岡垣町  弥生時代


岡垣町史  昭和63年  P109 より

「 中期から後期において、地域政治勢力として遠賀地域にその中心となり頂点に立ったのが元松原や大坪などの岡垣地区集団であると見てよい。
そこでは中期末・後紀初頭ころの中広形銅剣・中細形銅矛、中細形銅戈などが一括出土しており、墳墓の副葬品としてではなく、銅鐸などの埋納と性格を共通する共同体の統合や、農耕儀礼の祭具として用いられた可能性が指摘されている。
また、後紀前半の中広形銅戈鋳型も出土しており、その時期鋳造が行われたことも明らかである。
大坪では中細形銅戈も出土し、先に見た、元松原での青銅器や鉄器の出土などと合わせれば、その保有量は遠賀地域で卓越した地位にある。 」



岡垣町の野間は沼の転訛といわれ、水沼君。
または水巻町が水沼か。

岡垣町西部の芹田は古事記の須勢理比売

出雲原国 は旧筑穂町の地名「出雲」 の場所ではなく、遠賀川流域で最大の青銅器地帯である岡垣町である。


福岡県の地名  平凡社   P152中
波津城  はつしろ
波津の北部、字磯辺(いそべ) にある響灘に面した岬。
岬を形成する海岸に突き出た丘陵の頂部には4世紀後半と推定される磯辺古墳群がある。
※ 4世紀後半とは、かなり古い古墳である。



岩波文庫 日本書紀 (一)  P244
神武天皇 31年4月1日

伊奘諾尊、此の国を目けて曰はく、
「 日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の秀真国 」 とのたまひき。

復 大己貴大神、目けて曰はく、「玉内つ国」 とのたまひき。

饒速日命、天磐船に乗りて、大虚を翔行きて、是の国を睨りて降りたまふに及至りて、故、因りて目けて、「虚空見つ日本の国」 と曰ふ。



「日本」 の場所は岡垣町か。
牆 ⇒ 岡垣
内つ ⇒ 内浦 (うつら)


岩波文庫 日本書紀(四)  P366・368
斉明天皇 7年正月6日

御船西に征きて、始めて海路に就く。
8日に、御船、大伯海に到る。時に、大田姫皇女、女を産む。仍りて是の女を名けて、大伯皇女と曰ふ。
14日に、御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊つ。
3月25日に、御船、還りて娜大津に至る。
磐瀬行宮に居ます。天皇、此を改めて、名をば長津と曰ふ。
5月9日に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます。



難波宮は遠賀川の下流 ・・・・ 浪速は浪懸ノ岸
大伯海は岡垣町