平戸市周辺 ~ 五島列島 ― 漢委奴国や難波・伊勢・筑紫 を大発見


平戸市は「旧唐書」倭国日本伝に「平島」とみえる
『長崎県の地名』(平凡社の地名辞典)  P630下

平戸は万葉集274枚(ひら)の湖である。
淡海の比良は宇久町の平郷または平戸である。

万葉集1229 の明石の湖は平戸港で、明の川内町は「明」の遺称である。
万葉集1230 の金岬は幕末に大砲の台場をおいた叶﨑(かないさき)か。

「 肥前風土記 松浦郡値嘉郷条にみえる景行天皇が滞在したという「志式島の行宮」は平戸島の南端部の志々伎に比定されるが、そこから小近・大近(五島列島)に阿曇連百足を派遣して土蜘蛛を捕らえさせたという。松浦郡の西にある大家郷に住む大身と称される土蜘蛛が天皇に従わなかったとして討たれたというが(同書)、この大家島は的島大島でなければ平戸島であるとされる 」
同上  P626中

淡海または江は値賀(値嘉)である。
よって天智天皇の淡海の大津は五島 福江市の大津であり、「後漢書」東夷伝の漢委奴国は五島列島にあった。 万葉集29~33 を参照せよ。

平戸島から五島は一体の地域として捉えられていた
平戸島~五島 が近江(淡海)である。

福江市の大浜遺跡では7世紀後半から8世紀代の須恵器が大量に出土した。
同上  P678上
大浜遺跡からは緑釉陶器(洛北産)が出ており、一般に官衙からの出土が多い施釉陶器の発見は注目される。
同上  P754中

渡唐船は風の影響を考慮して、春は肥前町の大島小豆浦から出帆するが、秋は「後唐ノ島」から出帆していたらしい。
同上  P683下


万葉集では淡海国を国都美神の浦だといっている(万葉集33)が、福江市は天津神の高天原である。
万葉集が奄美のウタと繋がっているのは漢委奴国または倭国が五島列島だからである。
古事記の天の斑馬は小値賀町の斑島である。

難波宮は野島という地名から小佐々町 楠泊免 の古田遺跡である。


邪馬台国は五島列島だった!!!


平戸瀬戸にある黒子島の弁財天に注目したい。
日之岳城跡(岩の上町 亀岡)の亀岡(52メートル)は岳ともいわれた。
⇒ 伊勢の朝日郎  雄略紀 18年8月  

伊勢神宮は平戸瀬戸の黒子島にあった


筑紫は二か所ある。渡海の船が出港する場所と着港する場所である。
渡海船が出港する場所は五島の三井楽町である
三井楽町・岐宿町には弥生時代の大規模貝塚があり、岐宿は往古は鬼宿と書かれたので、ここが狗奴国で出雲か。

筑前国嶋郡戸籍川辺里 は五島の岐宿町 川原 かもしれない。
「漢委奴」は カワナ(べ) と読める。

1562年の「籌海図編」所載日本国図にみえる「倭斉家」は小値賀島と考えられている。江戸時代後期、小値賀は「ちが」と読まれていた。
同上  P681中
「を」 ⇒ 倭
倭国・漢委奴国は小値賀島か。

玉之浦町
往古、小川は「こ」とよんだ。