日置町  長門市


向津具へ行く道  昭文社の山口県道路地図
日置町の「みのヶ峠」と「野田」 が要衝(不破の道) である。

堀田遺跡
近くに小字「日ノ本」 がある。
堀田遺跡は恭仁京か、とも思える。
「坂本」 は黄泉比良坂の坂本の候補地の一つ。
出雲国の伊賦夜坂 → 油谷の坂

文庫書紀⑤98-1
坂本臣財 ・・・・ 坂本
長尾直真 ・・・・ 炭床


峠山
日置町と油谷町の境界には「峠山」 の須恵器生産が行われていた。
日置町史 1983年
P101
峠山須恵器2号窯跡  古墳時代後期
「 硯(すずり) は脚部に短冊形の すかし をもつ円面硯である 」
「 ことに円面硯は、古代硯の中でも最も古く、官衙(古代の役所) や寺社などに限って使われたもの 」


長行黒川遺跡
近くに小字「言代」 がある。 すなわち「事代」 である。
この場所が事代主神の地であることは確認できなかった。
しかし祭祀をやっていた。

日置町史 1983年によれば
発掘は昭和27年で、書かれた文章を読んでもよくわからない。
P88
弥生時代
祝部陶器
桃の種子 2個
瓜科と思われる種子多数

P89
古墳時代の住居跡
住居に関連した垣などの施設
土師器の祭祀用土器(手づくね壺)
甑の破片
馬具を装着した土馬(首部のみ残存) ・・・・ 野見宿禰と関係するか?



国常古墳  古墳時代後期
P94
「 古墳時代の後期になると、大陸文化の影響が一段と強くなり、古墳も横穴式石室が圧倒的に多くなる中で、日置町域では、簡素な在地形の原始墓系箱式石棺が中期からさらに後期へと継続的に築造されていることは、貧弱な副葬品と共に在地豪族の保守性や未成熟さをしのばせるものがある 」


私見による政治的意味
日置町は平地が広いわりに条理制が小さかった。
日置八幡宮の境内の敷地は広大であった。
「国」 の字がつく地名が多いので、出雲だと考えられる。
出雲の地なら忌み嫌われて開発発展が抑えられていた。

「国常」 という地名は日本書紀の冒頭にある国常立尊による。



角川日本地名大辞典 35 山口県  オンデマンド版
日置町 P1130右
高畑の弥生人
昭和27年の長行黒川排水改良工事で出土した紡錘車や、同57年の堀田遺跡(日置上) の発掘で発見された大型蛤刃石斧などが弥生人の生活を物語り、同時期の壺や甕などが雨乞台遺跡(日置上) からも採集されている。

また、同61年には、日置平野の南部の日置中 高畑で、掛淵川が形成した河岸段丘の台地縁辺部から竪穴住居が発見され、北浦地方最初の本格的な弥生遺跡発掘調査につながった。
その結果、弥生中期から古墳時代にかけての住居跡10軒と、溝1条、土壙3基などが検出された。
最大の竪穴住居は直径10.6メートルの規模をもち、数多くの石器や勾玉などの出土品とともに青銅器の細片が出土し、弥生人のムラの繁栄を今日に伝える。

ここから出土した弥生式土器は、北九州系山陰系瀬戸内系のものが混在し、石器の石材に大分県姫島産の黒曜石が見られることと合わせ考えると、高畑の弥生人は各地の社会と密接な交渉をもっていたことが判明する。


私見
畑の「高」 から、高姫