対馬の金田城が 任那日本府だ


魏志倭人伝で、邪馬台国に行く途中の国々には「官」「副」 がいる。
対馬だけが「官」 であり、特別に官に「大」 の字がつく。 これは何を意味するのか。 対馬の「官」 は特殊である。

対馬は都努我阿羅斯等の任那国で、都努我阿羅斯等は朝鮮南端の狗邪韓国にも領地を持っていた?

対馬の金田城が任那の日本府だろう。

理由
垂仁紀 都努我阿羅斯等 にある「田舎」 は朝鮮語でなく日本語である。
日本」 とは北緯34度16分をいい、西安 - 豊北町 が同じ緯度上にある意味なら、任那日本府は対馬の金田城である。

任那は欽明天皇23年に新羅によって滅ぼされた。
対馬に任那があったなら、対馬は新羅領のはずである。
しかし、歴史的にその後も対馬全体が日本領である。
ネットで検索して調べると、日本(倭国) はその後も新羅に侵攻している。 この侵攻した新羅の場所は対馬か。




越の「遠の朝廷」 ・・・・ 万葉集では越国にも大宰府がある
万葉集4011
万葉集4113

万葉集の越中は「常夏に雪が残る立山」 や布勢水海があるので、日本書紀(自説 長門国説) の越国とは別の場所だろう。


長門市日置町の日置八幡宮は境内がとてつもなく巨大である。
応神天皇の笥飯大神がいる越国の笥飯浦は日置町かと思える。

油谷町 久富の小字 「太宰ヶ浴」 ・・・・ 越国の遠の朝廷の場所
場所は荒人の近く。荒人には遺跡がある。 「遺跡ウォーカー」 参照せよ
荒人は都努我阿羅斯等の転訛か。


垂仁天皇 2年是年
岩波文庫 日本書紀(二)  P20、22
一に云はく、
初め都努我阿羅斯等、国に有りし時に、黄牛に田器を負せて、田舎に将往。

「田舎」 は朝鮮語でなく日本語の地名であり、上対馬町に俗称地名がある。

対馬の地名「田舎」 は
 上対馬町の浜久須村の人が山手にある久須村を田舎久須と称していた。 平凡社 『長崎県の地名』  P920、921
 厳原町の久根田舎  銀山上神社あり  P1016


「童女、何処か去にし」 といふ。 対へて曰はく、「東の方に向にき」 といふ。
則ち尋めて追ひ求ぐ。 遂に遠く海に浮びて、日本国に入りぬ。

対馬の真東に油谷町向津具がある。
日本」 の場所は西安と緯度が同じ豊北町である。

通説 「朝鮮半島南端から福井県敦賀に来た」 は距離が離れ過ぎている。
都努我阿羅斯等は対馬の人で、大海を東に進んで豊北町か油谷町に来た、と考えられる。

任那日本府は土井ヶ浜と緯度が同じ対馬の金田城である。



金田城 築城年代
平凡社 『長崎県の地名』 で対馬美津島町の金田城(P976上) を調べる。

平成10年(1998) に炭素同位体法で調べて
540 ~ 630年
590 ~ 650年
の建築と結果がでた。
白村江の戦いが663年だから、それよりも前の築城である。