高句麗古墳の牛頭天王

世界歴史の旅 中国古代文明 鶴間和幸・黄暁芬 山川出版社 2006
P24 高句麗壁画(集安五灰墳5号墓)
左 羽衣天女 右 日本の牛頭天王


ー躍動する高句麗文化-
好太王碑と集安の壁画古墳 読売テレビ放送編 木耳社 1988

執筆 岡村秀典 他

P138‐末から2行目 牛首人と飛天
牛首人
眼にトルコ石
黒い履
右手に稲の穂を持つ

飛天
右手に松明を持つ

巻末 題材詳細によれば、
龍文梁


私見
壁画(牛首人と飛天)は日本の記紀神話(天照大神と素戔嗚尊)、中国の楚辞(美人と屈原)、神仙の西王母・東王父に通じる。


ネットを検索して、集安五灰墳 5号墓について調べた。
古墳の年代 高句麗晩期 6~7世紀

参照サイト 高句麗いにしえの地を訪ねて -9
www.searchnavi.com › koguryo › yet-9
壁画の動物・鳥の目には青い宝石が嵌められていたが、牛頭神の右目のトルコ石以外はすべて盗掘された。


牛頭人身
神農氏(炎帝) 姜水のほとりで生まれる。姓は姜 火徳 牛頭人身
  ↓
牛首人は稲の穂を持っているので神農氏。

垂仁紀 額に角有ひたる人 都怒我阿羅斯等


毎日新聞 ネット記事 2019年9月11日 09時48分
人面描かれた土器出土 角が生えた顔 朝鮮半島や中国東北部の古墳壁画モチーフか 大阪

朝日新聞 ネット記事 2019年11月9日 8時00分
人か獣か 5世紀の土器に謎の顔 大阪の集落遺跡


ブログ
大学院講義歴史(創世紀): 姑射と偎人(9)
matmkanehara-momo.blogspot.com › 2014/03 › blog-post_23
2014/03/23 - 姑射と偎人(9) 古事記の清寧天皇の段に歌垣は登場する

私見
東海 下関市綾羅木~吉母の海 東海の海人は冨任の潮待貝塚・神田遺跡 
北海 下関市豊浦町・豊北町の海 北海の海人「偎人」は土井ヶ浜

姑射・列姑射は洞海湾 八幡西区 浅川日の峯 付近

吉野ヶ里遺跡  淮南子・楚辞の新視点 

邪馬台国の論争点は淮南子・楚辞の視点から解明できる。

鏡の古代史 辻田淳一郎 角川選書 2019.12
P47 図6 岡村秀典 1999 の遺跡は連弧文清白鏡の出土地であり、
「清白」が楚辞の語なら階層の上位でなく美人(通説は君主)に諫言して斥けられた臣下の遺跡である。

吉野ヶ里遺跡には戦闘の跡がある。
中国神話・伝説大事典 大修館書店 1999
【三苗民】 さんびょうみん
【苗民】
【丹朱】

【祖洲】
私見 なぜ魏は邪馬台国に金印を与えたのか。それは中国の祖洲だから。


山海経 人面身の神
大荒北経
長門市油谷 向津具 字「本郷鳥子」、油谷島 字「天鳥」 有柄銅剣

大荒南経
吉野ヶ里 字「鳥ノ隈」「諫里」 有柄銅剣

淮南子 中国古典文学大系 平凡社 1974、1978版
P82下‐10行目
手足を妄りに動かさず
右腕に何個も装着する貝輪

P102上‐12行目
人主が廟堂を一歩も出ぬままに
卑弥呼の宮室

P193下‐末から7行目
陽気は東北から起こって、西南に尽きる。
西南夷の銅頭大師

P210上‐8行目
世にいう地利(地勢の利)
場所は下関市有冨 大迫池上、字「中村畔」ハンドウ山の登り口
(西南)立岩遺跡-稗田地蔵堂遺跡-仁馬山古墳-有冨 大迫池上(東北)

万葉集の「万葉」は淮南子の語である。


日本の美術 No.512 出土銭貨 松村恵司 至文堂 2009.1
P39下‐末から7行目 和同開珎の「和同」は淮南子 俶真訓の言葉である。
万物和同するは、徳なり

私見
富夲銭の「夲」 山の南麓に天心道の地
青丘国 豎亥 下関市 有冨中村 に由来する。

屈原=牛頭天王

世界歴史の旅 中国古代文明 鶴間和幸 黄暁芬 山川出版社 2006
P24 高句麗壁画(集安五灰墳5号墓)
上 直弧文、饕餮文、蟠螭文、雷文、雲文 ・・・ 楚辞 九章 思美人 「豊隆」
下 羽衣天女と牛頭天王 ・・・ 卑弥呼と牛頭天王

楚辞 九章 思美人 通説は美人=君主。私見は美人=卑弥呼。

新説 屈原=牛頭天王 説
倭の五王 銅頭大師 五銖銭の北九州市小倉南区 守恒遺跡 弥生中期後半


八幡西区 馬場山、若松区 岩屋の弥生終末の舶載鏡
小倉南区 長尾 八旗八幡宮古墳の柄頭
の双頭龍文は序列化で糸島・博多湾地域より上位と思える。

北九州市の遺跡・古墳 「双頭龍」の こだわりが見られる。
馬場山遺跡 山海経 海外東経の君子国か。

西谷正のいう企救のクニ=熊襲 徳力は仲哀紀の徳津宮
漢和辞典【勒】 のクツワ、オモガイ、軍隊の統率


好太王碑と集安の壁画古墳 読売テレビ放送編 木耳社 1988
執筆 岡村秀典 他 
P138‐末から2行目 牛首人と飛天

YouTube
令和元年度 海の道むなかた館 西谷正館長講座 特別講座/北朝鮮の遺跡を訪ねて-2019

西谷正談「高句麗の壁画は高松塚古墳の壁画と似てる」


鏡の古代史  辻田淳一郎 角川選書 2019.12
P45 表3、P47 図6 岡村秀典 1999
は連弧文清白鏡の出土地でもあり、楚辞「清白」銘の遺跡よりも、階層化でより上位の場所は北九州市「双頭龍文」遺跡と下関市「天子南面の讃」の所在地である。三雲・須玖は最上位ではない。副葬品が超立派でも、諫言したばかりに疎んじられ、自分に二心はない「清白」と言っている者は臣下であって序列最上位の君主ではない。 地勢が天子南面=北に玄武の山、南に川が流れる。龍穴に明堂。

ネットの国土地理院地図で計測 地図で連弧文清白鏡の出土地を直線で結ぶ。
下関市 稗田地蔵堂遺跡と佐賀県 二塚山遺跡を直線で結ぶ。
線上に下関市 武久浜墳墓群、太宰府の宝満山

下関市 稗田地蔵堂遺跡 と福岡県 東小田峯遺跡を直線で結ぶ。
線上に小倉北区 日明一本松塚古墳、立岩遺跡、王塚古墳など。

有冨の大迫池堤から仁馬山古墳を見る方向の遥か彼方に東小田峯遺跡がある。

立岩遺跡の連弧文清白鏡の銘文は脱字が多い。
立岩遺跡の鏡 銘文「月有富」 竹取物語の月の都は下関市有冨の山上。

下関市 有冨古墳と高松塚古墳は形が似ている。
明日香村の中尾山古墳は有冨の字「中尾」に対応する。

『鏡の古代史』 辻田淳一郎 角川選書
P45 表3、P47 図6 岡村秀典 1999 上位の各遺跡は「清白」地域であり、
主従関係では「」である。
下関市の稗田地蔵堂遺跡は佐賀県 二塚山遺跡まで含めた広域の王墓である可能性がある。しかし「従」であり、稗田丘陵の地勢は臣下北面である。

梶栗浜遺跡には高潮跡あり、飢えた者たちは朝鮮に海賊に行った。
文庫書紀➀98‐末行
素戔嗚尊、其の子 五十猛神を帥ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨の処に居します。

主従の「」は天子南面の地勢 洞天福地の岩山 龍脈 龍穴 の景観を観察
して、倭のステルス首都「青丘国」は下関市有冨の大迫池、中村畔である。

倭京は下関市 有冨中村。
奈良県の明日香村は海獣葡萄鏡の倭種「南京」。

中国鏡でめぐる神仙世界 黒川古文化研究所 研究図録2 2015
P101 海獣葡萄文
海獣は海がない西域の動植物だという。
私は東海 蓬莱山の海獣(鯨、大亀、日本アシカなど)かと思った。


きたきゅう発掘! 考古学ノート 北九州市埋蔵文化財調査室 平成12年
P62 飛礫 (つぶて) の歴史
小倉南区 蒲生5丁目 寺町遺跡 多量の河原石が出土
虹山 山海経 海外東経の虫虫

P115 弥生人は中国大陸のトレンドがわかっていたか?
小倉南区 蒲生石棺群 後漢期の内行花文鏡 銘文「生如山石」
道教の福地=岩山  

探訪 縄文の遺跡 西日本編 潮見浩 編 有斐閣選書R 1985
P287 下関市冨任 神田遺跡 執筆 中村徹也
図3 後期 最上段の左から2つ目 饕餮文・直弧文か

『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮紀子 日本経済新聞出版社 2007
P69 図35 下関市の南域に【讃】が所在する。
倭の五王 讃の可能性がある。

邪馬台国の所在地が明らかになった。下関市の南域だ。
【讃】は四国の讃岐かもしれない
この地図はまちがっている
とも見れる。

『鏡の古代史』 辻田淳一郎 角川選書 2019.12.23
P266 表7 413 ③ 【賛】『梁書』倭伝
  ↓
【讃】でなく【賛】とある。

漢和辞典で【賛】を調べる。

賛=
潮待貝塚の貝製品
綾羅木式土器の貝文様
有冨の中村本家さん家 60年前に貝塚を見た人が複数あり。

賛=貝=貨幣
長府の鋳銭所

賛=儀式
有冨中村 「儀万」という名前の家がある。有冨村の庄屋だった。


『魏志倭人伝 等』  石原道博 編訳 岩波文庫
巻末 参考原文 
P141 梁書 諸夷伝・倭
 海闊
 又度 南がない。方向が不明。
 盧国 本州の最西端 下関市の御崎、室津上か。
 邪馬台国 首都 魏志倭人伝では「邪馬壱国」説あり。
 倭王 

宋書倭伝では倭

梁書 倭 は通説の「邪馬台国への行程」を再考させる。

倭の五王 通説は系図で解く。讃・珍など漢字が表すものが不明。
司馬曹達は誰か論究なし。

夷 夏王朝 鳴条の野

夏 (三代) Wikipedia
倭国との関連
岡田英弘は夏及びその後継と言われる河南省の禹県や杞県にあったとされる杞国などを参照しながら、」と呼ばれた夏人が長江や淮河流域の東南アジア系の原住民であった事や ...

文庫書紀➀226‐2 歌謡 を 一人 百な人
  ↓
菟田、香山、磯城にいたのは夏王朝の人たち。
神武東征は殷の湯王? 鳴条の戦い

平凡社 中国古典文学大系 書経・易経(抄)
P121上 注六 鳴条の野 一説に … 東夷の地


「東夷」とは、
『中国文明の歴史』 岡田英弘 講談社現代新書 2004
P41‐末行

『日本人が教えたい新しい世界史』 宮脇淳子 徳間書店 2016
P108‐8行目

『皇帝たちの中国史』 宮脇淳子 徳間書店 2019.12
P15[図1]

とある。
私見は「東夷」は朝鮮半島の国々を含まず、倭奴=下関市 有冨中村の山
をいう。

南 彭咸の居場所

『楚辞』と楚文化の総合的研究 大野圭介 主編 汲古書院 2014
P201‐14行目
私見では、
楚辞「南行」 彭咸の居場所=倭国の極南界 【讃】

彭祖 列仙伝、神仙伝
詩経国風 周南、召南

倭の奴国 下関市有冨 中村の山 が【讃】の位置である。


福岡県出土の連弧文清白鏡。その銘文の研究書として必読の本
『楚辞新研究』 石川三佐男 汲古書院 平成14年
P132 司命は人面鳥身

山海経 人面鳥身
集英社 全釈漢文大系
段落番号
479
482
539
554 句芒
678
737
765
795
など

銅頭大師

『鏡の古代史』 辻田淳一郎 角川選書 2019
P266 表7 田中史生(2013)
西暦413 倭国及び西南夷の銅頭大師

平凡社 日本歴史地名大系 島根県の地名 1995
P127上 古浦遺跡 弥生時代前期の共同墓地
埋葬遺骸 呪術師を兼ねる集団のリーダー
顔面上部に銅銹が付着し、生前に銅製の鉢巻をしていたことが推定される

神武東征 赤銅の八十梟帥 文庫書紀➀218‐7 高尾張邑、葛城邑

史記 淮南衡山列伝 第58 有使者銅色竜形 使者は銅色の顔で竜の形
参考 『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 三一書房 1996 P24‐1行目

『北九州市史 総論 先史・原史』 1985
P428 下徳力遺跡 弥生終末 銅滓が出土、青銅器の製作。
P596 岩屋遺跡の鏡
P601 特色 岩屋遺跡では海上活動を基盤とする集団が急成長する

『鏡の古代史』 辻田淳一郎 
P102 私見 「弥生時代終末期後半から古墳時代前期前葉にかけて、北部九州の交流窓口は博多湾となり」とあるが、北九州市 若松区岩屋の台頭を見落としている。八幡西区 馬場山遺跡の鏡も興味深い。

参考
『北九州市史 総論 先史・原史』 1985
P602 第30表 市内出土の青銅器の時期 執筆 武末純一

双頭龍文鏡 2頭の龍
『蓬莱山と扶桑樹』 岡本健一  思文閣出版 2008
P17‐末行


下関市 黒井村郷土史 谷ヶ浜紺屋善助文書(やつがはま こんやぜんすけ)
景行天皇第二皇子 日本武尊 熊襲征伐の後 筑紫の若さ松原の港より中国安の陸(安岡) に着船ましまして出雲国に巡狩の途次此の地に立寄られ …

筑紫の若さ松原の港 若松区岩屋か

木屋瀬町誌
P3
香月家譜によれば、
熊襲の大将である火国の川上梟師の弟の江上梟師が金剛の丘に居た。
日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠る。
寿福寺縁起書に、
仲哀天皇亦與 皇后、将 討 熊襲 之時至 自 岡湊 而鎮魂焉
とあり、この地に来られたことを物語る。

遠賀郡誌
P685 若松区 島郷村 有毛の小字に「木角」 紀角宿祢 古事記 木角宿祢

中間市 底井野村 
村社八幡宮  P670~
垣生区の西南四町八幡山にあり
仲哀天皇神功皇后と共に、岡湊より御船にて此垣生郷に着き玉ひ、暫く駐蹕ましまして、熊襲征伐のことと共謀議せさせ給ひし御址なればとて・・・・古へは宮造りも最と宏麗にして、祭祀の行はるる最も厳重に、年中数十度に及べり ...


熊襲が八幡西区 金剛にいた。馬場山遺跡は熊襲。
岩屋、馬場山から出土した双頭龍文鏡は日本武尊の所有物か熊襲の物である。
小倉南区 八旗神社古墳群 双頭龍環頭柄頭

龍、蛟の祖型はオオサンショウウオであろう。八幡東区、八幡西区で捕獲。


楚辞
清白鏡、竹原古墳の壁画

明治書院 新釈漢文大系 『楚辞 』
九歌 大司命 P85‐末から2行目
竜車に乗って車輪の音の音をとどろかせ、高く馳せてに昇り

山海経
集英社 全釈漢文大系
海外西経 段落番号 518
西方の神は蓐収 (じょくしゅう) ・・・ 二匹の龍に乗っている

海外東経 段落番号554 句芒 (こうぼう)

海外東経の長差丘は福岡市東区 立花山のクスノキ原始林と見れば、
福岡市東区 唐原は堯を葬った場所の地名である。唐堯

下関市 冨任 (とみとう) は古語拾遺の天命が赴した地名だろう。

牧野の戦 漢和辞典【牧】 州の長官


小倉南区
長尾小学校 縄文末の馬の歯
八坂神社 素戔嗚尊の伝説地 木製の鐙 (あぶみ)

小倉南区 徳力 神理教 (モノレール 徳力嵐山口駅) 饒速日命の伝説地


『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮紀子 日本経済新聞出版社 2007
P69 図35 下関市の南域に倭の五王【讃】
倭は道教の神仙境にあり、山水画に描かれる岩山にある。下関市石原 砕石場
道家思想ゆえ倭王の宮は陋屋である。地勢の天子南面 龍穴 有冨の大迫池上

天子南面 下関市有冨中村の山 ハンドウ山・大迫池 【讃】 天
臣下北面 北九州市 双頭龍文鏡、双頭龍環頭柄頭 竜車

『楚辞』と楚文化の総合的研究 大野圭介 主編 汲古書院 2014
P201‐14行目
私見では、
倭国の極南界 【讃】=楚辞「南行」 彭咸の居場所
その南の狗奴国 小倉南区 長尾


下関の倭国から見て西南夷は、 ~ 大宰府市・小郡市・吉野ヶ里の方向だ。
大野城市 牛頸、大宰府観世音寺。
銅頭大師は雲南、西域の仏教僧だろうか。
「夷」は日本で、西南夷は方向が違うが関西のヤマト王権か。

太秦(うずまさ)

Wikipedia
太秦(うずまさ)は、京都市右京区の地名。
京都市右京区梅津以北から京都市北区に挟まれた住宅地が、現在の太秦の範囲である。木嶋坐天照御魂神社などの神社、京都最古の寺である広隆寺、蛇塚古墳などの前方後円墳が良く知られている。

「太秦」という地名の由来には諸説ある。
雄略天皇の御世、 渡来系の豪族秦氏(秦酒公)が、絹を「うず高く積んだ」ことから、「豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てたという説。


豆満佐
禹は秦氏の地におり、向津具の住人だった。

改訂版 「日本」国はいつできたか 大和岩雄 大和書房 1996
P78 図4 赤関の真北よりほんの少し東寄りに徐福相が位置する。
P87 四至説 呂氏春秋 離俗覧 大は北

赤関は赤間関ではなく海岸に赤石が露出する下関市 吉見湾である。

夏禹は長門市油谷向津具の向国だった。
向津具の迫田 小名「十日神」=扶桑=木島
神功紀の神託 向津媛命 文庫書紀②138‐6

潮待貝塚 ー 下吉田遺跡

『山口県史 資料編 考古1』 平成12年 
P172 潮待貝塚 写真 出土遺物(縄文土器)
の文様と北九州市小倉南区 下吉田遺跡の縄文土器の文様が似ている。


『北九州市史』総論 先史・原史 昭和60年
巻頭 口絵写真

P271 下吉田遺跡 縄文後期中葉 付録 遺跡分布地図(Ⅰ) 番号3070


国土地理院 地図で計測
下吉田遺跡と下関市 竹生寺西隣の妙見宮を直線で結ぶ。直線上にある所は、
竹生寺 妙見宮
 有富 ハンドウ山 登り口 少し上
 塚の原遺跡 石原ホームワイド裏の台地 朱を作る石杵 出土の少し西 
 秋根遺跡 新下関 ダイハツ店 西側 便所 内行花文鏡、巫女人骨
 東亜大学 北側 新幹線トンネル出入り口 西側 字「四方山」 しほうやま
 椋野 妙見山
 門司区 風師山
下吉田遺跡  小倉南区 下吉田 バス停「下吉田」北側


山海経 海外東経
長差丘 福岡市東区 立花山 堯葬は唐原
大人国 宗像海人
この距離で以下進めば、青丘国は下関市 有冨中村・大年池
豎亥の測量 定点は有冨中村・大年池 

古語拾遺 天富の命

下関市冨任
「冨任」とは古語拾遺の天命がじられた地である。

潮待貝塚
白雉 穴門の麻山は冨任の潮待貝塚である。

阿波(徳島)は沫蕩尊で潮待貝塚である。


神田遺跡
縄文土坑  縄文農耕、孔舎衛の戦、穴戸

古墳時代の滑石製模造品「三種の神器」  古語拾遺 天富命、齋部
榊に三種の神器がつり下げられており、そのまま土に落ちた。
古事記・日本書紀が伝える情景と同じ。

耳栓
漁網につける石錘

板状土偶

神田遺跡から出土した石斧は天富命の斎斧である。
古語拾遺の斎部広成は下関市 冨任神田に住んでいた。


参考
山口県の地名 日本歴史地名大系 平凡社
山口県の古代遺跡〔Ⅰ〕 集落・墳墓編 古代遺跡教材化研究会 平成7年

古語拾遺

桜井 下関 説

桜井 文庫書紀
桜井屯倉  ③218‐4 河内の桜井 大阪府枚岡市池島

桜井臣  ④164-1
高山の如くに恃む。 ④162‐末行
私見
地下上申絵図で、有冨 薬師池上 ふせぎが谷
玄武の山である竹生寺の山。
桜井は大迫池の下でなく、薬師池の下か林さん家の家裏か。

高山 万葉集13
室津の甲山 高山ともいう。
有冨 竹生寺の山号 高山
吉見の竜王山 海人の山?

尼寺の瓦舎 ④168‐末 安岡町5丁目 玄空寺
乃ち出でて畝傍山に入る ④170‐2 安岡八幡宮の迫山


鞍作鳥 ④106-3
④108-9
南淵の坂田尼寺 ・・・・ 尼寺なので玄空寺の小字「法華寺」 か
④108-最後の行 壬生部

④62‐3 大伴毘羅夫連 弓箭・皮楯   (ひら) =くり舟
古事記 比良夫貝 阿耶訶、つぶ立つ御魂、咲く時、紐小刀、島の速

孝徳紀 ④308‐7 穴戸国司 草壁連醜経、白雉、同族
④314‐7 今我が親神祖の知らす、穴戸国の中に、此の嘉瑞有り。
  ↓
下関市富任の 潮待貝塚 場所 安岡幼稚園
出土遺物 ベンケイ貝などの貝輪、土弾、イヌ


桜井朝臣  ⑤202-3
桜井娘(蘇我臣桜井娘)  ⑤42-最後
桜井皇子  ③242-11  
桜井皇女(太姫皇女)  ④26-7
桜井臣  ④158-5 ⑤202-3
桜井和慈古  ④156-7
桜井田部宿禰  ⑤204-4
桜井田部連  ③224-9 ⑤204-4
  糸媛  ②194-1  
  渟  ④74-2 神武東征 胆駒山
  男  ②192-最後 古事記の一尋鰐(佐比持の神)
桜井弓張皇女  ④28-11 軍事基地
敏達記 桜井の玄の王

万葉集271 桜田
万葉集274 枚の湖

『万葉植物文化誌』 木下武司 八坂書房 2010 【さくら】
漢和辞典 【桜】
中国では「桜」は桜梅・桜桃・サクランボの類で実を食べる種。
万葉集の桜はヤマザクラ。
旧字【櫻】より、貝の首飾り

履中紀 ②292‐8
允恭紀 ②332‐末から2行目

倭王武は難波祝津宮(潮待貝塚=牧野、軍事基地)の欽明天皇
津=オノゴロ島、沼矛、古語拾遺 天富命が降った阿波 (沫蕩尊)
倭王讃 仁徳天皇は潮待貝塚か。

『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮紀子 日本経済新聞出版社 2007
P69 図35  モンゴルは首都の鎌倉を認識してない。
「讃」は讃州(讃岐、香川県)でなく下関市域なら考古学で証明できるか。

潮待貝塚は ”日本の出発地点” である。「国家」発祥ルーツの場所である。
野生の山桜が多いのは有冨墓地の東、大迫池上である。


対応
奈良県桜井市 ⇔ 下関市有冨 大迫池の周辺 山桜の木が多い。
大阪府枚岡市 池島 ⇔ 下関市富任6丁目 安岡幼稚園 西側のくぼ地

国家 考古学でいう国家でなく漢和辞典【国】の熟語
欽明紀 文庫書紀③322‐7
国家を造り立てし神なり。
オノゴロ島 伊奘諾尊・伊奘冉尊 蛭児 葦船
百済は蛭児が建てた国

を建てし神
漢和辞典 【国】【邦】【方】のちがい

瑞穂国の溝
縄文溝  潮待貝塚、秋根の勝山支所
豊葦原の瑞穂の国 潮待貝塚の南北方向の 畑作でなく稲作か

文庫書紀③302‐末から2行目 辺直
樟木 東大阪市 河内ふるさと文化誌 わかくす (若楠)
吉野寺 竹生寺の仏像

仏教伝来
古代寺院の伝説  下関市豊浦町 室津上、吉永・黒井
溝辺直の仏像 竹生寺縁起に通じるか。

纏向王宮の東西軸 石野博信

東西軸 ネット国土地理院地図で計測
池上曽根遺跡ー桜井市 倉橋溜池ー伊勢市 二見・鳥羽

神武東征 青雲の白肩の津
通説は東大阪市日下。
下関市冨任の潮待貝塚(安岡幼稚園)から土弾が出土している。潮待貝塚は軍事拠点であり、孔舎衛の戦の場所だ。

新訂 古事記 角川ソフィア文庫 平成13年 41版 P76‐末行
吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良はず。

青雲=蒼天 青はブルーではなく灰色、黒い灰色。雲である。
大迫池工事 山斜面から青灰色の粘土層が露出
白肩=白は五行配当では西

雲が湧きたつ場所は潮待貝塚の東方向、有冨墓地・大迫溜池の谷。江戸期の地下上申絵図では大谷、かく石垰(古事記 天の迦久の神)と書かれている。

東西軸
潮待貝塚ー有冨の大迫堤 「有冨の桜井」といえる。

『大和の原像』 小川光三 大和書房 1973
P207 写真
太田遺跡の大溝・前方遠くに著墓が見える(石野博信氏提供)
  ↓
この場所は有冨 大年池西隣 農協勤務 中村勝さん家・中野さん家の北裏 用水路
に対応する。


牧野
『鏡の古代史』 辻田淳一郎 角川選書 2019年12月
P361‐6行目 牧野古墳 馬見古墳群

枚岡市 「枚」と「牧」は字が似る。
書経 牧誓 土+母、衛、、妹
(参考)
『書経・易経 (抄) 』赤塚忠 中国古典文学大系 平凡社 P174上 注四

私見 有冨のハンドウ山は殷の紂王の都があった所
潮待貝塚=牧野の戦場 殷周革命

沫は沫蕩尊 あわなぎのみこと
古語拾遺 天富命と斎部 阿波 (富任)、安房 (彦島)に天降した。
富任とは天富命が麻・穀を植えるため天降した所である。 

青雲 青丘国、万葉集1867の阿保山