山の山頂に朝日が昇る。 故 中川陽さんの「陽」 は中川さん宅から見て、夏至の朝に竜王山の山頂から出る朝日である。 中川さん宅 旧牛小屋前の「清水川」 と称する湧水池は貴い。

考古学では方位は条里制の「山当て」 しかない。
私見では古代人は風水で動いていた。

火の山の「火」 は関門海峡の烽火によるとされてきた。 「火」 は風水では南であり、有冨上 西の田 迫本さん田の庚申塔の位置から火の山は南にある。 もしかしてこの庚申塔は猿田彦の天八衢か。 庚申塔の近くに五輪塔があるので聖地だ。 また風水では道や川筋の直線は凶である。 道、川が曲がっているのが吉。 この付近で道路、用水路が曲がってる景観が見られる。

形山の青山は、「青」 は東で、東に川が配置されている。
有冨の遠山運送から見て東にある山なので青山だ。
伊倉の火の見山、一の宮本町の龍王山は有冨上から見たら眺めがよい。
風水では孤立峰は凶。 有冨上は山が連なり「龍脈」 の吉地だ。


万葉集
42934294 山人 ・・・ 葛城山の仙人。 葛城山は大迫池の上
山田史麻呂の「土」 は方位の「土」 で中央

158
「儀」 は儀万さん
「白」 は白井さんの持ち山にある石組みの湧水

159
神岳からハンドウ山の登り口あたり

161
向南山は墓地風水の地、または玄武の山

万葉集 見津 山跡
文庫書紀@292-10 崇神紀10年
(おほぞら) をみて、御諸山に登ります。
「虚」 は霊魂が抜けた死体で墓地風水の地。また神霊が下る丘
墓地風水の場所の下に住む人は「虚蝉」「空蝉」
「践」 は穴門の践立 「山田」
三諸山は山が連なる場所でハンドウ山
奈良県の三輪山は弧峰である。 「三諸」 という山々が連なる表記にあわない。




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沖森卓也 佐藤信 矢嶋泉 編 『新校 古事記』 (株)おうふう

2016/06/24 12:18

沖森卓也 佐藤信 矢嶋泉 編 『新校 古事記』 (株)おうふう
2015年11月25日 初版  2500円+税

P122  仁徳天皇の皇后 石之日売命の歌
つぎねふや 山代河を 河上り 我が上れば 河のに 生ひ立てる 草樹を 草樹の木 其の下に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其の花の 照り坐し 其の葉の 広り坐すは 大王ろかも (57)

つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家の辺り (58)

この歌は諸本によって表記や注が異なり、古事記の論点である。
岩波文庫 古事記  五百箇真椿
「五百箇」 という表記は仁徳紀の「八十葉の木」 と合致させるためだろう。

角川ソフィア文庫 新版古事記
河のに  「河の上」 でなく「河の辺」
ゆつ真椿 「ゆつ」「ま」 は美称
他の本の注では「ゆつ」 は美称でなく、「斎つ」 で神聖な意味。


誤記
最新の「校本」 と銘打った本で誤記を発見しました!

草樹」 となっているが「草樹」 の誤記だ。
「鳥」 トリ (×) → 「烏」 カラス (○)

角川ソフィア文庫 新版古事記 でも誤記誤植を発見した。
P178
此の天皇の御世に、大后石之売命の御名代と為て、葛城部を定め、
巻末の本文 石之売命


私見
山代河は木津川とされる。 川幅の広い大きな川である。
この歌を直に読めば山代河は川幅2メートル前後の小川だ。

大阪湾沿岸から奈良県葛城まで河上りで行けば 1か月以上かかろう。
歌にある「河上の烏草樹、其の下の椿」 の場所を 淀川−木津川 の広大な流域からピンポイントで特定するのは無理である。 大きな河川である木津川では場所の焦点が定まらないのでこの歌は木津川沿いではない。

山代河は下関市有冨下の新興住宅地〜白銀荘(有冨182-1 番地)
あたりの水路である。

白銀荘から有冨のゴミ収集所にかけて曲がった急坂 ・・・ 和珥坂か
和珥の表記に邇・がある。 丸、円、弧を描くように登る急坂だ。
和珥氏は朱の生産をしていた説がある。 石原158番地の坂かも。


「河上」、「其の下」 の解釈
烏草樹は高さ1〜3メートル
椿は高さ3〜7メートル

@考 小字
の烏草樹  字「上ヶ田」
其のの斎つ真椿 字「下岡」

A考 地形
石原コスパのホームワイド裏 高層マンション付近の地形
または
石原コスパの商業施設 社員駐車場 の西側奥 水路の地形である。

小丘の上部に烏草樹が生え、小丘の下部に椿が生えていた。
「斎つ」 より朱の精製跡、赤土(埴土) の土地。

「斎つ真椿」 の解釈
考古学 「塚の原遺跡」 朱の精製跡、鉄鏃の鍛冶跡

日本書紀 仁徳紀 に照らして場所を特定すれば
文庫書紀A252-4
歌中の「河隈」 は河の曲り角
Yahoo! 地図 で下関市有冨 178-7、178-8 番地か。
仁徳紀の歌からピンポイントで場所を特定できた。


日本書紀 山背
文庫書紀A46-10  垂仁紀
34年の春3月の乙丑の朔丙寅(2日) に、天皇、山背に幸す。
時に左右奏して言さく、「此の国に佳人有り。 戸辺と曰す。 姿形美麗し。 山背大国の不遅の女なり」 とまうす。 天皇、茲に、矛を執りて祈ひて曰はく、「必ず其の佳人に遇はば、道路に瑞見えよ」 とのたまふ。 行宮に至ります比に、大亀、河の中より出づ。 天皇、矛を挙げて亀を刺したまふ。 忽にと化為りぬ。 左右に謂りて曰はく、「此の物に因りて推るに、必ず験有らむか」 とのたまふ。 仍りて戸辺を喚して、後宮に納る。 磐衝別命を生む。 是三尾君の始祖なり。 是より先に、山背の苅幡戸辺を娶したまふ。


古事記では、山代の大国のが女、苅羽田刀弁

場所
商業施設 石原コスパ 丸和の裏の川土手 字「伊勢防」
ホームワイド前の道路 古代 遺跡 石敷きの道 の出土

山代の大国の淵=伊勢の宮  字「伊勢防」
私見では景行天皇の纏向宮は有冨古墳あたりにあった。


山口
那良の山口  仁徳記 石之日売命 山代
大坂の山口  履中記 墨江の中つ王
山の口に坐す皇祖神等  古事記 祝詞 日本古典文学大系 P399

古事記関連で「山口」 という地名は3か所出てくる。
万葉集では山口女王がいる。

那良の山口
有冨 県道長安線の道路下、吉本さん宅。 崖下、急坂あり
または
字「中村畔」 儀万さん、平田さん宅
那良・奈良は字「金鋳ヶ谷」  遠山運送の裏畑〜大賀さん宅

大坂の山口
下関工業高校・園芸センターあたりか

山の口に坐す皇祖神等
有冨の儀万さん、中野さん、中村本家さん旧宅(空地) あたり。
「山の口」 の山はハンドウ山。




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風水 条坊制

2016/06/22 20:19

『風水 気の景観地理学』 渡邊欣雄 著 人文書院 1994年
P24-末行
風水の大原則でいくと、気の流れが穏やかな曲線を描くような道のつけかたのほうがいいんです。 気の流れが直進してしまう碁盤目状の区画は、人にをもたらす煞(殺)気が強く作用してしまいますから、風水上は良くないんです。


私見
倭国は風水を基に設計されていたのなら条坊制はありえない。
直線の道や川は凶である。
道の十字路・三叉路は凶である。

風水では条坊制は凶である。
風水では道が村を横断するのは凶である。

奈良市の平城京、京都市の平安京は碁盤目状の条坊制である。
条坊制は本来の風水ではない。

風水では条坊制は危険である。 平安京は東寺・西寺、羅城門などを設けることで風水上の防護策を講じたとされる。

下関の綾羅木川流域には条坊制はない。
長門国豊浦郡〜大津郡油谷・日置 には古代の官道が通ってなかった。
条坊制、官道は風水では凶である。

風水図は女の性器である。 女のアソコには碁盤目や直線道はない。
大学の文学部は女子学生ばかりなので、教授が黒板に「女の穴」 を描くことはためらわれる。

穴門、穴戸の意味は「女の穴」 でした。




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糸島 平原遺跡の「大柱」 風水の土圭法

2016/06/22 15:47

『図説 風水学』 − 中国4000年の知恵を探る
目ア茂和 著 東京書籍 1998年
P.47
風水の歴史
風水の起源や源流は、紀元前10世紀以前の殷・周時代の「卜宅」 にある。 卜宅は、占いによって宅地や村落の吉凶を判断する方法で、これによって建設の地点や範囲の選定および建設開始の日時の決定を行う。 この迷信の「卜宅」 とともに、この時代には「土圭(どけい)法」「土宜(どぎ)法」 など、「上は天文を極め、下は地理を察する」方法がすでに使用されていた。 この土圭法は、土地に柱を立て、太陽の影を観察し、土地を推し量り、方位を測定する方法である。

  ↓
『伊都国を掘る』 柳田康雄 著 大和書房 2000年
P.162
日向峠と 「大柱」

私見
福岡県糸島市有田 平原遺跡の「大柱」 は風水の土圭法である。
弥生時代後期の糸島には中国伝来の風水があった。


『図説 風水学』
P.156-12行目
国際的に日本の存在が記された最初の書である『魏志倭人伝』 には、邪馬台国の卑弥呼が「鬼道を事(つか)え、人心を惑わす」 とある。 魏の時代の鬼道とは、万神の祭壇の八方に設けられた鬼神死者の霊魂など) の通り道であり、また呪術的な宗教などを指すといわれる。 鬼道は風水の方位説の一つである「鬼門」 とも関連する術なのかもしれない。 鬼道が呪術であったかシャーマニズムであったか不明だが、卑弥呼は邪馬台国を治めるために、何らかの風水の要素を駆使していたと考えられる。

  ↓
卑弥呼の「鬼道」 とは風水だった。

漢和辞典で「鬼」 の中国的意味を調べると墓地風水に通じる。


文献 (記紀、中国正史など)
考古学 (発掘されたモノ)
 +
風水 (見落とされてきた観察)




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種子島 広田遺跡 貝札の「山」 の字

2016/06/16 03:30

『日本語の誕生』 沖森卓也 著 吉川弘文館 2003年
種子島の広田遺跡から出土した貝札の「山」 の字について触れていない。


『日本の古代遺跡 38 鹿児島』 保育社 昭和63年
表紙は種子島 広田遺跡の貝札
口絵 P14
P207
出土した貝札の文様
饕餮文 とうてつもん
爬虫文
虺竜文 きりゅうもん

P209-1行目
貝輪腕輪には中国西周の銅器にある虺竜文の系統を引く文様をもつものがある。

陶塤は中国では紀元前2000年頃のものである。 紀元前後の日本の弥生時代とは約2000年もの時代差があるので、中国の土笛と日本の土笛は別物だとみて、下関市立考古博物館では中国流に「陶塤」 といわず「弥生の土笛」 と呼んでいる。

陶塤も広田遺跡 貝札の文様も殷周時代のものである。
(論点)
両者に接点はあるか。
殷・周と倭は渡来や交流があったか。

『風水講義』 三浦國雄 著 文春新書
「山」 とは風水である。 P.16  
韓国では墓は山の中腹や小高い丘にあって墓を「山所」 という。 P.224
風水の起源 P.219


広田遺跡 貝札の文様は崑崙山のようでもあるし、風水における龍脈の生気や穴を表現している。 崑崙山は三層からなる。 → 前方後円墳の三段築に通じるか。

西の崑崙山(西王母)、東の蓬莱山(卑弥呼)

卑弥呼の「道」 は道教といわれているが、さらに風水も考えられる。 広田遺跡の貝札の「山」 が意味するものは風水である。

鬼道とは何か
中国語 「鬼」 の意味
死者、幽霊。 祖先の霊 → 墓地風水

学研 新漢和大字典
「鬼」 の解字
塊 丸いかたまり
魁 大きい丸い頭
回 まるい
と同系のことば。
  ↓
前方後墳のデザインは漢字「鬼」 の解字による。
漢字「鬼」 からの発想だから、定番で語られる天円地方墳とは異なり私のオリジナルな思いつきである。


江田船山古墳太刀銘、稲荷山古墳鉄剣銘の字は下手である。
種子島 広田遺跡 貝札の「山」 は書道の達人である。

『魏志倭人伝 他』 石原道博 編訳 岩波文庫 1951年
P18-12行目
これらは周代の倭人にかんする知見とはかんがえられぬから、まず西暦紀元前後に、中国人の倭にかんするほぼたしかな記事があらわれたとみるべきだろう。

種子島 広田遺跡出土の貝札の文様は周代の文様である。
『山海経』 の話は西周時代であり、私見では「海外東経」 は倭人にかんする知見である。




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風水 綾羅木川流域

2016/06/06 19:48

伊倉
の見山 (日見山) 「火」 は南を表す。
の山 も有冨上から見て南の方角にある。
山の「馬」 は方位で南。 有冨上から見て南にある。

南北線  火の見山の山頂 ― 仁馬山古墳 ― 王子権現山古墳

字「大西」  東は誕生、西は死滅。 有冨の字「大西」 には墓地がある。
伊倉の字「大西」 も古墳時代の埋葬地。

字「龍王田」
字「浅山」  朝山か
字「亀甲」  亀甲墓から「亀甲」 とは女陰。


一の宮本町
一の宮本町の龍王山は石原コスパ ホームワイド裏の岡に立つマンション駐車場から見たら、霊鷲山をバックに神南備型の円錐形をした山容である。 一の宮本町の龍王山は独峰であり、山々が連なる形ではないので龍脈は弱い。

部分的であるが、
長門国 一の宮 住吉神社 の立地・設計は風水に基づく。
住吉神社は北側に山があり、南側に池があるので風水設計の立地である。
西側に傾斜する場所に位置する。
境内の水流 「せせらぎ」 は南東の双水井から来て曲がりくねりながら神池にはいる。 水法は逆水であるが巽水(そんすい) で朝水である。


『図説 風水学』 目ア茂和著 P174-10行目
  日本の神社や寺院がほとんど南面し、入口近くのに池を持つのは、四神や朱雀としての池や川の風水の継承ともいえよう。

安岡八幡宮も南面し、南側に川が流れる。
しかし、
安岡の迫山、伊倉の火ノ見山、一の宮本町の龍王山は独峰であり、山々の連なりたる「龍脈」 がないので、鳥瞰的に見て風水パワーの地ではない。


火の山 の名称は烽火によるとされてきたが住吉神社の南にある山である。
方位で「火」 は南を表す。

栗本慎一郎が唱える「聖方位」(真北から20度西に傾く) に竹生寺の奥の院である経筒が埋められた場所がくる。
住吉神社 真西から20度南の線は稗田地蔵堂遺跡あたりを通る。

住吉神社  真東 忌宮神社

住吉神社  真東から30度北 勝谷神社
住吉神社  真西から30度北 川北神社

直線上に並ぶ
鋤先山竹生寺一の宮本町の龍王山 − 住吉神社あたり

吉見の竜王山住吉神社の本殿 を結ぶ直線 も重要である。

下関の旧市域に「龍王山」 は3つある。
吉見の竜王山 − 有冨の龍王山(ハンドウ山) − 一の宮本町の龍王山
は龍脈の基軸線か。

蒲生野山田の王子権現山古墳は風水の案山に築造されている。

安徳天皇西市御陵墓 は風水の立地

風水の太祖山  木屋川の最上流に位置する天井ヶ岳、一位ヶ岳
  ↓
龍脈は綾羅木川に至る。


栗本慎一郎は中東〜キルギスの遺跡を実地見聞して「聖方位」 を発見した。
しかし下関市綾羅木川流域では若宮古墳が向く方位など「聖方位」 (南がやや西にずれる) ものが多い。 これは沖縄の風水式家屋に通じる。 沖縄の風水式家屋では南・西など正方位はよくないとされ、南をすこし西にずらす。

『風水 気の景観地理学』 渡邊欣雄 著 人文書院 1994年
という本は沖縄、台湾、福建省の風水を研究対象としている。
私はこの本を読んで倭王は有冨 字「中村畔」 にいたことを確信できた。
(根拠)
たとえば、P.155-14行 図28
自分の屋敷の後ろに家が二軒あると自分の家は栄えるという。
有冨の庄屋は字「中村畔」 の儀万さんの家で、後ろに岩谷さん、中野さん、中村本家さんの旧宅跡(空地) がある。 中野さんは今の5代前に中村本家さんから分家した。 だから大昔は儀万さんの家の後ろには岩谷さんと中村本家さんの旧宅(今は空地) の2軒があった。 庄屋の儀万さんの家は屋敷風水の吉地である。

竹生寺は玄武。 竹生寺から真南の線上に
竹生寺 − 庄屋 儀万さん家 − 石原156 − 遺跡 掘立柱建物跡

古事記 仁徳記 石之日売 の歌謡
  山代河  白銀荘アパート近くの水路
  那良の山口  吉本さん家 急坂あり
  奴理能美  高層マンション 朝鮮系無文土器
  斎つ真椿  石原156番地 朱の精製
  石原コスパの西側 遺跡 掘立柱建物跡  相楽館
(参照) 塚の原遺跡 発掘調査報告書

 
種子島の広田遺跡 貝製品 「山」 ・・・ 「山」 は風水のこと
穴門・穴戸の「穴」 ・・・ 「穴」 は女陰で風水の吉地
関門海峡 ・・・ 風水の渡水峡(崩洪脈)

『風水講義』 三浦國雄 著 文春新書 2006年 P.127-1行目
風水では独峰はよくないとされ、横に広がりながら起伏に富む山を良しとする。
 



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雄略紀 瑞江浦嶋子

2016/05/31 21:16

雄略紀 文庫書紀B84-5
注二 大亀の古訓はカハカメ。カハカメはスッポンのこと。

雄略天皇の時代の話とされる。

雄略紀の末尾、吉備臣尾代 ― 征新羅将軍
娑婆水門
船人
歌謡 阿母(母) 阿毎(天か) 国
阿毎(天) ・・・綾羅木川の右岸(北側)
国 ・・・ 土井ヶ浜 字「国重」「国方」、掛淵川流域 字「国常」「国実」「国広」

丹波国の浦掛水門
長門市油谷 河原浦

瑞江浦嶋子も雄略紀の丹波国なので油谷町の人か。

山海経 海外東経 雨師妾 に亀がでてくる。
油谷町・日置町の境の雨乞岳に縄文遺跡があり、蔵小田には太古から人が住んでいた。


道=吉備=娑婆=船人

土井ヶ浜の岡林と対馬の金田城は緯度が同じで、真西・真東の位置関係にある。
豊臣秀吉の朝鮮出兵で毛利軍は肥中湊から渡海した。

角川 新字源 改訂版 で【娑】 (シャ)を引いて
熟語「婆娑」 (ハサ) 衣をひるがえしてまうさま

蝦夷は海岸で踊っていた。 娑婆は踊りの場所である。

山口県神社誌 昭和47年版
P176中
宇賀八幡宮
神事芸能
白穂祭 (9月29日) 八朔に因み末社菅原神社の例祭日花笠を冠り鶏の羽の腰輪をつけ踊る。

鯖釣山の北側、宇賀八幡宮に踊りの神事が伝わる。

吉備太宰石川王
鯖釣山の城主は石川氏で、その末裔は湯玉で庄屋を務めていた。


「船人」 は航海をする海人か。


万葉集
万葉集1740
山口県風土誌は吉母−蓋井島の海底にある千畳敷の岩礁を古事記の「海坂」 とみる。 海坂=海界。
海若の「若」 は下関市豊浦町 涌田後地 を示すか。 古くは「若海」 と呼ばれていたようだ。

下関市豊浦町の 涌田後地・吉永 には新羅系の航海民がいた。

杜屋神社の社伝  亀甲に乗った三穂津姫
http://44051510.at.webry.info/201509/article_3.html


万葉集295  麻呂 江 笶松原  
笶松原」 は黒井の字「木ノ村」 で、下関ゴルフ倶楽部の松林
臣の「角」 は出雲国風土記の八束水臣津野命に通じるか。

江浦嶋子の「水」 は八束臣津野命を連想させる。

藤原鎌足 室津 豊浦宮
http://44051510.at.webry.info/201507/article_12.html
新羅系 涌田後地の心光寺古墳群 2号墳から6世紀代の新羅系陶質土器
新羅といえば天の日矛−多遅摩毛理。 吉永に田島寺・住吉神社がある。

遣新羅使
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E6%96%B0%E7%BE%85%E4%BD%BF
秦間満 遣新羅使 天平8年

臣 遣新羅使
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%8A%AA%E7%89%9B%E9%A3%BC
麻呂
万葉集292295


逸文 風土記
丹後国
常世嶋 男嶋女嶋 ・・・ 下関市豊浦町 厚島
凡海 ・・・長門国豊浦団 五十長 凡海部 我妹

志摩国 吉津島 ・・・ 吉母の黒嶋

吉母の黒嶋に行基の伝説がある。  郷土史本 『汀の里』 P9
奈良時代、行基菩薩が聖武天皇の勅命を受けておとずれ、この地の風光と地形に霊を感じ、自ら十一面観音像を刻みまつられた

吉永の田島は田庭で丹波である。
海部氏の場所は京都府 丹後半島の籠神社ではなく下関市の涌田後地である。

室津下 阿弥陀院の山号「蓬莱山」


雄略紀の末尾 征新羅将軍 吉備臣尾代 娑婆 船人
「船人」 を航海民とみれば、下関市豊浦町の 室津下・黒井・涌田後地・吉永
が浦島太郎の場所だ。

涌田後地 心光寺古墳の被葬者は吉備臣尾代である。
文庫書紀B90-8 歌謡
に闘ふや 尾代の子 母にこそ 聞えずあらめ 国には 聞えてな
  ↓
「道」 を涌田後地の小字「道祖」 とみて、娑婆水門の場所は小字「道祖」 付近である。


逸文 丹後国
凡海=長門国豊浦団 五十長 凡海部 我妹

海部氏は下関市豊浦町 涌田後地 の航海民である。
向津具も重要な場所であり、海部氏は向津具が本拠地も考えられる。




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風水の本を買う

2016/05/28 10:57

考古学には風水はない。文献史学、上代国文学も風水を軽視している。
風水は「市民の歴史」(アマチュアの歴史発見) にもってこい!

文献史学の学者 森田悌は日本の古代には祖霊信仰はなかったと言っているが、風水は祖霊信仰そのものだろう。


ネットで風水の入門書・概論書を新品、中古本で購入した。
以下の本はすべて所有している。


『風水 気の景観地理学』 渡邊欣雄 著 人文書院 1994年
『風水思想と東アジア』 渡邊欣雄 著 人文書院 1990年 1994年6刷

『気の中国文化 氣功・養生・風水・易』 三浦國雄 著 創元社 1994年
『術の思想 ─ 医・長生・呪・交霊・風水』 三浦國雄 編 風響社 2013年
『風水 中国人のトポス』 三浦國雄 著 平凡社ライブラリー 1995年
『風水講義』 三浦國雄 著 文春新書 2006年
P.16 「山」 ・・・ 種子島の広田遺跡 貝製品 「山」

『韓国の風水師たち』 野崎充彦 著 人文書院 1994年
『風水ウォーキング 古代遺跡 謎解きの旅』 松本司 著 小学館 1999年

『風水と天皇陵』 来村多加史 著 講談社現代新書 2004年
著者は中国考古学の専攻で、関西大学大学院博士課程を修了

『龍の住むランドスケープ』 中野美代子 著 福武書店 1991年
『奇景の図像学』 中野美代子 著 角川春樹事務所 1996年 

『地理風水−聖なる大地の霊力』 御堂龍児 著 光人社 1995年
『開運風水学』 御堂龍児 著 ごま書房 2005年

『定本 地理風水大全』 御堂龍児 著 国書刊行会 1997年
P.40 【鳳凰の山】 写真は下関市有冨から見る竹生山に似る。
P.68-末行 易経の理論を学んだ上で風水を会得する

『風水の本』 学研のムック本 1998年 1999年 第2刷
口絵 中国陜西省 風水の「吉地」 である仙遊寺の景観は下関市有冨に似る。
P.69-末 荒俣宏の五行理論は杜撰である。

『風水がわかる本』 学研のムック本 2012年

『風水先生』 荒俣宏 著 集英社文庫 1994年 2014年 第16刷

『風水パワースポット紀行』 山道帰一 著 メディア総合研究所 2010年
『完全定本【実践】地理風水大全』 山道帰一 著 河出書房新社 2016年7月


『図説 風水学』 目崎茂和 著 東京書籍 1998年
『古事記の法則』 目崎茂和 著 東京書籍 2010年

『神道と風水』 戸矢学 著 河出書房新社 2013年
『郭璞 「風水」の誕生 』 戸矢学 著 河出書房新社 2015年12月

『風水という名の環境学』 上田信 著 農村漁村文化協会 2007年
著者は立教大学文学部教授

『風水でつくられた 日本列島の秘密』 田口真堂 著 河出夢新書 2002年
『決定版 極意 風水盤占い』 田口真堂 著 二見書房 2012年

『易、風水、暦、養生、処世』 水野杏紀 著 講談社選書メチエ 2016年


『風水師が食い尽くす中国共産党』 富坂聰 著 角川新書 2016年6月



日本書紀 本文神話を愉しむ
http://ncode.syosetu.com/n1251cc/
淮南子
http://ncode.syosetu.com/n1251cc/1/

淮南子 天文訓 も必読だろう。
山田史三の「方」 は方士か、縄で四方を囲む、にちなむか。
方士=風水の術使い である。

『新釈漢文大系 淮南子 上 中 下』 楠山春樹 著 明治書院 
昭和54年 平成14年 第16版




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風水 本を読む

2016/05/28 10:55

文具屋で透明ビニール、布、合成皮革の「本カバー」 を売っている。
本の表紙をはずし、文具屋で売られている「本カバー」 をつけて読めば華やいだ感じになり、読もう! という気が湧いてくる。

ネットで買った中古本が臭いので商業モールで香水を買ってきた。 6000円のものがセールで2000円だった。 本に直接香水を吹きつけると本が変色するだろうから工夫がいる。

スラスラ読める新聞・週刊誌・雑誌の文章とちがい、風水の概論書は一日20ページ読むのが限界で、新書・文庫でも読み終えるのに10日ぐらいかかる。
読むのに修行者のような根気がいる。 毎日5時間も取りくんで読める分量はわずか20ページ。 1冊読み終えるのに10日かかる。

風水の本は観念的で馴染めない漢語ばかり。 「読み物」 の本でも入門者は字面を見たら拒絶反応が起きて読みづらい。 でも3回めからラクに読めだす。

毎日5、6時間かけて20ページ読む。
読めるページ数は7時間で30ページが限度。
本を3回読んで次の本に移る。 1か月に読める本の数は3冊だ。
1か月に3冊、3か月で10冊、6か月で20冊読もう。

入門者は約1か月半で5冊ほど、しんどい思いで読み通せば6冊目から割とラクに読めるようになる。

入門者は学研のムック本を使うのがよい。
『風水の本』(1999年)、『風水がわかる本』(2012年) は漢字にルビがふられて高校参考書のようである。 中学生、高校生が「暗記科目」 を勉強するように、紙に単語を書いて、書いて、書いて、また書いて風水の漢字用語を覚えていく。

私の場合は目的が風水術を修得するためではなく、邪馬台国たる「倭」 の位置を発見するために風水に関する本を読むわけだから、多くの本を手元に揃える必要がある。


江戸時代まで日本人は陰陽五行で生活していた。 半年間は "古えの常識" である陰陽五行を覚える。その後で古文を読むべきである。

文献史学の学術研究者は陰陽五行は勉強しても風水は勉強してなかったように思える。





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漢字「畔」  熟語 【譲畔而耕】

2016/05/25 20:55

下関市で小字「中村」 は永田郷、吉見下、安岡、蒲生野、内日下にある。
有冨は字「中村」 で「畔」 (読みは「グロ」) の字がつく。 「畔」 は河畔、湖畔もあるが、田の区画の畔だろう。 有冨の小字「中村」 は穴門の山田邑、大田だ。

「畔」 の読みは「グロ」 なので「クロ」 から「黒」 に転じるか?
黒田、高市黒人など。


学研 新漢和大字典 普及版 藤堂明保・加納喜光 編 2013年第4刷
  P.1176
【 譲(讓) 畔 而耕 】
あぜをゆずり(ゆづり) てたがやす
農民同士が、田畑の境界のを、自分のものと主張せずに、相手に譲り合って耕作すること。 人々が無欲で平和に暮らしているさま。
周の文王の感化により、周の国内では、「耕者皆譲畔、民俗皆譲長=耕すもの皆畔を譲り、民の俗皆長に譲る」 というさまであったという。〔史記・周〕
  ↓
先代旧事本紀の冒頭  神代本紀
日天狭霧国日国狭霧尊

『先代旧事本紀 現代語訳』 【安本美典 監修】【志村裕子 訳】 批評社
P.50-3行目 誤字を発見
天つ祖 天譲日天狭霧国日国狭霧の尊  譲(×)→禅(○)

「国日」 は国の祭祀か、それとも出雲の国譲りのことか。

漢字「畔」 の故事・熟語から「譲」 を導ける。 「天日」 の「譲」 の意味は「天をお譲りになる」 という意味ではなく聖徳太子の憲法十七条に通じる人のである。

聖徳太子の憲法十七条は【 譲而耕 】 の故事・熟語に基づくものである
という新説を私は出す。

有冨 字「中村」 は高天原で開闢の地である。
下関市有冨の「2組」、有冨の自治会長をしている中野さん宅の回りが皇祖神の場所である。 有冨の農家の人たちは争わず、和をもって貴しとなす。


山海経 海外東経
君子国 其の人 譲るを好みて争はず。
当初私は 君子国=天日天狭霧国禅日国狭霧尊 と考えた。

静岡県の富士山は海上からよく目立ち特徴ある山である。
山海経 海外東経 に富士山の記述はない。




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倭辺に 風吹き上げて 雲離れ

2016/05/25 01:58

有冨大年池の手前の空地(中村本家さんの旧宅跡) が倭である。
この場所から真西に富任町1丁目の海岸(安岡海水浴場 字「西浜」 ) がある。

仁徳記 吉備の黒日売
大浦 ・・・ 安岡の大浦
黒日売の「黒」 ・・・ 吉母の黒嶋にちなむ
淡道島 ・・・ 蓋井島

倭方に 西吹き上げて 雲離れ そき居りとも 吾忘れめや
  ↓
安岡海水浴場の小字「西浜」「吹上」

小字「吹上」 はJR 綾羅木駅 付近にもある。
歌が地名を踏まえて詠まれているなら綾羅木川下流も候補地になる。


水江の浦の嶼子、水江の浦嶋の子
逸文 丹後の国 筒川の嶼子 ・・・ 冨任の小字「古江」「古能地
能地 ・・・ 国語辞書で、海人の部落または漁夫 ― 白水郎
常世 ・・・ 吉母浜 または土井ヶ浜・油谷湾

辺に 風吹き上げて 雲離れ 退きをりともよ 我を忘らすな

京都府 丹後半島の話なのに(ヤマト、大和) が歌われている。
籠神社の近くに地名「難波野」 があるので、水江の浦の嶼子は難波付近の住人である。
難波はJR安岡駅あたりか。

安岡の売言葉
http://44051510.at.webry.info/201008/article_88.html

梶栗川の河口と有冨の字「中村畔」 は真西・真東の位置関係にある。
有冨の字「中村畔」 から梶栗浜遺跡は真西の方角。

風水 西は死滅、東は誕生の地とされる。

梶栗から竹生山は双峰に見え、風水から鞍部を見る角度が重要な方位となる。
竹生山から梶栗浜遺跡は冬至の日没の方角。


長門国豊浦団 五十長 凡海部 我妹
豊浦団  Wikipedia
天平10年(738年)
周防国正税帳に、「長門国豊浦団五十長凡海部我妹」 なる人物がみえる。
五十長は50人で構成される部隊「隊」 の隊長「隊正」 の別名である。


景行紀 周芳の娑
神功紀 筑紫の橿日宮 県主の祖 内避高国避高松屋種

応神紀3年11月 文庫書記A194-7
阿曇連の祖 大浜宿禰 「さばめく」 佐麼阿摩

JR 安岡駅の海岸 字「大浜」
垢田の明見田 字「大浜」

推古紀 土師連猪手 文庫書紀C94-3  来目皇子 周芳の娑に殯す。
皇極紀 土師娑婆猪手  文庫書紀C206-5、208-8
正倉院 大宝2年 戸籍 筑前国 嶋郡 川辺里 肥君猪手
万葉集2496 肥人

周防、サバ の場所はJR 安岡駅あたりか。

雄略紀の末、吉備臣尾代 娑婆水門


倭の五王と天皇陵
『あかる姫物語』  伊藤昭男 著 文芸社 2001年
P4
数年前、2人の友人と国立歴史民俗博物館に行ったときのことが思い出されます。 あの日は「銅鐸特別展」 が開催されていて、私たちは、「卑彌呼の鏡」 と説明書きされた三角縁神獣鏡を見ていました。

S教授が近づいてきます。 友人の口からいきなり質問が飛び出します。
「先生、これが卑彌呼の鏡なんですか」
「いや、これは複製ですよ」
「そうではなくて、この "景初三年銘" の鏡が卑彌呼の鏡と決まったのですか」
「そういうわけではありません。 ただそのようにいわれている、という意味ですよ」
「ならばそのように書かなければおかしいではありませんか」
「だから "卑彌呼の鏡" の文字を括弧 (「 」) で囲んであるのですよ」
私たちは唖然としました。 古代史学の世界にはそのような「暗号」 があったのか ・・・・・・。

「先生、日本中の古墳を発掘すればもっと歴史の真実がわかるのではありませんか」
「ほとんどの古墳は江戸時代に掘られていますよ」
「それでも箸墓古墳とか、いろいろ発掘すれば面白いと思いますが」
「ほとんどの古墳は宮内庁の管轄で、発掘許可は出ませんよ」
「しかし、先生のような有名な学者さんがみんな揃って政府に要求すれば実現するのではないでしょうか」
「そんなことをしたら、いろいろなものが出てきて日本の歴史が混乱してしまうから駄目です。 学問も何もなくなってしまいます」


教授の言葉に、3人は同時に虚脱感を襲われ、鉛のように重くなった足を引きずって博物館を出てきたのでした。



天皇陵の発掘が許可されないのは日本の歴史が混乱して考古学も文献史学も今まで言ってきたことがパーになるから。
本当の天皇陵は下関市有冨の山際と綾羅木の海岸にある。
水江の浦の嶼子は富任町3丁目の人である。

難波宮は安岡駅前にあったか。
小字「神田古宮」 が墨江か。 筒川=筒男

日本書紀 神武天皇 文庫書紀@242-末行
日本は浦の国 ・・・ 安岡


新宿教室 | 朝日カルチャーセンター
有富先生の古事記 講座
ttps://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/5180b502-5044-9649-fab4-5621e9049612

下関市 有任 の「冨」 の字は かんむり でなく かんむり であり、
これは古事記の「冨」 表記と同じ。

地名表記が古式の字体「冨」、真西・真東の位置関係
 ・・・ 倭
任 ・・・ 難波




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風水の道ウォーク  有冨上

2016/05/24 19:36

下関市立考古博物館 史跡の道ウォーク
とは別に 「風水の道ウォーク」 を始めたい。

倭国は下関市有冨 字「中村畔」 にあった。
有冨村の庄屋は儀万という家だった。 古くは石原、延行は有冨村の内だった。
文部科学省が仁馬山古墳 木棺の発掘調査を許可しないのは "倭の所在地" にあるため。

地域の風水を調べれば掘らずとも高みから考察できる。


綾羅木川流域の風水地名として伊倉の火ノ見山 ・・・ 神奈備山の佇まい
角川 新字源 改訂版 巻末付録 P.1294
時刻 方位・五行・四季・色の関係 二十八宿
「火」 は南
中心に「黄 土 中」
「黄」 は黄帝、黄龍
「土」 は赤土だろう。 山田史麻呂 万葉集42934294 山人

万葉集
岸の黄土
1002
932
1146
1148

常陸国風土記 久慈郡
谷会山 岸壁は、形磐石の如く、色にして陔を穿てり。
大伴村の崖 土の色はなり

「中」 は中臣で、中村本家さんの先祖か。 中村本家さんの旧宅は1960年頃までハンドウ山登り口前の空地にあったので、ハンドウ山の登り口前に風水の基点がある。 この場所は辻(交差点、天八衢) であり、道の勾(まがり、視覚的な赤土が匂う所) であり、石上振宮へ上がる時に潔身をする遠つ飛鳥である。

(論拠)
竹生寺縁起は山口県風土誌では牽強付会の偽物とされているが、常陸国風土記の筑波山の記述は下関市有冨の竹生山である。
竹生寺は蒲生野山田にあるが住所は有冨なので、竹生寺は有冨と関係深い。 竹生寺に妙見社があり北極星で北だ。 竹生寺は風水図の玄武である。 竹生寺から真南の線上に倭国の都(宮処) がある。 ハンドウ山の登り口付近、儀万さんの家あたり。

火ノ見山を南方に見る視点の場所
  白井さん家前から信号機までの道は火ノ見山の山頂を指す。
  重岡さん家前の道は火ノ見山の山頂を指す。

伊倉の火ノ見山という山名は有冨の白井さん家前の道を通っていた古(いにしえ) の人が名づけたものである。

字「金鋳ヶ谷」 万葉集989
重岡 万葉集990

奈良市にあった平城京は人口が20万人超だったとされる。
しかし万葉集の都の景色は森が深そうで縄文的な幽谷である。
有冨の平井さん家付近を平台というので、私は以前は倭国の平城京は字「谷町」 である林さん家裏の竹林だと考えていた。 近頃は平城京の「平」 は平田だと思う。 倭国の平城京は大賀さん家横の平田さん畑にあった。 根拠は畑の奥に大溝が掘られて環濠ぽいものがあり地勢が「土居」「堀内」 である。
有冨 字「金鋳ヶ谷」 の平田さん畑にあった平城京の人口は家が1軒、2軒で住人は2、3人だった。


武士の土居は小楯だ。 仁徳記 石の比売 の歌は
山代  アパート白銀荘の谷
那良  字「金鋳ヶ谷」
小楯  大賀さん家横の平田さん畑 地勢が土居、堀内
  ハンドウ山登り口、中村本家さん旧宅の空地

筒木の意味は丸太と聞いたことがある。
塚の原遺跡 朝鮮系無文土器の出土地に奴理能美の朝鮮山城があって丸太を落とす防御施設があった。

都、都城はなく宮処があっただけ。

有冨 字「中村畔」 から見て
形山の青山 「青」 は東。
万葉集の木国 「木」 は方位で東だから木国は長府か。
下関の郷土史家 前田博司さんは長府の風水図は琵琶湖の近江大津宮と似てるという。

万葉集54 調首淡海

亦打山 ・・・ 長府の逢坂峠 覚苑寺の裏山の花崗岩

紀湯 ・・・ 楠乃 字「湯出」 に温泉伝説あり


綾羅木郷遺跡 字「中屋敷」 石松さん宅 中世祭祀跡の考察
風水の方位では冬至の日没位置が重要。 この場所を冬至の日没に見える場所は有冨のハンドウ山である。 さらに推理すれば鞍部である大迫池の上に卑弥呼の宮処があった。 この付近の尾根が葛城の高宮、石上振宮の場所で仙境。

有冨の儀という家。 「万」 は天万尊で万葉集の万である。
顕宗紀 文庫書紀B112-3 歌謡 市辺宮 天万国万押磐尊

有冨の山村さん  続日本紀B369-8
薬師寺の僧華達は、俗名山村臣伎波都なり。
有冨の薬師堂跡は山村さんの家の近く、山村さんの田畑の北隣にある。
薬王寺とも書かれる。


着眼点
綾羅木川流域の風水地名 伊倉のノ見山
「火」 は方位で南を表す。
有冨の白井さん家前 火ノ見山の山頂に向かって道が伸びる。
火ノ見山という地名の視点は有冨の白井さん家前の道。




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長差丘  上和白の小字「左山」

2016/05/19 12:57

山海経 海外東経
長差丘 (嗟丘)
長差丘(サキュウ) は二神山とも呼ばれる立花山である。
立花山が峰2つの山に見える位置は新宮町の大森である。

山の上に「立花山樟原原始林」 がある。

小字を調べると上和白の字「左山」(ヤマ) が長差丘(サキュウ)、嗟丘である。
字「左山」 の場所は国道3号線 平山信号機の西側である。

上和白の小字「左山」 の場所を知るとき、参照したサイト
和白村の歴史
http://gfujino1.exblog.jp/9024084/

立花山 ・・・ 航海の目印となる山
福岡市東区 唐ノ原、上和白  「原」 はハルと読む。
新宮町

元寇時、元軍は壱岐から志賀島に上陸した。


福岡市東区 上和白の小字 左山 読み 「ヤマ」
この場所が山海経 海外東経 の最初、長丘(サキュウ) または丘である。

漢和辞典で「差」 を調べる。
差=ふぞろい。 立花山の形だ。

「差」 という字の中に「左」 がある。
長差=長+差、嗟=口+差

他に
莚内 字「左谷」(サヤ)
立花 字「左屋」「左屋ノ下」
下和白 字「唐ノ尾」

上和白の小字「左山」(ヤマ) は山海経 海外東経 の最初、長差丘または嗟丘の "地名" で決まり。


次の大人国は福津市・宗像市の海人族。




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風水の都 下関市有冨 字「中村畔」

2016/05/18 00:30

古代国家の形成
書店・図書館に数多ある古代史愛好家、歴史作家の本は
 秦の徐福の東渡、呉の孫権の遠征軍
 東海の三神山(蓬莱、方丈、瀛州)
 旧唐書の倭国・日本伝
を考察するものが多く、学者(文献、考古) が書く論文とは異なる。

孫権 Wikipeia
  230年(黄龍2年) - 将軍の衛温・諸葛直らに兵1万を率いさせ、夷州および亶州(台湾、沖縄、もしくは日本という説が存在) の探索を行わせる。
亶州には辿り着けず、夷州の数千人を得るだけで、派遣した兵の大部分を失う。
翌年、探索失敗により衛温・諸葛直らを処刑する。

  ↓
呉の鏡
熊本県 人吉盆地 免田町  才園古墳 鍍金鏡
兵庫県 宝塚市  安倉高塚古墳 画文帯神獣鏡(赤烏七年)

山梨県 市川三郷町  鳥居原狐塚古墳 赤烏元年銘鏡
https://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/401_500/0419.html

呉の大兵力が来襲して定着 → 武器が多い近畿政権の誕生 説あり
神武天皇は呉から来た → 九州南部「日向」 → 近畿政権

漢書 地理志
燕地 倭人  土井ヶ浜弥生人は燕系で沖縄へ航海
呉地 東鯷人  近畿・東海の銅鐸圏

南九州の呉地
 人吉盆地の鍍金鏡
 串間市の璧

土井ヶ浜シンポジウム
東海地域など 本州の弥生人骨の歯は中国の江南に近似する。

栗本慎一郎の古代史、世界史
騎馬民族の2都論、聖方位など興味深い。


私見
集英社 山海経 海外東経
長差丘(サキュウ)  福岡県新宮町 夜臼 立花山のクスノキ原始林
大人国  宗像海人族 福津市・宗像市

この距離間隔で行けば、青丘国は下関市の綾羅木川である。

青丘国 =倭国、邪馬台国
九尾の狐 魏志倭人伝の卑弥呼
王寿 1001歳だから不老長寿

久米歌の鯨  記紀の神武東征
常陸国風土記 久慈郡
逸文 常陸国 久慈理岳
  ↓
常陸国=大倭国
場所は下関市有冨 字「中村畔」 ・・・ 倭国の首都
(根拠) 山紫水明で山の形、川の流れに特徴あり。
有冨の庄屋だった儀万という家の真北に竹生寺があり、玄武である。
風水による首都の設計が見られる。

  ネットで中古本を購入
『風水ウォーキング 古代遺跡 謎解きの旅』  松本司 著
小学館 1999年

『風水講義』 三浦國雄 著 文春新書 2006年


少なからずの弥生遺跡が風水に基づくものであろうことは誰でも思いつきそうなことである。 当時の日本列島で漢字が読める人はいなかったのなら風水に基づく遺跡はありえない。

小字「中村」 は永田郷、吉見下、安岡、蒲生野、内日下にある。
有冨は字「中村」 で「畔」 (読みは「グロ」) の字がつく。 「畔」 は河畔、湖畔もあるが、田の区画の畔だろう。 有冨の小字「中村畔」 は穴門の山田邑、大田だ。

種子島南部 広田遺跡 貝製品に「山」 の字
漢字を知らない人が書く字は下手い。 広田遺跡の「山」 は漢字の書を読む書道家の字である。 広田遺跡の「山」 の場所は有冨の大迫池の上である。 有冨墓地にコンクリの屋根がある墓(大隅さん家の墓) があり、そこは「山門開き」 と呼ばれていた所で、ここから登る山道があったという。




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沖森卓也  吉川弘文館

2016/05/17 01:54

『日本語の誕生』 古代の文字と表記  沖森卓也 著
吉川弘文館 2003年  1,700円+税

沖森卓也の本を読むのは必修である。
日本の原始古代史に関心がある人はこの本を買って熟読玩味したい。
自分独自の古代史眼を開く人はこの本を咀嚼した上で内容中身を具体的に批判していくべきである。


『日本古代の文字と表記』 沖森卓也著 吉川弘文館 2009年
オンデマンド版 12,000円  中古本 7,000円 〜


沖森卓也
http://www.chokanji.com/magazine/interview/16/2.html


『原文 万葉集』(上)(下) 岩波文庫
ルビが付いているので自己流で読んで "暗号解読" していく。
自分なりに万葉集の漢字原文を "暗号解読" で読み込んでいれば、表記の研究をしている沖森卓也の専門書に興味が持てる。


『初期万葉論』 『後期万葉論』 白川静 著 中公文庫
漢字の学者として著名な白川静の万葉論。

沖森卓也の専門書 『日本古代の文字と表記』
巻末の索引に 白川静 はない。


私見
神功紀 文庫書紀A150-9
遂に其の国の中に入りまして、重宝の府庫を封め、図籍文書を収む。
神功紀だから応神記にある和邇吉師が論語十巻、千字文一巻を貢進より古い。
神功皇后が新羅で押収した図籍文書は吏読、俗漢文の表記だったか。


『後期万葉論』 白川静 著  中公文庫
P98   国語の表記
吏読史料の最古のものは、真興王29(568)年の「巡狩碑文」、真平王13(591)年の「慶州南山新城碑」 であることから、半島における国語表記の方法はそのころすでに成立していたとみてよい。 わが国の欽明から用明のころである。

仲哀記 新羅征討
すなはち墨江の大神の荒御魂を、国守ります神と祭り鎮めて還り渡りたまひき。
  ↓
新羅国に住吉神社がある。 博多の住吉神社か糸島の住吉神社であろう。
神功皇后が征伐した新羅は『伊都国を掘る』(柳田康雄著) の糸島だった。


『万葉集ハンドブック』 多田一臣 編  三省堂 1999年 2011年 第4刷
P138下  万葉集の表記と文字
はやく高木一之助 「人麻呂歌集の用字法と人麻呂的なものとの関連について」 (『国語と国文学』27-5) が 『柿本人麻呂歌集』 略体歌の 「恋死恋死耶」(11・2370) などの表記について、たとえば「古非之奈婆 古非毛之禰等也」 と記したのでは、ことばの正確な記録となりえても表現のもつ激しさが表現されないことに言及しているのは、表記意識を視野に入れている点でまさに表記論と呼べるものである。

『万葉集を学ぶ人のために』 中西進 編 世界思想社 1992年1月
P143末  言語と表現
北島 たとえば音仮名の場合で「孤悲」 なんていうのもそうでしょうね。 本当に恋らしい意味が出ている。

万葉集は表記の芸が細かいが、沖森卓也著 『日本語の誕生』 は万葉集の気の利いた漢字の使い方について触れていない。 文芸は意味内容やストーリーよりもまず文体表現力が重要である。 万葉集の文体表現力は漢字原文で読んでこそ味わえる。

西暦700年前後に政権が下関市 有冨 から奈良県に移ったので、
地名を好字二字にしてごまかした。

沖森卓也著 『日本語の誕生』 の内容は、埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘 「獲加多支歯」 表記で始まり、平仮名 「わかたける」 表記で終わる。 表記の「古式」 は言霊を表すので漢字の使用に際して字の成り立ちである甲骨文字を知る "教養" がなければ文や歌謡を書けない。 沖森卓也の分析は文法学であり、言霊の文体表現力を扱ってない盲点がある。

仮名は空体語である。 でも「イタイイタイ病」 という言い方は無教養な大衆の言葉であるが恐い響きがある。


沖森卓也の歴史認識は正統派・正調派である。 私は記紀・万葉は下関市有冨にあった倭国の書とみているので、沖森卓也の本とは考えがまるで異なる。

文献史学でも考古学でもない第三の証明方法、それは風水だ。
下関市伊倉の火ノ見山は吉野の象の中山に似て、まさに絵に描いたような風水の山である。
  ↓
南方は ・赤・夏
ノ見山、の山 の「火」 は方位のを表す。
どこを視点として南なのか ― 有冨上、儀万さんの家付近

火ノ見山は「日ノ見山」「日見山」 とも書かれる。
通説では、関門海峡の 火の山 は烽火に由来するといわれる。


続日本紀@131-12
方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮を作し、亀筮並に従ふ。都邑を建つべし。




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上宮聖徳法王帝説

2016/05/15 03:15

『上宮聖徳法王帝説』 東野治之 校注  岩波文庫 2013年
むつかしい本に見えるのは人名と物品の名、つまり固有名詞が厳つい字で表記されてるからである。
蛍光ペンで単語に色塗れば、とっつきにくさが消え、内容に入り込める。

注釈があって漢字にルビがつくので、学力関係ナシで読める。

岩波文庫 日本書紀 の訓読文を読んでる人は薄い文庫本なので5時間で読める。
昼3時から読み始めれば夜9時には読み終える。
しかし内容が濃いので、私は腰を据えてじっくり3、4日かけて読んだ。

上宮聖徳法王帝説は文献の学者や歴史作家がよく引用するので必読である。


『上宮聖徳法王帝説 注釈と研究』  吉川弘文館 2005年
沖森卓也、佐藤信、矢嶋泉 著

沖森卓也は上宮聖徳法王帝説の表記に対して疑問を持っており、慎重な扱いが必要だとする。




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綾羅木郷遺跡 字「中屋敷」

2016/05/14 18:41

「宝前」 (ホウゼン) を国語辞典で引けば「神仏の御前、広前」 とある。
綾羅木郷の字「宝前」 の神仏は何か不明である。

字「宝前」 の北隣の小字は「中屋敷」
字「中屋敷」 中世・近世の祭祀跡

有冨のハンドウ山 山頂  中世の祭祀跡
  ↓
専徳寺
  ↓
了元寺
  ↓
綾羅木郷 字「中屋敷」 の石松さん宅 中世の祭祀跡

有冨ハンドウ山の山頂 真西より30度南、冬至の夕日が沈む方角に
専徳寺、了元寺、綾羅木郷の石松さん宅 が一直線上に並ぶ。

石松さん宅から夏至に朝日が昇る方角は有冨のハンドウ山 山頂
である。

鎌倉時代以降の中世であるが、冬至の夕日、夏至の朝日 の方角から
有冨 ハンドウ山の山頂祭祀遺跡と綾羅木郷 字「中屋敷」 祭祀遺跡は関係する。

私は有冨のハンドウ山を、綾羅木郷 字「中屋敷」 を日下(くさか) と見る。
日臣(道臣) はハンドウ山の登り道である。
青雲の白肩津は綾羅木郷の字「宝前」。 ここが楯津で登美の那賀須泥毘古
がいた場所だから字「屋敷」 なのだろう。

以上は正確に測量したわけではない。
風水都市の山梨県甲府市と下関市有冨は地勢が似ており、甲府を参考にして
綾羅木川流域のパワースポットを推理
すれば、
有冨墓地の東上〜大迫池の上が祭祀の上で重大な神殿があった所と考えられる。 ハンドウ山の頂から200〜300 m 北に位置する場所だ。 この場所を私は ハンドウ山の「奥の院」 と呼ぶ。


山口県立図書館内の 文書館
地下上申絵図 有冨村地下図
ふせぎが谷 ・・・ 薬師池の上  四神相応の玄武か
大谷 ・・・ 有冨墓地  逸文 常陸国 大谷の村  
かく石峠 ・・・ 有冨墓地の東  

小学館 風土記  新編日本古典文学全集 5
P460
大谷の村 
(常陸国記に云ふ)
大谷の村の大きなるを採りて、本つ材は鼓を造り末つ材は瑟 −俗人、比佐頭と云ふ。− を造る。
(と云へり)
   ↓
神武天皇 文庫書紀@242-8
其地を号けて、上小野の原・下小野の原と曰ふ。
用て皇祖天神を祭りたまふ。


皇祖天神には榛がある。


かく石峠
天の迦久の神、香具山、かぐや姫


有冨墓地の東上、大迫池の上を大迫山と呼ぶことにすれば、
卑弥呼の宮は大迫山にある。




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有冨下

2016/05/14 16:12

有冨上  県道 長安線 の北側をいう 
有冨下  同  道の南側 

長安線 (県道247号) は大正12年にできた道である。


平成25年4月 下関市立考古博物館 第1回 考古よもやま話
配布資料 『下関の遺跡 アフター → ビフォー』
塚の原遺跡  ホームワイドの上 西側の丘
流木 万葉集1385 弓削河原の埋木
石敷の道路 万葉集423 石村の道

万葉集420 題詞 丹生王

『塚の原遺跡』 発掘調査報告書
2003年 P18 L字状石杵 朱の精製 ・・・ 丹生
2007年 P21 鉄鏃の先端部、鍛冶 ・・・ 弓削


『 川中風土記 』  昭和45年
P23
下有富石棺  秋本さん墓地
有富村字市ヶ原にあり、すでに破壊され、石材に朱塗のあとが鮮明に残存しているが、墳墓の全容を知る由もない。 土地の人達について事情を調査してみると、約30年くらい前に発掘され、そのとき曲玉など多くの出土品があったと伝えられている。 石組みもすでに解かれているが、石棺の原位置はほとんど移動していないらしく、専徳寺前の田の一隅にある、雑木林の中に積まれたままになっている。


随福寺薬師堂  山口県風土誌 有冨村 字「中村畔」
有冨の旧公会堂があった場所の北側か。 白井さんの畑。
字「前ノ田」 は江戸時代末では字「中村畔」 に入っており、随福寺薬師堂とは
この場所にあった地蔵堂であろう。



考古学関係者の見解
北九州市芸術文化振興財団 埋蔵文化財調査室
城野の重留遺跡のスライドを使って小倉南区に「クニ」 があったと説明する。
北九州市埋蔵文化財センターは鼻息が荒い。

下関市立考古博物館  史跡の道ウォーク 
学芸員の澤下先生が川北神社で参加者たちを前にして説明する。
「(綾羅木川流域には) クニのまとまりはありません!  は、は、は、は 」




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風水 有冨上 

2016/05/13 02:19

邪馬台国=倭国=記紀・万葉の都 は下関市有冨上である。
字「金鋳ヶ谷」 ・・・ 纏向
字「中村畔」 ・・・ 飛鳥

明日香という表記 明日=朝 か

有冨の庄屋は儀万という家だったので儀万さんの家が中心地である。
また儀万さんが所有する「儀万の池」 は神聖な場所であろう。


風水による都市設計
九州王朝説 Wikipedia
大宰府(倭京618年〜695年) は九州王朝の首都であり、日本最古の風水の四神相応を考慮した計画都市である。
ヤマト王権唯一の日本式風水(陰陽道)都市である平安京(794年)よりも130年〜176年以上も早い。



Google 画像検索  【 風水図 都市計画 】 など

風水で都市計画(1)甲府市
http://husf.blog47.fc2.com/blog-entry-87.html

「方位信仰と平安京」 相模国一之宮・寒川神社蔵
https://www.youtube.com/watch?v=wgjD4bkXemI

弘前城 四神相応の地
https://www.youtube.com/watch?v=ISAHAXdkqJI
弘前城の鬼門・裏鬼門
https://www.youtube.com/watch?v=k7MyXm9IJ6Y

平安京の四神相応を考える
ameblo.jp/kazue-fujiwara/entry-10284440744.html

《風水都市 江戸》鬼門・裏鬼門
ttp://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_a4f8.htmll

風水による都市設計をした町をネットで検索したら
 大宰府
 平安京
 甲府(武田信玄)
が挙げられる。

下関市有冨上 は甲府市と地勢が似ている。

有冨上=大倭=常陸国 である。
常陸国風土記の各郡の配置は四神相応である。

南の「朱雀の池」 は 文庫書紀@206-10 茅渟の山城(やまき)水門
綾羅木川と砂子多川の合流点、有冨側土手の小字「山木」。 家庭菜園畑。

形山の青山 「青」 は東
万葉集の白水郎 「白」 は西

万葉集の虎 3833
「虎」 は西方白虎、「古屋」は古屋町、「青淵」「鮫竜」 は垢田の崖海岸


有冨の風水設計
竹生観音の真南が儀万さんの家あたりだから、竹生観音が玄武だ。
大迫池の上がパワースポットである。

鬼門 ・・・ 大迫池の東北側尾根。 または有冨墓地の上(火葬場があった)
裏鬼門 ・・・ 専徳寺。 または河内さん宅 東側の墓地


私のよもやま話
神武東征 久米歌 「宇陀の高城」 は有冨 大迫池の上にあった。
古事記の安万侶は迫池に住んでいた。


風水 論客
昨夜、私は「邪馬台国発見の方法」 として風水を "思いついた"。
でも私より前に Wikipedia 九州王朝 大宰府説 が風水を論拠としていた。

風水による邪馬台国の位置
九州王朝 大宰府説 Wikipedia
私は下関市有冨上。 とくに大迫池の上に卑弥呼の邪馬台国があったとする。


下関市立考古博物館
研究紀要 第20号 2016年3月31日
開館20周年記念シンポジウム
  ↓
綾羅木川流域を風水で見る視点に欠ける。
有冨の地勢は武田信玄が風水で都市設計した甲府市に似ている。




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九州王朝の論理  明石書店 2000年

2016/05/10 12:23

『九州王朝の論理』 「日出ずる処の天子」 の地  明石書店 2000年
古田武彦、福永晋三、古賀達也 【著】

ネットのアマゾンで「中古品 良い」 を購入した。

古田武彦の着眼点、問題提起の箇所、古田史学の会 の研究熱心さは "買い" だ。 私は古田武彦説には同調しないが、その著書を読めば多大なるアイデア・ヒントを授けてくれて自説の糧とできる。 古田武彦の本は御馳走である。


本の中の美味しいトコロをいただく。

P11-10行目
田井
万葉集4260
大君はにしませば赤駒のはらばふ田井を都となしつ
下関市有冨上 字「中村畔」 には中村という農家が3軒ある。本家と分家2軒だ。
中村本家さんが60年前に家を建てた時に貝塚が出たという。
この貝塚は常陸国風土記 那賀郡 大櫛之岡 に記述された巨人伝説の地である。
常陸国風土記の正体は大倭国風土記である。 大倭は有冨上である。

天武天皇は(=巨人伝説がある貝塚) の場所を飛鳥浄御原宮とした。
田井は中村本家さんの家横にある小さい池(3 m×10 m) である。


常陸国風土記 筑波の郡
福慈岳が形山の青山で、筑波岳が有冨の竹生山
筑波岳の東峰の磐石は石原の砕石場、泉は竹生観音にある。

常陸国 那賀郡=登美の那賀須泥毘古

奈良県明日香村 ・・・ 下関市有冨上 字「中村畔」 のコピー
平田梅山古墳 敏達未完陵 檜隈陵
岩屋山古墳
  ↓
下関市有冨上 字「中村畔」 の平田さん宅、岩谷さん宅に対応
平田さん宅は常陸国風土記 那賀郡 津の駅家 の場所でもある。
参照 『天皇陵』 洋泉社 P97 作図 岸本直文(高橋照彦説による)

天平田 文庫書紀@82-11

万葉集
990 題詞
跡見 茂岡 → 有冨上 重岡さん宅
988 の市原王は有冨の字「市ヶ原」

という家は有冨の庄屋だった。
P90-後ろから4行目
○詔曰、朕、九州君臨、字養姓、〜 続日本紀 聖武天皇 天平3年条


P23
郷樹扶桑外
主人孤島中

扶桑
扶桑は下関市にあり船越峠か、または吉母 字「安常」


孤島中
関西の大和朝廷 中小路駿逸が正しい。 

長門市油谷 向津具 も候補地である。
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。
  ↓
帯方郡の場所を韓国のソウルとすれば、
その "東南の大海" は長門国豊浦郡のリアス式海岸である。
「山島」 は原始古代は半島だった下関市綾羅木郷遺跡の考古博物館付近か。
福岡県糸島や内陸部の太宰府市ではないので古田武彦説は的外れだ。
安本美典の 「高天原=筑後川・甘木説」 も「帯方の東南」 の方角に位置しない。

長門市油谷 蔵小田 渡場
万葉集359
阿倍乃嶋 宇乃住石尓 依浪 間無比来 日本師所念
  ↓
蔵小田の安倍後援会連絡所から歩いて10分の掛淵川沿い。
小字「鵜ノ石」  柿本人麻呂の歌が伝わり歌の石碑が立つ。

『油谷町の歴史いろはがるた』  P39
柿本人麻呂
向津の おくの入江の ささ波に 海苔かくあまの 袖はぬれつつ
宗祇
むかふ津の のりかく海士の袖にまた 思わすぬらす わが旅衣


詩賦の興、大津より始れり。  文庫書紀D236-5 持統天皇 称制前紀
の大津は長門市油谷 蔵小田の「鵜の石」 柿本人麻呂の歌碑の場所である。
この場所で柿本人麻呂が歌を作ったという証拠はないが、宗祇も歌を詠んでいるので室町時代末期には蔵小田に柿本人麻呂伝説があった。


P61 脚注(6) 斉明4年(654) 夏4月 安陪臣
倭国(下関市有冨上、吉見下) の越国は長門市油谷・向津具半島
  ↓
万葉集366 日本島根 ・・・ 向津具半島である



P59-11行目
下関の前田博司さん
『ふるさと散歩みち』 下関市川中地区まちづくり協議会 平成7年
の編集委員


P60-7行目
太宰府在住の内倉さん
著書 『謎の巨大氏族・紀氏』 三一書房 1994年
P32 紀氏は周王朝の子孫?

私見では
東海氏=山海経 海外東経 の青丘国 九尾の狐
=常陸国風土記の我
=魏志倭人伝の女王
=続日本紀の大歳池上女王

=隋書倭国伝
=下関市有冨上 儀万の池と貝塚が万葉集4260 の「田井」

中村本家さんの便所の場所にあった貝塚は
天地開闢の始まり 葦牙 天御中主尊 の場所で "神"

古事記 祝詞
「山の口に坐す皇神等」 の場所は有冨上の字「中村畔」=遠つ飛鳥
「山の口」 とはハンドウ山の登り口。 私見では「大口の真神原」 と同じ。



今、読んでおきたい本
『天皇が十九人いた』 保阪正康 著 角川文庫 平成13年
P374-後ろから3行目
南朝正統論が公然と表面化することによって、天皇の「万世一系」 という神話にも空間ができあがった。 私はこの空間を天皇制のエアポケットだと思うのだが、このエアポケットに生まれたのが熊沢天皇騒動だったと思う。 現実に、日本の天皇制はこのエアポケットに生まれた「亜種」(あえて言えばということになるが) に手を焼いたというのが事実であろう。




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邪馬台国は、銅鐸王国へ東遷した  安本美典 著

2016/05/06 02:31

『邪馬台国は、銅鐸王国へ東遷した』  安本美典 著 勉誠出版

P129 表18
灘(×) → 儺(○)

那 宣化紀 文庫書紀B230-1
娜 斉明紀 文庫書紀C368-3
吉川弘文館の「日本書紀索引」 は必需品である。
漢字表記は本質なので、漢和辞典で「儺」「那」「娜」 を調べる。

宇濔(×) → 宇瀰(○)

末羅国(×) → 末盧国(○)

対馬国
どの本も「対馬国」 とするが、
いき一郎 編訳 『中国正史の古代日本記録』 葦書房 P63
は「対海国が正しい」 とする。

播磨国風土記 美嚢郡  「山投」 は「大和」 ではない。

P148-1行目
「倭の大神    の脱字

この本で重要なのは P171〜178
新井宏氏提出の仮説 燕
だろう。


山口市 阿東徳佐中 宮ヶ久保遺跡 木製の小さい銅鐸模型が出土している。
http://44051510.at.webry.info/201009/article_23.html

先代旧事本紀で興味深いのは 巻第一 の「日向の橘の小戸橿原」。
同じ箇所で 甲斐弁羅神は「交う」 でなくて道具の貝ベラ、海の岩場か。
甲斐弁羅から甲羅を連想する。

吉備=岡山県、紀伊=和歌山県、丹後=丹後半島 など
私は和名抄の国名で記紀・万葉を分析しては最初から見誤ると考える。

当てずっぽうで10年、言ってることが 1,000,000 回 間違って1回当たる。
「発見」 の方法論はこれだ!  10年がんばれば弾が的にかすることもある。

邪馬台国の山師になるには10年かかる。
毎年10万円遣って10年続ければ邪馬台国の鉱脈が見つかる。

漢字の表記は重要なので、できるだけ原文の漢字そのままにあたり、まめに漢和辞典をひくべき。 「漢字は音のみ、甲類と乙類」 「表記の字を複雑にしただけ」 という国語学は頓珍漢だ。

私は安本美典の邪馬台国論には全く共感できない。
しかし安本美典は邪馬台国探究歴60年の大御所なので、その本を買って読めばアイデア、ヒントなど得られるもの多大である。 勉強になりました!




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本当の「中央」 の位置

2016/05/03 23:52

古代の「中央」 は奈良県・大阪府とされる。
私見では下関市有冨上の字「中村畔」 が「まほろば」 の地である。
とくにハンドウ山の登り口あたり。

魏志倭人伝 女王国
常陸国風土記 我妻
山海経 海外東経 青丘国 九尾の狐
日本書紀 斉明紀 大津
は同じ場所であり、下関市有冨だ。

『ふるさと散歩みち』 
P142下 有冨の小字に 龍(畜犬)王田 ・・・ 犬養部か

犬養部  Wikipedia
  安閑天皇の居地であると『日本書紀』 が伝える勾金橋宮の故地に「犬貝」 の地名が現存している ・・・


下関市有冨上 「儀万の池」 = 常陸国風土記 那賀郡 大櫛之岡 貝塚
日本書紀は唐の役人に読ませる目的で編集されているので漢字は教養である。
日本書紀の冒頭に 譬へば浮の猶く漂蕩へり の「膏」 の字は隋書俀国伝の「腴」 であり、常陸国風土記にも「腴」 とある。

常陸国風土記 那賀郡 大櫛之岡 貝塚は有冨の字「中村畔」 にある中村本家さんの便所の場所である。 数十年前に家を建てた時、地下から貝塚が出たという。 日本書紀冒頭の書き出し、国常立尊、可美葦牙彦舅尊は「儀万の池」 のへりに住んでいた神である。 日本の最初の神様は「儀万の池」 から葦牙の如く生まれた。

夏至の朝、「儀万の池」 に立てばハンドウ山の頂から朝日が昇る。
万葉集 厚見王の「厚」 は夏至の朝日を見る位置の人だ。

貝塚があったという中村本家さんの便所の場所には小さい五輪塔が20基ばかり固まって集中的に転がっていた。 「青山くずれ」 と伝えられるが私は「邪馬台国くずれ」 の墓地だと思う。

どこにあったか場所は不明だが、有冨上には天御中主尊神社があった。
明治末に綾羅木の川北神社に合祀された。


万葉集
158
「儀」 は儀万さんの家
「白」 は白井さんの山にある石組みの湧水

159
神岳はハンドウ山の登り口あたり


160  福路の「福」 は徐福か。 有冨墓地の上にあった火葬場か。
161  向南山は竹生寺である。 青雲
ハンドウ山の登り口が古代の「中央」 であり、この場所の真北に竹生寺がある。
2万5千分の1 地図で竹生寺の真南を測る。

竹生寺の山号は高山である。

「雲」 は竹生山にかかる雲
「星」 は天皇を示す北極星で、竹生寺にある妙見社
「月」 は何かまだわからない。

竹生寺の「冬至の夕日」 の方角(東西線から30度南) に梶栗浜遺跡がある。
竹生寺から冬至の日没を見て梶栗浜の埋葬場所が決められた。
竹生寺は弥生時代前期末に既に聖地だった。

青雲は神武東征の「青雲の白方の津」 と関係する。
白は西だから「青雲の白方の津」 とは「竹生寺の西方の津」の意味であり、
梶栗浜遺跡である。梶栗浜遺跡は河内国草香邑だ。

いや、竹生寺の真西は荒波押し寄せる横野町2丁目である。
横野・安岡港が「青雲の白方の津」 だろうか。
村アノ鼻は難波!?

万葉集の「青雲」
3519
3883
3329
161


江戸時代まで綾羅木川は石津川と呼ばれていた。
大阪府堺市に石津川が流れる。

安岡と冨任の境の海岸を「石津浜」 という。
防長地下上申 第3巻  安岡村 P320上
但北福江村境牛岩麓より南ハ冨任境石津浜
この付近の遺跡
安岡駅構内遺跡(祭祀製塩跡、奈良時代か)
神田遺跡・潮待貝塚

古い道は下関工業高校、園芸センターを通るお化けが出そうな山道だった。
竜田はピンピン山か。

ピンピン山
http://44051510.at.webry.info/201110/article_144.html

園芸センターの小丘は記紀の竜田ではない。 万葉集567周防の磐国山だろうか。 園芸センターには磐国と形容される岩はない。でも大伴宿祢胡麻呂は園芸センターの北隣の小字「胡麻田」 にちなむと言える。

筑前、沙麼・娑婆は安岡海岸。
土師娑婆連猪手(文庫書紀C206-5) は安岡駅構内遺跡の祭祀跡。



平城宮から出土した木簡
「 周防国吉敷郡神埼郷戸主阿曇五百万呂 同部 」
「 □麻呂進上調塩一斗 天平十七年九月八日 」   745年
阿曇の一族が秋穂二島の幸崎にいて、製塩漁労の業に携わっていた。
秋穂町史 P129  ※ 秋穂町は2005年に山口市と合併

私見
周防国は下関市富任町の工業高校あたり。
阿曇五百万呂は安岡駅構内遺跡の者である。




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旧唐書・新唐書 と 好太王碑の倭

2016/04/26 12:07

邪馬台国は東遷したか 1994年 三一書房
P108-3行目  谷川健一
『旧唐書』 は倭国が日本という国号を冒したと述べている。 さらに日本はもと小国であったが倭国を併合した、と記している。 これに対して『新唐書』 の「日本伝」 には倭国が日本国を併合した、と正反対の記事になっている。 これは中国の役人が遣唐使の言を聞いて『旧唐書』 を訂正したと考えられるから、『新唐書』 に拠るべきである。
倭国が日本国を併合したという『新唐書』 の記述は倭奴国の流れを汲む邪馬台国が日本(ひのもと)国の支配者であった物部氏を打倒したという歴史的事実にも叶う。 ということで、九州島から倭の大乱の頃に物部氏の勢力が東遷し、弥生時代の終末期に邪馬台国の東遷があったと考えている。


安本美典は最近(4月4日) 勉誠出版から 『邪馬台国は、銅鐸王国へ東遷した』 という本を出した。

同 P124
福岡県久留米の『高良山日記』 に「降人百済氏」 とあり、執筆者(荒木博之) は疑問を呈しているが私には久留米の高良に百済国があったのかと思ってその箇所を読んだ。
筑後川流域で百済系土器が出た場所
太刀洗町本郷の西 稲数 森田遺跡 (弥生後期〜古墳前期)

同 P147-7行目
将軍 于道朱君 ・・・ 熊本県宇土半島の阿蘇ピンク石の者か

同 P172-5行目 奥野正男
三角縁神獣鏡 笠松型模様は有冨の竜王社(ハンドウ山の頂) にあった松林か

私見
神功記 新羅は糸島か。 百済は「渡の屯倉」 とあるが福津市 渡か。

神功紀 文庫書紀A170-3
蹈鞴津は春日市の須玖・岡本、早羅城は福岡市早良区か。



「日本」国はいつできたか 改訂版
大和岩雄 著 大和書房 1996年
P174〜210
小国日本が倭国を併合したとなぜ『旧唐書』 は書いたのか

大和岩雄も谷川健一と似たり寄ったりの考えである。


古田武彦に影響された人たちは西暦700年前後まで九州に倭国が存続していたと考えている。 私は倭国(邪馬台国) は九州ではなく下関市有冨上・吉見下にあったと考えており、関西への東遷はなかったと見る。
近江国大津宮は土井ヶ浜または油谷町の蔵小田にあった。

古田武彦は好太王碑に書かれた倭は九州王朝という。
『好太王碑論争の解明』 藤田友治 著  新泉社 1986年  の P.169


岩波文庫 『新訂 旧唐書倭国日本伝 等』 2013年 第50刷
P38-末行、P39 白亀元年の調の布
私見
「白亀」 という年号は不明であり、「白雉」「白鳳」 に似て大倭風の言葉である。
日本書紀・続日本紀は年代等が工作されてると見て、日本国から来た粟田真人は大友皇子ではないか?

続日本紀 白亀はたびたび献上されている。
  続日本紀@29-11 長門国
  続日本紀A135-12 平城京の左京
  続日本紀A165-8 大倭国



韓国の古代史認識
かつて韓国は東アジアの支配者で、日本は百済と新羅が作った。

『ゆがめられた地球文明の歴史』 栗本慎一郎 著 技術評論社 2012年
P237-末行
日本皇室は高麗の皇室も自らその祖と仰ぐ扶余と関係がある可能性がある。

『栗本慎一郎の全世界史』 栗本慎一郎 著 技術評論社 2013年
P8-3行目
北満州は蘇我氏の故郷
P168-12行目
物部氏は蘇我氏と同じく東北地方から日本に入った。
P198-9行目
聖徳太子が異常にコマ(高句麗) との関係を重視していた

栗本慎一郎は韓国側の古代史認識と共通する考えであり、むしろ我が日本側が嘘八百の歴史と見る。 物部氏が東北地方から日本に入ったという説には共感できないので、半信半疑で読めばよい。

旧唐書(倭国・日本) と好太王碑 碑文の「倭」 とは何かを考察する必要がある。

『好太王碑論争の解明』 藤田友治 著 新泉社 1986年
倭以辛卯年来渡海百済□□□羅 の解釈
藤田友治の見解 P.323

岡田英弘 の見解
『日本史の誕生』 弓立社 1994年 2001年 第5刷
P.150上
二字の欠字は、石の割れ目の部分に当たり、ここに文字があったわけではない。

渡海 ・・・ 朝鮮と日本の間の海を渡る
東海 ・・・ 長安から同緯度を東に進んだ海で響灘である(私見)
私は「渡海」「東海」 は古代中国史書にある意味と見る。
私は岡田英弘などの通説に賛成し、藤田友治説を斥ける。

『現代語訳 魏志倭人伝』 松尾 光著 新人物文庫 2014年
には旧唐書、高句麗広開土王碑文 も収録されている。

私見
聖徳太子は下関倭国の者であり、聖徳太子は高句麗との関係を重視した。
高句麗の次の王朝が渤海国である。
続日本紀は渤海国と親交があるので、続日本紀は下関倭国の歴史書である。

古田武彦や藤田友治は好太王碑 碑文の「倭」 は九州王朝と見る。
私は高句麗が対決した「倭」 は「宋書の倭国」 で関西の王朝だったと見る。

倭の五王は関西の王朝。
旧唐書の倭国(記紀・万葉、まほろば) は下関にあった。

全釈漢文大系 第33巻 『山海経・列仙伝』
前野直彬 著 集英社 昭和50年

重要な比定は魏志倭人伝の国々よりも山海経 海外東経 の国々である。
倭国は下関にあった。
(根拠)
長差丘  新宮町夜臼から眺めて双峰の立花山、クスノキ原始林
大人国  宗像海人族
この間隔で進んで
  ↓
奢比の尸  飯塚市立岩? 芦屋町の山鹿貝塚? 
君子国  岡垣町の汐入川? 洞海湾?

虫虫  小倉南区蒲生の虹山

朝陽の谷、天呉  関門海峡
地名 馬島の字「天志」、彦島の天郷・天川
小倉南区城野 重住 重留遺跡 も考えられる。

青丘国  下関市有冨上  ※ 形山の青山ではない。
青丘国の王寿は不老長寿
九尾の狐は常陸国の我姫、魏志倭人伝の女王国

常陸国風土記は大倭国風土記であり、下関市綾羅木川の北側

黒歯  下関市吉見下 船越

黒歯は油谷湾も考えられる。
黒歯はコシで高志、越国で向津具半島
土井ヶ浜弥生人は南方の沖縄まで貝の道を通っていたので黒歯。
沖縄県読谷村 高志保 ・・・ 遺跡あり

雨師妾 亀 ・・・ 浦島太郎の亀姫に通じる




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九州王朝 はなかった

2016/04/22 22:40

下関市豊浦町 室津
文庫書紀@104-3
其の後に、少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世国に適しぬ。
亦曰はく、淡嶋に至りて、茎に縁りしかば、弾かれ渡りまして常世国に至りましきといふ。


御碕 ・・・ 吉母の御崎。 昔は吉母は豊浦町室津に属していた。
淡嶋 ・・・ 蓋井島か
常世郷 ・・・ 土井ヶ浜遺跡の九州西北型弥生人骨

魏志倭人伝の末盧国は元(モンゴル) の使者が来た室津である。
魏・帯方郡の使者は本州最西端の毘沙ノ鼻下に上陸した。

本州の最西端 毘沙ノ鼻駐車場にある吉母解説看板によれば、
神功皇后は帰朝の折、毘沙ノ鼻に近い畳石から上陸した。

隋書俀国伝の竹斯国は壱岐から元軍が上陸した志賀島である。
山海経 海外東経 の長差丘は夜臼で、立花山のクスノキ原生林。
山海経 海外東経 の大人国=秦王国 は宗像海人族
壱岐の「一大国」 は宗像海人族 「大人国」 と関係するか。

山海経 海外東経 の青丘国は下関市有冨上。 青山の形山ではない。
野馬台詩 青丘与赤土

『野馬台詩』 の謎 小峯和明 著 岩波書店
P14-4行目
戦乱によって、青々とした丘陵と赤土に覆われた大地もむなしく空に帰し、世界は崩壊する。 すべては無に帰して世は終焉を迎える。 


波高
風土記584上 阿波の国 波高
文庫風土記下 P351

彦島西山町の小字「波高」
高潮が襲った梶栗浜遺跡

古事記 沫那芸神・沫那美神は梶栗浜

万葉集1235
浪高 ・・・ 浪花か
梶 ・・・ 梶栗
竹嶋 ・・・ 陸繋島だった綾羅木郷、または綾羅木駅近くの高山遺跡

阿波国は梶栗か
粟門は梶栗か


湯原王  万葉集
神浅茅原 ・・・ 菟田の血原
真神原


熊野の神邑

名草
名草戸畔 文庫書紀@208-3

椎根津彦に蓑笠を着せて老父の貌に為る。 文庫書紀@218-11

厳呪詛 文庫書紀@218-4


事西
文庫書紀@236-7 西を征ちたまふ


皇祖神
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou97/kai09706.html
三六代孝徳帝。帝はその白雉改元の詔で “我親神祖之所知穴戸國” と述べ賜わっている。

孝徳紀の白雉
穴戸国司 草壁連醜経
今我が親神祖の知らす、穴戸国 = 万葉集1133 皇祖神之 神宮人

乳白色の石英がある鳥見山の白庭=葛城山の仙人、蓬莱山、秋津洲
内木綿の真迮き国と雖も、猶し蜻蛉の臀呫の如くあるかな


万葉集 皇祖・皇神祖
4094
4111
322
4205

443
綾羅木浜の松林は死んだ人や牛馬の火葬場だった。
丈部麻呂 ・・・ 有冨王山(ハンドウ山) にちなむ名前
大伴宿祢三 ・・・ 有冨 字「村畔」 にちなむ名前
有冨竜王山(ハンドウ山) は雨乞神事の山で、昔は住吉神社の神官を招いてお祓いをやり、村人たちが綾羅木の海岸に行って汐汲み(お水取り) の神事をやっていた。 綾羅木の海岸と縁がある山である。

1133
2508
1047



下関市内で小字「中村」 は永田、吉見、安岡、有冨など多くの集落にある。 「中」 がつく地名は豊浦町川棚の中ノ浜遺跡もある。
長い間、いろいろ思案してみて、
天御主尊、大伴宿祢三大兄皇子の「中」 は有冨の字「中村畔」 である。
大富道尊は有年池、迫池。 任の梶栗や小倉の野ではない。

古代物部氏と『先代旧事本紀』 の謎  勉誠出版
安本美典 著 平成21年
P.162-末行
  「登美」 は、豊前の国企救郡足立村富野、現在の、福岡県北九州市小倉北区富野とする説が有力である (福岡県築上郡吉富町とする説もある)。

安本美典など大勢の論者が鳥見の長髄彦は北九州市小倉北区富野から奈良県大和に来たと言っている。
私見では、遠賀川流域、北九州市域、豊前国は記紀・万葉とは関係ない。

P.22 系図 1 津守氏系図
上命、天上命 は小倉南区貫かと、この本を買って読んだ時は思った。 しかしその後、下関市川中〜長門市西側 の山陰沿岸が倭国だと確信する。


九州王朝はなかった
成人を入れる大型甕棺は特徴が大きい。 記紀には甕棺の記述がない。
甕棺地帯は邪馬台国の場所ではない。

記紀には銅鐸の記述がない。 弥生時代の銅鐸文化圏である近畿、東海、出雲、四国東部などは記紀の場所ではない。

邪馬台国には九州説と畿内説がある。 私見では記紀は邪馬台国(倭国) の歴史書である。 甕棺の九州も、銅鐸の畿内も、記紀で書かれた神代(弥生時代) の場所ではない。

遠賀川流域は新羅系である。 記紀は新羅系の人たちではない。

角川日本地名大辞典
別巻1 日本地名資料集成 1990年
古代官道の地図(森田悌作図) P.126〜128
によれば、古代官道が通ってない海岸部地域は
山口県西部の山陰側  下関市安岡、長門市の西側
長崎県  平戸市、佐世保市、長崎市
鹿児島県  薩摩半島、大隅半島


講談社学術文庫 倭国伝
朝鮮各国の首都の東南に倭国がある。
筑後川、佐賀県、熊本県などは「朝鮮各国の首都の東南方向」 から外れる。

後漢書 倭
倭は、の東南大海の中に在り。   福岡市東区 立花山 〜 関門海峡

三国志 倭人
倭人は、帯方〔郡〕 の東南、大海の中に在り、  長門市あたり
帯方郡の首都をソウルとする  

宋書 倭国
倭国は高〔句〕驪の東南の大海中に在り、 〜 倭の五王   出雲 〜 京都 あたり
私見 倭の五王は畿内の大和朝廷か。

隋書 倭国
倭国は、百済・新羅の東南、水陸3千里〔のところ〕 に在り   下関市あたり

旧唐書 倭国
倭国は・・・ 新羅の東南、大海の中に在り   長門市あたり


古代中国正史の倭は福岡県新宮町 夜臼・立花山 〜 山口県長門市 であり、
この領域に山海経 海外東経 の国々がある。

例外
宋書の倭国は高句麗 好太王碑 碑文 の「倭」 であり、銅鐸文化圏(出雲・岡山・四国東部・大阪・奈良・東海) の勢力である。

中国の「東海」「海外東経」 は長安から真東(同緯度) に進んだ所である。
その場所は長門国 豊浦沿岸 である。




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竜王山

2016/04/20 15:13

下関市
吉見 竜王山 ・・・ 龍王神社の乳母乎嶽
有冨 竜王山 ・・・ ハンドウ山
一の宮 龍王山 ・・・ JR 新下関駅前、住吉神社の裏山

山陽小野田市
竜王山 ・・・瀬戸内海に臨む半島、展望台の公園


奈良県、大阪府
竜王山 奈良県五條市西吉野町にある標高618.8 m の山

竜王山 奈良県天理市/桜井市にある標高586 m の山
      山頂に十市氏の居城竜王山城がある。

竜王山 大阪府豊能郡能勢町長谷にある標高570 m の山


山辺の道から竜王山へ
http://www.okozyo.sakura.ne.jp/houkoku/h2013/h854/h854.html
竜王山(奈良県) 585.7 m
http://imagefo.tea-nifty.com/blog/2012/02/post-c0a9.html


私見
邪馬台国(倭国、記紀・万葉の国) の場所は下関市有冨 字「中村畔」

本当の「山辺の道」 は
下関市の有冨古墳〜大年池〜大迫池〜薬師池〜竹生観音下 である。

奈良県天理市/桜井市の竜王山は下関市 有冨の竜王山(ハンドウ山)
のコピーである。

奈良県天理市/桜井市の竜王山=下関市 有冨の竜王山(ハンドウ山)

※ 竜王山は龍王山とも書かれる。


天皇陵
天皇陵については藤田友治の著作を読んでおきたい。

三一新書
『天皇陵を発掘せよ』 1993年
P247-8行目
高松塚古墳の壁画の女子人物画は、その服装が朝鮮の平安北道竜岡郡の土塚<雙楹塚>の壁画に描かれていた女人のものに酷似
  ↓
高句麗系絵師の作品説

私見 記紀には銅鐸の記述がないので、弥生時代の銅鐸文化圏である近畿、島根県出雲、徳島県などは記紀の場所ではない。

『続・天皇陵を発掘せよ』 1995年
P277-9行目 見瀬丸山古墳の調査 徳田誠志

『古代天皇陵をめぐる』 古代天皇陵ガイドブック  1997年
私見 崇神天皇陵は古事記によれば山辺の道の「匂」 (曲がり) にあり、
「匂」 は「にほふ」 でもあるので視覚的に映える赤土の岡を表す。
野馬台詩 赤土 である。


『天皇陵』 洋泉社編集部 編 2016年1月
P86 今城塚古墳の前方部 剣菱型は地滑りによる変形
P117-9行目
「厚葬してはならない」 という遺言と多大な労力が費やされている植山古墳の存在とでは矛盾するのではないか


『天皇陵の真相』
住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 共著  三一新書 1994年

P171-11行
天明天皇(×) → 元明天皇(○)
続日本紀@129-4 山沢に亡命し、禁書を挟蔵して、・・・

P52-4行目
飛鳥の人は男でも足にも脛にも毛がない。

P81
鴫罠を張ったら鯨がとれた
神武東征で、宇陀の高い所にある城に鴫罠を張ったらがとれた
  ↓
常陸国風土記の久慈郡に該当する。
私見 常陸国風土記の正体は大倭国風土記である。

鯨の形 ・・・ 有冨竜王山(ハンドウ山)
横から眺めて前方後円墳の形
魚の尾ヒレは垂直だが鯨の尾ヒレは水平である。 尾根の先が左右に水平に広がる。  Google 画像検索 【 長府 くじら館 】


熊本県宇土市  石棺の石材 
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/makadoisitowa.html

航海日誌  宇野愼敏 実行幹事
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/nisshi/nisshi0815.html
  今日はこの「夢の実験航海」 の主役である端艇部の若者たちと名航海隊長・下川助教授、そしてOBの航海士ら水産大学校の部隊が帰ってくる日。 夢を食うバクのような考古学の人たちには船団運営は「専門外」。 杉村船団長、宇野愼敏実行幹事は船上で踏ん張っているが、多くは陸上支援に汗をかいている。

今城塚古墳
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daio/kodairekishikan/imashirozukakofun/1327496276409.html

私見
熊本県は日本書紀の呉国なので、「呉の工人」「呉の勝(すぐり) 」 だろうか。

赤い石は下関市永田本町の水産大学校前の海、吉見 石槌大権現にもある。
永田郷の御堂遺跡は徐福の墓かと思えて興味深い。 大阪府高槻市の今城塚古墳の石棺に使われた赤い石は下関市吉見の海岸に広がる赤い石が運ばれたものではないか。 私の推理では、関西の今城塚古墳などの石棺に使われた赤石は下関市永田本町にある水産大学校 ボート部 桟橋付近の産出である。

年代は古墳時代後期である。 その頃は下関市吉見が首都となり、天子様にあやかりたい宗教が関西方面に広がり、吉見海岸の赤い石は天国の物だった。

下関市永田本町 水産大学校 ボート部 の桟橋にある赤い石が神聖で切り出しできないために、代用として熊本県宇土半島の赤い石を切り出したとも思案できる。


上の山古墳  下関市綾羅木
継体天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87
摂津国嶋上郡 三藍野陵
  ↓
原始古代の綾羅木郷台地は半島の先だった。

下関市立考古博物館 史跡の道ウォーク
学芸員の澤下先生が上の山古墳で参加者を前に継体天皇陵と手白香皇女について解説する。 澤下先生、あくまで自説であることを強調した上で 「巨大な古墳は はったり」 説を語る。 「かつては巨大古墳は強大な権力の象徴とされていたが、実は大きな古墳は脆弱な政権基盤を覆い隠すための "はったり" である。」

下関市立考古博物館 一般教養講座  
平成25年5月18日(土) 『 4・5世紀のヤマト政権と周防・長門 』
宇野愼敏講師は上の山古墳は継体天皇の時代の古墳だという。

豊中歴史同好会
雄略朝〜継体朝における九州とヤマト政権 (宇野慎敏先生)
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2015/12/post-265c.html
古墳研究の進展と停滞 後編 その一 (中司照世先生)
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2016/03/post-3fb9.html

私見
継体天皇陵は上の山古墳である。
手白香皇女の墓は有冨竜王山(ハンドウ山) の登り口にあるはず。


天動説から地動説へ。
太陽の場所は有冨竜王山(ハンドウ山) の頂にあった。 卑弥呼の冢!




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