テーマ:下関

ノロウィルス

寒い冬場に発生する食中毒 糞便、下水にいる カキなどの貝類の刺身、韓国産キムチなど アルコールによる消毒が効かない。 2012-年末年始-2013年 ノロウィルスによる食中毒の発生  山口県西部 12月  シーモール (下関駅ビル) 1月   勝山中学 (秋根上町) の給食 12月、1月   宇部市 …
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夢皇女

岩波文庫 日本書紀(三)  P242 欽明天皇 2年3月 五の妃を納る。 皇后の弟を稚綾姫皇女と曰す。 是石上皇子を生れませり。 稚綾姫皇女は綾羅木の人 石上は竹生観音の山か。 岩山だから砕石場になって削られた。 石上山は有冨の龍王社、石原の小原山も考えられる。 其の二を磐隈皇女と曰す。 更の名は夢皇女。 初め伊勢大…
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豊前隼人

平凡社の地名辞典 山口県巻  日本歴史地名大系 36 下関市  P456上 「豊府志略」 には次のように記す。 火の山と云は社説に12月晦日の夜神事に長州一宮の社官と豊前隼人の社人と海底の和刈を苅て天子え奉り又明神の御供に備ふとなり、 此の神事の刻限京へ注進のため此山の峰に狼煙を挙ぐ、是より山伝ひに京都まで達す、 一説…
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出雲とは

岩波文庫 日本書紀(一) 神代紀 P102 国作大己貴命 国作は福岡県京都郡豊津町の大字地名「国作」 を表す。 行橋の下稗田遺跡と下関の綾羅木遺跡は似てる。 地名も似てる。 川棚も弥生貯蔵穴がある場所であり、二重土壙は綾羅木川の伊倉遺跡と川棚温泉近くの宝蔵寺遺跡にあり、生活文化が同じである。 出雲の領域は弥生貯蔵穴が…
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光蓮寺 室津

光蓮寺  室津の小字「戸通」 防長寺社由来 第7巻 P688上 藤原氏 白鳳元年辛酉天智天皇近江国志賀郡唐﨑宮、人王の初(自)神武天皇38代云云、同8年彼御宇、于時家臣鎌足(改中臣)連姓初而賜於藤原姓内大臣大織冠、自天皇懐胎ノ一女御給於鎌足、則生男子、淡海君是也、為鎌子続藤原姓、旨趣見于系図 ・・・・・・ 藤原末孫新…
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川棚 の遺跡

川棚には弥生時代の高地性集落があった。 ⇒ 軍事的緊張ありの場所 高野の「上の原」 には弥生時代の貯蔵穴があった。 吉永と J R 川棚温泉駅の間の北無田には弥生遺跡が広がることが分かっていたが、みかん畑の造成によって未調査のまま破壊された。 私見 記紀の筒木(筒城) は厚母の都々里遺跡だろう。 「都々里」 の…
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黒井 日本武伝説

黒井村郷土史の中に谷ヶ浜紺屋善助文書(やつがはま こんやぜんすけ) なるものが発見され、その中に「日本武尊 農耕指導地」 なる一文がある。 ヤマトタケルの命の穴戸の神の説伏に関連するものとして紹介する。 「長門国名勝記」 に安須波(やすなみ)の原といえるは此の八ヶ浜の景地なり。 人皇12代景行天皇此の安須波の原に臨…
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速吸の門

記紀・万葉の東西南北はどうでもよい。 筑紫と竺紫はどうでもよい。 日向という場所は複数ある。 邪馬台国(倭国) の位置は本州の最西端である 永田郷、吉母、御崎、蓋井島、厚母、室津、黒井のあたり。 速吸の門は永田神社である。 潮の干満を利用した入り浜式製塩が行われていた。 長髄彦は永田郷の人。 …
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室津から吉母へ

元寇の時に、元の使者が室津に来ているので室津は難波だ。 室津の若宮神社は仁徳天皇を祭る。 厚島の男島(おしま) に縄文遺跡がある。 川棚沖の男島がオノゴロ島になろう。 吉母の字「樋の口」 が出雲の簸の河である。 船を造る安芸国は吉母の「安常」 である。 ということは吉母は出雲になる。 素戔嗚尊は吉母から室津に向…
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吉野宮  吉永の白滝

山口県風土誌  P462 殿屋敷  吉永村の白瀧の殿屋敷 同上に往古白瀧村の領主、此所に居住被仕たる由、其故に殿屋敷と申習し候由申伝候とみゆ。 ここが雄略天皇の吉野宮だ !!!!! 豊浦町史によれば、白滝に「船頭ヶ迫」 という地名がある。 泊瀬だ。 個人ブログ様のリンクを張らせてください http://www…
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美和山  鬼ヶ城

山口県風土誌 P461  墳墓 牛鬼森 (厚母村の王子の木布禰)  由来書に、牛鬼神と申は往古上部甚左衛門尉久延と申仁、何方へか他出仕候処に十八九成化生の若児来り、甚左衛門妻に心を懸け夜毎に来候。 甚左衛門帰り候に付、妻女右之物語仕候へば甚左衛門不信に存、弓箭志度仕、同夜戸少し明け待、夜半時分又児(ちご) 来り、家内を伺…
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吉母・永田郷  地元の 言い伝え

吉母・永田郷 地元の人の言い伝え 神功皇后の三韓征伐は吉母を本陣としていた。 このため大和朝廷の人が吉母に何年間か住んだ。 一の宮の住吉神社よりも吉母の若宮神社の方が格が上だった。 老人ホーム梅花園の上に日野大納言の砦があった。 永田石原の山中から妙寺にかけて、物凄い数の五輪塔がある。 梅花園近くをブルドー…
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八俣大蛇  吉母

山口県風土誌 吉母  P439 地蔵堂 ツツミ堂と称す。 同上(吉見上村 観音院持) 云う、 往古武田の番匠妻此所にて死去仕に付、右の石仏を立置候哉、右の石仏を番匠手斧作りの印の石と称す。 さて又ツツミ堂と申は、堂の後を不門と云、前をは江ノ川と云、中に有之堂故かツツミ堂と云習わし候。 私見 江ノ川という地名があ…
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永田郷 吉母 蓋井島 室津

山口県風土誌 から 永田郷 八柱神社  旧号 八王子神社  永田郷「名切」    祭神 田心姫命 湍津姫命 市杵島姫命 天忍穂耳尊 天穂日命 天津彦根命 活津彦根命 熊野大隅命 誓約(うけひ) 気吹の狭霧(いぶきのさぎり) で生まれた八神である。 妙音寺にあった2つの神社 厳島神社  祭神  市杵島姫命 …
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本州の最西端  毘沙ノ鼻から 邪馬台国が見える

万葉集原文では「西」 の字が変わった使い方がされている。 神西 205 立西 443 夢西  いめにし 2995 1620 ・・・・ 1621 は巫部 2569 3162 ・・・・ 3164 は室津 710 ・・・・ 安戸扉は天石屋の戸 591 など
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日下 くさか

御崎の海岸へは長靴で川の土手を下って行く。 小川の河口は汚い。 漂着したゴミの中には韓国のペットボトルもある。 河口から岩の海岸を右側へ行くと祠がある。 弁財天を祀る。 御崎から室津「椿原」 「山中」 に抜ける山道を「かみ越し」 という。 三角点がある高い山を 小倉の辻(308.7m) という。 電波塔がある山は …
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吉母  山口 印内 金畠

吉母と室津との境 草場川の上流 に、小字 「山口」 「印内」 「金畠」 がある。 山口県風土誌 吉母  山口 ・・・・ 仁徳記 山代河 那良の山口 御堂ヶ澤 由来書云、往古此所に伽藍有之、已後退転仕、小堂残り観音二尊・不動・毘沙門一所に有之、此堂を観音堂と云ふ。 小名を御堂ヶ浴と申習し候。 尤東光坊御堂ヶ浴共…
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武庫

万葉集 1141 武庫川の 水脈(みを)を速みと 赤駒の あがく激(たぎち)に 濡れにけるかも 武庫河 水脈急 赤駒 足何久激 沾祁流鴨 岩波書店 新日本古典文学大系 萬葉集二  P129 脚注 第2句の原文、非仙覚本は「水尾急」、 西本願寺本など仙覚本は句末に「嘉」の字がある。 おうふう 萬葉集 武庫河 水…
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毘沙ノ鼻 万葉歌碑

毘沙ノ鼻展望台の歌碑 長門なる 沖つ借島 奥まへて 吾が思ふ君は 千歳にもがも 歌碑の歌は、天平10年(738)、長門守巨曽倍対馬(こそべのつしま) が都で催された橘諸兄(たちばなのもろえ) に詠んだ歌である。 「長門の国にある沖つ借島の名のように、心の奥に深く思っているあなた様は、千年も長生きしてほしいものです」 と…
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吉母の 漁業

吉母 黒嶋観音 奥之院 に書かれた吉母  吉母漁業の起源は北浦で最も古く、且つ進取の気運が漲(みなぎ)っていた嘉永年間頃より4トンから5トンの4・5人乗りの帆船で朝鮮の釜山沿岸で鯛の流し一本釣り漁を行っていたが、食糧や水の補給は言葉が通じない為困難を極め、暫々紛争を起こし決死の覚悟で上陸を敢行していた。 この勇猛巧みな開拓魂…
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邪馬台国はここだ!  永田郷

魏志倭人伝の邪馬台国は梅ヶ峠 妙音寺 のあたり。 考古学に基づく根拠は 永田郷の御堂遺跡から出土した縄文時代の木棺墓とガラス に拠る。 御堂遺跡の場所は、ラブホテル むらさき の北100メートル 川沿いの林 宗像の鐘﨑から東側 ~ 山口県西部 山陰側 の海を響灘といいます。 鐘﨑から西側が玄海灘。 …
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淡海の 韓人

記紀・万葉の淡海は古く入り浜式塩田があった永田郷である。 入り浜の塩田があって塩の産地、または海水が湾の奥まで入ってきていたので淡海の辛﨑。 古事記 市の辺の押歯の王 淡海の佐々紀の山の君が祖 韓帒 ・・・・ 永田郷は韓人の地 万葉集4268 題詞 に佐々貴山君 玖須婆の河 ・・・・ 楠乃 針間の…
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永田郷「大居」 の 日の殿

吉母の漁師は北浦(山口県山陰の海岸) では一番古く、朝鮮の釜山まで漁に出かけていた。 吉母の黒島は昔は陸から離れた島で、黒島と付近の浜は松林だった。 往時、黒島周辺は松が茂っていたので難波の姫島である。 吉母は倭国の難波である。 「楽浪の志賀の韓﨑」 である淡海国は永田本町である。 塩田が埋まるまでは地形が淡海だし…
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作業用メモ 6

巨曾倍、阿倍 は「部」でなく「倍」 の字 万葉集1141 武庫川の水脈(みを)を速みと赤駒のあがく激(たぎち)に濡れにけるかも 武庫河 水脈急 赤駒 足何久激 沾祁流鴨 兵庫県の武庫川はとても大きな川であり、急流や激(たぎち) は西宮市のかなり山奥になる。 万葉集1230 千磐破 金之三埼乎 過鞆 吾…
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御井

長田王 伊勢の斎宮に遣わされた時、山辺の御井で歌を作る 万葉集 81 山辺の 御井を見がてり 神風の伊勢娘子ども 相見つるかも 83 海の底 沖つ白波 立田山 いつか越えなむ 妹があたり見む 長田王は下関の永田の人であろう。 寧楽宮 84  長皇子 志貴皇子 佐紀宮 佐紀宮は御崎か 高野原は高天原か ※ …
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淡路の多賀

邪馬台国は   環境センター吉母管理場   廃校になった梅光学院大学 梅ヶ峠校舎   海上自衛隊下関基地がある永田本町・永田郷   厚母大仏 ・・・・ 重要文化財 (旧国宝)   豊洋台 のあたりにあった。 万葉集の長門の浦は、まさに永田本町の景色である。 永田は長門の転訛である。 出雲の御大の大前を毘沙ノ…
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吉母は日本の難波だった

川棚の高野には大きな遺跡があるが、川棚川の河口まで距離がある。 万葉集の難波は吉母に合致する。 仁徳天皇は吉母の若宮神社を都とし、枯野という船で蓋井島の井戸水を朝夕2回汲みに行かせていた。 万葉集303、304 柿本朝臣人麻呂の、筑紫国に下りし時に海路にして作りし歌二首 名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根…
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吉母 相坂

吉母は「汀の里」 と呼ばれていたので、出雲の五十田狭の小汀である。 楽浪の志賀の韓﨑は国つ神の浦なので、吉母だ。 淡海の大津宮は吉母だ。 漢委奴国は「極南界」 と語られて国土の端にあるので吉母。 吉母、石王田は縄文遺跡があるので、古くから人がいた。 相坂は永田から吉母へ行く道だ。 地元の伝説では、神功皇后は吉…
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御堂遺跡 永田郷

下関市で景色が素晴らしい場所は   秋根の砂子多川 ・・・・ 江戸後期に毛利藩が曲水の宴を行う   吉見・永田沖の加茂島 ・・・・ 下関の画家か必ず絵にする   角島大橋 ・・・・ エメラルドグリーン 万葉集は景色が凡百でないから成立した。 家の近くの景色を見て感動感激が湧き起こらないなら歌の文化は生じない。 眺めて月並…
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吉備穴門武媛

防衛省自衛隊の戦史研究センターの研究員が白村江の戦いを分析すれば、大船団が行く途中の岡山県などで物資を補給する兵站の記述が日本書紀にないことが疑問である。 私の個人的な研究では、日本書紀の播磨国は福岡市の志賀島であり、古事記の針間は下関市の椋野である。 吉備は下関市の阿弥陀町 ~ 唐戸 ~ 竹﨑 ~ 大坪 ~ 武久 ~ 綾羅…
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