遠賀川の記紀伝承 46


十二所神社  引野2丁目 12-16
祭神
伊弉諾尊・速玉男命・事解男命・天照大神・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・葺不合尊・軻遇槌命・埴山姫命・罔象目命・稚彦霊命
(一説に国常立尊とあって埴安姫命なし)
由緒
「県神社誌」  斉明天皇6年の冬、百済及び新羅を征するため行幸して、筑紫の磐瀬行宮に居玉うた。
天皇軍を救うため、天神地祇十二所神宇を御手洗に招請したる地云々。

※ 引野の十二所神社は斉明紀の磐瀬行宮に関係する神社である。


榊姫神社  永犬丸東町2丁目 17-1
祭神  玉依姫命 榊姫神
社伝曰
祭神榊姫の命は平重盛の次男資盛の女。
治承4年(1180) 皇嘉門院に仕え官女となる。
翌養和元年(1181)、門院崩じられ、安徳天皇に仕え榊内侍と呼んだ。
これは母を榊の前と申し上げた故である。
さて、寿永2年(1183)、西巡に従って九州へ下り、山鹿・柳浦へ移られた時、榊姫は胎下の難病に罹り、歩行自由ならず。
長浜浦の海士が莚屋に病を養うこと一年、老女の云うのに、我が邦は神の国、伊勢の大神の御名が姫の御名に縁があるので、一心に祈れば平癒するでしょうと勧め、朝夕老女と共に祈った。
然る処、壇の浦の敗れを聞いて悲歎、体衰え、老女に、魂はこの榊に宿って衆人腰下の難病を救うので、落ち行く先に榊と一軸の書を身に添えてと言い世を去った。
老女、長浜の東、赤坂のほとりに葬り、標に賢木を植え詣り侍った。
その地、地頭が見咎め、源氏への聞えを恐れ追い立てたので榊と一軸を箱に蔵めて行くと、野山の小道で、引いた牛に柴を負わせ、4・5才の小兒を乗せて、2・3才の女兒を抱いた樵夫に会った。
彼の妻、産後に腰立たず難病、子供の世話をする者なく一人の稼ぎで困っている。 若し良ければ我が家に止まって養育を賜り度いと云う。
老女も行く処なく、親切に安じ、里の殿間谷に着いた。
彼の妻の様を見て憐み、榊を庭にさし、姫の願いを頼んで祈願した処、病癒え、夫婦の悦びのみでなく、霊験を聞き伝え、遠近より救いを請う者多く、困って殿間谷の山上に賢木を植え、名前原に小祠を建て、命を斎き祀った。
これが当社の起源である。
境内神社
里中神社 (大国主命・事代主命)

※ 「赤坂」 は本城の小字なので、「長浜」 は長崎付近である。
古代は永犬丸も海沿いの地だった。
長浜 ⇒ 斉明紀の長津

以上、『北九州市神社誌』 より

※ 榊姫神社については、遠賀郡誌 折尾村  P178 に由緒が詳しい。
「柳浦」 は豊前国企救郡 柳ノ浦
往時、永犬丸は「長浜」 と呼ばれていたのだろう。



遠賀郡誌  上津役村   P120
金鉱址
上々津役の東南6町許陣出原に在り、昔金を掘たる址と云。
其西に鞴(たたら) と云地あり、礦穴の形今猶少しく残れり。

安在野
引野区の北4丁許に在り、古老の説に昔欽明天皇此所に駐駅し玉ふ時、道路に布引設けし故に此里を引布の庄と云。
此野即ち休輿の地なりと云。
今は皆田となりて野らの趣なし。

臼井浅夫云、欽明天皇九国に巡幸ましし事古書に見えず。
斉明天皇当国磐瀬行宮に止まり玉ひ、其後朝倉宮に移り居玉ひし事は、日本紀に歴然たれば、是れを伝へ誤れるにや、又安才も行在の訛なるべし。

然れども古への官道なる事は疑ひなし。


金丹王宅址
同区の南3町官道に出る割子川道の左に在り、田地6反許の所に周囲40間許の土手の跡微かに見ゆ。
金丹王と云へる人の謫居の地と云。
此辺に王屋敷大門前など云字ありと福岡県地理全誌に記したれど、今は知る人なし。
金丹王如何なる人なりや伝はらず。