暘谷・扶桑 即ち日の本の太陽 船越→古宿 の峠 大久保谷

古代を知れば未来が見える
考察の仕方 地名によって場所を比定

山海経 海外東経 の長差丘を福岡市東区の立花山とすれば、
大人国 宗像海人
君子国 北九州市八幡東区 板櫃川
虫虫、虹 小倉南区 蒲生、徳力
朝陽の谷、天呉 小倉北区 金田1丁目
青丘国、建木 下関市有冨 字「中村畔」-有冨墓地 倭 (飛鳥)ー大倭 (高天原)
黒歯国 黒歯とは ひどい虫歯の人たち 福江の大塚-吉見下の船越  船越川
暘谷・扶桑 即ち日の本の太陽 船越→古宿 の峠 大久保谷
 難波宮、住吉荒御魂は大久保谷にあって、おしてるや (忍照、押光、臨照)
永田郷 御堂遺跡 縄文末の木棺墓  字「宗教」 墨子、墨吉の墓


『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮 紀子 日本経済新聞出版社 2007
P69 図35 声教広被図
迎江
向津具

徐福相 下関市豊北町
掲載の地図から、土井ヶ浜ー和久ー伊上 あたり
小字の地名から、和久の字「支度」「支州」
角川 新字源 2015 によれば、支那とは、「中国をいう。古代インド人が、仏典の中で中国をよんだ名称で、語原は秦からきているといい、また、知恵がある意ともいう。」 支那の語に悪い意味はない。

高志国 土井ヶ浜海賊 人骨に傷が多い 

団長または周長
豊浦団または周芳の岩国山 宇賀本郷

修前、修後
狗留孫山 修禅寺

赤関
古宿 大久保谷 住吉の岸の赤土、尓保都比売 船越・大塚 字「やびつ」
忍照や 難波宮、住吉荒御魂


白川静『新訂 字統』 平凡社 2004 【讃】君主に朝見することを讃拝
有冨 ハンドウ山 倭、大倭 履中記


雄略紀に倭国を「中国」と称した箇所がある。
文庫書紀③46‐末から3行目
文庫書紀③50‐末から3行目

続日本紀 狄
山海経 大荒西経 北狄の国 目下考察中

尓保都比売の命=清江娘子

小学館 新編日本古典文学全集 『風土記』
逸文 (播磨の国)
P490
尓保比売の命

国堅めまししい大神 伊奘諾尊
文庫書紀➀244‐1 神武紀の末
日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の秀真国

日本の場所は扶桑が立つ場所だから、
下関市吉見下 古宿 国道191号 七曲り の崖海岸

『よしみ史誌』 古宿 大綿津見神社の浜宮
どさんこラーメン→鉄道橋下を右折→資材置場→旧道の山道を上がる
→石組みの田畑跡 穴門の大田・山田 践立=践祚
→胸まで草茂る竹林の向こうに用水路と土石流を防ぐ大穴堤
赤猪、伊尹

湯谷=湯津石村
JR大久保山トンネル下の海岸

石坂比売 豊関建設資材置場の崖 柿本人麻呂の石見国

船越 字「赤松ヶ尾」、大塚の王子社から大久保山を越えて「小浜」に行く山道が地下上申絵図 福江村地下図 に描かれる。

峠  山口県風土誌 9巻 P385‐2行目
麦ヶ尾、藤平 (トウヘイ) ヶ垰、ウツ木ヶ垰

紀伊国 木の国 扶桑
筒川 筒川の嶼子 「筒」は筒男で住吉神
藤代之峰 平ヶ垰

注九 以下、いずれも新羅国の称え詞
出雲国風土記 八束水臣津野命の国引き詞に通じる。

万葉集69 清江娘子
崖の埴布 =岸の黄土 「黄」は黄葉と同様に赤か
魔除けの黄土、赤土があるかどうか、実見できない場所ゆえ不詳不明

万葉集
3300
3888

播磨国風土記、出雲国風土記は下関市吉見下、古宿、船越、福江大塚の記述

有毛 字「木角」

木角臣
北九州市若松区 有毛 字「木角ノ下」「木角」 木の角 (つの) 臣 孝元記

角臣、角麻呂
角国、角臣 雄略紀 文庫書紀③62‐11 通説は周防国 都濃郡

角麻呂 万葉集292-295

候補地
下関市稗田 字「角 (すみ) ヶ様」
下関市船越 字「角( つの) 地」 古宿 七曲の崖海岸  ここだ!

清江 (すみのえ) は龍王神社の浜宮 (大綿津見神社 神功皇后 征韓の時に創建)


参照
『増補改訂 遠賀郡誌 下巻』 ℙ685
『よしみ史誌』 P706


字「角地」は「津の地」とも書き、大久保山は「津の嶋山」ともいう。

万葉集291 小田事 福江の小田 (こだ) 木葉は扶桑樹、土器の木の葉文
万葉集1345 秋津野

文庫書紀②220-7 応神紀の最後
既にして其の三の婦女を率て、津国に至り、武庫に及りて、天皇崩りましぬ。
武庫は大久保の洞窟に神功皇后が武器を隠した伝説

神功皇后が武器を隠したと伝える洞窟は
  蓋井島の洞窟
  吉見古宿の洞窟
の2か所である。
武器を隠した洞窟 武庫

山口県風土誌  蓋井島  P425
古伝の説に云、神功皇后異国を退治たまひ、筑紫より豊浦宮にうつらせ給ひし時、此島にかりそめに上らせ給ふ。 故砂頭の岩に御幕の紋、馬の蹄の痕など猶鮮かに見ゆると方俗に云へり。
又神后兵具を納め給ひたる処とて、奇妙の巌窟ありとかやと見えたり


出雲国風土記の八束水臣津野命 穴門の引島か。
吉母の黒嶋は「久留島」とも呼ばれた。福江の来留見瀬もある。
クル → 牽る、繰る で「引く」の類語

吉母は鯨が打ち上った伝承をもつ畳石の岩礁がある。⇒難波の潮干の海石
吉母には江戸時代に鯨組(鯨捕り漁師)がいた。
吉母浜遺跡(弥生)から鯨骨製アワビおこしが出土。

吉見下には河内神社が2か所 龍王神社に合祀
 船越 水波能女神・保食神
 吉見中村 水波能女神、大己貴命

河内馬飼首押勝、河内の母樹
穴門館は古宿の大久保 (どさんこラーメン~ふくふくうどん の七曲り 崖海岸、JRトンネルの山)にあった。大塚の字「王仁」(皇子社跡あり。場所は船越川の船越と大塚の境) は「応神」とも書かれる。応神天皇は河内王朝である。
あるいは、
大塚の北村さん家は窪地にあって西側の道に庚申塔が立ち風水の吉祥地だから、ここに穴門館があったか。

船越・大塚・古宿七曲は海岸の山に扶桑樹があって神仙の地

三韓遠征に向けて神功皇后が渡海に出航した湊 伝説地 
 吉母の黒嶋
 向津具の川尻岬
三韓遠征後に神功皇后が船を着けて上陸した所という伝説地
 御崎の毘沙ノ鼻の崖下 龍谷大学の混‐地図では壱岐の対岸は下関市御崎
 大久保の崖海岸 扶桑樹があって「日本」の地

大内氏の中国・朝鮮貿易港 特牛近く肥中、市街の新地町
豊臣秀吉の朝鮮出兵時、毛利氏の船団が出航した湊 肥中

古代船は船底が平たく砂浜に乗り上げていた。
吉母古宿 豊関建設資材置場近くの崖に「小浜」があり、船越の農家が細い山道を越えて海藻を採りに来ていた。 そこが倭国の「難波の小江」か。必然性 山海経 海外東経の国 最初の長差丘を福岡市東区の立花山とすれば、扶桑は下関市吉見 古宿 JR大久保山トンネルにある。そこが「日の本」だから、究極の験 (ゲン)をかついで、なにがなんでも、そこから上陸。神功皇后伝説の帆柱瀬付近。

考古資料 須恵器の提瓶が出土する古墳 土井ヶ浜近くの和久、向津具 油谷島
沖ノ島は吉見では蓋井島が邪魔になって見えない。
宇賀本郷では春分・秋分の日に沖ノ島が真西に見える。

大久保海岸の崖に住む人「真人」、日下

住吉大社神代記に出てくる地名「大久保」
住吉大社神代記の住吉は吉見の龍王神社である。


『下関市史 原始-中世』 平成20年
P385
万葉集3893 いさな取り ひぢきの灘 の場所を推理すれば、
万葉集931の「清」は万葉集295の清江。海人の釣船は水江浦嶼子の地
場所は古宿 大久保の浜宮があった付近である。

狩猟は軍事訓練の一環だった。


欽明紀 文庫書紀③338
韓国の 城の上に立ちて 大葉子は領布振らすも 日本へ向きて
韓国の 城の上に立たし 大葉子は 領布振らす見ゆ 難波へ向きて
  ↓
大葉子は古宿の字「大葉山」 大葉溜池
日本の難波宮は古宿 七曲の崖海岸にあった。 日本=扶桑樹が立つ所
日下の直越え 船越⇔古宿海岸 の峠道

倭国の中央
 大倭  有冨墓地、大迫池 (工事中)
 倭・奈良・飛鳥  有冨中村・遠山運送
 河内・日本・難波  船越・大塚・古宿 JR 大久保山トンネル

船越・大塚・古宿は播磨国風土記に叙述されている。


記紀・万葉、風土記などの場所は下関市と北九州市
日本書紀では関西政権は呉国、倭種、蝦夷、東国の強兵、東漢氏

木角臣 北九州市若松区 有毛の人
角国 下関市吉見 古宿の七曲り崖海岸。難波、住吉もここ。

中国神話の扶桑は下関市吉見下 古宿にあった。
根拠は山海経 海外東経 の場所比定による。
 長差丘 福岡市東区 立花山 クスノキ原始林
 ・・・
 労民国 (教民) 下関市豊浦町 黒井

下関市室津と朱

新下関 ホームワイド裏の台地 石原156番地 塚の原遺跡
から出土したL字状石杵 (弥生後期)

下関市の考古学芸員 談「この石杵は かなり使いこまれた形跡がある」

読んだ本
『邪馬台国は朱の王国だった』 蒲池明弘 文春新書 2018

古代学協会 季刊誌『古代文化』 2019年6月30日 71号
「弥生時代における辰砂すり潰し行為の復元的研究」 西本和哉 

『古代』 早稲田大学考古学会 2009年3月 第122号
「弥生時代 L字状石杵の歴史的意義」-辰砂・水銀朱の流通をめぐって-
石井智大


『豊浦町史』 昭和54年12月
P100‐3行目
甲山群集墳より丹 ( に) が出たという話を、しばしば耳にする。延喜式内蔵察式に「長門国胡粉廿斥緑青二十斤丹六十斥右長門国交易所進」とある。他の国への丹の割当はあまりなく、あったとしてもほんの2~3斤に過ぎないのに、長門国にだけ60斤とあるのはなぜか。丹の原料の埋蔵地であったとは思えない。特に、この場合「交易の進めるところ」と注釈が書かれているところは注目される。この交易相手が国内であれば、その相手国の筑紫とか、豊前とかにもそれぞれ課せばよいはずである。交易には国外の可能性がある。…

室津では丹についての話は多い。
甲山の裾部の畑で出た壺を海で洗ったら、海がまっ赤になった。

延喜式  Wikipedia
平安時代中期に編纂された格式 (律令の施行細則) で、三代格式の一つである
・・・
905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たった。『弘仁式』『貞観式』とその後の式を取捨編集し、927年(延長5年)に完成した。その後改訂を重ね、967年(康保4年)より施行された


私見
室津は「毛呂」と称す。 参照 角川日本地名大辞典 山口県【杜屋神社】
山海経の毛人国、魏志倭人伝の末盧国

10世紀、長門国は朱の大国だった。下関市室津で外国と交易か。

同 P108‐6行目
豊西郡内吉永の田畠30町歩を一の宮の御領とし、… これは当時の町歩の割り出しからすると、黒井の原、八ヶ浜、野田に囲まれた線内であるように思われる。
  ↓
黒井=墨江 説 谷ヶ浜紺屋善助文書

新説 雨師妾=亀比女 説

山海経 海外東経
雨師妾=赤松子=天照大神説
吉見下 龍王神社の乳母屋社 社伝に震旦国よりオオヒルメ母子が漂着
吉見上 滝本神社 (お伊勢さま) 私見では、風土記逸文 伊勢国の瀧原神宮の地
『よしみ史誌』 P703 吉見上 字「年永」
黄金埋蔵の歌 朝日さす夕陽輝くその下に 小判千両 朱 千盃

永田郷 御堂遺跡の近くに天照大神の祠 字「宗教」
永田本町 永田神社の祭神に天照大神
吉母下 樋の口神社 祭神 天照大神 以前は字「安常」にあったという。


雨師妾=赤松子=亀比売説
そこの住民はそれぞれ一匹のを手に持つ。
  ↓
風土記逸文 丹後国 筒川の嶼子 比売

日下部首
河内馬飼首押勝 穴門館 欽明紀22年
伊預部馬飼連が記せる

小学館 新編日本古典文学全集 『風土記』
P476‐8行目
この八豎子は畢星(雨降り星) なり。

万葉集294
風乎疾 奥津白浪 高有之 海人釣船 濱

【眷】の字 伊尹と関係か
風土記逸文 丹後国 筒川の嶼子 の文中に3か所
書経 商書 太甲中
詩経 大雅 皇 万葉集295 清江乃 木松原 木は扶桑
万葉集1890、2501

山口県風土誌
吉母-蓋井島-御崎 の海中岩礁・畳岩を「海坂」「海堺」と見る。
亀比売は吉母の海岸か。
 黒嶋・弁天社  瀛州または蓬莱山、オノゴロ島
 若宮神社 祭神 仁徳天皇、応神天皇、気長足姫尊、住吉荒御魂大神
 海神社 祭神 大綿津見之命 吉母の大迫

若宮神社の相殿
 河内神社 祭神 罔象女神
 貴布禰神社 祭神 高龗神、保食神

御崎の海岸岩に弁財天祠


吉見古宿の串山 ここも蓬莱山の候補地
江戸時代、享保の飢饉後に提出された吉見村地下図では、串本岬付近に「三ヶ首」 という海中に突き出た岩場が見られる。
  ↓
逸文 風土記
丹後の国 天の椅立、久志

串山は神聖な赤 (岩が銅色で赤い) でできている。
串山の東南にある海岸松林を「(がめ)の松」という。
串山を亀と見ているのだろう。

龍王神社の社伝では古宿(こずく)は小津久と書かれている。
串山の山頂に龍王神社の御神幸があった。

参照 『古宿今昔記』 昭和57年


玄股の国
吉母の大河原か

毛民の国
吉母、御崎、室津上
塩作りは吉母浜。太公望。西域の毛人 深目の人種。西周、秦。関西系土器

ピンポイントでの場所特定に到らず。

雷沢

雷沢
集英社『山海経・列仙伝』 山海経の〔 〕内は郭璞による注であり山海経の本文ではない。〔 〕の郭璞注は読まないことだ。
平凡社 白川静の『新訂 字統』で【呉】を調べ、大修館書店『中国神話・伝説大事典』で【雷沢】など【雷 ‐ 】の語句を調べる。
「呉西にある」の呉は呉国ではない。

雷=震 で東。下関市有冨中村のハンドウ山。 雷神=豊隆

蓬莱山のオシドリは万葉集258 芳来山の香具山 有冨の大年池
万葉集は詩経、文選など中国古典を踏まえて詠んでいる。

中国古典の場所は中国大陸ではなく下関市と北九州市。下関にあった邪馬台国(=倭国)こそが「中国」であり、詩経・書経の地、諸子百家の老荘・孔墨の地である。


岡田英弘『日本史の誕生』 ちくま文庫 のカバー裏
本書は、東アジア史の視点に立って、中国文明の辺境の地から日本国が成立するまでを実証的に解明し、...
私見は正反対である。私見は邪馬台国(=倭国)は「中国文明の発祥の地」である。
(根拠)
私は、山海経 海外東経 の長差丘は福岡市東区・新宮町の立花山。唐堯を葬った所は九産大近くの唐原。扶桑は下関市古宿、建木は有冨の大迫池上に比定した。
  ↓
中国神話・伝説の半分、諸子百家の半分、史記の半分の場所は下関市と北九州市の響灘沿岸になる。

高千穂の峯

小学館 新編日本古典文学全集『 風土記』
P520 塢舸の水門 阿斛嶋 資波嶋
門 注に、現在の江川

万葉集894
智可能欲利 大伴御津浜美尓
  ↓
値嘉は肥前なので、若松区島郷は肥前
大伴御津は智可能岫の対岸にあると見て、下関市吉母 御崎、室津か

小学館 新編日本古典文学全集
万葉集813 序 鎮懐石 肥前国彼杵郡平敷の石
 「敷」地名 若松区岩屋の千畳敷、若松区 小敷
万葉集814 序 元号令和の大宰府 梅宴
 穴のあいている山

『 北九州市史 総論 先史・原史 1985 』
日峰山遺跡 八幡西区大字浅川
p864‐3行目
この女郎岩の南側には神穴とよばれる全長15メートルの洞穴があり、
出土遺物は5世紀後半から6世紀

日ノ峰山 (113.8 m) は古くは「日ノ」と記される。
  ↓
日向の襲の高千穂の添山 である。

万葉集「令和」の大宰府は八幡西区浅川の日ノ峰山にあった。


直線上 ネット国土地理院地図で計測
下関市有冨 砕石場で崩された山頂ー綾羅木郷遺跡ー六連島ー日ノ峰山
西南西へ 35° 寅ー申 の方位

新説 白雉の麻山

新説 白雉の麻山
綾羅木郷遺跡 弥生貯蔵穴の場所が穴戸である。
麻山 麻が付着した土器が出土 考古博物館で常設展示


日本武尊 農耕指導地  『よしみ史誌』 P71
黒井村郷土史の中に谷ヶ浜紺屋善助文書 (やつがはま こんやぜんすけ) なるものが発見され、その中に「日本武尊 農耕指導地」 なる一文がある。
... 景行天皇第二皇子 日本武尊 熊襲征伐の後 筑紫の若さ松原の港より中国安の陸 (安岡) に着船ましまして出雲国に巡狩の途次此の地に立寄られ、墨江の潮の浅ければ土民を集め開墾の法並びに耕てんの道を教え川を掘り溝をさらえ新に田地を開き給ひし故、時の土民此の川の辺りに耕作、牛馬祖神並に日本武尊を祀り奉りて安須波の官と申す。
今の明﨑明神と称し奉る宮是なり。(現在杜屋神社に合祀す)

以上が紺屋善助文書の一節であるが、これは長粛山人と号す文客が、古来からの伝説を谷ヶ浜の善助から聞き取り一節をものし、黒井村の考証に残したものであると編者は述べている。」

私見
下関市安岡を「中国」と言っている。
黒井は墨吉。墨吉=墨子 なら山海経 海外東経 の労民国 (教民) だ。
安須波 古事記に阿須波の神
若さ松原 岡垣町の元松原ではなく若松区の岩屋、安屋、小竹の海岸と思う。
  ↓
万葉集3890 ~ 3899 大宰師大伴卿が上京・入京 羇旅
安我松原 ~ 都努乃松原


北九州市 八幡西区
浅川
水巻町との境の日ノ峰山に「山幸彦が帰ってこないので、親の瓊瓊杵尊が心配して探しに来た」「山幸彦が釣り針を探しに来た」という伝承がある。高須にも山幸彦の言い伝え。
  ↓
日向の襲の高千穂の添山  日の

上津役(かみこうじゃく)村 
安在野 引野区の北4町許にあり
欽明天皇この所に駐駅し玉ふ時、道路に布設けし故に此の里を引布の庄という

隼人
遠賀郡で挙兵した藤原広嗣は隼人を従えていた。
隼人は板櫃の近くに住んでいた。大宰府は遠賀郡内にあった。
遠賀軍団

小字
小竹 藤原、浜田
頓田 菊野、中瀬
安屋 松林

遠賀郡誌 下巻 P664
夏居崎 神夏磯媛か。夏は中国人
岩屋浦西南25町許、柏原浦境 奇石を出す。
妙見崎 浦の北6町許 山椒貝を出す
堂川の鴬末 枯れずに緑の葉が美し

夏居碕は昨今の地図では夏井ヶ浜。芦屋町公式サイトでハマユウ群落の写真。

奇石は『北九州市史 総論 先史・原史 1985』
口絵 若松区 こうしんのう2号古墳 雁木玉


若松区
太宰府市から出土した戸籍木簡の「嶋評」は若松区である。
小石 古事記に小石比売
小竹 白山神社 祭神 伊奘冉尊、菊理姫 熊野社が南半腹にある。
沖津神社 小竹 字「貴船尾」 市杵嶋姫命

推理 伊奘諾尊が黄泉の国から逃げた道 
若松区小竹
脇ノ浦→鬼ヶ坂→財ノ峠→白山神社→花房小前

若松区の岫門

筑前国 島 戸籍 川辺里
は北九州市若松区の江川沿い。
蜑住 水祭祀遺跡

岩屋、遠見ノ鼻 (妙見崎)  御嵜神社

『北九州市史 総論 先史・原史』 1985
P463 岩屋石棺群
内面に赤色塗料のあと
後漢晩期の漢式鏡、破片から4面以上、小型仿製鏡、鉄剣・鉄鏃の破片多数
大型器台 豊後から瀬戸内地方に連なる様相を示す
千畳敷 古式土師器、製塩土器 集団の海浜活動を示す
弥生時代後期後半から古墳時代前期にかけて、本遺跡には響灘沿岸地域の有力集団が存在したことを示している。 

小学館 新編日本古典文学全集『 風土記』
P520 塢舸の水門 阿斛嶋 資波嶋
門 注に、現在の江川

万葉集894
智可能欲利 大伴御津浜美尓
  ↓
値嘉は肥前なので、若松区島郷は肥前
大伴津は智可能岫の対岸にあると見て、下関市吉母 崎、室津か

小学館 新編日本古典文学全集
万葉集813 序 鎮懐石 肥前国彼杵郡平敷の石 岩屋の千畳敷
万葉集814 序 元号令和の大宰府 梅宴
 穴のあいている山

若松区 安屋 あんや
『増補改訂 遠賀郡誌 下巻』
P592
洞山
脇田浦の西、十六余町にあり。退潮の時は磯浜つゞきなり、洞穴ありて山鹿の洞山く奇観なりしが、明治三年庚午の夏大雨のため欠け損し、今は洞の形を失へり。

平凡社『 福岡県の地名 』 P177中 脇田浦 わいたうら
浦の西部には洞口が方一間半ほどの洞山とよぶ岩窟や、
同じく中に岩窟のある 「もちろく」 という長さ6 間 ・ 横3 間の岩山があり(続風土記)、海中には笠瀬・艫艪瀬・マナイタ瀬などの岩礁が連なる景勝地であった。
ただし 「もちろく」 は天保期 (1830-44) にはすでに崩れていて (続風土記拾遺)、洞山も明治 3年 (1870) の大雨で崩壊した (地理全誌)


岩礁の笠瀬 笠狭か。
笠松神社 字後口
大比叡神社の祭神 疱瘡神或いは役小角 

芦屋町
柏原 洞山
狩尾神社 大己貴命・手力雄命を祭る 若松 (島郷) 全体の総社
山鹿 姫ヶ田圃石窟

洞窟がある場所 若松区の脇田、芦屋町山鹿
大宰府、竹斯は若松区脇田か。

翰苑
邪届伊都傍連斯馬
斯馬
北九州市で「島」といえば若松区の島郷をいう。

竹斯島 若松区には竹並、小竹の「竹」地名が見られる。
古事記 国生み 筑紫の島

増補改訂 遠賀郡誌 下
安屋の小字 (一部) 竹末、竹ヶ鼻、竹正ヶ浦、犬啼、名能美、淡竹
有毛の小字 (一部) 木角、稲国、小橋、高尾
P645 有毛 岩屋浦の御崎に多賀神社

有毛の字「木角」孝元記の木角臣、雄略紀の角臣

竹並
若宮神社 字「神田」 祭神 神武天皇、仁徳天皇
舟石という石2つ。長2尺4寸、横1尺5寸

この舟石に乗って両神が安屋村の舳艫 (ともら) という所に着いた。字「神内」(しんのうち)に鎮座。後に今の社地に遷す。一説、古老の伝説では素戔嗚尊が国造りの時に止まった所である。この所の農民6軒は梶取の子孫という。神職 幡掛氏は蜑住村に住む。

私見
鎮懐石かも。
素戔嗚尊 蘇民将来の地か
饒速日命の天磐船
万葉集292 角麻呂歌 天之探女 石船
下関市古宿 七曲海岸 豊関建設資材置場前の岩礁に「船釘」

天孫降臨
日向の襲の高千穂の添山峯
若松区
膂宍の空国を、丘から国覓ぎに行去りて、吾田の笠狭の御碕ります。

「御崎」は岩屋だ。吾田の小橋

長屋の竹嶋に登ります。

竜門山 勝山支所

懐風藻 講談社学術文庫 P76
竜門山に遊ぶ
注に、吉野の東北10キロメートルの地点にある竜門岳のこと。
私は下関市吉見の竜王山と見ていた。
が、書経 夏書 禹貢 に竜門山がある。

「詩経、書経は下関市の郷土の歴史である」が私の見方・解釈の仕方なので、
懐風藻の竜門山=書経 禹貢の竜門山
であり、竜門は禹が洪水を防ぐ大工事をし所だから、
竜門=下関市秋根 勝山支所の新築工事の時に発見された縄文時代の大溝
一の宮本町1丁目の山頂に竜王社の祠がある。

懐風藻の「竜門山に遊ぶ」は砂子多川の曲水の宴碑

『中国神話・伝説大事典』 大修館書店
P24下 【うりょうもんをうがつ】 禹、龍門を鑿 (うが) つ
豚のような獣がいて燭の光を発する夜明の珠をくわえていた。
  ↓
秋根の字「燈台」


参考資料
「掘ったほ!下関 2013」 下関市立考古博物館 発掘速報展
秋根遺跡

華山 馬台

翰苑 Wikipedia
翰苑(かんえん)とは、唐の時代に張楚金によって書かれた類書。後に雍公叡が注を付けた。現在は日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。

翰苑に出てくる有名な言葉に「馬台」がある。某ブログから拝借、
憑山負海鎭馬臺以建都
山に憑り海を負いて馬臺に鎭す。以って都を建つ。
  ↓
都の馬台は山がちで海が近い


下関市豊田 華山の神上寺には「馬台」の文言が伝わる。

『目で見るふるさと豊田の 歴史と文化』 平成11年
P78‐1行目
仲哀2~8年、仲哀天皇は大神山に登臨、銅鉾を四角四方に建て、注連縄を廻らして御霊代とし、熊襲の鎮定と馬台 (日本国) の安泰を祈願した。(銅鉾現存、県重要文化財)

防長寺社由来 第7巻
【江良村 神上寺】 P349上、351下、353上 に「馬台」文言

私見
直方市の福智山に日本武尊が登って熊襲の国を国見した言い伝えと似る。
華山 げさん (大神山、神上山、月山ともいう) の豊田盆地が熊襲の国か。


下関市 豊田図書館にて神上寺展を開催中
七々社遺跡 環濠集落 出土した土器を展示
矢田遺跡 弥生時代の早い時期から 溝の幅1m
江良古墳群 横穴式石室
化石、ウラン鉱石
高熊 須恵器生産


『豊田町史跡探訪資料』 日置町郷土史研究会 平成8年
豊田湖 安徳天皇陵参考地
丸尾山にある御陵 「寛保の由来書」に四神相応の地 風水による設計

古刀出土 副葬品か不明
御陵広場の西南端 大正12年県道工事の際に古刀数本が出土

筑紫 候補地が複数

筑紫・高千穂宮、末盧国・伊都国、竹斯 候補地が複数ある
下関市宇賀、土井ヶ浜 沖ノ島から東の方向。和久・向津具の須恵器提瓶
下関市御崎 龍谷大学の混‐地図では壱岐の対岸 毘沙門天
北九州市小倉 若松区岩屋が末盧国か。伊都国は小倉のどこか
糸島市の西域、二丈町
福岡市東区、新宮町 立花山の麓

倭人
帯方の東南は山口県長門市。
大海の中にあるので内海の瀬戸内ではない。
吉野ヶ里は有明海に面している。有明海も内海だ。
博多湾の奥地しかも山奥である大宰府には倭人はいない。
倭人は外海の大海、荒海に面した地にいる。
  ↓
倭人は響灘の海岸地域にいる。
響灘=宗像の鐘ノ岬~向津具の川尻岬 の海域

万葉集2
香具山に登れば海のカモメが見える
蜻嶋 八間跡 下関市有冨 大迫池 (工事中) の上の平たい尾根


対海国 官ではなく大官

一大国、不弥国 「戸」はなく「家」。水上生活者や穴居か。
一大国 末盧国 方向「南」がない。

末盧国 官も副官もいない。属国
伊都国の「伊」は聖人が治める。人口が少ないので僻地
「大夫」は周王朝。伊都国は 岐山⇒豊 に遷都した聖王である文王の国


邪馬台国への道
末盧国 土井ヶ浜・和久
伊都国 宇賀本郷
豎亥 (じゅがい) の指さし 直線上にくる
 椋野の妙見山 92 m
 新下関 ダイハツ店 秋根遺跡 巫女人骨、内行花文鏡
 秋根公園古墳
 石原156番地 L字状石杵が出土
 有冨 ハンドウ山 登り口 少し上 道臣・日臣
 大年池の北側 大歳池上女王
 竹生寺
 湯玉西 海岸の神社
 湯玉 鯖釣山の頂
  ↓
北方向に延長して、
判明 宇賀本郷北側の海岸 ⊡ 測量点11.8 橋 山道の入り口 が重要地点
ゼンリン地図 宇賀本郷の北側 川 木の花の佐久夜毘売
北浦海岸 道の要衝 下峠 「周防の岩国山」はここか

奴国 犬鳴川下流 湯玉

不弥国
犬鳴川上流 蓑ヶ岳 福徳稲荷の「福」は洞天福地 近淡海の志賀の高穴穂

根拠
『懐風藻』 講談社学術文庫
P24 懐風藻 序
神后を征し、品帝に乗ずる
有冨墓地を基点にして
 真北の方位 油谷町伊上、向津具 伊上沖の海中から祭祀の大甕引き上げ
 北西の方位 福江の大塚 字「王仁」(応神とも書く)

神后を征し
方角が真北なので、神功皇后は土井ヶ浜・和久、長門市を征した。

倭 下関市有冨 字「中村畔」、河内王朝は船越川 (船越・大塚・古宿)
大倭 有冨の大迫池(工事中)・有冨墓地

脱解
多婆那国は倭の東北1000里 長門市正明市
参考 『扶桑国は関西にあった』 いき一郎 葦書房 1995 P68
矢玉 女郎島


末盧国は室津 説 下関市旧市域
末盧国 室津上・御崎 御崎とは神がいる岬 本州最西端
伊都国 吉母
奴国 古宿 スーパーF・サニー。永田郷かも
不弥国 古宿の七曲崖海岸 龍王神社の浜宮  多模は住吉荒御

投馬国 冨任 幼稚園の真東に有冨 大迫池 潮待は字「正町」 正=政
国は北九州市小倉かも。投馬=アヅマ、イヅモ、イヅミ、早鞆
 小倉南区 長尾小学校 縄文末期のの歯が出土
 小倉南区 下徳力 弥生後期後半~終末の牛骨 2頭分以上
 八幡東区 板櫃川 高槻遺跡

邪馬台国 下関市有冨の中村畔、ハンドウ山、有冨墓地、竹生寺
ネットの国土地理院 地図
竹生寺の登り道 前方後円墳 くびれ部から丘陵へ上る起源を示す

風水で竹生山の山系を見たら、祖山は豊田湖北で山系の南端は有冨 字「中村畔」のハンドウ山である。祖山に豊田湖 安徳天皇陵参考地がある。山系の龍脈の南端は有冨のハンドウ山で「南山」であり、大きな竹生山に対して「小山」である。ハンドウ山尾根は鯨の尻尾形となって有冨墓地上に続く。

詩経国風 周南 巻耳、召南 草虫 は山で山菜を採っているので万葉集1と通じる。
竹生寺の山号「高山」。高山、石山は砕石場の竹生山。万葉集86

続日本紀③41-7 池上君大歳は有冨の大歳池北岸に居た。
有冨 字「中村畔」 万葉集 なかなかに

明治末まで有冨 「山田」に天御中主神社があった。大迫池の小名「山田」

薬師如来は徐福が求めた不死の仙薬と関係する。
続日本紀③369-8 薬師寺の僧華達は、俗名山村臣伎波都なり。
有冨の薬師寺跡は山村さんの家の近く、山村さんの田畑の北隣にある。