紀伊国の 徳勒津宮


仲哀紀 文庫書紀②124-6
角鹿の笥飯宮  光岡八幡宮

南国  南郷村
( 朝町 曲 光岡 大穂町 大穂 王丸 野坂 宮田町 )

紀伊国の徳勒津宮  宮田町本城の小字「徳城」 か
紀伊国は宗像郡 荒木郷 (宮田町 有木説、宗像市 河東説)

熊襲  建日別
①考 大穂の小字「建浦」 460~487 番地
②考 遠賀川の流域

大穂 字「曾辺」 1011~1117 番地
野坂 字「ソベ」


穴門
牟田尻の井牟田、鳥越あたりか
『宗像郡誌 上編』 P377  高尾山 鳥越


秦王国=熊襲 で、遠賀川の直方市あたりか



『日本史の誕生』 岡田 英弘 著  弓立社 2001年5刷
P45 上
秦王国の住人が話していた言葉は中国語の陜西方言だったのではないか。 つまり秦の帝都があった咸陽の言葉だったか、と見る。
  ↓
秦王国の住人は朝鮮人ではなく中国人だった。

隋使裴世清が来日したのが608年だから、徐福が来た頃(秦の始皇帝の時代 B.C.211~) とは800年くらい違う。 岡田英弘が言うには秦王国とは秦氏ではなく、徐福が連れてきた童男童女の子孫たちである。

文庫書紀②205上 注5
秦氏、功智王、弓月君は姓氏録では秦始皇帝の後、ともされる。
来朝時に金銀玉帛等の物を献上した。

福津市のゼンリン住宅地図を見ると、手光に秦という家が10軒くらいある。
秦王国は福津市の手光だろう。


土笛史観
漢委奴国王  夷洲  福津市あたりか
京都府 丹後  亶洲  弥生土笛が出土する東端
か。 



文庫書紀②198-10
紀水門
美内宿禰  探湯(くかたち) 磯城川 直等の祖


字「上阿満」(上) 575~597番地
字「」 1639~1723-1 番地
字「法師」

吉田
字「浦」 

記紀などで、「甘」 の字は馬甘・牛甘のように飼・養の使われ方もある。