夷 夏王朝 鳴条の野

夏 (三代) Wikipedia
倭国との関連
岡田英弘は夏及びその後継と言われる河南省の禹県や杞県にあったとされる杞国などを参照しながら、」と呼ばれた夏人が長江や淮河流域の東南アジア系の原住民であった事や ...

文庫書紀➀226‐2 歌謡 を 一人 百な人
  ↓
菟田、香山、磯城にいたのは夏王朝の人たち。
神武東征は殷の湯王? 鳴条の戦い

平凡社 中国古典文学大系 書経・易経(抄)
P121上 注六 鳴条の野 一説に … 東夷の地


「東夷」とは、
『中国文明の歴史』 岡田英弘 講談社現代新書 2004
P41‐末行

『日本人が教えたい新しい世界史』 宮脇淳子 徳間書店 2016
P108‐8行目

『皇帝たちの中国史』 宮脇淳子 徳間書店 2019.12
P15[図1]

とある。
私見は「東夷」は朝鮮半島の国々を含まず、倭奴=下関市 有冨中村の山
をいう。

南 彭咸の居場所

『楚辞』と楚文化の総合的研究 大野圭介 主編 汲古書院 2014
P201‐14行目
私見では、
楚辞「南行」 彭咸の居場所=倭国の極南界 【讃】

彭祖 列仙伝、神仙伝
詩経国風 周南、召南

倭の奴国 下関市有冨 中村の山 が【讃】の位置である。


福岡県出土の連弧文清白鏡。その銘文の研究書として必読の本
『楚辞新研究』 石川三佐男 汲古書院 平成14年
P132 司命は人面鳥身

山海経 人面鳥身
集英社 全釈漢文大系
段落番号
479
482
539
554 句芒
678
737
765
795
など

銅頭大師

『鏡の古代史』 辻田淳一郎 角川選書 2019
P266 表7 田中史生(2013)
西暦413 倭国及び西南夷の銅頭大師

神武東征 赤銅の八十梟帥 文庫書紀➀218‐7 高尾張邑、葛城邑

史記 淮南衡山列伝 第58 有使者銅色竜形 使者は銅色の顔で竜の形
参考 『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 三一書房 1996 P24‐1行目

『北九州市史 総論 先史・原史』 1985
P428 下徳力遺跡 弥生終末 銅滓が出土、青銅器の製作。
P596 岩屋遺跡の鏡
P601 特色 岩屋遺跡では海上活動を基盤とする集団が急成長する

『鏡の古代史』 辻田淳一郎 
P102 私見 「弥生時代終末期後半から古墳時代前期前葉にかけて、北部九州の交流窓口は博多湾となり」とあるが、北九州市 若松区岩屋の台頭を見落としている。八幡西区 馬場山遺跡の鏡も興味深い。

参考
『北九州市史 総論 先史・原史』 1985
P602 第30表 市内出土の青銅器の時期 執筆 武末純一

双頭龍文鏡 2頭の龍
『蓬莱山と扶桑樹』 岡本健一  思文閣出版 2008
P17‐末行


下関市 黒井村郷土史 谷ヶ浜紺屋善助文書(やつがはま こんやぜんすけ)
景行天皇第二皇子 日本武尊 熊襲征伐の後 筑紫の若さ松原の港より中国安の陸(安岡) に着船ましまして出雲国に巡狩の途次此の地に立寄られ …

筑紫の若さ松原の港 若松区岩屋か

木屋瀬町誌
P3
香月家譜によれば、
熊襲の大将である火国の川上梟師の弟の江上梟師が金剛の丘に居た。
日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠る。
寿福寺縁起書に、
仲哀天皇亦與 皇后、将 討 熊襲 之時至 自 岡湊 而鎮魂焉
とあり、この地に来られたことを物語る。

遠賀郡誌
P685 若松区 島郷村 有毛の小字に「木角」 紀角宿祢 古事記 木角宿祢

中間市 底井野村 
村社八幡宮  P670~
垣生区の西南四町八幡山にあり
仲哀天皇神功皇后と共に、岡湊より御船にて此垣生郷に着き玉ひ、暫く駐蹕ましまして、熊襲征伐のことと共謀議せさせ給ひし御址なればとて・・・・古へは宮造りも最と宏麗にして、祭祀の行はるる最も厳重に、年中数十度に及べり ...


熊襲が八幡西区 金剛にいた。馬場山遺跡は熊襲。
岩屋、馬場山から出土した双頭龍文鏡は日本武尊の所有物か熊襲の物である。
小倉南区 八旗神社古墳群 双頭龍環頭柄頭

龍、蛟の祖型はオオサンショウウオであろう。八幡東区、八幡西区で捕獲。


楚辞
清白鏡、竹原古墳の壁画

明治書院 新釈漢文大系 『楚辞 』
九歌 大司命 P85‐末から2行目
竜車に乗って車輪の音の音をとどろかせ、高く馳せてに昇り

山海経
集英社 全釈漢文大系
海外西経 段落番号 518
西方の神は蓐収 (じょくしゅう) ・・・ 二匹の龍に乗っている

海外東経 段落番号554 句芒 (こうぼう)

海外東経の長差丘は福岡市東区 立花山のクスノキ原始林と見れば、
福岡市東区 唐原は堯を葬った場所の地名である。唐堯

下関市 冨任 (とみとう) は古語拾遺の天命が赴した地名だろう。

牧野の戦 漢和辞典【牧】 州の長官


小倉南区
長尾小学校 縄文末の馬の歯
八坂神社 素戔嗚尊の伝説地 木製の鐙 (あぶみ)

小倉南区 徳力 神理教 (モノレール 徳力嵐山口駅) 饒速日命の伝説地


『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮紀子 日本経済新聞出版社 2007
P69 図35 下関市の南域に倭の五王【讃】
倭は道教の神仙境にあり、山水画に描かれる岩山にある。下関市石原 砕石場
道家思想ゆえ倭王の宮は陋屋である。地勢の天子南面 龍穴 有冨の大迫池上

天子南面 下関市有冨中村の山 ハンドウ山・大迫池 【讃】 天
臣下北面 北九州市 双頭龍文鏡、双頭龍環頭柄頭 竜車

『楚辞』と楚文化の総合的研究 大野圭介 主編 汲古書院 2014
P201‐14行目
私見では、
倭国の極南界 【讃】=楚辞「南行」 彭咸の居場所
その南の狗奴国 小倉南区 長尾


下関の倭国から見て西南夷は、 ~ 大宰府市・小郡市・吉野ヶ里の方向だ。
大野城市 牛頸、大宰府観世音寺。
銅頭大師は雲南、西域の仏教僧だろうか。
「夷」は日本で、西南夷は方向が違うが関西のヤマト王権か。

太秦(うずまさ)

Wikipedia
太秦(うずまさ)は、京都市右京区の地名。
京都市右京区梅津以北から京都市北区に挟まれた住宅地が、現在の太秦の範囲である。木嶋坐天照御魂神社などの神社、京都最古の寺である広隆寺、蛇塚古墳などの前方後円墳が良く知られている。

「太秦」という地名の由来には諸説ある。
雄略天皇の御世、 渡来系の豪族秦氏(秦酒公)が、絹を「うず高く積んだ」ことから、「豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てたという説。


豆満佐
禹は秦氏の地におり、向津具の住人だった。

改訂版 「日本」国はいつできたか 大和岩雄 大和書房 1996
P78 図4 赤関の真北よりほんの少し東寄りに徐福相が位置する。
P87 四至説 呂氏春秋 離俗覧 大は北

赤関は赤間関ではなく海岸に赤石が露出する下関市 吉見湾である。

夏禹は長門市油谷向津具の向国だった。
向津具の迫田 小名「十日神」=扶桑=木島
神功紀の神託 向津媛命 文庫書紀②138‐6

潮待貝塚 ー 下吉田遺跡

『山口県史 資料編 考古1』 平成12年 
P172 潮待貝塚 写真 出土遺物(縄文土器)
の文様と北九州市小倉南区 下吉田遺跡の縄文土器の文様が似ている。


『北九州市史』総論 先史・原史 昭和60年
巻頭 口絵写真

P271 下吉田遺跡 縄文後期中葉 付録 遺跡分布地図(Ⅰ) 番号3070


国土地理院 地図で計測
下吉田遺跡と下関市 竹生寺西隣の妙見宮を直線で結ぶ。直線上にある所は、
竹生寺 妙見宮
 有富 ハンドウ山 登り口 少し上
 塚の原遺跡 石原ホームワイド裏の台地 朱を作る石杵 出土の少し西 
 秋根遺跡 新下関 ダイハツ店 西側 便所 内行花文鏡、巫女人骨
 東亜大学 北側 新幹線トンネル出入り口 西側 字「四方山」 しほうやま
 椋野 妙見山
 門司区 風師山
下吉田遺跡  小倉南区 下吉田 バス停「下吉田」北側


山海経 海外東経
長差丘 福岡市東区 立花山 堯葬は唐原
大人国 宗像海人
この距離で以下進めば、青丘国は下関市 有冨中村・大年池
豎亥の測量 定点は有冨中村・大年池 

古語拾遺 天富の命

下関市冨任
「冨任」とは古語拾遺の天命がじられた地である。

潮待貝塚
白雉 穴門の麻山は冨任の潮待貝塚である。

阿波(徳島)は沫蕩尊で潮待貝塚である。


神田遺跡
縄文土坑  縄文農耕、孔舎衛の戦、穴戸

古墳時代の滑石製模造品「三種の神器」  古語拾遺 天富命、齋部
榊に三種の神器がつり下げられており、そのまま土に落ちた。
古事記・日本書紀が伝える情景と同じ。

耳栓
漁網につける石錘

板状土偶

神田遺跡から出土した石斧は天富命の斎斧である。
古語拾遺の斎部広成は下関市 冨任神田に住んでいた。


参考
山口県の地名 日本歴史地名大系 平凡社
山口県の古代遺跡〔Ⅰ〕 集落・墳墓編 古代遺跡教材化研究会 平成7年

古語拾遺

桜井 下関 説

桜井 文庫書紀
桜井屯倉  ③218‐4 河内の桜井 大阪府枚岡市池島

桜井臣  ④164-1
高山の如くに恃む。 ④162‐末行
私見
地下上申絵図で、有冨 薬師池上 ふせぎが谷
玄武の山である竹生寺の山。
桜井は大迫池の下でなく、薬師池の下か林さん家の家裏か。

高山 万葉集13
室津の甲山 高山ともいう。
有冨 竹生寺の山号 高山
吉見の竜王山 海人の山?

尼寺の瓦舎 ④168‐末 安岡町5丁目 玄空寺
乃ち出でて畝傍山に入る ④170‐2 安岡八幡宮の迫山


鞍作鳥 ④106-3
④108-9
南淵の坂田尼寺 ・・・・ 尼寺なので玄空寺の小字「法華寺」 か
④108-最後の行 壬生部

④62‐3 大伴毘羅夫連 弓箭・皮楯   (ひら) =くり舟
古事記 比良夫貝 阿耶訶、つぶ立つ御魂、咲く時、紐小刀、島の速

孝徳紀 ④308‐7 穴戸国司 草壁連醜経、白雉、同族
④314‐7 今我が親神祖の知らす、穴戸国の中に、此の嘉瑞有り。
  ↓
下関市富任の 潮待貝塚 場所 安岡幼稚園
出土遺物 ベンケイ貝などの貝輪、土弾、イヌ


桜井朝臣  ⑤202-3
桜井娘(蘇我臣桜井娘)  ⑤42-最後
桜井皇子  ③242-11  
桜井皇女(太姫皇女)  ④26-7
桜井臣  ④158-5 ⑤202-3
桜井和慈古  ④156-7
桜井田部宿禰  ⑤204-4
桜井田部連  ③224-9 ⑤204-4
  糸媛  ②194-1  
  渟  ④74-2 神武東征 胆駒山
  男  ②192-最後 古事記の一尋鰐(佐比持の神)
桜井弓張皇女  ④28-11 軍事基地
敏達記 桜井の玄の王

万葉集271 桜田
万葉集274 枚の湖

『万葉植物文化誌』 木下武司 八坂書房 2010 【さくら】
漢和辞典 【桜】
中国では「桜」は桜梅・桜桃・サクランボの類で実を食べる種。
万葉集の桜はヤマザクラ。
旧字【櫻】より、貝の首飾り

履中紀 ②292‐8
允恭紀 ②332‐末から2行目

倭王武は難波祝津宮(潮待貝塚=牧野、軍事基地)の欽明天皇
津=オノゴロ島、沼矛、古語拾遺 天富命が降った阿波 (沫蕩尊)
倭王讃 仁徳天皇は潮待貝塚か。

『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮紀子 日本経済新聞出版社 2007
P69 図35  モンゴルは首都の鎌倉を認識してない。
「讃」は讃州(讃岐、香川県)でなく下関市域なら考古学で証明できるか。

潮待貝塚は ”日本の出発地点” である。「国家」発祥ルーツの場所である。
野生の山桜が多いのは有冨墓地の東、大迫池上である。


対応
奈良県桜井市 ⇔ 下関市有冨 大迫池の周辺 山桜の木が多い。
大阪府枚岡市 池島 ⇔ 下関市富任6丁目 安岡幼稚園 西側のくぼ地

国家 考古学でいう国家でなく漢和辞典【国】の熟語
欽明紀 文庫書紀③322‐7
国家を造り立てし神なり。
オノゴロ島 伊奘諾尊・伊奘冉尊 蛭児 葦船
百済は蛭児が建てた国

を建てし神
漢和辞典 【国】【邦】【方】のちがい

瑞穂国の溝
縄文溝  潮待貝塚、秋根の勝山支所
豊葦原の瑞穂の国 潮待貝塚の南北方向の 畑作でなく稲作か

文庫書紀③302‐末から2行目 辺直
樟木 東大阪市 河内ふるさと文化誌 わかくす (若楠)
吉野寺 竹生寺の仏像

仏教伝来
古代寺院の伝説  下関市豊浦町 室津上、吉永・黒井
溝辺直の仏像 竹生寺縁起に通じるか。

纏向王宮の東西軸 石野博信

東西軸 ネット国土地理院地図で計測
池上曽根遺跡ー桜井市 倉橋溜池ー伊勢市 二見・鳥羽

神武東征 青雲の白肩の津
通説は東大阪市日下。
下関市冨任の潮待貝塚(安岡幼稚園)から土弾が出土している。潮待貝塚は軍事拠点であり、孔舎衛の戦の場所だ。

新訂 古事記 角川ソフィア文庫 平成13年 41版 P76‐末行
吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良はず。

青雲=蒼天 青はブルーではなく灰色、黒い灰色。雲である。
大迫池工事 山斜面から青灰色の粘土層が露出
白肩=白は五行配当では西

雲が湧きたつ場所は潮待貝塚の東方向、有冨墓地・大迫溜池の谷。江戸期の地下上申絵図では大谷、かく石垰(古事記 天の迦久の神)と書かれている。

東西軸
潮待貝塚ー有冨の大迫堤 「有冨の桜井」といえる。

『大和の原像』 小川光三 大和書房 1973
P207 写真
太田遺跡の大溝・前方遠くに著墓が見える(石野博信氏提供)
  ↓
この場所は有冨 大年池西隣 農協勤務 中村勝さん家・中野さん家の北裏 用水路
に対応する。


牧野
『鏡の古代史』 辻田淳一郎 角川選書 2019年12月
P361‐6行目 牧野古墳 馬見古墳群

枚岡市 「枚」と「牧」は字が似る。
書経 牧誓 土+母、衛、、妹
(参考)
『書経・易経 (抄) 』赤塚忠 中国古典文学大系 平凡社 P174上 注四

私見 有冨のハンドウ山は殷の紂王の都があった所
潮待貝塚=牧野の戦場 殷周革命

沫は沫蕩尊 あわなぎのみこと
古語拾遺 天富命と斎部 阿波 (富任)、安房 (彦島)に天降した。
富任とは天富命が麻・穀を植えるため天降した所である。 

青雲 青丘国、万葉集1867の阿保山

下関学 VS 纏向学

「日本」国はいつできたか 改定版 大和岩雄 大和書房 1996
P78

モンゴル帝国が生んだ世界図 宮紀子 日本経済新聞出版社 2007
P69

徐福相 長門市油谷蔵小田 藤森神社跡 近年、須賀神社に合祀されて藤森須賀神社となっている。藤森神社の旧社地は安倍事務所の北 500 m。京都市伏見に藤森神社がある。「深草」より 欽明紀の冒頭、秦大津父の墓か。秦大津父=徐福 か

赤関 下関市吉見下 古宿の海岸 どさんこラーメン店あたり。大久保山。

 四国の讃岐かもしれないが、下関市域なら有冨の大迫池堤の下。 用水路に架かる鉄パイプの橋があり、天の高橋・勾の金橋で、前方後円墳の渡土手に相当する。くびれ部(孔子の曲阜)の急坂を上がるとハンドウ山の頂にいたる。ハンドウ山が前方後円墳の祖形である。 古墳時代中期の前方部が高くなる形は竹生寺の山を安岡方面から見た形。ハンドウ山=奈良県の行燈山。有冨墓地=奈良県の佐紀古墳群。

石野博信の疑問 纏向宮の東西軸
潮待貝塚(富任の安岡幼稚園)-三郎山古墳-有冨 大迫池堤下(桜井・纏向)

文庫書紀➀204‐末行
かひて虜を征つは、此天道に逆れり

対応
桜井市 下関市有冨 大迫池堤下の鉄パイプ橋から用水路10 m 下るに平成19年に切り倒された山桜の木(幹の直径20cm)があった。この場所が「有冨の桜井」 で、白井さん(白猪史)のクヌギ山。

天理市 山辺の道 大年池-大迫池の用水路 道
龍王山 有冨竜王社 ハンドウ山の頂 祠


鏡の古代史 辻田淳一郎 角川選書 2019年12月
P38‐末行 星雲文鏡
不老長寿を願う思想のもと、中央の大地から雲気の渦が山のように湧き立ち、丸い天空へとその雲気がひろがっていくさま
  ↓
老子の谷神 場所は有冨の大迫池の東北側 沢水が泊瀬川
隠国の泊瀬 雲が常套句
蒼天、豊隆 蒼天は雲

P39‐4行目 異体字銘帯鏡「精白」「昭明」
「昭明」は元号の昭和で書経の堯典。堯舜はハンドウ山の頂にいた。
有冨のハンドウ山の尾根-大迫池 仙郷
 楚辞、漢墓の神仙図の場所
 曹魏の円丘・方丘
 淮南子の小山
 万葉集48
 蜻蛉島
 野馬台の詩

ハンドウ山 邪馬台国=下関市有冨中村の山 
潮待貝塚の縄文土器 文様(土偶に似る)
広田遺跡 貝製品 種子島
秋根遺跡 1977 ダイハツ新下関店

神田遺跡の板状土偶  ネット検索【 神田(かんだ)遺跡 土偶(どぐう)】

長門市 油谷蔵小田 安倍事務所と徐福祠

『秦氏の研究』 大和岩雄 大和書房 1993、2013 第14刷
P339 松尾大社
京都市 藤森神社の祭神に別雷命
油谷 蔵小田に藤森神社 大日様 後に須賀神社と合祀

欽明紀の冒頭
秦大津父 山背国の紀郡の深草

藤森神社 京都府京都市伏見区深草

長門市油谷蔵小田 渡場 の安倍事務所の北500 m に須賀神社に合祀される前
の藤森神社跡がある。この藤森神社跡が 秦大津父=徐福祠 である。


徐福祠=油谷蔵小田の藤森神社説

有冨 大迫堤の下 桜井

潮待貝塚は深坂 (みさか) 農業用水の長をしていた西山さん家付近にあり、砂山の小丘でサツマ芋の畑があったという。真東は有冨の大迫池 (3月末で工事終了)。大迫池の堤防下が倭国の桜井田部。考古学でいう関西ヤマト王権の桜井は奈良県の桜井市。倭国の桜井は下関市有冨の大迫池の下。
欽明紀 文庫書紀③342‐7
姓を賜ひて白猪史とす。尋ち田令を拝けたまひて、瑞子が副としたまふ。
白猪史 有冨の白井さん家の持ち山 クヌギ林 大年池の上
文庫書紀③238‐8
倭国の添上郡の山村 有冨の山村さん家

下関市域で桜井といえば下関市菊川町 下岡枝の桜井八幡宮である。
田部が見える小日本。10年前に菊川の桜井八幡宮を何度も訪れたが、倭国の桜井ではない。倭国の桜井は下関市有冨の大迫池堤の下、山村さん・岩谷さん・中野利さんの田んぼだ。桜井は倭国の核の場所である。大迫池堤は潮待貝塚から見て摩東に位置する。

潮待貝塚から石弾が出土 神武東征 孔舎衛の戦か。
潮待貝塚の縄文土器 母木邑の乳首土器か。

文庫書紀➀204‐末行
かひて虜を征つは、此天道に逆れり。
日向 有冨 大迫池下の纏向宮 東西軸
参照 2013,9.29
「古代の住居と王の居館」 石野博信 下関市立考古博物館 講演 配布資料

茅渟の山城水門 綾羅木川と砂子多川の合流点 家庭菜園畑 字「山木」
紀国の竈山 秋根遺跡 1977 ダイハツ新下関店 内行花文鏡、鉄蓋 (鉄鏡か)


倭の五王 文献史料
倭の五王=熊襲 説
『熊襲は列島を席捲していた』 内倉武久 ミネルヴァ書房 2013
P273 松野連倭王系図

倭の五王=穴門の伊都都比古 説
『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮紀子 日本経済新聞出版社 2007
P69 図35 下関市南に【讃】がある。

讃は誰か
仁徳天皇 下関市唐戸を難波、梅光学院大学のあたり 関後で山背、あるいは長府が難波か。古事記 天日矛を読むと難波は日本海沿岸にあるので、下関市吉見 古宿 (こずく) に比定 【赤関】は倭国の河内王朝
履中天皇 書経 殷の湯王は「履」 隋書俀国伝の王は湯王の政治流儀
履中記 石上神宮にいる。 有冨 大迫池の上
雄略天皇 讃歌 万葉集1、蜻蛉島倭 有冨のハンドウ山・大迫池の上

綾羅木川 江戸時代までは石津川と呼ばれていた。またJR 安岡駅付近の海岸を石津という。大阪府に石津川が流れている。和泉・河内・難波は冨任 とみとう 付近とも考えられる。音より投馬国か。

こういうことを言っても考古学関係者は「考古学の定説」あるのみ。
  2001~2004年頃、地方で発掘調査や学芸員をしている考古関係者50人くらい大勢の人に尋ねても全員が、安本美典・大和岩雄・古田武彦の名前を知らない。記紀を読んでないので熊鰐や宗像の市杵島姫を知らない。姫・命(みこと) が分からない。神社の祭神が分からないので図書館の郷土史本を読んでない。分かることは「考古学の定説」と季刊 考古学に載る業界の動向だけであることを私は知った。今から15年以上前のこと。

『卑弥呼と神武が明かす古代』 内倉武久 ミネルヴァ書房 2007
P239‐7行目
定説にふれるものは出さない、と言っています。
九州歴史資料館 木簡の担当者 談

伊都都比古は「ツツ」で私見は住吉神
住吉大社神代記 皇后与大神有密事
清寧紀 飯豊皇女、角刺宮にして、与夫初交したまふ。

『忘れられた島』 岩波写真文庫 148 1950年代を見つめる
鹿児島郡 三島村 黒島 
P24 下帯一つに鍋炭を塗った海賊連 ケイゴ船が来るぞ

『モンゴル帝国が生んだ世界図』 宮紀子 日本経済新聞出版社 2007
P69 図35 下関市南に【讃】がある。
  ↓
邪馬台国 下関説の証拠、あるいは可能性あり になる。
魏志倭人伝 里程論 壱岐から末盧国へ渡海 「南へ」がない。

『山口県史 資料編 考古1』 平成12年3月 赤い大型本
『下関市史 原始ー中世』 平成20年3月
を古本・新品で購入した。
下関市考古学関係者にはこの2冊にあることしか伝わらない。

そこで、
潮待貝塚(下関市富任町6丁目 安岡幼稚園の西南の谷)から出土した縄文土器の文様が種子島 広田遺跡の貝製品に通じることを指摘しておこう。

潮待貝塚 → 広田遺跡 → 遮光式土偶 雷

山口県史 資料編 考古1 平成12年
潮待貝塚 下関市大字富任字正町
富任 冨任 「ウ」かんむりではなく「ワ」かんむり
任 古事記に使われている漢字 「ワ」かんむり「冨」の字
「正町」は「潮待」の転化 正=政 か
P171 遺物 土弾(軍事拠点)、貝製品、貝輪(広田遺跡に関係か)

P172
写真 1 出土遺物(縄文土器)
土器の文様は縄文土偶の乳首・胸の文様に似る。

写真 2.出土遺物(縄文土器)
左端の中央 広田遺跡の貝製品、遮光式土偶の目 に似る。

私見 土偶土器である。

P173 神田遺跡
遺物 板状土偶 ネット検索【 神田(かんだ)遺跡 土偶(どぐう)】
  ↓
日本の古代遺跡 38 鹿児島 森浩一企画 河口貞徳著 保育社 昭和63年
表紙 目を表現した貝札

P14
「山」 書道の字体 字が上手い。
下の写真の文様 雷文
(参照)
角川 新字源 改定版 2015年
【雷】 雷文の挿絵

中国の神仙思想、道教の受容は7世紀以降と考えられている。
(参照)
『鏡の古代史』 辻田淳一郎 角川選書 P234

『鹿児島県の歴史』 県史 46 山川出版社 1999、2000 2版
P26‐末行 広田遺跡の年代
近年は時代を引きさげて弥生時代終末~7世紀に位置づける説もだされている。


種子島の広田遺跡(弥生中期・後期)
漢字の隷書「山」、神仙思想・道教の教義である貝札の文様がある。屈葬は下関市 秋根遺跡(1977)の巫女の埋葬に似る。

P220 奄美大島 笠利町喜瀬 サウチ遺跡 弥生中期・後期
饕餮(とうてつ)文、製鐵技術の伝来

広田遺跡の年代が論点となっている。私見は饕餮(とうてつ)文の貝札が出土しているサウチ遺跡と同時とする。 弥生中期


下関市 潮待貝塚の縄文土器 土偶のよう 目を表現
種子島 広田遺跡 「目を表現した文様のある貝札」


淮南子 上 楠山春樹 明治書院 新釈漢文大系
時則訓 仲春の月
P249
雷の鳴る三日前に、を振って民衆に次のように命ずる。「が鳴りだそうとしている。その起居動作を慎まぬ者は、生まれる子は不具となり、必ず凶災が起こるであろう」と。 
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縄文土偶は正装した女
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銅鐸の使用方法


雷・稲光 神とは雷。雷を落とす祭祀
日本の青銅器は大型化
神功皇后の裂田溝 大岩の上に剣鏡を並べ落雷を呼ぶ鬼道
沖ノ島 岩上祭祀
石上神宮 七支刀は避雷針の形
垂仁39年 茅渟の莵砥川上宮で剣千本を作り石上神宮に奉納
万葉集 鳴る神
装飾古墳の壁画、特殊器台・円筒埴輪、多紐細文鏡、銅鐸の周縁 の ▽△ 

鋸歯文と直弧文は通じており、その意味するものは神=雷・稲光