黒井 日本武伝説


黒井村郷土史の中に谷ヶ浜紺屋善助文書(やつがはま こんやぜんすけ) なるものが発見され、その中に「日本武尊 農耕指導地」 なる一文がある。
ヤマトタケルの命の穴戸の神の説伏に関連するものとして紹介する。

「長門国名勝記」 に安須波(やすなみ)の原といえるは此の八ヶ浜の景地なり。
人皇12代景行天皇此の安須波の原に臨幸のみぎり犬鳴山の姫菖蒲をえい覧あり、其の美景に見とられ帰ることを忘るとすなわち「いぬなき」 山と云われたり。 それ以来此処を犬鳴山といつしか転音せり。

ついで景行天皇第二皇子 日本武尊 熊襲征伐の後 筑紫の若さ松原の港より中国安の陸(安岡) に着船ましまして出雲国に巡狩の途次此の地に立寄られ、墨江の潮の浅ければ土民を集め開墾の法並びに耕てんの道を教え川を掘り溝をさらえ新に田地を開き給ひし故、時の土民此の川の辺りに耕作、牛馬祖神並に日本武尊を祀り奉りて安須波の官と申す。
今の明﨑明神と称し奉る宮是なり。(現在杜屋神社に合祀す)

以上が紺屋善助文書の一節であるが、これは長粛山人と号す文客が、古来からの伝説を谷ヶ浜の善助から聞き取り一節をものし、黒井村の考証に残したものであると編者は述べている。



よしみ史誌   P71


私見
若さ松原とは若松か。
上の伝説では黒井は墨江である。
吉永八幡宮は住吉大神、諏訪大明神、高良大明神を祭る。

素戔嗚尊が八岐大蛇の退治後に行き着いた「須賀」 とは黒井だろう。
古事記の稲田宮主須賀八耳は
稲田  日本武尊の農耕指導伝説に化した
宮主  杜屋神社 子守の神社である
須賀  国語辞典を引いて「すか」 は砂地・砂丘
八耳  八ヶ浜
に分解できる。

涌田に小字「砂走」 がある。
田」 という字面は神代紀の黄泉の津である。


神功紀の神託  文庫(二) P152
沙麼県主の祖 内避高国避松屋
川棚の松谷(まつや)  殯(もがり) の場所の周芳佐波は中ノ浜遺跡。
「避」 を「サル」 と訓めば、清の湯山主三名狭漏彦八嶋篠
川棚川の河口にある中ノ浜遺跡は黄泉の国である。

景行天皇は周芳の娑麼から船出したので、川棚川を下りてきた。
纏向日代宮は川棚川を上った所にある。

犬鳴山に景行天皇の伝説がある。
景行紀の美濃は犬鳴川上流の字「蓑ヶ岳」 か。
神骨と似る字「神屋」 がある。

岩波文庫 日本書紀(二)  P64
景行天皇 4年2月11日
美濃国造、名は神骨