大家島


風土記の平戸  角川の地名辞典 長崎県巻 P1113右 より

「 肥前風土記 」 によれば、景行天皇が巡幸したとき、大家島というところの村に大身という土蜘蛛がおり、常に天皇に逆らったので、これを討ち滅ばした。
その後、この島には白水郎(あま)たちが宅(いえ)を建てて住みつき、そのため、この島は大家島といわれるようになったという。
島の南には、洞窟があって、鍾乳および木蘭(木蓮)があり、また、周囲の海には、蚫・螺・鯛・雑の魚および海藻・海松などの海産物が豊富であったという。
この大家島の遺称地はなく、一般には大島(的山大島)に比定するが、平戸島に比定する説もある。

同じ 「 肥前風土記 」 の値嘉郷の条には、景行天皇が平戸島の南の志式島の行宮に滞在し、そこから見える小近・大近の島々へ阿曇連百足を遣わし、そこの土蜘蛛の大垂を退治した。
大耳らは極刑を許されれば、天皇に御贄を常に奉ることを約束するとして、放免された。
天皇の行宮跡は現在の平戸市野子町の宮の浦であったという。


大家島は平戸島である。
「 島の南の洞窟 」 とは、礫岩の岩窟 または 早福町の海蝕洞窟 である。
「 木蘭 」 は早福町に自生する ボウラン である。

家島より、佐志町―早福町―志々伎町 である。
サイト「遺跡ウォーカー」を見ると、平戸市 早福(はいふく)町には遺跡はない。
しかし早福町は邪馬台国(九州倭国)の都の有力候補地である。


人名の「」は 宇久島・小値賀島・五島列島 の人を表す。

私は 宇久島・小値賀島を帰化人の島 とみる。
記紀で帰化人の疑いがある人物は宇久島・小値賀島の出身だ。