徐福祠は豊北町 角島にあるはずだ。

ゼンリン地図 角島
沖田遺跡付近 徳田港=古事記 角賀の

万葉集351 
歌人 沙弥 満=嬴、瀛

角島八幡宮 本山の字「法釈」
牧崎の無井港 無為か
徳蓮寺 慶長7年創建 山号 无為山 字「高場」 葛城の高額比売か

角賀の仮宮 字「仮畠」(仮屋)

地名「法釈」は学・教養がありそうな漢語だ。法子(方士)+釈放 か。
夢崎という地名もなぜ「夢」なのか。廟+巫女。欽明紀の秦大津父か。

角島の地誌 道家思想が見られる。

沿岸交通の要衝・要害でを置くべき所 海北道主の中 貴
 陸地 宇賀本郷
 海上 角島灯台 

徐福の話と田道間守の話は似ている。
参考
『安曇族と徐福』 亀山 勝 龍鳳書房 2009 P299

字「森の前」 人名は地名に基づく。
 森 田道間(多遅摩毛理)
 前 古事記の津見
  ↓
但馬国の場所 角島の字「森の前」

土井ヶ浜の川は沼川 古事記 高志の沼河比売
角賀は角島である。神功皇后は角島の人である。

シガ 志賀、滋賀
意味
同上書 P284 商人、魚の行商

『向津具半島の民俗』 北九州大学民俗研究会 昭和43年
P121上 シガ=行商人

秦王国
中国人なので向津具 久津の二尊院(楊貴妃伝説)だろう。
天武天皇、吉備真備、高向玄理、漢皇子も向津具 久津の人だろう。

徐福祠の場所. 推理

『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
口絵8、P69 徐福相(廟か)

油谷島
油谷伊上「夷島」
土井ヶ浜 片瀬遺跡(山口県最古の水田跡)
和久「支度」

油谷島、角島の住民には漁業権がなく農業の島だった。

秦氏 下関市
県住 稗田団地 「畑」

幡生・武久
弥生 古い時代の水田跡
武久浜石棺 半両銭
椋野の岩屋古墳 酒甕の祭祀
椎の木原 大きな蓋石 関西系土器
大学町 権現山 経筒

北宇賀
太田「畑」 田耕神社 中国戦国時代のトンボ玉

秦河勝
仁徳紀 河伯 播磨国は吉見下-古宿

豊北町 和久 地名由来 酒が「湧く」


秦大津父 欽明紀 即位前紀
に人有りて云さく
山背国 紀郡 深草里
向津具本郷 迫田 字「後山」か。小名「十日神」
油谷島(おやじま) 字「油谷」 父=おや

欽明紀の秦大津父は、
応神記の伊奢沙和気の大神 角賀 御食津大神 角島の夢ヶ崎か
継体天皇の出身地 向津具 谷河内堤 字「坂中」
葛城人言主の大神
山海経 海内経 嬴民 人主得て之を饗食すれば、天下に伯たらん。
などにも通じる。

夢ヶ崎 角島灯台
欽明紀 夢皇女
夢崎明神 海女が造った石垣。ハマユウ自生。大型のアワビを選別した遺跡

沖田遺跡 角島大橋の橋ゲタ下 公園付近
夜臼土器、関東系土器
角島の沖田遺跡、下関市の六連島、小倉沖の馬島
弥生初頭 本州の本土より早い。 豊北町史 昭和47年 P103 とあるが、下関市内日から夜臼土器が出土している。

角島 自然館「飛渡」
シュメール文字の石碑
揚子江の氾濫で流されてきた中国製木仏が角島に漂着
鯨が打ち揚がって死ぬ。

角島には百済王子が漂着して住んでいた言い伝えがある。筑紫の各羅島は角島だろう。

元山 積石塚
大浜 阿曇連の祖 大浜宿禰 応神記 文庫書紀➁194‐8 佐麼阿摩
阿曇氏は徐福と関係がある説 


三浦山遺跡 特牛
ドルメン、積石塚

以上の他にも何か所も候補地がある。
徐福祠は角島にありそう。


倭 有冨中村、向津具本郷
大倭=讃 有冨大迫池
日本=赤関 吉見の古宿-福江の大塚
大日本 向津具本郷には広大な条里制跡があった。

委奴

岩波文庫 日本書紀(二)
文庫書紀➁124‐8
国 紀伊国の徳勒津宮 北九州市小倉南区 徳力 (徳利木)
熊襲は小倉南区 長尾の八坂神社(祇園神社) 素戔嗚尊の裔
  ↓
倭国の極南界 奴国 小倉南区 長尾
後漢書 金印「漢奴国王」の位置が判明した。春日市奴国ではない。


北九州市史 総論 先史・原史 1985
小倉南区 長尾 八旗神社古墳 双龍環頭柄頭

弥生時代
八幡西区 馬場山遺跡  双頭龍文鏡
若松区 岩屋遺跡 双頭龍文鏡

山海経・列仙伝 全釈漢文大系 集英社
海外経 P399
方の神は祝融、獣の体に人間の顔をして、二匹の龍に乗っている〔火の神である〕。

中国神話・伝説大事典 大修館書店
【 神農 】 P373中 神農は人の体に牛の首 ・・・ 牛頭天王
【 神農、琴を作る 】 琴 ・・・ 素戔嗚尊

神農といえば薬

下関市有冨の薬師池の北側と北九州市小倉南区 長尾 八坂神社 (祇園神社) を直線で結べば仁馬山古墳が線上にくる。薬師池の西岸か北岸から50m上がった所に聖地があるようだ。目立つ古墳は方位の正確な目印になっている。
神農は炎帝であり、炎は南の方位なので、小倉南区長尾 八坂神社あたりが神農の地である。

【 炎帝 】
淮南子 時則訓
方のは、北戸孫の外から顓頊の国を通って南方の火炎風の野に至る。そこは赤帝と祝融のつかさどる土地で一万二千里ある
  ↓
「極南界」の


邪馬台国 下関市有冨中村(倭王の讃)、福江の大塚・船越・古宿(河内王朝)
狗奴国 北九州市小倉南区 長尾(倭国の極南界 委奴)

菟道河は向津具の本郷川だ。

本当の、真の伊勢神宮 楊貴妃漂着の向津具 川尻岬「唐渡口」
長門市向津具 川尻岬の御崎神社または日吉神社(大済神社)である。

川尻岬付近 字「大石」 神風の伊勢の大石

北九州大学民俗研究会  昭和43年度調査報告
『向津具半島の民俗』
P127下 向津具 迫田 妙見社御縁起
上田家の遠祖が神鏡を掘り出す
  ↓
文庫書紀➁24‐9
近江の村のの陶人は天日槍の従人なり。 ・・・ 河内堤

藤原鎌足は669年、淡海の第に薨じた。

藤原宮は向津具本郷にあった。
大和三山は向津具八幡宮、亀山神社、宝珠山である。

菟道河は向津具の本郷川である。
向津具 本郷山崎は京都府宇治 山崎 に地名対応している。

文庫書紀➁122‐8
蘆髪蒲見別王 注十 足別王
白鳥 字「本郷鳥子」 鳥髪
父は是なり。

但馬国は油谷島の字「則国」 清彦は油谷島 字「清水」


油谷町史 1990
P147
油谷町 伊上
鴨野海中出土の須恵器甕 長府博物館蔵
渟田門で海の魚に注いだが入れられていた。 文庫書紀②126‐3

山口県神社誌 平成10年
P993
伊上八幡宮
瀬で漁業をしてたら大岩の上に神鏡が現れ、「我は応神天皇、則ち八幡宮なり、この地に来る」 との神夢を蒙った。
  ↓
仲哀紀 文庫書紀➁124‐5
熊田造が祖 大酒主が女 弟姫を娶りて、誉屋別皇子を生む。
注八 ...「来」を「」に作る。 

油谷町の昔話 第2集
P144
久津郵便局の東南にある福田という家のかどなは「高麗」(こうら) であり、
「一寸八分の観音」 が伝わる。

山口県風土誌 11巻  向津具下村  字地 小字地 小名
迫田  粕屋 十日神(とびかみ) 道元(どうぐわん)
  ↓
扶桑 10個の太陽
隅田八幡宮 人物画像鏡 日十大王

道元(どうぐわん) 元を「ぐわん」 と読むのは呉音だ。

文庫書紀➁124‐8
国 紀伊国の勒津宮 北九州市小倉南区 力 (徳利木)
熊襲は小倉南区 長尾の八坂神社(祇園神社) 素戔嗚尊の裔
  ↓
倭国の極界 奴国 小倉南区 長尾
後漢書 金印「漢委奴国王」の位置が判明

升=昇 と見て、
文庫書紀①138‐末行
是の時に、帰順ふ首渠は、大物主神及び事代主神なり。 乃ち八十万の神を天高市に合めて、ゐて天にりて、其の誠款の至を陳す

帥升 (複数) は大物主神と事代主神である。


参考
「蒲生寺中古墳が語る神功皇后と朝鮮出兵」 宇野 愼敏
2019年8月20日(火) 朝日カルチャー 北九州

地名 全国か、地方の話か

田中英道「秦氏ユダヤ人は日本に同化した」日本国史学会連続講演・平成三十年12月8日拓殖大学

記紀、万葉、風土記を読んで、これらは一般に流布してるように奈良県・大阪府を「中央」にして、全国の地名と見るか。それとも記紀、万葉、風土記の地名は、ある地方の県の半分くらいの範囲と見るか。

講談社学術文庫 日本書紀(上)(下)  宇治谷 孟 は地名・人名などの漢字を入れ換えているので、この本では人の家系図しか分からない。現代語訳は中公クラシックスの日本書紀が薦められる。
原文の漢字表記を重視しない人は邪馬台国 関西説である。
原文の漢字表記を絶対視する人は九州説 他である。

表記の漢字を入れ換えた本など読めるかよ。改ざんだぜ。
万葉集は漢字原文・ルビを読み、訓読文は別物なので読まない。
邪馬台国=倭国 は記紀、万葉、風土記の場所である。


考古学は合理的な史実を証明しているか。

考古学による政治的見解
考古学は「規模」を単一尺度にして、「規模」で階層づけし、それを「事情」に応じて細かく修正する。これが考古学者の研究手腕となっている。

考古学従事者の20人中19人は記紀、万葉、風土記を読んでない。読んでいても図書館で該当部分10枚程度をコピーするだけ。部分コピーでは積み上げができない。だから地元神社の祭神や地域の伝説・伝承を理解できない。関心もないので、地域の郷土史料は読まない。考古学は文学部というより土木課だ。

古事記の現代語訳も読んでないので、書店や図書館の古代史の本は読まない、読めない。『季刊 考古学』だけを読んで「業界」の動向に順応している。問題点、論点がどこにあるか、知っておかない者はバカ。邪馬台国の存在・位置は扶桑や東海の君子国、徐福など、中国の古代史とも関係する。ずいぶん前の歴史雑誌のバックナンバー(例えば『東アジアの古代文化』 大和書房)は読む価値ある。

考古学で解るのは、モノがただの石か石器か土器の破片か。
土器の破片なら、どこのモノと同じか。場所を見て遺跡があるかどうか。
これらも「規模」を単一尺度として判定される。大きいことはいいことだ。

森浩一など記紀、万葉、風土記をとてもよく読んでいたが、地名は通常どおりの全国の各地域だった。
たとえば「越国」なら福井県。福岡県でも磐井の乱は久留米市付近の「筑後」。「日向」なら宮崎健・鹿児島県。

地表の古墳がある、土中から証明するモノが出てくる。それが歴史の工作だという疑問を持つのは、記紀、万葉、風土記は、とある地方の狭い地域の郷土史であって、全国の地名ではないと「感じる」思いを持てるかどうか。

「疑問を持つ」「問題提起をする」「ここはオカシイと言う」ことは大学2年生でもできる。それを自分で解決して「解答」を出すなら、毎日10時間で10年。費用も200万円、300万円かかる。毎月2万円で10年、15年だ。

記紀、万葉、風土記は奈良県・大阪府を「中央」にした日本列島全国「各地」の地名ではない。ある地方の県の半分くらいの狭い範囲に全部がある。そこが邪馬台国であり、百済・新羅の東南に位置する。大海の中にある。山島だから平野がない。

懐風藻を読むと「無為」の政治である。淮南子が愛読されている。


邪馬台国の場所を見つける方法論
記紀、万葉、風土記等を読んで記述がオカシイ点を探す。

原文の漢字を変換している本は買わない。
万葉集は漢字原文・ルビで読み、訓み下し文の万葉集本は買わない。

地方史料、地誌をよく調べる。小字の地名は重要である。


下関市有冨のハンドウ山は前方後円墳の祖形である。
形山交差点(農協ガソリンスタンド、ガスト)、石原橋から北西(乾・天)方位の有冨ハンドウ山を見れば、山頂が前方後円墳のミニチュア形である!
もっと近づいて見たい。石原の光明寺から有冨ハンドウ山の頂を見る。この眺めは万葉集の忍坂か。感動的だ。

根拠
『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
口絵8 長門国の「讃」 天子南面より綾羅木川の北岸 有冨に比定できる。

下有冨石棺 朱塗り
ホームワイド裏の台地 朱を作る石杵
竹生寺の縁起 奈良東大寺 お水取り 金実忠の開山時に孟宗竹が生えていた。

有冨の山に決め手がある。鳳形の山。

帯方郡から東南の方角とは

『 現代語訳 魏志倭人伝 』 松尾光 新人物文庫 2014
P54
➀黄海北道 鳳山郡 沙里院説
➁ソウル付近説

私見
沙里院-ソウル付近-慶州 を結ぶ直線の延長(東南)は「美しい国」山口4区(長門市・下関市)


P17
かつて縄文弥生各時代の遺跡から牛・馬の骨が出土したとされたが、年代測定の科学的分析により後世の遺物が混入したものとして撤回されている。

参考
『北九州市史』 総論 原史・先史 1985
小倉南区
長行遺跡 長尾小学校 縄文晩期 馬の歯 P269
下徳力 弥生後期後半 牛骨 2頭分以上 P495


隋書倭国伝
P148
倭の地形は東が高く、西下がりになっている。
川は東から西に流れる。とくに首都の邪靡堆(魏志の邪馬台)がそうである。
筑豊の遠賀川、福岡市、行橋市、奈良県、四国の地形ではない。

P164 
夷人は里数を知らざれば
日数 七日
万葉集
1748。1750 峯(向津具の山)
2435。2440 公(油谷 蔵小田)  

歩数 出雲国風土記 山海経 海外東経 青丘国 豎亥
出雲国風土記の場所は下関市 福江 根拠 地名「屋代」


倭人は帯方の東南の 山口県西部山陰
大海の中に在り 内海(瀬戸内海、有明海、博多湾)でない外海。響灘の沿岸。
山嶋に依りて 半島地形の向津具など。リアス式海岸の地。広い平野なし。
国邑を為す 首都は海辺にある。海が近い。内陸ではない。

邪馬台国はリアス式海岸である。広い平地の佐賀・筑後、大阪府ではない。
徐福は東渡して平原広沢の王となったので倭人の地ではない。

壱岐から末盧国に行く 「南して」がない。方角が不明である。
海流の流れは北東・東北東だから、船は長門市・下関市に漂着する。

投馬国=竹斯国 と見て、
➀遠賀川下流 東岸 日の峯山付近の水巻(みづまき)町
➁岡垣町波津

多婆那国 長門市正明市 作家 いき一郎の説
女人国 岡垣町波津 大年神社の言い伝え

吉備真備は唐からの帰途、長門市仙崎に漂着して素戔嗚尊を祭った。
安倍清明 簠簋内伝金烏玉兎集 牛頭天王縁起より、岡垣町波津が竹斯。

韓国 公州 丹芝里横穴墓-長門市仙崎・藤中横穴墓 

金印の奴国 有冨中村

邪馬台国の位置、場所は下関市有冨 字「中村畔」

証拠
『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
口絵8、P69【 図35 】

山口県西部山陰
迎江 ・・・ 楊貴妃漂着の伝説地 長門市向津具
徐福相(廟か) ・・・ 隋書俀国伝の秦王国か 油谷・日置、土井ヶ浜あたり
長門 ・・・ 長門市の中心街・市役所付近
団長(周長か)
修後
修前
赤関
讃 ・・・ 倭国の極南界か
の場所を特定する。

赤関
赤間関
垢田ノ辻(江戸期の関所、蓋弓帽・清白鏡が出土)
が思いつくが、私見は吉見の古宿 大久保、船越、福江の大塚である。
海上自衛隊基地~串本岬の海岸は赤石が露出している。

住吉大社神代記 場所は吉見下 古宿

 有冨上(県道 長安線の山側)
下有冨石棺 朱塗、耳環
石原 ホームワイド裏の台地 朱を作る石杵が出土

風水の地名
青山 青は東
火の山、火の見山 火は南。円錐状の山は尖りの火炎で南
四神の玄武は竹生寺。東亜大学の北側 字「四方山」は真南

風水方位、天子南面より綾羅木川の北岸 有冨 字「中村畔」、有冨墓地
あたりが讃。

後漢 光武帝の金印 倭の奴国 下関市有冨 字「中村畔」
儀万という家 中国古典、道教風の姓

天御中主尊の神社
向津具 谷河内堤の妙見社
室津 若宮神社
有冨上 山田(大迫池の山側か)
垢田 黒崎妙見 鼻ヅラ

邪馬台国の思想
懐風藻から「無為」が根本思想
「無為」なので城造りはない。風水から直線を嫌い、大道なし。

東海の三神山
『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
P50 に記述


天門 (方位) Wikipedia
天門(てんもん)とは、北西(西北。乾=いぬい:戌と亥の間。)の方位のことである。 陰陽道では、怨霊や魑魅魍魎などの災いが出入りする方角であるとして、忌むべき方角としている。この天門を鎮めると、家運が永久に栄え、子孫が繁昌するとされる。他の方位神とは異なり、天門は常に乾の方角にある。

下関市 有冨中村から見て、天門の方位は福江、海上自衛隊 下関基地の箙山
長門市 向津具から見て、天門の方位は新羅の慶州、帯方郡のソウル市

江戸時代まで教養とは方位(干支、陰陽道、風水、星座など)である。
讃から見て、赤は天門(乾)の方位にある。
福江の大塚には「矢」の小字地名がある。字「矢瀬」「やびつ」
JR大久保山トンネル(豊関建設資材置場の崖海岸)は天の磐盾。
神武東征では石原の横川砕石場の川崖も磐盾である。

道教では岩山、磐盾は洞天福地の神仙郷で仙人が居る所である。
前方後円墳の葺石は岩山、円筒埴輪は竹を表現している。
デザインの図柄 △▽ は雷の稲光で鳴神である。神は豊隆たる雲神・雷神で、これを操るのが神功皇后の裂田溝の鬼道である。

蒼天は青空ではなく灰色の雲が湧き立つ所。開闢渾沌の陰陽二気が渦巻く。
老子の玄牝は雷が落ちて木が倒れている所。鳥見の白庭は白石が拾える所。
山桜が多い有冨墓地、大迫池の東側 山地番の小名「山田」

参照
「老子」を読む 楠山春樹 PHP文庫 2002
P86 六章 造化の営みは永遠

縄文の火焔土器は老子の六章
淮南子の天文訓=日本書紀の冒頭 北西の不周山は福江大塚の大久保山
不周山=周狄山か 神仙伝 墨子 根拠 赤松は福江大塚 船越川沿い

万葉集131 石見国 柿本人麻呂
福江大塚 JR大久保山トンネル(豊関建設 資材置場)の崖山の上から七曲り海岸の磯を見て詠んだ歌

中国の神仙思想は東夷たる日本が発祥地である。
易経の太極図  勾玉、土井ヶ浜遺跡の貝輪 

懐風藻序に 神后を征し、品帝に乗ずる とあり、有冨上から見て、坎は北方で向津具、乾は北西で福江・古宿の方向である。

山口県風土誌
福江の大塚 字「王仁」の皇子八幡宮は「応神」と記されている。
八幡宮(中村畔。岩谷さん家前)の祭神は応神天皇のみ。

御崎神社は向津具総鎮守の神社だった。

2011年07月02日

向津具の 日吉神社
<< 作成日時 : 2010/08/28 11:17 >> より転載
大津郡志 より  P110~

日吉神社  向津具村大字向津具上字宮下2248番地

祭神 
大山咋大神

相殿 
国常立尊 国狭槌尊 訶志古泥尊 伊弉冊尊 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 
天津彦穂邇々杵尊 大穴牟遅尊

※ 「訶志」 は古事記の 「筑紫の訶志比宮」 の字である。

合祀
旧御崎神社
祭神は、
大巳貴尊 事代主尊 咩比鞴尊 瑞津比咩尊 高照光姫尊

由緒
聖武天皇の天平年中、大済神社と称し・・・・
桓武天皇の延暦年中、近江国志賀郡日枝山より大山咋神社を勧請し・・・・
当社境内に伝教大師即ち最澄大法師の祠字があり、木造を安置して村民の崇敬するところとなってゐた。

御崎神社由緒
創立年代は明らかではないが、社伝によれば、往古は戸﨑と称する御岬の鼻の﨑嶇たる磯辺に鎮座の由である。・ ・ ・ ・ ・ 向津具総鎮守の神社であった。 安政3年社殿再建、三社並に(八幡宮、天満宮、山王権現をさす)米20石盛立の無心、半方盛立が成った。明治6年11月22日、維新の改革によって、村社日吉神社の摂社となり、さらに39年12月1日発令の神社整理にもとづき本社に合祀した。由来は実に古い社で・・・・

例祭日
10月10日、特別由緒ある祭日、春祭4月10日
合祀御崎神社例祭5月13日、この日には村内は勿論他村よりも参詣し、各自御重を持参して風景絶佳の岬の草原に坐して打ち興じ、日の暮れるのも覚えないといふ盛況であった。 ・ ・ ・ ・ ・

※神功皇后は三韓征伐のとき、雲州日之岬、筑前鏡の岬、長州向津具岬を三柱三神として御祈祷されたと伝えられる(大津郡志)


向津具の総鎮守の神社は御崎神社であった。

油谷町史では御崎神社は、
社殿は近所の戸﨑の磯にあったが、風波をよけて現在地に移転。

船は向津具の川尻岬から朝鮮方面に出航した、川尻に着岸した、と考えられている。


『油谷町史』 1990  P863
向津具上 上野の日吉神社は大済神社と称していた。
御崎神社は日吉神社の摂社である。


記紀・万葉の伊勢神宮は長門市向津具の御崎神社である。


末盧国=向津具 川尻岬 唐渡口 説
神風の伊勢の度会県 ソウルー慶州 の南東=巽=風

向津具書紀

三重県 「川尻」は三重県の地名
四日市市 川尻町
多気郡明和町 川尻
  ↓
私見 伝説 楊貴妃漂着地「唐渡口」付近にある御崎神社の祭神中の 鞴比咩命
は天照大神である。素戔嗚尊との誓約の時、天照大神は武装。
ここが神風の伊勢の度会県だ。
  ↓
継体紀 文庫書紀③172‐11 伊勢大神の祠

神功皇后も新羅に渡る時、男装で武装。
油谷の言い伝え 神功皇后は向津具の川尻岬から渡海した。

向津具本郷の小字
字「本郷鳥子」 鳥上
字「宗清」 根の国 清 (すが) 付近に隠れ田があった
字「坂中」 継体天皇の出身地 坂中井
字「本郷厚矢」 厚皇子
字「白坂」 白坂臣

亀山神社 「赤土の小野」にある。 雄略紀の「道小野」か 道は道教

大迹天皇 須佐之
国 須佐之男

継体天皇は農業を重視した。
向津具には広大な条里制があった。 広国、広田、広野、秋津島
継体紀は朝鮮半島・済州島と一衣帯水である。
  ↓
日本書紀の3分の1は向津具である。

対馬の対岸に位置する向津具
15年前、門司の海上保安庁で海流地図を見せてもらった。
対馬の厳原→沖ノ島→向津具  真東に行く海流がある。

倭人は帯方郡から東南の方向、大海中の山島の邑にいる。
秘境の向津具 辺境ではなくは倭国の首都だった。山跡、倭島
詩歌は向津具で誕生した。

雄略紀の補注 七 文庫書紀③353下 身狭村主・檜隈民使博徳
牟佐村首、呉孫権男高之後也
… 倭王武の上表文の筆者との関係も考えられている。

油谷後畑 村の人か。

継体天皇 古代史の論点
八幡和郎 2019年10月27日
「継体天皇は新王朝」という万世一系否定論を論破する - アゴラ

YouTube の動画
【 7 《九州王朝史観》の最新の研究成果から考えられること 】

団長 修後 修前

『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
口絵8

団長 豊浦団 宇賀本郷 弾正原
修後 狗留孫山 修禅寺
修前 豊田町城戸、豊田町手洗

赤関 永田本町-吉見漁港-古宿  赤石が目立つ海岸 福江の大塚 字「王仁」
讃 有冨上 県道 長安線の山側 ハンドウ山-有冨墓地-竹生寺


古代官道が通ってない。
  ↓
倭国があった場所 山口県 響灘沿岸  響灘=宗像 鐘ノ岬 ~ 向津具 川尻岬
 下関市の山陰沿岸。綾羅木川の北側天子南面」、河内王朝は船越・古宿
 長門市油谷・日置 ・・・ 秦王国、徐福入植地、蝦夷

蝦夷 雄略紀の最後 文庫書紀③90
征新羅将軍 吉備臣尾代
吉備国 娑婆水門
丹波国の浦掛水門 「掛」の地名 二見の掛地、油谷の掛淵川

竹斯 隋書俀国伝
向津具で楊貴妃が漂着した場所「唐渡口」付近の小字「竹津」 川尻岬の西側
参照 『油谷町史』 1990 小字地図

秦王国
川尻岬 → 向津具 小田大浜 → 日置の坂本 → 日置 古市 → 日置八幡宮 (秦王国)

日置は平地が広いわりに条理制が小さかった。

Wikipedia
根使主(ね の おみ、生年不明 - 推定470年(雄略天皇14年4月))
は『記紀』などに伝わる古代日本の豪族。坂本臣(おみ)の祖
私見
日置に坂本という地名がある。根の堅州国の場所は未だ不明である。近頃は向津具 本郷川の上流 谷河内堤あたりかと思っている。


油谷久富 平治ヶ峠
 ↓
木屋川を筏 (いかだ) で川下り 水行
 ↓
下関市 瀬戸内側の小月 松屋 神功紀 神託 内避高国避高松屋種
内避高国避高松屋種は「沙麼県主の祖」であり下関市吉母浜と思える。


「邪馬台国」徹底論争 第2巻 東方史学会/古田武彦 編 新泉社 1992
P36 藤田友治
漢書地理志の倭は山海経に連続している。
洛陽 北より60度東の方向に倭人が居住している。

P192 中小路駿逸
空海 徐福が行った祖州の遥か東からあなたは来て、そこに帰る。

新羅原国 油谷 向津具

天日矛 古語拾遺の表記 檜槍 油谷島 字「槍ノ木」
出石 油谷島の俵島 Google 画像 参照

籠神社 Wikipedia 京都府宮津市大垣 元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも
海部氏系図、尾張氏

神功紀 神託 文庫書紀②138‐5
神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛


大伴友国 Wikipedia 油谷島 本油谷 字「友国」
壬申の乱の勃発時、友国は大海人皇子(のち天武天皇)の舎人であった。6月24日に皇子が挙兵を決意して吉野を発ったとき、友国は皇子に従った二十数人の男の中にいた


『向津具半島の民俗』 北九州大学民俗研究会 1968
P103上
言い伝えでは、本油谷のおやくし様からが出ていた。

尾張の熱田社 楊貴妃伝説、三種の神器 向津具の有柄銅剣
伊予の熟田津 「熟」 漢字の下部に「火」
万葉集1220 木国の湯等の三埼

風土記 逸文 伊予の国 小学館 新編日本古典文学全集 風土記
 御嶋 (大山積の神)
 熊野の岑 油谷
 湯の郡 伊社尓波の岡
 二の木
 後の岡本の天皇の御歌 (みぎたづに …)
 息長足日女の命の御歌 (橘の ...) 
 天山 油谷島の中央部に字「天鳥」 下関市有冨と緯度が同じ

伊予=魏志倭人伝の壱与 壱与は油谷島の人

向津具八幡宮は元、油谷島の字「ヶ平」にあって神紋は

新羅王 脱解の家は鍛冶屋

脱解尼師今 Wikipedia
倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王が女人国 (不明) の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きなを生んだ

卵 爬虫類 蛇・亀、鳥類、魚類
福岡市板付遺跡 環濠が卵形 向津具本郷山崎遺跡 板付式土器が出土
いや、女人国は魏志倭人伝の女王国で下関市 有冨上だろう。

多婆那は丹波=谷 (たには) で、向津具迫田の谷河内堤 妙見社 (祭神 天御中主尊)
付近の農家 上田家の遠祖が迫田の妙見社付近の田から神鏡を得た。
『向津具半島の民俗』 北九州大学民俗研究会 1968 P127下

記紀・万葉の丹波国は向津具の中央部 谷河内堤である。

兵庫県丹波は琵琶湖の西北西の方向。 油谷湾の西北西に向津具 谷河内堤
と位置対応している。

万葉集1218 黒牛の海
向津具八幡宮の西側で向津具牛を放牧

古事記 角川ソフィア文庫 新訂古事記 1977 2001年版
P93 末
近つ淡海の御の祝がもちいつく、天の御影の神が女、息長の水依比売に娶ひて、生みませる子、丹波の比古多多須美知能宇斯の王、...

御上 上田家 ゼンリン地図 向津具山崎 谷河内堤の周辺人家 参照
息長の水依比売 本郷山崎の水祭祀遺跡 北九州市若松区 蜑住遺跡に似る

蜑 (あま) 蜑民(たんみん) 中国南方の河川での水上生活者 安曇氏

萩市須佐 高山 (532.8 m) に黄帝社
字「蜒地」 (あまがじ) は北九州市若松区「蜑住」(あまずみ)と同類


新説
天武天皇と楊貴妃は親類である。

楊 (やぎ) → 向津具の楊貴妃伝説
二尊院の正式な紋は天皇家の菊の御紋と同じ16枚の菊の花

天武天皇の瀛真人の「瀛」は向津具。
天武天皇は「 天文・遁甲に能し」であるから方士の楊氏だった 。

『向津具半島の民俗』 北九州大学民俗研究会 1968
P94 「楊貴妃の墓」がある二尊院の記述はとても興味深い。


2015年05月28日
大海人皇子 向津具の久津の出身
44051510.at.webry.info/201505/article_19.html

龍宮の潮吹 万葉集352

岩波文庫 原文 万葉集 (上)
352 若湯坐王
葦辺波 鶴之哭鳴而 風 寒吹良武 津乎能埼羽毛  湖 (類広紀ー)
場所は長門市油谷津黄 (つおう) 龍宮の吹 畑島

後畑 畑=秦
油谷湾を滋賀県琵琶湖と見れば、福井県は向津具半島の日本海沿岸に相当する。
福井県の「福」 神仙思想、道教の福地、徐福
近江 (淡海) の大津 長門国大津  油谷

地名の対応
敦賀市の南 野坂岳 長門市 日置野田
敦賀市の北 立石 長門市 油谷後畑 立石
琵琶湖の南東 秦荘 長門市油谷 掛淵川の流域

方位 南北
長門市油谷
津黄峠ー日吉神社ー日置下 国常 (国常t立尊)ー油谷新別名 熊野岳 (359.2 m) 付近

油谷の大坊川は木材流しの川 紀州

熊野
『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 三一書房 1996
P60 明太祖と日本僧中津絶海の詩
熊野峰徐福祠

熊野の音読み「ユウヤ」は油谷 (ユヤ) に似る。
油谷・日置 雨乞岳南麓に縄文遺跡

万葉集496 み熊野の浦の浜木綿 二位ノ浜

安倍家 油谷蔵小田 渡
万葉集370 安倍広庭
雨不零 殿雲流夜 潤湿跡 恋乍折寸 君待香光  雨乞岳


『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
口絵 8 

向津具は新羅の迎日湾の対岸 説
迎の音 ゲイ =鯨 捕鯨が盛んだった川尻港

角川 新字源 改定版 2015 53版
【迎】 迎意 唐・楊貴妃氏伝 迎意輒悟  向津具の楊貴妃伝説