アクセスカウンタ

プロフィール

ブログ名
邪馬台国 下関
ブログ紹介
邪馬台国への道、その出発点は福岡市 志賀島の志賀海神社である。大量の鹿の角が奉納されている。
魏志倭人伝の末盧国は志賀島 ・・・・ 末盧国には官・副がいないので、邪馬台国の領域外である。 志賀島は 「海の北の道の中に在す、道主貴」 で、万葉集の敏馬浦。 弘浦の潜水海女、勝馬の白き砂浜。
敏馬が勝馬に転訛した。 「播磨」 は古事記では「針間」 で、まさに海の中道と針先の志賀島の地形である。

伊都国は岡垣町の西部、内浦・原・波津 のあたり。
山海経の君子国も岡垣町だろう。
遠賀川流域で、岡垣町の弥生時代・古墳時代の遺跡は傑出しており、「伊都国 岡垣町説」 は考古学による知見に基づく。

戦前から、筑紫の熊鰐・五十迹手が高天原の天磐戸と同じ儀式で仲哀天皇皇后一行を出迎えたのは謎であった。 五十迹手は波津の磯辺の者であろう。

筑紫大宰府は岡垣町にあった。
大宰少弐の藤原広嗣は大宰府市でなく遠賀
郡で挙兵したので、大宰府は遠賀郡にあった。

万葉集959 より、香椎宮、大宰府、豊前は歩いてすぐ近くにあった。
豊国は岡垣町の安楽院のあたり。
本当の香椎宮は高倉神社である。

中国の原始的地理書にある蓬莱山は沖ノ島。 神風の伊勢大神宮は沖ノ島にあった。

宗像市の孔大寺山を岡垣町では葛城山という。
岡垣町の汐入川は石川ともいう。

天香具山 = 万葉集の高山 = 高円山 で、岡垣町 高倉神社の高津峰 とみた。

神功皇后が征伐した三韓の西蕃は、福岡市・糸島市・春日市である。 朝鮮半島南部と往来し、一衣帯水であった。 ※ 魏志倭人伝では対馬・壱岐は倭国領である。 台与が奪ったものであろう。
熊襲は名前が「川上」 なので、飯塚市の立岩。 福岡市・春日市と同じ甕棺文化圏である。


文章中の記号
岩波書店  新 日本古典文学大系  『 続日本紀 』
B319 ⇒  3巻 319ページ

help RSS

角鹿 から 穴門豊浦宮 へ

2012/01/28 22:08

岡垣町 高倉神社の境内社に志々岐神社があり、これは長崎県平戸市西端の志々伎神社である。

神功皇后は、
三韓征伐の前 ・・・・ 肥前松浦に出向いた。
三韓征伐の後 ・・・・ 産まれた応神天皇の禊をするために、越(高志) の角鹿の笥飯(気比)大神に出向いた。 一説に、応神天皇は住吉神との不倫の子という。 ならば禊が必要だろう。

角川ソフィア文庫 新訂古事記 平成13年 41版 の P128
御食津大神についての脚注で、「この地方から漁撈の産物が貢上されるに至った起源説話とみられる」 とある。

この場所は考古学より、長崎県 宇久島の宮ノ首遺跡である。
宮ノ首遺跡
宇久島の西端、南向きの入江に臨む貝塚。
平成2年 (1990) に発掘調査。
縄文時代前期から弥生時代中期後半、平安期・鎌倉期の遺物が発見されているが、主体は古墳時代末期から奈良期にかけての玄海灘式製塩土器などを含む須恵器・土師器類である。
貝塚では大型のアワビ貝の純粋貝層がみられ、「肥前風土記」 値賀島の条にみえる干鮑の貢納を裏付けるものといえよう。
また中国製陶磁器片(青磁・白磁)も出土。

『長崎県の地名』 (平凡社の地名辞典)  P570下

まさに、万葉集366 の場所だ。
角鹿の津に船に乗りし時に、笠朝臣金村の作りし歌一首
越海之 角鹿乃浜従 大舟尓 真梶貫下 勇魚取 海路尓出而 安倍寸管 我榜行者 大夫乃 手結我浦尓 海未通女 塩焼炎 草枕 客之有者 独為而 見知師無美 綿津海乃 手二巻四而有 珠手次 懸而之努櫃 日本嶋根乎

※ 万葉集の本では原文の漢字に「ふりがな」 が振ってあるので、訓み下し文よりも情報が多い原文のほうが読みやすい。 ひらがなの訓み下し文は難解で、関西人流の解釈だ。

万葉集366 からは角鹿は平戸市の志々伎神社と思える。
手結ヶ浦は宇久島の宮ノ首

旦浜 ― 宇久島 平郷 旦ノ上

Google 画像 で検索せよ。  【  志々伎山  】
志々伎山は「角鹿」形の山そのものである。

宇久島の沖に舟を出せば、海流で一晩で対馬に到着するという。
遣唐使船は宇久島から渡海したという。



日本書紀 仲哀天皇2年3月15日
岩波文庫 日本書紀(二)  P124
天皇、南国を巡狩す。

越の角鹿が長崎県佐世保市 宇久島 本飯良の宮ノ首 または平戸市の志々伎神社なので、仲哀天皇が巡狩した南国は長崎県 〜 熊本県である !!!!!

勒津宮の「徳」 の字の地名は、佐賀県・長崎県・熊本県・鹿児島県、いずれもあるので、未詳。

穴門豊浦宮の場所は住吉神に関係するので、佐世保市 早岐瀬戸の住吉神社近くである。 佐世保市の住吉神社は「古くは西海総社住吉宮と称す」 で、格が高い。
穴門は早岐瀬戸である。
穴門は山口県下関市ではなく、長崎県佐世保市の早岐瀬戸。

角鹿出身の神功皇后は、宇久島の宮ノ首、または平戸市の志々伎の人である。

魏志倭人伝で台与は白珠5000孔の真珠を献上している。
真珠は宇久島周辺で採れたものだろう。

宇久島では真珠貝でなくアワビ貝を使った真珠養殖が行われている。
宇久島はアワビの漁獲量が日本一である。



記事へトラックバック / コメント


岡垣町  地誌 2

2012/01/28 16:03

岡垣町史  P865 より

雨乞山古城
手野と三吉の境にある山で、現在は百合山といい、手野では城ヶ原山ともいっている。
『筑前国続風土記』 の古城古戦場の項に、「雨乞古城、天野村にあり。城主詳ならす」 と書かれている。
干ばつの年にこの山を焼くと雲が出て雨が降ったといわれるところから、この山を雨乞山という。
頂上に平地があり、ここが宗像(氏貞の頃) の端城の一つだったと伝えられる。

※ 私見は、ここが日本書紀の高安城であろう。


垂水峠
宗像と境をなす峠で、湯川山と孔大寺山との間にある。
垂水峠、樽見峠とも書き、古代にはここを大宰官道が通っていたともいわれる。
『平家物語』 に、安徳天皇が大宰府から大里の行在所に向かわれたときの峠の様子を、「垂水山鶉浜といふ峻嶮を凌がせたまひて渺々たる平沙へ赴きまゐりける」 と書かれている。

峠の途中には、駕籠据場という所がある。
昔、ここで旅人が駕籠を据えて休憩した所といわれている。
峠の頂上には花立地蔵がある。
峠にちなんだ河童伝説がある。

※ 「垂水」 を滝とみれば手野の滝であり、垂水山は葛城山こと孔大寺山だろう。



郷土史本 水巻昔ばなし  昭和61年  P9

遠賀の地名
この由来につては貝原益軒の「筑前国続風土記」 (1709) に、「内浦の西、原村より芦屋までの海辺に高き岡つづけり、故に、その辺を岡と称し、郡の名もこれによりて名づけしならん」 と記されている。
しかし農政を本文とする当時の為政者が、三里ノ松原のような不毛の砂丘を郡名にするとは、どう考えても疑問がもたれる。


※ 考古学より、弥生時代の遠賀川流域の中心は岡垣町だった。
古墳時代の岡垣町の中心は波津・原だった。
垂水峠に大宰官道が通っていた。
大宰府官衙は垂水峠の道の先の内浦か手野にあったのではないか。



記事へトラックバック / コメント


鶉浜 鶉村

2012/01/28 01:45

万葉集の鶉
239
2799
1558
775
3920
199
3887

岡垣町の内浦(うつら) は鶉浜、鶉村ともいった。



内浦 (うつら)
遠賀郡誌  P541  
此里昔より辺鄙には有名の地なり、
名義は古へ吉木村の下より西の方手野及び此村の辺まで総て入海なりし故に内浦と云へり、
今も田の底より蛤蠣の殻の出る事あり
和名抄当郡郷名に内浦郷とあり此辺数村をいへるなるべし、

又鶉浜(平家物語名寄)、鶉村(法応寺縁起) など書けり。
清濁同音なりしゆえなり。




記事へトラックバック / コメント


岡垣町  若宮神社

2012/01/28 01:06

若宮神社 

所在地  大字内浦字高入 1125
祭神  仁徳天皇 仲哀天皇 神功皇后 氏森大神 愛宕大神
由緒
『福岡県地理全誌』 に「宗像75社の一なり」 とあり
宗像宮正平年間(1346年ころ) の祭祀記に「内浦若宮明神1月1日、3月3日、5月5日、9月9日神事」 と記している。
また、「高倉神事定書」 には手野若宮とあり、中世はこの地が手野郷だったことがわかる。
これからもお宮の縁起が古いことがしのばれる。
内浦の氏神様。

境内社  貴船神社 恵比須神社

内浦の字  神社       祭神
片山     愛宕神社  軻遇突智命
和田     氏森神社  木花開耶姫命
和田     須賀神社  素戔嗚尊
和田     菅原神社  菅原道真

明治44年に合祀


岡垣町史  P1009 より



記事へトラックバック / コメント


芳野離宮 の滝

2012/01/28 00:11

万葉集960  帥大伴卿遥思 芳野離宮 作歌一首
隼人乃 湍門乃磐母 年魚走 芳野之瀧尓 尚不及家里

『遠賀郡誌』 総論  P76〜77  瀑布

鮎返りノ滝
岡垣町大字手野の南16町荕原と云所にあり、高2丈余、幅2尺余、細流岩上を伝ひ灑き落るさま頗る美観なり、水源葛城山より出て流末を篠間川と云ふ

芳野離宮の滝は、岡垣町手野の鮎返りの滝である。

万葉集2210
葛城山(孔大寺山) より流れ出る川が明日香川だから、明日香川は手野の川である。




手野  遠賀郡誌 P536
里の名義は昔神功皇后高倉の社に参拝あり
帰路に鎧の小手を此所に遺し置き玉ひし故に小手の村といひしを後に小の字を省きて手野村とすといふ、

天野とも書けり
此地もと原村に属せしが後別村となれり。

古へは海湾なりしも漸次にあせて沼地となりしかば是れを開拓せり。

手野小名
藪口 森 山ノ口 道留 粢田 大井 小堀 青ア 薬師 中島 面 生力 
中園 垣ノ内 裏門 片山 河原 松尾 狩野 雪仙 招キ 磯原 東坂 大坪 山下 篠間 大国面 土田 河原口 前田 藪石 的浦 沖片貝 月ノ田 津瀬 江月 長沼 樋口 餅田 黒渡 松本 海津 波須 浜田 竜毛 稲場 新開 汐入 城ヶ原 長者原

垣ノ内 ・・・・ 玉牆の内つ国



記事へトラックバック / コメント


岡垣町  安楽院

2012/01/27 22:14

遠賀郡誌  P489

浄土宗 安楽院

大字吉木字元松原浜山にあり
松原山極楽寺と号す。 本尊は阿弥陀如来

古へは高浜の辻と云所に在り
開基の僧及び年代詳ならず

寺伝には開山谷阿上人とあれ
其当時の伝記の兵燹に罹りて烏有に帰したれは後年伝谷阿は四条天皇の崩御在しまし、仁治3年5月7日 76歳を以遷化したる人なれば彼応永神事録に光孝天皇仁和元年乙巳落慶の大会ありと記したれば四条天皇の仁治より375年以前の事なれは谷阿の開基に非さるや論を俟たず
其落慶の大会と云も疑はしき点なきにあらず。

因りて按ずるに、
三吉村の洞源の旧記に天平年間行基諸国を遍歴して三吉野の来り
洞古穴に錫を留めて本尊薬師如来の尊像を自ら彫刻して安置せりと、
或は其当時当寺の本尊も自ら彫刻して此寺をも開基せしに非さるは、行基は法相宗の人なれはなり
初は法相宗の大寺にて七伽藍全備し寺領2000石 境内凡3700坪ありしと云。

吉木区の旧家瓜生深田の記録を集めたる同区三輪氏の旧記に安楽院ありし所は今の高浜の辻にて客殿より北にドンドンの滝とて鳴る水あり

浜辺に小山あり
名付て鶉浜と云

是より束に塩竃とて小山あり

南に当りて惣門あり
外に百間許の馬場あり、是を射場と云

寺より西に当りて九重の塔あり
此所を今に塔の窪といふ

馬場前に総門あり
上に十王の像を安置せり、今も其跡存せり。


同書 P500
塔の窪  四条天皇の宮人6人の住し所なりといひ伝ふ。

碁石山  岡松原の長浜の小高き所にあり
此所に丸き小石多し因りて碁石山と云、
今も小礫堆く積めり
古へ安楽院の在りし地にて安口(アクチ)判官が籠りし所なり。

三輪の旧記に此松原に七つの不思議あり
先ず碁石山石 昔より埋もれず
里の灘の音一向に耳に入らず
穀物に砂入らず
昔より難産にて死せず
雨落のおとせず
と。


同書 P508
安口判官首塚
吉木区字松原浜山民家の側に在り
安口判官の首を埋めし所と云
其従者の躯塚あり、

安楽院伝説に明応3年甲寅大友氏の兵御笠郡岩屋の城主安口判官と云者遁れて安楽院に籠る、
敵兵追来りて寺を囲む
判官50騎許を率ひ来り防戦せしかとも遂に討死す
判官時に18歳なりしと云

此判官の出所詳ならず
岩屋の城主とあれ共岩屋は其以前より代々高橋家の居城なればなり。


※ 豊国の聞の高浜・長浜は安楽院のあたり。
※ 三吉に洞窟があったようだ。




記事へトラックバック / コメント


岡垣町  砥石神社

2012/01/27 20:40

岡垣町史  P1005

所在地  大字吉木字砥石面
祭神  不詳
由緒  『筑前国続風土記附録』 に「砥石宮、トイシメン、石躰也。いかなる神を祭るといふこと詳ならず」 と記している。

吉木早ア(そうざき) の小高い森の中にあるが、大石を御神体にしている。
昔は藁で覆って見えないようにしていたが、今は短い柱をたて板で囲い屋根を葺いている。
この石には、諸所に何かが刻まれているが、暗いのでハッキリは見えない。
高倉の東田から倉丸・高塚を経てこの早アまでの丘陵地には、百以上の古墳が並んでいた。
ここの御神体の石もその古墳の石と思われるが、昔からいろいろ神異があるという。


遠賀郡志  P482

砥面神社
祇石(長 四五尺) を神躰とす。
此石土中より掘出せりと云。
三輪氏の旧記に早アの西上の高き所の小森の中にあり、
古へ此所に兄弟の者居たり、
互に此石を争ひ遂に刃物を以て切合ひさし違へて死にたる□を埋みし塚早アの北側の田の中に2つの疇あり、
然るに此石霊異あり年々成長して今は10人位の大さに至れりと云。

※ 万葉集355 の志都石
生石村主真人の「生石」 とは年々成長する石、の説あり。



遠賀郡誌  P477
大国主神社  手野字山の口
祭神  大国主神
相殿  須佐之男命 大神

高倉末社記に、
大神11月御祭料二段 大手野郷にあり
村の字に大国免といふ所あり
昔の神田なるべし



記事へトラックバック / コメント


岡垣町  山

2012/01/27 12:52

湯川山
小館山ともいう。 谷中に温泉があり、硫黄丸山ともいう。
原では「岩の上」 という。 ⇒ 石上振 ?
万葉集の木綿間山は湯川山である。
万葉集3191
万葉集3475

行重山
内浦の南、手野との境

冑山
手野の南

百合山
手野では城原山という。
この山で火を焼いて雩(あまごい) すれば必ず験があるので、雨乞山ともいう。

天岳
三吉の西南にある。
山麓の熊原より絶頂へ拾町五拾間。 草ばかりで平易に登れる。
町 − 109メートル
間 − 1・82メートル

滝口山
吉木の西
山麓の長尾より登る。山道は険阻で、草小柴杉が立つ。


足白山
手野では手野山、葛城山大山ともいう。
高倉では大山ともいう。
宗像郡では孔大寺山ともいう。

宗像の孔大寺山 = 葛城山 = 大山 = 手野山 である。

大山口と百合野との間、山田に越える道があって百合野越という。
山田に地蔵堂があるので、地蔵越ともいう。

里民の説に、この山から 8足の鹿が出て、その鹿の足が白かったので、足白山という。
日本書紀 天智天皇10年4月
岩波文庫 日本書紀(五)  P58
是の月に、筑紫言さく、「八つの足ある鹿、生れて即ち死ぬ」 とまうす。
これは足白山(孔大寺山) である。


高津峯
高倉の東南
山上に少し平地があり、高倉大明神がある。
山上の高倉大明神の碑に、「仲哀天皇御宇八歳乙卯神功皇后敵国降伏勅願霊地」 と記される。

村民が太鼓を鳴らして雨乞する山でもある。


金山
足白山の西

蔦ヶ岳
上畑の南にある。
御鹿倉山、城山ともいう。

金毘羅山
海老津の東にある。
山麓の明徳より登る。
険阻であるが、松が茂り見晴らしがよい。

戸田山
戸切の西南にある。
山麓の淵倉より登る。山道は草で平易である。



遠賀郡誌 より




記事へトラックバック / コメント


岡垣町  地誌  

2012/01/27 12:23

遠賀郡の地誌は 遠賀郡誌 が詳しい。
P411 


吉木は昔郡家があった所という。
続紀で藤原広嗣が遠河郡家で烽火をあげたのは吉木である。

三吉はいにしえ江湾で、浦浜沖片貝菰浦海津片沼津瀬磯原御船などの田字がある。
三吉は熊鰐の旧蹟である。

野間は旧記で沼と書いた。野間は沼の意味。

波津はいにしえはと書いた。
神功皇后が御旗を立てた所なので、旗ノ浦だったが、今は誤って波津浦という。

内浦は鶉浜、鶉村などと書いた。清濁同音だからである。

山田はたいへん大村で、海老津・糠塚・黒山・戸切が属していた。



手野に大国主神社がある。
古事記の 伯岐国の間の山本 か。

汐入川は石川ともいう。 乳垂川、高倉川ともいう。
支流に源十郎川がある。
※ 石川は下照姫(高姫) の歌に出てくる石川片淵である。
岩波文庫 日本書紀(一)  P128




井泉
頓々ノ滝  元松原にある。
「頓」 の字は書紀の瓊瓊杵尊の天孫降臨で、
膂宍の胸副国を、丘から国覓行去りて の「頓」 である。

鶯ノ井
海蔵寺の門前の右坂下にある。
径5尺ばかりの小池であるが清泉である。
「鶯」 と名付けられた由緒はわからない。
ある説に、
助六母生誕の時産湯の水を汲んだ
または
助六の母102歳まで長生きできたのは、常にこの水を飲用した
からという。

神池
波津の大歳神社の南20〜30間 境外林中にある。
疾める者が飲めば験がある。
神功皇后が征韓より帰朝した時、この場所で年越しをした。
※ ということは応神天皇が産まれた場所だろう。


遠賀郡誌  P416




記事へトラックバック / コメント


岡垣町  元松原

2012/01/26 22:51

元松原の浜山には、「頓々の滝」 (どんどんのたき) がある。
『福岡県地理全誌』 によると、「村ノ北 5町ニアリ、沙中ヨリ。流出ツ。末ハ砂中ヲ潜リテ。海ニ入ル。水極テ清冽。旱年ニモ涸レス」 とあり、現在も砂丘地には珍しく、地下水がわきだしている。
岡崎町史  P865

※ これが天の真名井か、鳴沢女か


5世紀当時の大宰府時代に大宰官道がこの地を通っていた
同書 P6


沖積低地
砂丘地帯の後背に広がる矢矧川および汐入川の流域で、標高2〜5メートルの水田地帯である。
従来の用水路改修や地下水開発の試錘データから、水田下には広い地域にわたって砂層が分布し、ところによってはヨシなどを大量に含む、軟弱な腐食質層が発達していることが知られている。
また什王堂や早アなどでは、大量のカキ(牡蠣) を含む貝殻層(両殻とも併さった生貝が多い) が、地表下浅く発達していることが確認されている。
矢矧川一帯では試錘データから、貝殻砂層が地表下10〜20メートルの深部にも厚く堆積していることが知られている。
同書 P12

※ 原始古代はカキ(牡蠣) が住む海で、黒山の砂丘は島だった。
黒山は万葉集の高市連黒人の「黒」
黒山は島で万葉集の高島
岡垣町の沖積低地は原始古代は潟湖、沼沢地だった。条里制の頃は埋まり、稲見国原になった。


孔大寺山系の関門層群をつくる岩石は、この花崗閃緑岩による熱変性作用を広く受けている。
花崗閃緑岩に接する周辺部ではホルンフェルス(接触変性岩のひとつで、頁岩・粘板岩などが変性したもの) 化し、著しく堅硬な岩石となっている。
また全地域にわたって、少なからざる熱変質の影響が認められ、複雑な地質となっている。
このため各所に良質の砕石骨材の原石山があり、採掘が盛んに行われている。
同書 P10

※ 著しく堅硬な岩石 ・・・・ 古事記  天の安河の河上の天の堅石
砕石骨材の原石山 ・・・・ 万葉集  石走る 淡海





記事へトラックバック / コメント


岡垣町  春日神社

2012/01/26 22:19

春日神社
所在地  大字黒山字井ア1071 (西黒山)
祭神  天児屋命
その後、合祀した各社の神を祭神とする。

由緒  創建時は不明で西黒山の氏神である。
俗説に、湯川の名馬摺墨(するすみ) は、自分の育った故郷湯川山が恋しくなり、はるばるこの地まで帰ってきて、牧山(湯川山) を見て安堵したのか力尽きて倒れてしまった。
それでこの春日神社に合祀し、牛馬の神様としてあがめられた。

岡崎町史  P1024



厳島神社  大字手野字新開55 (新松原)
初めは東牟田の畑にあった。
以前は、いんな社ともいった。
同書 P1021



記事へトラックバック / コメント


岡垣町  熊野神社

2012/01/26 21:31

所在地  大字吉木字矢口1554
祭神  市杵島姫命 事代主神 速玉之男神 伊弉冉尊 素戔嗚尊 印鑰大神 事解之男神
由緒  矢口岩ヶ鼻にある権現山に、紀伊国熊野権現を勧請したもので、縁起はかなり古い。
現在の社地が整備されたのは、天保7年(1836) のころと考えられる。

境内社  厳島神社 印鑰神社 菅原神社 須賀神社 

印鑰神社
印鑰というのは、もと国守が管掌していた官印だから、この辺に国守の館がなければならない。

岡崎町史  P1002  



筑前国守の館、すなわち大宰府の古代官衙は熊野神社の近くにあった ?

岩波書店  新 日本古典文学大系 萬葉集 二  P43
万葉集959  豊前守宇努首男人の歌一首
行き帰り 常に我が見し 香椎潟 明日ゆ後には 見むよしもなし
下注に、
「 この参拝に同行していた男人は、都へ帰任したものか。豊前国府と大宰府の往還に香椎を通るのは遠回りで、大宰府、あるいは豊前国府から香椎宮への往還の意であろう。馬を留めたのは、帰任の送別の宴を設けるためであったとも考えれれる 」
とある。

香椎宮は高倉神社
大宰府は熊野神社の近く ?
豊前守努首男人は田遺跡付近の人か。

香椎潟は吉木とみた。




記事へトラックバック / コメント


天の石屋 の場所

2012/01/25 22:31

岡垣町の波津には天の石屋(天石窟) に該当する岩窟がない。

岩窟がある場所は、
筑前大島 ・・・・ 三浦洞窟
津屋崎の渡 ・・・・ 楯ア神社の奥の院
芦屋町の山鹿 ・・・・ 姫田圃の洞窟
である。

遠賀郡誌(P715〜716) によれば、芦屋町山鹿に姫ヶ田圃石窟がある。
「田圃」はタンポとよむ。姫がたんぽ である。

姫ヶ田圃 石窟
姫田圃  山鹿区字百姓町の北三町余にあり、山の東に大岩の出アあり、其崖下に穴二つあり、一は高2尺5寸横4尺、一は高3尺余横5尺余、深さ各5・6尺、窟内より土器の類出し事あり、乱世に人の隠れ住みし所と云伝ふ、此所を船ヵ浦といへり。
山上に塚あり、昔若松より芦屋に至る街道此に在りし時の一里堠なりしと云。


本当の伊勢大神宮は沖ノ島だ。
宗像大社中津宮がある大島も伊勢とみれば、三浦洞窟は天の石屋の有力候補である。
大島は伊勢の度相か。
大島の御嶽は伊勢の多気宮。
大島には「天の川」 という沢があり、「天の瀬」 という磯釣りのポイントもある。

Google で検索せよ。  【  大島 三浦 洞窟  】




記事へトラックバック / コメント


岡垣町  高倉神社

2012/01/25 20:51

高倉神社
岡垣町史  P994、999

所在地  大字高倉 字御(おした) 1113
祭神  大倉主命 菟夫羅媛命  相殿に天照大神
由緒  高倉神社の祭神は、『日本書紀』 (仲哀紀) に記されている地主神である。

貝原好古の縁起には、天智天皇のころ、新羅国の沙門(僧のこと) 道堯という者が、尾張国熱田宮に祀られていた草薙剣を盗み取って逃げようとした。
筑前博多まで逃げたものの、ここでとり押さえられた。
このとき奪い返した神剣を送り返すまでの間は、再び盗まれるようなことがあってはという配慮から、高倉神社が清浄で、とくに堅固な土地だからということで、剣はこの神殿に安置された。
それとともに、鍛工に神剣と同じ剣を七振作らせ、神社に別殿を建てて八剣を納めた。
そのため高倉神社のことを、八剣宮ともいったと書かれている。

境内地は高津峰の境内を加えて、4300坪あり、社伝によると、神功皇后三韓征伐の折、波津の浦に上陸、高津峰の山頂に敵国降伏の祈願を行なわれた。
その際、一本の杉苗を植えられた。
逆さに植えられたので一名 逆杉(さかすぎ) とも称して、神木とあがめられている綾杉がそれである。


境内社
陽御前社
陰御前社
神武天皇社
住吉神社
志々岐神社
大国主神社
厳島神社
伊賀神社
大山祇神社
稲荷神社
山ア姫神祠
天満宮



遠賀郡誌  P470

高倉区の南山麓にあり神殿は西に向へり、
芦屋町岡湊神社の本社にして、従前は遠賀郡22村の総社なりき。

22村は高倉吉木三吉手野内浦原波津松原黒山上畑野間海老津山田糠塚尾崎戸切虫生津別府若松鬼津芦屋是なり。
然に縁起には17村とあり。続風土記には18村と記せり。蓋近年22村となれるは、追々分離して別村となれる故也。

仲哀天皇神功皇后と共に謀を廻し岡津に暫く駐まりおはしまして諸軍に命じ兵器を鍛錬し弓矢を調へさせ玉ふ。仍其所を名付て矢矧と云ふ。
こゝに於て熊鰐皇后に奏しけるは此県に高津峯とて三面宝珠の山あり。
この峯に群神たち天降りをはします是国家鎮護の御為なり
いそぎ彼峰によぢ上らせ玉ひ朝鮮誅伐の事を祈らせ給へかし。

と皇后悦び此山に攀ぢ上り熊襲誅伐の事を祈らせ玉ひ、程なく岡津に帰らせ玉ひ、天皇と共に謀り玉ふに此所は国の端なれば暫くも皇居と成るべき所にあらず、香椎の宮に移らせ玉ふべしとて軍立し玉ふ。

・ ・ ・ ・ ・

斯くて程なく香椎に入らせ玉ひしが、天皇崩御ましましければ皇后天皇に代り熊襲を伐平げ新羅を伐従へ其年の12月に御帰朝あり、
此度祈り祭り玉ひし神々に報賽ありて各々其鎮りまさむとある所に祝ひ祭り玉ふ中にも、大倉主菟夫羅媛の二神は水神にて仲哀の帝筑紫に下り玉ふ時神異あり、
又皇后三韓を伐ち玉ふ時も冥助浅からざりしかば摂政2年壬午の5月午日始めて勅を下し、此高倉邑に御社を立て祭らせ玉ふ。
此故に今の世に至るまで午日を以て祭日とはし奉るなり。

因みに云摂津名所図絵に円堂と云ふ神社あり、
是は神功皇后高倉の神を祭り玉ふといふ、
と云ふ名義に就きては説あれ共省きぬ

又大阪市東区淡路町に府社御霊神社あり、
祭神大倉主命菟夫羅媛命及び応神天皇を祀れりと云ふ、
是も皇后の祭り玉ふ所といへり。



私見
境内社に住吉神社がある。 高倉神社は香椎宮か。

日本書紀 仲哀天皇8年9月5日 の神託
岩波文庫 日本書紀(二)  P132
高き岳 (巻末の原文は高岳または高嶽) ・・・・ 高津峰
天津水影 ・・・・ 門田池は人工の池でなく原始古代からの池である

仲哀天皇・神功皇后の頃は岡垣町の沖積低地は、まだ潟湖・沼沢地だったとも考えられる。
高津山の山頂から見て、天津である岡垣町全体が湖だった。

高倉神社は橿日宮である。




記事へトラックバック / コメント


岡垣町 波津の 大年神社

2012/01/25 19:46

大年神社

岡垣町史  P1017 より

所在地  大字波津字大旗791
祭神  大年神  相殿に素戔嗚尊 海童神
由緒  神功皇后が三韓から帰られたとき、ここで年を越されたので、素戔嗚尊と神太市姫との子 大年神を祭ったといい、そのため鳥居の額に歳越神社と刻んだこともあるという。
祭礼日   7月15日 祇園祭
       9月15日 放生会
昭和29年ころまでは、女性が主役になる献饌の祭礼が旧暦8月15日にあった。

社殿  神殿 (銅板葺き) 幣殿 ・ 拝殿 (瓦葺き)
境内社  恵比須神社 ・ 大旗神社

境内に神池(こうのいけ、千寿池) がある。
一間四方 、1メートル足らずの深さしかないが、水は非常に清く夏冬ともかれることがなく、病気の人が飲むと霊験があるといわれていた。
昔、神功皇后が矢じりの先でつつかれたら清水がわきだしたと言い伝えている。
※ ここが天照大神の真名井だ。



遠賀郡誌  P479

本社の祭礼に異なる古例あり、
挙浦の婦人処女班列して膳部12の献薦あり、
白米3升3合の御饌に神酒数瓶醴酒を数器に盛り魚菓菜藻並に餅を備ふ其儀式甚厳正なり、
就中10月15日には神職同僚と共に神楽を奏す、
祭前に讌座あり蒸飯を漆器に盛り小皿に塩を入れ双尾の鯵(藁芯にて是を巻きたるを) 陰陽打合わせ味噌汁を椀に鱠を平皿に盛れり、
其品類薄正の意を存す、
而して里中尤も新婚の花嫁献具を鳥居際より頭上に捧持し拝殿に至れば神職これを受取りて献饌の手続をなす、
其新婦には13・4歳の少女付添ひ手伝ひを為すを例とす。




記事へトラックバック / コメント


岡垣町 磯辺の前方後円墳

2012/01/25 19:09

海を見下ろす前方後円墳
波津地区の丘陵に西から磯辺1・2号墳、向鼻古墳、塩屋古墳が分布する。
いずれも墳丘に葺石を持っており、その中でも、磯辺1号墳と塩屋古墳は前方後円墳の形式をとった古墳である。
磯辺1号墳は、全長60メートル前後、塩屋古墳は70メートル前後の規模を有している。
両墳はいずれも円筒埴輪を出土し、その編年から、磯辺1号墳は4世紀後半代、塩屋古墳は4世紀末から5世紀前半ころの築造と見ることができる。
向鼻古墳は原状をかなり損なっており、墳形を断定することは難しいが前方後円墳であった可能性もある。
いずれにしても4世紀から5世紀前半かけて、波津地区の海を見下ろす丘陵上に一世代ごとに前方後円墳を含む首長墓が築かれていることは疑いない。

現在、遠賀地域には、遠賀川河口の島津に丸山前方後円墳があり、全長60メートル前後の規模を有している。
墳型から見れば前期に属するものと見られるが、築造年代は確定できてない。
また、そこでは他に前方後円墳は分布していない。
ここからおおまかに考えられることは、波津地区が5世紀中ごろまで、海上交通の重要な基地としてあったこと、遠賀地域の首長の中で最高首長の地歩を弥生時代以来築いてきたことなどが考えられることである。
旧奴国や旧伊都国などの対朝鮮交通の要地である博多湾沿岸勢力との橋渡しとして、波津地区の海上交通基地は宗像の勢力と共にあなどりがたい位置を占めたと想像される。

波津の前方後円墳の被葬者は、『日本書紀』 に見える「崗県主」 との関係においては、それよりも先行する世代の地域の最高首長だったと思われる。
そのように言うのは、詳しい地理地名を説いた『日本書紀』 に波津について解説はなく専ら崗水門として遠賀川河口を重視しているからである。
このことは、崗県主そのものをも5世紀中ごろ以前には遡及しえないことを意味しており、遠賀川河口に海上交通の基地が移った後の状況が反映された記事ということができる。
このように、波津における前方後円墳は、弥生時代の地域の最有力集団の墓地であった元松原の系譜を継承した地域首長の存在と、引き続いて地域内外の物資流通のセンター的位置を保持していることを実証するものであった。


岡垣町史  昭和63年   P117 〜 120 より



波津は神武天皇こと始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) であり、天照大神の高天原である。

湯川は天湯河板挙の地。  日本書紀 垂仁天皇 23年10月8日

神武天皇は日向高千穂宮から高天原に攻め上り、高天原の初代王となった。
天照大神は居場所がなくなって伊勢(沖ノ島) に隠居した。
天照大神は王ではなく共立の人。

天は岡垣町。 高天原は岡垣町の波津。
熊鰐、五十迹手が天磐戸のお祓い儀式で仲哀天皇・神功皇后を出迎えたことから、高天原は熊鰐の地にあった。

藤原広嗣は大宰府市でなく遠賀郡で兵を挙げたのだから、倭国の中心は遠賀郡だった。
考古学による知見から、古墳時代の遠賀郡の中心は岡垣町の波津だった。




記事へトラックバック / コメント


薫華草 は ハマボウ

2012/01/24 20:15

山海経 海外東経

君子国
薫華草 有り。 朝に生れて夕べに死す。

岡垣町の汐入川の下流にはハマボウ群生地がある。
※ 岡垣町の公式ホームページ → 観光スポット → 金刀毘羅山 → 岡垣 おいしさ まるかじり ガイドブック 裏(PDF) を見る

君子国の薫華草はハマボウである。

ハマボウはかつては八幡や小倉の海岸にも生えていたが、埋立によって消滅した。


現在のところ、
福岡県内のハマボウ自生地は、
糸島市  泉川 と 二丈深江
古賀市  花鶴川
岡垣町  汐入川の下流

岡垣町はハマボウ群落があることから、君子国の有力候補地である。

ハマボウが「檍」 か。



記事へトラックバック / コメント


岡垣町  弥生時代

2012/01/24 12:24

岡垣町史  昭和63年  P109 より

「 中期から後期において、地域政治勢力として遠賀地域にその中心となり頂点に立ったのが元松原や大坪などの岡垣地区集団であると見てよい。
そこでは中期末・後紀初頭ころの中広形銅剣・中細形銅矛、中細形銅戈などが一括出土しており、墳墓の副葬品としてではなく、銅鐸などの埋納と性格を共通する共同体の統合や、農耕儀礼の祭具として用いられた可能性が指摘されている。
また、後紀前半の中広形銅戈鋳型も出土しており、その時期鋳造が行われたことも明らかである。
大坪では中細形銅戈も出土し、先に見た、元松原での青銅器や鉄器の出土などと合わせれば、その保有量は遠賀地域で卓越した地位にある。 」



岡垣町の野間は沼の転訛といわれ、水沼君。
または水巻町が水沼か。

岡垣町西部の芹田は古事記の須勢理比売

出雲原国 は旧筑穂町の地名「出雲」 の場所ではなく、遠賀川流域で最大の青銅器地帯である岡垣町である。


福岡県の地名  平凡社   P152中
波津城  はつしろ
波津の北部、字磯辺(いそべ) にある響灘に面した岬。
岬を形成する海岸に突き出た丘陵の頂部には4世紀後半と推定される磯辺古墳群がある。
※ 4世紀後半とは、かなり古い古墳である。



岩波文庫 日本書紀 (一)  P244
神武天皇 31年4月1日

伊奘諾尊、此の国を目けて曰はく、
「 日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の秀真国 」 とのたまひき。

復 大己貴大神、目けて曰はく、「玉内つ国」 とのたまひき。

饒速日命、天磐船に乗りて、大虚を翔行きて、是の国を睨りて降りたまふに及至りて、故、因りて目けて、「虚空見つ日本の国」 と曰ふ。



「日本」 の場所は岡垣町か。
牆 ⇒ 岡垣
内つ ⇒ 内浦 (うつら)


岩波文庫 日本書紀(四)  P366・368
斉明天皇 7年正月6日

御船西に征きて、始めて海路に就く。
8日に、御船、大伯海に到る。時に、大田姫皇女、女を産む。仍りて是の女を名けて、大伯皇女と曰ふ。
14日に、御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊つ。
3月25日に、御船、還りて娜大津に至る。
磐瀬行宮に居ます。天皇、此を改めて、名をば長津と曰ふ。
5月9日に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます。



難波宮は遠賀川の下流 ・・・・ 浪速は浪懸ノ岸
大伯海は岡垣町




記事へトラックバック / コメント


芦屋町 山鹿

2012/01/23 21:38

岩波文庫 日本書紀(二)  P128
仲哀天皇 8年正月4日
山鹿岬より廻りて岡浦に入ります。

男神 大倉主 ・・・・ 大国主神という説あり
女神 菟夫羅媛 ・・・・古事記  猿田彦が阿耶訶で沈んだ時の都夫多都御魂

比良夫貝 ・・・・ 遠賀川の川舟を「ヒラタ」 という。


楽浪の淡海は山鹿のあたりか。
東海君子国は大己貴神の国

物部氏は遠賀川流域の人たち説あり。
万葉集の物部 八十氏川 は遠賀川・犬鳴川

穴門の引嶋 ・・・・ 芦屋町柏原の海食大洞窟の洞山(どうやま)
「引」 は日置

記紀の「穴門」 は複数ある。
穴門豊浦宮、穴門の引嶋、穴門直践立、穴門館の「穴門」 は場所がちがう。

天成の石橋 ・・・・ 槵日の二上の天浮橋
福岡県の地名  平凡社 P127下 
同じく洞山には長32間半、横12間半の板敷と呼ばれる平らな岩盤(現在は千畳敷とよぶ) が海に突き出ていて、板敷北東部の入江には、幅1尺5寸、長さ1丈、高さ3尺3寸の「天成の石橋」 が架かり、「洞山・板敷・石橋、3つの物造化の巧妙にして、異なる境地也」 と賞される景勝の地であった。
しかし石橋は寛保年中(1741−44) に中央が崩れ落ち、両端部がわずかに残るだけとなった。


浅川の日峰山に、瓊瓊杵尊がいなくなった山幸彦を探しに来た、山幸彦がなくした釣針を探しに来た、という言い伝えがある。



記事へトラックバック / コメント


出雲  岡垣町 ⇒ 芦屋町柏原 ⇒ 小倉 へ移動

2012/01/23 19:47

岩波文庫 日本書紀(一)  P104
少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適しぬ。
亦曰はく、淡嶋に至りて、粟茎に縁りしかば、弾かれまして常世郷に至りましきといふ。
自後、国の中に未だ成らざる所をば、大己貴神、独能く巡り造る。
遂に出雲国に到りて、乃ち興言して曰はく、・・・・



阿曇連の本拠地は北九州市若松区である。
若松区払川の清泉の水を使って醸造した酒は味が良かった、という。
岩波文庫 日本書紀(二)  P170 神功皇后の歌
此の御酒は 吾が御酒ならず 神酒の司 常世に坐す いはたたす 少御神の豊寿き 寿き廻ほし 神寿き 寿き狂ほし 奉り来し御酒そ あさず飲せ ささ


熊野は万葉集496 よりハマユウの場所なので、芦屋町の夏井ヶ浜である。
芦屋町の柏原は紀伊国の柏
常世郷は土井ヶ浜遺跡で、土井ヶ浜遺跡から出土した一体の九州西北型弥生人骨が少彦名命

大国主神・少彦名命が治めた場所は岡垣町・芦屋町・若松区である。
志都石室は柏原海岸の大洞窟
製塩の縄の浦は若松区小竹 脇ノ浦 にある浜田遺跡

製塩については、福岡県の地名 平凡社 P86下 山鹿郷 に
8世紀初頭、山鹿に塩焼山があった史料がある。


岡垣町は銅剣の出土が多いので、八千戈神の地
少彦名命が熊野である芦屋町の柏原から常世郷に行ってしまったので、大己貴神は出雲である北九州市小倉へ移動した。
小倉が出雲であるわけは足立山は雲がかかる日が多く、霧ヶ岳とも呼ばれている。
葦原醜男の足原は年中霧の丘である。
日本の三諸山は小倉の足立山だろう。   文庫書紀(一)  P106 3行目

岡垣町や小倉の出雲神宝は流刑によって島根県荒神谷遺跡に埋められた。


岡垣町から出土する多量の銅剣
狩尾神社(芦屋町山鹿25−3 ) は若松の総社だったという。
若松区岩屋の箱式石棺から後漢代の双頭竜文鏡が出土した。




記事へトラックバック / コメント


出雲 は関門海峡

2012/01/22 11:28

出雲
@考
出雲は糸島のような感じがする。

A考
山海経の君子国は「争いを好まず譲る」 とあり、出雲の国譲りに通じる。
君子国の二匹の虎は事代主神と建御名方神。

出雲は関門海峡の両岸である北九州市と下関市とみた。

北九州市小倉南区の重留遺跡出土の広型銅矛は大己貴主神が「国平けし時に杖けりし広矛」 である。
岩波文庫 日本書紀(一)  P120
Google で検索せよ。  【  県指定 重留遺跡 出土品  】



竺紫の日向
@考
高天原(津屋崎) が出雲(関門海峡の両岸) を言向けしたのなら、瓊瓊杵尊の天孫降臨の地は関門海峡になろう。
竜王山の麓、下関市の吉見が高千穂宮か。
吉見港の加茂島は、まさに「笠狭」 である。

A考
立花山は新宮町の大森から見たら峰2つの二上山に見える。
古賀市青柳の馬渡・束ヶ浦遺跡は弥生時代の有力国である。
「笠狭」 は三苫・奈多の海の中道になる。

笠狭  岩波文庫 日本書紀(一)
笠沙  岩波文庫 古事記
笠紗  角川ソフィア文庫 古事記

解釈
岩波の笠狭・笠沙は福岡市東区の海の中道
角川の笠紗は海浜の松林
になろう。
広島の宮島では笠沙は海中の鳥居が立つ場所である。




記事へトラックバック / コメント


雨師妾

2012/01/22 11:17

@考  下関市内日上 赤田代の五年神
A考  旧油谷町の雨乞岳



記事へトラックバック / コメント


湯谷 扶桑

2012/01/22 11:15

@考  旧豊浦町 湯玉の犬鳴川を上った場所に小字「扶桑」「神屋」がある。
対馬の厳原の真東に位置する。

湯谷は大河内温泉 または 川棚温泉だろう。


A考  水の中から木が生えている場所は豊田湖北岸、安徳天皇陵参考地。
近くに俵山温泉がある。


B考  扶桑の木はヒゼンマユミなら、扶桑は蓋井島だ。
蓋井島は島だから、扶桑の木は水中にあり !

吉見温泉あり。



大陸の中国人が東海にあって強い憧れの対象となる物は川棚にはない。
蓋井島のヒゼンマユミ群落が扶桑だろう。

中国王朝人の関心は不老長寿の仙薬と金鉱山で、背丈の高い木なら中国にいくらでもある。

ヒゼンマユミの実にはガン細胞の増殖を抑える成分があることが判明した。
瓊瓊杵尊の天孫降臨は不老不死のヒゼンマユミの実を得ることが目的 ?




記事へトラックバック / コメント


黒歯国

2012/01/22 11:09

下関市の吉見か

10個の太陽が全部出た扶桑は縄文時代にカルデラが大爆発した鹿児島県だろう。
薩摩三島の黒島の住民は南方系であり、1960年頃まで海ヘビを食べていた。
記述に地理の混乱が見られる。

「日向」 の場所の混乱がある。
「日向」 とは、日本列島の土民がいう日向(南九州) ではなく、中国の首都(洛陽、長安) から見た真東の意味で、北緯34〜35度の場所であろう。
「東海」 「海外東経」 とは、洛陽・長安の緯度上の真東方向とみた。

蓋井島の対岸にある吉母の毘沙ノ鼻は本州最西端の標識があり、対馬海流で暖かい




記事へトラックバック / コメント


青丘国

2012/01/22 11:08

青丘は新幹線 新下関駅近くの青山である。
青丘国は下関の秋根遺跡・綾羅木郷遺跡。





記事へトラックバック / コメント


朝陽の谷 天呉

2012/01/22 11:06

@考
「谷」 は関門海峡をさす。
「両水」 は関門海峡を挟んで、響灘と周防灘とみる。

彦島と竹アとの間の小瀬戸は天川とも呼ばれた。
「天呉」 は関門海峡の海人である。
「足が八本、尾が八本」 は八俣大蛇である。

小倉沖の馬島に「天志」 という小字がある。
馬島の字「天志」 が高志である !!!

六連島から朝鮮土器が出土している。

彦島の竹ノ子島には肥塚(ひづか) という家が何軒もある。
出雲の肥の河を連想させる。

朝陽の谷 は関門海峡で、両水の間にいる水伯の天呉は馬島・六連島の海人である。
古事記の高志は関門海峡の馬島・六連島か。

小倉の紫川流域は素戔嗚尊に因む神社や地名が多い。
小倉城内の八坂神社
篠崎 ・・・・ 清の湯山主 三名狭漏彦八嶋 か。 文庫書紀(一) P94
紫川上流の井手浦では、素戔嗚尊が村人といっしょに八俣大蛇を退治した祭りが伝わる。
YouTube で検索せよ。  【  井手浦 八俣大蛇  】



A考
『 おもしろ地名 北九州事典 』  P244
若松区の蜑住 (あまずみ)
「蜑の原義は蛋民(タンミン)。主に中国の広東省、福建省の河川に住む水上生活者を指している。小船を家にして漁労、水運を業にした民族で約200万人といわれた。
古代、漁労、海運に従った海部を支配した伴造は安曇氏。
アズミ − アマズミ と転訛の関連はないだろうか 」

天呉の「呉」 より、中国南方系

遠賀川などに河童伝説がある。


B考
「獣としてその姿は ・・・・ 」 は変わった格好をして入墨をしているのだろう。
魏志倭人伝で、倭の海人は黥面文身である。
下関市綾羅木郷遺跡出土の人面土製品は顔に入墨をしている。




記事へトラックバック / コメント


虫虫

2012/01/22 10:51

北九州市の紫川の流域。
小倉南区蒲生に虹山がある。



記事へトラックバック / コメント


君子国

2012/01/22 10:31

@考  「獣を食ふ」 より、犬を食べていた壱岐の 原の辻遺跡

A考  「其の人譲るを好みて争はず」 は出雲の国譲り
高槻式土器が下関にも流れているので、北九州市の板櫃川



君子国は衣冠して剣を帯びている。

北九州市の指定文化財 より
小倉城二ノ丸家老屋敷跡出土1号箱式石棺および副葬品
  
本箱式石棺は、細形銅剣と碧玉製管玉が副葬され、弥生時代中期初頭の北九州における盟主的人物の墓の形態をほぼ完全に残している。
また、細形銅剣の副葬方法には朝鮮半島の影響が認められ、本地域においてこの墳墓群を構成した集団が朝鮮半島とかかわりをもつ可能性を示唆する重要な資料となるものである。




記事へトラックバック / コメント


肝楡の尸

2012/01/22 10:25

肝楡の尸 は芦屋町の山鹿貝塚




記事へトラックバック / コメント


奢比の尸

2012/01/22 10:24

「尸」 の字は「しかばね」 で墓である。
「奢」 は ぜいたく。 豪奢な副葬品といえば立岩遺跡


奢比の尸 は飯塚市の立岩遺跡




記事へトラックバック / コメント


大人国

2012/01/22 10:13

大人国は福津市の津屋崎




記事へトラックバック / コメント


長左丘

2012/01/22 10:00

山海経(せんがいきょう) 海外東経  長左丘

@考  長差丘は産物が多いので、平戸島西部から五島列島

A考  「上に樹木有り」 の文言は立花山の楠木原生林。
長左丘の場所は、福岡市東区下原 〜 新宮町 〜 古賀市青柳



参照
集英社 全釈漢文大系 第33巻  山海経・列仙伝
P428〜439



記事へトラックバック / コメント


潜水漁 の場所

2012/01/21 21:37

当ブログ << 作成日時 : 2011/06/15 04:04 >> より転載

海女 (あま)

筑前 の海岸 ・・・・ 北九州市戸畑区 〜 遠賀川 〜 福岡市・糸島市
江戸時代の 「続風土記」 によれば、
筑前地域で潜水漁の海女がいた場所は、

鐘ア
大島
波津浦
※ この3か所は場所が近い。

弘浦 ― 志賀島

の4か所だった。

宗像大社の海に海女がいたことに注目したい。

江戸時代、鐘アはアワビの産地で、毎年7月江戸に熨斗蚫として献上されていた。


万葉集では 難波 と 伊勢 に海女がいるので、難波と伊勢も 神湊 〜 大島 〜 波津 のあたりと考えられる。

古墳時代後期、神湊の 浜宮貝塚 出土遺物は潜水漁法を類推させる。
神湊上方遺跡 の土器は玄海灘式製塩土器である。
考古学から見ても、宗像と沖ノ島は関係している。




記事へトラックバック / コメント


自説 3

2012/01/21 12:16

高天原は福岡県福津市 津屋崎の渡(わたり) ・・・・ 伊都国 千余戸
天石窟(古事記 天の石屋) は渡の楯ア神社 奥の院の岩窟
伊予温泉 熟田津石湯 は渡の唐船岩温泉

Google で検索せよ。
【  楯崎神社 奥の院  】
PDF 渡探訪   [ クイックビュー ] で見る。


筑紫は津屋崎。竺紫は新宮町・古賀市か
豊国は津屋崎の勝浦
奴山古墳群は山海経 大人国の人たちの墓だ。 副葬品の鉄製工具類・斧は船を建造するための道具
大宰府と香椎宮は宮地嶽神社

伊勢大神宮は沖ノ島
難波の高津宮は宗像大社の高宮祭場 ・・・・ 奴国 2万余戸
草香江は神湊の牟田池
日下の直越えは宗像市田島から勝浦に越える峠道




記事へトラックバック / コメント


大伯海 は津屋崎の 勝浦

2012/01/21 12:06

岩波文庫 日本書紀(四)  P366・368
斉明天皇 7年正月6日

御船西に征きて、始めて海路に就く。
8日に、御船、大伯海に到る。時に、大田姫皇女、女を産む。仍りて是の女を名けて、大伯皇女と曰ふ。
14日に、御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊つ。
3月25日に、御船、還りて娜大津に至る。
磐瀬行宮に居ます。天皇、此を改めて、名をば長津と曰ふ。
5月9日に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます。


伊予温泉の熟田津 石湯 は津屋崎 渡 の唐船岩の温泉(26度)
在自に字 「大田」 がある。

長津は小字で、
古賀市鹿部  永浦
上和白  長浦
三苫  永浦
志賀島  長浦 長村
とあるが、鹿部田渕遺跡の永浦であろう。

朝倉橘広庭宮は住吉三神を祀る青柳の五所八幡宮の近く。

青柳に弥生時代−中世の馬渡・束ヶ浦遺跡がある。
弥生時代の環濠・住居跡・貯蔵穴群、甕棺墓群 
金海式甕棺(前期末−中期初頭)。 銅剣・銅戈・銅釧、碧玉製管玉・勾玉
福岡県の地名 平凡社  479上
「弥生前期末−中期初頭の早い段階に当地に有力集団がいたことなど、魏志東夷伝倭人条における北部九州地域のクニの成立過程を探る上で重要な遺跡といえる 」


大伯海は
津屋崎から勝浦までの古代の深い入り江
または勝浦浜の海岸


難波宮は宗像大社のあたりになる。
宗像大社の高宮は難波の高津宮か。
魏志倭人伝の奴国は宗像市。 2万余戸


香椎宮は在自に字 「椎ノ裏」 という地名があるが、宮地嶽神社だろう。
万葉集959 より、大宰府と香椎宮は同じ場所にある。
豊国は勝浦浜だろう。
「豊」 の意味は一説に、地形が弓状にたわんでいる意味、という。


万葉集
企玖乃池   3876  白水郎の歌
之浜     1393  
         3130  豊洲 浜松
         3219  長浜
         3220  高浜

「聞」 の熟語に
聞人(ぶんじん) ・・・・ 意味は、名高い人 ⇒ 斉明紀の大伯

俗流の大和朝廷説は福岡県の企救。
万葉集の漢字原文は「聞」 で聞人の意味か。


福岡県の地名 平凡社  P407下  
「新原・奴山古墳群で、台地の先端に位置する 7号墳は方墳と考えられ、墳丘表面には玉砂利が敷詰められ、琥珀原石や鉄斧が出土した特異な様相を示す古墳である 」

斧 ⇒ 筑紫物部大手が伊勢の朝日郎を捕らえて斬る
雄略紀 18年8月10日
岩波文庫 日本書紀(三)  P80




記事へトラックバック / コメント


津屋崎

2012/01/20 12:51

小字 (ほんの一部)   「明治一五年字小名調」 より

奴山  玉ノ上
津屋崎  板取 大力谷 八町間
勝浦  尾田 少ヶ浦 葉山 桂嶽 兒屋(ちごや) 博多浜 梅津浜 月花
  梅津 勝山 広田 金山 山ノ上 唐舟 平磯 清水 蛭子ノ元 御園
在自  天上 椎ノ裏 与所ノ谷 大田 唐坊地
大島  志美

下西郷  恵下ノ下 香葉(かば) 指原(さしはら) 蓑淵 岩長浦 棹 諏訪
上西郷  水町 蓑淵 二本杉 香(か)ノ浦 針元 美尻(みのう) 城(じょう)



『 福岡県の地名 』  平凡社  日本歴史地名大系 41
この本は必需品。 購入して手元の座右の書です。

津屋崎町  P403下 〜  から引用
恋の浦海岸は動植物の化石、各種の岩石・鉱物がみられ、県の天然記念物に指定されている。

津屋崎浦は博多の外港としての役割も担っており、近世後期には戸数316戸で筑前最大の浦となり、津屋崎千軒と繁栄をうたわれた。

明治初年であるが、塩の生産高は 3万石で筑前国全体の 6割にあたる。

唐坊とは唐人の住む場所の意。在自の津屋崎小学校敷地内の西ノ後遺跡からは12世紀頃の中国製陶磁器が出土。

勝浦は「かつら」 とも呼ばれた。当村から田島村に越える峠道は古代の官道跡といわれる。

在自は和名抄の荒自郷

和名抄に宗像郡怡土郷がある。



新原・奴山古墳群   5世紀前半 〜
遺物は多数の鉄製工具類が出土している。
船を造っていたのではないか。

山海経の大人国では船が造られている。
造船は安芸国で行われていた。
大宰府で遣唐使船の船の修理が行われていた。

安芸国、大宰府は津屋崎か。


万葉集304
大王之 遠乃朝廷跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所

大君の遠の朝廷とあり通う島門を見れば神代し思ほゆ

※ 原文から、遠の朝廷と蟻通う島門 は神代の場所
「島門」 は、島と陸地との間、島と島との間のような、狭い瀬戸

 


記事へトラックバック / コメント


津屋崎 楯ア神社の岩窟 と 松浦仙媛

2012/01/19 23:00

「高天原は三苫・和白・新宮町」 説の欠点は、
天石窟に該当する岩窟がない
古事記、日本書紀の神代上 を読めば甕棺文化圏ではない
である。


福津市 津屋崎 渡(わたり) の楯ア神社 奥の院 に岩窟がある。

楯ア神社
祭神
大己貴神
綿津見神
少彦名神
相殿
飛龍権現(神功皇后)

近くに大岩があるし、祭神が大己貴神・少彦名神なので、
万葉集355 の志都石室か。

万葉集354 の縄の浦は、
古代は勝浦まで深い入り江であり、塩田もあった場所か。
※ 「縄」 は細長い地形だという。


御手洗の滝 ・・・・ 香具山の畝尾の鳴沢女

唐船岩
万葉集292 久方の 天之探女が 石船の 泊てし高津は あせにけるかも


薬師岳の大岩 ・・・・ 石見国
嶋稚子、更の名は大石尊

ア ・・・・ 山部連小(またの名は磐楯
古代は深い入り江で、津屋崎も「海の中道」 と呼ばれていた。
地形「海の中道」 は針間 ⇒ 播磨国
山部の「山」 は神聖な場所や森
伊予来目部小楯 ⇒ 伊予温泉の熟田津 ・・・・ 唐船岩の温泉
唐船岩には温泉(冷泉 26度) が湧いている。
渡には「赤石」 という地名場所はないと思う。  

京泊 ・・・・ 肥前国彼杵郡平敷  万葉集813
大峰山 ・・・・ 肥前国松浦郡美祢良久ア  万葉集3869

肥前の松浦(豆邏) は渡の津である。
万葉集では松浦の娘は神仙郷の者たちである。
万葉集 巻5 853

万葉集では、松浦には穿江がある。
穴門 または洞海は渡にあったと思える。
角島は渡
松浦の玉島は渡


Google で検索せよ。
【  楯崎神社 奥の院  】
PDF 渡探訪  [ クイックビュー ] で見る。



高天原は 福 津 市  津 屋 崎 の 渡 ( わ た り )

魏志倭人伝の伊都国は戸数が千余戸と少ない。
世々王ありの伊都国は津屋崎の渡である。







記事へトラックバック / コメント


古賀市の 鹿部山

2012/01/19 19:34

神功皇后の角鹿は志賀島郵便局付近。
神功皇后は海の中道を博多湾沿いに進んだ。
三苫水道の博多湾側の入口に来て、 ここが穴門豊浦宮である。
三苫水道の入口で、熊鰐・五十迹手が出迎えた。
橿日宮は古賀市の皇石宮である。

県の場所は福岡市の那珂川ではなくて、古賀市の中川または花鶴川下流、あるいは本当の大宰府と思われる鹿部田渕遺跡付近の小字 「浦」 だ。

万葉集814 
那珂郡伊知郷嶋人 建部牛麻呂
この「蓑」 の字は福間浦の生郷である。


仲哀天皇は「高き岳」 に登って新羅に渡る大海を眺めた。
万葉集の解釈では 高山 = 香具山 とされている。
香具山は立花山であろう。
しかし古賀市の皇石宮から立花山は少し遠い。

仲哀天皇が登った「高き岳」 は皇石宮の山である。鹿部山だ。
仲哀天皇は「高き岳」 の鹿部山から玄海灘を眺めて、
「 朕、周望すに、海のみありて国無し 」 とのたまふ。

ネットで検索すれば、鹿部山には
東  椿山
中  向う山
西  鹿部山
の3つの山があったが、東側と真ん中の山は宅地造成によって消え、鹿部山だけが残ったという。
鹿部山は地域の信仰の対象にされてきた山だという。
クシフル峯の神南備山だ。


手元の漢和辞典で「襲」 の字の意味を調べれば、
まきつけて着せる、重ねる
死者に衣をおおい着せる
つみかさねる
かさね、揃い
継ぐ、うけつぐ
おおう、かぶせる
おそう、不意打ちをする
こみあう、あつまる

正しい「筑紫」 の場所は古賀市の鹿部 〜 新宮町である。
「襲」 の場所は鹿部山公園のあたりである。

青柳の五所八幡宮は住吉三神を祀るので、橘の小門はここだろう。
檍(あはき) ⇒ 青柳(あをやぎ)に転訛した。


新原に多宮八幡宮がある。筑紫の佐か。
応神天皇が生まれた「美」「蚊田」 も花鶴川の流域と思える。


皇石神社の御神体である板石を起こして立てる
⇒ 岩波文庫 日本書紀(二)  P170
神功皇后 摂政13年2月8日の歌
いはたたす 少御神
と関係するかも。
この歌の「いはたたす」 は津屋崎 渡の薬師岳にある大岩かも。




記事へトラックバック / コメント


大宰府  香襲宮

2012/01/18 20:04

本当の大宰府は内陸部の大宰府市でなく、海岸部にあった。

続日本紀
B307  大宰府は三面に海を帯び
福岡県の大宰府市は三面に海の地勢ではない。

講談社学術文庫  続日本後紀 (上)
P196  大宰府まで戻り、損壊した箇処を修繕し
大宰府市は山奥の内陸にあり、遣唐使船が修繕のために大宰府市に戻ることは不可能である。

この2つ記述から大宰府は海岸部にあったことがわかる。



「筑紫」 の場所である和白・新宮町のあたりで遺跡から大宰府の場所を探せば、古賀市の鹿部田渕遺跡である。

「遺跡の南西部には花鶴川から延びる潟湖があった。
中世の包含層には白磁碗・青磁碗など舶載陶磁の破片が大量に投棄されていて、日宋貿易の拠点でもあった可能性がある 」 
平凡社  福岡県の地名  P476上  鹿部田渕遺跡 より

Google で検索せよ。   【  古賀市 鹿部田渕遺跡  】


和白・新宮町のあたりで祭祀遺跡の場所をネットで検索して探すと、古賀市の皇石宮で昭和47年に社地西麓から多量の祭祀土器が発見されている。
皇石宮は神功皇后が御神体の大石で新羅征伐の卜占をした場所である。

鹿部田渕遺跡  古賀市美明1丁目4番
皇石宮と近い !!!! 

大宰府は大宰府市でなくて、古賀市の鹿部田渕遺跡
橿日宮は福岡市東区の香椎宮ではなくて、古賀市の皇石宮である。

筑紫の「襲」 は皇石宮の山である。
豊国の鏡山もここか。 


岩波書店  新 日本古典文学大系 萬葉集 二  P43
万葉集959  豊前守宇努首男人の歌一首
行き帰り 常に我が見し 香椎潟 明日ゆ後には 見むよしもなし
下注に、
「 この参拝に同行していた男人は、都へ帰任したものか。豊前国府と大宰府の往還に香椎を通るのは遠回りで、大宰府、あるいは豊前国府から香椎宮への往還の意であろう。馬を留めたのは、帰任の送別の宴を設けるためであったとも考えれれる 」
とある。

香椎宮は3か所ある。
 福岡市東区の香椎宮
 和白の香椎神社
 壱岐 勝本の香椎聖母宮

本当の香椎宮は古賀市の皇石宮である。

講談社学術文庫 続日本後紀(上)  P257 の原文  香

本当の宇佐八幡大菩薩宮は新宮町の人丸神社かも。  



   
記事へトラックバック / コメント


和白の 香椎神社

2012/01/18 13:35

岩波文庫 日本書紀(二)  P132
仲哀天皇 8年9月5日
時に、神、亦皇后に託りて曰はく、「天津水影の如く、押し伏せて我が見る国を、何ぞ国無しと謂ひて、我が言を誹謗りたまふ。 ・・・・ 」

巻末の原文は P491

P135上 注に 「アマツは、高天原の意。 ここでは水影の美称。 水にうつる影の如くに鮮明に、自分が上から見下している国があるのにの意」 とある。


原始古代の和白には三苫水道があった。
Google で検索せよ。
 【  三苫水道  】
 【  三苫水道 灘  】


仲哀天皇が登った高き岳
( 巻末原文は高岳 または P563下の 491で傍書 高嶽
高岳は立花山である。 万葉集の高山 = 香具山

筑紫の場所は新宮町と和白である。
神功皇后が通った洞海は北九州市若松区の江川でなくて三苫水道である。
五十迹手の伊覩は古賀市の糸ヶ浦、または新宮町新宮の磯ア神社である。
県は三苫の海である「灘」 である。
橿日宮は三苫または奈多にあった。 和白に香椎神社がある。
Google で検索せよ。 
 【  和白 香椎神社  】
 【  三苫 歴史  】

三苫の託乗寺に轡(くつわ)崎の「鏡ヶ井戸」 がある。
これが天真名井だろう。


上記の神託によれば、立花山の頂から西蕃の三韓が見えたのだから、神功皇后が征伐した三韓は糸島市である!!!!
珥津は対馬北端の鰐浦ではなくて白だった。

糸島市は出雲でもある。神功皇后は大三輪社を建てることで兵を集めた。
和白に大神神社がある。
Google で検索せよ。 【  和白 大神神社  】 

仲哀天皇は立花山の頂から玄海灘を見て、海のみありて国無し だった。
神託が示した西蕃の三韓は志登支石墓の糸島だった。


神功皇后の角鹿とは、
@考  志賀海神社に奉納されている鹿の角
A考  字 「タンバ」(志賀島郵便局のあたり)  
同書 P24  田道間守 ⇒ 但馬 ⇒ タンバ
気長足姫尊は清彦・田道間守の系譜にある。
角鹿の場所は福井県敦賀ではなくて、志賀島郵便局のあたりである。

同書 P124
仲哀天皇 2年2月6日
角鹿に幸す。即ち行宮を興てて居します。是を笥飯宮と謂す。即月に淡路屯倉を定む。
角鹿と淡路は近い。 淡路は志賀島・西戸崎である。

穴門の場所は山口県下関市長府ではなくて、三苫の字 「草場」(壁醜経) のあたりではないか、と思う。
穴門の大田・山田は三苫で弥生時代に造られた溜井の場所だ。
浦津・国の場所は三苫・奈多の怒涛の荒海(とよむ) であり、弥生時代から灌漑用の溜井が造られて豊穣の地。


阿閉嶋は相ノ島


※ その後の調べで、橿日宮は和白の香椎神社でなく、古賀市の皇石宮であることが判明した。
Google で検索せよ。  【  古賀市 皇石  】




記事へトラックバック / コメント


香具山 は立花山

2012/01/17 02:15

福岡市周辺で最も形がよく目立つ山は立花山であるから、天の山は椎の立花山だ。

万葉集
山常庭 村山有等 取与呂布 天乃香具山
大陸との往来で着岸する場所である北部九州 〜 山口県の沿岸にかけて、最も目立つ山は立花山である。

夜臼(ユウス) と安(ヤス) は音が似る。 安河は夜臼を流れる川である。
万葉集3157 の相海は美和台の相浦池のあたり。
和白は古代の朝鮮語で合議の意味という。天高市は和白だ。

新宮町、宮地嶽神社には天石窟に該当する岩窟がないのが残念である。



『 福岡県史 資料 明治十五年字小名調 』 より、小字の一部を抽出

箱崎  田子 アタ田 世々王
志免町の別府  西ノ府 鏡  
志免町の南里  イカツチ カルイ 大府 宝満山
青柳町  大浦 小浦 鹿場 平田
青柳の新原  原 高木 大田町
青柳の川原  於宮(おく)町 鳥町 平田 原
今在家  雨降 竹ヶ下
多々良の多々羅  卜山 天久
名島  蓮池 瀧ヶ浦 岩名 渡場
香椎  住吉 柿ヶ本 神戸 亀ノ甲 蟻道 蟹ヶ浦 嵯峨原 早田
浜男  三シマ 曲 笹原 長崎 片男佐(かたおさ)
唐ノ原  引田 向ノ山 大石ヶ浦 牧 稲葉 火原 向ノ山
下原  秋山 石原 蓼原
原上  柿ノ本 柿ヶ元 力町 宇田 平山 鳥ノ巣 
三代  葉山 花浦 壁塗 ヲシガ浦 干原 野間ノ上 原 
薬王寺  樫原 鬼王 根神
  天川原 クス原 中地 中ノ浦 舟付
下府 八千町 鹽吹 日ノ下 梶取 和田 小浦 蝉ヶ浦 白峯 蓮池 国貞 高旅 月方 廻 白峯(しらほう)
上府  花ノ浦 柚ノ木 岩井山 鞍尾 開(ひらき)
席内の筵内  天ア
久保  若ノ浦 千鳥 天ア 酒屋  
上和白  高松 高原 高見 立花 大蔵 大根ヶ浦 長浦 岡田 松浦 山  
下和白 中ノ浦 道 古鹽浜 勝ヶア 飛山 四十ヶ浦 唐ノ尾 鬼瓦 高辻 辻
三苫  永浦 天川原 高浜 大池 山池 井樋ノ上
奈多  番追 中浦附 小瀬貫 雁ノ巣
志賀島  沖ノ山 大浜 大杉 勝山 タンバ イバ 天神 山ノ田 穴方 岩名 
勝馬  赤石 大浦 高麗囃
山田  天野 聖母屋敷 岩戸原 名子山 国貞 葛巻 
宇美  神武原(こうだがはる) アマタレ 天ヶ熊 飛嶽 石垣
立花  高峯 名子山 日ヶ暮
小竹  ウヅラ
青柳  椋木浦 立花木 アマノ 童子ヶ浦 日野
仲原  日守
阿恵  日守
柚須  日守
米多比  まなご


※美和台に 相浦池 水浦池 がある。
三苫に 大池 清水池 がある。



万葉集
天河原 
167
1520
1528
2003
1997
1527
420
2092
2093


水茎の岡
968
2208
3068
2193 ・・・・ 2191 に高松
1231

福岡市周辺で原始古代の水道は、
糸島水道
和白の水道

水茎の岡は和白である。

970  栗栖の小野 は三代の小字「栗原」 または古賀市の小野


長崎県から山口県までの沿岸で、福岡市の立花山ほど目立つ山はない。
天の香具山は立花山以外に考えられない。
高 天 原 は 夜 臼 ・ 和 白 ・ 三 苫 だ !!!!





記事へトラックバック / コメント


美濃国 は福間 2 

2012/01/16 18:09

続日本紀

A33
近江国に至りて、淡海を観望みたまふ
この淡海は美濃国(福間浦) に近いので、古賀市の千鳥ヶ池である。

万葉集266  柿本朝臣人麻呂歌一首
淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所
※ 古所とある。
福岡市周辺では、古所は夜臼貝塚、板付遺跡、二丈町の曲り田遺跡。

新宮町下府の夜臼貝塚は古所である。
大森の信号機から見ると立花山は二峰の山である。
上府に千年家がある。
新宮町の桜山手に人丸神社がある。


古賀市は甕棺文化圏の東限にあたる。
出雲は甕棺文化圏とみた。
弥生前期末−中期初頭の馬渡・束ヶ浦遺跡(青柳町) ・・・・ 環濠・住居跡・貯蔵穴群・甕棺墓群
鹿部の皇石(おういし) 神社の神体の板石は支石墓の可能性が高い。

花鶴(かづる) 川は古代は潟湖だった。

古賀市には鹿部田渕遺跡がある。
6世紀中頃を上限とした大型建物群は地方官衙を超えて政庁的性格をもつ。
糟屋屯倉と考えられているが、大宰府の跡かも。
・上は大宰の遺称だろう。

青柳踊ヶ浦地区で、奈良時代の古瓦が出土している。
薬王寺温泉がある。

出雲 = 淡海 = 大宰府 は同じ場所で古賀市である。

鹿部(ししぶ) は思賀・志我の転訛だろう。


続日本紀の 「近江国の鉄穴」
@73
A411
B403
福岡市周辺で古代の製鉄遺跡がある場所は志摩半島である。
近江国は糸島か。



A41
美濃国の醴泉
名水は香椎宮近くの不老水と宮地嶽神社奥の水神社の2か所。
天真名井が続日本紀の時代には美濃の醴泉になったのではないか。
井上内親王の「井」 も宮地嶽神社奥の水神社か。



D481
韓国連源
「源」 は歴史の淵源である高天原を表す。
「高原」 は上和白の小字である。




記事へトラックバック / コメント


美濃国 は福間

2012/01/16 12:26

『 福岡県の地名 』  平凡社 日本歴史地名大系 41  P98上

蓑生郷 みのうごう
「和名抄」 諸本とも文字の異同はなく、訓も「美乃布」、「ミノフ」(名博本の傍訓) で一致する。
「続風土記」 が当郷について「西郷村に蓑生と云枝村あり。福間浦の辺を蓑生浦と称す」 と記すことから、近世の福間浦があった現福間町付近に比定される。

※ 「続風土記」 とは、 同書  文献解題  P1424中 
「筑前国続風土記」 のことで、元禄時代に貝原益軒が福岡藩の命を受けて編纂した筑前国の地誌 


古事記の「美濃の国の藍見河の河上なる喪山」 の美濃国は福間(現福津市)なら、高天原は福間の近くである。

出雲 = 播磨 = 日向
この 3つは同じ場所で、志賀島・西戸崎のあたりである。


同書  P410下 
福間浦  福間町西福間 3丁目など
西郷川河口右岸域に位置し、玄海灘に西面している。
宗像七浦の一とされ(津屋崎町史)、白砂青松の海浜は遠く新宮浜(現新宮町) へと続く。
この松原を花見松原とよんでいる(続風土記)。
中世福満庄(福万庄) の遺称地。
一帯は古来より蓑生(みのう) 浦とよばれ(続風土記)、うつせ貝と相まって歌に詠まれた。
「馬内侍集」 に
うかりける 身のうの浦の うつせ貝 むなしき名のみ たつは聞きつや
を収める。

万葉集2797
住吉之 浜尓縁云 打背貝 実無言以 余将恋八方

住吉の浜には うつせ貝がある。 福間浦は住吉である。

次の2798 の歌が伊勢なので、神風の伊勢国は沖ノ島かも。
卑弥呼の冢は沖ノ島か。




記事へトラックバック / コメント


芳来山 と 渡津海

2012/01/15 11:37

万葉集257  鴨人足人香具山歌一首 并 短歌

天降付 天之芳来山 霞立 春尓至婆 松風尓 池浪立而 桜花 木乃晩茂尓 奥辺波 鴨妻喚 辺津方尓 味村左和伎 百礒城之 大宮人乃 退出而 遊船尓波 梶棹毛 無而不楽毛 己具人奈四二

天降りつく 天の香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池波立ちて 桜花 木の暗茂に 沖辺には 鴨つま呼ばひ 辺つへに あぢむら騒き ももしきの 大宮人の まかり出て 遊ぶ舟には 梶棹も なくてさぶしも 漕ぐ人なしに



万葉集15
渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比沙之 今夜乃月夜 清明己曾

わたつみの 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 さやけかりこそ

右の一首の歌は今案ふるに、反歌に似ず。但し、旧本この歌を以て反歌に載す。故に今猶しこの次に載す。



香具山は芳来山と書かれ、高山とも書かれる。
また万葉集15 より、高山(香具山) は渡津海(わたつみ) の山である。
香具山には池がある。

この場所は福津市の宮地嶽神社の宮地嶽と禊池だ。
Google 動画 で 【  宮地嶽神社 禊池  】 を検索せよ。
宮地嶽神社の海岸には松林がある。


渡津海の場所は、
@考  津屋崎の渡(わたり)
A考  淡海国は国つ神の出雲系なので、志賀島勝馬の中津宮の山 付近
※ 私見では、勝馬の中津宮は出雲系の宗像三女神の地

志賀島の西端は大崎である。
万葉集の大崎
1023
3072



芳来山の音読みは「ホウライ山」 で蓬莱に通じる。

高天原は天原で、宮地嶽神社のあたり ?




福津市 手光 の小字は住吉 (墨の江) を示している。
「墨ヶ浦」 400〜443 番地
「立花木」 2221〜2289 番地
「海祖」 1224〜1227、1229〜1249、3093−6、7 番地
「大神」 1500〜1556−5 番地
「大人」 1814〜1882−4 番地  ⇒ 山海経の大人国





記事へトラックバック / コメント


播磨国 は福岡市の志賀島・西戸崎

2012/01/12 19:09

和名抄は930 〜 940年頃に編集成立したものである。
記紀・万葉の地名は和名抄の国名場所で分析できない。


播磨国 ・・・・ 福岡市の志賀島付近
鹿子  志賀海神社に奉納されている大量の鹿の角
赤石  志賀島弘の小字 「赤石」
藤江  西戸崎の藤棚
須磨  勝馬の製塩跡 または西戸崎のシオヤ
敏馬  勝馬
賀毛  カモ池

万葉集1230  壮鹿の須売神 ・・・・ 志賀海神社の鹿の角


播磨の隣に吉備がある。 志賀島から能古島を経て、吉備は福岡市の室見川流域になる ? 吉備の児島、小豆島は能古島 ??  倭国は福岡市 ???
備前の藤野郡は早良区の藤ア ?

針間の字面は針の形、針のような細長い地形である。
志賀島 〜 海の中道は針の形をしている。まさに字のごとく針間である。


筑紫野市の針摺(はりすり) は針磨とも呼ばれていた。


筑紫(竺紫)の「日向」、万葉集の筑紫の「島門」 などは志賀島。





記事へトラックバック / コメント


沖ノ島 蓬莱山 説

2012/01/12 12:05

ヒゼンマユミ の自生地
福岡県 沖ノ島
対馬中部
韓国 巨文島

タチバナ の自生地
福岡県 沖ノ島 ・・・・ 最近の調査では発見できなかった
山口県 長門市 青海島の仙崎近く
      萩市 笠山 ・・・・ コウライタチバナ


沖ノ島には謎の海底遺跡があり、祭祀遺跡の宝物もすごい。
沖ノ島は蓬莱山か


沖ノ島は本当の伊勢大神宮である。
続日本紀 @125 下注 11  木簡に




記事へトラックバック / コメント


新説 伊都国

2012/01/11 23:39

伊都国は福岡県福津市の 宮地嶽
山海経の大人国であり、隋書の秦王国でもある。

福岡県の名水は、
香椎宮近くの不老水
宮地嶽神社の湧水

竺紫の君 石井 は宮地嶽神社の人である。


万葉集3681 肥前国 松浦郡 狛嶋亭
狛(こま) → 犬(いぬ) なので、韓人系である。
『福岡県の地名』 (平凡社の地名辞典 福岡県巻)  P406上 
今川遺跡  津屋崎町 宮司
弥生前期主体の複合遺跡
韓国無文土器時代の松菊里住居 
大陸式遼寧式銅剣を再加工した銅鑿が出土。
宮地嶽神社・宮地嶽古墳がある。
在自(あらじ)に字 「犬王」 「唐坊」 がある。
対馬見山(238m)がある。
渡に字「唐舟」・恋の浦 がある。

秦田麻呂は渡の「田ノ浦」 の人である。



伊都国を内陸にもっていくなら飯塚市




記事へトラックバック / コメント


新説 末盧国

2012/01/11 23:38

末盧国は福岡市の 志賀島
隋書の竹斯国は志賀島である。

万葉集の敏馬浦は志賀島の勝馬
志賀島の弘の海女は潜水漁をしていた。

志賀海神社を無視して邪馬台国への道を考察することはできない。

元寇で元軍は志賀島から壱岐に引き返した。
志賀島 ⇔ 壱岐の航海ルートがあった。

魏志倭人伝では、末盧国は中国外交団が上陸する場所なのに官も副もいないので、末盧国は邪馬台国の領域ではない。
末盧国は宗像三女神の地であり、「海の北の道の中、道主貴」 である。




記事へトラックバック / コメント


黒井の松林 西の海から天女が来た

2012/01/10 18:49

蒲生野山田の竹生観音縁起によれば、
竹生観音の開祖である奈良東大寺僧の金実中が黒井海岸の松林に小屋を建てて読経していたら、西の海から天女たちが乗った船が来た ・・・・

天女たちは蓬莱島である蓋井島から来たのだろう。




『防長寺社由来』 第七巻  P624下 〜 626上 より


「有冨村竹生山観音縁記富任村の観察院より仕出申候事」
      覚

長州竹生寺縁起

当寺草創聖人者大和国森郷人也、姓金、俗名実中
孝謙天皇御宇天平宝字元年丁酉八月十八日午剋誕生、自 八歳 随 師読書受業、天性聡明純孝正直、活憺無為志遊 方外、不 趨 朝市 不 着 名利、深信 因果 祟 敬仏神、二十八歳作意発願、始従 桓武天皇御宇延暦三年甲子正月十八日 沐浴斎戒、毎月十八日参 長谷寺、凝 信心 祈請言、帰命稽 首観自在尊、弟子窀穸眠中幻夢未 覚、希乍 受 閻浮生、依 為 陸沈士 不 修 小善、何况大善、雖 址 宿生業、因忝仰 今世値遇、乞願蒙 大士加被 成 小子所願、所願非 他、建 立一伽藍 安 置大観音、済 度沈溺群類、将 遂 順次往生、已上参詣不 怠三年已満、同五年丙寅十二月十八日夜寅剋有 霊夢告 曰、諦聴ヽヽ汝剃 髪染 衣帰 三宝、持 禁戒 下 向長州豊西郡、於 黒井郷木村白浜、向西南 祈念所願一一可 成、後砌者観音遊化之宝刹、日域無双之霊地云々、実中夢覚任 大悲告、同六年丁卯正月十八日、於 大安寺 出家受戒、即不 改 俗名 号 実中法師、忽辞 故郷 巡赴 西海、同年三月十八日下 向長州豊浦、尋 行木村白浜 構 一庵、断 五穀 草衣木食難行苦行、旦暮所 称念 者六観音、昼夜所 読誦 者 一乗妙典、禅観累 日心源発明、松門人稀、柴扉自静、春過夏闌秋已欲 半、同八年己巳八月十八日午剋、西海波響有 高詠 和歌 之声 成 奇異之思、排 蓬戸 望 海上、白浪色変紫雲旁聳、雄波音大悲者乃虚空尓満留富財土詠
雌浪声者我遠信世牟人仁与牟土唱
又聖衆星羅、諸天雲集、旛蓋翻飛、光彩普照、或讃歎称揚、或妓楽歌詠、頃之浮木一本従 西海 寄来 天女六人棹霊槎発 款及、曰南無阿弥陀仏南無大悲観世音土、彼槎馨香薫馥今人悦預、着岸已後飛騰今竹生高山畢、又従 天五色神旛一流雨降、毎 旛手 有 宝鈴、光色玲瓏、妙響和雅、其声亦南無阿弥陀仏南無大悲観世音土唱、上 天下 地七日七夜、以後旛者堕 今関院寺、旛脚者堕 今飛処寺、旛竿者留 当山、旛長六尋、旛竿六尋六尺、節間七、旛竿有 金字弥陀六字名号六観音種子并真言、亦有 金銘、其詞曰、以 栴檀六角本 造 六観音、以 中造 十一面、以 末造 聖観音、建 立精舎 安 置此像、二世所願必 成就、梵釈四王三界諸天集会、叨利天於 善法堂 記 之、已上、又自 天数多材木雨降、又仏師六人、番匠二十八人不 期化来、本尊仏閣 日終 功、当 供養日 高僧一人乗 紫雲 従 東来
即為 導師、相好威儀疑 世尊出現、四弁八音省 如来説法、天衆降臨散 妙華、遐邇群集展 斎席、道俗男女聴聞随喜、渇仰銘 肝、感涙湿 袂、或発 菩提心、或出家遁世、当時供養者延暦八年己巳九月十八日也、一人高僧者長谷観音、二十八人番匠者二十八部衆、各成 本体 帰去、已植 彼旛竿当山、枝葉茂盛生 五本竹、母子共六本也、金字銘文亦如 本竹、因 茲号 竹生寺、熟案事情、波声和歌、栴檀六角、天女六人、番匠二十八人、旛長六尋、旛竿六尋六尺、節間六尺、所 生竹母子六本、以 此思 彼、六観音利生方便霊験掲焉、表示歟事奇特普聞 天下、依 之平城天皇御宇大同元年丙戌正月十八日本願聖人蒙 勅命、企 参洛 謁 天顔、礼敬不 浅帰依尤深、叡感余忝降 綸旨、被 寄 附当寺近里十二ヶ村、奉 祈 宝祚延長国土豊饒御願、人法弥繁昌顕密同弘通、寺院并 甍房舎輾 軒、貴賎継 踵参詣無 絶矣、当寺之為 体、後双峰峨峨号表胎金両部、前滄海漫々号弘誓甚深、巌泉底澄、谷水流遠、幽鳥和鳴、唱仏法僧、竹木清風、宣一実相、漁舟篝火如 万燈会、風浦浪翻 花、吹上砂以 雪、日想水想観念得 便、耳目見聞感興相催、千変万化不 遑 羅縷、誠知象外之各区、同居浄土聖人久住 当寺 勤行不 怠、手自法華経六部浄土三部経各六部、遂 一字三礼書写供養、奉 納当山西峰 畢、先師行年八十五歳、仁明天皇御宇承和八年辛酉八月十八日向 西方 端坐合掌、心身不動如 入 三昧、弥陀観音来現放 光明、二十五菩薩囲遶調 音楽、当寺本尊六観音各舒 御手 摩 聖人頂、次観音扶 乗蓮台、与 聖衆 供指 西方 還帰、已我等幸依 大悲化物之方便 親得 見仏聞法之巨益、唯恨希伐(代ヵ)之事不 伝 来葉、仍雖 慙 俚語 聊載 大概
長州豊西郡南条延行名内竹生寺縁起、于時承和九年壬戌三月十八日       弟子実恵書



竹生観音の山号を高山という。
万葉集では高山は香具山と同一とされている。
香具山の別名が高山である。




記事へトラックバック / コメント


山海経 海外東経 の場所

2012/01/09 08:18

『山海経』 はどこの図書館にもおいてあります。
知らない人は Google で 【  山海経 海外東経  】 を検索せよ。



長差丘   福岡市の志賀島・西戸崎。または立花山
※ 「長差」 の字の意味は「いたく嘆く」。 素戔尊の「嗚」 に似る。
2つの山が丘をはさみ、その上に樹木がある
「2つの山」 は福岡市の立花山である。新宮町から峰が2つの山に見える。
立花山樟原原始林がある。

※ 長差丘は遺玉・青馬・視肉・楊柳や百果など産物が多いので、西海の五島列島・平戸諸島かも。


大人国   福岡県福津市の宮地嶽・津屋崎。 ここが隋書の秦王国

大人国の文はよくわからない。
平凡社  中国古典文学大系 第8巻 昭和44年 P492下 では、
大人国はその北にあり、人となり大きく、坐って舟をあやつっている
集英社  全釈漢文大系 第33巻 昭和50年 P429 では、
大人国 其の北に在り。人為るに大にして、坐して船を削る。一に曰く、長差丘の北に在りと。
〈通釈〉
丸木舟のようなものを作る意味かと思われる。
『新校正』 はその作業をしている絵があって、それを説明した文と解する。
『釈義』 は坐ったままで船が作れるとは、人間が大柄なことを意味すると説明するが、大人国の人の乗る船はそれだけ大きいはずだから、あまり説明にはならない。
『箋疏』 は「削」 は稍(せう) と発音すべきで、その場合の削船とはさおなどで船を動かす意味だと解する。


奢比の尸肝楡の尸
「尸」(しかばね)の字より、芦屋町の山鹿貝塚 または 飯塚市の立岩遺跡

君子国  衣冠して剣を帯び、獣を食ふ
「剣を帯び」 より磨製石剣が出土する中間市

虫虫
北九州市小倉北区蒲生に虹山がある。紫川の中流。

朝 陽 の谷、神を天呉という  水の神で2つの川の間にいる
「両水の間にあり」 は響灘と周防灘で関門海峡か。彦島のあたり。
関門海峡の小瀬戸は天川ともいう。
「谷」 は関門海峡である。
獣としてその姿は、首が 8つで人間の顔をし、足が 8本、尾が 8本あり、すべて青黄色である
黥面文身。魏志倭人伝の「倭の水人」。八俣大蛇のようでもある。

青丘国  そこ人たちは五穀を食べ絹物を着ている
新下関駅から見える青山。 綾羅木郷遺跡




以下、検討中です。
黒歯国   黒歯を「コシ」 と読み、船越。下関市の福江から吉見。

東夷伝の黒歯国は薩摩三島の黒島であろう。黒島の大里では昭和30年代まで海ヘビを食べていた。黒島の人たちは南方系の顔をしている。
縄文時代、鹿児島のカルデラが大爆発したので、山海経の中国人は扶桑を南九州と誤解している。

雨師妾 は丹生川上雨師神で、吉野にある。 奈良県吉野の音無という地名が下関市の水道水源池近くにある。 雨師妾は赤田代の五年神だ。 竜王山あり。

油谷町に雨乞岳がある。

扶桑
川棚に温泉があり、金実中の三恵寺がある。
吉見にも吉見温泉がある。
長門市の俵山温泉か。豊田湖の安徳天皇陵参考地が近い。

旧豊浦町 犬鳴川を上った所に小字「扶桑」 「神屋」 がある。
湯玉が近い。



『 扶桑国は関西にあった 』  いき一郎著 葦書房 ※ この本は必読書
中国王朝にとって日本列島への関心の中心は関門海峡である。
日本地図をみれば関門海峡は西日本の中心であり、瀬戸内海と交易するにあたって要衝である。 日本の「海門」 は関門海峡である。

※ この本の P 85 より引用
大荒東経、― 東海の外、大荒の中に山があり、大言という、日月の出る所、波谷山という者あり、大人の囶あり
「波谷山」 は音より白山か。 立花山に白岳がある。
山の名が「大言」 で「タケ」 とよむなら福岡県福津市の 宮地嶽 だろう。
大人は大陸系の秦氏で、背が高く大柄で、土木技術をもつ。
宮地嶽は竺紫日向の高千穂のクシフルタケの候補地でもある。
宮地嶽神社の横には禊池があり、橘の小戸の檍原の候補地である。

神功紀の松浦は豆邏国だから、津屋崎の梅津である。
奴山の小字「玉ノ上」 が玉島の遺称だ。




記事へトラックバック / コメント


続きを見る

トップへ

月別リンク

邪馬台国 下関/BIGLOBEウェブリブログ