遠賀川の記紀伝承 45


木屋瀬町誌

P3
香月家譜によれば、
熊襲の大将である火国の川上梟師の弟の江上梟師が金剛の丘に居た。
日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠る。
寿福寺縁起書に、
仲哀天皇亦與 皇后、将 討 熊襲 之時至 自 岡湊 而鎮魂焉
とあり、この地に来られたことを物語る。

P24
〈鞍手郡野面村八所大明神並びに同社境内にあった寿福寺の古文書〉
昔景行天皇の御躬親豊国の土賊を誅せんと欲し、周芳の沙磨の津を解纜して筑紫に幸し、到って香月君の祖小狭田彦の方に住み給う。
而して宗形県主至る。
一日天気夙に起き四方佳景の庄商の丘上に映照す状を眺望し、小狭田彦を召して曰く、嗚呼好哉彼野中の丘は。朝日の直刺し夕日の暮愛すべき丘なり。朕彼地に臨幸して親しく鎮魂を為さんと欲す、汝宜しく朕が為に其の設有るべし。
是に於て小狭田彦寺を其の丘に建て竜尾扈従して鎮祭す。
(中略)
小狭田彦を以て鞍手の県主と為し且つの田五十丁を賜う。

※ この史料によれば、
遠賀郡宗像郷は楠橋・真名子・馬場山・野面のあたり。



八幡市史

P395
福岡縣地理全誌  枝光村
中臣
村の西北九町にあり。
此所昔は入海にて中臣と云る小嶋あり。
延寶、天和の頃、埋めて神田とす。
神功皇后此地を過させ玉ひ、海路の安穏を祈り、中臣烏賊津臣をして、道祖神を祭らしめ玉ふ故に、中臣と名くと云。
今、中富とかくは誤なり。
今も中臣神社あり。


P396
福岡縣地理全誌  枝光村
熊本山
村の東にあり。
即ち諏訪山あり。
岡縣主熊鰐百枝の賢木を抜取て、上枝に白銅鏡を掛け、中枝に十握剣を掛、下枝に八尺瓊を掛、仲哀天皇を迎奉りし事、日本紀に見えたり。
賢木は即此山の榊なりと言傳ふ。