向津具大浦 の 海女
新油谷町史 平成18年 P51 ~ 52
大浦に残る伝説によると、神功皇后が三韓へ出兵のみぎりに油谷湾を根拠地とし、今の大浦後方の丘にあたる王羽根を仮御所にしたという。
そのとき、麓に住む海女が鮑を献上したところ、それを賞味された皇后は大変喜ばれて、「以後この浦を王浦とせよ」 と言われた。
それを聞いた浦人は大変かしこまり、恐れ多いことと思い、字を変じて「大浦」 と呼んだというのが大浦の地名のいわれであり、この名が後世に伝わり現在に至ったというのである。
別の話では、出雲日御崎・長門川尻・筑前鐘﨑で大火を焚いて往復の航海目印にしたとも言われている。
後に大浦の海女が歴史に登場してくるのは源平の戦になってからである。
もともと向津具は朝廷の御料であり、海産貢納物として雑鮑・薄鮑・乾魚・若布・かじめを貢納していた。
そうした関係があったからか、11世紀に平家が下関壇ノ浦で滅亡した際に、大浦の海女が海底で沈んだ宝剣の探索に動員されている。
しかし宝剣を見つけだすことはできなかった。
大内時代になり、大内水軍の将後根壱岐が向津具の領主であった頃、向津具は明との貿易で大浦の干し鮑や煎海鼠が大浦の主要輸出物となっていた。
そこで増産のために人出が求められるようになり、正長元年(1430) には鐘﨑より多くの海女が移住してくるようになった。
大内が滅亡して毛利の支配下に変わると、海賊停止令によって瀬戸内を追われた村上武吉が、天正15年に毛利輝元より大津郡と南防州に一万石の領地を受領し油谷湾周辺を居住地とした。
やがて文禄慶長の役が始まると、軍役の海産物増産のために再び海女が必要になり、鐘﨑より鐘﨑又兵衛に率いられた海女たちが移住してきた。
向津具大浦の海女は増産のために鐘﨑から移住者が来た時代もあったが、その歴史は太古までさかのぼる。
土井ヶ浜弥生人には潜水によって生じた耳タコがあった。
参照 『珈琲タイムの考古学』
魏志倭人伝に、今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚・水禽を厭う とある。
向津具の大浦 と 土井ヶ浜が魏志倭人伝 「倭の水人」 の地である。
新油谷町史に「もともと向津具は朝廷の御料であり」 とある。
天長7年(830) 5月22日
「長門国外嶋一処を勅旨嶋とす」 は向津具か。