邪馬台国はどこですか


邪馬台国の位置は、万葉集1668~1673 より佐世保市です。

万葉集1669 三名部(みなへ)之浦 ― 佐世保市船越町の小字「鍋之浦」

鍋之浦の場所は市立船越小学校の南側から海岸にかけて


渡来人という言葉は在日マスコミと考古学で使われるものである。
渡来人様の在日マスコミ。
日本書紀では渡来人は王仁ぐらいしかいない。

日本書紀では、朝鮮半島、中国、ベトナム、沿海州から渡来したボートピープルはみな逮捕されて、東国へ強制移住させられている。
倭国は排外主義であり、韓人との混血融合はあまりなかった。
このことから、日本書紀の国は関西ではなくて、縄文人的形質が濃い長崎県・佐賀県西部(西北九州型人骨)である。

北部九州型人骨である筑後川流域の弥生集落でも、朝鮮半島からの渡来人は集落の端の条件の悪い場所に住んでいた。
― 小郡市教育委員会の遺跡調査に基づく見解

邪馬台国(倭国)の所在地は肥前であり、話されていたのは肥前方言だった。

※ ただし上記の私見には、人骨研究の弥生時代と日本書紀の古墳時代・飛鳥時代は時代が異なるという考察欠陥がある。


倭国の朝鮮半島出兵
白村江の戦いなど、日本書紀には途中の寄港地や兵站の記述がない
地政学から、倭国は渡海の地である平戸市または基地の町佐世保にあった。


日本書紀
継体 24年9月 に、
「 (毛野臣は) 吉備韓子那多利・斯布利 を殺し、
大日本の人、蕃の女を娶りて生める子を、韓子(からこ)とす 」

吉備は韓人と縁がある ⇒ 隋書倭国伝の秦王国か
「大日本」という言葉が登場する。
※ 吉備の国は岡山県ではなくて、平戸市の中心街である木引田町か。
歴史的に平戸は中国貿易で栄えた町である。

雄略 9年3月
蘇我韓子宿禰