角鹿 から 穴門豊浦宮 へ


岡垣町 高倉神社の境内社に志々岐神社があり、これは長崎県平戸市西端の志々伎神社である。

神功皇后は、
三韓征伐の前 ・・・・ 肥前松浦に出向いた。
三韓征伐の後 ・・・・ 産まれた応神天皇の禊をするために、越(高志) の角鹿の笥飯(気比)大神に出向いた。 一説に、応神天皇は住吉神との不倫の子という。 ならば禊が必要だろう。

角川ソフィア文庫 新訂古事記 平成13年 41版 の P128
御食津大神についての脚注で、「この地方から漁撈の産物が貢上されるに至った起源説話とみられる」 とある。

この場所は考古学より、長崎県 宇久島の宮ノ首遺跡である。
宮ノ首遺跡
宇久島の西端、南向きの入江に臨む貝塚。
平成2年 (1990) に発掘調査。
縄文時代前期から弥生時代中期後半、平安期・鎌倉期の遺物が発見されているが、主体は古墳時代末期から奈良期にかけての玄海灘式製塩土器などを含む須恵器・土師器類である。
貝塚では大型のアワビ貝の純粋貝層がみられ、「肥前風土記」 値賀島の条にみえる干鮑の貢納を裏付けるものといえよう。
また中国製陶磁器片(青磁・白磁)も出土。

『長崎県の地名』 (平凡社の地名辞典)  P570下

まさに、万葉集366 の場所だ。
角鹿の津に船に乗りし時に、笠朝臣金村の作りし歌一首
越海之 角鹿乃浜従 大舟尓 真梶貫下 勇魚取 海路尓出而 安倍寸管 我榜行者 大夫乃 手結我浦尓 海未通女 塩焼炎 草枕 客之有者 独為而 見知師無美 綿津海乃 手二巻四而有 珠手次 懸而之努櫃 日本嶋根乎

※ 万葉集の本では原文の漢字に「ふりがな」 が振ってあるので、訓み下し文よりも情報が多い原文のほうが読みやすい。 ひらがなの訓み下し文は難解で、関西人流の解釈だ。

万葉集366 からは角鹿は平戸市の志々伎神社と思える。
手結ヶ浦は宇久島の宮ノ首

旦浜 ― 宇久島 平郷 旦ノ上

Google 画像 で検索せよ。  【  志々伎山  】
志々伎山は「角鹿」形の山そのものである。

宇久島の沖に舟を出せば、海流で一晩で対馬に到着するという。
遣唐使船は宇久島から渡海したという。



日本書紀 仲哀天皇2年3月15日
岩波文庫 日本書紀(二)  P124
天皇、南国を巡狩す。

越の角鹿が長崎県佐世保市 宇久島 本飯良の宮ノ首 または平戸市の志々伎神社なので、仲哀天皇が巡狩した南国は長崎県 ~ 熊本県である !!!!!

勒津宮の「徳」 の字の地名は、佐賀県・長崎県・熊本県・鹿児島県、いずれもあるので、未詳。

穴門豊浦宮の場所は住吉神に関係するので、佐世保市 早岐瀬戸の住吉神社近くである。 佐世保市の住吉神社は「古くは西海総社住吉宮と称す」 で、格が高い。
穴門は早岐瀬戸と大村湾の出入り口である針尾瀬戸である。
※ 針尾瀬戸には志賀海神社がある。

穴門は関門海峡の山口県下関市ではなく、長崎県佐世保市だ。

角鹿出身の神功皇后は、宇久島の宮ノ首、または平戸市の志々伎の人である。

魏志倭人伝で台与は白珠5000孔の真珠を献上している。
真珠は宇久島周辺で採れたものだろう。

宇久島では真珠貝でなくアワビ貝を使った真珠養殖が行われている。
宇久島はアワビの漁獲量が日本一である。

真珠養殖が盛んな場所は、九州西海の佐世保の九十九島と大村湾である。
神功皇后が三韓征伐前に出向いた松浦や三韓征伐の後に帰国にして出向いた越の角鹿は、魏志倭人伝で台与が献上した莫大な量の真珠の産地といえよう。