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邪馬台国 下関
ブログ紹介


講談社学術文庫 『 倭国伝 』  旧唐書 P205、208
旧唐書に
「倭国は、古(いにしえ) の倭の奴国也。」
「日本国は、倭国の別種也」

竹取翁博物館  邪馬台国や徐福に関心を示された 2014.4.14
http://blogs.yahoo.co.jp/koiiyk/31302118.html
  ↓
中国の古地図 日本国と倭が別に描かれている。


中国正史の古代日本記録
いき一郎 編訳 葦書房  1984年 1992年 第2刷
P49
後漢書 巻80 「烏丸鮮卑列伝」 に、
鮮卑の檀石槐が光和元年(178年) に、魚をつかまえるのが巧みな倭人のいる倭人国を撃って倭人をとらえ、倭人に秦水の魚をとらせ食糧にした、とある。
「三国志」 は倭人を人とし、倭人国を人国としている。

この場所は鳥取県の青谷上寺地遺跡である。 近くに地名「汗入」 がある。

青谷上寺地遺跡展示館 ホームページ
http://www.tbz.or.jp/kamijichi/index.php?view=4095
土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム ホームページ
http://www.doigahama.jp/

佐賀 ・ 徐福国際シンポジウム
http://inoues.net/study/jyuhuku2008.html
  ↓
赤関=天関
文庫書紀@198-末 神武東征
是に、火瓊瓊杵尊、天関を闢き雲路を披け、仙蹕駈ひて戻止ります。



参考文献   以下の本は所有しています。
記号  例   
文庫書紀D74-12 → 岩波文庫 日本書紀(五) P74 の12行目
小学館書紀A469-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 日本書紀 A巻 P469 の 8行目
続日本紀B74-12 → 岩波書店 新日本古典文学大系 続日本紀 三 P74 の12行目
日本後紀 47-8 → 集英社 日本後紀 P47 の8行目
旧事F169-4 → 批評社 先代旧事本紀 訓註: 大野 七三  巻第七 P169 の4行目
訳旧事E305-7 → 批評社 先代旧事本紀 現代語訳  巻第六 P305 の7行目
祝詞393-7 → 岩波書店 日本古典文学大系「古事記 祝詞」 P393 の7行目
風土記71-12 → 小学館 新編日本古典文学全集 風土記 P71 の12行目
岩波風土記183-2 → 岩波書店 日本古典文学大系 風土記 P183 の 2行目
文庫風土記下168-5 → 角川ソフィア文庫 風土記 下 P168 の 5行目
山川風土記27-331行 → 山川出版社 風土記(常陸国 出雲国 播磨国 豊後国 肥前国) P27 行数331
小学館今昔物語C252-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 今昔物語集 C巻 P252 の 8行目
岩波今昔物語A145-6 → 岩波書店 新日本古典文学大系 今昔物語集 二巻 P145 の 6行目
古語拾遺164上-20 → 右文書院 『古語拾遺』 を読む P164上 の20行目
古代氏文集40-364 → 山川出版社 古代氏文集 P40 の 364行 
を示す。

万葉集
おうふう(株) 萬葉集
岩波書店 新日本古典文学大系 萬葉集
笠間書院 万葉集表記別類句索引 編者:日吉盛幸

風土記の索引書
和泉書院 『古風土記 並びに 風土記逸文語句索引』 橋本雅之 編


私は他人の説を摘まみ食いして、それを手直し修正し「自分の案」 を打ち出す「いいとこ取り」 は絶対にやりません。 私はずるくて利口なパクリ行為はやりません。 奔放な当てずっぽうのブログですが、一次資料に基づくものを書くため、記紀・万葉などの文献を読み、市町村史や郷土の自費出版物などの地方資料を渉猟して書いてます。 ネットで見たものはリンクを貼ってブログ主に通達してます。

私は僅かでも何かしらの着想(ヒント、アイデア、思いつき) を得た参照元は漏れなく全部を記してます。
当ブログは学術書レベルで参考文献を示してます。
着眼にあたって参考としたものを記すのは書き物の基本的な礼儀作法です。
他人の発見を尊重してこそ自分の発見やオリジナリティを主張できる。

私のブログは当ブログだけであり、他でブログ等はやってません。 私はネットの投稿、掲示板やコメント欄への書き込み他をしたことはありません。 なりすまし に注意してください。


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永田本町

2017/05/23 01:51

岡県主 熊鰐  吉見漁港 汐入川河口の北側 字「岡」

津守連の直系 永田本町3丁目−26  津守さん家
務古水門 永田大橋の西側 字「川向」、字「古啓」


万葉集109 永田郷 バス停 永田石原 石川書道教室
津守之
  ↓
万葉集5 讃岐国安益郡
歎居者
字「浦」 か

水産大学校  製塩の六連式土器が出土

寸乎
永田郷の塩田地に鶴が飛来 字「白潰」
網能浦  網代ノ鼻 字」「安代」  海上自衛隊 下関基地隊

竹取物語の冒頭 讃岐の造

万葉集
220
221 上乃宇波疑 字「野屋敷」 浄満寺
222

4472 讃岐守安宿王





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船越

2017/05/22 03:59

邪馬台国(記紀・万葉の全国範囲) はバチカン、モナコ、ルクセンブルクより小さい小粒の国である。
久々に万葉集 漢字原文 を読んでみたら吉見の船越周辺が主舞台である。

千石岩の「千石」 は万葉集では千石破で「ちはやぶる」 と訓む。
神功記の待酒と読み併せると淡海国は福江の猿田池あたり。
角賀は船越川の下流。
金の三埼は古宿のどさん子ラーメン店前の岩礁 「船釘」 か。
「ちはやぶる」 場所の範囲は農免道路脇の千石岩から船越川河口。

山背の氏河 船越川
木国(紀伊国) は竜王山の巨樹を伐採して船を造り山から下した船越峠
船越川は木積(材木流し) の川で、田上山は船越の田上さん家。

待酒は八俣大蛇の酒と場所と同じ。
万葉集555 丹比縣守 「たぢひ」 はマムシ 

船越川流域は山・川が風水の吉祥地である。

福江の猿田池〜船越〜龍王神社〜光善寺〜古宿浜
は記紀、万葉、風土記の主舞台である。




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石田

2017/05/21 08:54

万葉集
1730
石田  永田郷 字「石田」「石王田」(いわおだ)
山道  永田郷から吉母に入る道。 須恵器生産の稗尻遺跡がある。

真土山 稗尻遺跡

木国(紀伊国) 船越
永田郷 字「木の中」 ラブホテルがある所

55 木人
543 木道  
1680 木方

室津へ行く山道も考えられる。




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みぬめ

2017/05/19 10:05

みぬめ浦 敏馬、見宿女、三犬女

敏馬の浦=文庫書記@188‐1 海神の乗る駿馬
高速船を駿馬とする騎馬民族風のたとえ。

仁徳記 枯野 も同じ場所か。

田辺史福麻呂
「福」 は福江、吉母の字「福太夫」(吉母郵便局)

表記 三犬女は宗像三女神、犬女は犬食い人種を思わせる。
海幸彦の隼人も犬吠えをしてた。

永田と吉母の海岸境界にある眼ノ崎は (ミヌ)メの崎 の転化か。
敏馬の崎 岬  眼ノ崎か
敏馬浦 砂浜

若宮年魚麻呂
永田郷 永田石原バス停前の小字「若宮」 か。
塩津菅原が永田郷の塩田地なので、鶴の飛来が多かったと推理できる。


候補地
古宿 どさん子ラーメン店
眼ノ崎
吉母漁港
大河原にある砂浜




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万葉集下関の海

2017/05/19 04:02

記紀、万葉、風土記の範囲は 石原・有冨〜吉見・吉母〜室津・黒井

万葉集を読むと、秋根、一の宮、勝谷、長府はない。
綾羅木川の右岸、石原・有冨から室津の範囲である。

海岸部は地形から場所を見つけやすい。

黒嶋の北側−吉母の大河原
遠浅の岩場が広がり海産物が多く「海部」「海幸彦」 の地
吉母浜遺跡 弥生時代のアワビおこしが出土

神功皇后の三韓出征は 吉母漁港→黒嶋→蓋井島 と渡ったと地元で伝わる。

吉母は鯛の一本釣り漁が盛んで浦島太郎を連想させる。
1715 吉母 字「平山」 か。

淡海は室津ヨットハーバー
相坂は吉母上と室津上の境 「一盃堂」

宇治は船越川 字「赤松ヶ尾」「王仁」
赤松子は中国仙人の名前


1236 竹嶋  蓋井島
日本書紀 竹嶋  毘沙の鼻に上がる急坂にある竹林


1732・1733・1734
碁師  吉見 古宿 どさん子ラーメン店前の岩礁 「船釘」
祖母山(おほばやま)  古宿 字「大葉山」 溜池
水尾埼  吉見小学校 字「尾崎」
真長の浦  永田本町
塩津  永田郷の塩田地

祖母山の「祖母」 は伊耶那美命を表す。
吉見の古宿 大葉山堤 に伊耶那美命の墓があり、
出雲の国と伯伎の国との堺なる比婆の山
紀伊国の熊野の有馬村
に比定できる。
黄泉比良坂の千引の石は農免道路脇の千石岩である。

竜王山は内日側では権現山というので、権現=熊野 である。
紀伊国とは木の国で、船越の地名由来が神功皇后が竜王山の材木を伐って船を造った言い伝えによる。
五十猛命と関係する。


3164 室津
3165 黒井ゴルフ場 字「木ノ村」 金実中伝説 飛ぶ幡

4491 菅原  永田郷 永田石原のバス停付近




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− タイトルなし −

2017/05/16 02:42

出雲国
福江の大塚、船越、龍王神社

高志は船越。 古宿の七曲、どさんこラーメン店の場所に浜宮という神社が昔あって、ここが本当の出雲大社。 根の国は吉見下の龍王神社あたり。 「堅州」 とは川が流れていない場所。

万葉集
3153 越の大山  竜王山
3883 伊夜彦  出雲の伊賦夜坂で、農免道路脇の千石岩付近


鞆浦 円方、佐伯山
永田本町の水産大学校 字「えびや」 箙山




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壱岐は吉母の黒嶋

2017/05/15 08:32

邪馬台国の場所は下関市有冨・石原〜豊浦町室津である。
この範囲に記紀・万葉、風土記の全部がある。


風土記 逸文 から、記紀・万葉の壱岐は吉母の黒嶋と思える。
吉母の黒嶋は前方後円墳の形をしているから蓬莱山であろう。
仏教以前の信仰は不老不死の蓬莱山信仰だった。

ゼンリン地図
吉母の黒嶋と字「西条」 の宗像さん家 市杵嶋姫 (瀛津嶋姫)
壱岐 「いちき」 と訓める。

淤能碁呂島、伊岐島(天比登都柱) は吉母の黒嶋で、場所が同じ。

対馬は表記の「馬」 より御崎馬が泳いで渡った蓋井島か。


前方後円墳を造った関西政権
呉の孫権の遠征軍が建てた国であり、東漢氏である。




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− タイトルなし −

2017/04/10 02:10

記紀・万葉の越(高志) は下関市吉見下の船越である。

常陸国風土記の場所は今まで下関市有冨・冨任と見ていたが、
ここ2日読み返して、御崎、吉母、吉見下、船越、福江大塚 の場所を見つけた。


小学館 新編日本古典文学全集 『風土記』
常陸国風土記
桃源郷、ユートピア、神仙思想、仙界 の文学表現が目立つ。 総論に「常世の国か」 という持ち上げはあっても不老不死や仙人の記述は見られない。

茨城の郡
P371 歌謡
「高浜」 は万葉集3220 豊国の聞の高浜 で吉母 御崎の崖海岸
豊国は北九州市ではなく下関市の本州西端 御崎の集落

行方の郡
P381‐6 行方の馬 御崎 淵ヶ谷の野生馬
P383‐9
その南を田の里と名づく。 息長足日売の皇后の時に、この地の人、名を古津比古と曰ふものあり。 三度 韓国に遣はされ、その功労を重みして田を賜へり。
  ↓
魏志倭人伝の持衰

那賀の郡
P407‐9
泉坂の中に出づ。
  ↓
継体紀の坂中井 福江の大塚・船越が近江・越の国
「曝井」 は船越 中川さん宅横の湧水「清水川」

久慈の郡
P407‐末から3行目
鯨に似た小さい丘 福江の大塚 字「生墓」 あたり
慈光寺の西50メートル

P408‐末行
池 福江の猿田池
谷会山 字「谷」

P409‐3 河内の里 船越集落の北側 字「河内前」

P409‐9 久慈河 船越川
P409‐15 清河 船越川

P411‐2 久慈の味酒 八岐大蛇を退治した時の八醞酒

P412‐3
賀比礼の高峰 竜王山
立速男の命 素戔嗚尊

多珂の郡
P416‐1
道の前 吉見下
道の後 陸奥の国 石城 吉見上

P419‐2 観世音菩薩の像、仏の浜 石槌大権現か

P419‐5
藻島の駅家 古宿の字「大駅」 どさんこラーメン店
碁石 船釘  参照 下関郷土本 『よしみ史誌』 P700


万葉集 漢字原文 にある「常」(と) を調べると常陸国は有冨上だ。




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河内国は福江、出雲国は福江大塚

2017/04/05 21:52

常陸国風土記の河内郡=記紀・万葉の河内国
河内国は大阪府ではなく下関市安岡・福江である。

崇神天皇は河内に溜池を何か所も造った。
桑間宮 文庫書記@302‐11 福江の字「桑」
  ↓
応神紀 桑津邑 文庫書記A200‐7
福江の字「天神」 か。

福江の馬渡川は大内川ともいう。 大内=内裏 の意味。

安岡ポンプ場 → 野村病院 を流れる川 竹内川 竹内宿禰か

江(あふみ) 福江は「近江」 でもある。
百済大寺 皇極紀 文庫書記C196‐6 
越(高志)、 は船越、近江は福江。

百済大寺、百済大井の候補地
 福江大塚の字「王仁」
 安岡上げの玄空寺
 横野町1丁目の水路沿い

福江の地名由来は福江与三左エ門伝説による。
『やすおか史誌』 P795 〈注〉@ に
宗広らは常陸よりの落人という。
とあり、常陸の人が登場する。

福江与三左エ門は福江の農免道路脇の流水庵に住んでいた。
河内国渋川郡に宅があった物部守屋だろう。

福江大塚の小字「王仁」 は「応神」 とも記す。
応神天皇の5世の孫で近江・越国から来た継体天皇は船越の人である。
常陸国風土記の高向大夫は船越の人である。


大己貴神を祀る神社
安岡八幡宮
河内神社 船越、吉見竜王町。 龍王神社の境内に移転。

福江の大塚 1999番地 小川さん宅の北 小字「巴キ」(わき)

常陸国風土記 久慈郡 賀比礼の高峰 の立速男命は根の堅州国の素戔嗚尊で龍王神社の上宮。

黄泉の比良坂は農免道路脇の千石岩

古宿(こずく) の どさん子ラーメン店がある所に昔あった龍王神社 下宮(浜宮) は大国主命の出雲大社である。

福江大塚の新免川または船越川は万葉集2002 の天漢(あまのがわ)。

越の八俣大蛇=日本武尊 近江の五十葺山 大蛇
古事記では白猪。 白い動物は神仙境の生き物である。
船越の中川さん宅の押入れに白蛇がいた。

居醒泉は中川さん宅横の「清水川」 という湧水池である。
藤原清河はここの人だ。
清水川は藤原池か。 清水川から夏至 日の出を見れば竜王山の頂から上る。

船越の地勢は天子南面で風水の吉祥地である。
船越の字「赤松ヶ尾」 は仙人の「赤松子」 によるか。

播磨国風土記 讃容郡
丸部の具 仲川の人 ・・・ 船越の中川さん宅
弥加都岐原 清水 執政大臣の女 ・・・ 清水川

河内の国 免寸の村人
「免寸」 は仁徳記 「枯野という船」 の免寸河。 この「河内の国」 は吉母 大河原の河内社だろうから、巨樹は吉母の大河原にあった。 穴門館、河内馬飼は吉母の大河原。


『やすおか史誌』 P47
観音岬古墳 (横野) 前方後円墳
八貫古墳 (福江林) 円墳1、金環、土器

長仙古墳の「長仙」 は身長が高い葛城一言主を連想させる。 来目水か。

福江・安岡の境 農免道路脇 細川ふとん店近くにある役行者像は
1200年前からあると地元で伝わる。 山際の小字「山王」。


上記で常陸国風土記の久慈郡を吉見下としたが無理があるように思える。

鯨形の丘は有冨墓地上の尾根、または有冨 大年池西側の小丘とも思える。

常陸国は綾羅木川の北岸で、福江・吉見・永田の海沿岸ではない。
しかし下関の郷土史本を読むと、そう断言はできない。


角川ソフィア文庫 『風土記 上』
常陸国風土記
(現代語訳)
久慈郡
「慈」 を大型漢和辞典で調べると母の幼子に対する愛情、幼子を育てる親心。
豊浦町の厚母、吉見の乳母屋社(当初吉母にあったという) が連想される。

P90‐末行
そこの切り立った岩壁は、形が一枚岩のようで、黄色く階段を掘ってある
石の「階段」 がある所は毘沙ノ鼻 畳石
(参照) 『吉母「胞塚」 伝説』 福本上(のぼる) 著 P10

P92‐15
ここ(太田の里) から北の方角に都の里がある。
大型漢和辞典で「薩」 の字を調べると仏教の漢字である。

P94‐4
助川は綾羅木川か。 下関市立考古博物館 正門前の坂道 字「助三」


多珂郡
P94‐末行
陸奥国の石城郡の苦麻の村を道後とした。
「石城」 の地形
石原の砕石場 字「壁石」
毘沙ノ鼻・御崎の断崖海岸

「道後」
・応神紀 文庫書記A202‐7 日向の髪長媛 歌謡
道の後 古破儴嬢女(こはだをとめ
・伊予の道後温泉

高向大夫
「纏向」 と「高向」 は表記が似ている。

「多珂」 と「多賀」 は似る。
古事記 伊耶那岐の大神は、淡路の多賀にまします。

P96‐1
国守が川原宿禰黒麻呂であった時に、観世音菩薩の像を彫って造った。

『よしみ史誌』 P716
毘沙ノ鼻は海上保安庁水路部調製の海図には観音岬と記してある。

吉母の大河原・御崎の空海伝説、室津のお遍路道は吉母・御崎・室津が仏教が栄えた地であった名残である。

『やすおか史誌』 P614 玄空寺
宝物 紫雲山十一面観世音菩薩木造 1尺1寸 縁起によると、安岡観音岬に、もと紫雲山東福寺という寺があって、その境域を紫野と呼んでいた。 この寺の本尊であった観世音菩薩は正徳4年(1714) 7月 紫野の海中より現じ給うたと伝えられ ...

下関市立考古博物館がある字「岡」 の南隣 字「石仏」

常陸国多珂郡では碁石を産する。 8世紀初頭の常陸国では碁が盛んだった。
下関市域で碁石を産していた場所は筋ヶ浜

大坪・武久 地誌
http://44051510.at.webry.info/201211/article_42.html

ネットの国土地理院地図で御崎を見れば、室津側に「斑石」 がある。
蓋井島の岩門、斑岩も奇観の石として有名である。




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神仙境でお花見 天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊

2017/04/04 02:10

神仙境  次の3か所で、記紀・万葉の主舞台の地である。

・有冨墓地の東上の尾根、大迫池の上 山筋が曲がった所
雲が立つ。山桜が多い。

『先代旧事本紀』 の冒頭、天祖 天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊の地
仙人が住む葛城山
万葉集3843 真朱の鉱山
皇極紀 文庫書記C218‐10 菟田山 紫の菌 芝草 があった所

文庫書記C222‐8 東国の不尽河の辺の人 大生部多、虫祭る ...
この場所は有冨墓地か。 富士山、駿河は有冨墓地の上で採石場の山。


・吉母の黒嶋 前方後円墳の形で蓬莱山

・吉母の御崎の奥地 淵ヶ谷 御崎馬の伝説、石灰岩層
銀鉱があったか。


鹿島
先代旧事本紀 巻第一
兒 建甕槌之男神 
今、常陸国の鹿嶋に坐す大神 即ち石上布都大神是なり。
  ↓
常陸国鹿島=石上神宮
石上神宮は奈良県天理市ではなく下関市有冨 ハンドウ山の尾根筋にあった。


新説 前方後円墳の形の変化
天照大神は当初、有冨のハンドウ山の上に居た。 倭姫の伊勢神宮の地。
初期の前方後円墳は有冨のハンドウ山の形で帆立貝式、撥形。

垂仁紀 天照大神は晩年に伊勢に移った。 度会県は吉母の黒嶋にあった。
中期の前方後円墳は吉母の黒嶋の形になった。




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日高見国 と 火ノ見山  (書きかけ)

2017/04/02 13:05

下関市伊倉の火ノ見山は日見山とも書き、国の表記と似ている。

日高見国
日本書紀 景行紀 文庫書記A84‐2、98‐5
常陸国風土記 信太郡は本(もと)、日高見国なり。

祝詞
『古事記 祝詞』 日本古典文学大系 岩波書店 1989年 第35刷
大倭日高見の国 P423‐末行、P449‐11

常陸国風土記の信太(しだ)郡は下関市冨任(とみとう) である。

常陸国風土記の正体は文体表現、内容、人物名から大和国風土記である。
根拠は常陸国風土記は神武東征の倭での戦いの記述と似ている。

大和国は奈良県ではなく下関市有冨上である。 常陸国風土記も下関市有冨のはずなのだが、記述の地勢・方向が有冨の地理になっていない。 角川ソフィア文庫 『風土記 上』 平成27年 P112〜117 「常陸国風土記 解説」 中村啓信 を読むと、常陸国風土記のもともとの記述が茨城県の地理にあわないので、茨城県の地理のあわせようとして原本をあちこちいじり修正して「これが正しい訓読文」 としている。

私は以下を本を所有している。 が信太郡に「黒坂命、日高見国、日高之国」 が入れられている本である。
角川ソフィア文庫 『風土記 上』
平凡社ライブラリー 『風土記』
小学館 新編日本古典文学全集 『風土記』
岩波書店 日本古典文学大系 『風土記』
山川出版社 『風土記』
講談社学術文庫 『常陸国風土記』

素戔嗚尊がいる根の国は吉見下。
久慈郡の賀比礼の高峰は竜王山だ。


纏向 有冨古墳 「纏」 は風水で使われる漢字である。
伊勢の綺宮 石原コスパ ペットショップの小字「伊勢防」
倭姫の伊勢神宮 ハンドウ山の尾根上


日本武尊
出雲 船越・福江大塚・古宿(こずく)  出雲国風土記 字「屋代」
根国 吉見下
熊成峯は吉見の竜王山である。
竜王山は内日の赤田代では権現山と呼ぶから竜王山は熊野山である。

熊襲 吉母・御崎

東征 有冨の遠山運送→石原→井田→一之瀬・内日上→赤田代→吉見上
竹水門 形山の字「竹ノ下」 蝦夷 山陰系土器、板付式土器
下毛野 井田
上毛野 一之瀬、内日上
信濃国 赤田代
美濃 吉見上 字「美野田」
越 船越
碓日坂 深坂

近江の胆吹山 大蛇 =播磨国風土記 讃容郡 仲川の里 蛇の如き剣
居醒泉 船越 中川さん宅横の清水川

石占横立 吉見 農免道路の千石岩

日高見国 小野の山
常陸国 ハンドウ山の尾根

日高皇女(新家皇女)
蘇我常陸娘

天智10年 文庫書記D56‐10 常陸国 中臣部若子 長尺6寸
=常陸国風土記 那賀郡 大櫛之岡 貝塚 巨人

筑波 竹生寺

日並べて 夜には九夜 には日を
日並皇子
隅田八幡神社人物画像鏡 日十大王

東国=

上総 小野
馳水 石原橋
駿河 当麻 砕石場

七掬脛 長髄彦

山の東の諸国 文庫書記A100‐3 吾嬬国 御諸山
=山海経 海外東経 青丘国 青は東















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城野遺跡を守る会

2017/03/30 01:55

3月25日 小倉南生涯学習センター

私見
城野遺跡 小倉南区
西は死滅 朱の石棺
東は誕生 勾玉(胎児の形)の埋納
南の窪地・溝地 朱雀
重留銅矛の埋納地 風水の案山
重留銅矛は天日矛か

潤地頭給遺跡 糸島
西は酉で金 内向花文鏡(デザインは陰陽五行) の埋納
東は若い生命力 玉作り工房
南の大溝 朱雀
南南東は巳 巳は「祀」 の つくり 祭祀


通説  九大 岩永先生
風水・陰陽五行などは飛鳥時代または奈良時代からで弥生時代にはない。
私見
仏教が入ってくるまで日本で支配的だった文化思想は神仙思想であり、神仙思想は中国思想の風水、陰陽五行、桃源郷、仙人、蓬莱山、道家、老子などである。 老子は無為(何もしない) を説いた。 日本書紀の道臣の「道」 は老子の教えである。

方格規矩四神鏡 (ほうかくきくししんきょう)
ttp://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/houkaku.html


下関市 朱
下有冨古墳
『川中風土記』 によれば、昭和15年ごろ住民が古墳をあばいたら朱塗の石棺と勾玉などが出た。 市の文化財保護課(澤下さん他) は考古資料にならないとする。 北九州市埋文の佐藤さんは「朱色はベンガラかもしれない」 という。 詳しい調査はされてない。

塚の原遺跡
ホームワイド裏の台地上で朱を作るL字形石杵が出土。 かなり使い込んだもので完成度は高い。 弥生後期。

直線上に並ぶ
竹生寺(妙見社)―塚ノ原遺跡の L字形石杵が出土した地点―秋根神社(秋根古墳)―椋野の妙見山―門司の風師山
  ↓
この西偏6°が「南北線」 として扱われていた。
「東西線」 は梶栗浜遺跡と有冨ハンドウ山登山口を結ぶ線である。

続日本紀の都は有冨の大年池堤防の破れ小屋あたり。
春日山田皇女は岩谷さん宅前のトラクター、コンバインをしまう小屋あたり。
老子の「無為」 思想なので目立つ物的証拠がない。
安河はハンドウ山登山口付近にある溝を掘った跡で水無し川。


吉田八幡宮
朱塗の石棺、仿製の内行花文鏡
私見は、内向花文鏡のデザインは方位に関する。
吉田八幡宮は有冨のハンドウ山登山口から方位磁石 西偏7°で寅(東北東) の方位である。
※ ハンドウ山登山口付近または竹生寺を基点として方位を見る。

『豊浦町史』 によれば、室津の甲山、黒井の八ヶ浜で朱が入った壺を拾った人がいる。




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日明一本松塚古墳の壁画は「八紘一宇」 を描いたものである。

2017/03/30 01:03

邪馬台国の位置は下関市有冨のハンドウ山登山口付近である。
この場所が記紀・万葉、続日本紀の都である。
考古学の業界はまったく的はずれだ。

青銅器、鉄器その他副葬品から階層性を分析する考古学業界の在り様は馬鹿であり、重要なのはモノよりも文化思想である。 倭国の文化思想は神仙思想であり、神仙思想は中国伝来のものであるから風水、陰陽五行、易経、道家思想を観察のモノサシにすべきである。 神仙思想は不老不死の仙薬などモノもあるが、まずは方位である。 方位は神威である。


十二支 
十干
八卦 連弧文鏡のデザインは八卦鏡に似る。
五行 上の山古墳(6世紀前半) の鈴付き釧


連弧文鏡 前漢
稗田地蔵堂遺跡
立岩堀田遺跡

ネットの国土地理院地図を使って
下関市有冨ハンドウ山登山口 と 立岩堀田遺跡 を線で結べば
  仁馬山古墳
  垢田交差点東側(稗田地蔵堂遺跡)
  武久浜(半両銭)
  彦島八幡宮北側
  小倉北区 日明小学校(日明一本松塚古墳)
  槻田小学校付近(高槻遺跡)
が直線で並ぶ。 方位は未(南南西) だ。 夜の食国の方位か。

『安倍晴明占術大全』 藤巻一保 著 学研 2000年
P86‐1行目
(未は) 卦では天山遯をあてる。


日明一本松塚古墳の壁画
下関市有冨字「中村畦」から各方面の方位が描かれている。
竹生寺−有冨墓地東側 の尾根筋も描かれている。
  ↓
この壁画は「八紘一宇」 の絵である!!

前漢の連弧文鏡と6世紀後半の日明一本松塚古墳とは600年以上の隔たりがある。 しかし「神威の方位」 は消せない。

弥生前期
前漢時代の風水、陰陽五行、易経、道家思想は「最先端の文化」 として北部九州・下関に入っていた。



『金属器登場』 歴史発掘 7  講談社 1997年
岩永省三 著
P44 倭人は、中国鏡の図像の意味と、その細部表現が理解できなかった。

私見は岩永先生とは逆で
倭人は中国鏡のデザインの意味を理解して欲しがったので威信財ではない。
「倭人」 は下関の人たちで俗物たる関西の連中ではない。

『岩波講座 日本歴史 第1巻 原始・古代1』 2013年
P103〜P134
「東アジアにおける弥生文化」 執筆 岩永省三 
私見・反論
日本書紀では神宝は倉の奥にしまって人前で見せるものではない。
日本書紀には考古学者がいうような威信財は登場しない。

邪馬台国九州説の文献的根拠は旧唐書である。
古田武彦に影響を受けた人たちは、西暦700年前後まで関西政権の「日本国」 とは別に九州王朝の「倭国」 が存在しており、東遷はなかったと見る。

私は邪馬台国=旧長門国豊浦郡 説である。 その根拠は和名抄の豊浦郡には古代官道が造られなかったことである。
下関市域と長門市油谷・日置には古代官道が通っていない。

前方後円墳=蓬莱山 説
前方後円墳のデザインは神仙思想の蓬莱山である。




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吉母 自費出版の郷土本から

2017/03/21 14:37

『よしみ史誌』 P714 出合薬師
室津村の田中殿という御仁と吉母村の真鍋殿と申される御仁

『豊浦町史 二』 にある中世の豪族
真鍋氏は室津上 字「山中」  後に吉母に進出
吉母 若宮神社の記録に真鍋氏
万葉集1669 三名部(みなへ)の浦 「なへ」 は真鍋の「なべ」
万葉集1 語呂で「ナベ」

若宮神社の宮司 須子さん宅 江良にある。
「須子」 は広辞苑などに「素子」(すこ) として意味が載る。

田中殿 田中朝臣法麻呂
『汀の里』 吉母の婦人会 1996年 自費出版
P93
御崎の淵ヶ谷付近の小字「田中殿」

古事記 田中臣
舒明紀 田中宮 文庫書記C176‐10

来原氏 和名抄の豊浦郡栗原郷か
古代の地名領域は広い面でなくポツンとした点だった説あり。


『吉母(汀の里)の歴史』 神功皇后は吉母を隠した
蔵田正彦 著 平成21年 自費出版
P54 三本松
石王田の栗原曲がり

P51 黒嶋神社
長門国一の宮住吉神社史料(文明13年 1431年) の「一の宮御神事年中記録注進案」 に、九月廿九日吉母大将軍並びに黒嶋神、御供へ御神楽神祭とあり、三韓退治の守護神也とし、若宮神社の左側下に祭られ、後に合祀されて居ります。


ふるさと史話(その一)
『天平の島と杜と神の水』
ふるさと史話(その二)
史料がかたる 吉母「胞塚(よなづか) 伝説』
福本 上(のぼる) 著 平成10年

私見
P6〜
住吉神社
高良大明神は吉母海岸の甲良折または大河原(こうら、こら) であろう。

穴門の速都鳥=隼 隼人
穴戸の大田、白雉=三島の雌雉田、大河内直
大河原・ゴミ埋立地あたりか。

P29‐4
「時の浦」 俗に西ノ浜という本宮より一里半ばかりにある。 「中古より神事場となれり」 向かいに小戸という浜あり。 このわたりの東の下に巌穴あり(中略)
私見
「小戸」 という浜が綾羅木か蓋井島か他どっかにある。
私見では綾羅木郷 字「宝前」 が小戸だ。

P36‐2
さざなみの里 私見では吉母漁協がある所

P47-3、P48 図
全国郷社以上の神社の約30%は「三つ巴」
長門住吉神社の神紋は「水巴」 で全国唯一

「巴」 といえば考古学の巴形銅器である。
巴形銅器と長門住吉神社の「水巴」 は関係する。

万葉集
76 巴形銅器の歌を発見!
77 御名部皇女


蔵田正彦 著 平成21年
『吉母(汀の里)の歴史』 神功皇后は吉母を隠した
P69‐9
吉母若宮神社の開基大略には『上棟南謄部州大日本国山陽道長門国豊浦郡吉母邑若宮大明神と云うは、住吉御本宮也。 古昔、神功皇后異国三韓退治の砌、新羅百済国を従え御さる。 蓋井嶋岩戸と申す所へ着かれ夫れより当所の御崎尻之御着船、玉井浜辺浦に揚がられ、近江浦堂にて御誕生御座せらる。

『住吉大社神代記』 の場所は下関市吉母、永田、吉見。 とくに吉母である。

一の宮住吉神社の神紋「水巴」 の「巴」(ともえ)
  ↓
吉母の若宮神社は住吉神社の本宮 説
  ↓
本当の水巴の場所は吉母の若宮神社がある所


角川 大字源 1992年発行 1993年3版
 象を食べる大蛇

篆文 の絵が草場川下流の流路である。
上部の日形の場所は吉母の下方
吉母若宮神社付近の字「石井迫」「宮ノ前」「大迫」



ttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%B4
小篆の絵が吉母の草場川下流の流路と合致する。


朝倉社
江良の山本さん宅の裏山 疫神社

熊襲
『下関市年表』 2011年 P6
3世紀末〜4世紀初
吉母海岸の砂丘では、弥生時代終末から古墳時代初めのころ、畿内で生産された庄内式土器や、布留式土器を使った人達が、台の付いた小型の粗製の鉢を使って、塩を作っていた。

  ↓
字「川ノ上」 にいた川上梟帥
万葉集496 三熊野の浦のハマユウ

熊襲は志賀の製塩者だったのか?
吉備の穴海 綾羅木浜 「黍」 か?


豊国
腠碕(みさき) 御崎

藤原広嗣の乱
大宰府 吉母の若宮神社
長門 毘沙ノ鼻
隼人 大河原〜御崎
豊後 御崎の奥地

藤原広嗣の乱は舞台が北九州市なのに九州南部の隼人が登場する謎がある。 北九州市在の郷土史家は和布刈神社の速門と見てきた。 風速で潮・波が荒い場所は下関市御崎だ。

大家島・値嘉島
蓋井島

関西勢力
関西系武人は東人で漢部。 山口市の関西系は俘囚(えみし) 郷。




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新説 三韓征伐

2017/03/20 04:27

新説 神功皇后の三韓征伐
万葉集366 角賀 下関市豊浦町 吉永 構造船の祭祀土器
田道間守 吉永の田島
渟田門 吉永の野田
若狭国 魚が酒に酔ったように浮いて口パクパク 涌田(わいた) の海岸

穴門豊浦宮 吉母の大河原。 海岸部 浅い岩場が広がる
万葉集304 筑紫国の嶋門=都怒我阿羅斯等の嶋浦 吉母漁港 
遠朝廷 吉母の若宮神社あたり
筑紫君の磐井 吉母 字「石井迫」
周防の佐波 吉母浜埋葬遺跡
筑後の大三輪社 吉母 字「成久」 四宮八幡宮

新羅国の王の門前に置いた矛 小倉南区 重留遺跡


都怒我阿羅斯等
都怒我阿羅斯等 額(ぬか)に角有ひたる人
神功皇后の母 葛城高媛 「顙」 (ぬか)は 頭の ひたい

高志 黒井か
出雲国 福江の大塚、船越
出雲大社 龍王神社の下宮(浜宮) 古宿の七曲にあった。

纏向 有冨古墳 「纏」 は風水の用字
倭は 国のまほらま 畳づく 青垣 山籠れる 倭し麗し
「畳づく 青垣」 は風水の表現。 有冨上は風水の都

万葉集 筑前の志賀島の製塩 志賀島は吉母の黒嶋
辛人・辛の埼  塩辛い。 関西系の佐伯部が製塩

吉母の黒嶋は蓬莱山で、吉母漁港は神楽浪
吉母漁港は黒嶋があるため波風が穏やか。
吉母漁港が「さざなみの里」 である。

吉母漁港に宗像さん宅がある。 昔から住んでいる人である。

吉母の字「東条」 胞塚 江浦(つくも)堂
『吉母(汀の里)の歴史』 蔵田正彦 著 P69 近江浦堂
応神天皇は西光寺の北 「平松」 で産まれたと伝わる。
近つ淡海、遠つ淡海だけでなく「近江」 は何か所もあるようだ。

整然とした行政地名ではないので自分なりに地名場所のカラクリを解明する。

九十九と書いて「つくも」 とは?
ttp://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kokufu/math/math_8.html


高志
A案
土井ヶ浜人類学ミュージアム裏門の川 沼川 高志国の沼河比売
高志の前 角島
渟田門 酒 『油谷町史』 P147 伊上 鴨野海中出土の須恵器甕

B案
思いつき 豊浦町吉永の地名「野田むた」 は渟田(沼田) を思わせる。
高志は黒井、または川棚



風土記 逸文 任那は魚の産地
  ↓
涌田漁港


海幸彦・山幸彦、浦島太郎
  ↓
吉母漁港 昔は鯛の一本釣り漁の地 朝鮮まで出漁




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いせどの森 吉母の字「西条」

2017/03/17 02:11

『よしみ誌史』 P711 威瀬
いせどの森 地下上申 ※威瀬の死体は「難波の姫島松原 美人死」 の話に似ている。

風土記333‐5  肥前国風土記 松浦の郡
各、弟姫子の骨と謂ひて、すなわちこの峰の南に就きて、を造りて治め置きき。 その墓見に在り。
  ↓
場所は吉母の字「西条」 小西さん宅の家裏 崖下のお堂

肥前国風土記 松浦の郡 では山の頂に沼がある。 峰の南に墓がある。
この記述に合致する所は吉母 字「明見」 の妙見。 西光寺の西にある溜池の上。

万葉集853〜865  松浦は神仙で巫峡、

大水口宿禰 Wikipedia
『先代旧事本紀』 「国造本紀」 には、次の国造が後裔として記載されている。
末羅国造 - 志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に穂積臣同祖の大水口足尼の孫の矢田稲吉を国造に定める。 のちの肥前国松浦郡周辺にあたる。


古事記 筑紫の末羅県の玉嶋里
口、沼、城、門、江浦島子

倭の人 魏志倭人伝
吉母浜遺跡からアワビオコシが出土し潜水漁が行われていた。

伊勢続麻

文庫書記A132‐2
便ち高き岳に登りて、遥に大海を望るに、曠遠くして国も見えず。
水沼県主大海  猿田彦、大伴狭手彦
吉備上道采女大海

「大海」 は地名だ。
仲哀紀 文庫書記A132‐2
便ち高き岳に登りて、遥に大海を望るに、曠遠くして国も見えず。

大海人皇子(天武天皇)

今昔物語集
震旦付国史 「秦始皇、在感楊宮政世語 第一」 に「大海」 の文言が出てくる。
岩波書店 新日本古典文学大系 今昔物語集A285-8、10、12
大海ニ高大魚ト云フ大魚有リ。


黒嶋 普陀山
http://44051510.at.webry.info/201504/article_13.html
黒嶋の細い海峡「切れ戸」 が洞海
いせどの森 神功紀の神託 向津媛
向津野大済=伊勢の度会県=いせどの森

穴門豊浦津の如意珠=潮満瓊・潮涸瓊

穴門から筑紫に向かう時、熊鰐・五十迹手が天の磐戸の儀式で仲哀天皇一行を迎えた。


神功皇后は吉母の黒嶋から渡海したと言い伝えられる。
『下関の伝説』 下関市教育委員会 昭和57年 改訂版
P133 蓋井島 見付の瀬
皇后さまが宗像の三女神に戦勝を祈られたあと、黒アの浜から船出されたとき、波間にこの島をみつけられたところからつけられました。
吉母の西条に宗像さん(433番地) という家がある。


『 卑弥呼の墓 』 原田美涼 著  平成12年 下関図書館 蔵書
P141
「この黒嶋は "墓域" で、フタオイ島とは "棺の蓋をおおう" の意味がこめられての名前ではないでしょうか?」
私の問いかけに、小野泰應氏は大層驚かれた。 心当たりがあると、ご自分で纏められた、冊子『 黒嶋観音と吉母海岸 』 を下さった。
次にその一文を紹介する。

「黒嶋は、黒嶋観音縁起によりますと、往昔は諸神集会の霊地であったと記されており、吉母のシンボルであり、信仰の霊地であります。
又、吉母の里を港を風雪から守る天然の要害として、或は、風景の要として往古より今日に至るまで、大事に守ってきているところで、鎌や鋸などを持って山に立ち入らぬという、大昔からの不文律が、厳重に伝え守られているのです。 ・・・」



伊勢は2か所ある。
伊勢  御崎
伊勢の度会県に坐す神  吉母の字「西条」 いせどの森


いや違う。 いせどの森は伊勢神宮ではない。
神功紀の神託は「向津媛」 なので陸の対岸のだ。 黒嶋が伊勢の度会県だ。
黒嶋観音 黒嶋山普門院が伊勢神宮で吉備島皇祖母だ。
黒嶋は「久留島」 ともいう。 久留=牽=引。 穴門の引島は吉母の黒島だ。


万葉集1668〜1673 吉母の黒嶋か

山口県風土誌 9巻 P437‐末行
辨天社(吉母村) 黒島神社(同上)
若宮由緒書に、辨天・黒島神と申二社は神功皇后異国への御つれ被遊候神と申伝候と見ゆ

  ↓
太平記 巻第40 神功皇后高麗を攻め給ふ事
小学館 新編日本古典文学全集 57 太平記C
P430‐7 竜宮に宝とする旱珠・満珠
頭注13
「安曇磯良ト申スハ、筑前国ニテハ鹿嶋(シカノ)大明神、常陸国ニテハ鹿嶋大明神、大和国ニテハ春日大明神ト申ケリ。 一体分身、同躰異名ノ御事也」(八幡愚童訓)。
大和国 万葉集667左注 安曇外命婦
春日大明神の場所は有冨上八幡宮(岩谷さん宅前の坂上にあった)

高良明神 大河原(おおこうら)、吉母海岸の甲原折





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逸文 志摩国 文言「可怜」

2017/03/15 15:42

下関市吉母の海岸で応神天皇が産まれた説が伝わり、いや応神天皇ではなく鵜葺草葺不合命であろう説も古くからある。日本書紀 神代下の塩土老翁・彦火火出見尊の記述は吉母の海岸だ。 吉母の海では鯛の一本釣が行われてきた。

角川ソフィア文庫 『風土記下』 P214
逸文 志摩国 吉津嶋
の記述は下関市吉母の黒嶋である。

吉母の大河原 吉津さん宅
永田本町 永田川沿い 津守さん宅

『よしみ誌史』 P711
弁財天、恵美須堂
威瀬(いせの瀬)

吉母に字「柏」 がある。 樋の口神社は天照大神を祭る。
住吉大社神代記は吉母・永田・吉見だ。

文庫書記@160‐8
可怜小汀
汀 吉母は「汀の里」 と呼ばれる

文庫書記A38‐12
是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり。 傍国の可怜し国なり。

豊玉彦の海神の宮=天照大神の伊勢国=下関市吉母の黒嶋=前方後円墳の祖形=蓬莱山


吉母の黒嶋は前方後円墳の形をしているが段築がない。 でも日本書紀 神代下と垂仁紀の「可怜」 の文言から吉母の黒嶋は前方後円墳の祖形になったと言える。

天照大神は晩年、有冨のハンドウ山上から吉母の黒嶋に移った。
 初期 前方後円墳の祖形 有冨のハンドウ山
 中期 前方後円墳の祖形 吉母の黒嶋


考古学者 広瀬和雄もたじろく私見の前方後円墳説を披露した。
下関市・山口県で考古学をやっている連中は小田富士雄含めて吉母の黒嶋を見て何も感じないので、関西・東京の研究家に訪れてもらいたい。


ゼンリン住宅地図で吉母港を見ると宗像さん宅がある。 昔からここに住んでいた人である。

三重県伊勢の志摩=福岡県糸島の志摩  両者は同じ場所か。


山口県風土誌 9巻
P434 誕生神社

P438‐1行目 乳母屋社・守屋社
吉見下の乳母屋社、黒井の杜屋神社は吉母にあった社を移した。

P439 黒島観音堂
なぜ「普門院」 を称えるのか不詳




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豊浦町の王氏

2017/03/11 14:33

『豊浦町史 二』 P220‐6行目
杜屋神社の鐘銘に見える矢田部氏、本姓を王氏、橘氏とする人々
 ↓
王氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BB%81

百済王氏
百済王 禅広(善光) 文庫書記D270‐2、D30‐12

明軍が歌一首
ttp://achikochitazusaete.web.fc2.com/manyoutorai/yomyougun/sijin.html

厚母 梅光学院大跡北側の小字「王地」

百済系王氏がいた場所は黒井・厚母か。


新羅 涌田後地

任那 文庫書記A20‐7
是を以て、汝が本国の名を改めて、追ひて御城天皇の御名を負りて、便ち汝が国の名にせよ
  ↓
室津の字「」(はざま)

新羅は涌田後地、任那は室津 字「間」 である。


角川日本地名大辞典 35 山口県
吉永 <豊浦町> P887左

吉永別府 南限 大池 隼人之流也
吉永の南に大池があった。 これが淡海か。

隼人の 「流」 は支流、あるいは血筋。
吉永と黒井の境、または黒井に隼人がいた。

『豊浦町史 二』 P307 吉永村地下上申絵図では吉永川は野川とある。

継体紀 近江毛野臣 文庫書記B208‐6
枚方ゆ 笛き上る 近江のや 毛野の若子い 笛き上る

室津・黒井の海岸の松林を「木ノ村」というので朝鮮半島に出兵していた氏は室津・黒井の人たちだろう


文庫書記D32‐11 天智3年
是の月に、海国言さく、「坂田郡の人 小竹田史身が猪槽の水の中に、忽然に稲生れり。 身、取りて収む。 日日に富を致す。 栗太郡の人 磐城村主が新婦の床敷の頭端に、一宿の間に、稲生ひて穂いでたり。 其の旦に垂頴して熟なり。 明日の夜、更に一つ穂を生せり。 新婦庭に出づ。両箇の鑰匙、天より前に落ちたり。 婦取りてに与ふ。 始めて富むことを得たり」 とまうす。

近江でなく海の表記である。
名前の「殷」 が中国王朝の殷と関係しているようで興味深い。
話は 稲穂=富む である。

村主(すぐり) 中国系朝鮮人、渡来人
万葉集30 楽浪の思賀の辛碕

室津下 松原遺跡(縄文) 潟湖


岩波 新日本古典文学大系 今昔物語集 五 P514
太郡の巨樹 柞はクヌギ

小学館 新編日本古典文学全集 今昔物語集 4 P37

長門国豊浦郡 原郷





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出雲国は吉母〜安岡。 とくに福江大塚、船越、吉見

2017/03/11 04:12

島、島浦 御崎
纏向 有冨古墳
出雲国は吉母〜安岡。 とくに福江大塚、船越、吉見

猿田彦 福江大塚の字「猿田」「猿田下」

新羅 涌田・吉永・黒井

高志 船越
鳥上 福江大塚 字「王仁」 の皇子社。 または竜王山
清(すが)、出雲八重垣 福江大塚の字「清水」「神田」、皇子社

熊成峯 竜王山
道返の大神、出雲の平坂 千石岩
根の堅州国 吉見
出雲大社 古宿 七曲の どさんこラーメン店付近にあった浜宮

福江与三左衛門の「与三」 は黄泉

八岐大蛇 播磨国風土記 讃容郡 仲川の里 船越の中川さん宅
河内の国 兔寸 吉母の大河原 河内社
肥の川 船越川、または新免川

船越の小字「赤松ヶ尾」 は仙人の「赤松子」 か。

大国主命の出雲国 福江の大塚
根国 吉見の龍王神社あたり

矢田、矢田部、矢上  福江大塚の字「矢びつ」、または「矢瀬」

万葉集1065〜1067
どさんこラーメン店前の砂浜、古宿。
大和太の浜 「七曲」 と呼ばれる海岸線




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シンポジウム 鋳銭司・陶

2017/03/05 12:24

3月4日(土) 山口南総合センター ホール
シンポジウム 古代テクノポリス 鋳銭司・陶
山口大学 山口学研究センター

パネリスト
司会 櫻木晋一 下関市立大学 教授
小田富士雄 福岡大学 名誉教授
松村恵司 奈良文化財研究所 所長
高橋照彦 大阪大学 教授
池田善文 長登銅山文化交流館 館長
青島啓 山口市教育委員会 文化財保護課

私見 考古学よりもレジメの文献を見てアイデアが得られた。

配布資料の小冊子
P10 小田富士雄
豊前の国の風土記に云わく、田河の郡。 鹿春の郷郡の東北のかたにあり。 此の郷の中に河あり。 年魚あり。 其の源は、郡の東北のかた、杉坂山より出でて、直に正西を指して流れ下りて、真漏川に湊い会えり。 此の河の瀬清浄し。 因りて清河原の村と号けき。 今、鹿春の郷と謂うは訛れるなり。 昔者、新羅の国の神、自ら度り到来りて、此の河原に住みき。 便即ち、名づけて鹿春の神と曰う。 又、郷の北に峯あり。 頂に沼あり。 周り卅六歩ばかりなり。 黄揚樹生い、兼、龍骨あり。 第二の峯には銅、并に黄楊・龍骨あり。 第三の峯には龍骨あり。

鹿春の郷
岩波書店 日本古典文学大系 風土記(P511) は読みにくいので、小学館 新編日本古典文学全集 風土記(P548)、角川ソフィア文庫風土記下(P404) を開いた方がよい。

豊前国の鹿春は福岡県春でなく下関市吉母の御崎である。
古事記 末羅県の玉嶋里 は御崎の小川さん宅
清河原 藤原清河
新羅の国の神 日矛 「天」 は竹生寺からの方位の御崎を表す。

文庫書記@80‐3 紀伊国に所坐す日前神
文庫書記A24‐4 日鏡

近江国も御崎だ。 若狭国は涌田。
但馬国は吉永の「無田の田島」 だ。

長門、筑前、筑後、伊勢、豊前、肥前、穴戸、伊予、近江 みな御崎だ。
伊予の天山(御崎)、天香具山(有冨上)

白村江の戦 筑紫の長津は御崎
下関倭国の渡海 出航・帰港は御崎だった。

吉野宮 室津上のどこか
近江宮 御崎

伊賀の青墓
椿原の遍路道を上がり砂防ダムの場所にある石仏墓地は隠(なばり、名張山)

邪馬台国は室津だ ※5年前に書いたもの
http://44051510.at.webry.info/201211/article_11.html


P39 池田善文
和歌山県隅田八幡宮所蔵の古鏡「人物画像鏡」 の銘文に「癸未年八月十、大王年、男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻、念長寿、遣開中費直穢人今州利二人等、取白上同二百旱、作此意」 とあって、干支年号から443年か503年と考えられている。

斯麻=嶋 御崎
御崎の淵ヶ谷は石灰岩層で洞窟が2つあり銅を掘っていたと伝える。

筑紫の各羅嶋の「各羅」 は「カラ、河原」 と訓むべきである。
文庫書記B40‐11 雄略紀
文庫書記B156‐3 武烈紀

癸未年八月十、大王年(×)
癸未年八月十大王年(〇) 「日」 が入る
大王 「十」 は天心十道

周防国熊毛郡牛嶋西汀、吉敷郡達理山も下関旧市域だろう。
山口県風土誌 9巻 P420
吉母の印内・金畠の「金山」
字「山口」 の山口さんの話によれば字「金畠」 には金・銅の鉱脈はないという。 字「平山」 で銅を採掘していたと話す人がいるので、吉母の字「平山」 が周防国熊毛郡牛嶋西汀だろう。

吉備嶋皇祖墓 土師娑婆連猪手 文庫書記C206‐5  吉備は吉母
文庫書記C94‐3 久目皇子薨せぬ。仍りて周芳の娑婆に殯す。乃ち土師連猪手を遣して殯の事を掌らしむ。故、猪手連の孫を娑婆連と曰ふ。

吉備子 継体紀24年 文庫書紀B204-8

天平10年12月廿日
豊浦団五十長凡海部我妹、部領使として周防国を過ぎて上京・・・
凡海部 吉母の大河原
周防国 吉母浜
上京 京の場所は有冨の字「中村畦」

続日本紀は下関倭国の書に関西の出来事を所々加えて編集されている

宜寸川 万葉集3011 有冨の金鋳ヶ谷か。
門司の大里に字「金鋳小路」 という地名がある。

伊予国の銀は御崎か。

長寿
押坂臣 霊芝 文庫書記C218‐9


田中朝臣法麻呂
『汀の里』 下関市吉母の郷土史本
P65 銅の発掘
昭和10年ころ、銅が出ると云うことで大河原の「茶臼岩」(=地名) で、1年間位発掘が行われ大きな穴が出来ていた

P93下 御崎の小字「田中殿」

下関市立考古博物館 平成28年度 第6回 考古よもやま話
『長門鋳銭司を解明せよ! 〜長門鋳銭所跡発掘調査の最前線〜』
配布レジメ 掲載地図 長門鋳銭所の真前の小字「田中」

伊予国は下関市吉母の御崎 淵ヶ谷の馬牧伝説地




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下関市有冨の岩谷さん宅は斉明天皇の帝闕である。

2017/03/03 08:55

有冨上
邪馬台国の場所、すなわち記紀・万葉の飛鳥は下関市有冨の中村である。
集落では高い位置にある家が村長の格。

中村さん旧宅跡の空地に邪馬台国があった。
火事の後、下に移動した今の中村さんの家 小墾田宮、橘寺

儀万さんの家 飛鳥浄御原宮  文庫書記D148‐9 西門に射ふ。
岩谷さんの家 後飛鳥岡本宮

文庫書紀C340-7
秋7月の辛巳の朔甲申に、蝦夷200余、に詣でて朝献る。

「闕」 を漢和辞典で調べる。
岩谷さん宅の石垣が斉明紀の記述である。 重要文化財指定にあたいする。
有冨の岩谷の家は斉明天皇が造営した石造りの王城である。
中野さん宅横の細い道にある石組みの土手にも注目したい。

有冨の岩谷さん宅は岡本宮跡に比定されるので、日本書紀の記述は中国人流の白髪三千丈である。


綾羅木
綾羅木の若宮古墳  仁徳天皇陵
根拠 「若宮神社」 の多くが仁徳天皇を祭る。

JR梶栗郷台地駅の駐車場  百舌鳥土師連土徳
川北神社・上の山古墳  山ア・大坂。 北側の墓地は山背


室津上 字「山中」
昭和30年まで御崎は室津上に所属していた。 御崎は下関市有冨 中村にあった邪馬台国の筑紫島門・遠朝廷なので室津上も重大な場所である。
室津・黒井海岸の松林を「木ノ村」 というので紀伊国は室津
室津の光蓮寺の先祖は藤原鎌足・淡海公なので室津浦は近江国

万葉集
1664 小椋山 字「山中」 の西側 小倉ヶ辻(308.7 m)
以下、御崎・室津の歌が並ぶ。

室津下に「古殿池」 という池がある。
古人大兄皇子、大市皇子、吉野太子

吉野、近江の場所は複数か所ある。

室津下「松原」 に縄文遺跡がある。
古墳時代後期か、室津に忽然と人がいなくなった遺跡があると聞いた。


 奈良県は遺跡は超立派だけど天子南面や風水に合致しない。 福岡市板付の遺跡には幅10メートルの道があったが、風水では直線道は凶である。 古い時代の学・教養は漢字陰陽五行風水易経道家だから、これらに則った場所は「中国学の博士の連中がいた」 と見れる。 富夲銭の七曜に合致する場所は下関市有冨の中村のみ。 奈良県は日本書紀の陸奥である。

古墳から青銅の剣・鏡が出た所は古事記・日本書紀の人たちではない。


偽装社会
『日本古代貨幣の創出』 今村啓爾 著  講談社学術文庫 2015年
P19-5行目
本書で私がとった論理は、基本的に考古学データと文献記録の突き合わせである。 考古学データとは遺跡で確認される各貨幣の年代とか扱われかた、貨幣の形の変化とか重さ、残っている量的比率などの物的証拠である。 これらは積極的に何かを語るような性質のものではないが、けっして嘘をつくことはない。 人に読ませるために書いたものではないから嘘をつく意味はないし、嘘をつくことができない史料たちなのだ。 貨幣の重さ、金属量というものが、その貨幣に付与された性格を偽りなく話す。 その寡黙な一言には確かな重みがある。 粉飾に満ちて雄弁な『続日本紀』 の言葉の裏を見透かす重みが。 本書で長々と続く重量と価格の関係の退屈な議論は、貨幣をして、自分がどのような性格を与えられたものであったかを語らせる基本的で不可欠な作業なのである。

今村啓爾は馬鹿である。 奈良県の遺跡は "古代の偽装社会" であることを見破ることが出来ずに出土物を真に受けている。

奈良国立文化財研究所が発掘する藤原宮跡やキトラ古墳壁画は真の風水ではない。 関西圏、畿内の遺跡・遺物は古代人の偽装である。


真実 史実
高松塚古墳の「高松」 の場所は下関市有冨のハンドウ山の上であり、奈良県の高松塚古墳は有冨ハンドウ山の上にいた天女を描いたものである。

大日本豊秋津洲
大州 文庫書紀@32-5
大八嶋国 など。
これらは日本列島の本州ではなく有冨のハンドウ山〜その尾根である。

八嶋国 文庫書記B180‐7
「八嶋国」 は日本列島の本州ではなく有冨ハンドウ山。 ここでは登り口

忌寸八嶋
長府の小字「八島」 ではなく古事記の大八嶋国で有冨ハンドウ山上の尾根
邪馬台国は有冨ハンドウ山の尾根、大迫池の上、有冨墓地の東上の尾根

大州の「大」 は富夲銭の「夲」 の構成要素「大」
「大」 という字は五角形。 隋書俀国伝 俀国 → 「大国」
「十」 は天心十道、扶桑の10個の太陽

大口 ハンドウ山の登り口
大口の真神原
三輪君大口
社戸臣大口 



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任那、火葦北、野島  吉母の大河原

2017/03/01 08:53

魚介類・アワビの献上 考古遺跡
『長崎県の地名』 日本歴史地名大系 平凡社
P570下
宮ノ首遺跡
宇久島の西端、南向きの入江に臨む貝塚。 平成2年 (1990) に発掘調査。
縄文時代前期から弥生時代中期後半、平安期・鎌倉期の遺物が発見されているが、主体は古墳時代末期から奈良期にかけての玄海灘式製塩土器などを含む須恵器・土師器類である。 貝塚では大型のアワビ貝の純粋貝層がみられ、「肥前風土記」 値賀島の条にみえる干鮑の貢納を裏付けるものといえよう。 また中国製陶磁器片(青磁・白磁) も出土。


宗像市 神湊
浜宮貝塚、新波止貝塚  5世紀〜7世紀末

角島
角島の後浜遺跡 場所 夢ヶア 角島灯台の駐車場北
古墳時代後期の貝塚では大型アワビの選択がされた。

土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム の本
※5年前に書いたものなので、半分は今と考えが異なる。 
http://44051510.at.webry.info/201203/article_58.html


嶋曲、美佐祁
『日本書紀U』 現代語訳 中公クラシックス  2003年
P198  継体紀
23年の春3月に、百済の王は下哆唎国の国守穂積押山臣に、
「日本への朝貢の使者は、嶋曲 〔海中の嶋の出入りのア岸(さき) をいう。 人々は美佐祁(みさき) という〕 を避けようとしていつも風波に苦しみ、貢納の物を湿らせたり、こわしてしまったりしております。 なにとぞ加羅の多沙津(蟾津江河口の地) を賜わり、私どもの朝貢の路にしたいと存じます」
と言った。 そこで押山臣は、この要請を天皇に奏上した (以上7年条参照)。

この月に、物部伊勢連父根・吉士老らを遣わし、津(多沙津) を百済の王に賜わろうとした。 すると加羅(大加羅=高霊加羅) の王は勅使に、
「この津(多沙津) は官家(みやけ) が置かれて以来、私どもが朝貢するための津渉(つわたり) としております。 そうたやすく隣国に賜うということができましょうか。 統治せよと定められた、最初の領域を違えることになります」
と言った。  勅使の父根らは、その場で津を百済に賜うのはむずかしいとみて、大嶋(南海島か) にもどり、別に録史(ふびと 文書・記録をつかさどる下級の官人) を遣わして扶余(百済) に賜わった (以上9年条参照)。



宗像三女神 「海の北の道の中、道主貴」 を連想させる。
福岡市博多区の官家、宗像、門司、豊北町、向津具・油谷などではない。

記述から下関市西端の御崎と見れる。

大嶋
御崎にあった遠朝廷・伊都国 ・・・ 戸数が少ない
または
皇都有冨 ハンドウ山上の尾根 ・・・ 鏡王女の大嶋嶺

雄略7年 大嶋 文庫書記B48-7
私見 以前は大嶋を彦島の福浦と見ていたが、今は御崎と考えている。

万葉集
91 大嶋嶺
3638 大嶋鳴門

水城は吉母の明見(みょうけん) さんの池。 窪田さん宅の上にある。
吉母港には宗像という家があるので、筑紫の水沼君はこの池か。


とりあえずの仮説 加羅の多沙津は室津の交番あたりか?

阿利斯等(任那の王) は黒井・吉永に在住か。
中公クラシックスの日本書紀は加羅と任那は別で阿利斯等を任那の王とする。
文庫書紀C32-11 敏達紀 火葦北国造 阿利斯登が子 達率日羅 の場所を解明することが鍵となる。

以前の私見 都怒我阿羅斯等がいた場所  
・ 「田舎」 は日本語なので地名の「田舎」 を探して対馬と見た。
意富加羅国は対馬。 魏志倭人伝で対馬は官ではなく大官である。
・ 意富加羅国の「意富」 という地名表記は倭風であり朝鮮風の表記ではない。
都怒我阿羅斯等は宗像市の光岡八幡宮にいた人と見ていた。


垂仁紀 都怒我阿羅斯等
文庫書紀A20-3 浦  御崎
出雲国 御崎 〜 福江
纏向 有冨上の東側。 有冨古墳がある所

風土記
御魚家 文庫風土記下169
任那は様々の魚物多き国にて毎度日本の朝廷に献上す。
  ↓
涌田漁港 養殖場の料理屋

立ち位置 大王家は有冨上の字「中村畔」
魚を献上してくる地域は涌田になる。 任那の御魚家は涌田である。

マリンレスト恵美寿 - 黒井漁業協同組合
ttp://www.kuroi-gyokyo.com/rest/rest.html

任那は魚が産物という記述は記紀・万葉にはない。
淡路の野嶋の海子がアワビの御調を難波朝に献上している。 万葉集933

問題点
涌田の心光寺古墳は新羅系であり、百済・加羅系ではない。


火葦北国造
火の国 吉母浜埋葬遺跡から出る火の玉
葦 吉母
葦北 吉母の北、大河原(おおこら) は意富加羅の転訛と考えられる。
野坂 字「野地ノ下」 万葉集246
水島 蓋井島、水島
姫島 字「姫畠」
吉備児島 吉母の黒嶋
吉備海部 吉母漁港

文庫書紀C36-3
火葦北国造 刑部靫部 阿利斯登 吉母の大河原の人

また、室津のヨットハーバーに入る所を流れる小川は河原(こうら)川である。
この場所は加羅か。

吉母の大河原(おおこら) は意富加羅の転訛である。
淡路の野嶋も大河原の小字「野地ノ下」 である。

長い間探してきた「葦北」の場所は下関市吉母の大河原と判明した。
葦北の坂の浦(万葉集246)=淡路の島(万葉集933) 字「地ノ下」

加羅の多沙津の位置は吉母の大河原。 または室津浦の河原川。


白雉
文庫書紀C88-6 推古紀
秋9月の癸亥の朔に、百済、駱駝1匹、驢1匹、羊2頭、白雉1隻を貢れり。
文庫書紀D112-7 天武紀
3月の丙戌の朔壬寅に、備後国司白雉を亀石郡に獲て貢れり。

穴戸の麻山の白雉=百済の白雉=備後国司の白雉
吉備国は吉母である。 吉母の大河原は百済の領地だった。

白雉の生息地
吉母 大河原の字「仙堂」 (不燃ゴミ埋立地へ上る急坂)〜不燃ゴミ埋立場内
  ↓
穴門館の候補地

敏達紀 文庫書紀C24-11
戊戌に、船史王辰爾が弟に詔して、姓を賜ひて史とす。
斉明紀 文庫書紀C338-1
西海使小花下阿曇連頬垂・小山下臣傴僂

「津」 の地名
角島は「津の島」 とも書く。
吉見 古宿の国道 七曲 どさんこラーメン店がある所を「津の地」 という。
吉母の大河原 私見によれば「加羅の多沙津」 の場所

津島、津臣、津史、津守など「津」 の名前は吉母の大河原の可能性がある。
都怒我阿羅斯等の黄牛は角島かもしれないが吉母 大河原の方が可能性大だ。


出雲
斉明5年 是歳 文庫書紀C354-末
郡 おうのこほり
  ↓
田川で安岡は出雲

纏向は有冨古墳がある所




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倭王は有冨の中村さん

2017/02/27 18:46

歴史教科書の邪馬台国、倭は下関市有冨の中村さん家の先祖である。
有冨村の庄屋だった儀万さんは天武天皇の血筋である。

中村さん 老子の家系 大王家の直系
儀万さん 徐福の家系 「瀛」 は豊北町の海岸

徐福は豊北町の海岸に住んだ。
鬼道は徐福の方士に通じるので神功皇后は豊北町海岸の人である。

日本の原始古代の「中央」「政権」 は下関市は有冨 字「中村畔」 にあった。
磯城  岩山である竹生山。 有冨 薬師池の上

黒山 文庫書記304-4
黒は五行配当で北だから、立ち位置 字「中村畔」 真北の竹生山。
  ↓
蘇我倉山田麻呂の末裔である蒲生野山田の倉光さん家。

関西勢力は蝦夷である。
武久浜 半両銭  漢人、東漢直の地

下関市域の関西系蝦夷の居住地
後田町5丁目 椎の木原墳墓郡 庄内式土器が出土
  ↓
蘇我蝦夷 幡生の生野神社
文庫書紀C218-8 フクロウ

生野神社の幸せふくろうなど
ttp://jeezblog.blog.fc2.com/blog-entry-317.html

幡生の生野神社は「豊浦大臣の大津の宅の倉」 に比定される。


稗田地蔵堂遺跡は漢人の墓。 弥生中期後半で半両銭の武久浜と同じ。
  蓋弓帽 楽浪郡
  連弧文鏡(前漢) は陰陽五行のデザインであり教養ある漢人の鏡である。
稗田地蔵堂遺跡の被葬者は楽浪郡の漢人官吏か。


文庫書紀C224-11 皇極紀
更家を畝傍山の東に起つ。 池を穿りて城とせり。 庫を起てて箭を儲む。 恒に五十の兵士を将て、身に繞らして出入す。 健人を名付けて、東方の儐従者と曰ふ。
文庫書紀C226-1
漢直等、全ら2つの門に侍り。

関西勢力は蝦夷で東漢直。 応神朝の時に渡来した阿知使臣の集団が奈良県の纏向を造った。

蘇我蝦夷の家は3つある。
 大津の家 フクロウ
 甘檮岡
 畝傍山の東 池を掘って砦とする。


文庫書紀C218-9
菟田山は有冨のハンドウ山の尾根で不老長寿の霊芝が生えていた。
ハンドウ山の登山口は大口の真神原。 勾金橋があった。
春日山田皇女は有冨ハンドウ山の人。


神武東征の歌の倒語、壬申の乱の合言葉「金」 は同じ場所である。

綾羅木の川北神社(上の山古墳) は記紀の生駒山である。
上の山古墳から出土した鈴釧は陰陽五行を表す。

五芒星
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%8A%92%E6%98%9F


椋野の岩屋古墳 吉野の国樔 醴酒  文庫書紀A208-3


近江国  室津、涌田後地
室津の光蓮寺 先祖は鎌足
※3年以上前に書いたもので今とは見解が異なる部分あり。
http://44051510.at.webry.info/201310/article_51.html

継体天皇
近江国高嶋 室津の甲山は高山とも書く。
越前国高向 向津具の久津か 

欽明紀の三韓・任那は黒井・吉永周辺か

三韓を攻めた紀氏は室津・黒井の海岸 字「木ノ村」 の人
近江毛野臣は室津の人


三島
飯飯(いひぼ)
安閑紀 文庫書紀B218-8
三嶋県主の飯粒は、古事記の神功記で
「筑紫の末羅県の玉島の里で、飯粒を餌にして年魚を釣った。
小河 勝門比売 」

摂津国三島は室津下か。
御崎に小川さんの家がある。

津守さん 永田川下流
宗像さん 吉母港

藤原鎌足
疾を称して退でて三嶋に居り。  文庫書紀C214-8 皇極紀

藤原内大臣薨せぬ。 文庫書紀D50-9
私第に薨せぬ。 遷して山の南に殯す。

山の南 → 山科野(文庫書紀D48-6、万葉集21 蒲生野)、山階

私見
蒲生野山田の王子権現山古墳は藤原鎌足の墓
涌田後地の心光寺古墳は新羅系。 乙巳の変の「韓人」 は百済系。


松浦
万葉集
865 松浦仙媛 仙境の媛だから御崎の淵ヶ谷
3681 肥前国松浦郡狛嶋亭 狛より御崎の淵ヶ谷 丸瀬 野生馬がいた

綾羅木 若宮古墳横 字「馬場」 も松浦郡狛嶋の候補地。 綾羅木馬場遺跡

万葉集501

風土記333‐5  肥前国風土記 松浦の郡
各、弟姫子の骨と謂ひて、すなわちこの峰の南に就きて、を造りて治め置きき。 その墓見に在り。
  ↓
場所は吉母の字「西条」 小西さん宅の家裏 崖下のお堂

肥前国風土記 松浦の郡 では山の頂に沼がある。峰の南に墓がある。
この記述に合致する所は吉母 字「明見」 の妙見。西光寺の西にある溜池の上。
吉母 字「明見」 窪田さんの上にある溜池は「筑紫の水城」 に見える。

綾羅木郷 了元寺の西にある池は篠原なので、ここも肥前国風土記 松浦の候補地。

万葉集では松浦船が難波の穿江を漕いでいる。
1143
3173


御崎
筑前国嶋郡
福岡県糸島の志摩ではなく下関市吉母 御崎が記紀・万葉の「嶋」 である。

嶋曲 文庫書紀B194-5 継体紀

御崎が吉母に編入されたのは昭和30年(1955) で、それまでは豊浦町室津上に属していた。

室津の観音院は真言宗で戦前まで狗留孫山修禅寺の独身僧が籠る寺だった。 この寺は椿原の道を上がった砂防ダムの上にあって現在はない。 戒律が厳格だった寺だから法隆寺、吉野寺などの候補。

『豊浦町史 二』
P262 地図
室津上
出合堤前のお地蔵さんがある場所の地名は 天子の浴 である。
近江宮、吉野宮の候補地
※ 近江、吉野の場所は何か所もある。

室津上・吉母上、厚母の阿蔵は仏教史跡が多い。
私見では、吉永・黒井の古代朝鮮集落から日本に仏教が入ってきた。

万葉集
黒牛の海 室津下 字「牛迫」 か
1218
1672
1798

白 五行配当の西、御崎 淵ヶ谷の石灰岩
1671 白神の
1668 白埼は

玉津島 室津西側の絶壁海岸に行き、命懸けで鮑玉を採る。


信濃国
木曽(岐蘇、吉蘇) 吉見峠
信濃国 内日の赤田代
水派山 一之瀬、または竹生山



研究の方法
本州最西端 毘沙ノ鼻 駐車場にある「自然と伝説の里」 吉母マップ
から邪馬台国の要衝が御崎にあったことが判明する。
  ↓
畳石
毘沙ノ鼻の岩下附近にあり、海中より階段状に黄茶褐色の岩の事。
神功皇后が帰朝の折、ここから上陸されたと伝えられている。


毘沙門天
甲冑を着けて鉾または宝棒を持ち北方世界を守護する。
  ↓
宗像三女神の「海北道中、道主貴」 を連想させる。


文庫書紀B228-7 宣化紀
夫れ筑紫国は、遐く邇く朝で届る所、去来の関門にする所なり。 是を以て、海表の国は、海水を候ひて来賓き、天雲を望りて貢奉る。

文庫書紀B194-4 継体紀
  23年の春3月に、百済の王、下哆唎国守、穂積押山臣に謂りて曰はく、 「夫れ朝貢ぐる使者、恒に嶋曲を避るごとに、 海中の嶋の曲(くま) のア岸(さき) を謂ふ。 俗、美佐祁(みさき) と云ふ。 毎に風波に苦しぶ

物部伊勢連父根
加羅の多沙津 万葉集30 楽浪の思賀の
布那牟羅(ふなむら) 川棚 字「舟郡」(ふなごおり)

黒井の石印寺は関印寺とも書き、背後に鬼ヶ城山がある。
黒井、川棚は渡来人集落があって山に要塞があった。


  記紀・万葉の「島」 は吉母の御崎
文庫書紀A20-3 嶋浦 都怒我阿羅斯等 垂仁紀
文庫書紀D64-4 天智紀 歌謡
み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 傍も良き

野嶋  夏草、淡路

万葉集
304 遠朝廷 島門 
389 島伝い
1400 島伝う
3232 島伝い み吉野の瀧

筑紫 御崎の海岸
筑紫の防人、島守
筑紫娘子 遊行女婦

筑紫、長門、伊勢、伊予 など、みな御崎内 


私見
三韓の朝貢船は毘沙ノ鼻下の畳石に着岸していた。 ここが筑紫国の関門。
御津、三保の津、御大の御前 はここか。

御崎の海岸は波風が強いし岩場だから船を着けるには場所が悪い。

室津浦は元寇時に元の使者が来た港で、日本の玄関だった。
室津の阿弥陀院 山号 蓬莱山

わかった!!
吉母の大河原だ。




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日下(くさか) 綾羅木郷遺跡

2017/02/22 02:47

『新版 古事記』 角川ソフィア文庫 平成21年
雄略記
引田部赤猪子
引田部赤猪子は御諸山の住人なので綾羅木の引田ではない。
「御諸」 の表記は風水の龍脈を表し、御諸山は有冨ハンドウ山とその尾根である。

有冨ハンドウ山 登山口にある幅20センチのちょろちょろの用水路が引田の美和河であり、赤猪子の住所はハンドウ山 登山道入口の横に設置されたイノシシの箱罠がある場所である。 赤猪子は高貴な巫女であり独身であるから魏志倭人伝の卑弥呼に通じる。

引田部赤猪子
雄略紀 童女君
常陸国風土記 那賀郡 茨城里 「神の子」
竹取物語 かぐや姫
卑弥呼
は話が似ているので、みな同じ場所である。

有冨 ハンドウ山の登山口は祝詞の「山の口に坐す皇神等」 の場所である。


歌謡番号94
雄略天皇の宮は 日下江の入り江の蓮 近くにある。
綾羅木389番地の福川均さん宅に泊瀬朝倉宮があったと見たい。

雄略天皇陵は綾羅木郷遺跡内 字「惣八」 "マムシに注意" の立て札が立つ所
根拠 多治比(たぢひ)=蝮(たぢひ)
蝮之水歯別命  たくさんの白鷺が留まっていた池の近くか。

綾羅木V式(古) の文様は日の出または日の入りの図


阿岐豆野の御狩り
有冨 大迫池の道路下、柿の木がある所


葛城山の大猪
有冨墓地の東側の尾根が葛城山である。 墓地入口の東隣、農家が野菜屑を捨てている場所にイノシシの箱罠が設置されており、昨年11月に大イノシシが捕獲されている。


下関市立考古博物館
休憩所 弥生の里
以前の自販機に警世の句 「古代を知れば− 未来が見える」 とあった。

草香邑、日下  綾羅木郷台地
若日下部王 字「若宮」
綾羅木郷遺跡から出土した犬の骨半分は若日下部王が飼っていた白犬である。

孔舎衛坂、大坂  石松さん宅横の急坂
蘇我蝦夷の畝傍の家は石松さん宅にあった。 文庫書紀C190-12
万葉集52 畝火の

斑鳩寺の墓
上の山古墳の北側を下りて墓がある場所に山背大兄王が居た。


基点 方位
ハンドウ山の登山口付近 藤原宮

冬至の日の出 方位
長府 覚苑寺の裏山(176.6m) 青香具山 仁馬山古墳が向く方角

冬至の日没 方位
ハンドウ山の山頂 天香具山
ハンドウ山の登山口付近 藤原宮
綾羅木 字「宝前」 中世の祭祀跡 日向・日下
綾羅木 字「下田」「船入」 難波宮
綾羅木海岸 字「勝ヶ野」 万葉集275、1171
  ↓
直線上に並ぶ


風土記 日下部氏
以下の場所はみな下関市立考古博物館の駐車場東端

播磨国風土記 美嚢の郡
119-12 日下部の連意美

出雲国風土記 秋鹿の郡
197-8 郡司 主帳 外従八位下勲□等 日下部の臣

豊後国風土記 日田の郡
289-8 邑阿自 日下部の君等が祖

肥前国風土記 松浦の郡
330-2 弟日姫子 日下部の君等の祖
333-9 大屋田子 日下部君等の祖

逸文 丹後国
474-3 筒川の嶼子 日下部の首らが先つ祖




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下関市立考古博物館 駐車場の東側

2017/02/20 06:13

日本書紀に書かれている下関市立考古博物館 駐車場東側の出来事を考察する。 参照 舒明天皇 即位前紀 文庫書紀C170-2

先代旧事本紀 巻第一の日向の橘の小門の橿原に注目して、
神武東征の墺区(文庫書紀238-10) の「墺」 は入江の奥 の意味である。 この場所は綾羅木 字「宝前」 に比定される。

畝傍山  石松さん宅 文庫書紀C170-4 畝傍山 木立薄けど

字「木舩」
境部理勢の「摩」 は研だから砥石。 出土した砥石は摩理勢の持ち物。

綾羅木台地遺跡 (木舩地区)
http://44051510.at.webry.info/201607/article_2.html

字「寺屋敷」  尼寺
字「中屋敷」  泊瀬仲王 墨江中王

字「宝前」  住吉神 宝皇女 浦島太郎(日下部の首の祖) の家

字「宝前」 地区の発掘調査にあたっては浦島太郎の学術書を読んでおくべき。
『古代社会と浦島伝説』 上・下巻  水野祐 著 雄山閣 昭和50年
『浦島子伝』 重松明久 著 古典文庫 現代思想社 1981年
※ ネットで古本を購入する

字「の山」
宮太子(聖徳太子の斑鳩) 近つ飛鳥 饒速日尊 河内の哮峰
f 字鏡板付  戸豊聡耳皇子 蘇我


筒川の嶼子(水江の浦の嶼子)  丹後国風土記 逸文
川 「筒」 は住吉神 男  字「宝前」 
亀姫の龍宮城・蓬山・常世  吉母の御崎
倭  有冨 字「中村畔」

風土記478-1 筒川の ・・・ 綾羅木の「郷」 集落
歌謡
常世辺に 雲立ち渡る  常世の場所は吉母の御崎
辺に 風吹き上げて  倭の場所は有冨 字「中村畔」

子  綾羅木郷台地は原始古代は半島、陸繋島だった。


『新版 古事記』 角川ソフィア文庫 平成21年
仁徳記 吉備の黒日売
P180-5行目 安岡の大浦(安岡漁港の場所)
P181 歌謡番号55
倭方に 西風吹き上げて 雲離れ 退き居りとも 我忘れめや
下注19 丹後国風土記に類歌がある。
やまとへに風吹き上げて雲ばなれそき居りともよ吾を忘らすな
  ↓
風土記479-2

吉備上道采女大海 (雄略紀)
吉備穴戸武媛 (景行紀) 往古、黒嶋と吉母は陸続きでなく離れていた。
吉備嶋皇祖母命 吉母の樋の口神社(祭神 天照大神)
吉母の黒嶋は前方後円墳の形
  ↓
吉備国の場所は下関市 吉母下である。

古事記 吉備の黒日売の歌から仁徳天皇の難波宮も綾羅木郷台地あたり。


枯野という船 古事記
淡道嶋  蓋井島
高安山  原表山または草場山。 草場山の登山林道に山城跡があるという。

歌謡番号74
塩に焼き 吉母浜の古代製塩
海石 吉母の海の岩場 千畳敷


若宮古墳
肥前国風土記 三根の郡


梶栗橋・やよい橋 ・・・ JR梶栗郷台地駅の入口に架かる橋

「山口県風土誌」 9巻 P378 冨任村の境界
メクラ橋」 (目倉橋) は梶栗橋 − 綾羅木新町3丁目と梶栗町4丁目の境
  ↓
古事記の目弱王(書紀は眉輪王)
やよい橋の下には螺(にな貝) がいそうだ。

坂合彦皇子 文庫書紀B18-9
五行配当で黒=北=水。 綾羅木の了元寺付近で最も地勢が高い場所、または池のあたり。

綏靖紀 文庫書紀@250-1
会、手耳命、片丘の大ムロの中に有して、独大牀に臥します。 時に渟名川耳尊、神井耳命に謂りて曰はく、
耳命  「研」 は字「木舩」 出土の砥石
ムロ  弥生貯蔵穴
井命  字「惣

雄略天皇の泊瀬朝倉宮があった場所
休憩所 弥生の里 の東側、福川均(綾羅木389番地) さんあたり。

「雄」 はオス鳥、大きな鳥の意味か。
「惣」  手で束ねて集める、長男、総合

字「惣八」 で稲が栽培されていたなら台地の上なので、竺紫日向の高千穂宮の候補地になる。 つまり神武東征の出発地と上陸地は同じ場所で、バカバカしい話でございました。
吉母の御崎も竺紫、筑紫、日向の候補地である。


惣八  小字「惣八」
大辞林 第3版 三省堂
宗八
カレイ目カレイ科の海魚。 体長45cm 程度。 本州中部以北 ...

惣八・宗八
狂言の一。 もと料理人の俄(にわか)坊主と、還俗したての惣八という料理人が、それぞれの主人から仕事を命じられる。 2人は慣れないので手こずるが、互いに前身をうちあけ、仕事を交換する。

広辞苑 第6版 岩波書店
宗八・惣八
狂言。 元漁師の俄坊主が読経に苦労し、還俗したばかりの宗八が奉公先で料理に手こずるが、互いに身の上を語り交代する。 俄道心。


字「惣八」 は山幸彦・海幸彦の場所である。

塩土老翁・山幸彦の場所は吉母海岸と読めるので、まだ検討すべき。


天孫降臨
高天原の天磐座 有冨 ハンドウ山
日向の高千穂宮 下関市立考古博物館の駐車場 休憩所 弥生の里




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有冨の中村大王(おおきみ)

2017/02/17 09:40

高天原の家系  邪馬台国(倭国王) の位置
下関市有冨上 中村さんは皇祖神の直系。 庄屋の儀万さんは天武系「瀛」
下関市吉母の御崎。 とくに奥地の字「淵ヶ谷」 三井(みい) さん
北九州市門司区 小森江 羽山1丁目 庄屋の古野さん (旧姓 富留野)

本当の記紀・万葉の場所は上の3つ。

邪馬台国
有冨上 字「中村畔」、ハンドウ山

神武東征 国見丘の大石 山上の伊勢
ハンドウ山 山頂から平たい尾根を100 m 行った所

邪馬一国
吉母の御崎 字「淵ヶ谷」 「一」 は伊勢

顕宗紀 文庫書記104-2
稚子 長門、吉野の伝い と同じ。
大石尊
 大石 海岸の伊勢
 命でなく
この場所も吉母御崎 字「淵ヶ谷」

室津は「木ノ村」 で紀伊国
播磨国 吉母・永田・吉見

蓬莱の神仙郷 2か所
・ 有冨 ハンドウ山 山頂から平たい尾根を伝わって大迫池の上の尾根 香山
・ 吉母 御崎の奥地 字「淵ヶ谷」 滝がある所 と 下の海岸 天山
逸文 伊予国 の香山・天山である。


御崎神社−樋の口神社(安常)−永田 御堂遺跡−竹生寺−鯨の尾ヒレ
が直線上に並ぶ。
「鯨の尾ヒレ」 とは神武東征 久米歌、常陸国風土記 久慈郡 の鯨であり、
有冨 大迫池横の有冨墓地の東側尾根である。

御崎神社 − 天山 毘沙ノ鼻の万葉歌碑は伊予の天山

鯨の尾ヒレ香山 有冨ハンドウ山の奥の院が倭(大和国) の天加具山
山口県文書館にある地下上申絵図によれば、この場所はかく石峠と記される。
ハンドウ山の奥地は大谷とあり、逸文 常陸国 の大谷村に比定できる。
薬師池の上はふせぎが谷、竹生寺の山号 高山 は風水の玄武だ。

倭の香山 − 有冨ハンドウ山の山頂。 または鯨の尾ヒレ
伊予の天山 − 御崎の淵ヶ谷。 または毘沙ノ鼻・御崎神社
それぞれ候補地が少し離れて2か所ある。

石原の砕石場によって崩されている山の名前 東ヵ嶽は道教の泰山のこと。
毘沙ノ鼻・御崎神社の横は下関市の不燃ゴミ捨て場になっている。

奈良県と下関市有冨上は栗本慎一郎のいう「双分制」 で対応している。
奈良県の山の辺の道にある龍王山は有冨龍王山(ハンドウ山) にあたる。


常陸国風土記=大和国風土記
常陸国風土記は言葉文体、内容から大和国風土記であることが一読瞭然だ。


水江浦島子が行った蓬莱の仙衆は御崎の淵ヶ谷である。
水江浦島子の日下部首の先祖である。 万葉集1023 大埼の神の小浜 を綾羅木郷遺跡近く 字「大森ア」 と見て、水江浦島子の家もこの辺にあった。

草壁連醜経 白雉
今我が親神祖の知らす、穴戸国 は御崎の淵ヶ谷

吉野の場所は複数あり、御崎も吉野。
筑紫、伊予国、丹波国、丹後国、播磨国など、みな御崎である。


病気が心配
集落の人口が50人を越えると伝染病が蔓延して一挙に村が全滅する。
渡来人、外来の者は結核、コレラ、インフルエンザ、肝炎ウィルスを持ってる。
不老長寿の神仙郷 下関は倭の政策によって人口まばらであり、通行は北九州市小倉が使われた。 渡来人、外来の者が集まる人口密集地は医療が進歩してない昔では早死にする。

奈良県の平城京跡 − 人口20万人以上
下関にあった倭国の都 − 万葉集の都には7、8人しか住んでいない。


『古代遺跡 謎解きの旅』 風水ウォーキング 松本司 著 1999年
目次の裏



初め混沌〈〜〉としていた大地〈−〉に


世界を構造的・原理的に理解しようとする陰陽思想〈十〉が生まれ、


シャーマン〈巫〉は地上に十字状の柱を立てて太陽の影を見る土圭法〈土〉によって


時や方位を知るようになり、農耕の鍵を握った。


その中から〈王〉が現れ、大王〈玉〉になり、その後


税〈米〉をたくさん集めて律令国ができたが、


国家の混乱時には〈巫〉女の血を引く女帝が立てられたのだった ・・・・・・。


纏向の「纏」(てん) は風水の「砂」。


文献のカラクリ
記紀、万葉、風土記などで地名はちがっても場所は同じ。
万葉集、続日本紀の年代は50年繰り上がるか。

『日本後紀』 集英社
753-12 773-6
高位の人が入室して来たら、跪伏にかえて起立して深く拝礼しろ
貴い者に会ったら、跪くことをやめて起て
   ↓
天武紀 文庫書紀D184-7 と同じ。
日本後紀も古い時代の下関倭国の史料を使い回している。




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向津具 の考察

2017/02/17 04:03

向津具 久津
大海人皇子 向津具の久津の出身
http://44051510.at.webry.info/201505/article_19.html
大避神社  祭神 秦河勝
http://44051510.at.webry.info/201008/article_103.html

角島の元山遺跡 積石塚 1基。  『 豊北町史 2 』 P582-2行目
『蓬莱山と扶桑樹』(岡本健一 著) によれば、「瀛洲には積み石多し
積み石塚は1基しかない。 古賀市沖の相島に積石塚がある。

向津具には蓬莱の地であることや楊貴妃が本当に渡来したことを証明できる資料はない。 私は名古屋市 熱田神宮の蓬莱島・楊貴妃伝説は向津具の話であると推理する。 向津具から出土した有柄銅剣が本物の草薙剣である

尾張の瀛津世襲 → 尾張は瀛洲 → 向津具は瀛洲
大海人皇子は海部氏、尾張氏と関係深い。


東海
中国の原始地理書に見られる「東海」 であるが、
中国の都 西安の真東は山口県の豊北町の海岸である。
宇賀本郷 〜 島戸 〜 向津具 が西安の真東に位置する「東海」 である。

最寄りの気象台や海上保安本部の「海の相談室」 で風向きや海流を教えてくれる。 対馬中域から土井ヶ浜に向かう真東の海流がある。


秦王国
隋書倭国伝の秦王国は向津具 久津 の可能性もある。
秦王国までは東へ行く。
秦王国 → 十余国 → 倭国 は行く方向が書かれていないので、
向津具 →下関市綾羅木海岸 であったかもしれない。




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小森江の古野さん 筑紫君

2017/02/17 04:00

筑紫君 門司の小森江西説
小森江西校区 ・・・ 略して「小西」 と称されている

『ふるさと 小森江 にしひがし』 1976年  自費出版の郷土史本 
小森江村の庄屋
羽山1丁目 古野文子さんの家 ― 周辺に古野一族の家
古野家の歴史は神武天皇まで遡る。
古野家は古くは富留野といっていた。

門司区小森江西の古野という庄屋は「神武天皇まで遡る」 家伝が興味深い。
筑紫の高千穂宮か。 門司区小森江西の古野(旧 富留野) さんと下関市有冨の中村さんは遠い遠い親戚だ。

古野宅の回りが小森江村の中心地であり、川端さん、植前さん、黒田さん、奈須野さんなどが小森江村有力者の地主たちである。 井戸を持つ家が有力者だった。

下関市有冨 字「中村畔」 から北九州市門司区小森江西小学校は真南である。
西ではなく南の方角だから「竺紫君 石井」 ではない。
でも郷土本から小森江は井戸が特別重視された地だった。

羽山1丁目-番地 の小字は「火の山」 ・・・ 「火」 は方位の南
風師山、外記殿山を「鳥の山」 ともいう。


下関市有冨 字「中村畔」 から門司の小森江西小学校は真南に位置する。




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御崎の三井(みい) さん 筑紫君

2017/02/15 12:03

関西 − 東国兵・蝦夷
山口市 − 浮囚郷
遠賀川 − 新羅 天日槍の弟 知古は直方市の地名
糸島・福岡平野 − 神功皇后が征伐した西蕃の新羅
平戸・宗像 − 百済・秦 渡の屯家
熊本 − 呉国
島根県出雲 荒神谷遺跡 − 石上乙麻呂が流罪となった土左国

那津官家は小倉 三萩野

近江国
近つ淡海 長府
遠つ淡海 土井ヶ浜・油谷湾


万葉集では長門は海岸なので、「長門」 が内陸の有冨上にあったとする自説は誤り。
  ↓
わかった!!
万葉集1024 長門守 巨曾部朝臣対馬の「対」 は御崎を示し、馬が岸の蓋井島へ泳いで渡ることを「対馬」 で表記している。 本州最西端、毘沙ノ鼻の万葉歌碑は正しい。

蓋井島はf 字形をしている。 f 字鏡板付轡は蓋井島の形をデザインしたものである。

の銀、伊予国 御山の銀 は御崎の字「淵ヶ谷」 か。
吉母御崎の奥地「淵ヶ谷」 に銀鉱あり...
  ↓
御崎 字「淵ヶ谷」 は石灰岩のカルストで、セメント会社の船が着いて石灰岩の採掘が行われていた。 地質調査では掘れば温泉がでる可能性があるという。 滝があり銅鉱だったという洞穴がある。

御崎の淵ヶ谷は掘れば温泉がでるかもという。 伊予熟田津石湯は淵ヶ谷か。
持統5年(691) 伊予国産銀を献上も淵ヶ谷だろうか。

魏志倭人伝 対
隋書俀国伝 都斯麻
であり「対馬」 という表記ではない。

室津下の 対田さん → 対馬
http://44051510.at.webry.info/201311/article_1.html

下関市の個人名電話帳で「対馬」 という名前を調べれば3人いる。

日本の古代史は神仙思想との絡みなので、本州最西端の下関市吉母 毘沙ノ鼻・御崎に不老長寿の気配ありだ。 この地にも神功皇后伝説、空海伝説がある。


石井は「竺紫」。 筑紫、竺紫もよくわからない。

万葉集
1128 石井之水者
3235 五十師乃御井者

筑紫の聞物部大手 雄略紀 文庫書紀B80-7

継体紀 文庫書紀B192-9
天皇、親ら鉞を操りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制らむ。 筑紫より西をば制れ。・・・」
「汝」 という字は大汝(大国主命) を示すか。

日本書紀 筑紫と伊勢は場所が同じ。
西の戎 文庫書紀B192-1
賊の磐井 文庫書紀B192-末

筑紫の御井郡の場所は御崎 淵ヶ谷 の三井(みい) さん宅だ。

倭の国王 升等 後漢書倭伝
筑紫君薩野
も御崎の三井さん宅で、家の前の海岸が伊勢だ。

筑紫の君 磐井は福岡県八女市吉田の岩戸山古墳ではなく、下関市 本州最西端 御崎 字「淵ヶ谷」 の三井(みい) さん宅に比定できる。

小学館 新編日本古典文学全集 日本書紀 2
P311 訳
磐井は西戎の狡猾な輩です。 川の阻みを頼みにして朝廷に従わず、山の険しさを利用して反乱を起しました。
  ↓
日本書記 継体紀に書かれた磐井の地勢は福岡県八女市に合致しない。
磐井の墓については風土記の「逸文 筑後国」 が参照されている。


継体天皇が筑紫君磐井を討伐するにあたって物部麁鹿火大連に斧鉞を授けたわけは磐井の住居が下関市吉母 御崎 字「淵ヶ谷」 の三井(みい) さん宅であったためである。 御崎の三井さんは筑紫君磐井、薩野馬の直系子孫である。

万葉集1024 長門守 巨曾部朝臣対
「対」 という表現・表記にある「」 に着目して、「長門」 の地名場所は本州最西端 毘沙ノ鼻にある万葉歌碑の近く、御崎馬の場所ではないかという閃き・思いつきを得た。

御崎馬 ・・・ 下関市に伝わる民話集に載る。
源平合戦時の名馬が御崎の淵ヶ谷の丸山(丸瀬) にいた野生馬だったこと。
子馬が岸の蓋井島へ泳いで渡っていたという。
「対馬」 という表現・表記はこれだ。


万葉集 「長門」 の歌
3243 長門の浦
処女 伊勢乙女

3617 
安芸国長門島 神武東征 安岐の多祁理
大石蓑麻呂という名前
 大石 伊勢
 蓑 御崎馬がいた丸瀬は「大草」「草立」 と呼ばれ、大草が生える場所。

御崎馬は野生馬だった。 筑紫君薩野馬

3621
奈我刀能之麻之 小松原
御崎海岸の地名「小松ヶ瀬」

以上から、「長門」 は下関市吉母の御崎に比定できる。

油谷湾の感じもある。
3242 油谷蔵小田の「みのが峠」
3244 阿胡 阿川
3243 沼名河 土井ヶ浜の沼川

御崎を流れる川の名 未詳


吉母の御崎の奥地 字「淵ヶ谷」 の重要性 本州最西端
石灰岩の地 カルシウム 硬水 不老水
もしかして銀鉱があったか
三井さん宅が筑紫君磐井
丸山(丸瀬) に天斑馬。 大草が生える草立。 筑紫君薩野馬
海岸の岩場に伊勢乙女たちがいた。 大石の上に弁才天の祠が立つ。
対馬暖流で冬暖かい。 「正月不知」 と呼ばれた。

隠国 (こもりく)
吉野の泊瀬、吉野の瀧 も御崎だ。


『よしみ史誌』 P716〜718 は必読である。
浦島太郎の作者 伊予部馬養連は御崎 淵ヶ谷の人だ。

龍宮城
万葉集3245 天橋  向津具だろうか。
『逸文 丹後国』 の天椅立は向津具か。 歌の流れからすれば御崎だ。
御崎の奥地 字「淵ヶ谷」 は神仙の桃源郷だ。 隠国(こもりく)。


わかった!!
「天」 は易経で乾為天
天(あめ) の場所は有冨 字「中村畔」 から北西の方位

「天」 (あま、あめ) は北西の方位の場所だ。

八卦
   父  北西 頭 金

天とは八卦の乾だった。


風土記
伊予国 山 香山

丹後国 奈具社 天女8人=筑後の八女
筑後の御木=扶桑樹 の場所は御崎。
山海経の黒歯国は吉母の黒嶋か。

風土記581下
今まで「常世嶋 男嶋女嶋」 は川棚沖の厚島と思っていたが、ここは御崎か。


続日本後紀(下)  講談社学術文庫
P326  嘉祥2年3月26日
  ↓
この場所は御崎だ。 吉野は複数か所あり、御崎も吉野だ。

野馬台
下関市吉母御崎 淵ヶ谷 の丸山に野生馬がいた。「野馬」 は野生馬を表す。




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有冨大王

2017/02/15 04:00

中村大王
古事記の大年神は下関市有冨 大年池横 中村分家宅の大年社であり、牛を祭る神社だから神武東征の牛酒の地である。 この社は中村分家宅の北側にあった。 80年くらい前か、分家が家を建てた時、池の横に移した。
五行配当 牛=土=中央 で安倍家(御門家) があった所だろう。
この場所から東のハンドウ山を見て詠んだ歌が安倍仲麻呂の
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも

天香具山=高円山=三笠山
※奈良県とは山がちがう。

竹取物語のかぐや姫はハンドウ山 登山口前の土塀が崩れた場所に住んでいた。 お迎えが来たので月の都に帰った。 月の都はハンドウ山の頂にあった。
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでしかも

兎=月=東
兎=菟田
菟田の高城=高安城 は同じ場所。 ハンドウ山下に掘られた謎の溝。

有冨の中村さんは天御中主尊の末裔で倭国の大王(おおきみ) 家の直系。
竹生山の東峰「東ヵ嶽」 は泰山を示すので、中村大王は老子系である。

庄屋 儀万という家は天武天皇の末裔である。 神功皇后、天武天皇は「瀛州」 の土井ヶ浜・角島・向津具の出身で徐福系だから呪術・方術を使う。 神功皇后の出身地である角鹿(=角島) の気比大神は徐福である。

住吉大社神代記によれば、
神功皇后が住吉神と不倫して生まれた子が応神天皇である。

30年前まで白井さん宅前に蓮の池があった。 記紀・万葉の蓮はここであり、飛鳥浄御原宮の朱雀池である。


下関市の原始古代  東海の三神山
老子 有冨上 − 邪馬台国・蓬莱。 蓬莱は吉母か。 
徐福 土井ヶ浜・角島・向津具 − 瀛州

門司の風師山 − 饒速日尊の河内国 哮峰。 門司の葛葉は大阪府和泉の地名。
方丈か。

 


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乾(いぬい) の方位

2017/02/14 04:57

下関の有冨倭国では方位方角が絶対的決め手である。
名前が「儀万」 という珍しい家は天文遁甲の原点を意味する。
「儀万」 という家は有冨村(延行、石原を含む) の庄屋だった。

江戸時代まで日本人は陰陽道で生活していたので、昔のものを読むには陰陽道、陰陽五行、易経、風水などの民俗学、古代の中国哲学の知識は必修である。 これらの学・知識・教養に基づいて方位方角を語ることになる。

地球は丸いので、地点と地点を直線で結ぶことができるのは5万分の1地図 2枚貼り合わせ まで。 地球は球体だから、奈良県の地点と九州の地点を直線で結んでも実際は歪んでいる。 磁石方位は西偏約7°

冨士埜勇 談  長年、下関市菊川町・川棚で発掘調査を担当 
古代人の方位感覚には「約」「だいたい」「おおよそ」 といったものはない。
わずかでもズレるなら、その方位方角への説は間違いである。
1°たりともズレてはいけない。 ピンポイント、ドンピシャあるのみ。

基点
有冨上 字「中村畔」
竹生寺
この2つが基点である。

神武東征の臣は有冨ハンドウ山の登山道の人である。
この「道」 の字は道家、道教を表す。

老荘思想 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%AE%B6


北西の乾(いぬい、乾為天) の方角を調べると、
竹生寺−永田郷の御堂遺跡−吉母の樋の口神社−御崎神社
が直線で結ばれる。

御堂遺跡は隣の字地名が字「宗教」 だから老子の墓ではないか。

吉母の樋の口神社 字「安常」 祭神 天照大神
この神社は字「安常」 にあったが明治17に北側の字「樋の口」 に移された。
『古代氏文集』 住吉大社神代記 P42 381 の広田大神だろう。

御崎神社の登り口にある「阿部」 という家は
文庫書紀C210-1 伊勢阿部堅経 の末裔である。

御崎の海岸 岩の上に弁財天の祠が立つ。

東は誕生、西は死滅。
墓は西に造られる。 本州の西端に位置する吉母は墓の場所である。


 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE




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彦島ピラミッドは伊奘諾尊の墓

2017/02/13 21:17

彦島の高山(70.1 m) 彦島弟子待町
彦島の弟子待から門司へ渡っていた。 対岸は門司の小森江駅。

地図は「高山」。 地元では「岩山」 ともいう。
ttp://blog.livedoor.jp/kotobukishirushi/archives/22764074.html

彦島ピラミッド 龍宮神社 姫塚  ※ 過去記事は今と考えがちがう。
http://44051510.at.webry.info/201410/article_13.html


伊奘諾尊の陵墓
古事記 伊耶那岐大神
淡海の多賀に坐す。

日本書紀
文庫書紀@60-11
幽宮を淡路の洲に構りて

履中紀 5年 文庫書紀A294-7
淡路島で狩りをする。 島に居る伊奘諾尊が飼部の黥を「血の臭きに堪えず」 と言う。


私見 彦島ピラミッドは伊奘諾尊の墓である。

下関市有冨 字「中村畔」−火の見山−丸山町の日和山−彦島の高山
が直線で並ぶ。




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呼野金山 北九州市小倉南区

2017/02/13 05:05

北九州市小倉南区 呼野金山
『福岡県の地名』 日本歴史地名大系 41 平凡社 2004年
P1245中 呼野村
大山祇神社が鎮座。 和銅年間(708−715) 銅鉱採掘のとき鉱山の守護神として創立されたという。 天平年間(729−749) 宇佐宮の神鏡鋳造のため銅を採掘したと伝える。

銀鉱山
http://44051510.at.webry.info/201408/article_17.html



きたきゅう発掘! 『考古学ノート』 1200円
(財)北九州市芸術文化振興財団 埋蔵文化財調査室 2012年11月
P114
「弥生人は中国大陸のトレンドがわかっていたか?」
P118
「北九州市内の終末期古墳」


宗像市の東部、上八(こうじょう) に金鉱があった。 鐘ア貝塚が近い。
宗像の金鉱
宗像は黄金のまち
ttp://d-munahaku.com/news/dtl.jsp?kid=91759&cgid=1001%5D%5B1002
上八(こうじょう) 金山
ttp://www.city.munakata.lg.jp/shigai/chiikisyokai-10.html
平信盛墓所 と 宗像金山
ttp://blog.livedoor.jp/keitokuchin/archives/65585837.html


山の名が仙境を意味する  仙人が住む山、仙人暮らしの山
東ヵ嶽 「東嶽」 は泰山 下関市有冨 竹生山の東峰 無残にも砕石場となった。
風師山 北九州市門司区

万葉集1 漢字原文に「師」 の字があるので、門司の風
万葉集2 「山常」 と「常」 があるので、下関市有冨のハンドウ山。 「取與呂布」 の場所は大迫池の上、有冨墓地の東側の尾根で、ここが鳥見山である。 真朱が出るのか?

『古代物部氏と先代旧事本紀の謎』 安本美典 著 勉誠出版 平成21年
P146  饒速日の尊の天下り
河内の国の河上の哮峰
大倭の国の鳥見の白庭山(または 山)
  ↓
鳥見山は白い山と表現されている。
鳥見山の条件は白い土、白い岩(石灰岩、石英など) がある所である。

下関市有冨 字「中村畔」 は天子南面・天心十道の倭京であり、真南に門司の風師山、小森江西小学校がくる。


小森江  門司区
小森江 小字名の聞書 
http://44051510.at.webry.info/201409/article_14.html

『小森江村志』 によれば、山の高い所に自然または人が掘った洞窟がたくさんあるという。

『門司郷土叢書 第8集』 海峡叢談
P99下 産の子松
応神天皇が誕生した場所と伝えられる。
蚊田は小森江の片上(潟上) か。
場所は神戸製鋼の敷地内なので、大字片上ではない。

『 北九州市史 総論  先史・原史 』  昭和60年12月
P751
丸山古墳  門司区小森江2丁目 (字丸山)
大正5年(1916) 九州鉄道拡張工事の際、古墳が破壊されて五獣鏡 1 ・ 鉄刀 3 が発見された。 鏡は東京国立博物館に保有されている。
墳頂1.2メートルの土中から検出され、石材などはなかったと伝えられるので、土壙墓か粘土槨のような構造であろうかと考えられる。
国鉄門司駅から線路沿いに2キロメートルたらず北上したあたりと思われるが、現在は工場内となり痕跡すらとどめていない。

五獣鏡は表面緑青色を呈し、平縁をなす外周の3分の2 は欠損しているが、復元18.2センチメートルとなる。
内区模様は円座乳で5区に分けられ、各区にS字状の半肉彫長胴とその左上に獣首を付した5つの同形獣を配している。
細線式の手法を加えた鼉龍鏡(だりゅうきょう) の変形とみられる点は珍しい。 鋸歯(きょし)文を加えた隆圏帯で内外区が区分され、その両側に櫛歯文帯と、さらに外区には整った菱雲文帯がめぐらされている。

この種の獣形鏡では、まださして変形していない優れた部類の作品である。
この鏡から推して5世紀代の古墳であろうと考えられ、ほとんど現存しない門司区の古墳時代遺跡のなかで、注目すべき資料である。

《 参考文献 》  1924−1
          1976−1

※ 出土した漢式鏡の鮮明な白黒写真が掲載されている。
獣形鏡(五獣鏡) なので、渦巻く雲のように見えるのは抽象的な獣である。

学芸員 宇野愼敏 談
小森江 丸山古墳から出土した漢式鏡は後漢すなわち卑弥呼の時代に中国で作られた舶載鏡である。
この種の鏡は5世紀代の古墳から出土するため、小森江 丸山古墳も5世紀の古墳と推定される。 つまり伝世鏡である。 奈良県のヤマト政権が後漢時代に作られたこの種の鏡を複数枚保有して、それを5世紀なって各地の豪族に配布したと解されている。


万葉集1 は北九州市門司区 小森江の風師山である!
門司の丸山古墳から出土した鏡に大注目したのは私が最初だ。

万葉集249 隠江(こもりえ)
三津埼
文庫書紀@130-9
吾が児事代主、射鳥遨遊して、三津の埼に在り。
出雲国の三穂の碕、出雲の御大の御前 ・・・ 丸山古墳あたりか

万葉集429
門司の山津波で溺死した出雲娘子を吉野山に葬る。 出雲と吉野は場所が近い。
吉野山は門司の風師山だ。

下関市有冨 字「中村畔」 の真南の方角 ピンポイントで門司の風師山、小森江西小学校(大量の銅滓が散らばっていた場所) がくる。
真南の "こだわり" が見られる。 方位方角のこだわりが凄い。




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角島 徐福祠

2017/02/12 07:03

高志 ― 土井ヶ浜遺跡
(根拠) 沼河比売

角鹿 ― 角島
伊奢沙和気大神、御食津大神、気比大神 ― 徐福

角島の沖田遺跡は関東の土器が出土 ― 徐福祠があったか

角島(都濃島)
都怒朝臣牛飼  D208、210 ・・・・ 角島の牛牧

都怒我阿羅斯等  ・・・・ 角島に百済王子が漂着した伝承がある。

斯摩宿禰 神功紀 
嶋王 武烈紀


応神記 天之日矛
土井ヶ浜から出土した鏡2つは奥津鏡・辺津鏡
ならば土井ヶ浜は多遅摩国。

神功皇后は角鹿の出身である。

土井ヶ浜、角島、向津具は徐福にまつわる地である。

綾羅木川の北岸 有冨は老子だ。
万葉集の人名 小野朝臣老の「老」 は老子が渡来して住んだ地を示す。
有冨の大迫池の上だ。




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城野石棺の被葬者 香坂王・忍熊王 説

2017/02/12 06:51

『おもしろ地名 北九州事典』 増補総集版 
小倉北区 富野 P95
魚池・鳥池を作ったのが魚野鳥野で、鳥野がなまって鳶野、富野になったという説。

小倉北区 富野を熊鰐の地とする説があるようだ。


『福岡県の地名』 平凡社 日本歴史地名大系
P1234中 
萩ア村 (萩ア町、明和町、三萩野 1丁目) は博士(陰陽師)、占者が住んでいたので八卦アと称していたのが転訛したものという。
現在も陰陽師の子孫が住む。


萩ア町三萩野は易者の地、卜占の地だった。
  ↓
事代主命
神吾田鹿葦津姫
熊鰐 大倉主・菟夫羅媛 伊賀彦
裂田溝 の河 「儺」 は追儺・鬼遣らい。 橘の小門の禊ぎ
麛坂王・忍熊王 祈狩 仮庪 赤猪  文庫書紀A158-9
務古水門
などの占い場所はみな同じで、萩ア町である。 
仮庪 八岐大蛇
赤猪 大国主 古事記

吉備 和気清麻呂 安部山 温泉

播磨の赤石 赤坂  文庫書紀A158-6
淡路島の石 彦島の南端、彦島塩浜町4丁目の砕石場

万葉集から播磨国は下関市長府ではなく門司のようだ。


小倉北区 萩崎町 綿津美神社
ttp://blog.goo.ne.jp/noyamany/e/4d2c3dfadf8eccb77ed0064da2391f97
ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/fukuoka-kitakyushu.htm
  ↓
八大龍王は八俣大蛇を連想させる。
私は萩ア町の綿津美神社を「山海経 海外東経」 の朝陽の谷に比定する。
集英社 全釈漢文大系 33 『山海経・列仙伝』 1975年
P430
朝陽の谷、神を天呉と曰ふ。 是れ水伯為り。 虫虫の北、両水の間に在り。 其の獣為るや、八首人面、八足八尾、皆青黄なり。〔大荒東経に云ふ、十尾なりと〕。


下関市 竹生山の山頂−竹生寺−稗田地蔵堂遺跡−小倉城(下屋敷遺跡)
が直線上に並ぶ。

小倉城は大宰府(遠の朝廷) で橿日も小倉城。 豊前国は宇佐町
(根拠) 万葉集959

香椎廟 ― 「廟」 は中国系 徐福祠か。


筑紫 ― 難波 の距離
http://44051510.at.webry.info/201104/article_5.html
  ↓
筑紫と難波は距離が近い。 難波は門司駅、下関の唐戸あたりか。

難波
門司港の 浪花町 ・・・ 筆立山の山麓 〜 老松公園北門に通じる通り
明治32年〜昭和42年

文庫書紀B96-2
難波の来目邑の大井戸の田十町
  ↓
井戸町
明治22年〜昭和42年
旧門司1、2丁目


文庫書紀B58-7 雄略紀
紀岡前来目連  ※ 紀=城(き)=木
文庫書紀B94-8 清寧紀
城丘前来目
 ↓
甲宗八幡神社
樹神社
祭神  句句能智 (句句廼馳、久久能智) 木の神
所在 甲宗社々峯


山口県風土誌(九)  P102
方角抄に、赤間関彼浦を硯海と云ふと見ゆ

仁徳紀 文庫書紀A250-11 歌謡
難波人 鈴船取らせ 腰煩み その船取らせ 大御船取れ

ここの長門関津にも鈴船の繁く往来せし故に、其海畔を鈴振浦と云ひ、其海を鈴振海と云ひけんが、終には布字を省きて須孺理 (すずり) の海と云ひ、硯字を借りたるなり。


胸方神 雄略紀 文庫書紀B54‐10
膳臣
小倉南区 長野角屋敷遺跡から物部今継・膳臣澄信と書かれた木簡が出土

壇所 壇之浦
香賜 舸拕夫 − 関門海峡の梶取り人
三嶋郡の藍原 長府の字「三島」
※「三島」 を地名でなく島とみれば六連島・蓋井島など。

雄略天皇の吉野宮は小倉南区徳吉、長野か?




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和同開珎 「珎」の字義 新説

2017/02/10 12:17

「長門」 の場所は山口県西部〜萩市ではなく、
下関市有冨 字「中村畔」「金鋳ヵ谷」 〜ハンドウ山登山道である。

長門の城=高安城。 場所はハンドウ山

和同開珎の「珎」
武蔵国秩父の場所は埼玉県秩父ではない。

市秋芳町別府 小字「ちち婦

または
美祢の「祢」 と和同開珎の「珎」 は ツクリ が同じである。
そこで漢和辞典で「祢」 を調べてみればの廟、父のみたまの意味であり、
秩父≒美祢 である。

御霊(みたま)=美玉=珎
みたま=珎


新説
・美祢市秋芳町別府に小字「ちち婦」 がある。 ここが秩父か。
・和同開珎の「珎」 は美祢、みたまを表す。


美祢市 秋芳町嘉万
国秀遺跡
ttp://www2.city.mine.lg.jp/www/contents/1318660703759/index.html
ttp://www.youtube.com/watch?v=PmEpxo0uB3I
中村遺跡
ttp://www.isekiwalker.com/iseki/148247/

銀郷 武烈天皇 ※4年前に書いたもの
http://44051510.at.webry.info/201301/article_2.html

武蔵国
http://44051510.at.webry.info/201112/article_18.html?pc=on

武蔵国埼玉郡新羅人徳師ら男女53人を、請に依りて金の姓とす
  ↓
秋芳町の国秀遺跡


和名抄の表記
『山口県の地名』 日本歴史地名大系 36 平凡社 1980年
P369中
「和名抄」 高山本に「美」 と記し、訓はない。 刊本は「美」 と記し、その慶庵元年本は「ミネ」 と仮名を付す。 「みね」 は嶺の義で、郡名はこれによるといわれる(防長地名淵鑑)。
P573中
長門国の中心は美祢郡の赤郷と大田郷であったと考えられ、広大な石灰岩台地が分布し、接触交代鉱床が発達していて、古代の未熟な探鉱法でも容易に銅、、鉄などの露頭探査が可能であった。

私見
でなく美と表記した史料がある。
「みね」 は「み祢」 の義で、漢和辞典で「祢」 を調べて父の御霊屋

長門国の中心は豊浦郡であった。
しかし古代の官道は豊浦郡を通ってなかったという謎がある。
倭国(邪馬台国)=豊浦郡 だったので官道を造らなかった。


閃き、アイデア、思いつきの経緯
『富本銭と謎の銀銭』 今村啓爾 著 小学館 2001年
P20〜25 「文献記録への疑問」 
及び
『日本の美術 No.512 出土銭貨』 松村恵司 著 至文堂 2009年
P40 「開珎の字義」
を読んで、立ち位置 下関市有冨 字「中村畔」 から見た「武蔵国秩父」 の場所を推理してみた。 ここから歩いて10日以内の場所に「武蔵国秩父」 がある。

記紀・万葉などは漢字表記が言霊の呪術を帯びており、漢字表記に強烈なこだわりが見られる。 また和同開珎は美祢市美東町の長登銅山の銅が使われていたことから秋吉台=武蔵国 という案が思いついた。 秋吉台地域の小字を調べて小地名「ちち婦」、美祢の「祢」 が「珎」 に似ることを発見した。


『日本古代貨幣の創出』 今村啓爾 著 講談社学術文庫 2015年
あとがき P252-末から2行目
15年前、私は、松村氏と論争するのは「歴史の真実に至るため、より正当な論理を共同で発見するための過程というべきだろう」 と書いた。 しかし実際に起こったのは、私が期待したような互いの研究を深めあう建設的論争ではなく、右のような不毛な応酬になってしまった。 研究という行為の厳しい一面に直面したと言えばそれまでだが、この決着は、十分な理解能力を有する第三者たちに委ねなければならない。 「本書を読まれたあなたもその候補者の1人です」 と申し上げて筆を擱(お) きたい。
2015年3月  今村啓爾

論争 この本を読んだ第三者の私見
下関市は「北九州」 の地域文化圏に属すので邪馬台国 九州説に入る。
無文銀銭、富夲銭は下関市有冨 ハンドウ山にあった倭国によるものである。
今村啓爾、松村恵司の両氏とも「九州説は問題外」 としている。

邪馬台国(本当の記紀・万葉の地) は下関市綾羅木川流域にあった。
首都の位置は富夲銭の「七曜」 思想から解明できる。

古事記の銀王、武烈紀の銀郷
呪術としての漢字表記
風水の景観
などが今村・松村両氏とも探究が弱体である。

「この決着」 は下関市有冨、長府で片づく。 今村啓爾は馬鹿、松村恵司も馬鹿。 「歴史の真実」 は下関市有冨、長府に至る。


和銅元年(708) 1月11日
武蔵国秩父郡和銅を献ずる。 これにより年号を和銅と改める
・武蔵国秩父郡の場所は埼玉県秩ではなく山口県美だった。
・和同開珎の「珎」 の字義は美祢の「祢」 である。 珎=祢
という衝撃的な新説を発表した。




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城野石棺を読み解く

2017/02/08 04:58

重留銅矛 記紀神話と照合
文庫書紀@120-5
乃ち国平けし時に杖けりし広矛を以て、二の神に授りて曰はく、「吾此の矛を以て、卒に功治せること有り。

常陸国風土記 信太の郡
伊川  門司区伊川 白山神社
普都の大神

出雲 雲に覆われる足立山 霧ヶ丘
小倉北区 大畠は雨の日の濃霧がすごい。

城野石棺の子供2人
 事代主命 絵画は白雲に乗った普都大神
 建御名方命 玉造工房

城野遺跡の現地保存をすすめる会
城野石棺移築記念シンポジウム
ttp://ameblo.jp/jounoiseki/entry-12244823342.html
ttp://ameblo.jp/jounoiseki/entry-12239391364.html
朱の石棺に葬られた子供2人は4才ぐらい。
  ↓
記紀の事代主命・建御名方命ではない。 「出雲」 と断定できない。

玉造工房 古事記の櫛矢玉神か。


考古学
下屋敷遺跡(小倉城 ) の内向花文鏡≒下関市 稗田地蔵堂遺跡の鏡
  ↓
下関市の竹生山(325.2 m) の山頂から小倉城を見る方向ドンピシャに稗田地蔵堂遺跡がある。 下関市の竹生山 山頂と小倉城を結ぶ線上に稗田地蔵堂遺跡がある!
直線 竹生山の山頂 ― 稗田地蔵堂遺跡 ― 小倉城(下屋敷遺跡)

城野石棺、重留銅矛から大国主命の出雲は島根県出雲ではなく北九州市小倉南区 城野か。
  ↓
併せて問題は高天原はどこか?
下関市立考古博物館は腰が重い。

「北部九州」 の地域圏には山口県下関市が含まれる。
邪馬台国九州説は下関市域を含む。

後漢書 倭伝
女王国より、海を度ること千余里、奴国に至る。 皆倭種なりといえども、女王に属せず。
方向がちがうが拘奴国は小倉の城野か。


『風土記』 小学館 新編日本古典文学全集 5
私見
最近 常陸国は下関市有冨と見る。
以前 常陸国は門司区の周防灘沿岸〜小倉南区と見ていた。

355-最後の行  筑波岳は足立山である。 竹馬川が流れる。
359-4  小泊瀬山の石城  苅田町の小波瀬 と 高城山

359-後ろから2行目  「駿河の国 福慈の岳」 は直方市の福地山
363-最後の行  「白壁の郡」 門司区恒見の石灰岩砕石場

365-8  伊川  門司区 伊川
普都大神は伊川の神である。

367-4  浮島  曽根の浮島神社
ttp://44051510.at.webry.info/201402/article_52.html
367-6  塩を火きて  勝円遺跡
377-6  曽尼  小倉南区 曽根

359-後ろから3行目 神祖(みおや) の尊
  ↓
御祖神社 みおやじんじゃ
妙見山北西麓に鎮座
祭神は造化三神  天御中主尊 高皇産霊神 神皇産霊神
和気氏の祖先の神鐸石別命 和気清麻呂
寛政7年(1795) 小倉藩第5代藩主小笠原忠苗が山頂の妙見社に参詣したとき、土中から中国南宋産湖州鏡ほか9面を発掘。

私見
南宋(1127〜1279年) は万葉集とは時代がちがうが、妙見山は鏡山か。
小倉北区 富野の須賀神社では 足立山=鏡山 とする。


下関で天御中主尊を祭る神社
有冨上八幡宮の末社 天御中主神社 (明治末に川北神社に合祀され消滅)
垢田八幡宮 鼻ヅラ海岸の黒ア妙見
室津 若宮神社の相殿

下関で朱が出土した所
下有冨石棺 「川中風土記」 P23 昭和15年頃、住民が棺を開ける。
石原156番地(ホームワイド裏の台地) 朱の精製跡 L字状石杵が出土
吉田八幡宮 石棺
室津の甲山 朱壺
http://44051510.at.webry.info/201304/article_35.html

私見
城野石棺の朱が作られた場所はL字状石杵が出土した石原156番地である。


『おもしろ地名 北九州事典』 増補総集版 文理閣
P77
熊本・同志通り
企救郡誌に、熊本 は「往古この村人は土器を作るを家業とす。 今にその子孫在りて瓦を作る」 とある。
  ↓
土師氏の祖、出雲の野見宿祢

P91
手向山 万葉集
P95
富野 熊鰐伝説あり 


『福岡県の地名』 平凡社 日本歴史地名大系
P1234中 
萩ア村 (萩ア町、明和町、三萩野 1丁目) は博士(陰陽師)、占者が住んでいたので八卦アと称していたのが転訛したものという。 現在も陰陽師の子孫が住む。
萩ア町、三萩野は易者の地、卜占の地だった。
  ↓
事代主命
神吾田鹿葦津姫

萩ア村の村はずれに在方の科者を留置する揚屋(未刑囚を入れる所) があった。
万葉集427 刑部垂麻呂 赤坂の手向山

P1239上
白髭神社  小倉南区 蜷田若園 1丁目
菅原道真が大宰府左遷のとき当社に詣でて大田命を合祀したと伝える。
祭神  猿田毘古神 天児屋根命 天宇受売命 布刀玉命
由緒  高千穂峰に降臨した邇邇芸命に協力して天宇受女命が宮所を求め、当地の丘にしばらくとどまったという。


筑紫日向の高千穂宮は小倉北区か
二上の山 足立山(霧ヶ岳・妙見山)
竹嶋、「筑」紫 の竹は神岳
浮渚在平地 文庫書紀@142-11 曽根の浮島
豊国の宇沙 宇佐町


浮島、製塩
北九州市 小倉南区曽根の浮津島神社  荒神森古墳
ttp://kitaqare.d.dooo.jp/tens18.htm
ttp://www.geocities.jp/kikunosato2005/sub13.html

北九州市の古代製塩
浜田遺跡  製塩遺跡  若松区小竹 「脇ノ浦」 

貫遺跡  縄文晩期に朝鮮半島と交流
勝円遺跡   製塩遺跡  南曽根中学

P1207下
「 周防灘に面する勝円遺跡で8世紀後半−9世紀前半の煎熬用の甕が大量に出土、製塩遺跡と知られた 」
  ↓
常陸国風土記に書かれた浮島の製塩は北九州市小倉南区曽根である。


参照
北九州市 埋蔵文化財調査室 
http://www.kicpac.org/bunkazai/main.html 
卑弥呼がもらった鏡
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku288.htm




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立ち位置を有冨のハンドウ山にとる  

2017/02/07 23:08

原始古代の倭国(邪馬台国、東海姫氏国、本当の記紀・万葉の都) は下関市有冨のハンドウ山(有冨竜王山) の周囲にあった。 有冨には中村という家が本家・分家で3軒ある。 中村本家さんは天御中主尊、高木神、天照大神、中大兄皇子らの直系子孫であり、儀万さんは天武天皇(大海人皇子) の家である。

万葉集4260
皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
万葉集4261
大王者 神尓之座者 水鳥乃須太久水奴麻乎 皇都常成通
渟中原瀛真人天皇
白井さん宅前にあった蓮池または儀万の池で、皇都は中村本家さん宅。
  ↓
天武天皇は天文・遁甲の方術士だったので、中村本家さん宅の入り口に風水の羅盤を置いて方位を見れば皇都があったことを確認できる。

『やすおか史誌』 P779 「儀万の話」

下関市有冨の儀万さんは天武天皇の直系である。
天武天皇は中国哲学である陰陽五行を重視した。
富夲銭の七曜思想=「儀万」 という陰陽五行・易経に基づく名前
  ↓
富夲銭は儀万銭である。

天渟中原真人天皇
「瀛」 の場所 土井ヶ浜(海人族)、向津具(楊貴妃伝説)
トンボ玉 土井ヶ浜、田耕の甲殿遺跡 2ヵ所

土井ヶ浜の中世 祭祀
牛を殺すミトラ神 土井ヶ浜に牛を殺した祭祀遺跡あり。
土井ヶ浜にある広田遺跡は中世の仔ウマの埋納

有冨の儀万さん 天武天皇の家系
吉見船越の儀満さん 額田王の実家か

下関市有冨の「儀万」 という名前の家は富夲銭の七曜思想の表明である。
この「儀万」 という家は天武天皇の家である。 儀万=七曜。 等号である。


有冨内で首都 平城京があった場所
A考
遠山運送裏の字「金鋳ヶ谷」 に古代の産銅・銅精錬の言い伝えがある。
大賀さん(大神の転訛か) 宅の奥の平田さん畑が「平」 の字より平城京跡。
この場所には侍の家 「土井」 の溝が掘られている。

B考
万葉集の寧宮の「楽」 を風水の楽山と見れば、寧宮はハンドウ山の頂である。 種子島 広田遺跡の貝札に彫られた「山」 について考察すれば、山=仙(仙人、仙境)、六十四卦の「艮為山」。 大型漢和辞典で「山」 をひけば「墓」 「墳墓」 の意味もあるので陰宅風水が想起される。 卑弥呼の鬼道=中国古代の鬼神(祖先・死者の霊魂など) を操る者。

有冨のハンドウ山の頂は卑弥呼の冢であり、前方後円墳デザインのモデル。

有冨のハンドウ山 登山道入口付近を立ち位置にすれば、奈良県・大阪府の「ヤマト王権」 「前方後円墳体制」 勢力は蝦夷の親玉 大墓公阿弖流為である。 下関市後田町5丁目の椎の木原墳墓群(古墳時代初頭) から出土した庄内式・布留式土器は幡生の秦氏。 あるいは蝦夷すなわち佐伯部を示す。 前方後円墳を尊んで「古墳時代」 を広めたのは秦氏と蝦夷の佐伯部である。

記紀・万葉の「東国の兵」 は関西蝦夷であり、甲冑・武具を持つ者は蝦夷である佐伯部である。 首都があった下関市有冨上の蓬莱島に身を置けば甲冑・武具は蝦夷である佐伯部の物である。

『角川 大字源』 で「平」 の熟語「平城」 には
漢代の県名。今の山西省大同市の東。 高祖が匈奴を討ったとき、7日間包囲された地 〔史・高祖紀〕
という意味が載り、天武紀の「灰零れり」 文庫書紀D162-4 を連想させる。

万葉集4506
高円の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御世遠そけば
いにしえ、ハンドウ山の頂には松が生えていた。 高松塚=高円野。


浮囚郷 山口市
『山口県の地名』 日本歴史地名大系 平凡社
P42上
「大日本地名辞書」 は「えみし」 と読んでいる
「防長地名淵鑑」 は山口盆地を貫流する椹野川左岸にあたる現山口市の平川・大歳地区(黒川・平井・朝田・矢原) 辺りを比定している。


山口大学 考古学 田中晋作
[PDF] 山口県域に投影された畿内政権の動静
petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/file/.../D160009000008.pdf
(反論)
邪馬台国の位置を下関市有冨 字「中村畔」・ハンドウ山 にとれば、関西の甲冑が出土した天神山1号墳、赤妻古墳の場所は蝦夷(えみし) の浮囚郷に比定できる。

古代関西の 朝鮮カルト
http://44051510.at.webry.info/201305/article_36.html




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無文銀銭を解明する

2017/02/06 07:49

万葉集1024
長門有 奥津借嶋 奥真経而 吾念君者 千歳尓母我母
長門守 巨曾部対馬朝臣

万葉集1576 長門守 巨曾倍朝臣津嶋

漢和辞典で「」 をひくと2つに分かれる意味なので、馬=島。
」 は楽器の鐘を掛ける台座の柱のさま。

「長門」 は山口県ではない。
「長門」 の場所は下関市有冨 ハンドウ山の登山道である。

山口県の「山口」 の場所はハンドウ山の登山口周辺 ・・・ 古事記祝詞
『古事記 祝詞』 日本古典文学大系 1 岩波書店 1958年
P399-6
倭の國の6つの御縣の、山の口に坐す皇神等の前にも
注九 上記6つの御県にある山の入口にいる神。 これを誤字とする説があるが、下文に「山山の口より」 とあるので、山口に坐す皇神であることが知られる。
  ↓
下関市有冨 ハンドウ山の登山口周辺の人たちが皇神
儀万、岩谷、中村、白井、大賀、重岡の各家々


巨曾部の「コソ」
「社」 の読み コソ
金コソ
呉の都 「コソ」
麦の古語

(参照)
『山口県地名考』 高橋文雄 著 昭和53年
P128 徳地町 小古祖


社戸臣(こそへのおみ) 大口 文庫書記D94-11


「嶋」 は海上の島ではなく「陸の孤島」 の意味。
「対馬」 玄海灘の対馬ではなくてハンドウ山の奥にあった。
「対馬下県」 の場所はハンドウ山の最奥部

青丹吉 平山、青丹吉 常山 ・・・ ハンドウ山の頂から行く平たい尾根
平城京、奈良もハンドウ山の奥へ行った所にあった。

雲の上の人、仙人が霞を食って生きている。
その場所は有冨墓地の上、大迫池の上の尾根の場所。
山並が曲がって窪んでいるので雲が湧く所だ。
春は山桜が咲く桃源郷であり中国神仙思想の地である。


『仙境往来』 田中文雄 著 春秋社 2002年
『桃源郷』 川合康二 著  講談社選書メチエ 2013年

『奇景の図像学』 中野美代子 著 1996年
発行 角川春樹事務所 発売 紀伊國屋書店

「桃源郷をめぐる風水 ― 竪坑と井戸と天井」 P203〜223


私は山師
「対馬の銀」 は玄海灘の対馬でなくハンドウ山の平たい尾根にある鉱脈だろう。
古事記の銀王の地、武烈紀の銀郷はハンドウ山の尾根を奥まで行った所にある。

聖地になる極点は曲がり角で地形が大きく曲がっている所 − 有冨墓地の東側
南の朱雀(鳳凰) 火の山 頂上がとんがった円錐形 − 伊倉の火の見山 


ひさかたの 天の香山 ハンドウ山

倭は 国のまほろば  倭(やまと) は下関市有冨上
たたなづく 青垣
山隠れる 倭し 美し

命の全けむ人は
畳薦 平群の山  ハンドウ山の頂から行く平たい尾根
熊白檮が葉を
髺華に挿せ その子

はしけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も

万葉集3843
何所曾 真朱穿岳 薦疊 平群乃阿曾我 鼻上乎穿礼
  ↓
平群氏は真朱を採掘している。


前方後円墳の造形
後円部 下関市有冨のハンドウ山 天の香山
前方部 ハンドウ山の頂から行く平たい尾根 平群の山


参照
「無 文 銀 銭」 その成立と変遷
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho110/kai11002.html




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有冨 ハンドウ山 登山口 の道下の崖に生えるツル草の考察

2017/02/06 01:24

立論やり直し
藤原宮御井は下関市有冨 ハンドウ山登り口下の空地にある井戸 説

万葉集52
畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 
の「畝火乃 此美豆山」 の場所はどこか? が大問題となる。

美豆山 という表記は "美しい豆の山" ・・・ ちっこい山

藤原宮に遷都 文庫書紀D302-5 持統8年
12月6日に、藤原宮に遷り居します。 9日に百官拝朝す。

旧暦12月6日は太陽暦では12月末日。 万葉集52 の東西南北は冬至の日の出・日の入りの方位か?

先代旧事本紀 巻第一 では日向の橘の小戸橿原、橘の小門橿原と記されている。
神武天皇の橿原宮は海岸の橘の小戸にある。
文庫書紀@238-9
観れば、夫れ畝傍山の東南の橿原の地は、蓋し国のか。治るべし」 とのたまふ。
『角川 大字源』 で「」 の字を調べれば
@ おか。 陸。 山のふもとに入り込んだ、住むに適した所
A きし。 みずぎし。入江の奥にある岸。
神武紀 の通説一般的な「墺」 解釈は@
先代旧事本紀 巻第一 の 橘の小戸橿原 では「墺」 の意味はA

万葉集52香具山、菅山であり、香具山ではない。 香具山と香具山は別である。


『風水 気の景観地理学』 渡邊欣雄 著 人文書院 1994年
沖縄・台湾・福建省の風水を研究した学者(東京都立大学 社会学) の書
この本 P237 図43 から風水の明堂・龍穴は
有冨上 ハンドウ山の登り口下の空地(昔、中村本家さんの旧宅跡) の井戸

藤原=葛原 で、葛・ツタに覆われた場所は中村本家さん旧宅跡地の崖
その場所にある井戸が藤原宮御井か。
この空地には野兎がいる。 菟田の「菟」 は「卯」 で方位は東。
推古天皇 19年5月5日  文庫書紀C120-9
田野に薬猟す。 鶏鳴時を取りて、藤原池の上に集う。
真東に形山の青山が位置する。

先代旧事本紀の冒頭の神、天冨道 は有冨 字「中村畔」 の道
古事記の 常道(ひたち) の仲の国の造 も同じ。
日本書紀の片岡=常陸国風土記 那賀郡 茨城里 の片岡
 ↓
原=原=城 ・・・ つる草の類

神代から葛、野バラのツルが生えている。


ハンドウ山 登り口下の崖 片居・片立、磐余

ハンドウ山を100メートル登った所に巨大な山桜の木があった。
その辺に榊が生えていた。
若桜部朝臣五百瀬  文庫書紀D310-2
天香山の五百箇の真坂樹 文庫書紀@76-6

中臣の遠祖、天屋命  雄略紀の少子部など「子」 関係の地

高安城=長門の城 でハンドウ山 登り口付近の溝跡、山城跡
「高」 はハンドウ山の登り口
市中 文庫書紀D258-5 ハンドウ山の登り口下の空地 中村本家旧宅跡

天吉葛 文庫書紀@38-12
土神 埴山姫 ハンドウ山登り口の赤土。 土は五行の中央
埴安池 大歳池
天香具山 ハンドウ山で高松野、高松塚、高円野。 前方後円墳の祖形 

記紀、万葉、風土記など
「中」「長」「常」 の地名・人名は下関市有冨 字「中村畔」〜ハンドウ山 登山道

隋書倭国伝
倭の地勢は東高くして西下り ・・・ 綾羅木川の流れ

下関市綾羅木川流域を風水で見分して流域の明堂・龍穴はハンドウ山 登山口下の空地にある井戸である。

魏志倭人伝では人が死んで葬り終わった後、水に入って禊ぎしている。
墓地と禊ぎの水場が近いことから梶栗浜遺跡である。
梶栗浜遺跡の近くに橘の小戸があり、畝火の美豆山・橿原宮がある。
橿原宮は梶栗か綾羅木郷台地である。

福岡平野に多い多紐細文鏡、細形銅剣から
梶栗浜遺跡は松浦〜福岡市からやって来た神武東征軍の墓地か。

古事記
安寧天皇陵 畝火山の美富登にあり。
 ↓
地形が女の陰部状の谷なので、下関市立考古博物館 駐車場横の石松さん宅下の谷 字「宝前」 に安寧天皇の陵墓がある。
ホト(陰部) の美豆はクリトリス。 この場所で中世の祭祀跡あり。


建国記念の日 2月11日(土) 
鳥見山 有冨のハンドウ山の奥 大迫池の上の尾根
ハンドウ山の頂は卑弥呼の冢で、前方後円墳の祖形

神武天皇の橿原宮は下関市立考古博物館の駐車場にあった。


日本の中心点 下関市有冨 ハンドウ山 登山入口の下 空地
真北 竹生寺横の妙見社
方位磁石 西偏7°
真東 青山
真西 やや梶栗浜遺跡

竹生寺(北)・青山(東)・梶栗浜遺跡(西) の交点が奈良。 字「金鋳ヶ谷」

夏至 東西から北へ27°〜 30°
日の出 ハンドウ山の頂
日の入り 安岡八幡宮
冬至 東西から南へ27°〜 30°
日の出 長府覚苑寺の裏山 長門鋳銭所 ・・・ 万葉集52 青香具山
日の入り 綾羅木郷遺跡 字「宝前」 のホト谷 ・・・ 万葉集52 畝火山


万葉集13、14、15 中大兄近江宮御宇天皇三山歌
竹生寺の山号が高山なので、今まで万葉集の高山は竹生山と思っていた。
高山は長府覚苑寺の裏山(176.6メートル) である。

高山 ・・・ 長府覚苑寺の裏山
耳梨山 ・・・ 竹生山
畝火山 ・・・ 下関市立考古博物館の駐車場
  ↓
『古代の方位信仰と地域計画』 山田安彦 著 古今書院 1986年
P162〜165

『奇景の図像学』 中野美代子 著 1996年
発行 角川春樹事務所 発売 紀伊國屋書店

P260
の図に合致!!

天心十道の地である有冨上 字「中村畔」 から
方位磁石 西偏 7°の南  門司の風師山 山頂  風師
正方位の真南  小森江西小学校 ・・・ 学校を建てる前は大量の銅鉱滓が畑に散らばっていたと伝わる。

小森江 隠国の泊瀬(文庫書紀B42-5)、隠江(万葉集249)

過去記事 記事の半分は今と考えが異なる
小森江 風師山の洞窟 銀鉱
http://44051510.at.webry.info/201408/article_13.html
小森江西  ぐみの木谷 銅鉱口
http://44051510.at.webry.info/201409/article_13.html
「風師」 とは何か  古代史論叢
http://44051510.at.webry.info/201408/article_12.html

小森江貯水池の北岸の上50メートルの場所に銅鉱跡。 石灰岩と緑青が露出。
「北九州市の文化財を守る会」 が2014年11月末ごろに調査確認済み。
武烈紀 小泊瀬宮の銀郷 候補地。
 

有冨 ハンドウ山 登山口 の道下の崖に生えるツル草
  ↓
草壁皇子の「草壁」 の場所


万葉集巻十六を鑑賞する  集歌3840
ttp://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/dfbb3848f48174ea97fa0de48abdacb2
穂積もハンドウ山 登山口下 の崖だ。

穂積=三宅=倉 か。



『古事記 祝詞』 岩波書店 日本古典文学大系
祝詞 P399-6
山の口に坐す皇神等 ・・・ 「山の口」 はハンドウ山 登山道入口

常陸国風土記 那賀郡 茨城里=欽明紀 茨城皇子 文庫書紀B242-末行
茨城の場所は中村本家さん旧宅跡の空地の入り口 野バラが生えた所




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奈良文化財研究所 有冨銭

2017/02/03 21:01

有冨上の家
岩谷 大伴坂上郎女の家があった場所
儀万 天武天皇(飛鳥浄御原宮) の末裔
中村本家 天御中主尊、高木神、長髄彦、天智天皇の末裔

藤原宮の位置
字「善波」、迫本さん宅付近

(根拠) 
『日本の美術 No.512 出土銭貨』 松村恵司 著 至文堂 2009年
P34上
藤原宮の富本銭は「一」 が省略されるとともに、「口」 の第一画が下に突き抜け、「田」 の第一画と一体化した縦画となっている。
  ↓
「富」 が象形文字になっており、左部分の縦線は迫本さん〜西本さん宅。
=迫さん宅〜西さん宅
「田」 の字の中央の縦線は専徳寺北の道祖神から山方向に行く道を表す。
迫本さん宅前に儀万さんの田畑がある。 この儀万の田に藤原宮があったか。

万葉集52 藤原宮御井歌
天香具山はハンドウ山。 東西南北の方位を見て迫本さん宅前あたり。
藤原宮御井は善波湧水池。 (今は埋められて消滅)

私見 「富」 の字を有冨上の地図と見るユニークな解釈

「夲」 は「大」 と「十」 に分解できる。
「大」 は歳池、迫池。 安万侶は迫池ほとりの人で、墓が奈良市にあるのは双分制である。
下関市有冨上にあった倭国(邪馬台国で、本当の記紀・万葉の都) は老子の思想なので考古学が役に立たない。

「十」 は天心十道

長門
長門の「長」 は長身・長寿で長髄彦・長日子
「長」 門の場所はハンドウ山へ上がる道

続日本紀A231-11
丁酉、周防国熊毛郡牛嶋の西の汀、吉敷郡の達理山より出せる銅、冶ち練すことを試み加ふるに、並に用と為すに堪へたり。 便ち、当国をして採り冶たしめ、長門の鋳銭に充つ。

周防国熊毛郡牛嶋の西の汀 ・・・ 下関市吉母
吉母の黒嶋は「久留島」 と呼ばれた。 「牽」、引島か。
吉母は「汀の里」 と呼ばれた。
吉母の字「平山」「金畠」「印内」 に産銅の言い伝えがある。

吉敷郡の達理山 ・・・ 万葉集3011 宜寸川
有冨古墳の横を流れる川。 富さん(今は無い)、本さん宅を流れる川

万葉集1024 長門有 奥津借嶋 はハンドウ山の奥の院(大迫池の上)
毘沙ノ鼻の万葉歌碑は間違い。

長門の城 ・・・ ハンドウ山登り口付近の山城跡



たとえば島采女は六十四卦の「雷火」。
雷はハンドウ山(有冨竜王社)。 天香具山、高円山もハンドウ山の頂。
豊島采女はハンドウ山上に居た采女。

古代史を陰陽五行、風水、易経、老子、道教で解明する。


奈良文化財研究所の根本的弱点
上記の松村恵司氏の著書 P40下
新都建設の平城の地は、和同元年2月の遷都の詔で、「四禽図に叶い、三山鎮を作し、亀筮ならびに従う」(四神相応で三山が鎮護し、亀卜や筮竹による占いでも神意にかなう) 理想の地と謳われている。

2016.9.28
701年 律令国家の完成祝賀か
藤原宮跡で旗の柱穴7つ出土 続日本紀と一致
ttp://www.sankei.com/west/news/160928/wst1609280095-n1.html
日本初の本格的な都、藤原宮跡(奈良県橿原市)から、元日朝賀の儀式で飾る幢幡(どうばん、旗)を立てた柱穴が7カ所見つかり、奈良文化財研究所が28日、発表した。 続日本紀にある「大宝元年(701年) の律令国家完成を祝う儀式で7本の幢幡が立てられた」との記述と一致し、新体制をスタートさせた儀式の様子を知る大きな手掛かりとして注目される。

  ↓
ところが実際実情は藤原京・平城京の風水について疑問が持たれている。
参照
学研のムック本「エソテリカ」 シリーズ
『風水の本』 1998年  P85〜87 
『風水がわかる本』 2012年  P74〜76
を読む。
amazon 中古本 1000円〜2000円。


参照サイト
奈良文化財研究所
https://www.nabunken.go.jp/
稗田地蔵堂遺跡
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/zizodo.html




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双分制 栗本慎一郎

2017/02/02 22:58

ジョー・マグモニーグル
ジョー・マグモニーグル (単行本)
『邪馬台国発見』 権藤正勝 著 学研 2008年 

ジョー・マグモニーグルのサイキック歴史学 (新書版・改訂)
『謎の邪馬台国を発見』 権藤正勝 著 学研 2010年
  ↓
「冬の居城と夏の居城」 は奇異な説に感じられるが、
栗本慎一郎が著書で文化人類学の学術用語「双分制」 を説いている。

豊浦郡で最も高い山である一位ヶ岳(671.6メートル) は風水の太祖山


双分制双子の首都
栗本慎一郎
『パンツを脱いだサル』 現代書館 2005年
P184〜186

『シリウスの都 飛鳥』 たちばな出版 2005年
巻末索引 双分制(双分的)
P68、184、238、350

『シルクロードの経済人類学』 東京農大出版界 2007年
巻末索引 双分制 とくに P133

『栗本慎一郎の全世界史』 技術評論社 2013年
P90-3行目、P183-末行、P188-6行目


ネットで検索せよ。 【双分制】


古代史の問題点 渡海
対馬を出航した後、どうやって激流の関門海峡を通過したか。
北部九州、中国山地、丹後からどの山岳路を通って奈良市に行ったか。
瀬戸内海、日本海側をどう通行したか。
日本列島に着いてからの道程が書かれたものがない。

対馬を出て、次の寄港地が難波である。
長安を出て、次は難波での話である。

奈良県 山辺の道の龍王山=下関市有冨 ハンドウ山(有冨龍王山
双分制で対応している。

記紀・万葉の3分の2は下関市有冨 ハンドウ山 登山口の前、イノシシが土塀を崩した場所である。 祝詞の「山の口に坐す皇神等」 はこの場所である。




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常陸国 有冨上

2017/02/02 03:31

綾羅木川沿いを観察すれば
神社・寺は川の北側にあり、伊倉・川中豊町・稗田には神社・寺がない。
綾羅木川流域で大昔から伝統がある集落は川の北側である。

有冨上 中村本家さん宅の史跡
儀万の池の東側 石を積んだ五輪塔が20ばかりあった。
60年前に家を建てた時、この場所に貝塚があった。

五輪塔は戦国時代の「青山くずれ」 と伝えられる。
これを寺院跡と見れば、
飛鳥浄御原宮の御窟院 文庫書紀D226-2
または
飛鳥寺 蘇我馬子が建立 日本で仏教が開始された場所
である。

日本で最初の本格的な寺院「飛鳥寺」 について調べてみた!!
ttp://deep.wakuwaku-nara.com/asukadera1/
  ↓
大化の改新で大兄皇子と臣(藤原)鎌足が出会った蹴鞠会の場所である。
  ↓
「中」 字「中村畔」 の中村さん宅

有冨の専徳寺住職もビックリ!
日本の仏教は中村本家さん宅の仏壇の場所で始まった。

橘寺か。

飛鳥は有冨 字「中村畔」 なので、
高  天高市、高橋など ハンドウ山の登り口
朱雀(南) 80年代まで白井さん宅前にあった蓮池

常陸国
貝塚 常陸国風土記 那賀郡 大櫛之岡 巨人伝説
古事記 登美の那賀須泥比古
天智紀 文庫書紀D56-10 臣部若子 長尺六寸 年16
古事記 常道のの国の造

常陸国=倭 同じ場所である。
文庫書紀A108-8 日本武尊
是に、神宮に献れる蝦夷等、昼夜喧り譁きて、出入礼なし。 時に倭姫命曰はく、「是の蝦夷等は、神宮に近くべからず」 とのたまふ。 則ち朝廷に進上げたまふ。 仍りて御諸山の傍に安置はしむ。

この伊勢神宮は山上にあり、大迫池の上
御諸山 有冨 ハンドウ山〜大迫池の上
「御諸山」 という表記は中国風水の龍脈をいう。 伊倉の火の見山、一の宮住吉の山は孤峰なので風水の龍脈はない。
豊田湖 安徳天皇陵参考地 風水の太祖山

文庫書紀D238-12
投下ける高麗56人を以て、常陸国に居らしむ。 田賦ひ稟受ひて、生業に安からしむ。

常陸国=倭(やまと) 有冨上
高麗 万葉集 楽浪の近江国


近江国
近江=出雲 下関市 長府安養寺2丁目
近江国は「畿内」 に含まれない。

文庫書紀A102-2 日本武尊
近江の五十葺山(胆吹山) 山の神 大蛇=出雲の八岐大蛇
居醒泉 功山寺名水
蛇 蝮(たぢひ) 多治比


播磨国
風土記37-10
餝磨郡 石作

竹取物語 石作の皇子

古事記 国譲り
建御名方の神、千引きのを手末にフげて来て

長府 安養寺2丁目は花崗岩が砕けたような真砂土で石が加工しやすい。

近江国=出雲国=播磨国=伊予国
みな長府安養寺2丁目の内

持統紀 文庫書紀D236-5
詩賦の興、大津より始れり。
  ↓
長府の覚苑寺近辺には伊予部馬養連などの作家が住んでいた。




[PDF] 資料
xufu.sakura.ne.jp/2015-7ronbun-maeda.pdf  の P8
志賀島出土の金印に根津子命
  ↓
漢委奴国王の国王は有冨の中村さん

常陸国風土記 総記 風土記357-5 古の人、世の国と云へるは

万葉集で「常」 の字
 山常
3236 常山
1682 之倍尓 夏冬往哉 裘 扇不放 山住人


学研 新漢和大字典 (普及版) 2013年
 ゴン
八卦、六十四卦の一つ。
うしとら、東北
解字 会字
「目+ヒ(小刀、ナイフ)」 でのまわりにいつまでもとれない入れ墨をすること。
 ↓
大久
物部大連

水野杏紀 著
『東アジアの宇宙論 易、風水、暦、養生、処世』  講談社選書メチエ

によれば、「艮」 が表すものは
止、山、少男、狗、手、立春、
東北 万物の終りの成す所にして始めを成す所、循環の境界域

八 ・・・ 咫烏

常緑樹
橘、榊、松、椿、若木(扶桑)
万葉集259 香山の鉾椙

「常」 の場所は大迫池の上 岩がある所
  ↓
福草 さきくさ
葛城福草 文庫書紀C270-5
神社福草 文庫書紀C274-2

神社忌寸祖父麻呂、島 文庫書紀C275上 注4

万葉集160 持統天皇 路庭 ・・・ 洞天
昔、有冨墓地の上に火葬場があった。

大迫池上の尾根が「青丹吉 平山」「常」「葛城」「福草」 の場所である。
大迫池上の尾根に「ハンドウ山(有冨 竜王社) の奥の院」 があったと推理できる。 ここが有冨上の天御中主神社があった所だろう。 地元の人も行くことがない場所なので誰も知らない。

有冨上 大迫池の上を大迫山と呼べば
邪馬台国 有冨のハンドウ山〜大迫山
狗奴国 長府安養寺2丁目、3丁目
である。

逸文 伊予国 文庫風土記下360
風土記を案ずるに、天上に山有りと謂ふ。 分かれて地に墜つ。
一片は伊予国の天山と為り、一片は大和国の香具山と為る。

(『日本書紀纂疏』 四)

天上の山 高天原 ・・・ 有冨 ハンドウ山の奥の院(大迫池上の尾根)
香具山 天照大神 ・・・ ハンドウ山
伊予国の天山 素戔嗚尊 ・・・ 長府 覚苑寺の裏山




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富本銭 七曜

2017/01/31 02:53

富夲銭の「富」 は下関市有を示す。
「夲」 は「大」 と「十」 に分解でき、「大」 と「十」 へのこだわりが感じられる。
大 有冨の大歳池、大迫池、蒲生野山田の大池
十 クロスする場所、綾羅木式土器の木葉文(乾艮巽坤か)
     ↓
「十」 の人名 物部十千根、十市皇女など
「十市」 は十日市ではなくクロスする点(基点) の意味


『古代遺跡 謎解きの旅』 風水ウォーキング 松本司 著 小学館 1999年
P245-末行
五角形、五芒星のバリエーションの一つに「大」 がある。
「大」 は人の形であると同時に魔除け、厄除けの形なのである。

呪術性を持って生まれた漢字の歴史

  ↓
「大」 は陰陽五行の相剋説、五芒星、五角形
「十」 は陰陽五行の土王説(土を中心にした十字形)


下関市有冨
県道長安線(県道247号線) から上を俗に有冨上、下を有冨下という。
県道長安線は大正12年にできた道で古くからある道ではない。
明治期の有冨は「上畔」「下畔」 に分かれ、上畔は「西ノ岡」 と「山田」 に分かれていた。 この上畔 「山田」 は隣の蒲生野山田とはちがうことに注意せよ。
有冨上「山田」 に天御中主神社があった。 山口県風土誌 9巻 P374
現在 ハンドウ山の山地番(住宅地・耕作地以外の所) に「山田」 がある。

小字「中村」 は吉見下、安岡、永田、内日下、員光など下関市内のいたるところにある。 有冨は字「中村畔(グロ)」 と「畔」 がつく。

有冨、冨任の「冨」 の字は ウかんむり ではなく ワかんむり で古事記の「冨」 表記と同じ。

綾羅木川の北側では有冨村は有力な集落であり、延行・石原は有冨村に含まれていた。 竹生寺は蒲生野山田にあるが住所は有冨になっている。

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など


日本の "中央" 地点
下関市有冨上の中村本家さん宅に全円分度器の中心を当てて、主要な遺跡・史跡・神社・山頂を調べたら東西南北それぞれドンピシャだ。 まさに富夲銭の七曜たる日月火水木金土の方位である。

有冨大歳池の横に牛を祀る大歳社がある。 家を建てる前は裏(家の北側) にあった。 この地点に全円分度器の中心を当てれば、住吉神社は158°、稗田地蔵堂遺跡は202°で八角形の角にくる。

天武天皇の飛鳥浄御原宮は有冨の中村本家さん宅にあった。
(根拠)
東西 青山山頂と梶栗浜遺跡を結ぶ線
南北 竹生寺と熊野町古墳を結ぶ線
字の交点に中村本家さん宅がドンピシャで位置する。

有冨の中村本家さん宅の場所に飛鳥浄御原宮があって簠簋、式盤、羅経盤の地であり、富夲銭は中村本家さん宅の位置をデザインしたものである。
方位磁石は西偏 約7°

景観地形
ハンドウ山の登り口下にある空地は中国風水の明堂である。

梶栗浜遺跡、稗田地蔵堂遺跡は弥生時代前期であるから、弥生前期に有冨の大歳池周辺に中国の風水、陰陽五行、六十干支、六十四卦が存在していた。

種子島 広田遺跡の貝製品に彫られていた「」 は六十四卦の「艮為山」。
有冨上で「艮」 の方位は大迫池の上。 この場所に岩があり、
天石窟、石上振宮、国見丘の伊勢の大石(文庫書紀@224-2) だ。
参照
『易経』 三浦國雄 著 角川ソフィア文庫 ビギナーズクラシック
P208 『春秋左氏伝』 穆姜の占例
  ↓
種子島 広田遺跡の人骨は下関市有冨のハンドウ山にいた巫女たちで、
細身の男性人骨は天照大神が男だった証である。


「青山」 の名称
有冨 字「中村畔」 から見て東(五行配当の色 青) の方位にある。

「火の山」 の名称
関門海峡防衛の狼煙ではなく有冨上から見て火(=南) に位置するから。
火の見山も同様で伊倉の「イク」 は火の意味という説 『山口県地名考』


まほらまの地 有冨上
岩谷さん宅横 山辺の道

勾(まがり)
「匂」 は赤土が映える意味。 ハンドウ山登り口の道カーブの所。

引田部の赤猪子
赤猪子は巫女なのでハンドウ山登り口付近に住んでいた。
雄略紀の童女君、常陸国風土記 那賀郡 茨城里
竹取物語 かぐや姫
の場所もハンドウ山の登り口あたり。

ハンドウ山 天香山
竹生山が岩山であるのに対しハンドウ山は赤土。
ハンドウ山の赤土が野馬台詩の場所。

野馬台詩の「青丘」=山海経 海外東経の青丘国=万葉集1867 阿保山
青 本来は灰色がかった白色をいう。→ 石英、石灰岩、銀 が採れる山
神仙の場所は土地、物、動物、すべてが白い。


考古博物館
下関市立考古博物館 → 下関皇立博物館 に格上げ
予算10倍

有冨上は仙境で仙人が住む土地である。
老荘思想だから考古学では解明できない。




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長門鋳銭所 小字「八島」

2017/01/25 08:33

amazon で中古本を購入
『富本銭と謎の銀銭』 今村啓爾著 小学館 2001年
  ↓
巻末 P228〜 「略年表と史料抜粋」 を見て、その全部が
顕宗紀 文庫書紀B106-2、4
縮見屯倉首は、忍海部造細目なり。
播磨国司 山部連の先祖 伊予来目部小楯
と関係するか?! というアイデアを得た。

持統5年 伊予国産銀を献上 田中朝臣麻呂
持統8年 鋳銭司任命 台忌寸八島
の「八島」 は下関市長府の小字地名にあるし、
「田中」 は長門鋳銭所跡近くの小字地名である。
法麻呂の「法」 輪山 覚苑禅寺 覚苑寺の山号

小字「田中」 の位置
長府宮の内町5-45 付近

万葉集30
楽浪之思賀乃
「辛」 十干の「かのと」(金の弟)、長府の金屋町、辛島氏

下関市長府(豊浦村) に小字「八島」 がある。 出雲、近江は長府だ。
続日本紀@141-15  長府 近江大津
※4年前に書いたものなので、記述の半分は今と考えが異なる。
http://44051510.at.webry.info/201306/article_47.html

長府の歴史
ttp://jchofu.my.coocan.jp/rekisi.htm
  ↓
図17 崇福寺跡、大津宮、南志賀廃寺の位置
  『富本銭と謎の銅銭』 小学館 P88
  『日本古代貨幣の創出』 講談社学術文庫 P86
に掲載
  ↓
下関市長府と滋賀県大津宮は地勢が似ている。
下関市長府、滋賀県大津宮 ともに「逢坂」 がある。
長門鋳銭所跡の裏山=比叡山
長府 安養寺=崇福寺
対応している。
  ↓
崇福寺跡(滋賀県大津市滋賀里町) から無文銀銭が12枚出土していることから、対応地である下関市長府安養寺も無文銀銭の関連地と推理できよう。
  ↓
関西の難波、奈良、飛鳥などに対応する場所も長府近くにある可能性大である。
栗本慎一郎は多くの歴史書を書いていて「騎馬民族の双子の双分制」 を説いている。
関西地域に対応する場所が下関市内のあちこちにある。

仁馬山古墳は覚苑寺の裏山(176.5メートル) を向いている。

無文銀銭と和同開珎 ―日本最古のコイン―
ttp://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/58mumon.html


逸文 伊予国 文庫風土記下360
風土記を案ずるに、天上に山有りと謂ふ。 分かれて地に墜つ。
一片は伊予国の天山と為り、一片は大和国の香具山と為る。

(『日本書紀纂疏』 四)


古事記 足名椎
足名 名前の字に鉄製品
  ↓
長府の金物の歴史は足名に始まる。

壬申の乱 近江軍の合言葉「

文庫書紀@94-9
清の湯山主三名狭漏彦八嶋篠 
清の繋名坂八嶋手命
  ↓
長府の小字「八島」。 長府の忌宮神社は祭神が出雲系である。
湯山=山部。 播磨国司 山部連の先祖 伊予来目部小楯
古事記 軽箭は銅

持統8年3月 文庫書紀D298-3
鋳銭司 忌寸八嶋
下関市菊川町 吉賀 字「台」 ではなく長府の台である。 亀の甲台地か。

天智10年4月 文庫書紀D56-12
剋を新しきに置く。 清の湯山主三名狭彦八嶋篠
始めて候時を打つ。
を動かす。 長府 字「石」、または「鐘撞」

古事記 「漏」 の人名 訶具比売、迦具比売
淡海の野入杵 長府 字「尾」


功山寺
功山寺 Wikipedia  山号は金山(きんざん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9F%E5%B1%B1%E5%AF%BA

下関市長府川端1丁目2-3
功山寺の「川端」 という地名は来目邑の「川辺」 を連想させる。
文庫書紀@240-末行
亦大来目をして畝傍山の西の川辺の地に居らしめたまふ。今、来目邑と号くるは、此れ、其の縁なり。

「近江国の益須郡の醴水」 は功山寺の名水である。
功山寺名水
ttps://www.youtube.com/watch?v=RpAEPu9qZnk
下関・長府城下町散策A功山寺
ttp://4travel.jp/travelogue/10753719



『富本銭と謎の銀銭』 今村啓爾著 小学館 で考察されてないものに
武烈紀 銀郷 文庫書紀B154-4
古事記 銀(しろがね) の王
がある。

銀山
山口市 一の坂 天花

北九州市門司区 小森江の鉱山
明治期の門司新聞に銀を含むという記事がある。

小森江貯水池の北側50メートル登った所に緑青が見える廃鉱がある。
小森江西小学校を建てる前は畑に大量の銅滓が散らばっていたという。


銅山
竹生寺から小野に行く山岳路に銅を採掘した穴があるという。
小野の老僧岩の裏は銅山という。


弥生土器
2001年、長門鋳銭所跡を発掘した時に弥生土器が出土している。
命 
「己」(つちのと)
「貴」 は「貝」 の字を含み、角川 大字源 によれば貨幣の集まる意。
貴=貨幣 (中国銭、富夲銭、謎の銀銭)
大己貴命は子供の頃、鉱夫だった説がある。


古代史維新!
持統8年(694) の鋳銭司
勤大弐 台忌寸八嶋は下関市長府 字「八島」 の人である。
持統天皇の宮は有冨上 大歳池ほとりにあった。


続日本紀B41-7
池上君大歳(朝妻金作大歳) ・・・ 大歳池、金鋳ヶ谷

続日本紀B369-8
薬師寺の僧華達は、俗名山村臣伎波都なり。
有冨の薬師堂跡は山村さんの家の近く、山村さんの田畑の北隣にある。
薬王寺とも記される。

大倭国宇太郡波坂郷
脚注21
大和志に「已廃。 存 平井村」 今奈良県宇陀郡 榛原町平井 のあたりか。
  ↓
昭和40年代まで小字「善波」 に小さな湧水池があった。
有冨の迫本さん宅から平井さん宅に上がる場所の坂が「波坂」 である。
あるいは宇陀郡 榛原町平井 は大迫池から登る尾根、平井さんの持ち山だ。

記紀・万葉、続日本紀、風土記他 ... みな捏造である。 下関倭国を下地にしている。 有冨の竹生山は東嶽(道教で仙人が住む泰山)。

泰山 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E5%B1%B1


日本の古代貨幣史 日本書紀
場所 長門鋳銭所跡 〜 長府の字「田中」

長府(豊浦村) の小字「八島」「田中」 が重要である。

文庫書紀B128-9
顕宗2年10月
冬10月の戊午の朔癸亥に群臣に宴したまふ。 是の時に、天下、安く平にして、民、徭役はるること無し。 歳比に登稔て、百姓殷に富めり。 稲斛に銀銭1文をかふ。 馬、野に被れり。

播磨の縮見の石室 文庫書紀B104-12
正倉院文書 播磨国郡稲帳 上長門国 鋳銭司主典従七位大宅首佐波
  ↓
古事記 丹波の阿治佐波比売
顕宗紀 丹波小子(たにはのわらは) 文庫書紀B106-1

万葉集307
博通法師の、紀伊国に往き、三穂の石室を見て作りし歌3首
紀伊国 有冨上からみて五行のの方角で東。 木国は前勝谷・長府


文庫書紀D118-9
天武3年 3月7日
3月の庚戌の朔丙辰に、対馬国司守忍海大国言さく、「始めて当国に出でたり。 即ち貢上る」 とまうす。 是に由りて、大国に小錦下位を授けたまふ。 凡そ銀の倭国に有ることは、初めて此の時に見えたり。 故、悉くに諸の神祇に奉る。 亦周く小錦より以上の大夫等に賜ふ。

忍海造 忍海角刺宮 文庫書紀B114-2

縮見屯倉首は、忍海部造細目なり。 文庫書紀B106-2
屯倉 三宅、大宅 
和銅元年2月11日 催鋳銭司 従五位上 多治比真人三宅麻呂

大国 出雲の大国主命
この対馬は長府内か長府近辺にある。


文庫書紀D274-8
持統5年 7月3日
秋7月の庚午の朔壬申に、天皇、吉野宮に幸す。 是の日に、伊予国司田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀3斤8両・アラカネ1籠献る。 丙子に公卿に宴したまふ。 仍りて朝服賜ふ。 辛巳に、天皇、吉野より至します。 甲申に、使者を遣して広瀬大忌神竜田風神とを祭らしむ。

伊予 播磨国司 伊予来目部小楯 文庫書紀B106-4
田中 長府 字「田中」

広瀬大忌神
前勝谷の消防庫横の熊野神社跡に住吉神社が注連縄を張る大石がある。
この大石は道敷の大神(塞へます黄泉戸の大神)。
秋根八幡宮も候補。

竜田風神
有冨 字「中村畔」 から巽(八卦で風、南東) の方角 一の宮 龍王山

持統天皇の吉野宮は国道2号線横の楠乃の変電所、テニスコートあたりか。


文庫書紀D298-2
持統8年 3月2日
乙酉に、直広肆大宅朝臣麻呂・勤大弐 台忌寸八嶋・黄書連本実等を以て、鋳銭司に拝す。

八嶋 長府 字「八島」



北九州市 門司区
裏門司 周防灘側の今津・猿喰・伊川が興味深い。

今津
津村島は大小2つからなる。 (淡路島二並び)
津村島は古事記の津島か。

企救郡誌  昭和6年
八阪神社  松ヶ江村今津字丸山
今津沖の津村島にあった津村神社が合祀されている。

津村神社
津経羅比古神 津経羅比売神 大倉主神
文庫書紀A128-5  仲哀紀 熊鰐
山鹿岬から岡浦へ入る時の水門
大倉主 菟夫羅媛

猿田彦 ・・・ 猿喰
阿耶訶で比良夫貝に手を引っぱられて海塩に沈んだ時に「つぶ立つ御魂」 は菟夫羅媛の「菟夫」 の音に通じる。 大倉主=大国主 という説がある。

「菟」 は稲羽の素兎に関係するか。


伊川
門司区 伊川  普都の大神
http://44051510.at.webry.info/201508/article_10.html




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―縄文・弥生・古墳―

2017/01/20 17:53

考古学
『日本列島の石器時代』 岡村道雄 著 青木書店 2000年
P69-1行目
この時期のこのような状況を日本化のはじまりととらえ、日本文化の誕生に引き継がれ、現代の地域性の原形ができ上がりつつあったと理解したい。

P68 図7 後期旧石器時代後半の日本列島の地域性

九州型ナイフ形石器文化地域圏 の範囲を見ると、
  下関市〜山口市 を含む。
  長門市沿岸〜萩市 は含まれない。

下関市域と長門市域は文化圏が異なる。
下関市と長門市の市境界は後期旧石器時代後半にはあった。


山口大学 考古学
売れ筋ランキング:新刊 2016年12月
ttp://www.book61.co.jp/blist_seller.php?LC=N&ym=201612

古代学協会
近畿地方における初期農耕集落形成をめぐる考古学的研究
研究期間: 2013年4月 - 2017年3月 代表者: 森岡 秀人

いのちのたび博物館・企画展「企救の国の青銅器文化」
http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-4497.html

「高地性集落からみた弥生社会と銅鐸(森岡秀人氏講演会)」
http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_f23e.html
森岡秀人氏の年代論のおかしさ
http://ameblo.jp/torashichi/entry-11775447544.html

倭国には「原倭国」 と「新生倭国」 の二つがあった!?
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_07_29.html
伊勢遺跡のここがすごい!
http://ise-iseki.yayoiken.jp/index.htm


宇土市 デジタルミュージアム
海を渡った熊本の石棺
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/kouhou-uto/h170401.html
馬門石とは
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/makadoisitowa.html


北九州市芸術文化振興財団 埋蔵文化財調査室
北九州の歴史を考古学の力で紡ぐ
http://www.kicpac.org/bunkazai/shiminkouza28-4.html

城野石棺 移築記念シンポジウム
「城野石棺を読み解く〜古墳出現前夜の北九州〜」
http://kitakyushu-culcul.jp/history/7315/


響灘の弥生墓
山口県の古代遺跡〔T〕 集落・墳墓編  古代遺跡教材化研究会 平成7年
土井ヶ浜遺跡の珍品としてシャコ貝製頸飾りがあり、南中国との密接な交流を物語る貴重な遺物で、国内には類例がない。

「川中風土記」 を読む
http://44051510.at.webry.info/201407/article_2.html

油谷町史 P101
岡ノ鼻遺跡  油谷町久富の長久
遺構には弥生時代末期の方形周溝墓とみられるもの一基と、古墳時代の竪穴住居跡および中世の掘立柱建物跡が検出された。 ここで注目すべきことは、同所の排土中に羽状文をもつ弥生前期末の土器片(綾羅木V式に比定) が含まれており、付近に弥生時代前期のムラ跡の存在を示唆していることである。

遺跡ウォーカー  ttp://www.isekiwalker.com/iseki/195626/


歴史作家
『倭人伝を徹底して読む』 古田武彦 著 ミネルヴァ書房 2010年 
『邪馬一国への道標』 古田武彦 著 ミネルヴァ書房 2016年 
※ 80年代に出版された本の復刊

『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 著 三一書房 1996年
『野馬台詩の謎』 小峯和明 著 岩波書店 2003年 立教大学教授


私見
弥生時代の開始
徐福東渡(紀元前210年) ・・・ 下関市域の倭国 泰山

古墳時代の開始
呉王孫権の東方遠征(230年) ・・・ 関西政権 前方後円墳
呉の鏡が見つかった所
  山梨県 富士山麓
  宝塚市
  人吉盆地 免田町 鍍金鏡

倭国の終焉 680年〜730年 700年説(古田史学の会)
野馬台詩の場所は下関市有冨上


関西の「ヤマト王権」 と熊本県は日本書紀の国だった。
関西の巨大古墳に宇土半島の阿蘇ピンク石が使われる。

関西「ヤマト王権」 の遺跡・古墳は下関市域のコピーなので、阿蘇ピンク石に相当するのは下関市吉見漁港・永田本町の海岸に広がる赤石である。 吉見の人が亡くなったので関西ヤマト王権は熊本県宇土から似た石を運んだ。


筑紫(竺紫) 松浦市
秦王国 太宰府

倭国(邪馬台国、俀国) 下関市有冨上
卑弥呼が帯方郡に遣使 「親倭王」(239年

隋書俀国伝 「阿蘇山あり」
俀国は熊本・関西かも。


多婆那国 新羅の脱解
倭国は下関であり、倭国の東北1千里は長門市。

古代の地図 日本列島が逆さまに描かれている。
「倭国の東北1千里」 は福岡県春日市・大野城市か。

弥生時代の考古学 下関市青山麓には福岡市域から来た人が住んでいた。
古事記 須佐之男命は「青山を枯山なす泣き枯らし」 とあり、下関市の青山だ。
民俗 下関市田倉には忌籠り行事がなかった。 「よしみ史誌」 P543-12行

下関市形山 → 一の宮 → 椋野
出雲の肥の河 楠乃川。 または武久川 生野神社
八俣大蛇 八塩折の酒 椋野の岩谷古墳から出土した甕
鳥髪 下関市宝町の鳥越山

下関の住吉神社=出雲説
一の宮住吉2丁目 - 4 - 5 アパート「ギャロップ」 横に
太夫」 という住吉神社の神木がある。
清の湯山主三名狭漏彦八嶋篠 文庫書紀@94-9
清の繋名坂軽彦命 ・・・  椋野の字「蜘手」

有冨上 字「中村畔」 から住吉神社は「巳」(蛇) 南南東 の方角である。

下関の住吉神社内に検非違使社がある。 祭神 火須勢理命→須勢理比売
 

熊成峯 飯塚市 穂波 出雲(JR 桂川駅近く)
根の国 福岡県春日市

熊成峯が彦山なら根国は筑後川流域


紀伊国
の国の「木」 は陰陽五行の配当で東なので、紀伊国は下関市勝谷・長府
前勝谷の熊野神社、勝谷神社の伊邪那美命、聖武天皇の紀伊行幸

紀の湯 
楠乃の字「湯出」 ビッグモーター前  温泉伝説
http://44051510.at.webry.info/201411/article_26.html


中央地点
有冨 はんどう山の登り口下 付近が中央地点である。
有冨 はんどう山の登り口下を基点にして方位磁石 西偏7°で測れば
  北方向 竹生寺・妙見社
  東方向 青山
  南方向 石原156番地、火の山、椋野の妙見山
  西方向 梶栗浜遺跡


面土国
綾羅木郷遺跡から出土した人面土製品 黥面文身 

【黥面文身】 について
http://www.geocities.jp/ydna_d2/geimenbunshin.html
縄文稲作は中国江南地方から来た
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_03_01nettaijaponica_ha_dokokarakitaka.html

倭面土国
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106b.htm


『山口県風土誌』 第11巻 P325
阿武郡 大井村  
名義
不知。 延喜兵部省式長門国駅に阿武。 また和名鈔本郡郷名に阿武とある本村の事なり。 海外にもはやく聞えたる地名にて図書編に倭委と見えたり


  ↓
「倭」 の字は「大」(おほ) である。

大型漢和辞典で
「面」
「土」
を調べる。




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常陸国那賀郡 下関市有冨 字「中村畔」

2017/01/16 23:20

下関市 有冨銀郷説
文庫書紀B154-4 武烈紀
伏して願はくは、陛下、仰ぎて霊祇に答したまひて、景きなる命を弘め宣べ、日本に光り宅しませ。 誕き銀郷を受けたまへ」 とまうす。


富夲銭
「富」 は下関市有の「富」
「夲」 は『角川 大字源』 によれば、十人の力を兼ね合わせたほど、く進む意
速=建須佐之男命

「夲」 は「大」 と「十」 に分解できる。
「大」 は常陸国風土記 那賀郡の巨人
常陸国 那賀郡の場所は下関市有冨 字「中村畔」
中村本家さん宅に貝塚があったという証言がある。
本当の飛鳥池は中村本家さん宅横の「儀万の池」 である。

「十」 は隅田八幡神社 人物画像鏡の日大王、仏教の王。 有冨上の人家は10軒程度。 十大王の「日」 の場所は はんどう山の登り口で、ここが神武紀の「道臣」(文庫書紀@212-5)。

山口県風土誌(第9巻 P357-末行 有冨村 境界) によれば
竹生山の東峰は山名が東ヵ嶽である。

太山府君
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B1%B1%E5%BA%9C%E5%90%9B
  ↓
東嶽=泰山。 泰山府君祭は長寿・不老不死の祭祀。
「東嶽」 は冥府である。 昔、有冨墓地の上に火葬場があった。
東嶽=冥府=冥土=常世。 常陸国は常世の国。
有冨墓地は道教仙人の地である。

竹生観音は蒲生野山田にあるが住所は有冨であることから有冨の寺である。
竹生観音の山号は高山。 竹生観音の横に妙見社がある。
高山は風水の玄武、鼈亀(べっき)。
妙見=北極星。

易の「乾」(=天) の方位は経筒が埋められている竹生観音の奥の院。
「艮」(鬼門) の方位は大迫池の上。

竹生観音の真南の方位に名字が儀万という家がある。
儀万という名は易経の根源によると考えられる。
万葉集 漢字原文で使われている「儀」 の字は儀万の家を示す。

下関市有冨上は四神相応の地である。
奈良盆地南部の明日香村は川が南から北へ流れる愚地である。
奈良県南部は天子南面にならない。

奈良県の遺跡は下関市有冨上のコピーである。
コピーする根拠は栗本慎一郎が説く「騎馬民族の双分制」 である。

常陸国風土記は茨城県ではなく下関市有冨である。
常陸国風土記は文体から大倭国風土記であり、倭は下関市有冨上である。


渡海
元寇が参考になる。
元の使者が下関市室津に来たことから下関市室津は倭国の玄関だった。

『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子著 日本経済新聞出版社 2007年
口絵7 広輪疆理図(『水東日記』所収) 大倉集古館蔵 に「徐福祠 長門 赤関」 とあるので徐福が住んで死んだ所が下関市域内にある。

元軍は鷹島と志賀島に上陸した。
私見では松浦市が竺紫高千穂宮である。

日本書紀、万葉集などでは中国、朝鮮南端、対馬、五島を出航して次の寄港地が記されていない。 どうやって関西まで行ったか、日本海経由、北九州、中国山地、瀬戸内海をどう行ったかの記録がない。 中国、朝鮮、対馬、五島を出航した後いきなり難波に着いていることから、難波の場所は玄海灘〜響灘の沿岸にあり大阪府ではない。


精神文化、心、信仰
縄文晩期は3000〜2400年前
2017年−2400年=紀元前383年
日本の縄文晩期〜弥生前期は中国の殷・周・春秋戦国時代の精神である道教、風水、易、陰陽五行、諸子百家が勃興した時代である。
原始古代の中国哲学は縄文期を見る教養である。
日本の縄文晩期〜弥生前期は理数系アプローチでなく文学部の王道「中国哲学」 で考察したい。 日本の民俗・祭祀の陰陽道も必修である。


地名・方位
蒲生野(かもうの) は奈良県方言。 万葉集20 題詞
有冨上の小字地名「善波」 (ぜんなみ、よきなみ) も雅風がある地名だ。

火の山、青山の「火」「青」 は五行・風水の地名だ。
磁針方位 西偏約7°
有冨上を基点として火(=南) 青(=東) である。 青銅器が出土した梶栗浜遺跡は有冨上の西方(=金、死滅)に位置する。

伊倉の火ノ見山は日見山とも書く。
伊倉の「イク」 は別説として「イク」=火神説  『山口県地名考』(高橋文雄)

朱の精製跡が出土した石原156番地
L字状石杵が出土した場所は石原コスパ裏の崖上
この場所は はんどう山 登り口と火の山を結ぶ直線上にある。
はんどう山 登り口から火(朱、赤、南) の方位に石原156番地がある。

纏向の「纏」 の字は中国風水を表す。
垂仁天皇、景行天皇の頃には既に陰陽五行、風水で暮らしていた。
場所は奈良県ではなく下関市有冨上。



『富本銭と謎の銀銭』 貨幣誕生の真相 今村啓爾 著 小学館 2001年
  ↓
この本の欠陥
武烈紀 「銀郷」 文庫書紀B154-4行目
古事記 銀(しろがね) の王
について論及されてない。


『「日本」国はいつできたか』 改訂版 大和岩雄 著 大和書房 1996年
P69
道教思想によれば、東海の日の出の場所にある桑に似た神木、扶桑の上に東王公のいる大帝宮がある。
「大王(おほきみ) は神にしませば」、「天雲の雷(いかずち) の上に廬(いほ) りせるかも」、または「雲隠る雷山(いかずちやま) に宮敷きいます」 という柿本人麻呂の歌は、「廬り」 や「」 を大帝宮とみての歌とも考えられる。
大帝宮は扶桑の上にあるから、雷山のある地を扶桑とすれば、当然、大帝宮は雷山の上の「廬」 や「宮」 である。 その宮にいるのが神である大王(おほきみ)、つまり扶桑大帝東王公である天皇である(中国の「天皇(てんこう)」 とは扶桑大帝東王公のこと)。


『蓬莱山と扶桑樹』 岡本健一 著 思文閣出版 2008年
P16
(蓬莱山など三山の別名)三壺はすなはち海中の三山なり。
一に曰はく方壺、すなはち方丈なり。 二に曰はく蓬壺、すなはち蓬莱なり。 三に曰はく瀛壺、すなはち瀛洲なり。 形は壺器のごとし。
(王子年 『拾遺記』 巻一)

東王父は・・・・・・万神の先なり。 ・・・・・・東方に治す。 下に蓬莱山在り。
(葛洪 『雲笈七籖』 第三神仙)


P25-4行目
中国・晋代の『王子年拾遺記』 によると、三神山の一つ「瀛洲」 は「積み石多し」 という。

  ↓
十=扶桑説
「十」 は隅田八幡神社 人物画像鏡の日大王、仏教の王。
銭の「夲」 の字は「大」 と「」 に分解できる。

私見では「十」 は扶桑樹を表す。

淮南子 の太陽

扶桑 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91
烏が乗る10の太陽

和同開珎 関西仏教デザイン
富夲銭 方士だった天武天皇 道教・陰陽五行デザイン

七曜の地 下関市有冨上 字「中村畔」。 とくにハンドウ山の登り口下

万葉集の雷山は有冨のハンドウ山である。
竹取物語のかぐや姫は有冨の岩谷さん裏の竹林 字「金鋳ヵ谷」 に住んでいた。
お迎えが来たのでハンドウ山を登って月の都に帰った。

竹生山の東峰は山口県風土誌によれば「東ヵ嶽」 という山である。
東嶽=泰山 蓬莱山
神仙の岩山が石原の砕石場になって無残に崩された。


別な見方
私は山海経 海外東経 の「青丘国」 を下関市有冨上にする。
なら扶桑は吉見上 鬼ヶ城山〜吉母上か、もう少し北か。

私見
中国の古い地図では九州の南方海上に扶桑があり日本列島が南北逆転した図になっている。 これは約6400年前(縄文早期後半〜縄文前期) に大噴火した鹿児島県硫黄島付近の鬼界カルデラを「扶桑」 とした固定観念による。

鬼界カルデラは種子島の広田遺跡に近い。
男が女装した広田遺跡の人骨は下関市有冨上から来た巫覡であろう。

考古学 土井ヶ浜遺跡と広田遺跡の貝製品は加工の仕方が似る。
広田遺跡の貝製品の文様には大陸の影響が見られ、「山」 の字が彫られる。

戦前まで有冨のハンドウ山は松が茂る山だった。 高松塚古墳の「高松」 は有冨のハンドウ山のことであり、高松塚古墳壁画の天女は下関市有冨のハンドウ山にいた女たちである。

私見では、方丈は下関市室津、瀛洲は土井ヶ浜・向津具(楊貴妃伝説)


日本書紀 神武東征
文庫書紀@218-6
高尾張邑(葛城邑) 赤銅の八十梟師 有冨 字「金鋳ヶ谷」
文庫書紀@236-2
又高尾張邑に、土蜘蛛あり。 其の為人、身短くして手足長し侏儒に相類たり。
土蜘蛛 穴の中や粗末な廬に住んでいる。
手足流し 長髄彦、七掬脛、高田八掬脛
侏儒 南方系
ただし葛城山は仙人の山である。
仁徳記 石の比売の葛城 高宮はハンドウ山の上、石がある所である。

八俣大蛇の「高志」 は続日本紀では行基の出身地で和泉にある。
古事記 黄泉、日本書紀 泉津、続日本紀 和泉 

母木邑 「母」 は伊弉冉尊か 
前勝谷 熊野神社跡 戦時中まで松の大木あり。
住吉神社 神木

巨樹 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E6%A8%B9
  ↓
播磨、近江は長府。 長府に巨樹があったので「日本」「日下」 か。
記紀・万葉などでは東西が逆に記述されているのか。

住吉忌宮 北樹社
http://44051510.at.webry.info/201411/article_23.html
  ↓
書いたのが3年前なので今とは見解が異なるところが多い。
北樹社は吉見の龍王神社だろうか。





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辛酉

2016/12/09 12:18

蚊取り線香 金鳥のロゴマークの鶏

「金鳥」 商標のいわれ なぜニワトリなの?
ttp://www.kincho.co.jp/kaisha/mark/index.html

金鳥の会社名の由来を教えてください。 - とさかの ... - Yahoo! JAPAN
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1414676984


私見
金鳥=辛酉 か

辛酉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E9%85%89

辛酉革命と甲子革令の王朝
ttp://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu5/sinkyukk.html

【新設】「干支」にひそむ三千年の謎
ttps://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/973e122d-ecee-59d4-e2bd-581558a68fe9




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「干支による方位を付した分度器」 を使ってアイデアを得る

2016/10/30 04:27

必需品
Amazon | プラスチック加工専門店【井上製作所】 方位分度器 (S-418 ...

国土地理院 地図 2万5000分の1
綾羅木川と関門海峡の地図を外枠を切り取ってセロテープで貼り合わせる。

ゼンリン住宅地図
コンビニのコピー機で縮尺を調整した4枚をセロテープで貼り合わせる。

地図は紙の地図にかぎる。 あちこち蛍光ペンで印を付けて方位分度器を当てる。


竹生寺の横にある妙見社は北極星であることに注目して、
amazon で売られている井上製作所の方位分度器を当てる。

青山の「青」 は東の意味である。
梶栗浜遺跡は西の方位にある。
中心は有冨上の儀万さん宅、中村本家さん宅あたりとなる。

一の宮本町の龍王山は「巳」(蛇) の方位になる。
椋野上町の妙見山は方位磁石の南(西偏7°)

西偏7°で測れば、中心は岩谷さんの家前にあった有冨上八幡宮となる。
真東は石原の小原山 
真西は梶栗浜遺跡

大年池の横、中村勝さん宅は低い丘上にあり、風水で見て家裏にあった大年社は重要である。 この場所が「土」 (中央) か。 大己貴神の「己」 も「つちのと」 で中央を表している。

耳成山
八卦の「坎」 は北で、身体の部位は耳。北=耳。 竹生山か。

虚津
「虚」 は二十八宿の字。 真北の東隣
危−虚−女−牛− ・・・


下関市始原文化
東西南北の座標 「中央」「原点」 は有冨上 字「中村畔」 の
  儀万さん宅  「儀」 は易の両儀、「万」 は万物
  岩谷さん宅前の東側の山道  「平田さんの山」
  中村勝さん宅の裏、昔牛小屋があった場所 大年社
  中村本家さん宅西側  「丑」 の方位に牛を祀る大年社がくる
が座標「ゼロ」 のピンポイント候補地である。 微妙だ。


奈良県の天香久山
 国立神社 ・・・ 金印の根津日子命
 天岩戸神社
  ↓
下関市有冨のハンドウ山が本当の天香久山である。
漢の国は有冨 字「村畔」 にあった。
円筒埴輪の節は竹生寺縁起の孟宗竹を表す。
前方後円墳は下関市有冨のハンドウ山をデザインしたものである。
(根拠)
有冨 字「中村畔」 からの八卦(乾・坎・艮・震・巽・離・坤・兌) の方位がドンピシャだ。 方位磁石の西偏7°も重要である。




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下関市域 伊勢

2016/10/24 02:02

吉野裕子(民俗学) の説によれば、西は死滅の地
下関市の西端は吉母・室津。 本州西端でもある。 毘沙ノ鼻

下関市域の伊勢神社 天照大神を祭る神社
石原にあった大神宮 場所、祭神とも不明  『村浦明細書』(安政5年)
  ↓
福江八幡宮
  ↓
吉見上にあった滝本神社 逸文 伊勢国 瀧原神宮か
  ↓
吉母 樋の口神社 明治期までは字「安常」 にあった。

垂仁紀 豊耜入姫の「耜」 は福江の鍬先山
「東の美濃」 は吉見の字「美野田」

風土記 伊勢国 逸文 の吉津島は下関市吉母の黒嶋である。
下関市吉母の黒嶋は前方後円墳の形をしている。
黒嶋は久留島とも呼ばれていたので牽島で引島か。

太平洋戦争時、黒嶋には人間魚雷基地があり、線路が敷かれたトンネルが2つ開いていた。 戦後、人間魚雷のトンネルは埋められた。

黒嶋観音  郷土史本 『汀の里』 P9
長門仏法大師新四国第69番札所
奈良時代、行基菩薩が聖武天皇の勅命を受けておとずれ、この地の風光と地形に霊を感じ、自ら十一面観音像を刻みまつられた。
黒嶋は現在陸続きとなっているが、古くは島で、黒嶋普門院観世音縁起によれば「久留島」 とも呼ばれていた。 この島には十一面観音像をまつる観音堂があり、毎年旧暦の6月17日には「十七夜祭」 で大般若経の転読が行われ夕方から多くの人が、無病息災を祈って参拝する。 境内には松尾芭蕉などの句碑24基がある。


地元の学術関係者は吉母の黒嶋に関心を示さないが、東京・京都から来た人は吉母の黒嶋を見たら前方後円墳の形をしていることに驚くはずだ。


吉母の漁業
http://44051510.at.webry.info/201209/article_110.html

吉母上には大仏が置かれた東光坊という寺があった。
廃寺になって大仏は豊浦町厚母郷の安養寺に移された。
この大仏は坂上田村麻呂が関与したとされ、重要文化財、戦前は国宝。

吉母上は宗像の海も見えて、海の見通しがきく場所だ。

【厚母大仏】 凄い力を感じる、山口県下関市郊外にひっそり鎮座する重要文化財
ttp://katsulog.net/150627-atsumo-daibutsu/
厚母大仏
ttp://www.shoai.ne.jp/chugoku-w/furusato.shiseki-atumodaibutu-yamaguchi.html


天照大神、最晩年の伊勢は下関市吉母である。
吉母 字「江良」 山本さん宅 西隣の竹藪は禁忌の場所とされる。

黒嶋先端の先にある岩礁「威勢」 に万葉集228434 の「難波姫島松原嬢子死」 と似た民話がある。 『よしみ史誌』 P711 地下上申 

御崎に「小松ヶ瀬」 がある。 "西" の河辺、久米は御崎か。
万葉集で「小松」 の場所は御崎の海岸である。

御崎が下関市吉母に編入されたのは昭和30年で、それまでは豊浦町室津上に属していた。 御崎は本来の吉母域ではない。 歴史的には「吉母の御崎」 ではなく「室津上の御崎」 である。
室津海岸の松林は「木ノ村」 といわれる。 吉母の御崎地区は古くは室津に属していたので「木の国」「紀伊国」 だ。


瀧、洞窟がある場所は御崎。
風土記 伊勢国 逸文 瀧原神宮は御崎神社か。

文庫書紀C210-1 伊勢阿部堅経 吉母御崎の阿部さん宅

万葉集3233 この芳野の瀧は御崎の淵ヶ谷

万葉集32343235
五十師の原 御崎 字「淵ヶ谷」  カルスト台地
御井 三井さん宅


文庫風土記下-193
逸文 伊勢国 伊勢国号、一説 石城
天日別命、勅を奉り、に入ること、幾百里。 其の邑に神あり、名を伊勢津彦と曰ふ。
伊勢津彦の神は、近く信濃国に住ましむ。
天日別命の封地の国と為し、宅地を大倭耳梨の村に賜ふ。


  又云ふ。 伊勢と云ふは、伊賀の安志(あなし) の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名、伊勢津彦命、又の名、天櫛玉命。 此の神、昔、石もて城を造り、其の地に坐す。 ここに、安倍志彦の神、来集ふ。 勝たずして還り却る。 因りて名を為すなり。


私見
東の伊勢 有冨上、または石原にあった大神宮
信濃 赤田代
大倭の耳梨 蒲生野山田か

内日の赤田代は垢田の人が移住した説がある。

垢田の字「沓」 は靴を履いた人が上陸した場所という。
垢田八幡宮近くの山の上に蓋弓帽の稗田地蔵堂遺跡がある。

蓋弓帽の稗田地蔵堂遺跡の近くに「秦屋敷」 という地名場所があるという。
稗田の小字「畑」(ハタ) は 稗田南町〜山の田の県住 といわれる。

稗田に石炭層があった。
稗田町 町民館 の坂入り口に「稗田のあゆみ」 看板があり、
第5幼稚園 と 旧川中中学校 の場所に石炭層があったと書かれている。
構造船の祭祀土器が出土した要須遺跡は石炭層にあったので墨江か。

鼻ヅラ海岸の黒ア妙見に天御中主尊が祭られていた。

山口県鹿野(かの)町
2003年 徳山市、新南陽市、熊毛町と合併し、新たに周南市となり消滅した。
鹿野町 鹿野下 字「天子」  建御名方神がここに逃げてきて住んだと伝わる。


伊勢 御崎の字「淵ヶ谷」 の海岸、岩の上に弁財天を祭る祠がある。
この場所は出雲でもある。
安倍志彦は御崎の阿部さん宅か。

万葉集で「留西」 (とまりにし) とは御崎か。
西、黄泉、出雲。

天照大神の黄泉である伊勢は五十師の原
黄泉の出雲は五十田狭の小汀


続日本紀から発想  作成日時 : 2011/11/27
不破の道 = 鈴鹿関  吉見 農免道路横の千石岩
美濃と尾張は場所がほとんど同じで吉見温泉センター
美濃の養老の泉  吉見温泉(アルカリ性単純温泉 25.1度)
岐蘇(吉蘇)  吉見峠
信濃  赤田代
5年前の思いつきなので今とは比定地が異なる。 「吉蘇」 は吉見峠だろう。


陰陽五行と幕の色彩
http://sansenshinbunsya.net/index.php?%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C%E3%81%A8%E5%B9%95%E3%81%AE%E8%89%B2%E5%BD%A9
  これは五行思想が伝わると共に世界認識軸に加わった「南北軸」 を表現していたのではないかと筆者は見ています。 五行思想が入ってくるまでの日本には、「南北」 という世界観がなく、「東西」 の区分けがすべてでした。 「東」 は「生命誕生」、「西」 は「死の方位」 で太陽が再生されるまでそこに籠もる「子宮・胎・」 の方位です。 ところが五行思想が日本に入ってくるなり、「南北」 という新しい世界軸が脚光を浴びます。 「南北軸」 は星を神聖化したもので、北には満天の星を司る「太一(たいいつ)」 という神が北極星に座し、向かい合う南には皇帝の祖先の霊をまつる「天廟」 と位置づけられる「南斗六星」 があり、天子の寿命を司るとされていました。 天を支配し、祖霊と寿命を司る北斗と南斗の軸は、当時の人にとっては太陽軸以上の存在になっていくのです。「赤」 は南、「黒」 は北。 現在ではあまり見ない「赤と黒」 の斑幄が宮中の行事などに盛んに使われたのは、その時代の流行だったのではないでしょうか。


下関市川中
 妙見 竹生寺の横にある妙見社
中央 有冨上 牛を祭る大年社、ハンドウ山の登山口、儀万さん宅
 皇帝の祖霊を祭る天廟があり天子の寿命を司る。
石棺に朱が塗ってあった下有冨石棺、方墳の上ヶ原古墳
伊倉の龍王田遺跡
熊野町の古墳

有冨上 大年池堤防の西にある大年社はかつては中村勝(まさる) さん家屋敷の北辺にあったものを家を建てた時に現在地に移動した。
この大年社は牛を祭るので、神武東征時の牛酒である。 文庫書紀@214-5
彦火火出見尊の軍が倭に入った時、倭には牛がいた。


字「大西」  東は誕生、西は死滅。
有冨の字「大西」 は有冨でも古い家々の墓地がある。

伊倉
伊倉の字「大西」 も古墳時代の埋葬地
字「龍王田」 遺跡あり
字「浅山」  風水の朝山か

孟宗竹は江戸中期に中国から伝来したとされる。
竹生寺縁起では、787年(延暦6) に寺を建てた時、この場所に生えていた竹は孟宗竹だったという。


磁針方位は 西偏約 7°
地図で知る真南だけでなく、方位磁石が指す南も重要である。




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