中間市 垣生 底井野


角川ソフィア文庫 新訂 古事記  P62

出雲の国の多芸志の小浜に、天の御舎を造りて、水戸の神の孫櫛矢玉の神膳夫となりて、天つ御饗献る時に、禱き白して、櫛矢玉の神鵜に化りて、海の底に入りて、底の埴を咋ひ出でて、天の八十平瓮を作りて、海布の柄を鎌りて燧臼に作り、海蒪の柄を燧杵に作りて、火を櫕り出でてまをさく、「この我が燧れる火は、高天の原には、神産巣日御祖の命のと足る天の新巣の凝烟の八拳垂るまで焼き挙げ、地の下は、底つ津石根に焼き凝して、栲縄の千尋縄うち莚へ、釣する海人が、口大の尾翼鱸さわさわに控きよせ騰げて、打竹のとををとををに天の真魚咋献る」 とまをしき。
かれ建御雷の神返りまゐ上りて、葦原の中つ国を言向け平しし状をかへりごとまをしき。



この場所は中間市の垣生(はぶ)、底井野である。
出雲国の多芸志の小浜は中間市役所の前である。
生 ・・・・ 玉の内国

水巻町の伊佐座は、出雲の国の伊耶佐の小浜である。

葦原中つ国は 中間市と遠賀郡である。
鐘﨑から東側、響灘沿岸の北九州が出雲。

※ 八幡西区 野面(のぶ) の八所神社は、元は日隅宮だという。


中間市の長津が儺県で、橿日宮もここか。
遠賀郡宗像郷は中間市の東部だといわれている。

出雲国は遠賀川の下流である。




遠賀川の記紀伝承 23
当ブログ  作成日時 : 2010/08/03 02:14 より転載

遠賀郡誌  中間市 底井野村 

村社八幡宮  P670~
垣生区の西南四町八幡山にあり
仲哀天皇神功皇后と共に、岡湊より御船にて此垣生郷に着き玉ひ、暫く駐蹕ましまして、熊襲征伐のことと共謀議せさせ給ひし御址なればとて・・・・古へは宮造りも最と宏麗にして、祭祀の行はるる最も厳重に、年中数十度に及べり・・・・。
古老の伝に昔神功皇后三韓を征し玉はむとて、此所に艤し玉ふ時、船玉の神を祭り玉ふとて、御船の狭抄者一人を留めて祝とせさせ給ふ。其子孫船津氏と称して大神に仕えまつりしが後に麻生氏の臣なりしより神職断絶せり、かかる御社柄なれば、昔は神田も多く繁栄なりし故神職の家もいと富饒なりしと云・・・・然るに天正15年豊太閤九州を平定せられし時、諸国の神領を悉く没収せられ・・・・

村社十五社神社
下大隈区字村前にあり
景行天皇18年戌子熊襲に勝つ事偏に天地地祇の力によれりとて、御供に仕ふまつれる日向国の熊津彦をして神祇を祭らしめ玉ふ、熊津彦乃て此地に宮所を定め、武経津神、経津主命、武甕槌命、天児屋根命、住吉三神等の神を祭れり、熊津彦の住し所なればとて、終に地名を大隈と云・・・・

経津主命と武甕槌命は、天照大神が大己貴神を言向けするために遣わした2神である。  岩波文庫 日本書紀(一) P130


有柄式石剣と朝鮮系磨製石鏃  P681~
有柄式石剣と朝鮮系磨製石鏃は、弥生時代中期に朝鮮より移入されたものと考えられ、全国でも出土例の少ない遺物であるが、この付近の豊富さには驚かされる。
先ず有柄式石剣の出土地は、
垣生字猿喰
垣生遠賀川々原
中間中学校
上底井野
この種の遺跡は我が国と大陸との交易を物語る貴重な資料であると共に、この付近がその要所であったことを示している。

羅漢山古墳群
垣生一帯は本城一帯と共に北九州でも最も横穴の多い地域として知られている。

垣生  P691~
和名抄の載する所遠賀六郷の内埴生郷あり、即ち此地也、埴生の字今は訛りて垣生と書く、俗に土生とかけり・・・・、中古羽生庄ともいへり、村の名義は南に当りて小き山あり赤土多し、埴生の名此より起るべし。