倭人と関東文化

鎌倉文化 Wikipedia 
鎌倉文化(かまくらぶんか)は、鎌倉幕府の成立した12世紀末から幕府が滅亡した14世紀前半にかけての日本の文化。王朝国家からの自立を指向する本格的な武家政権が東国に開かれた時代であり、各方面で新しい文化的所産が生まれた。

私見
倭国の文化は関西王朝の「国風文化」とは全然ちがう。
鎌倉幕府にはユダヤ的な豪奢さはない。倭国の文化は関東で再開した。

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治承・寿永の乱を経て相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に本格的な武家政権が成立した鎌倉時代は、政治的にも経済的にもしだいに武家が公家(貴族)を圧倒していく時代であった。このような変動する社会の様相は、文化の面に対しても大きな影響をあたえた。

この時代にあっても、伝統文化の担い手は依然として主として平安京とその近傍に在住する公家の人びとや南都北嶺をはじめとする仏教寺院であり、彼らは同時に封建領主でもあった。しかし、地方の武士たちも、京都大番役などで上京した際には伝統文化にふれ、それを、それぞれ自らの地元にもたらすようになった。いっぽう、有力武士の援助を期待して、都から地方に下る貴族や僧侶などもあらわれた。

こうして、鎌倉をはじめ、守護の館のある国衙の周辺、有力武士の居住地、あるいは交通の要所などには、伝統文化をもとにしながらも武士や庶民の気風をも反映した、素朴で質実、かつ力強さをともなった新しい文化が育まれていった。

前代からはじまった民間相互の日宋貿易を通じ、禅宗をはじめ大陸から新しい文化も伝わった。金・元の南下にともなう宋朝の衰亡に際しては、征服王朝の冷遇をきらって日本に亡命した南宋の遺民や僧侶も、新しい文化の形成に大きな役割をはたした。ことに宋風文化の導入にあたっては、「東国国家」をめざした鎌倉幕府はきわめて積極的であった。元寇後も元と民間の往来はとだえることなく、建長寺の再建費を調達するため、幕府の命をうけて1325年(正中2年)に商人が元に派遣した建長寺船をはじめ、民間の商船には多くの留学僧が便乗し、新しい中国文化の移入につとめた。

私見
鎌倉武士と元寇の高麗軍は精神文化がちがう。
関東人は朝鮮・高句麗系ではなく下関倭人と人間性が似る。

平安貴族の「国風文化」は大陸系(中国・朝鮮)宮廷文化の亜種亜流である。

畢竟(とどのつまり)、倭の女王卑弥呼は尼将軍と呼ばれた北条政子だった。


北条政子  Wikipedia  
後世の評価
『吾妻鏡』は「前漢の呂后と同じように天下を治めた。または神功皇后が再生して我が国の皇基を擁護させ給わった」と政子を称賛している。慈円は『愚管抄』で政子の権勢をして「女人入眼の日本国」と評した。『承久記』では「女房(女性)の目出度い例である」と評しているが、この評に対して政子に「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」と述懐させている。

室町時代の一条兼良は「この日本国は姫氏国という。女が治めるべき国と言えよう」と政子をはじめ奈良時代の女帝(元正天皇や孝謙天皇)の故事をひいている。北畠親房の『神皇正統記』や今川了俊の『難太平記』でも鎌倉幕府を主導した政子の評価は高い。