瀛 と 向津具
『 宗像市史 通史編 第二巻 』 平成11年 P8 より
「瀛」と道教
書紀による宗像神出生神話
(A) 『記』・『書紀』 本文
(B) 『書紀』 第一・第三の一書
(C) 『書紀』 第二の一書
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遠瀛(おきつみや)と中瀛(なかつみや)の表記をもつ(C)
(B)は女神の降臨を述べ、葦原中国での任務について第三の一書は、「葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。号けて道主貴(ちぬしのむち)と曰す」と単に所在場所と名称を伝えるに止まっているが、第一の一書は「道の中に降り居して、天孫を助け奉りて、天孫の為に祭られよ」とあるように天孫が強調され、一段と王権のイデオロギーが前面に現れているのである。
更に注目されるのはオキツシマヒメのオキに「奥」ではなく「瀛」の字が使用されている点である。
瀛の字は『書紀』では極めて限定された文字で、使用例は二神誓約の段以外では日向神話の海宮遊幸の段の「瀛風」(おきつかぜ)、孝安天皇の母の兄の尾張連の遠祖「瀛津世襲」(おきつよそ)の名と天武天皇の和風諡号(しごう)「天渟中原瀛真人」(あめのぬなはらおきまひと)のみである。
瀛は音はエイで、海や大海原の意味があって、これらの神話での使用内容や天武が大海人皇子といわれた点からは妥当な用字ともいえる。
しかし、瀛は道教では東海中にあって神仙が住むという蓬莱・方丈と並ぶ三神山の一つの意味があり、真人も道教では悟りを開いた人のことをいうのである。
このように瀛に道教的要素が強いことを勘案すれば、その確実な使用は天武天皇の和風諡号にあるといわねばならず、『書紀』神話にみえる瀛の字は天武朝=7世紀後半以降の使用と考えることができる。 ・ ・ ・ ・ ・
『「日本」国はいつできたか』 改訂版 大和岩雄著 1996年 P77より
『史記』封禅(ほうぜん)書には、戦国時代の斉国の威王や宣王、それに燕国の昭王が人を派遣して、東海上にある神仙の住む蓬莱・瀛州・方丈の三神山を探させたという。
図4(『広輿図』所蔵 「東南海夷絵図」)では三神山の瀛州の近くに扶桑が記されている。
扶桑は朝日の昇る樹だから、中国大陸の南端から真東の極東に描かれている。
1402年に朝鮮でつくられた「混一疆理歴代国都之図」でも、扶桑と瀛州は、日本列島の南にくっつくように並んで位置している。