基地の町 佐世保


弩 ― Wikipedia より

日本で知られるもっとも古い弩としては、弥生時代に作られた小型の弩の木製の銃身に相当する臂(ひ)の部分が島根県の姫原西遺跡から出土している。
律令軍制においては、弩を扱う弩手(どしゅ)は軍団の中から強壮の者二名が選抜され、あてがわれていた。
貞観8年(866年)には肥前国の一部郡司らが日本の国家機密である律令制式の造弩法を新羅の一部軍事勢力に洩らして合同し、対馬を奪取するという企てが事前に発覚して阻止されたことが記録されている。
また、元慶5年(881年)の秋田城における俘囚の反乱(元慶の乱)の際、敗退した政府軍が失った兵器のなかに大量の弩が含まれていたとする記録もある。

「肥前国の一部郡司ら」は佐世保にあった九州倭国の残党だろう。

※ その後の調べで佐世保ではなく、
「 貞観8年、高来郡の擬大領大刀主、彼杵郡人の永岡藤津、藤津郡領の葛津貞津らが新羅人の珍賓長と新羅に渡海して弩の器械を造る技術を習得し、軍事訓練などを行って対馬島を攻撃しようと計画したが、基肄郡の川辺豊稲(豊穂か)の密告で発覚している 」(「三代実録」 同年7月15日条)
『長崎県の地名』 平凡社の地名辞典 P851下 より
であることがわかった。

万葉集の「弩」の字 1609  1624 など


地政学や軍事学の見地から、邪馬台国の位置は基地の町佐世保から中国商人の町平戸にかけてである。
資源について中国皇帝の関心は水銀と金鉱である。金鉱は有田や薩摩にあるが、倭の金鉱は古代中国正史に載ってない。

鹿島という地名は平戸市と佐世保市にある。
万葉集の鹿島は佐世保市の鹿子前(かしまえ)町である。

万葉集1780   牡牛乃 三宅之潟尓 指向 鹿嶋之埼尓
「牡牛」は牽牛﨑である。