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邪馬台国 下関
ブログ紹介


講談社学術文庫 『 倭国伝 』  旧唐書 P205、208
旧唐書に
「倭国は、古(いにしえ) の倭の奴国也。」
「日本国は、倭国の別種也」

竹取翁博物館  邪馬台国や徐福に関心を示された 2014.4.14
http://blogs.yahoo.co.jp/koiiyk/31302118.html
  ↓
中国の古地図 日本国と倭が別に描かれている。


中国正史の古代日本記録
いき一郎 編訳 葦書房  1984年 1992年 第2刷
P49
後漢書 巻80 「烏丸鮮卑列伝」 に、
鮮卑の檀石槐が光和元年(178年) に、魚をつかまえるのが巧みな倭人のいる倭人国を撃って倭人をとらえ、倭人に秦水の魚をとらせ食糧にした、とある。
「三国志」 は倭人を人とし、倭人国を人国としている。

この場所は鳥取県の青谷上寺地遺跡である。 近くに地名「汗入」 がある。

青谷上寺地遺跡展示館 ホームページ
http://www.tbz.or.jp/kamijichi/index.php?view=4095
土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム ホームページ
http://www.doigahama.jp/

佐賀 ・ 徐福国際シンポジウム
http://inoues.net/study/jyuhuku2008.html
  ↓
赤関=天関
文庫書紀@198-末 神武東征
是に、火瓊瓊杵尊、天関を闢き雲路を披け、仙蹕駈ひて戻止ります。



参考文献   以下の本は所有しています。
記号  例   
文庫書紀D74-12 → 岩波文庫 日本書紀(五) P74 の12行目
小学館書紀A469-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 日本書紀 A巻 P469 の 8行目
続日本紀B74-12 → 岩波書店 新日本古典文学大系 続日本紀 三 P74 の12行目
日本後紀 47-8 → 集英社 日本後紀 P47 の8行目
旧事F169-4 → 批評社 先代旧事本紀 訓註: 大野 七三  巻第七 P169 の4行目
訳旧事E305-7 → 批評社 先代旧事本紀 現代語訳  巻第六 P305 の7行目
祝詞393-7 → 岩波書店 日本古典文学大系「古事記 祝詞」 P393 の7行目
風土記71-12 → 小学館 新編日本古典文学全集 風土記 P71 の12行目
岩波風土記183-2 → 岩波書店 日本古典文学大系 風土記 P183 の 2行目
文庫風土記下168-5 → 角川ソフィア文庫 風土記 下 P168 の 5行目
山川風土記27-331行 → 山川出版社 風土記(常陸国 出雲国 播磨国 豊後国 肥前国) P27 行数331
小学館今昔物語C252-8 → 小学館 新編日本古典文学全集 今昔物語集 C巻 P252 の 8行目
岩波今昔物語A145-6 → 岩波書店 新日本古典文学大系 今昔物語集 二巻 P145 の 6行目
古語拾遺164上-20 → 右文書院 『古語拾遺』 を読む P164上 の20行目
古代氏文集40-364 → 山川出版社 古代氏文集 P40 の 364行 
を示す。

万葉集
おうふう(株) 萬葉集
岩波書店 新日本古典文学大系 萬葉集
笠間書院 万葉集表記別類句索引 編者:日吉盛幸

風土記の索引書
和泉書院 『古風土記 並びに 風土記逸文語句索引』 橋本雅之 編


私は他人の説を摘まみ食いして、それを手直し修正し「自分の案」 を打ち出す「いいとこ取り」 は絶対にやりません。 私はずるくて利口なパクリ行為はやりません。 奔放な当てずっぽうのブログですが、一次資料に基づくものを書くため、記紀・万葉などの文献を読み、市町村史や郷土の自費出版物などの地方資料を渉猟して書いてます。 ネットで見たものはリンクを貼ってブログ主に通達してます。

私は僅かでも何かしらの着想(ヒント、アイデア、思いつき) を得た参照元は漏れなく全部を記してます。
当ブログは学術書レベルで参考文献を示してます。
着眼にあたって参考としたものを記すのは書き物の基本的な礼儀作法です。
他人の発見を尊重してこそ自分の発見やオリジナリティを主張できる。

私のブログは当ブログだけであり、他でブログ等はやってません。 私はネットの投稿、掲示板やコメント欄への書き込み他をしたことはありません。 なりすまし に注意してください。


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ヤマト王権 「倭の五王」 は呉から来た

2016/09/26 20:20

リチャード・コシミズ_部落と在日
ttps://www.youtube.com/watch?v=rOLSzAsOrHM

『天皇陵の真相』 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 共著
三一新書 1994年
P51、52
住井 私は天皇家は中国系だと思っているんですがね。 飛鳥へ入ると中国系の村がね、完全に中国から渡来した村がありますよ。
飛鳥の人は、だいたい中国系だと思われるのは男でも足にも脛にも毛がないですよ。



『「神武」は呉からやって来た』 竹田昌暉 著 徳間書店 1997年
著者は東京大学医学部卒 虎ノ門病院 初代麻酔科部長を経て開業医

『徐福王国相模』 前田豊 著 彩流社 2010年
P30〜34
富士山麓 山梨県 山中湖 長生村
毎日新聞 昭和49年9月24日 の夕刊記事
「伝奇始皇帝の "金印" 富士山麓で見つけた」
  ↓
1991年、中国徐州博物館の李氏によって呉国 黄巾軍の大将の名と判明。


山梨県 八代町 狐塚古墳 呉の紀年鏡(238年) 出土

『三国志』 で陳寿が書かなかった孫権の外交戦略
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_04_26.htm
  ↓
■ 呉の紀年銘鏡の出土例はもう一面報告されている。
兵庫県宝塚市安倉南二丁目に築かれた古墳時代前期の円墳の安倉高塚(あくらたかつか)古墳から、昭和12年(1937)に赤烏7年の銘がある鏡が見つかっている。 やはり対置式神獣鏡である。 赤烏7年は西暦244年にあたる。


呉の鏡
山梨県 市川三郷町  鳥居原狐塚古墳 赤烏元年銘鏡
兵庫県 宝塚市  安倉高塚古墳 画文帯神獣鏡(赤烏七年)
熊本県 人吉盆地 免田町  才園古墳 鍍金鏡

沖田遺跡  下関市豊北町角島  
縄文時代終わり〜弥生時代初めの拠点集落 夜臼土器、陶塤
遠賀川・宗像地域と交流か。 関東の土器が出土。 


模擬講義 動画公開(文学部) 龍谷大学教授陣の研究を動画で視聴しよう
ttp://www.ryukoku.ac.jp/admission/movie/academic/let.html

龍谷大学 文献史学 生田敦司
「倭の五王と内政・外政」 下関市立考古博物館 講演レジメ 
百済・高句麗は長史(文官)を派遣、倭は司馬(武官
平西、征虜、冠軍、輔國將軍:中国三国時代に同じ将軍号
倭は朝鮮半島の南岸に拠点を築き、竹幕洞祭祀遺跡から黄海を渡っていた。
朝鮮半島海岸部に点在する倭遺跡を観察して、倭は百済を仲介させずに勝手に中国と往来していた。


私見
宋書の「倭の五王」 は呉の孫権が派遣した遠征軍の後裔である。
中国南朝からの冊封を求めている。 これが関西のヤマト王権である。

下関 邪馬台国  長崎県松浦市から渡海
関西 ヤマト王権 福岡県宗像市から渡海

万葉集865 松浦の
君を待つ松浦の浦の娘子らは常世の国の海人娘子かも
2002年頃、佐賀県浜玉町、七山村を2回訪れて役場の教育委員会から多くの郷土資料をいただいた。 実際に川を見て、この場所は記紀・万葉の松浦、玉島ではないと言える。

最近、『松浦市史』(1975年) を読んだ。 記紀・万葉の松浦は松浦市である。
筑紫(竺紫、竹斯) の場所は松浦市である。


魏志倭人伝、隋書俀国伝 ・・・ 王、家臣、官は倭名
狗奴国の王・官も倭名

宋書倭国伝 ・・・ 王、武官(司馬曹達) は大陸風の一文字名 


後漢書 地 会稽海外に東鯷人あり。

梁書 倭人は呉の太伯の後裔と自称している。

呉書 亶州に住んだ徐福の子孫は会稽に来て商売をした。
 ↓
土井ヶ浜遺跡から出土のシャコ貝製頸飾りは、南中国との密接な交流を物語る貴重な遺物で、国内には類例がない。
(山口県の古代遺跡〔T〕 古代遺跡教材化研究会 P77左)


山口県史だより  第20号 平成15年10月
北浦地方では親が子供を叱る時に 「そんな事をしよるとゴンゴチィーに連れて行かれるよ」 「ゴンゴーが出てきてかぶられるよ」 と言っていた。
北浦地方にある、恐ろしい化け物を連想させる「ゴンゴチィー」 や「ゴンゴー」 とは一体何なのでしょうか。
この地方では蒙古の兵士に由来すると理解されているようです。

※ 「北浦」 とは山口県の山陰沿岸のこと。 山口県の地元言葉

私見 「ゴンゴチィー」 は呉国の遠征軍来襲か。
孫権 Wikipedia
即位の翌年、衛温・諸葛直に1万を与え、夷州と亶州の捜査を行わせた。 夷州から数千人を連行するも、この捜査は失敗に終わり、孫権は、衛温・諸葛直を処刑した。

『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 著 三一書房 1996年
P46 「万の兵が数千人しか帰らなかった」 とも読める。

「ゴンゴチィー」 から山口県の山陰沿岸が夷州か。


昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。
  ↓
記紀には織田信長のような戦国武将だった天皇はいない。

隋書 倭国は百済・新羅の東南にあり。 ・・・ 山口県西部
宋書 倭国は高麗の東南大海の中にあり。 ・・・ 関西

聖徳太子の仏教の師は高句麗の僧 恵慈であり、倭と高句麗は友好的な関係だった。(栗本慎一郎)
この倭は下関にあった倭である。

好太王碑文の倭は関西のヤマト王権である。

下関市と長門市西部には古代官道が通ってない。
この "謎" が邪馬台国の場所である。


『現代に息づく 陰陽五行』 増補改訂版 稲田義行著 日本実業出版社
P54 
孝謙天皇と聖武天皇には「皇帝」 の尊号が贈られた。 中国的だ。
「宝字称徳孝謙皇帝」
「勝宝感神聖武皇帝」


古代学協会
http://kodaigaku.org/index.html
研究題目 「近畿地方における初期農耕集落形成をめぐる考古学的研究」 班
に問題提起する私の見解 「倭の五王」 は孫権の遠征軍の後裔
をここに発表した。

弥生時代の開始 ― 徐福集団の渡来定着。 夷州、亶洲
古墳時代の開始 ― 呉国の遠征軍が来襲定着

呉の遠征軍は徐福の夷州、亶州に行った。 徐福東渡と呉の遠征は場所が同じ。


私の朝日新聞批判
2015年6月末 朝日・角川共催の古代史シンポジウム 2回目 大阪
テーマ 騎馬文化と古墳 に私は異見する。 私は中国北方・朝鮮系の騎馬民族よりも中国南朝 呉国の遠征軍渡来を重視する。


ヤマト王権、ヤマト政権
南宋から与えられた倭の称号は百済よりも位が低い。 倭は文官でなく武官を派遣している点から「幕府」 の観がある。
白石太一郎はヤマト政権ではなくヤマト王権と呼ぶべきと言う。
私見では関西は「王」 というより「幕府」 だったのではないか。 「東国の強兵」 は関東ではなく関西だった。

日本書記の「呉」 は関西のヤマト政権で幕府だった。 熊本県宇土にも分国があった。 倭の朝廷は下関にあった。 関西はヤマト王権ではなくヤマト政権の呼び方正しい。


風水
倭の朝廷が下関市域のどこにあったかは風水でわかる。




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古代史に関心がある人たちを分類する

2016/09/26 03:50

とりくみ方、ジャンル分け
考古学  地方自治体の遺跡発掘職員 発掘調査報告書

文献史学の大学教授  専門書・学術書 12,000円+税、学会の論文

作家、歴史愛好家  書店 単行本 2,200円+税、新書・文庫 1,200円+税

床屋談義の人たち 


邪馬台国論争を行うのは「学会」 とは別の作家、歴史愛好家の人たちである。
邪馬台国は1960年代前半に浮上し、1970年代前半に大ブームとなる。
現在論争が始まった昭和40年当時から50余年経つ。
邪馬台国・古代史のブームは1974年、1984年。

『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 著 三一書房 1996年 

私が所有する考古学の邪馬台国本
『邪馬台国と吉野ヶ里』 学生社 1997年
松下孝幸 など 東京新聞 吉野ヶ里取材班 編

『倭人伝の国々』 学生社 2000年
小田富士雄 編者 武末純一・渡辺貞幸 など


作家もプロ研究家であり、歴史愛好家も地道な個人研究をしている。
私見では、
邪馬台国の山師になるには10年以上、毎年5万円以上、計80万円はかかる。

床屋談義はマスコミやネットの情報を得て自説を語るが、自分で身を入れた研究はしていない。 物知り自慢の年寄りが知ってることを言ってるだけ。




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重留銅矛は何を語るか  北九州市 文化企画課

2016/09/19 16:25

平成28年 9月17日(土)
重留遺跡出土広形銅矛 国重要文化財指定記念シンポジウム
「重留銅矛は何を語るか 〜邪馬台国の時代in北九州〜」
場所 北九州市立いのちのたび博物館  13:00〜16:30
北九州市市民文化スポーツ局 文化企画課


パネリストの1人
橿原考古学研究所共同研究員/桜井市纏向学研究センター共同研究員
もびっくりの 邪馬台国 九州説の私見を披露する。

重留銅矛を記紀神話と照合させれば
文庫書紀@120-5
乃ち国平けし時に杖けりし広矛を以て、二の神に授りて曰はく、「吾此の矛を以て、卒に功治せること有り。


常陸国風土記 信太の郡
伊川  門司区伊川 白山神社
普都の大神
 ↓
 私見
重留銅矛は布都の御魂であろう。

パネルディスカッション
「銅矛が出土した大型の住居跡は高床式倉庫ではないか」
 ↓
記紀 熊野の高倉下

マンガチックであるが、
重留銅矛は祭祀の埋納用ではなく大魔神の魔剣であり至高の武器だった。


小倉の足立山は畝火山か? ははははッ
JR 門司駅から見れば足立山は雲に覆われている。
城野・曽根側から見れば雲のない快晴だ。

門司駅〜小倉北区富野は日本海式気候
周防灘側の小倉南区は瀬戸内式気候

万葉集 畝火山の表記に「雲」 があるものがある。
13 雲根火雄
1335 雲飛山

「雲飛山」 という表記から高さ500〜700 m の山か。
畝火山の「火」 から関門海峡の烽火の山を連想する。

万葉集1047 飛火賀「山鬼」
この表記もよくわからない。


日向の橘の小戸橿原
旧事@36-3  
先代旧事本紀に「日向の橘の小戸橿原」 とある。
橿原は日向の橘の小戸と同じ場所である。
これもよくわからない。

三諸岳、三輪山
文庫書紀B44-3  菟田の墨坂神=大物主神、注七 斎戒
=文庫書紀@236-末行  天の香山の埴土、埴安
  ↓
異説 菟田の墨坂神=大物主神
「斎戒」 の共通字で示される同じ所
を採用する。

奈良県の三輪山は円錐形の単独峰である。
三諸山という表記は山々の連なりを表し、風水の龍脈がある。
私見では、三輪山は三諸山の一部分なので奈良県の山ではない。


観光
九州説 いのちの旅
井出浦  北九州市小倉南区 平尾台
北九州市の平尾台に素戔嗚尊が住民といっしょに八俣大蛇を弓矢で退治した言い伝えがある。 弓矢で射られた土井ヶ浜遺跡 124号人骨 に通じる。

井手浦 尻振り祭
ttps://www.youtube.com/watch?v=2ZCNy-7Na40

ttp://kitaqare.d.dooo.jp/tens13.htm

ttp://blogs.yahoo.co.jp/merope0310/39858365.html

井出浦の尻振り祭りはよく知られている。 毎年陰暦11月15日、回り持ちの座主が新米を刈って酒を調え正月7日に集まり、藁で作った「八俣の大蛇」 をで射る。 その後、ときの声をあげて大蛇を切り、宴会に移る。 スサノオノミコトが「八俣の大蛇」 を退治したとき、村人も射手に加わったというのが祭りの縁起で「射手裏」 の由来だという
『おもしろ地名 北九州事典 増補総集版』 1997年
P121


礫岩 つぶていわ  平戸島の南部 礫岳 287 m
ttp://www.sairosha.com/yama/tubuteiwa2.htm

逸文 日向国
文庫風土記下432
吐濃峯 日向国 庾(こゆ) 郡
  ↓
平戸島の南部
田(こた) 現 辻町、神船町、大佐志町、無代寺町


王位石  野ア島 小値賀島の東
ttp://blog.goo.ne.jp/kitadake3193masa/e/036f5a29d0d12b771f1ceb1601d7c088

ttp://blog.livedoor.jp/ii_wanco/archives/806397.html




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松浦市  日向 近江

2016/09/19 15:45

景行天皇が九州遠征した時の行宮 伝説地
平戸島の南端 野子町の宮ノ浦
松浦市 志佐川の下流

日向の場所は松浦市の中心街
天孫降臨の高千穂宮は不老山か

星鹿町の地名は星の神 香香背男 文庫書紀@120-9、136-6
星鹿は防人がいた場所と伝えられる。 黒曜石を産する。
元寇の戦いで、御厨半島の星鹿は鷹島に渡る日本軍の拠点だった。

伊都国の一大率は星鹿町の防人だろう。
防人=ア守り (三省堂国語辞典、広辞苑)

画期的な発見!
天津甕星、天香香背男の地は松浦市 星鹿町 である。

鷹島  日本山 (75.4 m)
壱岐→鷹島→松浦市 志佐町 は主要な航路だった。

浦免に住吉宮があるので、浦島太郎は松浦市浦免の人か。

淀姫 御厨の星鹿に沙加羅龍王の干満二珠、龍宮伝説がある。

淀姫神社詳細の項
ttp://yodohimejinja.com/details-of-a-shrine


長崎県内で滋賀県の大津付近と同じ地名がある所
小値賀島
松浦市 柏アは膳ア

小値賀島の笛吹は松浦市笛吹の住民が移り住んだという。
松浦市域は淡海国の地名である。

継体紀 文庫書紀B208-4
是歳、毛野臣、召されて対馬に到りて、疾に逢ひて死ぬ。
送葬るときに、河の尋に、近江に入る。
其の妻歌して曰はく、
枚方ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る


途中、関西まで長いのに山陰沿岸や瀬戸内海の行く記述がない。
近江は朝鮮と一衣帯水の位置にあり、北部九州または山口県沿岸にある。
  ↓
文庫書紀B208-4 の場所は松浦市 志佐川の上流 笛吹である。

万葉集3238
相坂  松浦市 御厨町 相坂免


『松浦市史』 1975年
P50
志佐  贈唹の君 多利 志佐申し言う
御厨  伊勢の御供所即ち厨物を差上げる御厨
調川  租庸調の調の皮

文庫書紀@134-9
伊勢の狭長田の五十鈴の川上 ・・・ 御厨町の竜尾川

P485
高野免は昔は鷹狩をした野、鷹野であった。
万葉集 大伴家持 越中国  鷹狩

魚固島 おごの島  (星鹿町)
魚がたくさん固まっている島だった。
「おのころ島」 ではないかという人もいる。


文献で淤能碁呂島に関する記述は
古事記 仁徳記 吉備の黒日売
歌謡
仁徳天皇が難波の埼に立って眺めると
粟島 淤能碁呂島、檳榔の島も見ゆ

『古代氏文集』 山川出版社
新撰亀相記 P206〜207
415 此の三つの島は艮より坤に連なれり。
  ↓
鷹島の西にある魚固島に合致する。


肥前風土記 海松橿媛  風土記333-7
通説では古代の賀周駅(かすのえき) は唐津市 見借(みるかし) とされる。
私見
肥前風土記 海松橿媛の「海松」 は海の岩場の海藻であるが唐津市見借は内陸の山奥地にある。 唐津市見借は「海松橿媛」 の名に適さない。

大屋田子 日下部君等が祖 ・・・ 浦島太郎と同じ



「サイエンス」 を自認する考古学 弥生時代早期の遺跡
佐賀県唐津市 菜畑遺跡
長崎県平戸市 田平町里免 里田原遺跡
に注目する。

九州大学大学院 人文科学研究院 考古学研究室
ttp://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/kennkyusitukatudou.htm
佐賀県 東松浦郡呼子町 大友遺跡
ttp://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/ootomosite.htm

素人流儀の私
地名と民話の観点から松浦市が重要である。




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土井ヶ浜遺跡  124号人骨は英雄か? 術師(シャーマン) か? 

2016/09/19 14:02

『郷土資料事典 長崎県』 人文社 1998年
P124下 日本にもいたアマゾネス(女戦士)
  根獅子の竹久保箱式石棺墓は、弥生文化遺産として知られ、貝輪17個・骨銛2本・須恵式土器1個・人骨4体を出土しているが、なかでも話題をまいたのが女人骨である。
  というのも、頭のてっぺん近くに銅鏃片が射込まれていたからで、銅鏃は、その時代としては最先端をいく武器である。 兵隊たちが使っていたのは主として石鏃ということから、この女性は兵隊同士の戦いではなく、大将同士の射ち合いで命を落としたと思われ、したがって、この女性の軍隊における地位はかなり高かったのではないかと考えられるわけである。
  このことから、戦いに女同士が参加したと考えられるのは早計だが、戦いのシンボルとして、たとえば有名な卑弥呼のような、祭祀的首長であったのではないかということは十分考えられることである。
  また、鏃の突きささったのが胸や背中ではなく、頭のてっぺんであることも奇妙である。 これが何を意味するのかなどと考えながら、頭のなかで古代絵巻を想像するのも楽しい。



山口県 土井ヶ浜人類学ミュージアム
124号人骨は英雄か? 術師(シャーマン) か?
長崎県平戸市 根獅子の人骨と似て、頭に鉄鏃が射込まれている。

私見
記紀神話と照合させれば土井ヶ浜124号人骨は八俣大蛇か。 ミュージアム裏門を流れる川の名は沼川だから古事記 高志国の沼河比売の地か。

「術」 の本
『術の思想』 医・長生・呪・交霊・風水
三浦國雄 編 風響社 2013年


私見
倭人=西北九州型弥生人 説
弥生人 形質人類学による分類
北部九州・山口 ・・・ 中国 山東省の人骨に似る
西北九州 ・・・ 縄文人がそのまま弥生人になった
南九州・南西諸島 ・・・ ベトナム、カンボジアなどのインドシナ系?

北部九州・山口は中国人の顔だち
鹿児島県の南端は侏儒
縄文人は日本独特の人種である。

縄文人の容貌は日本独特である。
中国人が人種的に区別した「倭人」 は縄文人である。
中国の古い文献に登場する「倭」 は縄文系である長崎県の弥生人である。

「倭」 の位置=長崎県
倭は「縄文人がそのまま弥生人になった」 西北九州 弥生人であるため、基本的文化思考は縄文的である。 日ユ同祖論は間違いである。 巨大建造物をこれみよがしに造るシュメール文明に影響されてないため、倭人の遺跡はちょびちょびの物しか出ない。


松野連
”中国が提唱した日本誕生伝説” が『凄まじくダメな雰囲気』 を醸し出している模様。 年代的にも辻褄が合わない
ttp://u1sokuhou.ldblog.jp/archives/50487588.html
  ↓
コメント欄
15. 名無しさん
2016年09月20日 00:58
徐福がやって来たという話は全国にある、と言うだけでその痕跡もなく、史書を読めば誰でもそんな話をでっち上げられる話よりも、松野連が呉王夫差の末裔って話の方が、熊襲にはなまずを祀っていた宗教的共通性があるだけ、信憑性がある。

私見
松野連 ― 民進党 松野頼久 熊本県鹿本郡菊鹿村 (現・山鹿市)
『熊襲は列島を席巻していた』 内倉武久 著 ミネルヴァ書房 2013年
P271〜274

なまず ・・・ 東鯷人



土井ヶ浜弥生人の特徴
土井ヶ浜弥生人は土民との混血がない100%渡来系である。
長崎の「西北九州タイプ」 の弥生人骨が1体出土している。

吉野ヶ里遺跡も在来の人たちと混血してない。 ただし土井ヶ浜と吉野ヶ里では人骨が少し違う。

渡来は男だけでなく女も来て、土民の女との混血はない。

長崎大学 歯学部 真鍋義孝の研究
歯の形態学的特徴から、
北部九州弥生人の歯は黄河流域、朝鮮と類似する。
土井ヶ浜弥生人の歯はモンゴル、バイカルと類似する。
ただし満州民の歯とは異なる。 中国周辺(北部) の集団である。

私見 福岡市金隈の弥生人は漢人。 土井ヶ浜弥生人は鮮卑か。
秦の始皇帝も北方の匈奴、青い目の月氏の系統といわれる。

土井ヶ浜では子供は大事にされていた。熊本大学 木下尚子
しかしの子供の墓が2割程度しかなく高齢の人骨が多い。

私見では、土井ヶ浜遺跡の再葬墓・集骨墓は中国流の風水か。

土井ヶ浜遺跡は土坑墓、配石墓が多く、箱式石棺墓は少ない。
土井ヶ浜遺跡より川棚の中ノ浜遺跡の方がやや古い。中ノ浜遺跡には支石墓があり、箱式石棺が4割。

土井ヶ浜の貝輪は作り方が中国的であり、北部九州のものとは異なる。

土井ヶ浜遺跡の珍品としてシャコ貝製頸飾りがあり、南中国との密接な交流を物語る貴重な遺物で、国内には類例がない。

土井ヶ浜遺跡の東700 m に片瀬遺跡があり、土井ヶ浜遺跡と同時代の水田跡が発見された。 土井ヶ浜の生産域・居住域・墓域が揃った。

参考
日本人と弥生人 松下孝幸 著 祥伝社 平成6年
山口県の古代遺跡〔T〕 集落・墳墓編  古代遺跡教材化研究会 平成7年
土井ヶ浜シンポジウム 「響灘の弥生時代」
わがまち .サイト 〜豊北の遺跡最前線!〜 企画展 展示図録 2007年


持衰説
矢を浴びた英雄は持衰かシャーマン?
http://lunabura.exblog.jp/20387364/

持衰については
文庫風土記下432
逸文 日向国 吐濃峯


土井ヶ浜遺跡 124号人骨の再検討
私見 術師=徐福=八俣大蛇

中国人は食人種である。
渡来して土井ヶ浜に定住した徐福は原住民の若い娘を奪って食人する八俣大蛇だった。 中国人は人食い人種なので土井ヶ浜では子供を食べていた。 聖人孔子も赤ちゃんを食べていた。




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投馬国  熊本県 岱明町

2016/09/15 03:56

伊都国  佐世保市 相浦

投馬国
玉名市 岱明町 野口 字大原 大原箱式石棺群
http://flower-k.at.webry.info/201210/article_57.html

大原箱式石棺群
http://kofunoheya.blog.fc2.com/blog-entry-2811.html


柳川市から筑後川の川上り 10日
浮羽町あるいは夜須町で川舟を降りる。 陸行1か月で、邪馬台国に到着。

吾跡川楊
http://44051510.at.webry.info/201006/article_37.html


角川日本地名大辞典 長崎県
P1133左 松浦市 〔中世〕 宇野御厨
寛治3年(1089) に贄駈士の松永法師という者が、観世音寺領の筑前国上座郡杷岐庄内の畠地子等を贄人源順の先祖相伝の所領であるとして押妨する事件が起きている (東南院文書)。

  ↓
朝倉市ホームページ  杷木神籠石
ttp://www.city.asakura.lg.jp/www/contents/1297731982594/index.html




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徐福の薬草

2016/09/13 19:54

姫路などから竹取翁博物館に訪問者あり 邪馬台国や徐福に関心を示された 2014.4.14
http://blogs.yahoo.co.jp/koiiyk/31302118.html
  ↓
中国の古地図 日本国と倭が別に描かれている!

下関 遺跡
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/nagata_ishimidou.html


記紀によって偽書に追いやられた日本の超古代文書たち
http://lucky2zacky.jugem.jp/?eid=626

日本列島は龍である(その2)
http://lucky2zacky.jugem.jp/?cid=18


徐福が探した薬草は何か
強精剤 「海狗腎」 を手にして家康は天下取りに成功した
http://kenkoubook.seesaa.net/article/389166374.html

ネットで検索せよ。 【 徐福 明日葉 】

東京都八丈島の巻
ttp://touyoko-ensen.com/mini%E2%80%90info/cook/ht-txt/793urasi-2.html
当店のあしたば製品はこちらからどうぞ
ttp://www.asakusa-kagetudo.com/modules/pico/index.php?content_id=9

明日葉(あしたば) は東京都 八丈島の原産である。
文献では唐人が値嘉島に来て香薬を採集していた記述がある。

『長崎県の地名』 日本歴史地名大系 平凡社
値嘉島 
P677中 左端
唐人らはまずこの島に寄って香薬を多く採集し、海浜に多くみられる奇石を鍛練して銀を得たり、磨いて玉に似せるために唐人がその石を好んで取りに来ていたらしい (「三代実録」 貞観18年3月9日条)
  ↓
 私見
論衡など 倭人、鬯艸を貢す。 ※暢草とも記される。

徐福が薬草を得た場所は
平戸島の南部、宇久島、小値賀島、五島、佐世保市 相浦 であろう。


福草、三枝 さきくさ
福草部
文庫書紀B130-7 補注15-8 P368下
サキクサが何を指すか諸説(山百合・朱草・葛草・薺苨等) あって不明。

文庫書紀D193上 注20

万葉集9041895 三枝(さきくさ)

萬葉集索引 新 日本古典文学大系 別巻  岩波書店
枕詞索引 P516左 「さきくさの」

『万葉植物文化誌』 木下武司 著  帝京大学 薬学部教授
三枝はイカリソウであるとする。


私見
福草、山百合 説
山百合といえば、古事記の 
七媛女 高佐士野 伊須気余理比売 大久米命 黥ける利 佐韋
の箇所と繋がる。

ここにその伊須気余理比売の命の家は、狭井河の上にあり。 天皇、その伊須気余理比売のもとに幸行でまして、一宿御寝したまひき。
  ↓
雄略紀の童女君と似る出来事である。  文庫書紀B24-末行
登場人物の名に「目」 がつく。
春日和珥臣深
物部大連


学研 新漢和大字典 (普及版) 2013年
 ゴン
八卦、六十四卦の一つ。
うしとら、東北
解字 会字
「目+ヒ(小刀、ナイフ)」 で目のまわりにいつまでもとれない入れ墨をすること


水野杏紀 著
『東アジアの宇宙論 易、風水、暦、養生、処世』  講談社選書メチエ
によれば、「艮」 が表すものは
止、山、少男、狗、手、立春、八、
東北 万物の終りの成す所にして始めを成す所、循環の境界域

日本の古代史を徐福で解明するなら、徐福は方士だったので陰陽五行・風水を勉強しておく。


ユダヤ王国、ユリの花のコイン
http://www.parisii.jp/diary-detail/53


お薦めの本
ユダヤ、シュメール、騎馬民族に関する本
栗本慎一郎 著
『ゆがめられた地球文明の歴史』
『栗本慎一郎の全世界史』

徐福に関する本
いき一郎 著 『徐福集団渡来と古代日本』


雲に飛ぶ仙薬
万葉集847848
山の高い所、雲がかかる場所で得られる物か
雲飛山 訓み うねびやま のことか

竹取物語の考察 5
http://44051510.at.webry.info/201602/article_6.html




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古代史シンポジウム IN しものせき 2016

2016/09/11 01:57

武末純一  福岡大学
縄文人は基本的に溝を掘らないが、弥生人は盛んに溝を掘って自然と人間を区別する ・・・

私見
下関の遺跡に縄文時代の溝がある。
潮待貝塚 縄文中期〜後期
秋根遺跡の大溝(東西方向) 縄文〜弥生 場所 勝山支所

秋根遺跡の大溝は風水の朱雀であろう。
明堂 秋根遺跡
主山・玄武 石原の山か
艮(方位で東北) 青山
白虎 秋根神社の小丘
青龍 勝山中学の山
朱雀 秋根遺跡の大溝、砂子多川
案山 一の宮住吉の山


『勝山あれこれ』 郷土史本
P14
北田(きたんだ) の泉
秋根の北田という所に大旱魃でも涸れない泉があった。


M田竜彦  鳥取県埋蔵文化財センター
鳥取市 本高弓ノ木遺跡(4区)
有富川の西岸では、鳥取平野でも比較的早い時期に水稲耕作が開始されていると考えられる。

私見
「有富」 という地名 「ある」 の意味 
文庫書紀B131 注1
荒樔(あらす) は、産(あ)るの他動詞。 神の誕生の意


根獅子  平戸
【長崎】弥生時代の女性とみられる人骨見つかる…平戸・根獅子遺跡に「配石墓」
http://blog.livedoor.jp/waruneko00326-002/archives/48161731.html
【長崎】弥生時代の女性とみられる人骨見つかる…平戸・根獅子遺跡に「配石墓」
ameblo.jp/f4fhgww8/entry-12184038507.html

日本の人骨発見史3.根獅子遺跡(弥生時代):頭部に傷のある女性人骨
http://blog.goo.ne.jp/garfsn1958/e/975fd9d1a50fca280e90ee1b22a0594f

平戸島南部の原始古代
http://44051510.at.webry.info/201102/article_85.html
平湖島  平壺島
http://44051510.at.webry.info/201102/article_84.html




『豊浦町史』  昭和54年12月
P61-11行目  田島遺跡の発掘
完全に破壊された粘土ばかりのピットから米とが検出された。 土器に収蔵されていたと思うが破壊がひどく、その状況から明らかにすることができなかった。 破壊されたピット群の底部から得られた土器は弥生時代前期末か、せいぜい中期とみられる。 花崗岩が風化した層でできている田島台地には麦作が弥生前期末には行われていた。 稲作は周囲の無田の低湿地で行なわれていたとみるよりほかなかろう、といわれている。


『山口県地名考』(高橋文雄) 昭和53年
P128
佐波郡徳地町の「小古祖」 の記述で、「コソ」 は呉国王城の名か、とある。
麦の古語という説もある。

下関市吉永に小字「小祖」 がある。


弥生時代早期
私見
弥生時代の開始年代は徐福の渡来からである。 B.C.219 〜
下関市武久浜 半両銭が出土

「長門 赤関 徐福祠」 と書かれた中国の古地図がある。

『地図は語る モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮紀子 著
日本経済新聞出版社  2007年 2800円+税

口絵7 右端  徐福祠 長門 赤関  「広輪疆理図」
口絵8 右端  迎江 徐福相 長門  「東南海夷図・西南海夷図」
P69 図  「声教広被図」

P2
京都駅のすぐそば、龍谷大学大宮校の附属図書館に、二十世紀初頭より世界中の注目をあつめてきた一枚の地図が収蔵されている。 題して「混一疆理歴代国都之図」。

龍谷大学 日本史学専攻
ttp://www.let.ryukoku.ac.jp/faculty_info/country.html




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東夷 − 暘谷 音楽 皮服

2016/09/05 02:02

神武天皇は実在した
文庫書紀B202-4  継体紀
文庫書紀D102-12  天武紀

壬申の乱で「神日本磐余彦天皇の陵」 が出てくる。


膏腴
隋書俀国伝 土地は膏腴にして

文庫書紀B202-12 土地膏腴えて
文庫書紀B216-6 膏腴えたる雌雉田

常陸国風土記 総記 風土記357-4 物産の膏腴くになり


東夷
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku8/izenwa1.html

暘谷 ・・・ 隋書俀国伝 「日出ずる処の天子」
燕 ・・・ 土井ヶ浜弥生人か

暘谷を「東の果てにあって朝日が昇る地」 と見て、茨城県の鹿島神宮に比定する人もいる。
暘谷について書かれた本としては、
『「日本」 国はいつできたか 改訂版』 大和岩雄 著 大和書房  P87

蓋国
@考 土井ヶ浜の小字「釡蓋」(往古は「亀蓋」)
A考 蓋井島

東夷の音楽 弥生の土笛(陶塤)


[PDF] 資料
xufu.sakura.ne.jp/2015-7ronbun-maeda.pdf  の P8
志賀島出土の金印に根津日子命

陸国風土記 総記 風土記357-5 古の人、世の国と云へるは

万葉集で「常」 の字
 
3236 

1682 之倍尓 夏冬往哉  扇不放 山住人
  ↓
『尚書』 の 島夷、皮服す。

下関市豊田町の矢田遺跡(弥生前期 B.C.150年頃) から鞣(なめし)革用石器が出土している。
下関市 豊田町矢田は弥生前期では革の大産地だった。


本を購入
『倭人伝を徹底して読む』 古田武彦 著 ミネルヴァ書房
『邪馬一国への道票』 古田武彦 著 ミネルヴァ書房


長崎県か
古之  平戸島の南部
根獅子は慶長国絵図では禰子古村

古田(こた) 現 辻町、神船町、大佐志町、無代寺町
  ↓
万葉集の「古之」 こしの国

山海経 海外東経 の最初、長差丘は平戸島 南西部の佐志・志々伎か。
野子町の西側、高島の海岸で瑪瑙が拾える。
長差丘は佐世保だろうか。


越中国  佐世保市 相浦川
万葉集3881 大野路
この場所は佐世保市 大野町である。
松原町の淀姫神社(祭神 豊玉姫命) のヤモード神事は山人、山の神

万葉集3884 皮服 
        ↓
『尚書』 島夷、皮服す。

佐世保市 下本山町の四反田遺跡、門前遺跡は拠点集落だった。
万葉集の越中国は佐世保市相浦川流域である。

佐世保市の箱式石棺は下関市、宗像市と同じ。
長崎市、大村市の箱式石棺は短い。

台与が献上した大量の真珠は佐世保市 宮津町、大村湾、値賀島、五島の産であろう。


日向 高千穂
万葉集38813884 の「越中国歌四首」 は竺紫日向高千穂を想起させる。
佐世保市の箱式石棺墓は下関市、宗像市と形が同じ。

竺紫日向高千穂宮は佐世保市の相浦と考えられる。
大潟の高岳 ・・・ 竹嶋
高島町の宮ノ本遺跡 ・・・ 山幸彦が訪れた海神(豊玉彦) の宮
  ↓
北海道 有珠モシリ遺跡の貝輪

佐世保市 大潟 では水銀山があり、小字「水ノ浦」 は水江浦島子か。
平戸島の南端、小田町の船越に海亀信仰がある。

佐世保市には洞窟遺跡が25か所もある。

魏志倭人伝の伊都国は佐世保市 相浦川下流か。


(参照したサイト)
原始時代の佐世保人
http://www.lifesasebo.com/99view/supesyaru/special/142/special142.html
佐世保 高島 宮の本遺跡: 仮称リアス式
http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-f1a0.html

長崎県の遺跡大辞典
四反田遺跡
ttp://www.pref.nagasaki.jp/jiten/index.php/view/30

門前遺跡(もんぜんいせき) 佐世保市愛宕町・中里町
ttp://www.pref.nagasaki.jp/jiten/index.php/view/35

宮の本遺跡
ttp://www.pref.nagasaki.jp/jiten/index.php/view/29


相浦水銀
佐世保市 大潟町 相ノ浦水銀山についての記録は江戸時代 弘化3年(1846) からであり、それ以前の記録、言い伝えは佐世保にはない。

松浦市の不老山に徐福伝説があり相浦水銀の言い伝えがある。

松浦市 不老山の解説看板 より
紀元前3世紀 中国の秦の始皇帝の命を受け、徐福が不老不死の薬を求めて、この山に登ったという伝説があります。 しばらくここにとどまり不老不死の薬を探したことから、この山を不老山と言うようになりました。
日本ではただ1カ所 佐世保相浦白玉山で産出した自然水銀をもとに、この地で仙丹(不老不死の薬) を作ることに成功したので、それを中国に送り王侯・貴族の人々に珍重されたと言うことです。
はじめ、欽明天皇24年(563) 山頂に不老権現を祀りその後、大宝2年(702) 徐福の教えを修得した「役小角」(えんのおつの) が徐福をあとを慕って不老山に来ました。 山頂でシメを張り 紫燈護摩の法を修し、熊野権現を祀りました。 その時の座前石( 1 m ) と思われる石が伝わっています。
現在、里免にある寿昌寺は、はじめここに創建されたようです。

松浦市・松浦市教育委員会・松浦市観光協会


松浦市
今福町「中ノ瀬」 に渡来系の住居跡か

星鹿町 星の神 香香背男 文庫書紀@120-9、136-6
龍尾川という川の名は興味深い。 草薙剣は八岐大蛇の尾から出た。

松浦市の民話・伝説
http://44051510.at.webry.info/201102/article_38.html

鷹島  日本山 (75.4 m)




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隋書倭国伝  占筮、元日の射戯、双六

2016/08/26 17:13

隋書倭国伝
卜筮を知り、もっとも巫覡に信ず。
正月1日に至るごとに、必ず射戯・飲酒す。
その余の節はほぼ華と同じ。
棊博・握槊・樗蒲の戯を好む。


倭人は卜を知っているが巫覡をより好む。
卜は獣骨・鹿角・亀甲を火であぶる占い、筮は筮竹を使う占いである。
倭人には周易、漢易、易経の知識があった。

正月の弓行事 日本書紀
  文庫書紀C290-8 孝徳 大化3年 正月15日
  文庫書紀D120-9 天武 下 4年 正月17日

他に弓矢を使う行事として、奈良・平安時代、大晦日に方相氏の追儺があった。

隋書倭国伝の射戯は正月1日、つまり元日の行事である。

倭人の「節」行事はほぼ中国と同じとあるから中国暦が倭国に定着していた。


文庫書紀D258-7 持統3年12月8日 双六の禁止
注には「双六はから渡来した遊戯」 とあるが、
隋書倭国伝に「握槊」 があるので唐以前の隋の時代に倭国に双六があった。


長崎県松浦市 百手講(ももてこう) 1月8日
ttp://www.city-matsuura.jp/www/contents/1317081826214/index.html




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熊本大学 考古学

2016/08/04 19:12

熊本大学 考古学 杉井 健
対中国・朝鮮半島との交渉 中心的な港

前期前半 博多湾沿岸

前期後半〜中期前葉 津屋崎・宗像地域のテコ入れ、沖ノ島祭祀を主導
博多湾沿岸の地位低下は「寒冷化による砂丘形勢」 が原因とみる。


反論
原始古代の船は砂浜から船出していた。

『津屋崎町史 通史編』  平成11年
P227-末から3行目
古代における港湾施設は、現在のように岩礁性のところが好まれるのではなく、竜骨をもたない平底の船の時代は砂地の傾斜のゆるやかなところが適地であった。 砂地に直接船をのりあげ停泊し、干満の差を利用して出港するという手段がとられたものと考えられる。

原始古代の船は平底だったので砂浜に港があった。
博多湾沿岸に神功皇后が侵攻した新羅があった。
文庫書紀A170-4 早羅城は早良区

2015年5月
福岡県春日市 須玖タカウタ遺跡 多紐鏡の鋳型が出土

沖ノ島祭祀と関係する港湾遺跡は津屋崎の在自にある。

福岡市西区 宮浦の唐泊
こんな所が万葉集の場所であるはずがない。




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常陸国筑波山麓 安倍晴明の生誕地

2016/08/04 19:11

原始古代の中央政権は下関市有冨 字「中村畔」 にあった。
記紀・万葉の中心地は有冨の大年溜池、ハンドウ山の登り口あたりである。

吉備真備  Wikipedia 
母:楊貴氏、又は、倭海直男足の娘・髪長支姫
  ↓
向津具の楊貴妃伝説、あるいは綾羅木の小字「柳」

また、吉備真備は、陰陽道の聖典『金烏玉兎集』 を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。 金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」 を表す。 安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』 は晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。 伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた。 このときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』 を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』 であるという。

金烏 神武東征の金鵄
玉兎 兎=卯 で方位の東か


陰陽道の祖 吉備真備
ttp://ameblo.jp/yippee-happy/entry-12186695511.html

安倍晴明 生誕の地
ttp://blogs.yahoo.co.jp/srx_kitakan/5756290.html

明野町(あけのまち)  茨城県真壁郡 現 筑西市
こんな所に「安倍晴明 生誕の地」 があるはずがない。

常陸国風土記の筑波山は下関市有冨 竹生寺 である。
明野=万葉集の阿騎野 有冨 林さん宅の東側
島 「猫」=根 で「子」 は方位で北。 「子」 は「水」 の性質をもつ。
竹生寺の横にある妙見社から真南 大年池の西側、中村勝さん宅
(「ウオッちず」 を見る)


有冨 大年社
阿倍御主人 あべのみうし 「牛」 を祀る大年社がある中村勝さん宅
  ↓
地勢の風水検分で判定できる。

雄略紀 文庫書紀B32-5
阿閉臣国見、更の名は、磯特牛
神武東征の国見丘は有冨上の中村勝さん宅で、地勢は丘状だ。

天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも
この歌は有冨の大年溜池の横、中村勝さん宅からハンドウ山の上に出た月を詠んだものであろう。

2016年8月18日(木) 快晴 満月
19時07分 長府方向より、月の出
20時07分 場所 有冨 中野利通・中村勝さん宅の北側、道路
        石原の小原山の頂から満月が出る。

百人一首 安倍仲麻呂の歌
「天の原」 を地名とみる。

2016年8月20日(土) 快晴
21時15分 場所 川中公民館の南隣、小西循環器・内科医院の信号機
        火の見山の頂に月が出る。

百人一首 安倍仲麻呂の歌
出航時の歌。 安倍氏の家系は陰陽師。
「三笠山」 という名は円錐形だから伊倉の火の見山に注目
火の見山の西方向に構造船の祭祀土器が出土した要須遺跡がある。


文庫書紀@214-5 神武東征
已にして、弟猾大きに酒を設けて、皇師にす。
牛 ・・・ 有冨 大年池の西側 中村勝さん宅にある大年社は牛を祀る。
饗 ・・・ 「アヘ」 の音より阿閉臣

「猾」(うかし) の音は「穿」(うが) つ に通じる。 → 「穴」

顕宗紀3年 文庫書紀B128-12
阿閉臣事代 神託を解する者として陰陽師に通じる

兄猾 ・・・ 戊 (土の兄)
弟猾 ・・・ 己 (土の弟)

古事記 大年神の系譜
の神 「土」 の方位は中央
万葉集3344 大土  防人の妻の歌 → 阿閉臣事代の任那派遣 

御門家は安倍氏

五行の「土」



甘 ・・・ 可美真手命
中央

孝元天皇 大日本根子彦国 「牽」=牽



万葉集
3838
3839
安倍朝臣子祖父は
歌の牛から有冨の大年社付近に住んでいた。




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風水 陰陽道 易学

2016/07/31 07:51

ネットのサイト
古事記と易学
http://www.maroon.dti.ne.jp/uqmk/k_e/

中国の神話や文化を知っている人に合わせた書き方をしている、「日本書紀」
と中国神話の類似点とは
http://oryouridaisuki.at.webry.info/201608/article_11.html

現代風水ニュース
http://blog.gendaifusui.com

易占日々研鑽日誌
http://blog.livedoor.jp/shinji0436-anzenman/archives/327854.html

易占い?
http://blogs.yahoo.co.jp/omatsu123/37605336.html
人物・諸本講座 第一回 今東光 『今氏易學史』
http://blog.livedoor.jp/schlegeliia/archives/2065787.html

旧暦の仕組み
http://homepage2.nifty.com/o-tajima/rekidaso/calendar.htm
旧暦カレンダー Japanese Lunar Calendar
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoss/tuki/kyureki3.html


購入物 amazon
井上製作所 方位分度器
島川建築計画室 透明方位盤 (A4サイズ) ver.2
ウチダ 全円分度器 12センチ、15センチ

羅経盤(香港製) 9.5センチ、12層
筮竹 39センチ

コンパスグラス ・・・ アウトドアの必需品
ttp://compassglass.net/

『理科年表』 2016年版 国立天文台 編
『天文年鑑』 2016年版 誠文堂新光社



ネットで以下の本を新品・中古で購入した。

『日本人なら知っておきたい 陰陽道の知恵』 武光誠 著 KAWADE 夢新書
『増訂改訂版 陰陽五行』 稲田義行 著 日本実業出版社
『陰陽道の発見』 山下克明 著 NHKブックス
『日本陰陽道史話』 村山修一 著 平凡社ライブラリー
『陰陽道』 鈴木一馨 著 講談社選書メチエ
『陰陽道とは何か』 戸矢学 著 PHP新書
『図解 陰陽師』 高平鳴海 著 新紀元社
『陰陽道の本』 学研のムック本 1993年

『安倍能晴占術大全』 藤巻一保 著 学研

『日本史を学ぶための<古代の暦>入門』 細井浩志 著 吉川弘文館

『易経』 三浦國雄 著 角川ソフィア文庫
『増訂 易経』 三浦國雄 著 東洋書院
『易の話』 金谷治 著 講談社学術文庫
『易』 本田濟 著 朝日選書
『易占大全』 盧恆立・山道帰一・島内大乾 著 河出書房新社
『自分で答えをだしたい人の はじめての易占』 古藤友子 著 青土社

『実践 四柱推命』 盧恆立・山道帰一・島内大乾 著 太玄社 
『四柱推命大鑑』 御堂龍児 著 国書刊行会

『高島易断本暦』 平成28年版

『道教の歴史』 横手裕 著 山川出版社
『道教の世界』 菊地章太 著 講談社選書メチエ
『道教の本』 学研のムック本 1992年
『桃源郷』 川合康三 著 講談社選書メチエ
『崑崙山への昇仙』 曽布川寛 著 中公新書
『不老不死という欲望』 三浦國雄 著 人文書院
『中国神話』 中島みどり 訳注 東洋文庫 平凡社

『抱朴子 列仙伝 神仙伝 山海経』 平凡社 1973年 1987年 第12刷

『龍の住むランドスケープ』 中野美代子 著 福武書店
『ひょうたん漫遊録』 中野美代子 著 朝日選書
『仙界とポルノグラフィー』 中野美代子著 青土社
『中国の青い鳥』 中野美代子著 平凡社ライブラリー

『儒教・仏教・道教』 菊地章太 著 講談社選書メチエ
『儒教と中国』 渡邊義浩 著 講談社選書メチエ


私見
倭人の教養は陰陽五行、中国思想(三浦國雄、中野美代子) だった。

原始古代の中国思想、旧暦、陰陽論、干支方位占い等は江戸時代まで民衆レベルでの学・教養だった。 これに精通しておかなければ昔の人が書いたものは読めない。

場所の地勢・景観・山の形は風水で見る。
風水は特殊な知識なので風水の本を買って習得します。




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古代史 風水・五行

2016/07/08 10:03

陰宅風水
万葉集
160
燃火物 取而裹而 福路庭 入燈不言八面 智男雲
福路庭 ・・・ 洞天
八面 ・・・ 大八字・小八字、八角形

161
向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而
向南山 ・・・ 主山、父母山


amazon で検索 【 周易八面体サイコロ 】

数の神秘 「八」
ttp://samukawajinjya.jp/houi/houi07.html


陽宅風水
岩波文庫 『古語拾遺』
P32 造殿の斎部
P74上 天御量 ・・・ 風水尺(魯班尺・門公尺)

古語拾遺は陰陽道の書であり、天富命は下関市有冨の山に住む。
杣山から木材の伐り出し、棟上げなどは風水・陰陽道で日程を決める。
造殿は風水の魯班尺を用いる。


五行  垂仁記の戸、上の王
垂仁記 本牟智和気の御子 ・・・ 有冨の字「中村畔」 の人

鷺巣池は儀万池か。 儀万池からの方位は、
南 火の山展望台  「火」 の方位は真南
「未」 の方位は火ノ見山の西側 字「龍王田」(遺跡)、字「浅山」(朝山か)
「丑」 の方位に大年池横の大歳社(牛を祀る)

国土地理院 25.000分の1 地形図 磁針方位は西偏約7 °

那良戸 有冨の字「金鋳ヶ谷」 の遠山運送→吉本さん家→白銀荘
大坂戸 岩谷新宅の前の道 上ヶ原古墳・下有冨古墳(秋本さん墓地)
戸 「木」 の方位は東北東、東。 石原へ下がる。 季節は春(旧暦1月、2月)

上王の 「菟」=卯 と見て、卯の方位は東

曙立の王は陰陽五行の方士である。 曙立の王は超能力で木に留まった鳥を落とす仙人である。 夏至の日の出は有冨のハンドウ山 と 石原の小原山の間の鞍部から昇るので、ここの鞍部の住人か。

有冨自治会 道作り 2組
植松古墳→上ヶ原古墳→下有冨古墳 は風水の道作りなので湾曲する。
箸墓は下有冨古墳か。

肥長比売は蛇に化けた。
蛇は十二の方位で南南東だから門司区の伊川が出雲になるか。
伊川・猿喰の縄文土壙墓(黄泉の穴)、白山神社、企救(菊理姫) 

小学館 風土記 新編日本古典文学全集
常陸国風土記
P365-8行目 普都大神 伊川

本牟智和気の御子
下関市有冨 字「中村畔」 の倭から門司区伊川にあった出雲へ行った。
船を担いで逃げ帰った峠道は長府の逢坂である。




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綾羅木郷台地遺跡 (木舩地区)

2016/07/03 08:26

発掘調査 了元寺の場所 古墳時代 
土師器の甑(こしき) は雄略記 春日の袁杼比売が酒造りに使ったものである。

また天皇、丸邇の佐都紀の臣が女、袁杼比売を婚ひに、春日に幸行でましし時、媛女、道に逢ひて、すなはち幸行を見て、辺に逃げ隠りき。 かれ御歌よみしたまへる、その御歌、
嬢子の い隠る岡を
金鉏も 五百箇もがも。
鉏き撥ねるもの。
かれその岡に号づけて、金鉏の岡と謂ふ。

(角川ソフィア文庫 新訂 古事記 41版 平成13年 P181)

丸邇 字「丸ノ内」

袁杼
音が橘の小戸に同じ。「袁」(長い着物、遠) 「杼」 (機織のヒ、ドングリ)

岡 字「岡」 下関市立考古博物館の建物がある場所
隠る 弥生貯蔵穴の中に逃げ隠れる
金鉏 木舩地区の貯蔵穴から砥石が出土している


万葉集3168
衣袖之 真若之浦之 愛子地 間無無 吾恋
  ↓
金鉏とは似る。
真若之浦 字「若宮」
愛子地は綾羅木郷台地の珪砂である。

往昔、綾羅木の浜は「時浦」 と呼ばれた。

愛子地
1392
1393
2734 細砂裳

大埼
1023 字「大森ア」
3072

字「宝前」 は住吉である。


綾羅木郷の了元寺から出土した古墳時代の甑(こしき) は古事記の袁杼比売が雄略天皇に酒を献上した時に使ったものである。

春日は東だから以前は有冨の東にあるサンヨー跡下 甑土器の出土地か
と考えていた。

三重の伊勢の国の婇が雄略天皇に酒を持ってきた話がある。 三重県の伊勢市から雄略天皇の宮まで険しい山道を通って酒を持ち運んでくるは実行不可能である。 記紀・万葉の舞台は下関市綾羅木川の北側である。




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竹生山は鳳凰の形だ

2016/07/02 05:08

竹生寺は蒲生野山田にあるが住所は有冨である。
竹生寺の真南に有冨村の庄屋だった儀万さんの家がある。
古くは石原、延行は有冨村に入っていた。

竹生山の形
梶栗側から見たら双峰山である。
県道長安線の有冨交差点から見たら鳳凰の山である。

参照
『定本 地理風水大全』 御堂龍児 著 1997年 国書刊行会
P40 【鳳凰の山】
鳳が羽を広げて、今まさに飛び立たんとする鳳凰の姿に似ている。
これを 「飛鳳冲天形」 という。


専徳寺
立地が韓国の独立記念館がある場所と似ており、風水の大明堂である。

大年池の横 中村勝さん宅から西の田 迫本の田 庚申塔のT字路まで低い丘が続く。 専徳寺の地勢は寺の裏が高くて南に傾斜し、また西側に傾斜するので土地の水はけがよい。 寺の前面は谷に突き出ており、風水の「穴」「明堂」 に立地する。 「穴」 の形状は大乳穴である。
寺の方位はやや「未」 で、竹生寺− 専徳寺−下有冨石棺(秋本さん墓)

案山 仁馬山古墳
朝山 火の見山

羅盤の縫針で偏角 7.5度 か? ※ 正確に測定したものでない。
竹生寺−専徳寺−下有冨石棺(秋本家の墓)−「弓削畳麿」 の木簡出土地
専徳寺の山門の方位 も同じ。

有冨の墓地
有冨墓地(大迫池) 艮(うしとら) の方角で鬼門  昔、墓地の上は火葬場
河内實さん宅 東側の墓地 坤(ひつじさる) の方角 裏鬼門

河内實さん宅 東側の墓地は有冨でも古い家の墓地であり、儀万、中村本家の墓がある。 儀万さんの墓は何十年か前に大迫池上の墓地に移した。

河内實さん宅 東側の墓地の真東に儀万の家がある。
西 ・・・死滅の方位
東 ・・・ 誕生の方位
であるから、「誕生の場所」 は有冨古墳の北側を登った所と推理できる。 昔、稲荷社があったという。

有冨古墳  纏向
『風水の本』 学研のムック本 1998年
P62 中
砂は、ほかに 「砂城」 とも、「幕」 とも、「」(てん) ともいう。 穴を取り巻くところから 「幕」 といい、穴に纏わりつく姿なので 「」 というのである。

「後方に気を託し送れる山があり、傍らに護り纏いつく山がある。 託が多く、護が多ければ、その龍神はたいへん貴い」 (『博山篇』)


『古代遺跡謎解きの旅』 松本司 著 小学館 1999年
P38-13行目
例えば、初期ヤマト王権発祥の地と考えられる向遺跡の「纏」 は、気が集中する大龍穴を取り巻く丘を意味する風水用語「」(てん) だと考えられる。

纏向は下関市有冨 字「中村畔」 の青龍にある有冨古墳の場所である。

P64 中・下
青龍は男児、白虎は女をつかさどる。
纏向(=青龍砂) 日代宮 景行天皇の男児は日本武尊である。

纏向の「纏」 は青龍、「向」 は坐向法である。

「纏向」 は風水地名である。 日本武尊は青龍の男児である。
古代史の解明では風水・易は必修である。


綾羅木郷
夏至の日の出、冬至の日の入り ・・・ 祭事あり
綾羅木郷 字「中屋敷」 祭祀遺跡−了元寺−有冨 専徳寺−儀万さん宅
−石原の小原山・有冨 ハンドウ山の鞍部(凹部)  が一直線上に並ぶ。

有冨の人の話によれば、江戸時代はお寺の宗門改で住民を管理していた。 寺がある集落は古い歴史があり統治する上で重要な所だった。 綾羅木川北側の集落には寺がある。 対して綾羅木川南側の綾羅木本町、伊倉、川中豊町、稗田、熊野には寺がない。 寺の有無から見て、綾羅木川流域で歴史的に重要な地域は有冨など川の北側である。

了元寺の立地は地勢が高くなっている場所であり、また土質が珪砂なので水はけがよい。 綾羅木は水不足の土地だったが、了元寺の西側には溜池があって耕作地の水やりができる。 川沿いは海水が入るので飲料水に困る。 北側の地勢が高い所は「上座」 にあたるので村の有力者や本家が住んでいたと想定できる。

風水 若宮古墳の場所は龍脈の末端なので凶の地だ。
風水の観点から綾羅木郷遺跡には住居跡がないと考えられる。
  ↓
弥生時代前期に綾羅木郷では風水判断があった。


種子島の広田遺跡
貝札の 「山」(サン) は風水、墓の意
いや、
占術の五術に照らして
「山」(サン) は仙道修行による霊験
風水は「相」(ソウ) に属すか。

張明澄  Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%98%8E%E6%BE%84
  ↓
五術の「相」「山」 について記述あり。


卑弥呼の鬼道
「鬼」 を中国流に死霊の意と解して「鬼道」 は祖先崇拝の術。
いや、
「鬼」 とは幽霊の意だろう。
鬼道は神功皇后の神託である。
文庫書紀A130-8〜(仲哀紀)、A138-2(神功紀)

安本美典は卑弥呼=天照大神 説であるが、鬼道の「鬼」 を中国流に幽霊と解するなら鬼道は神功皇后の神託である。 卑弥呼=神功皇后 である。




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大穴牟遅神は龍穴にいた

2016/06/28 22:41

『古代遺跡謎解きの旅』 松本司 著 小学館 1999年
著者はストーンサークルや三内丸山遺跡の巨大木柱も風水で方位測定する装置と見ている。 ならば妻木晩田遺跡、吉野ヶ里遺跡、唐古・鍵の楼観も風水を測る建物かもしれない。

同 P20-3行目 土圭法
私見では糸島の平原遺跡にあった大柱は土圭法である。

文献史学の学者 森田悌は日本には祖霊信仰はなかったと言っている。 
墓地風水は祖霊信仰である。 私は記紀・万葉は風水で表現されていると思う。

穴門、穴戸の「穴」 とは風水の穴(ケツ) である。

大穴牟遅神の「大穴」 も風水の龍穴で、女性の性器にあたる場所にちなむ。
大穴牟遅神=大物主神 で、箸墓など女の陰部に関係する話となる。

『風水思想と東アジア』 渡邊欣雄 著 人文書院 1990年
P28-10行目
「穴」 にはがとぐろを巻いて滞在するごとく、「生気」 が貯えられる
  ↓
龍=蛇 と見て大物主神

倭の龍穴は勾(まがり) にあり、勾は墓地風水の地だった。
下関市有冨上 字「中村畔」 では大年池の手前に「曲がり」 がある。
この場所は女の股の恥丘である。

穴穂部皇子の「穴穂」 も風水の龍脈に関係する場所か。

貴命 ・・・ 「己」 は方位の中央


2016年6月21日は夏至で、朝日を拝む時である。
有冨上 西の田 迫本さん田の前、T字路の庚申塔−青山崩れの五輪塔
の場所に立つとハンドウ山の山頂から朝日が昇る(朝6時15分)。

有冨村の庄屋は字「中村畔」 の儀万さんだった。
以前、白井さん宅の前に蓮根の小沼があった。
この蓮根を作っていた小沼が倭京の朱雀池だ。
林さんは「奈良県の明日香村は有冨上にそっくり」 と語る。

吉見の船越にも儀満という家がある。
夏至の朝、船越の儀満さん・中川さん宅から見て竜王山の山頂に朝日が昇る。 故 中川陽さんの「陽」 は中川さん宅から見て、夏至の朝に竜王山の山頂から出る朝日である。 中川さん宅 旧牛小屋前の「清水川」 と称する湧水池は貴い。

考古学では方位は条里制の「山当て」 しかない。
私見では古代人は風水で動いていた。

火の山の「火」 は関門海峡の烽火によるとされてきた。 「火」 は風水では南であり、有冨上 西の田 迫本さん田の庚申塔の位置から火の山は南にある。 もしかしてこの庚申塔は猿田彦の天八衢か。 庚申塔の近くに五輪塔があるので聖地だ。 また風水では道や川筋の直線は凶である。 道、川が曲がっているのが吉。 この付近で道路、用水路が曲がってる景観が見られる。

形山の青山は、「青」 は東で、東に川が配置されている。
有冨の遠山運送から見て東にある山なので青山だ。
伊倉の火の見山、一の宮本町の龍王山は有冨上から見たら眺めがよい。
風水では孤立峰は凶。 有冨上は山が連なり「龍脈」 の吉地だ。


万葉集
42934294 山人 ・・・ 葛城山の仙人。 葛城山は大迫池の上
山田史麻呂の「土」 は方位の「土」 で中央

158
「儀」 は儀万さん
「白」 は白井さんの持ち山にある石組みの湧水

159
神岳からハンドウ山の登り口あたり

161
向南山は墓地風水の地、または玄武の山

万葉集 見津 山跡
文庫書紀@292-10 崇神紀10年
(おほぞら) をみて、御諸山に登ります。
「虚」 は霊魂が抜けた死体で墓地風水の地。また神霊が下る丘
墓地風水の場所の下に住む人は「虚蝉」「空蝉」
「践」 は穴門の践立 「山田」
三諸山は山が連なる場所でハンドウ山
奈良県の三輪山は弧峰である。 「三諸」 という山々が連なる表記にあわない。




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沖森卓也 佐藤信 矢嶋泉 編 『新校 古事記』 (株)おうふう

2016/06/24 12:18

沖森卓也 佐藤信 矢嶋泉 編 『新校 古事記』 (株)おうふう
2015年11月25日 初版  2500円+税

P122  仁徳天皇の皇后 石之日売命の歌
つぎねふや 山代河を 河上り 我が上れば 河のに 生ひ立てる 草樹を 草樹の木 其の下に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其の花の 照り坐し 其の葉の 広り坐すは 大王ろかも (57)

つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家の辺り (58)

この歌は諸本によって表記や注が異なり、古事記の論点である。
岩波文庫 古事記  五百箇真椿
「五百箇」 という表記は仁徳紀の「八十葉の木」 と合致させるためだろう。

角川ソフィア文庫 新版古事記
河のに  「河の上」 でなく「河の辺」
ゆつ真椿 「ゆつ」「ま」 は美称
他の本の注では「ゆつ」 は美称でなく、「斎つ」 で神聖な意味。


誤記
最新の「校本」 と銘打った本で誤記を発見しました!

草樹」 となっているが「草樹」 の誤記だ。
「鳥」 トリ (×) → 「烏」 カラス (○)

角川ソフィア文庫 新版古事記 でも誤記誤植を発見した。
P178
此の天皇の御世に、大后石之売命の御名代と為て、葛城部を定め、
巻末の本文 石之売命


私見
山代河は木津川とされる。 川幅の広い大きな川である。
この歌を直に読めば山代河は川幅2メートル前後の小川だ。

大阪湾沿岸から奈良県葛城まで河上りで行けば 1か月以上かかろう。
歌にある「河上の烏草樹、其の下の椿」 の場所を 淀川−木津川 の広大な流域からピンポイントで特定するのは無理である。 大きな河川である木津川では場所の焦点が定まらないのでこの歌は木津川沿いではない。

山代河は下関市有冨下の新興住宅地〜白銀荘(有冨182-1 番地)
あたりの水路である。

白銀荘から有冨のゴミ収集所にかけて曲がった急坂 ・・・ 和珥坂か
和珥の表記に邇・がある。 丸、円、弧を描くように登る急坂だ。
和珥氏は朱の生産をしていた説がある。 石原158番地の坂かも。


「河上」、「其の下」 の解釈
烏草樹は高さ1〜3メートル
椿は高さ3〜7メートル

@考 小字
の烏草樹  字「上ヶ田」
其のの斎つ真椿 字「下岡」

A考 地形
石原コスパのホームワイド裏 高層マンション付近の地形
または
石原コスパの商業施設 社員駐車場 の西側奥 水路の地形である。

小丘の上部に烏草樹が生え、小丘の下部に椿が生えていた。
「斎つ」 より朱の精製跡、赤土(埴土) の土地。

「斎つ真椿」 の解釈
考古学 「塚の原遺跡」 朱の精製跡、鉄鏃の鍛冶跡

日本書紀 仁徳紀 に照らして場所を特定すれば
文庫書紀A252-4
歌中の「河隈」 は河の曲り角
Yahoo! 地図 で下関市有冨 178-7、178-8 番地か。
仁徳紀の歌からピンポイントで場所を特定できた。


日本書紀 山背
文庫書紀A46-10  垂仁紀
34年の春3月の乙丑の朔丙寅(2日) に、天皇、山背に幸す。
時に左右奏して言さく、「此の国に佳人有り。 戸辺と曰す。 姿形美麗し。 山背大国の不遅の女なり」 とまうす。 天皇、茲に、矛を執りて祈ひて曰はく、「必ず其の佳人に遇はば、道路に瑞見えよ」 とのたまふ。 行宮に至ります比に、大亀、河の中より出づ。 天皇、矛を挙げて亀を刺したまふ。 忽にと化為りぬ。 左右に謂りて曰はく、「此の物に因りて推るに、必ず験有らむか」 とのたまふ。 仍りて戸辺を喚して、後宮に納る。 磐衝別命を生む。 是三尾君の始祖なり。 是より先に、山背の苅幡戸辺を娶したまふ。


古事記では、山代の大国のが女、苅羽田刀弁

場所
商業施設 石原コスパ 丸和の裏の川土手 字「伊勢防」
ホームワイド前の道路 古代 遺跡 石敷きの道 の出土

山代の大国の淵=伊勢の宮  字「伊勢防」
私見では景行天皇の纏向宮は有冨古墳あたりにあった。


山口
那良の山口  仁徳記 石之日売命 山代
大坂の山口  履中記 墨江の中つ王
山の口に坐す皇祖神等  古事記 祝詞 日本古典文学大系 P399

古事記関連で「山口」 という地名は3か所出てくる。
万葉集では山口女王がいる。

那良の山口
有冨 県道長安線の道路下、吉本さん宅。 崖下、急坂あり
または
字「中村畔」 儀万さん、平田さん宅
那良・奈良は字「金鋳ヶ谷」  遠山運送の裏畑〜大賀さん宅

大坂の山口
下関工業高校・園芸センターあたりか

山の口に坐す皇祖神等
有冨の儀万さん、中野さん、中村本家さん旧宅(空地) あたり。
「山の口」 の山はハンドウ山。




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風水 条坊制

2016/06/22 20:19

『風水 気の景観地理学』 渡邊欣雄 著 人文書院 1994年
P24-末行
風水の大原則でいくと、気の流れが穏やかな曲線を描くような道のつけかたのほうがいいんです。 気の流れが直進してしまう碁盤目状の区画は、人にをもたらす煞(殺)気が強く作用してしまいますから、風水上は良くないんです。


私見
倭国は風水を基に設計されていたのなら条坊制はありえない。
直線の道や川は凶である。
道の十字路・三叉路は凶である。

風水では条坊制は凶である。
風水では道が村を横断するのは凶である。

奈良市の平城京、京都市の平安京は碁盤目状の条坊制である。
条坊制は本来の風水ではない。

風水では条坊制は危険である。 平安京は東寺・西寺、羅城門などを設けることで風水上の防護策を講じたとされる。

下関の綾羅木川流域には条坊制はない。
長門国豊浦郡〜大津郡油谷・日置 には古代の官道が通ってなかった。
条坊制、官道は風水では凶である。

風水図は女の性器である。 女のアソコには碁盤目や直線道はない。
大学の文学部は女子学生ばかりなので、教授が黒板に「女の穴」 を描くことはためらわれる。

穴門、穴戸の意味は「女の穴」 でした。




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糸島 平原遺跡の「大柱」 風水の土圭法

2016/06/22 15:47

『図説 風水学』 − 中国4000年の知恵を探る
目ア茂和 著 東京書籍 1998年
P.47
風水の歴史
風水の起源や源流は、紀元前10世紀以前の殷・周時代の「卜宅」 にある。 卜宅は、占いによって宅地や村落の吉凶を判断する方法で、これによって建設の地点や範囲の選定および建設開始の日時の決定を行う。 この迷信の「卜宅」 とともに、この時代には「土圭(どけい)法」「土宜(どぎ)法」 など、「上は天文を極め、下は地理を察する」方法がすでに使用されていた。 この土圭法は、土地に柱を立て、太陽の影を観察し、土地を推し量り、方位を測定する方法である。

  ↓
『伊都国を掘る』 柳田康雄 著 大和書房 2000年
P.162
日向峠と 「大柱」

私見
福岡県糸島市有田 平原遺跡の「大柱」 は風水の土圭法である。
弥生時代後期の糸島には中国伝来の風水があった。


『図説 風水学』
P.156-12行目
国際的に日本の存在が記された最初の書である『魏志倭人伝』 には、邪馬台国の卑弥呼が「鬼道を事(つか)え、人心を惑わす」 とある。 魏の時代の鬼道とは、万神の祭壇の八方に設けられた鬼神死者の霊魂など) の通り道であり、また呪術的な宗教などを指すといわれる。 鬼道は風水の方位説の一つである「鬼門」 とも関連する術なのかもしれない。 鬼道が呪術であったかシャーマニズムであったか不明だが、卑弥呼は邪馬台国を治めるために、何らかの風水の要素を駆使していたと考えられる。

  ↓
卑弥呼の「鬼道」 とは風水だった。

漢和辞典で「鬼」 の中国的意味を調べると墓地風水に通じる。


文献 (記紀、中国正史など)
考古学 (発掘されたモノ)
 +
風水 (見落とされてきた観察)




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種子島 広田遺跡 貝札の「山」 の字

2016/06/16 03:30

『日本語の誕生』 沖森卓也 著 吉川弘文館 2003年
種子島の広田遺跡から出土した貝札の「山」 の字について触れていない。


『日本の古代遺跡 38 鹿児島』 保育社 昭和63年
表紙は種子島 広田遺跡の貝札
口絵 P14
P207
出土した貝札の文様
饕餮文 とうてつもん
爬虫文
虺竜文 きりゅうもん

P209-1行目
貝輪腕輪には中国西周の銅器にある虺竜文の系統を引く文様をもつものがある。

陶塤は中国では紀元前2000年頃のものである。 紀元前後の日本の弥生時代とは約2000年もの時代差があるので、中国の土笛と日本の土笛は別物だとみて、下関市立考古博物館では中国流に「陶塤」 といわず「弥生の土笛」 と呼んでいる。

陶塤も広田遺跡 貝札の文様も殷周時代のものである。
(論点)
両者に接点はあるか。
殷・周と倭は渡来や交流があったか。

『風水講義』 三浦國雄 著 文春新書
「山」 とは風水である。 P.16  
韓国では墓は山の中腹や小高い丘にあって墓を「山所」 という。 P.224
風水の起源 P.219


広田遺跡 貝札の文様は崑崙山のようでもあるし、風水における龍脈の生気や穴を表現している。 崑崙山は三層からなる。 → 前方後円墳の三段築に通じるか。

西の崑崙山(西王母)、東の蓬莱山(卑弥呼)

卑弥呼の「道」 は道教といわれているが、さらに風水も考えられる。 広田遺跡の貝札の「山」 が意味するものは風水である。

鬼道とは何か
中国語 「鬼」 の意味
死者、幽霊。 祖先の霊 → 墓地風水

学研 新漢和大字典
「鬼」 の解字
塊 丸いかたまり
魁 大きい丸い頭
回 まるい
と同系のことば。
  ↓
前方後墳のデザインは漢字「鬼」 の解字による。
漢字「鬼」 からの発想だから、定番で語られる天円地方墳とは異なり私のオリジナルな思いつきである。


江田船山古墳太刀銘、稲荷山古墳鉄剣銘の字は下手である。
種子島 広田遺跡 貝札の「山」 は書道の達人である。

『魏志倭人伝 他』 石原道博 編訳 岩波文庫 1951年
P18-12行目
これらは周代の倭人にかんする知見とはかんがえられぬから、まず西暦紀元前後に、中国人の倭にかんするほぼたしかな記事があらわれたとみるべきだろう。

種子島 広田遺跡出土の貝札の文様は周代の文様である。
『山海経』 の話は西周時代であり、私見では「海外東経」 は倭人にかんする知見である。




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風水 綾羅木川流域

2016/06/06 19:48

伊倉
の見山 (日見山) 「火」 は南を表す。
の山 も有冨上から見て南の方角にある。
山の「馬」 は方位で南。 有冨上から見て南にある。

南北線  火の見山の山頂 ― 仁馬山古墳 ― 王子権現山古墳

字「大西」  東は誕生、西は死滅。 有冨の字「大西」 には墓地がある。
伊倉の字「大西」 も古墳時代の埋葬地。

字「龍王田」
字「浅山」  朝山か
字「亀甲」  亀甲墓から「亀甲」 とは女陰。


一の宮本町
一の宮本町の龍王山は石原コスパ ホームワイド裏の岡に立つマンション駐車場から見たら、霊鷲山をバックに神南備型の円錐形をした山容である。 一の宮本町の龍王山は独峰であり、山々が連なる形ではないので龍脈は弱い。

部分的であるが、
長門国 一の宮 住吉神社 の立地・設計は風水に基づく。
住吉神社は北側に山があり、南側に池があるので風水設計の立地である。
西側に傾斜する場所に位置する。
境内の水流 「せせらぎ」 は南東の双水井から来て曲がりくねりながら神池にはいる。 水法は逆水であるが巽水(そんすい) で朝水である。


『図説 風水学』 目ア茂和著 P174-10行目
  日本の神社や寺院がほとんど南面し、入口近くのに池を持つのは、四神や朱雀としての池や川の風水の継承ともいえよう。

安岡八幡宮も南面し、南側に川が流れる。
しかし、
安岡の迫山、伊倉の火ノ見山、一の宮本町の龍王山は独峰であり、山々の連なりたる「龍脈」 がないので、鳥瞰的に見て風水パワーの地ではない。


火の山 の名称は烽火によるとされてきたが住吉神社の南にある山である。
方位で「火」 は南を表す。

栗本慎一郎が唱える「聖方位」(真北から20度西に傾く) に竹生寺の奥の院である経筒が埋められた場所がくる。
住吉神社 真西から20度南の線は稗田地蔵堂遺跡あたりを通る。

住吉神社  真東 忌宮神社

住吉神社  真東から30度北 勝谷神社
住吉神社  真西から30度北 川北神社

直線上に並ぶ
鋤先山竹生寺一の宮本町の龍王山 − 住吉神社あたり

吉見の竜王山住吉神社の本殿 を結ぶ直線 も重要である。

下関の旧市域に「龍王山」 は3つある。
吉見の竜王山 − 有冨の龍王山(ハンドウ山) − 一の宮本町の龍王山
は龍脈の基軸線か。

蒲生野山田の王子権現山古墳は風水の案山に築造されている。

安徳天皇西市御陵墓 は風水の立地

風水の太祖山  木屋川の最上流に位置する天井ヶ岳、一位ヶ岳
  ↓
龍脈は綾羅木川に至る。


栗本慎一郎は中東〜キルギスの遺跡を実地見聞して「聖方位」 を発見した。
しかし下関市綾羅木川流域では若宮古墳が向く方位など「聖方位」 (南がやや西にずれる) ものが多い。 これは沖縄の風水式家屋に通じる。 沖縄の風水式家屋では南・西など正方位はよくないとされ、南をすこし西にずらす。

『風水 気の景観地理学』 渡邊欣雄 著 人文書院 1994年
という本は沖縄、台湾、福建省の風水を研究対象としている。
私はこの本を読んで倭王は有冨 字「中村畔」 にいたことを確信できた。
(根拠)
たとえば、P.155-14行 図28
自分の屋敷の後ろに家が二軒あると自分の家は栄えるという。
有冨の庄屋は字「中村畔」 の儀万さんの家で、後ろに岩谷さん、中野さん、中村本家さんの旧宅跡(空地) がある。 中野さんは今の5代前に中村本家さんから分家した。 だから大昔は儀万さんの家の後ろには岩谷さんと中村本家さんの旧宅(今は空地) の2軒があった。 庄屋の儀万さんの家は屋敷風水の吉地である。

竹生寺は玄武。 竹生寺から真南の線上に
竹生寺 − 庄屋 儀万さん家 − 石原156 − 遺跡 掘立柱建物跡

古事記 仁徳記 石之日売 の歌謡
  山代河  白銀荘アパート近くの水路
  那良の山口  吉本さん家 急坂あり
  奴理能美  高層マンション 朝鮮系無文土器
  斎つ真椿  石原156番地 朱の精製
  石原コスパの西側 遺跡 掘立柱建物跡  相楽館
(参照) 塚の原遺跡 発掘調査報告書

 
種子島の広田遺跡 貝製品 「山」 ・・・ 「山」 は風水のこと
穴門・穴戸の「穴」 ・・・ 「穴」 は女陰で風水の吉地
関門海峡 ・・・ 風水の渡水峡(崩洪脈)

『風水講義』 三浦國雄 著 文春新書 2006年 P.127-1行目
風水では独峰はよくないとされ、横に広がりながら起伏に富む山を良しとする。
 



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雄略紀 瑞江浦嶋子

2016/05/31 21:16

雄略紀 文庫書紀B84-5
注二 大亀の古訓はカハカメ。カハカメはスッポンのこと。

雄略天皇の時代の話とされる。

雄略紀の末尾、吉備臣尾代 ― 征新羅将軍
娑婆水門
船人
歌謡 阿母(母) 阿毎(天か) 国
阿毎(天) ・・・綾羅木川の右岸(北側)
国 ・・・ 土井ヶ浜 字「国重」「国方」、掛淵川流域 字「国常」「国実」「国広」

丹波国の浦掛水門
長門市油谷 河原浦

瑞江浦嶋子も雄略紀の丹波国なので油谷町の人か。

山海経 海外東経 雨師妾 に亀がでてくる。
油谷町・日置町の境の雨乞岳に縄文遺跡があり、蔵小田には太古から人が住んでいた。


道=吉備=娑婆=船人

土井ヶ浜の岡林と対馬の金田城は緯度が同じで、真西・真東の位置関係にある。
豊臣秀吉の朝鮮出兵で毛利軍は肥中湊から渡海した。

角川 新字源 改訂版 で【娑】 (シャ)を引いて
熟語「婆娑」 (ハサ) 衣をひるがえしてまうさま

蝦夷は海岸で踊っていた。 娑婆は踊りの場所である。

山口県神社誌 昭和47年版
P176中
宇賀八幡宮
神事芸能
白穂祭 (9月29日) 八朔に因み末社菅原神社の例祭日花笠を冠り鶏の羽の腰輪をつけ踊る。

鯖釣山の北側、宇賀八幡宮に踊りの神事が伝わる。

吉備太宰石川王
鯖釣山の城主は石川氏で、その末裔は湯玉で庄屋を務めていた。


「船人」 は航海をする海人か。


万葉集
万葉集1740
山口県風土誌は吉母−蓋井島の海底にある千畳敷の岩礁を古事記の「海坂」 とみる。 海坂=海界。
海若の「若」 は下関市豊浦町 涌田後地 を示すか。 古くは「若海」 と呼ばれていたようだ。

下関市豊浦町の 涌田後地・吉永 には新羅系の航海民がいた。

杜屋神社の社伝  亀甲に乗った三穂津姫
http://44051510.at.webry.info/201509/article_3.html


万葉集295  麻呂 江 笶松原  
笶松原」 は黒井の字「木ノ村」 で、下関ゴルフ倶楽部の松林
臣の「角」 は出雲国風土記の八束水臣津野命に通じるか。

江浦嶋子の「水」 は八束臣津野命を連想させる。

藤原鎌足 室津 豊浦宮
http://44051510.at.webry.info/201507/article_12.html
新羅系 涌田後地の心光寺古墳群 2号墳から6世紀代の新羅系陶質土器
新羅といえば天の日矛−多遅摩毛理。 吉永に田島寺・住吉神社がある。

遣新羅使
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E6%96%B0%E7%BE%85%E4%BD%BF
秦間満 遣新羅使 天平8年

臣 遣新羅使
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%8A%AA%E7%89%9B%E9%A3%BC
麻呂
万葉集292295


逸文 風土記
丹後国
常世嶋 男嶋女嶋 ・・・ 下関市豊浦町 厚島
凡海 ・・・長門国豊浦団 五十長 凡海部 我妹

志摩国 吉津島 ・・・ 吉母の黒嶋

吉母の黒嶋に行基の伝説がある。  郷土史本 『汀の里』 P9
奈良時代、行基菩薩が聖武天皇の勅命を受けておとずれ、この地の風光と地形に霊を感じ、自ら十一面観音像を刻みまつられた

吉永の田島は田庭で丹波である。
海部氏の場所は京都府 丹後半島の籠神社ではなく下関市の涌田後地である。

室津下 阿弥陀院の山号「蓬莱山」


雄略紀の末尾 征新羅将軍 吉備臣尾代 娑婆 船人
「船人」 を航海民とみれば、下関市豊浦町の 室津下・黒井・涌田後地・吉永
が浦島太郎の場所だ。

涌田後地 心光寺古墳の被葬者は吉備臣尾代である。
文庫書紀B90-8 歌謡
に闘ふや 尾代の子 母にこそ 聞えずあらめ 国には 聞えてな
  ↓
「道」 を涌田後地の小字「道祖」 とみて、娑婆水門の場所は小字「道祖」 付近である。


逸文 丹後国
凡海=長門国豊浦団 五十長 凡海部 我妹

海部氏は下関市豊浦町 涌田後地 の航海民である。
向津具も重要な場所であり、海部氏は向津具が本拠地も考えられる。




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風水の本を買う

2016/05/28 10:57

考古学には風水はない。文献史学、上代国文学も風水を軽視している。
風水は「市民の歴史」(アマチュアの歴史発見) にもってこい!

文献史学の学者 森田悌は日本の古代には祖霊信仰はなかったと言っているが、風水は祖霊信仰そのものだろう。


ネットで風水の入門書・概論書を新品、中古本で購入した。
以下の本はすべて所有している。


『風水 気の景観地理学』 渡邊欣雄 著 人文書院 1994年
『風水思想と東アジア』 渡邊欣雄 著 人文書院 1990年 1994年6刷

『気の中国文化 氣功・養生・風水・易』 三浦國雄 著 創元社 1994年
『術の思想 ─ 医・長生・呪・交霊・風水』 三浦國雄 編 風響社 2013年
『風水 中国人のトポス』 三浦國雄 著 平凡社ライブラリー 1995年
『風水講義』 三浦國雄 著 文春新書 2006年
P.16 「山」 ・・・ 種子島の広田遺跡 貝製品 「山」

『韓国の風水師たち』 野崎充彦 著 人文書院 1994年
『風水ウォーキング 古代遺跡 謎解きの旅』 松本司 著 小学館 1999年

『風水と天皇陵』 来村多加史 著 講談社現代新書 2004年
著者は中国考古学の専攻で、関西大学大学院博士課程を修了

『龍の住むランドスケープ』 中野美代子 著 福武書店 1991年
『奇景の図像学』 中野美代子 著 角川春樹事務所 1996年 

『地理風水−聖なる大地の霊力』 御堂龍児 著 光人社 1995年
『開運風水学』 御堂龍児 著 ごま書房 2005年

『定本 地理風水大全』 御堂龍児 著 国書刊行会 1997年
P.40 【鳳凰の山】 写真は下関市有冨から見る竹生山に似る。
P.68-末行 易経の理論を学んだ上で風水を会得する

『風水の本』 学研のムック本 1998年 1999年 第2刷
口絵 中国陜西省 風水の「吉地」 である仙遊寺の景観は下関市有冨に似る。
P.69-末 荒俣宏の五行理論は杜撰である。

『風水がわかる本』 学研のムック本 2012年

『風水先生』 荒俣宏 著 集英社文庫 1994年 2014年 第16刷

『風水パワースポット紀行』 山道帰一 著 メディア総合研究所 2010年
『完全定本【実践】地理風水大全』 山道帰一 著 河出書房新社 2016年7月


『図説 風水学』 目崎茂和 著 東京書籍 1998年
『古事記の法則』 目崎茂和 著 東京書籍 2010年

『神道と風水』 戸矢学 著 河出書房新社 2013年
『郭璞 「風水」の誕生 』 戸矢学 著 河出書房新社 2015年12月

『風水という名の環境学』 上田信 著 農村漁村文化協会 2007年
著者は立教大学文学部教授

『風水でつくられた 日本列島の秘密』 田口真堂 著 河出夢新書 2002年
『決定版 極意 風水盤占い』 田口真堂 著 二見書房 2012年

『易、風水、暦、養生、処世』 水野杏紀 著 講談社選書メチエ 2016年


『風水師が食い尽くす中国共産党』 富坂聰 著 角川新書 2016年6月



日本書紀 本文神話を愉しむ
http://ncode.syosetu.com/n1251cc/
淮南子
http://ncode.syosetu.com/n1251cc/1/

淮南子 天文訓 も必読だろう。
山田史三の「方」 は方士か、縄で四方を囲む、にちなむか。
方士=風水の術使い である。

『新釈漢文大系 淮南子 上 中 下』 楠山春樹 著 明治書院 
昭和54年 平成14年 第16版




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風水 本を読む

2016/05/28 10:55

文具屋で透明ビニール、布、合成皮革の「本カバー」 を売っている。
本の表紙をはずし、文具屋で売られている「本カバー」 をつけて読めば華やいだ感じになり、読もう! という気が湧いてくる。

ネットで買った中古本が臭いので商業モールで香水を買ってきた。 6000円のものがセールで2000円だった。 本に直接香水を吹きつけると本が変色するだろうから工夫がいる。

スラスラ読める新聞・週刊誌・雑誌の文章とちがい、風水の概論書は一日20ページ読むのが限界で、新書・文庫でも読み終えるのに10日ぐらいかかる。
読むのに修行者のような根気がいる。 毎日5時間も取りくんで読める分量はわずか20ページ。 1冊読み終えるのに10日かかる。

風水の本は観念的で馴染めない漢語ばかり。 「読み物」 の本でも入門者は字面を見たら拒絶反応が起きて読みづらい。 でも3回めからラクに読めだす。

毎日5、6時間かけて20ページ読む。
読めるページ数は7時間で30ページが限度。
本を3回読んで次の本に移る。 1か月に読める本の数は3冊だ。
1か月に3冊、3か月で10冊、6か月で20冊読もう。

入門者は約1か月半で5冊ほど、しんどい思いで読み通せば6冊目から割とラクに読めるようになる。

入門者は学研のムック本を使うのがよい。
『風水の本』(1999年)、『風水がわかる本』(2012年) は漢字にルビがふられて高校参考書のようである。 中学生、高校生が「暗記科目」 を勉強するように、紙に単語を書いて、書いて、書いて、また書いて風水の漢字用語を覚えていく。

私の場合は目的が風水術を修得するためではなく、邪馬台国たる「倭」 の位置を発見するために風水に関する本を読むわけだから、多くの本を手元に揃える必要がある。


江戸時代まで日本人は陰陽五行で生活していた。 半年間は "古えの常識" である陰陽五行を覚える。その後で古文を読むべきである。

文献史学の学術研究者は陰陽五行は勉強しても風水は勉強してなかったように思える。





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漢字「畔」  熟語 【譲畔而耕】

2016/05/25 20:55

下関市で小字「中村」 は永田郷、吉見下、安岡、蒲生野、内日下にある。
有冨は字「中村」 で「畔」 (読みは「グロ」) の字がつく。 「畔」 は河畔、湖畔もあるが、田の区画の畔だろう。 有冨の小字「中村」 は穴門の山田邑、大田だ。

「畔」 の読みは「グロ」 なので「クロ」 から「黒」 に転じるか?
黒田、高市黒人など。


学研 新漢和大字典 普及版 藤堂明保・加納喜光 編 2013年第4刷
  P.1176
【 譲(讓) 畔 而耕 】
あぜをゆずり(ゆづり) てたがやす
農民同士が、田畑の境界のを、自分のものと主張せずに、相手に譲り合って耕作すること。 人々が無欲で平和に暮らしているさま。
周の文王の感化により、周の国内では、「耕者皆譲畔、民俗皆譲長=耕すもの皆畔を譲り、民の俗皆長に譲る」 というさまであったという。〔史記・周〕
  ↓
先代旧事本紀の冒頭  神代本紀
日天狭霧国日国狭霧尊

『先代旧事本紀 現代語訳』 【安本美典 監修】【志村裕子 訳】 批評社
P.50-3行目 誤字を発見
天つ祖 天譲日天狭霧国日国狭霧の尊  譲(×)→禅(○)

「国日」 は国の祭祀か、それとも出雲の国譲りのことか。

漢字「畔」 の故事・熟語から「譲」 を導ける。 「天日」 の「譲」 の意味は「天をお譲りになる」 という意味ではなく聖徳太子の憲法十七条に通じる人のである。

聖徳太子の憲法十七条は【 譲而耕 】 の故事・熟語に基づくものである
という新説を私は出す。

有冨 字「中村」 は高天原で開闢の地である。
下関市有冨の「2組」、有冨の自治会長をしている中野さん宅の回りが皇祖神の場所である。 有冨の農家の人たちは争わず、和をもって貴しとなす。


山海経 海外東経
君子国 其の人 譲るを好みて争はず。
当初私は 君子国=天日天狭霧国禅日国狭霧尊 と考えた。

静岡県の富士山は海上からよく目立ち特徴ある山である。
山海経 海外東経 に富士山の記述はない。




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倭辺に 風吹き上げて 雲離れ

2016/05/25 01:58

有冨大年池の手前の空地(中村本家さんの旧宅跡) が倭である。
この場所から真西に富任町1丁目の海岸(安岡海水浴場 字「西浜」 ) がある。

仁徳記 吉備の黒日売
大浦 ・・・ 安岡の大浦
黒日売の「黒」 ・・・ 吉母の黒嶋にちなむ
淡道島 ・・・ 蓋井島

倭方に 西吹き上げて 雲離れ そき居りとも 吾忘れめや
  ↓
安岡海水浴場の小字「西浜」「吹上」

小字「吹上」 はJR 綾羅木駅 付近にもある。
歌が地名を踏まえて詠まれているなら綾羅木川下流も候補地になる。


水江の浦の嶼子、水江の浦嶋の子
逸文 丹後の国 筒川の嶼子 ・・・ 冨任の小字「古江」「古能地
能地 ・・・ 国語辞書で、海人の部落または漁夫 ― 白水郎
常世 ・・・ 吉母浜 または土井ヶ浜・油谷湾

辺に 風吹き上げて 雲離れ 退きをりともよ 我を忘らすな

京都府 丹後半島の話なのに(ヤマト、大和) が歌われている。
籠神社の近くに地名「難波野」 があるので、水江の浦の嶼子は難波付近の住人である。
難波はJR安岡駅あたりか。

安岡の売言葉
http://44051510.at.webry.info/201008/article_88.html

梶栗川の河口と有冨の字「中村畔」 は真西・真東の位置関係にある。
有冨の字「中村畔」 から梶栗浜遺跡は真西の方角。

風水 西は死滅、東は誕生の地とされる。

梶栗から竹生山は双峰に見え、風水から鞍部を見る角度が重要な方位となる。
竹生山から梶栗浜遺跡は冬至の日没の方角。


長門国豊浦団 五十長 凡海部 我妹
豊浦団  Wikipedia
天平10年(738年)
周防国正税帳に、「長門国豊浦団五十長凡海部我妹」 なる人物がみえる。
五十長は50人で構成される部隊「隊」 の隊長「隊正」 の別名である。


景行紀 周芳の娑
神功紀 筑紫の橿日宮 県主の祖 内避高国避高松屋種

応神紀3年11月 文庫書記A194-7
阿曇連の祖 大浜宿禰 「さばめく」 佐麼阿摩

JR 安岡駅の海岸 字「大浜」
垢田の明見田 字「大浜」

推古紀 土師連猪手 文庫書紀C94-3  来目皇子 周芳の娑に殯す。
皇極紀 土師娑婆猪手  文庫書紀C206-5、208-8
正倉院 大宝2年 戸籍 筑前国 嶋郡 川辺里 肥君猪手
万葉集2496 肥人

周防、サバ の場所はJR 安岡駅あたりか。

雄略紀の末、吉備臣尾代 娑婆水門


倭の五王と天皇陵
『あかる姫物語』  伊藤昭男 著 文芸社 2001年
P4
数年前、2人の友人と国立歴史民俗博物館に行ったときのことが思い出されます。 あの日は「銅鐸特別展」 が開催されていて、私たちは、「卑彌呼の鏡」 と説明書きされた三角縁神獣鏡を見ていました。

S教授が近づいてきます。 友人の口からいきなり質問が飛び出します。
「先生、これが卑彌呼の鏡なんですか」
「いや、これは複製ですよ」
「そうではなくて、この "景初三年銘" の鏡が卑彌呼の鏡と決まったのですか」
「そういうわけではありません。 ただそのようにいわれている、という意味ですよ」
「ならばそのように書かなければおかしいではありませんか」
「だから "卑彌呼の鏡" の文字を括弧 (「 」) で囲んであるのですよ」
私たちは唖然としました。 古代史学の世界にはそのような「暗号」 があったのか ・・・・・・。

「先生、日本中の古墳を発掘すればもっと歴史の真実がわかるのではありませんか」
「ほとんどの古墳は江戸時代に掘られていますよ」
「それでも箸墓古墳とか、いろいろ発掘すれば面白いと思いますが」
「ほとんどの古墳は宮内庁の管轄で、発掘許可は出ませんよ」
「しかし、先生のような有名な学者さんがみんな揃って政府に要求すれば実現するのではないでしょうか」
「そんなことをしたら、いろいろなものが出てきて日本の歴史が混乱してしまうから駄目です。 学問も何もなくなってしまいます」


教授の言葉に、3人は同時に虚脱感を襲われ、鉛のように重くなった足を引きずって博物館を出てきたのでした。



天皇陵の発掘が許可されないのは日本の歴史が混乱して考古学も文献史学も今まで言ってきたことがパーになるから。
本当の天皇陵は下関市有冨の山際と綾羅木の海岸にある。
水江の浦の嶼子は富任町3丁目の人である。

難波宮は安岡駅前にあったか。
小字「神田古宮」 が墨江か。 筒川=筒男

日本書紀 神武天皇 文庫書紀@242-末行
日本は浦の国 ・・・ 安岡


新宿教室 | 朝日カルチャーセンター
有富先生の古事記 講座
ttps://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/5180b502-5044-9649-fab4-5621e9049612

下関市 有任 の「冨」 の字は かんむり でなく かんむり であり、
これは古事記の「冨」 表記と同じ。

地名表記が古式の字体「冨」、真西・真東の位置関係
 ・・・ 倭
任 ・・・ 難波




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風水の道ウォーク  有冨上

2016/05/24 19:36

下関市立考古博物館 史跡の道ウォーク
とは別に 「風水の道ウォーク」 を始めたい。

倭国は下関市有冨 字「中村畔」 にあった。
有冨村の庄屋は儀万という家だった。 古くは石原、延行は有冨村の内だった。
文部科学省が仁馬山古墳 木棺の発掘調査を許可しないのは "倭の所在地" にあるため。

地域の風水を調べれば掘らずとも高みから考察できる。


綾羅木川流域の風水地名として伊倉の火ノ見山 ・・・ 神奈備山の佇まい
角川 新字源 改訂版 巻末付録 P.1294
時刻 方位・五行・四季・色の関係 二十八宿
「火」 は南
中心に「黄 土 中」
「黄」 は黄帝、黄龍
「土」 は赤土だろう。 山田史麻呂 万葉集42934294 山人

万葉集
岸の黄土
1002
932
1146
1148

常陸国風土記 久慈郡
谷会山 岸壁は、形磐石の如く、色にして陔を穿てり。
大伴村の崖 土の色はなり

「中」 は中臣で、中村本家さんの先祖か。 中村本家さんの旧宅は1960年頃までハンドウ山登り口前の空地にあったので、ハンドウ山の登り口前に風水の基点がある。 この場所は辻(交差点、天八衢) であり、道の勾(まがり、視覚的な赤土が匂う所) であり、石上振宮へ上がる時に潔身をする遠つ飛鳥である。

(論拠)
竹生寺縁起は山口県風土誌では牽強付会の偽物とされているが、常陸国風土記の筑波山の記述は下関市有冨の竹生山である。
竹生寺は蒲生野山田にあるが住所は有冨なので、竹生寺は有冨と関係深い。 竹生寺に妙見社があり北極星で北だ。 竹生寺は風水図の玄武である。 竹生寺から真南の線上に倭国の都(宮処) がある。 ハンドウ山の登り口付近、儀万さんの家あたり。

火ノ見山を南方に見る視点の場所
  白井さん家前から信号機までの道は火ノ見山の山頂を指す。
  重岡さん家前の道は火ノ見山の山頂を指す。

伊倉の火ノ見山という山名は有冨の白井さん家前の道を通っていた古(いにしえ) の人が名づけたものである。

字「金鋳ヶ谷」 万葉集989
重岡 万葉集990

奈良市にあった平城京は人口が20万人超だったとされる。
しかし万葉集の都の景色は森が深そうで縄文的な幽谷である。
有冨の平井さん家付近を平台というので、私は以前は倭国の平城京は字「谷町」 である林さん家裏の竹林だと考えていた。 近頃は平城京の「平」 は平田だと思う。 倭国の平城京は大賀さん家横の平田さん畑にあった。 根拠は畑の奥に大溝が掘られて環濠ぽいものがあり地勢が「土居」「堀内」 である。
有冨 字「金鋳ヶ谷」 の平田さん畑にあった平城京の人口は家が1軒、2軒で住人は2、3人だった。


武士の土居は小楯だ。 仁徳記 石の比売 の歌は
山代  アパート白銀荘の谷
那良  字「金鋳ヶ谷」
小楯  大賀さん家横の平田さん畑 地勢が土居、堀内
  ハンドウ山登り口、中村本家さん旧宅の空地

筒木の意味は丸太と聞いたことがある。
塚の原遺跡 朝鮮系無文土器の出土地に奴理能美の朝鮮山城があって丸太を落とす防御施設があった。

都、都城はなく宮処があっただけ。

有冨 字「中村畔」 から見て
形山の青山 「青」 は東。
万葉集の木国 「木」 は方位で東だから木国は長府か。
下関の郷土史家 前田博司さんは長府の風水図は琵琶湖の近江大津宮と似てるという。

万葉集54 調首淡海

亦打山 ・・・ 長府の逢坂峠 覚苑寺の裏山の花崗岩

紀湯 ・・・ 楠乃 字「湯出」 に温泉伝説あり


綾羅木郷遺跡 字「中屋敷」 石松さん宅 中世祭祀跡の考察
風水の方位では冬至の日没位置が重要。 この場所を冬至の日没に見える場所は有冨のハンドウ山である。 さらに推理すれば鞍部である大迫池の上に卑弥呼の宮処があった。 この付近の尾根が葛城の高宮、石上振宮の場所で仙境。

有冨の儀という家。 「万」 は天万尊で万葉集の万である。
顕宗紀 文庫書紀B112-3 歌謡 市辺宮 天万国万押磐尊

有冨の山村さん  続日本紀B369-8
薬師寺の僧華達は、俗名山村臣伎波都なり。
有冨の薬師堂跡は山村さんの家の近く、山村さんの田畑の北隣にある。
薬王寺とも書かれる。


着眼点
綾羅木川流域の風水地名 伊倉のノ見山
「火」 は方位で南を表す。
有冨の白井さん家前 火ノ見山の山頂に向かって道が伸びる。
火ノ見山という地名の視点は有冨の白井さん家前の道。




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長差丘  上和白の小字「左山」

2016/05/19 12:57

山海経 海外東経
長差丘 (嗟丘)
長差丘(サキュウ) は二神山とも呼ばれる立花山である。
立花山が峰2つの山に見える位置は新宮町の大森である。

山の上に「立花山樟原原始林」 がある。

小字を調べると上和白の字「左山」(ヤマ) が長差丘(サキュウ)、嗟丘である。
字「左山」 の場所は国道3号線 平山信号機の西側である。

上和白の小字「左山」 の場所を知るとき、参照したサイト
和白村の歴史
http://gfujino1.exblog.jp/9024084/

立花山 ・・・ 航海の目印となる山
福岡市東区 唐ノ原、上和白  「原」 はハルと読む。
新宮町

元寇時、元軍は壱岐から志賀島に上陸した。


福岡市東区 上和白の小字 左山 読み 「ヤマ」
この場所が山海経 海外東経 の最初、長丘(サキュウ) または丘である。

漢和辞典で「差」 を調べる。
差=ふぞろい。 立花山の形だ。

「差」 という字の中に「左」 がある。
長差=長+差、嗟=口+差

他に
莚内 字「左谷」(サヤ)
立花 字「左屋」「左屋ノ下」
下和白 字「唐ノ尾」

上和白の小字「左山」(ヤマ) は山海経 海外東経 の最初、長差丘または嗟丘の "地名" で決まり。


次の大人国は福津市・宗像市の海人族。




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風水の都 下関市有冨 字「中村畔」

2016/05/18 00:30

古代国家の形成
書店・図書館に数多ある古代史愛好家、歴史作家の本は
 秦の徐福の東渡、呉の孫権の遠征軍
 東海の三神山(蓬莱、方丈、瀛州)
 旧唐書の倭国・日本伝
を考察するものが多く、学者(文献、考古) が書く論文とは異なる。

孫権 Wikipeia
  230年(黄龍2年) - 将軍の衛温・諸葛直らに兵1万を率いさせ、夷州および亶州(台湾、沖縄、もしくは日本という説が存在) の探索を行わせる。
亶州には辿り着けず、夷州の数千人を得るだけで、派遣した兵の大部分を失う。
翌年、探索失敗により衛温・諸葛直らを処刑する。

  ↓
呉の鏡
熊本県 人吉盆地 免田町  才園古墳 鍍金鏡
兵庫県 宝塚市  安倉高塚古墳 画文帯神獣鏡(赤烏七年)

山梨県 市川三郷町  鳥居原狐塚古墳 赤烏元年銘鏡
https://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/401_500/0419.html

呉の大兵力が来襲して定着 → 武器が多い近畿政権の誕生 説あり
神武天皇は呉から来た → 九州南部「日向」 → 近畿政権

漢書 地理志
燕地 倭人  土井ヶ浜弥生人は燕系で沖縄へ航海
呉地 東鯷人  近畿・東海の銅鐸圏

南九州の呉地
 人吉盆地の鍍金鏡
 串間市の璧

土井ヶ浜シンポジウム
東海地域など 本州の弥生人骨の歯は中国の江南に近似する。

栗本慎一郎の古代史、世界史
騎馬民族の2都論、聖方位など興味深い。


私見
集英社 山海経 海外東経
長差丘(サキュウ)  福岡県新宮町 夜臼 立花山のクスノキ原始林
大人国  宗像海人族 福津市・宗像市

この距離間隔で行けば、青丘国は下関市の綾羅木川である。

青丘国 =倭国、邪馬台国
九尾の狐 魏志倭人伝の卑弥呼
王寿 1001歳だから不老長寿

久米歌の鯨  記紀の神武東征
常陸国風土記 久慈郡
逸文 常陸国 久慈理岳
  ↓
常陸国=大倭国
場所は下関市有冨 字「中村畔」 ・・・ 倭国の首都
(根拠) 山紫水明で山の形、川の流れに特徴あり。
有冨の庄屋だった儀万という家の真北に竹生寺があり、玄武である。
風水による首都の設計が見られる。

  ネットで中古本を購入
『風水ウォーキング 古代遺跡 謎解きの旅』  松本司 著
小学館 1999年

『風水講義』 三浦國雄 著 文春新書 2006年


少なからずの弥生遺跡が風水に基づくものであろうことは誰でも思いつきそうなことである。 当時の日本列島で漢字が読める人はいなかったのなら風水に基づく遺跡はありえない。

小字「中村」 は永田郷、吉見下、安岡、蒲生野、内日下にある。
有冨は字「中村」 で「畔」 (読みは「グロ」) の字がつく。 「畔」 は河畔、湖畔もあるが、田の区画の畔だろう。 有冨の小字「中村畔」 は穴門の山田邑、大田だ。

種子島南部 広田遺跡 貝製品に「山」 の字
漢字を知らない人が書く字は下手い。 広田遺跡の「山」 は漢字の書を読む書道家の字である。 広田遺跡の「山」 の場所は有冨の大迫池の上である。 有冨墓地にコンクリの屋根がある墓(大隅さん家の墓) があり、そこは「山門開き」 と呼ばれていた所で、ここから登る山道があったという。




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沖森卓也  吉川弘文館

2016/05/17 01:54

『日本語の誕生』 古代の文字と表記  沖森卓也 著
吉川弘文館 2003年  1,700円+税

沖森卓也の本を読むのは必修である。
日本の原始古代史に関心がある人はこの本を買って熟読玩味したい。
自分独自の古代史眼を開く人はこの本を咀嚼した上で内容中身を具体的に批判していくべきである。


『日本古代の文字と表記』 沖森卓也著 吉川弘文館 2009年
オンデマンド版 12,000円  中古本 7,000円 〜


沖森卓也
http://www.chokanji.com/magazine/interview/16/2.html


『原文 万葉集』(上)(下) 岩波文庫
ルビが付いているので自己流で読んで "暗号解読" していく。
自分なりに万葉集の漢字原文を "暗号解読" で読み込んでいれば、表記の研究をしている沖森卓也の専門書に興味が持てる。


『初期万葉論』 『後期万葉論』 白川静 著 中公文庫
漢字の学者として著名な白川静の万葉論。

沖森卓也の専門書 『日本古代の文字と表記』
巻末の索引に 白川静 はない。


私見
神功紀 文庫書紀A150-9
遂に其の国の中に入りまして、重宝の府庫を封め、図籍文書を収む。
神功紀だから応神記にある和邇吉師が論語十巻、千字文一巻を貢進より古い。
神功皇后が新羅で押収した図籍文書は吏読、俗漢文の表記だったか。


『後期万葉論』 白川静 著  中公文庫
P98   国語の表記
吏読史料の最古のものは、真興王29(568)年の「巡狩碑文」、真平王13(591)年の「慶州南山新城碑」 であることから、半島における国語表記の方法はそのころすでに成立していたとみてよい。 わが国の欽明から用明のころである。

仲哀記 新羅征討
すなはち墨江の大神の荒御魂を、国守ります神と祭り鎮めて還り渡りたまひき。
  ↓
新羅国に住吉神社がある。 博多の住吉神社か糸島の住吉神社であろう。
神功皇后が征伐した新羅は『伊都国を掘る』(柳田康雄著) の糸島だった。


『万葉集ハンドブック』 多田一臣 編  三省堂 1999年 2011年 第4刷
P138下  万葉集の表記と文字
はやく高木一之助 「人麻呂歌集の用字法と人麻呂的なものとの関連について」 (『国語と国文学』27-5) が 『柿本人麻呂歌集』 略体歌の 「恋死恋死耶」(11・2370) などの表記について、たとえば「古非之奈婆 古非毛之禰等也」 と記したのでは、ことばの正確な記録となりえても表現のもつ激しさが表現されないことに言及しているのは、表記意識を視野に入れている点でまさに表記論と呼べるものである。

『万葉集を学ぶ人のために』 中西進 編 世界思想社 1992年1月
P143末  言語と表現
北島 たとえば音仮名の場合で「孤悲」 なんていうのもそうでしょうね。 本当に恋らしい意味が出ている。

万葉集は表記の芸が細かいが、沖森卓也著 『日本語の誕生』 は万葉集の気の利いた漢字の使い方について触れていない。 文芸は意味内容やストーリーよりもまず文体表現力が重要である。 万葉集の文体表現力は漢字原文で読んでこそ味わえる。

西暦700年前後に政権が下関市 有冨 から奈良県に移ったので、
地名を好字二字にしてごまかした。

沖森卓也著 『日本語の誕生』 の内容は、埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘 「獲加多支歯」 表記で始まり、平仮名 「わかたける」 表記で終わる。 表記の「古式」 は言霊を表すので漢字の使用に際して字の成り立ちである甲骨文字を知る "教養" がなければ文や歌謡を書けない。 沖森卓也の分析は文法学であり、言霊の文体表現力を扱ってない盲点がある。

仮名は空体語である。 でも「イタイイタイ病」 という言い方は無教養な大衆の言葉であるが恐い響きがある。


沖森卓也の歴史認識は正統派・正調派である。 私は記紀・万葉は下関市有冨にあった倭国の書とみているので、沖森卓也の本とは考えがまるで異なる。

文献史学でも考古学でもない第三の証明方法、それは風水だ。
下関市伊倉の火ノ見山は吉野の象の中山に似て、まさに絵に描いたような風水の山である。
  ↓
南方は ・赤・夏
ノ見山、の山 の「火」 は方位のを表す。
どこを視点として南なのか ― 有冨上、儀万さんの家付近

火ノ見山は「日ノ見山」「日見山」 とも書かれる。
通説では、関門海峡の 火の山 は烽火に由来するといわれる。


続日本紀@131-12
方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮を作し、亀筮並に従ふ。都邑を建つべし。




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上宮聖徳法王帝説

2016/05/15 03:15

『上宮聖徳法王帝説』 東野治之 校注  岩波文庫 2013年
むつかしい本に見えるのは人名と物品の名、つまり固有名詞が厳つい字で表記されてるからである。
蛍光ペンで単語に色塗れば、とっつきにくさが消え、内容に入り込める。

注釈があって漢字にルビがつくので、学力関係ナシで読める。

岩波文庫 日本書紀 の訓読文を読んでる人は薄い文庫本なので5時間で読める。
昼3時から読み始めれば夜9時には読み終える。
しかし内容が濃いので、私は腰を据えてじっくり3、4日かけて読んだ。

上宮聖徳法王帝説は文献の学者や歴史作家がよく引用するので必読である。


『上宮聖徳法王帝説 注釈と研究』  吉川弘文館 2005年
沖森卓也、佐藤信、矢嶋泉 著

沖森卓也は上宮聖徳法王帝説の表記に対して疑問を持っており、慎重な扱いが必要だとする。




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綾羅木郷遺跡 字「中屋敷」

2016/05/14 18:41

「宝前」 (ホウゼン) を国語辞典で引けば「神仏の御前、広前」 とある。
綾羅木郷の字「宝前」 の神仏は何か不明である。

字「宝前」 の北隣の小字は「中屋敷」
字「中屋敷」 中世・近世の祭祀跡

有冨のハンドウ山 山頂  中世の祭祀跡
  ↓
専徳寺
  ↓
了元寺
  ↓
綾羅木郷 字「中屋敷」 の石松さん宅 中世の祭祀跡

有冨ハンドウ山の山頂 真西より30度南、冬至の夕日が沈む方角に
専徳寺、了元寺、綾羅木郷の石松さん宅 が一直線上に並ぶ。

石松さん宅から夏至に朝日が昇る方角は有冨のハンドウ山 山頂
である。

鎌倉時代以降の中世であるが、冬至の夕日、夏至の朝日 の方角から
有冨 ハンドウ山の山頂祭祀遺跡と綾羅木郷 字「中屋敷」 祭祀遺跡は関係する。

私は有冨のハンドウ山を、綾羅木郷 字「中屋敷」 を日下(くさか) と見る。
日臣(道臣) はハンドウ山の登り道である。
青雲の白肩津は綾羅木郷の字「宝前」。 ここが楯津で登美の那賀須泥毘古
がいた場所だから字「屋敷」 なのだろう。

以上は正確に測量したわけではない。
風水都市の山梨県甲府市と下関市有冨は地勢が似ており、甲府を参考にして
綾羅木川流域のパワースポットを推理
すれば、
有冨墓地の東上〜大迫池の上が祭祀の上で重大な神殿があった所と考えられる。 ハンドウ山の頂から200〜300 m 北に位置する場所だ。 この場所を私は ハンドウ山の「奥の院」 と呼ぶ。


山口県立図書館内の 文書館
地下上申絵図 有冨村地下図
ふせぎが谷 ・・・ 薬師池の上  四神相応の玄武か
大谷 ・・・ 有冨墓地  逸文 常陸国 大谷の村  
かく石峠 ・・・ 有冨墓地の東  

小学館 風土記  新編日本古典文学全集 5
P460
大谷の村 
(常陸国記に云ふ)
大谷の村の大きなるを採りて、本つ材は鼓を造り末つ材は瑟 −俗人、比佐頭と云ふ。− を造る。
(と云へり)
   ↓
神武天皇 文庫書紀@242-8
其地を号けて、上小野の原・下小野の原と曰ふ。
用て皇祖天神を祭りたまふ。


皇祖天神には榛がある。


かく石峠
天の迦久の神、香具山、かぐや姫


有冨墓地の東上、大迫池の上を大迫山と呼ぶことにすれば、
卑弥呼の宮は大迫山にある。




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有冨下

2016/05/14 16:12

有冨上  県道 長安線 の北側をいう 
有冨下  同  道の南側 

長安線 (県道247号) は大正12年にできた道である。


平成25年4月 下関市立考古博物館 第1回 考古よもやま話
配布資料 『下関の遺跡 アフター → ビフォー』
塚の原遺跡  ホームワイドの上 西側の丘
流木 万葉集1385 弓削河原の埋木
石敷の道路 万葉集423 石村の道

万葉集420 題詞 丹生王

『塚の原遺跡』 発掘調査報告書
2003年 P18 L字状石杵 朱の精製 ・・・ 丹生
2007年 P21 鉄鏃の先端部、鍛冶 ・・・ 弓削


『 川中風土記 』  昭和45年
P23
下有富石棺  秋本さん墓地
有富村字市ヶ原にあり、すでに破壊され、石材に朱塗のあとが鮮明に残存しているが、墳墓の全容を知る由もない。 土地の人達について事情を調査してみると、約30年くらい前に発掘され、そのとき曲玉など多くの出土品があったと伝えられている。 石組みもすでに解かれているが、石棺の原位置はほとんど移動していないらしく、専徳寺前の田の一隅にある、雑木林の中に積まれたままになっている。


随福寺薬師堂  山口県風土誌 有冨村 字「中村畔」
有冨の旧公会堂があった場所の北側か。 白井さんの畑。
字「前ノ田」 は江戸時代末では字「中村畔」 に入っており、随福寺薬師堂とは
この場所にあった地蔵堂であろう。



考古学関係者の見解
北九州市芸術文化振興財団 埋蔵文化財調査室
城野の重留遺跡のスライドを使って小倉南区に「クニ」 があったと説明する。
北九州市埋蔵文化財センターは鼻息が荒い。

下関市立考古博物館  史跡の道ウォーク 
学芸員の澤下先生が川北神社で参加者たちを前にして説明する。
「(綾羅木川流域には) クニのまとまりはありません!  は、は、は、は 」




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風水 有冨上 

2016/05/13 02:19

邪馬台国=倭国=記紀・万葉の都 は下関市有冨上である。
字「金鋳ヶ谷」 ・・・ 纏向
字「中村畔」 ・・・ 飛鳥

明日香という表記 明日=朝 か

有冨の庄屋は儀万という家だったので儀万さんの家が中心地である。
また儀万さんが所有する「儀万の池」 は神聖な場所であろう。


風水による都市設計
九州王朝説 Wikipedia
大宰府(倭京618年〜695年) は九州王朝の首都であり、日本最古の風水の四神相応を考慮した計画都市である。
ヤマト王権唯一の日本式風水(陰陽道)都市である平安京(794年)よりも130年〜176年以上も早い。



Google 画像検索  【 風水図 都市計画 】 など

風水で都市計画(1)甲府市
http://husf.blog47.fc2.com/blog-entry-87.html

「方位信仰と平安京」 相模国一之宮・寒川神社蔵
https://www.youtube.com/watch?v=wgjD4bkXemI

弘前城 四神相応の地
https://www.youtube.com/watch?v=ISAHAXdkqJI
弘前城の鬼門・裏鬼門
https://www.youtube.com/watch?v=k7MyXm9IJ6Y

平安京の四神相応を考える
ameblo.jp/kazue-fujiwara/entry-10284440744.html

《風水都市 江戸》鬼門・裏鬼門
ttp://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_a4f8.htmll

風水による都市設計をした町をネットで検索したら
 大宰府
 平安京
 甲府(武田信玄)
が挙げられる。

下関市有冨上 は甲府市と地勢が似ている。

有冨上=大倭=常陸国 である。
常陸国風土記の各郡の配置は四神相応である。

南の「朱雀の池」 は 文庫書紀@206-10 茅渟の山城(やまき)水門
綾羅木川と砂子多川の合流点、有冨側土手の小字「山木」。 家庭菜園畑。

形山の青山 「青」 は東
万葉集の白水郎 「白」 は西

万葉集の虎 3833
「虎」 は西方白虎、「古屋」は古屋町、「青淵」「鮫竜」 は垢田の崖海岸


有冨の風水設計
竹生観音の真南が儀万さんの家あたりだから、竹生観音が玄武だ。
大迫池の上がパワースポットである。

鬼門 ・・・ 大迫池の東北側尾根。 または有冨墓地の上(火葬場があった)
裏鬼門 ・・・ 専徳寺。 または河内さん宅 東側の墓地


私のよもやま話
神武東征 久米歌 「宇陀の高城」 は有冨 大迫池の上にあった。
古事記の安万侶は迫池に住んでいた。


風水 論客
昨夜、私は「邪馬台国発見の方法」 として風水を "思いついた"。
でも私より前に Wikipedia 九州王朝 大宰府説 が風水を論拠としていた。

風水による邪馬台国の位置
九州王朝 大宰府説 Wikipedia
私は下関市有冨上。 とくに大迫池の上に卑弥呼の邪馬台国があったとする。


下関市立考古博物館
研究紀要 第20号 2016年3月31日
開館20周年記念シンポジウム
  ↓
綾羅木川流域を風水で見る視点に欠ける。
有冨の地勢は武田信玄が風水で都市設計した甲府市に似ている。




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九州王朝の論理  明石書店 2000年

2016/05/10 12:23

『九州王朝の論理』 「日出ずる処の天子」 の地  明石書店 2000年
古田武彦、福永晋三、古賀達也 【著】

ネットのアマゾンで「中古品 良い」 を購入した。

古田武彦の着眼点、問題提起の箇所、古田史学の会 の研究熱心さは "買い" だ。 私は古田武彦説には同調しないが、その著書を読めば多大なるアイデア・ヒントを授けてくれて自説の糧とできる。 古田武彦の本は御馳走である。


本の中の美味しいトコロをいただく。

P11-10行目
田井
万葉集4260
大君はにしませば赤駒のはらばふ田井を都となしつ
下関市有冨上 字「中村畔」 には中村という農家が3軒ある。本家と分家2軒だ。
中村本家さんが60年前に家を建てた時に貝塚が出たという。
この貝塚は常陸国風土記 那賀郡 大櫛之岡 に記述された巨人伝説の地である。
常陸国風土記の正体は大倭国風土記である。 大倭は有冨上である。

天武天皇は(=巨人伝説がある貝塚) の場所を飛鳥浄御原宮とした。
田井は中村本家さんの家横にある小さい池(3 m×10 m) である。


常陸国風土記 筑波の郡
福慈岳が形山の青山で、筑波岳が有冨の竹生山
筑波岳の東峰の磐石は石原の砕石場、泉は竹生観音にある。

常陸国 那賀郡=登美の那賀須泥毘古

奈良県明日香村 ・・・ 下関市有冨上 字「中村畔」 のコピー
平田梅山古墳 敏達未完陵 檜隈陵
岩屋山古墳
  ↓
下関市有冨上 字「中村畔」 の平田さん宅、岩谷さん宅に対応
平田さん宅は常陸国風土記 那賀郡 津の駅家 の場所でもある。
参照 『天皇陵』 洋泉社 P97 作図 岸本直文(高橋照彦説による)

天平田 文庫書紀@82-11

万葉集
990 題詞
跡見 茂岡 → 有冨上 重岡さん宅
988 の市原王は有冨の字「市ヶ原」

という家は有冨の庄屋だった。
P90-後ろから4行目
○詔曰、朕、九州君臨、字養姓、〜 続日本紀 聖武天皇 天平3年条


P23
郷樹扶桑外
主人孤島中

扶桑
扶桑は下関市にあり船越峠か、または吉母 字「安常」


孤島中
関西の大和朝廷 中小路駿逸が正しい。 

長門市油谷 向津具 も候補地である。
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。
  ↓
帯方郡の場所を韓国のソウルとすれば、
その "東南の大海" は長門国豊浦郡のリアス式海岸である。
「山島」 は原始古代は半島だった下関市綾羅木郷遺跡の考古博物館付近か。
福岡県糸島や内陸部の太宰府市ではないので古田武彦説は的外れだ。
安本美典の 「高天原=筑後川・甘木説」 も「帯方の東南」 の方角に位置しない。

長門市油谷 蔵小田 渡場
万葉集359
阿倍乃嶋 宇乃住石尓 依浪 間無比来 日本師所念
  ↓
蔵小田の安倍後援会連絡所から歩いて10分の掛淵川沿い。
小字「鵜ノ石」  柿本人麻呂の歌が伝わり歌の石碑が立つ。

『油谷町の歴史いろはがるた』  P39
柿本人麻呂
向津の おくの入江の ささ波に 海苔かくあまの 袖はぬれつつ
宗祇
むかふ津の のりかく海士の袖にまた 思わすぬらす わが旅衣


詩賦の興、大津より始れり。  文庫書紀D236-5 持統天皇 称制前紀
の大津は長門市油谷 蔵小田の「鵜の石」 柿本人麻呂の歌碑の場所である。
この場所で柿本人麻呂が歌を作ったという証拠はないが、宗祇も歌を詠んでいるので室町時代末期には蔵小田に柿本人麻呂伝説があった。


P61 脚注(6) 斉明4年(654) 夏4月 安陪臣
倭国(下関市有冨上、吉見下) の越国は長門市油谷・向津具半島
  ↓
万葉集366 日本島根 ・・・ 向津具半島である



P59-11行目
下関の前田博司さん
『ふるさと散歩みち』 下関市川中地区まちづくり協議会 平成7年
の編集委員


P60-7行目
太宰府在住の内倉さん
著書 『謎の巨大氏族・紀氏』 三一書房 1994年
P32 紀氏は周王朝の子孫?

私見では
東海氏=山海経 海外東経 の青丘国 九尾の狐
=常陸国風土記の我
=魏志倭人伝の女王
=続日本紀の大歳池上女王

=隋書倭国伝
=下関市有冨上 儀万の池と貝塚が万葉集4260 の「田井」

中村本家さんの便所の場所にあった貝塚は
天地開闢の始まり 葦牙 天御中主尊 の場所で "神"

古事記 祝詞
「山の口に坐す皇神等」 の場所は有冨上の字「中村畔」=遠つ飛鳥
「山の口」 とはハンドウ山の登り口。 私見では「大口の真神原」 と同じ。



今、読んでおきたい本
『天皇が十九人いた』 保阪正康 著 角川文庫 平成13年
P374-後ろから3行目
南朝正統論が公然と表面化することによって、天皇の「万世一系」 という神話にも空間ができあがった。 私はこの空間を天皇制のエアポケットだと思うのだが、このエアポケットに生まれたのが熊沢天皇騒動だったと思う。 現実に、日本の天皇制はこのエアポケットに生まれた「亜種」(あえて言えばということになるが) に手を焼いたというのが事実であろう。




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邪馬台国は、銅鐸王国へ東遷した  安本美典 著

2016/05/06 02:31

『邪馬台国は、銅鐸王国へ東遷した』  安本美典 著 勉誠出版

P129 表18
灘(×) → 儺(○)

那 宣化紀 文庫書紀B230-1
娜 斉明紀 文庫書紀C368-3
吉川弘文館の「日本書紀索引」 は必需品である。
漢字表記は本質なので、漢和辞典で「儺」「那」「娜」 を調べる。

宇濔(×) → 宇瀰(○)

末羅国(×) → 末盧国(○)

対馬国
どの本も「対馬国」 とするが、
いき一郎 編訳 『中国正史の古代日本記録』 葦書房 P63
は「対海国が正しい」 とする。

播磨国風土記 美嚢郡  「山投」 は「大和」 ではない。

P148-1行目
「倭の大神    の脱字

この本で重要なのは P171〜178
新井宏氏提出の仮説 燕
だろう。


山口市 阿東徳佐中 宮ヶ久保遺跡 木製の小さい銅鐸模型が出土している。
http://44051510.at.webry.info/201009/article_23.html

先代旧事本紀で興味深いのは 巻第一 の「日向の橘の小戸橿原」。
同じ箇所で 甲斐弁羅神は「交う」 でなくて道具の貝ベラ、海の岩場か。
甲斐弁羅から甲羅を連想する。

吉備=岡山県、紀伊=和歌山県、丹後=丹後半島 など
私は和名抄の国名で記紀・万葉を分析しては最初から見誤ると考える。

当てずっぽうで10年、言ってることが 1,000,000 回 間違って1回当たる。
「発見」 の方法論はこれだ!  10年がんばれば弾が的にかすることもある。

邪馬台国の山師になるには10年かかる。
毎年10万円遣って10年続ければ邪馬台国の鉱脈が見つかる。

漢字の表記は重要なので、できるだけ原文の漢字そのままにあたり、まめに漢和辞典をひくべき。 「漢字は音のみ、甲類と乙類」 「表記の字を複雑にしただけ」 という国語学は頓珍漢だ。

私は安本美典の邪馬台国論には全く共感できない。
しかし安本美典は邪馬台国探究歴60年の大御所なので、その本を買って読めばアイデア、ヒントなど得られるもの多大である。 勉強になりました!




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本当の「中央」 の位置

2016/05/03 23:52

古代の「中央」 は奈良県・大阪府とされる。
私見では下関市有冨上の字「中村畔」 が「まほろば」 の地である。
とくにハンドウ山の登り口あたり。

魏志倭人伝 女王国
常陸国風土記 我妻
山海経 海外東経 青丘国 九尾の狐
日本書紀 斉明紀 大津
は同じ場所であり、下関市有冨だ。

『ふるさと散歩みち』 
P142下 有冨の小字に 龍(畜犬)王田 ・・・ 犬養部か

犬養部  Wikipedia
  安閑天皇の居地であると『日本書紀』 が伝える勾金橋宮の故地に「犬貝」 の地名が現存している ・・・


下関市有冨上 「儀万の池」 = 常陸国風土記 那賀郡 大櫛之岡 貝塚
日本書紀は唐の役人に読ませる目的で編集されているので漢字は教養である。
日本書紀の冒頭に 譬へば浮の猶く漂蕩へり の「膏」 の字は隋書俀国伝の「腴」 であり、常陸国風土記にも「腴」 とある。

常陸国風土記 那賀郡 大櫛之岡 貝塚は有冨の字「中村畔」 にある中村本家さんの便所の場所である。 数十年前に家を建てた時、地下から貝塚が出たという。 日本書紀冒頭の書き出し、国常立尊、可美葦牙彦舅尊は「儀万の池」 のへりに住んでいた神である。 日本の最初の神様は「儀万の池」 から葦牙の如く生まれた。

夏至の朝、「儀万の池」 に立てばハンドウ山の頂から朝日が昇る。
万葉集 厚見王の「厚」 は夏至の朝日を見る位置の人だ。

貝塚があったという中村本家さんの便所の場所には小さい五輪塔が20基ばかり固まって集中的に転がっていた。 「青山くずれ」 と伝えられるが私は「邪馬台国くずれ」 の墓地だと思う。

どこにあったか場所は不明だが、有冨上には天御中主尊神社があった。
明治末に綾羅木の川北神社に合祀された。


万葉集
158
「儀」 は儀万さんの家
「白」 は白井さんの山にある石組みの湧水

159
神岳はハンドウ山の登り口あたり


160  福路の「福」 は徐福か。 有冨墓地の上にあった火葬場か。
161  向南山は竹生寺である。 青雲
ハンドウ山の登り口が古代の「中央」 であり、この場所の真北に竹生寺がある。
2万5千分の1 地図で竹生寺の真南を測る。

竹生寺の山号は高山である。

「雲」 は竹生山にかかる雲
「星」 は天皇を示す北極星で、竹生寺にある妙見社
「月」 は何かまだわからない。

竹生寺の「冬至の夕日」 の方角(東西線から30度南) に梶栗浜遺跡がある。
竹生寺から冬至の日没を見て梶栗浜の埋葬場所が決められた。
竹生寺は弥生時代前期末に既に聖地だった。

青雲は神武東征の「青雲の白方の津」 と関係する。
白は西だから「青雲の白方の津」 とは「竹生寺の西方の津」の意味であり、
梶栗浜遺跡である。梶栗浜遺跡は河内国草香邑だ。

いや、竹生寺の真西は荒波押し寄せる横野町2丁目である。
横野・安岡港が「青雲の白方の津」 だろうか。
村アノ鼻は難波!?

万葉集の「青雲」
3519
3883
3329
161


江戸時代まで綾羅木川は石津川と呼ばれていた。
大阪府堺市に石津川が流れる。

安岡と冨任の境の海岸を「石津浜」 という。
防長地下上申 第3巻  安岡村 P320上
但北福江村境牛岩麓より南ハ冨任境石津浜
この付近の遺跡
安岡駅構内遺跡(祭祀製塩跡、奈良時代か)
神田遺跡・潮待貝塚

古い道は下関工業高校、園芸センターを通るお化けが出そうな山道だった。
竜田はピンピン山か。

ピンピン山
http://44051510.at.webry.info/201110/article_144.html

園芸センターの小丘は記紀の竜田ではない。 万葉集567周防の磐国山だろうか。 園芸センターには磐国と形容される岩はない。でも大伴宿祢胡麻呂は園芸センターの北隣の小字「胡麻田」 にちなむと言える。

筑前、沙麼・娑婆は安岡海岸。
土師娑婆連猪手(文庫書紀C206-5) は安岡駅構内遺跡の祭祀跡。



平城宮から出土した木簡
「 周防国吉敷郡神埼郷戸主阿曇五百万呂 同部 」
「 □麻呂進上調塩一斗 天平十七年九月八日 」   745年
阿曇の一族が秋穂二島の幸崎にいて、製塩漁労の業に携わっていた。
秋穂町史 P129  ※ 秋穂町は2005年に山口市と合併

私見
周防国は下関市富任町の工業高校あたり。
阿曇五百万呂は安岡駅構内遺跡の者である。




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旧唐書・新唐書 と 好太王碑の倭

2016/04/26 12:07

邪馬台国は東遷したか 1994年 三一書房
P108-3行目  谷川健一
『旧唐書』 は倭国が日本という国号を冒したと述べている。 さらに日本はもと小国であったが倭国を併合した、と記している。 これに対して『新唐書』 の「日本伝」 には倭国が日本国を併合した、と正反対の記事になっている。 これは中国の役人が遣唐使の言を聞いて『旧唐書』 を訂正したと考えられるから、『新唐書』 に拠るべきである。
倭国が日本国を併合したという『新唐書』 の記述は倭奴国の流れを汲む邪馬台国が日本(ひのもと)国の支配者であった物部氏を打倒したという歴史的事実にも叶う。 ということで、九州島から倭の大乱の頃に物部氏の勢力が東遷し、弥生時代の終末期に邪馬台国の東遷があったと考えている。


安本美典は最近(4月4日) 勉誠出版から 『邪馬台国は、銅鐸王国へ東遷した』 という本を出した。

同 P124
福岡県久留米の『高良山日記』 に「降人百済氏」 とあり、執筆者(荒木博之) は疑問を呈しているが私には久留米の高良に百済国があったのかと思ってその箇所を読んだ。
筑後川流域で百済系土器が出た場所
太刀洗町本郷の西 稲数 森田遺跡 (弥生後期〜古墳前期)

同 P147-7行目
将軍 于道朱君 ・・・ 熊本県宇土半島の阿蘇ピンク石の者か

同 P172-5行目 奥野正男
三角縁神獣鏡 笠松型模様は有冨の竜王社(ハンドウ山の頂) にあった松林か

私見
神功記 新羅は糸島か。 百済は「渡の屯倉」 とあるが福津市 渡か。

神功紀 文庫書紀A170-3
蹈鞴津は春日市の須玖・岡本、早羅城は福岡市早良区か。



「日本」国はいつできたか 改訂版
大和岩雄 著 大和書房 1996年
P174〜210
小国日本が倭国を併合したとなぜ『旧唐書』 は書いたのか

大和岩雄も谷川健一と似たり寄ったりの考えである。


古田武彦に影響された人たちは西暦700年前後まで九州に倭国が存続していたと考えている。 私は倭国(邪馬台国) は九州ではなく下関市有冨上・吉見下にあったと考えており、関西への東遷はなかったと見る。
近江国大津宮は土井ヶ浜または油谷町の蔵小田にあった。

古田武彦は好太王碑に書かれた倭は九州王朝という。
『好太王碑論争の解明』 藤田友治 著  新泉社 1986年  の P.169


岩波文庫 『新訂 旧唐書倭国日本伝 等』 2013年 第50刷
P38-末行、P39 白亀元年の調の布
私見
「白亀」 という年号は不明であり、「白雉」「白鳳」 に似て大倭風の言葉である。
日本書紀・続日本紀は年代等が工作されてると見て、日本国から来た粟田真人は大友皇子ではないか?

続日本紀 白亀はたびたび献上されている。
  続日本紀@29-11 長門国
  続日本紀A135-12 平城京の左京
  続日本紀A165-8 大倭国



韓国の古代史認識
かつて韓国は東アジアの支配者で、日本は百済と新羅が作った。

『ゆがめられた地球文明の歴史』 栗本慎一郎 著 技術評論社 2012年
P237-末行
日本皇室は高麗の皇室も自らその祖と仰ぐ扶余と関係がある可能性がある。

『栗本慎一郎の全世界史』 栗本慎一郎 著 技術評論社 2013年
P8-3行目
北満州は蘇我氏の故郷
P168-12行目
物部氏は蘇我氏と同じく東北地方から日本に入った。
P198-9行目
聖徳太子が異常にコマ(高句麗) との関係を重視していた

栗本慎一郎は韓国側の古代史認識と共通する考えであり、むしろ我が日本側が嘘八百の歴史と見る。 物部氏が東北地方から日本に入ったという説には共感できないので、半信半疑で読めばよい。

旧唐書(倭国・日本) と好太王碑 碑文の「倭」 とは何かを考察する必要がある。

『好太王碑論争の解明』 藤田友治 著 新泉社 1986年
倭以辛卯年来渡海百済□□□羅 の解釈
藤田友治の見解 P.323

岡田英弘 の見解
『日本史の誕生』 弓立社 1994年 2001年 第5刷
P.150上
二字の欠字は、石の割れ目の部分に当たり、ここに文字があったわけではない。

渡海 ・・・ 朝鮮と日本の間の海を渡る
東海 ・・・ 長安から同緯度を東に進んだ海で響灘である(私見)
私は「渡海」「東海」 は古代中国史書にある意味と見る。
私は岡田英弘などの通説に賛成し、藤田友治説を斥ける。

『現代語訳 魏志倭人伝』 松尾 光著 新人物文庫 2014年
には旧唐書、高句麗広開土王碑文 も収録されている。

私見
聖徳太子は下関倭国の者であり、聖徳太子は高句麗との関係を重視した。
高句麗の次の王朝が渤海国である。
続日本紀は渤海国と親交があるので、続日本紀は下関倭国の歴史書である。

古田武彦や藤田友治は好太王碑 碑文の「倭」 は九州王朝と見る。
私は高句麗が対決した「倭」 は「宋書の倭国」 で関西の王朝だったと見る。

倭の五王は関西の王朝。
旧唐書の倭国(記紀・万葉、まほろば) は下関にあった。

全釈漢文大系 第33巻 『山海経・列仙伝』
前野直彬 著 集英社 昭和50年

重要な比定は魏志倭人伝の国々よりも山海経 海外東経 の国々である。
倭国は下関にあった。
(根拠)
長差丘  新宮町夜臼から眺めて双峰の立花山、クスノキ原始林
大人国  宗像海人族
この間隔で進んで
  ↓
奢比の尸  飯塚市立岩? 芦屋町の山鹿貝塚? 
君子国  岡垣町の汐入川? 洞海湾?

虫虫  小倉南区蒲生の虹山

朝陽の谷、天呉  関門海峡
地名 馬島の字「天志」、彦島の天郷・天川
小倉南区城野 重住 重留遺跡 も考えられる。

青丘国  下関市有冨上  ※ 形山の青山ではない。
青丘国の王寿は不老長寿
九尾の狐は常陸国の我姫、魏志倭人伝の女王国

常陸国風土記は大倭国風土記であり、下関市綾羅木川の北側

黒歯  下関市吉見下 船越

黒歯は油谷湾も考えられる。
黒歯はコシで高志、越国で向津具半島
土井ヶ浜弥生人は南方の沖縄まで貝の道を通っていたので黒歯。
沖縄県読谷村 高志保 ・・・ 遺跡あり

雨師妾 亀 ・・・ 浦島太郎の亀姫に通じる




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九州王朝 はなかった

2016/04/22 22:40

下関市豊浦町 室津
文庫書紀@104-3
其の後に、少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世国に適しぬ。
亦曰はく、淡嶋に至りて、茎に縁りしかば、弾かれ渡りまして常世国に至りましきといふ。


御碕 ・・・ 吉母の御崎。 昔は吉母は豊浦町室津に属していた。
淡嶋 ・・・ 蓋井島か
常世郷 ・・・ 土井ヶ浜遺跡の九州西北型弥生人骨

魏志倭人伝の末盧国は元(モンゴル) の使者が来た室津である。
魏・帯方郡の使者は本州最西端の毘沙ノ鼻下に上陸した。

本州の最西端 毘沙ノ鼻駐車場にある吉母解説看板によれば、
神功皇后は帰朝の折、毘沙ノ鼻に近い畳石から上陸した。

隋書俀国伝の竹斯国は壱岐から元軍が上陸した志賀島である。
山海経 海外東経 の長差丘は夜臼で、立花山のクスノキ原生林。
山海経 海外東経 の大人国=秦王国 は宗像海人族
壱岐の「一大国」 は宗像海人族 「大人国」 と関係するか。

山海経 海外東経 の青丘国は下関市有冨上。 青山の形山ではない。
野馬台詩 青丘与赤土

『野馬台詩』 の謎 小峯和明 著 岩波書店
P14-4行目
戦乱によって、青々とした丘陵と赤土に覆われた大地もむなしく空に帰し、世界は崩壊する。 すべては無に帰して世は終焉を迎える。 


波高
風土記584上 阿波の国 波高
文庫風土記下 P351

彦島西山町の小字「波高」
高潮が襲った梶栗浜遺跡

古事記 沫那芸神・沫那美神は梶栗浜

万葉集1235
浪高 ・・・ 浪花か
梶 ・・・ 梶栗
竹嶋 ・・・ 陸繋島だった綾羅木郷、または綾羅木駅近くの高山遺跡

阿波国は梶栗か
粟門は梶栗か


湯原王  万葉集
神浅茅原 ・・・ 菟田の血原
真神原


熊野の神邑

名草
名草戸畔 文庫書紀@208-3

椎根津彦に蓑笠を着せて老父の貌に為る。 文庫書紀@218-11

厳呪詛 文庫書紀@218-4


事西
文庫書紀@236-7 西を征ちたまふ


皇祖神
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou97/kai09706.html
三六代孝徳帝。帝はその白雉改元の詔で “我親神祖之所知穴戸國” と述べ賜わっている。

孝徳紀の白雉
穴戸国司 草壁連醜経
今我が親神祖の知らす、穴戸国 = 万葉集1133 皇祖神之 神宮人

乳白色の石英がある鳥見山の白庭=葛城山の仙人、蓬莱山、秋津洲
内木綿の真迮き国と雖も、猶し蜻蛉の臀呫の如くあるかな


万葉集 皇祖・皇神祖
4094
4111
322
4205

443
綾羅木浜の松林は死んだ人や牛馬の火葬場だった。
丈部麻呂 ・・・ 有冨王山(ハンドウ山) にちなむ名前
大伴宿祢三 ・・・ 有冨 字「村畔」 にちなむ名前
有冨竜王山(ハンドウ山) は雨乞神事の山で、昔は住吉神社の神官を招いてお祓いをやり、村人たちが綾羅木の海岸に行って汐汲み(お水取り) の神事をやっていた。 綾羅木の海岸と縁がある山である。

1133
2508
1047



下関市内で小字「中村」 は永田、吉見、安岡、有冨など多くの集落にある。 「中」 がつく地名は豊浦町川棚の中ノ浜遺跡もある。
長い間、いろいろ思案してみて、
天御主尊、大伴宿祢三大兄皇子の「中」 は有冨の字「中村畔」 である。
大富道尊は有年池、迫池。 任の梶栗や小倉の野ではない。

古代物部氏と『先代旧事本紀』 の謎  勉誠出版
安本美典 著 平成21年
P.162-末行
  「登美」 は、豊前の国企救郡足立村富野、現在の、福岡県北九州市小倉北区富野とする説が有力である (福岡県築上郡吉富町とする説もある)。

安本美典など大勢の論者が鳥見の長髄彦は北九州市小倉北区富野から奈良県大和に来たと言っている。
私見では、遠賀川流域、北九州市域、豊前国は記紀・万葉とは関係ない。

P.22 系図 1 津守氏系図
上命、天上命 は小倉南区貫かと、この本を買って読んだ時は思った。 しかしその後、下関市川中〜長門市西側 の山陰沿岸が倭国だと確信する。


九州王朝はなかった
成人を入れる大型甕棺は特徴が大きい。 記紀には甕棺の記述がない。
甕棺地帯は邪馬台国の場所ではない。

記紀には銅鐸の記述がない。 弥生時代の銅鐸文化圏である近畿、東海、出雲、四国東部などは記紀の場所ではない。

邪馬台国には九州説と畿内説がある。 私見では記紀は邪馬台国(倭国) の歴史書である。 甕棺の九州も、銅鐸の畿内も、記紀で書かれた神代(弥生時代) の場所ではない。

遠賀川流域は新羅系である。 記紀は新羅系の人たちではない。

角川日本地名大辞典
別巻1 日本地名資料集成 1990年
古代官道の地図(森田悌作図) P.126〜128
によれば、古代官道が通ってない海岸部地域は
山口県西部の山陰側  下関市安岡、長門市の西側
長崎県  平戸市、佐世保市、長崎市
鹿児島県  薩摩半島、大隅半島


講談社学術文庫 倭国伝
朝鮮各国の首都の東南に倭国がある。
筑後川、佐賀県、熊本県などは「朝鮮各国の首都の東南方向」 から外れる。

後漢書 倭
倭は、の東南大海の中に在り。   福岡市東区 立花山 〜 関門海峡

三国志 倭人
倭人は、帯方〔郡〕 の東南、大海の中に在り、  長門市あたり
帯方郡の首都をソウルとする  

宋書 倭国
倭国は高〔句〕驪の東南の大海中に在り、 〜 倭の五王   出雲 〜 京都 あたり
私見 倭の五王は畿内の大和朝廷か。

隋書 倭国
倭国は、百済・新羅の東南、水陸3千里〔のところ〕 に在り   下関市あたり

旧唐書 倭国
倭国は・・・ 新羅の東南、大海の中に在り   長門市あたり


古代中国正史の倭は福岡県新宮町 夜臼・立花山 〜 山口県長門市 であり、
この領域に山海経 海外東経 の国々がある。

例外
宋書の倭国は高句麗 好太王碑 碑文 の「倭」 であり、銅鐸文化圏(出雲・岡山・四国東部・大阪・奈良・東海) の勢力である。

中国の「東海」「海外東経」 は長安から真東(同緯度) に進んだ所である。
その場所は長門国 豊浦沿岸 である。




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竜王山

2016/04/20 15:13

下関市
吉見 竜王山 ・・・ 龍王神社の乳母乎嶽
有冨 竜王山 ・・・ ハンドウ山
一の宮 龍王山 ・・・ JR 新下関駅前、住吉神社の裏山

山陽小野田市
竜王山 ・・・瀬戸内海に臨む半島、展望台の公園


奈良県、大阪府
竜王山 奈良県五條市西吉野町にある標高618.8 m の山

竜王山 奈良県天理市/桜井市にある標高586 m の山
      山頂に十市氏の居城竜王山城がある。

竜王山 大阪府豊能郡能勢町長谷にある標高570 m の山


山辺の道から竜王山へ
http://www.okozyo.sakura.ne.jp/houkoku/h2013/h854/h854.html
竜王山(奈良県) 585.7 m
http://imagefo.tea-nifty.com/blog/2012/02/post-c0a9.html


私見
邪馬台国(倭国、記紀・万葉の国) の場所は下関市有冨 字「中村畔」

本当の「山辺の道」 は
下関市の有冨古墳〜大年池〜大迫池〜薬師池〜竹生観音下 である。

奈良県天理市/桜井市の竜王山は下関市 有冨の竜王山(ハンドウ山)
のコピーである。

奈良県天理市/桜井市の竜王山=下関市 有冨の竜王山(ハンドウ山)

※ 竜王山は龍王山とも書かれる。


天皇陵
天皇陵については藤田友治の著作を読んでおきたい。

三一新書
『天皇陵を発掘せよ』 1993年
P247-8行目
高松塚古墳の壁画の女子人物画は、その服装が朝鮮の平安北道竜岡郡の土塚<雙楹塚>の壁画に描かれていた女人のものに酷似
  ↓
高句麗系絵師の作品説

私見 記紀には銅鐸の記述がないので、弥生時代の銅鐸文化圏である近畿、島根県出雲、徳島県などは記紀の場所ではない。

『続・天皇陵を発掘せよ』 1995年
P277-9行目 見瀬丸山古墳の調査 徳田誠志

『古代天皇陵をめぐる』 古代天皇陵ガイドブック  1997年
私見 崇神天皇陵は古事記によれば山辺の道の「匂」 (曲がり) にあり、
「匂」 は「にほふ」 でもあるので視覚的に映える赤土の岡を表す。
野馬台詩 赤土 である。


『天皇陵』 洋泉社編集部 編 2016年1月
P86 今城塚古墳の前方部 剣菱型は地滑りによる変形
P117-9行目
「厚葬してはならない」 という遺言と多大な労力が費やされている植山古墳の存在とでは矛盾するのではないか


『天皇陵の真相』
住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 共著  三一新書 1994年

P171-11行
天明天皇(×) → 元明天皇(○)
続日本紀@129-4 山沢に亡命し、禁書を挟蔵して、・・・

P52-4行目
飛鳥の人は男でも足にも脛にも毛がない。

P81
鴫罠を張ったら鯨がとれた
神武東征で、宇陀の高い所にある城に鴫罠を張ったらがとれた
  ↓
常陸国風土記の久慈郡に該当する。
私見 常陸国風土記の正体は大倭国風土記である。

鯨の形 ・・・ 有冨竜王山(ハンドウ山)
横から眺めて前方後円墳の形
魚の尾ヒレは垂直だが鯨の尾ヒレは水平である。 尾根の先が左右に水平に広がる。  Google 画像検索 【 長府 くじら館 】


熊本県宇土市  石棺の石材 
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/makadoisitowa.html

航海日誌  宇野愼敏 実行幹事
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/nisshi/nisshi0815.html
  今日はこの「夢の実験航海」 の主役である端艇部の若者たちと名航海隊長・下川助教授、そしてOBの航海士ら水産大学校の部隊が帰ってくる日。 夢を食うバクのような考古学の人たちには船団運営は「専門外」。 杉村船団長、宇野愼敏実行幹事は船上で踏ん張っているが、多くは陸上支援に汗をかいている。

今城塚古墳
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daio/kodairekishikan/imashirozukakofun/1327496276409.html

私見
熊本県は日本書紀の呉国なので、「呉の工人」「呉の勝(すぐり) 」 だろうか。

赤い石は下関市永田本町の水産大学校前の海、吉見 石槌大権現にもある。
永田郷の御堂遺跡は徐福の墓かと思えて興味深い。 大阪府高槻市の今城塚古墳の石棺に使われた赤い石は下関市吉見の海岸に広がる赤い石が運ばれたものではないか。 私の推理では、関西の今城塚古墳などの石棺に使われた赤石は下関市永田本町にある水産大学校 ボート部 桟橋付近の産出である。

年代は古墳時代後期である。 その頃は下関市吉見が首都となり、天子様にあやかりたい宗教が関西方面に広がり、吉見海岸の赤い石は天国の物だった。

下関市永田本町 水産大学校 ボート部 の桟橋にある赤い石が神聖で切り出しできないために、代用として熊本県宇土半島の赤い石を切り出したとも思案できる。


上の山古墳  下関市綾羅木
継体天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87
摂津国嶋上郡 三藍野陵
  ↓
原始古代の綾羅木郷台地は半島の先だった。

下関市立考古博物館 史跡の道ウォーク
学芸員の澤下先生が上の山古墳で参加者を前に継体天皇陵と手白香皇女について解説する。 澤下先生、あくまで自説であることを強調した上で 「巨大な古墳は はったり」 説を語る。 「かつては巨大古墳は強大な権力の象徴とされていたが、実は大きな古墳は脆弱な政権基盤を覆い隠すための "はったり" である。」

下関市立考古博物館 一般教養講座  
平成25年5月18日(土) 『 4・5世紀のヤマト政権と周防・長門 』
宇野愼敏講師は上の山古墳は継体天皇の時代の古墳だという。

豊中歴史同好会
雄略朝〜継体朝における九州とヤマト政権 (宇野慎敏先生)
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2015/12/post-265c.html
古墳研究の進展と停滞 後編 その一 (中司照世先生)
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2016/03/post-3fb9.html

私見
継体天皇陵は上の山古墳である。
手白香皇女の墓は有冨竜王山(ハンドウ山) の登り口にあるはず。


天動説から地動説へ。
太陽の場所は有冨竜王山(ハンドウ山) の頂にあった。 卑弥呼の冢!




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2016/04/05 20:54

日本書紀
文庫書紀@74-11 天斑駒

文庫書紀B72-10 甲斐の
私は "裸の王様" を見抜いた子供のように叫ぶ。 − 藤田友治
私見 「甲斐の黒駒」 は山梨県の馬ではない。

文庫書紀D64-7 駒の い行き憚る 真葛原

文庫書紀B64-2 蓬蔂丘の誉田陵 駿

文庫書紀B288-6 川原民直宮
良駒を見つ。 紀伊国の漁者の贄負せる草馬が子なり。
この文は下関市吉母 御崎馬の民話に通じるか。

文庫書紀C122-8
蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀

私見 この呉は直刀が多数出土した熊本県の江田船山古墳である。
銘文「ワカタケル大王」 文庫書紀B74-1
(参考)
『「神武」 は呉からやって来た』 竹田昌暉 著 徳間書店 1997年
P.164〜170
著者は古代史愛好家の医者 東大医学部卒



万葉集
黒馬
3278
3313 有冨古墳
525 有冨 大賀さん家
3303

大伴坂上郎女の住所
岩谷さん家の駐車場横にある坂で、有冨上 八幡宮があった場所。
または大賀さん家裏の吉富家墓の場所。


赤馬
3540
3534
2510
804
1141
3069
530
4260
4417
3536
3278 高山 竹生観音の山号

青馬
3098
4494


下関市 御崎馬
吉母御崎
渕ヶ谷の丸山に野生馬がおり室津の馬牧があったという伝承がある。

続日本紀D141-16
中臣朝臣馬主
は御崎馬にちなむ名である。
御崎では丸山という。 国土地理院の地図では丸瀬と載る。

あるいは、
私は常陸国風土記の正体は大倭国風土記と見ている。
(ワニ) に相当する地名は常陸国風土記では久慈(クジラ) である。
久慈の味酒 ・・・ 有冨 薬師池西側の「イナリ山」、林さんの山か

風土記47-1
播磨国風土記 揖保郡
牝鹿が我馬野より海を泳いで伊刀島に渡った。
  ↓
下関市 御崎馬が蓋井島に泳いで渡った民話に似る。 


長門国 宇養馬牧
『 豊浦町史 』 昭和54年  P138〜139
では、兵部式の長門宇養馬牧の場所を北宇賀の畑と推理している。
私は宇賀に馬牧があったとは思えない。

「宇」 は八紘一。 私見では 陀=高天原=下関市 有冨の山
宇養馬牧 八紘一宇の馬牧か?




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高橋  奥州蝦夷 竹水門  日高見国 甲斐国

2016/04/04 18:58

高橋
角川ソフィア文庫 新版 古事記 (平成21年)
「高」 の字は「」 (俗字、異体字) が使われている。
天原、木神、千穂など。

「」 と「高」 を比べて、「」 は「ハシゴ」(梯子) を表していると思える。
橋とはハシゴと思える。

橋の場所
下関市有冨ハンドウ山の登り口に立って、道の下の空地(昔、中村次郎さんの家があった場所) は急な崖になっているのでハシゴが架かっていたのではないか。

武烈紀 影媛の歌
石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ
春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ ・・・

天高市も中村次郎さんの家があった場所だろう。
天原はハンドウ山とその奥の院(大迫池の尾根上) であり、この奥の院と私が呼びたい場所に磐座があり、ここが本当の石上布留で、葛城山、忍壁皇子の地である。


日高見国  文庫書紀A372  補注 巻第7-24
奥州の日高見国=大倭日高見之国=常陸国信太郡は本、日高見国

陸奥の蝦夷は形山で、「竹水門」 は小野の字「竹ノ下」 である。
常陸国信太郡は大迫池の横の有冨墓地
日高見国の場所はハンドウ山の頂 〜 尾根伝い
常陸の場所はハンドウ山の登山口付近

茨城県土浦市は万葉集の山田史麻呂の「土」 にちなむ地名であり、
本当の「土」 浦はハンドウ山の登山口近くの山地番「山田」

文庫書紀A98-5
蝦夷既に平けて、日高見国に還りて、西南常陸を歴て、甲斐国に至りて、酒折宮に居します。

甲斐国は常陸国風土記 那賀郡 大櫛之岡
其の食へる、積聚りて岡と成る
  ↓
有冨の中村本家さんが55年前に家を建てた時、土中から大量の貝殻が出てきて、原始古代の貝塚があったと複数人数の証言がある。
甲斐国の甲斐(カヒ) は(カヒ) の好字2字で、有冨の中村本家さんの便所付近が甲斐国(貝国) である。
「儀万の池」 の東側に石を積んだ古い五輪塔が数多くあった。


纏向は有冨古墳、遠山運送東側の旧パチンコ屋駐車場跡地
伊勢の綺宮は石原コスパ スーパー丸和裏の川土手 字「伊勢防」
倭姫の伊勢神宮はハンドウ山の頂か

景行紀 日本武尊の遠征
西洲の出雲、熊襲は福江の大塚、船越
日高見国は有冨の大迫山 (大迫池の山尾根)
東国、陸奥の蝦夷は小野の下方、形山


船越の小字「赤松ヶ尾」 は仙人の「赤松子」 か。




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− タイトルなし −

2016/03/31 15:23

最近、彩流社から出ている前田豊の本を5冊買って読んだ。 比定地は私と異なるが、文章のあちこちからアイデア、ヒントなど授けられること多大であった。

アマチュア古代史愛好家が出す本で、市販されて書店や図書館にあるものは、調査期間に5年前後かけて、取材費用 150万円くらい使って、 "金字塔" を打ち立てた気持ちが入っている。 本論の比定地は人皆異なれど、本の中のあちこちからヒント、アイデア、情報を得られる。

ネタやアイデアを仕入れるため、今から本を20冊ほど読む。
ブログを書いていては本が読めない。

本は速読してはいけない。 少しずつ、4〜7日かけて読むと頭に残る。
毎日ガツガツ読んで、週に4冊、5冊読めても頭に残らない。 リキ入れて読んでも後で何がどこに書いてあったか全然覚えていない。 ゆっくりチビチビ読めば数年経ってもよく覚えている。


ネットで「野馬台詩」 に関する本を2冊買って読んだ。
「野馬台詩」 は必修である。

『邪馬台の詩』 1000年前の詩がえがく日本の明日
武智鉄二著 白金書房 1975年
P180
窘急にして城に寄す

「胡」 は何を示すか
@考 土井ヶ浜弥生人はモンゴル・バイカル系
土井ヶ浜 宮ノ下遺跡の官衙跡が近江大津宮、楽浪の志賀の韓ア

A ペルシャの美術品が伝来していた奈良県飛鳥


騎馬民族
胡 ・・・ 匈奴(フン族) のことで、インド・ヨーロッパ系
鮮卑 ・・・ モンゴル系

邪馬台国は下関市 有冨上。
末盧国は元寇の使者が来た室津。 昔、吉母は室津に属していた。

『魏志倭人伝の解明』 西尾幹二『国民の歴史』 を批判する
藤田友治 著 論創社 2000年
P.131
古田武彦は 『筑紫国風土記』 の
「時に、筑紫の君・肥の君等、之を占ふ。 (今) 筑紫の君等の祖、依姫をして、祝(はふり) と為て之を祭らしめき。 爾れより以降、路を行く人、神害せられず、是を以て筑紫の神と曰ふ。」 の文章に注目し、依姫を卑弥呼に比定しています。
(『古代は輝いていた1 −「風土記」 にいた卑弥呼−』)

  ↓
下関市有冨の民話 ハンドウ山の大




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赤猪子 大猪子ヶ原 神の子(采女)

2016/03/24 19:59

小学館 新編日本古典文学全集 古事記 を読む。

通説
引田 大和国城下郡 辟田 (奈良県桜井市白河付近)
長谷 奈良県桜井市初瀬

私見
桜井市は下関市 有冨古墳あたりに対応する。

下関市有冨の岩谷さん家
竹を伐採した所にあるイノシシを捕る箱ワナがある場所は赤土で、
仁徳記 石比売の歌にある大子ヶ原
=引田部の赤子の場所
である。

葛城の山の上に大猪がいる。

引田部の赤猪子は結婚してない老女であり卑弥呼に通じる。

倭の女王
吉川弘文館 新訂増補 国史大系 第八巻
『日本書紀私記 釈日本紀 日本逸史』
釈日本紀 開題 十一 女国 姫氏国

私見では東海姫氏国=常陸国風土記 我姫国 ・・・ 下関市有冨 大年池
続日本紀の池上女王は有冨の大年池ほとりにいた女王である。
続日本紀の広野王=池上真人 だから、高天原広野姫天皇(持統天皇) は大年池に近い中村勝さん家あたりにちなむ和風諡号である。

国 竹生山の西
足柄の岳坂 深坂

三輪の社は有冨 岩谷さん家の前にあった八幡宮。 明治末に川北神社に合祀
大神→大賀さん家

長谷は有冨古墳の場所か


允恭記 歌
こもりくの 泊瀬
「長谷」 と「泊瀬」 は字がちがうので別の場所と思える。


前方後円墳
古代国家形成期の考古学
古墳時代の考古学
は畢竟(とどのつまり)、"前方後円墳とは何か" という問題である。

『前方後円墳』 その起源を解明する
藤田友治 著 ミネルヴァ書房 2000年
この本は「前方後円墳とは何か」 を考察した学説を整理している。

下関市有冨は邪馬台国であり倭王がいた場所だから、前方後円墳の本質を解明するものがある。

竹生山
竹生山は前方後円墳に似ている。 竹生観音の参道は前方後円墳の側面くびれ部の登り口に相当する。

『ふるさと本 下関北浦談議』 平成元年
P123-末
縁起について巻き物の文字は印す 「実中和尚がこの沖から陸にさしかかろうとすると、天から旗竿が舞いおり、この地につきささった。 竹竿はそのまま芽が出て孟宗竹の山が出来た。 和尚はこの地を聖地と見定めて寺を建て、名を竹生寺とした。 やがて6人の天人が降りて来た。 その6人は仏の化身で後の世を定めた。 ・・・・・」 となっている。
この6人こそ、重要文化財として県が認めた観音様なのである。 そして、この地は聖地として修行の場となり長く人々の信仰の対象となった。


縁起によれば、竹生観音に生えた竹は孟宗竹であった。
円筒埴輪は湯竹である孟宗竹を模したものである。
ナガレ山古墳の葺石は石原の砕石場を表現する。

ナガレ山古墳 
ttp://www.bell.jp/pancho/travel/umami/nagareyama%20kofun.htm
奈良県北葛城郡広陵町 かぐや姫の里

竹生観音は馬頭観音を信仰する寺だったが、私見では馬見丘陵公園に対応する場所は有冨の大迫池周辺である。


『野馬台詩』 の謎 歴史叙述としての未来記録
小峯和明 著 岩波書店 2003年
P185〜207
  ↓
小野篁の「篁」 は竹ヤブで竹生観音である。

P14-4行目
戦乱によって、青々とした丘陵と赤土に覆われた大地もむなしく空に帰し、世界は崩壊する。すべては無に帰して世は終焉を迎える

「赤土」 の注釈は「荒廃した大地」 である。 しかし文章の中では「赤土に覆われた大地」 であり、赤土の土地で埴安である。 この場所はハンドウ山である。

ハンドウ山 ・・・ ハンドウ山は戦前までの昔は松ばかり山だった。
ゼンリン住宅地図で有冨竜王山であるハンドウ山を見ると、尾根の東側に僅かな出っ張りがあり、これが「造出」 の原形ではないか。 西側から日に向かって登ると縁起が悪いので、東側から、石原の光明寺から登っていたのではないか。

山門開き
有冨墓地の大隅さん墓(コンクリート屋根の墓) がある所は「山門開き」 と称されていた登山口だった。 大迫池の山に咲く山桜は記紀・万葉の桜である。

野馬台詩の「青丘」=山海経 海外東経の青丘国=万葉集1867 阿保山

『古代日本と神仙思想』 藤田友治 編著 五月書房 2002年
P32-末
(前方後円墳起源説について)
私はこれを撥形をした山ではないかと思っています。 つまり前方後円墳の起源を私は、神仙思想基づく撥形に開く山に見い出すことができるのではないかと思うのです。

高円=高松=ハンドウ山
=三輪山=香山=春日山=三笠山=蓬莱山

文庫書紀B44-3  菟田の墨坂神=大物主神、注七 斎戒
=文庫書紀@236-末行  天の香山の埴土、埴安
  ↓
異説 菟田の墨坂神=大物主神
「斎戒」 の共通字で示される同じ所
を採って「大和三山」 はない。 真相である。
  ↓
大物主神は三諸山ではなく菟田の墨坂=香山の埴安にいる。
三諸山=三輪山=天香山 である。

仙人がいる葛城山=天関=野馬台の地
万葉集1682 山住人

万葉集42934294 山人
山田史土麻呂
ハンドウ山の参道登り坂に山地番「山田」 がある。
土麻呂の「土」 は赤土

大迫池の上の尾根にある岩塊の場所


神の子
風土記405-5
岩波風土記79-9
文庫風土記上54-2
山川風土記27-331行

常陸国風土記は実は大倭国の地誌・説話である。
那賀郡は有冨の字「中村畔」 で、茨城里はハンドウ山である。
ハンドウ山の参道登り口付近に神の子の家があった。
中村本家さんの旧屋敷跡の空地が神浅茅原である。

大口真神原、湯原王の湯(斎) 原もここで、岩谷さん家の前に明治末まで八幡宮があった。

この場所は古事記 神武東征 にある倭の高佐士野でもあり、そこで遊んでいたのは儀万さん家の娘たちである。 儀万の「万」 は天尊、葉集の万である。
佐士野の「」 は中村本家の次郎さんの。
※ 角川ソフィア文庫 新版古事記 では「高」 は「」 の字を使用

似た話は
崇神紀 神明倭迹迹日百襲姫命 と 大物主神 文庫書紀@278-12、292
雄略紀 文庫書紀B24-末行 童女君は、本是采女なり。
竹取物語 かぐや姫
などがあり、似た話=同じ場所に住んでた人 である。




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難波、綾羅木浜 垢田 説

2016/03/23 01:31

仁徳紀
文庫書紀A250-4
  30年の秋9月11日に、皇后、国に遊行でまして、熊野岬に到りて、即ち其の処の御綱葉を取りて還りませり。 是に、天皇、皇后の不在を伺ひて、八田皇女を娶して、宮の中に納れたまふ。 時に皇后、難波済に到りて、天皇、八田皇女を合しつと聞しめして、大きに恨みたまふ。 則ち其の採れる御綱葉を海に投れて、岸りたまはず。 故、時人、葉散しし海を号けて、葉済と曰ふ。
爰に天皇、皇后の忿りて岸りたまはぬことを知しめさず。 親ら大津に幸して、皇后の船を待ちたまふ。 而して歌して曰はく、
難波人 鈴船取らせ 腰煩み その船取らせ 大御船取れ


時に皇后、大津に泊りたまはずして、更に引きて泝江りて山背より廻りてに向でます。

文庫書紀A254-7
11月7日に、天皇、浮江より山背に幸す。 時に桑の枝、水に沿ひて流る。
天皇、桑の枝を視して歌して曰はく、
つのさはふ 磐之媛が おほろかに 聞さぬ 末桑の木 寄るましじき 河の隈隈 寄ろほひ行くかも 末桑の木



『ふるさと散歩みち』 下関市川中地区まちづくり協議会 平成7年
P.111上
綾羅木浜 (あやらぎはま)
藩政時代には、綾羅木村の郷の一部で、浜あるいは西浜とよばれ、勝ヶ野(かつがの) 、吹上、高山などといった小名を持っていた。 『地下上申』 付図には、その全域がほとんど白地で示されている。 海岸はまた村内の死者を火葬に付す場所として利用されていた。

中村徳美は『長門国志』 で綾羅木村の浜を時浦と言うとし、"相伝えて此の地 上古は入海にて山田邑に近き所まで潮満ち来りしと云えり。 今おもうに、時浦の時の字は借字にて浦の轉訛ならむか。 穴門豊浦朝の御時筑紫より朝貢の船舶此の浦に到せし所なりしゆえ、浦と云えりしが、後代に訛りて時浦といえるならむ" と述べている。


「著」 の字に注目する。

「柏」 の地名
垢田の字「柏原」
吉母の字「柏」

垢田の鼻ヅラの沖は船が難破する場所で黒ア妙見社があり、祭神は天御中主尊だった。 難波宮は垢田であろう。

大津は川中中学校が元あった場所の要須遺跡だろう。 構造船の祭祀土器が出土している。

「泝江りて」 は神武東征 文庫書紀@204-5 遡流而上りて に通じる。

紀国の熊野岬
紀伊国でなく紀国なので、前勝谷町25 消防機庫 に昔あった熊野神社と思う。
戦前まで大きな松の木が生えていた。

山背は有冨の古いアパート 白銀荘がある谷間である。
「桑の枝、水に沿ひて流る」 は石原コスパの西端、シュープラザ(靴屋 閉店) があった場所の前の道路、旧川筋から出土した流木である。 流木は桑の木であったことが日本書紀 仁徳紀 から判明する。

この流木は万葉集1385 弓削河原の埋木 である。

筒城は白銀荘の横 宅地造成地の竹藪
倭は有冨の遠山運送がある所


参考資料
『下関の遺跡 アフター → ビフォー』
平成25年4月21日(日) 下関市立考古博物館
平成25年度 第1回 考古よもやま話

1 〜古代の居住地から現代の商業用地へ〜 塚の原遺跡
  現在の商業用地の中央道路あたりが低地を流れる旧河川で、湿地状堆積から流木等が見つかっています。




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多米

2016/03/19 09:19

難波宮は 梶栗の やよい橋 か?
文庫書紀D198-8
三輪引田君難波麻呂 綾羅木の引田か
しかし万葉集の歌(=場所) の流れは、
難波→草香→多米 なので、難波は古宿にある。

「引田」 は綾羅木の引田ではなく、仁徳紀 文庫書紀A244-末
大溝を感玖に掘る。 乃ち石河の水を引きて、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦、四処の郊原を潤けて、墾りて四万余頃の田を得たり。

横野堤は安岡の横野ではなく古宿の横尾鼻堤と思う。


『古代神都東三河U 倭国の真相』  前田豊 著 彩流社 1997年
私と場所の比定地は異なるが文章のはしはしから、アイデア、ヒント、着眼点を授けられる本である。
P120
前章で阿毎多利思比弧が、3人の聖徳太子の1人、多米王であったとの推定を行った。

万葉集
1428  草加山
忍照 難波乎過而 打靡 草香之山乎 暮晩尓 吾越来者 山毛世尓 咲有馬酔木乃 不悪 君乎何時 徃而早将見

1429
多米 ・・・ 多米王=豊浦皇子

1430
若宮年魚麻呂
若宮 ・・・ 隋書俀国伝 ワカミタフリ
年魚 ・・・ 西田川の鮎にちなむ

私見では「豊浦」 の場所は吉見下の光善寺あたり。
(根拠)
隋書俀国伝の如意宝珠
仲哀紀 豊浦津 如意珠 ・・・ 海神の潮満瓊・潮涸瓊か
は吉見古宿の海岸岩場で採れる光る石 「船釘」 である。 よしみ史誌 P.700
穴門豊浦宮、豊浦はこの近く。
上宮太子は龍王神社の上宮。

「若宮」 は綾羅木郷遺跡の字「若宮」、吉母の若宮神社の場所ではない。
草香江は古宿の汐入川にあった潟湖である。

先代旧事本紀 巻第十
知波夜命 参河国造
  ↓
万葉集 「千早人」「ちはやぶる」
1139 氏河は船越川

「参」 河 ・・・ 参拝、交わる
小「焉」命、小止与命 ・・・ 小戸
漢和辞典で「参」「焉」 の意味を調べる。
「焉」 の意味に、鳳凰の類い ・・・ 年号「白鳳」

穂国
神功紀の儺国で、福江大塚の字「神田」
「儺」 という漢字を漢和辞書で調べれば、疫病神を追い払う「おにやらい」 儀式である。 潔身(みそぎ) に通じるので橘の小戸。

277 山背の高槻村  飯豊王 葛城の忍海の高木の角刺の宮

文庫書紀B70-10
春日小野臣大樹

文庫書紀A272-10 仁徳紀
62年の夏5月に、遠江国司、表上言さく、「大きなる樹有りて、大井河より流れて、河曲り停れり。 其の大きさ十囲。 本は壱にして末は両なり」 とまうす。 時に倭直吾子籠を遣して船に造らしむ。 而して南海より運して、難波津に将て来りて、御船に充てつ。
  ↓
以前は遠江国を萩市大井や土井ヶ浜・油谷湾と見ていたが、遠江国もまた船越川沿いである。

福江大塚 船越川下流〜字「王仁」


1715
神武東征
釣りする場所は曲浦で古宿の七曲だから、楽浪の平山はその近く。


25 み吉野の耳が嶺  船越から千石岩への農免道路
27 吉野宮 吉見

豊聡
「耳」 は竜王山の張り出し

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々
  ↓
日出ずる処=東海にある扶桑
聖徳太子は吉見の龍王神社に住んでいた。

文庫書紀C200-8  C108-最後の行 壬生部
上宮の乳部 ・・・ 吉見下の乳母屋社 龍王神社の上宮

東国乳部 皇極2年11月 文庫書紀C210-5
吉見から見て有冨は東にある。 常陸国風土記は有冨の地誌。
東国乳部は有冨の遠山運送あたり。

播磨国は船越川流域なので、岡本宮は船越の岡本さん家である。


よしみ史誌 P.702
宗広屋敷  吉見上の秀盛さん伝説
秀盛さんは物知りだったので聖徳太子である。


3253
葦原水穂国 は福江大塚の字「神田」
歌中の「福」 の字は福江を示す。




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和奈佐山

2016/03/19 09:19

奈具の社の天女は何処から来たか? 和奈佐老父を追え!
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_214.html
この和奈佐神社は、和奈佐山(出雲国風土記 意宇郡に記載あり) の麓に鎮座しています。 祭神は、「阿波枳閇委奈佐比古命」(あわきへわなさひこのみこと) です。

和奈佐山
出雲国風土記 意宇郡
文庫風土記上140-末から2行目

和那散
播磨国風土記 美嚢郡 志深里 阿波国
文庫風土記上421-末から3行目

阿波枳閇委奈佐比古命 ・・・ 橘の小門の阿波岐原
出雲国風土記 大原郡 船岡山
文庫風土記上220-8




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播磨国風土記  福江大塚 船越 大久保

2016/03/17 22:28

福江 大塚  「王塚」 とも書く
船越川河口 ふくふくうどん 字「矢びつ」
字「王仁」 は「応神」 とも書く
新免川は「神明川」 とも書く
赤松ヶ尾

のめりこんで研究すれば船越川流域がヤバイ!
葦原中国は船越川の流域で、福江大塚と船越である。

下関市の
有冨 字「金鋳ヶ谷」「中村畔」、ハンドウ山 ・・・ 大倭
福江 大塚、船越、大久保 ・・・ 播磨、出雲、吉備、山守
吉見下 字「中村」 ・・・ 小治田
に列島支配の古代王朝があった。

福江大塚、船越川沿いは淡海国、筑紫でもある。
「豊浦」 の場所は 吉見下の古宿〜尾袋
「豊国」「豊前」 は船越川の下流


山海経 海外東経
青丘国  有冨の字「中村畔」、ハンドウ山
黒歯国  船越川 とくに船越の中川さん家あたり
湯谷・扶桑  吉見温泉
雨師妾  亀は乙姫の龍宮城 吉母か 


 ・・・ 福江 大塚
日本は浦安(心安
羽白熊鷲 松峡 心安し 字「赤松ヶ尾」 か

文庫風土記上129-1
出雲国風土記 意宇郡 安来郷 心安平けく

安河
安の渡り

八湍河 (先代旧事本紀) 字「矢瀬」 「屋世」 とも書く

神功紀
裂田溝 ・・・ 福江大塚の字「神田」
大磐 大石尊

住吉 船越川の下流か

橿日
橘の小戸橿原 先代旧事本紀


大津
筑紫の娜大津
磐瀬行宮 長津
朝倉橘広庭宮 鬼

大津の渟中倉の長峡 和魂


神武東征
曲浦 古宿の大久保 七曲

神武軍は船越川を上った。
下流 菟狭、岡水門
中流 芸 ヤス
上流 吉備の高島宮 船越

阿岐国の多理 ・・・ 袁・意
「阿」 の字は山・川の曲がった所、くま の意味
芸国 埃宮

吉備の高島宮
船を造っているので、神功皇后伝説の船越に比定できる。

豊国の宇沙で出された御馳走を大食いしている。 食国である。
宇沙津比古 ・・・ 伊都都比古

飯豊皇女の「飯豊」 は飯が豊かという字面であり、食国だ。
推古天皇 豊御食炊屋姫 (額田部) も食国だ。


似た話
文庫書記A76-末から2行目
諸県君泉媛、大御食を献らむとす

播磨国風土記 賀古郡
文庫風土記上
355-10 赤石郡廝御井  御食を供進りたまひき。
355-末から2行目 白い犬が長鳴きした ・・・ 饒速日尊の哮峯
  ↓
隼人の犬遠吠えにも通じる。

船越川の河口
絶壁海岸の下 ・・・ サザエ採りの岩場 宇迦の山 

地下上申絵図 福江村清図
船越川下流に「川の上」 と書かれた場所があり、平野さん家〜字「王仁」 あたりである。 ここが菟狭の川上である。

= 出雲の簸の川上、安芸国の可愛の川上 も同じ場所である。
鳥上の峯
稲田宮主神 八箇耳
清の湯山主三名狭漏彦八嶋篠、繋名坂彦八嶋手命


似た話は同じ場所
文庫書紀A224-10
菟道稚郎子と大鷦鷯尊が天皇位を譲りあう。

文庫書紀B114-1
億計王と弘計王が天皇位を譲りあう。

熊鰐、五十迹手、神夏磯媛は天皇一行を天石窟 磐戸の儀式で出迎えた。
= 播磨国風土記 賀古郡 大帯日子命、印南の別嬢に誂ひたまひし時


生石
「紀」 は木国で船越川沿い
文庫書紀B130-9 紀生磐宿禰
万葉集355 生石村主真人

五十猛命 文庫書紀@100-8
樹種を播いた筑紫は船越川の下流。 木国(紀伊国) は船越。


角刺
忍海角宮  古事記 葛城の忍海の高木の角刺の宮
国大の神、国若比売

鮪は海なので、歌の「柴」 は ふくふくどん の字「芝」 か ・・・ 出雲八重の歌 文庫書紀@94-5

万葉集131 石見国 角の浦
  ↓
「廻」 は文庫書紀@95下 注2 八重垣

角鹿 気比の大神 ・・・ 食べ物がいっぱいある
角島 3871
角松原 2793899
角麻呂 292295

109 津守が占

出雲国風土記 楯縫郡 ・・・ ふくふくうどん 資材置場の断崖海岸
磯に窟 文庫風土記上171-2
海苔 文庫風土記上176-10 = の粉滷の海 3870   
の名高浦 13921396 ※ 「紫」 は紫海苔

出雲風土記の楯縫より、万葉集 紫の粉滷の海、紫の名高浦 は
ふくふくうどん 崖海岸下の貝・海藻採り場であると判明した。

山口県風土誌、山口県地名明細書 吉見下の小字
船越 字「角地」(つのぢ)

1825 紫の根ばふ横野の  この歌は横野


130 長皇子 皇弟に恋愛
木梨軽太子 軽太郎女 に恋に通じる
歌 ・・・ 夜の食国 月読命か


播磨  福江大塚、船越、大久保
吉備  船越、吉見下
吉備海辺  古宿、吉見浦

孝霊記
大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二柱相副はして、
針間の氷の河の前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口として、吉備の国を言向け和したまひき。

忌瓮 (いはひべ)
清らかな酒瓶を置いて神を祭り行旅の無事を祈る。
角川ソフィア文庫 新訂古事記

針間の氷の河 船越川 中川さん家の横にある清水川か


豊前
景行紀 筑紫に到りて豊前国の長峡 と曰ふ。


船越
文庫風土記上396-1
播磨国讃容郡 仲川の里 船越の中川さん家
河内の国 兎寸 = 仁徳記 枯野という船 兎寸河の西の方に、一高樹あり。

文庫書記A74-2 御刀

高志の八俣大蛇=熊襲国 文庫書記A140-1 吉備臣の祖

続日本紀 C25-8 神部田連
鴨著く島は吉見沖の 加茂島か

文庫書記A86-3
川上梟帥、且被ひぬ。・・・ 八俣大蛇の酒と共通する

高志の八俣大蛇=熊襲=吉備の神部

古事記 倭建命
山の神、河の神また穴戸の神をみな言向け和してまゐ上りたまひき。
  ↓
穴戸は船越川

文庫書記A76-2
野中の大石 千石岩

常陸国風土記 文庫風土記上30-3
普都大神 葦原中国は船越川の流域で、福江大塚、船越


播磨国風土記 讃容郡 仲川の里 = 尾張の熱田社
文庫風土記下216 熱田社
剱、あり。 神の如し。 ・・・ 天香香背男
吾が形と為べし ・・・

文庫風土記下217 吾縵郷
尾張国風土記 逸文
阿麻乃弥加都比売 

文庫風土記上162-10
出雲国風土記 秋鹿群 伊農郷
赤衾伊農意保須美比古佐和気能命
后 天𤭖都比女命

  ↓
伊奢沙和気の大神
  ↓
出雲国の伊耶佐の小浜

高志の道前の角鹿
角鹿は吉見 船越の小字「角地」 (つのぢ)


文庫書紀@120-9、136-6
鬼神 誅す
の香香背男
天津甕、天香香背男

星の神
万葉集の七夕の歌に星がでてくる。  孫星、彦星、牽牛、男星
天漢は船越川である。

肥君
「筑前国嶋郡戸籍川辺里」(大宝2年 正倉院) 肥君猪手
⇒万葉集2496

正倉院 筑前国嶋郡川辺里 戸籍
肥君猪手
土師連猪手 文庫書紀C94-3
皇極紀 土師娑婆連猪手  C206、208

筑紫と娑婆は近い。 字「生墓」 は土師氏か。
内避高国避高松屋種


八俣大蛇、熊襲は船越
筑紫日向の高千穂宮は船越か



筑紫の島  船越川の流域
次に筑紫の島を生みたまひき。 この島も身一つにして面四つあり。
面ごとに名あり。
かれ筑紫の国を白日別といひ、 福江大塚の海岸、字「矢びつ」「西畠」「白石」
豊の国を豊日別といひ、  福江大塚内の船越川沿い、字「王仁」「神田」
肥の国を建日向日豊久士比泥別といひ、  福江大塚、船越の集落地
熊曾の国を建日別といふ。  船越、とくに中川さん家




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榎井の楯

2016/03/16 20:53

続日本紀@13-最後の行
榎井朝臣麻呂、大楯を竪て
続日本紀D313-8
石上・榎井の二氏、各楯を竪つ

榎井の楯
石上の桙


多氏、小子部連、太安万侶、壬申の乱
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E5%A4%9A%E6%B0%8F%E3%80%81%E5%B0%8F%E5%AD%90%E9%83%A8%E9%80%A3%E3%80%81/
朴井 君(えのい の おきみ、生年不詳−天武天皇5年(676年) 6月) は、日本の飛鳥時代の人物である。 榎井君とも書く。 朴井氏は物部氏の同族であり物部雄君ともいう。 姓は連。 物部尾輿の孫にあたる朴井真古、または物部守屋の子で、子に忍勝・金弓有利媛がいたとする系図がある。 冠位は贈大紫。

美濃に住まう物部氏の一族といわれる。 672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇) に従って活躍した。

金弓 ・・・ 軽矢、弓削 に通じる
有利媛 (ありひめ) ・・・ 下関市有冨にちなむ人名
http://mononobe.webcrow.jp/jinbutu/mononobejinbutu3agyou.html

美濃は小字「箕越」 で、県道長安線 生協配送センター入口の信号機、横田さんの家、新しくできたレンタカー屋、吉本さん家がある場所である。
白銀荘からの谷をよじ登る地勢であり、ここに不破の道があった。

朴井雄君
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E4%BA%95%E9%9B%84%E5%90%9B

榎井=朴井
榎井朝臣麻呂の住所は遠山運送の裏側あたり。
大賀さん家あたりが倭だ。

仁徳記
葛城の曾都比古の女 石之日女命
歌謡 山代川の椿 「ゆつまつばき」 の解釈
  ↓
岩波文庫 古事記 P160 五百箇真椿
小学館 新編日本古典文学全集 古事記 P293 斎(ゆ) つ真椿
新潮日本古典集成 古事記 P210 神聖な椿

角川ソフィア文庫 新訂古事記 P151 脚注 神聖な椿
角川ソフィア文庫 新版古事記 P183 脚注 「ゆつ」「ま」 は美称


文庫書紀A252 磐之媛命の歌

山背国(山代、山城) は京都府南部ではない。
長安線道路の下にある吉本さん家から白銀荘への谷間が山背である。

山背河は有冨の古いアパート 白銀荘横 宅地造成地の用水路
筒城(筒木) はそこにある丘陵の竹藪
椿の花には蜜があるので鳥(メジロ、ヒヨドリ) が集まる。 舎人鳥山

那羅 長安線沿い 横田さんの家
 遠山運送の裏 ・・・ 榎井の
倭 大賀さん家あたり

古事記
本牟智和気の御子が遊んだ倭の市師の池、軽の池は遠山運送の裏あたり。

葛城高宮 ハンドウ山の頂から尾根伝いの地 大迫池の上
石上振宮と同じ場所である。


文庫書紀B150  武烈天皇 即位前紀
石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣き沾ち行くも 影姫あはれ

石上布留  ハンドウ山の頂から奥へ行く尾根 磐座風の岩
高橋  山坂道に橋があったか
大宅  「物多」 よりハンドウ山の参道入口あたり
春日  岩谷さん家の東側
小佐保  大賀さん家の東側
乃楽山  遠山運送の小丘陵

有冨古墳群 かつては5基ほどあったという。
纏向は奈良県桜井市でなく有冨古墳あたり。

有冨古墳から山際を歩いて竹生観音の参道下へ行く道が「山辺の道」 である。
有冨古墳(纏向)→大年池→大迫池→薬師池→蒲生野山田

細かい正確な地点はわからないが、那羅・倭は有冨の遠山運送あたり。
遠山運送がある場所の地勢は入口が坂で低い丘になっている。


常陸国風土記の正体は大倭国風土記である。
常陸国風土記の香島郡、那賀郡、久慈郡は下関市有冨の字「中村畔」。
古事記 祝詞 の「山の口」 は有冨 字「中村畔」 で、10軒程度の家々あり。

常陸国風土記の茨城郡、那賀郡茨城里=継体紀の茨田 
文庫書紀B172-末から2行目


下関市有冨の大年池ほとりが古代の "中央" だった。
春日大娘皇女、手白香皇女もハンドウ山の人である。
  ↓
野馬台詩 赤土の場所はハンドウ山である。




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