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zoom RSS 土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム の本 

<<   作成日時 : 2012/03/21 22:58   >>

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研究紀要 第1号  2006年3月
P36
甲殿遺跡のトンボ玉は中国戦国時代の同心円文環状ガラス断片
P30 下から10行目
土井ヶ浜遺跡からもトンボ玉が出土

研究紀要 第3号  2008年3月
P39 13行目
土井ヶ浜南遺跡で製塩土器
P58
吉母浜遺跡の土坑墓 LG20 から イヌ1頭

研究紀要 第6号  2011年3月
P68
角島の後浜遺跡 (場所は、夢ヶア 角島灯台の駐車場北)
古墳時代後期の貝塚では大型アワビの選択がされた。

P79
宮ノ下遺跡や切畑遺跡では、土錘や石錘が出土している。
宮ノ下遺跡では鉤状の鉄製品が出土しており、釣針の可能性もある。
周辺集落から漁撈具が出土しているため、沿岸での釣漁や網漁も充分に想定される。
宮ノ下遺跡では比較的大型のクジラ類の骨が出土している。




土井ヶ浜の神功皇后神社では事代主神が合祀されている。
顕宗紀の阿閉臣事代は神功皇后神社付近の人である。

八重言代主神  角川ソフィア文庫 新訂古事記 P60注
「 言語に現れる神霊。 大事を決するのに神意を伺い、その神意が言語によって現れたことをこの神の言として伝える。 八重は栄える意に冠する 」


宮の下遺跡の クジラ、土井ヶ浜南遺跡の製塩土器から、
万葉集2933 の楽浪の志賀の韓ア は宮の下遺跡である !!!

天智天皇の「石走る淡海国」 は宮の下遺跡である。
土井ヶ浜南遺跡の近くに小字「戎沖」(えびすおく) がある。
また「大平山」 という山もあったような覚えがある。

土井ヶ浜遺跡一帯は古代の祭祀場だった。卜占と言霊神託の場所である。
弥生時代は黄泉の国であった。
オノゴロ島も土井ヶ浜遺跡近くか。

土井ヶ浜遺跡を流れる川は沼川である。
古事記に、
高志の沼河比売
神沼河耳命
万葉集3247 の沼名河


豊玉姫、玉依姫、豊玉彦の場所 の候補地は、
@ 考 名前は地名に因むので、土井ヶ浜は海神の宮の候補地になる。
「貝の道」 の要衝である土井ヶ浜は豊玉彦の地。
A 考 福岡県 旧津屋崎町〜玄海町は山海経の大人国と思われる。
宗像市から丹後半島まで、弥生の土笛(陶塤) が出土する。


『 日本人と弥生人 』   祥伝社NON BOOK 著者 松下孝幸館長 平成6年
P75
土井ヶ浜遺跡の人骨には渡来系の特徴しかなく、在来の女性と混血した可能性が極めて低い。 この傾向は吉野ヶ里遺跡でも見られる。
P76
土井ヶ浜に渡来した人々は弥生時代中期には少しずつ土井ヶ浜から去ってゆき、後期にはほとんど姿を消してしまう。
P78
「貝の道」 ― 貿易ルートの要衝だった土井ヶ浜
P80
海流を見ても、日本海側の波と響灘の波がぶつかり合うのが、まさに土井ヶ浜の北にある附野(つくの) 付近である。
P123
徐福とは、秦の始皇帝の時代の方仕(占い師)と言われる人物の名前である。 かつては中国でも伝説上の人物と言われていたが、最近の調査では少なくとも、彼が実在したことだけは間違いないことが判明した。
P140
釜山の礼安里から4 〜 7世紀頃の人骨がかなり出土した。 日本の古墳時代にあたる時期のものである。
北部九州から人が朝鮮半島に渡った結果かもしれない。


「英雄」 人骨はシャーマン、「鵜の女」 もシャーマン、貝輪も呪術。
土井ヶ浜遺跡周辺は弥生時代中期までは黄泉の墓場、古代 〜 中世は祭祀場だった。 古代の祭祀呪術の場所である土井ヶ浜遺跡周辺は方士徐福の渡来地である !!!


「鵜を抱く女」 から山海経 海外東経の玄股の国
玄股の国はその北にあり、その人となり(股は黒く) 魚(皮) の衣をきて鷗を食う。二羽の鳥を使い、(それを) 脇にかかえている
平凡社 中国古典文学大系 第8巻  P492下

隋書俀国伝の「俀」 は土井ヶ浜の「土井」 と音が似る。
隋書俀国伝に、
小さい環をのくびにかけ、水に入って魚を捕えさせ、日に百余頭は得られる。





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