邪馬台国 下関

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zoom RSS 倭王は有冨の中村さん

<<   作成日時 : 2017/02/27 18:46   >>

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歴史教科書の邪馬台国、倭は下関市有冨の中村さん家の先祖である。
有冨村の庄屋だった儀万さんは天武天皇の血筋である。

中村さん 老子の家系 大王家の直系
儀万さん 徐福の家系 「瀛」 は豊北町の海岸

徐福は豊北町の海岸に住んだ。
鬼道は徐福の方士に通じるので神功皇后は豊北町海岸の人である。

日本の原始古代の「中央」「政権」 は下関市は有冨 字「中村畔」 にあった。
磯城  岩山である竹生山。 有冨 薬師池の上

黒山 文庫書記304-4
黒は五行配当で北だから、立ち位置 字「中村畔」 真北の竹生山。
  ↓
蘇我倉山田麻呂の末裔である蒲生野山田の倉光さん家。

関西勢力は蝦夷である。
武久浜 半両銭  漢人、東漢直の地

下関市域の関西系蝦夷の居住地
後田町5丁目 椎の木原墳墓郡 庄内式土器が出土
  ↓
蘇我蝦夷 幡生の生野神社
文庫書紀C218-8 フクロウ

生野神社の幸せふくろうなど
ttp://jeezblog.blog.fc2.com/blog-entry-317.html

幡生の生野神社は「豊浦大臣の大津の宅の倉」 に比定される。


稗田地蔵堂遺跡は漢人の墓。 弥生中期後半で半両銭の武久浜と同じ。
  蓋弓帽 楽浪郡
  連弧文鏡(前漢) は陰陽五行のデザインであり教養ある漢人の鏡である。
稗田地蔵堂遺跡の被葬者は楽浪郡の漢人官吏か。


文庫書紀C224-11 皇極紀
更家を畝傍山の東に起つ。 池を穿りて城とせり。 庫を起てて箭を儲む。 恒に五十の兵士を将て、身に繞らして出入す。 健人を名付けて、東方の儐従者と曰ふ。
文庫書紀C226-1
漢直等、全ら2つの門に侍り。

関西勢力は蝦夷で東漢直。 応神朝の時に渡来した阿知使臣の集団が奈良県の纏向を造った。

蘇我蝦夷の家は3つある。
 大津の家 フクロウ
 甘檮岡
 畝傍山の東 池を掘って砦とする。


文庫書紀C218-9
菟田山は有冨のハンドウ山の尾根で不老長寿の霊芝が生えていた。
ハンドウ山の登山口は大口の真神原。 勾金橋があった。
春日山田皇女は有冨ハンドウ山の人。


神武東征の歌の倒語、壬申の乱の合言葉「金」 は同じ場所である。

綾羅木の川北神社(上の山古墳) は記紀の生駒山である。
上の山古墳から出土した鈴釧は陰陽五行を表す。

五芒星
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%8A%92%E6%98%9F


椋野の岩屋古墳 吉野の国樔 醴酒  文庫書紀A208-3


近江国  室津、涌田後地
室津の光蓮寺 先祖は鎌足
※3年以上前に書いたもので今とは見解が異なる部分あり。
http://44051510.at.webry.info/201310/article_51.html

継体天皇
近江国高嶋 室津の甲山は高山とも書く。
越前国高向 向津具の久津か 

欽明紀の三韓・任那は黒井・吉永周辺か

三韓を攻めた紀氏は室津・黒井の海岸 字「木ノ村」 の人
近江毛野臣は室津の人


三島
飯飯(いひぼ)
安閑紀 文庫書紀B218-8
三嶋県主の飯粒は、古事記の神功記で
「筑紫の末羅県の玉島の里で、飯粒を餌にして年魚を釣った。
小河 勝門比売 」

摂津国三島は室津下か。
御崎に小川さんの家がある。

津守さん 永田川下流
宗像さん 吉母港

藤原鎌足
疾を称して退でて三嶋に居り。  文庫書紀C214-8 皇極紀

藤原内大臣薨せぬ。 文庫書紀D50-9
私第に薨せぬ。 遷して山の南に殯す。

山の南 → 山科野(文庫書紀D48-6、万葉集21 蒲生野)、山階

私見
蒲生野山田の王子権現山古墳は藤原鎌足の墓
涌田後地の心光寺古墳は新羅系。 乙巳の変の「韓人」 は百済系。


松浦
万葉集
865 松浦仙媛 仙境の媛だから御崎の淵ヶ谷
3681 肥前国松浦郡狛嶋亭 狛より御崎の淵ヶ谷 丸瀬 野生馬がいた

綾羅木 若宮古墳横 字「馬場」 も松浦郡狛嶋の候補地。 綾羅木馬場遺跡

万葉集501

風土記333‐5  肥前国風土記 松浦の郡
各、弟姫子の骨と謂ひて、すなわちこの峰の南に就きて、を造りて治め置きき。 その墓見に在り。
  ↓
場所は吉母の字「西条」 小西さん宅の家裏 崖下のお堂

肥前国風土記 松浦の郡 では山の頂に沼がある。峰の南に墓がある。
この記述に合致する所は吉母 字「明見」 の妙見。西光寺の西にある溜池の上。
吉母 字「明見」 窪田さんの上にある溜池は「筑紫の水城」 に見える。

綾羅木郷 了元寺の西にある池は篠原なので、ここも肥前国風土記 松浦の候補地。

万葉集では松浦船が難波の穿江を漕いでいる。
1143
3173


御崎
筑前国嶋郡
福岡県糸島の志摩ではなく下関市吉母 御崎が記紀・万葉の「嶋」 である。

嶋曲 文庫書紀B194-5 継体紀

御崎が吉母に編入されたのは昭和30年(1955) で、それまでは豊浦町室津上に属していた。

室津の観音院は真言宗で戦前まで狗留孫山修禅寺の独身僧が籠る寺だった。 この寺は椿原の道を上がった砂防ダムの上にあって現在はない。 戒律が厳格だった寺だから法隆寺、吉野寺などの候補。

『豊浦町史 二』
P262 地図
室津上
出合堤前のお地蔵さんがある場所の地名は 天子の浴 である。
近江宮、吉野宮の候補地
※ 近江、吉野の場所は何か所もある。

室津上・吉母上、厚母の阿蔵は仏教史跡が多い。
私見では、吉永・黒井の古代朝鮮集落から日本に仏教が入ってきた。

万葉集
黒牛の海 室津下 字「牛迫」 か
1218
1672
1798

白 五行配当の西、御崎 淵ヶ谷の石灰岩
1671 白神の
1668 白埼は

玉津島 室津西側の絶壁海岸に行き、命懸けで鮑玉を採る。


信濃国
木曽(岐蘇、吉蘇) 吉見峠
信濃国 内日の赤田代
水派山 一之瀬、または竹生山



研究の方法
本州最西端 毘沙ノ鼻 駐車場にある「自然と伝説の里」 吉母マップ
から邪馬台国の要衝が御崎にあったことが判明する。
  ↓
畳石
毘沙ノ鼻の岩下附近にあり、海中より階段状に黄茶褐色の岩の事。
神功皇后が帰朝の折、ここから上陸されたと伝えられている。


毘沙門天
甲冑を着けて鉾または宝棒を持ち北方世界を守護する。
  ↓
宗像三女神の「海北道中、道主貴」 を連想させる。


文庫書紀B228-7 宣化紀
夫れ筑紫国は、遐く邇く朝で届る所、去来の関門にする所なり。 是を以て、海表の国は、海水を候ひて来賓き、天雲を望りて貢奉る。

文庫書紀B194-4 継体紀
  23年の春3月に、百済の王、下哆唎国守、穂積押山臣に謂りて曰はく、 「夫れ朝貢ぐる使者、恒に嶋曲を避るごとに、 海中の嶋の曲(くま) のア岸(さき) を謂ふ。 俗、美佐祁(みさき) と云ふ。 毎に風波に苦しぶ

物部伊勢連父根
加羅の多沙津 万葉集30 楽浪の思賀の
布那牟羅(ふなむら) 川棚 字「舟郡」(ふなごおり)

黒井の石印寺は関印寺とも書き、背後に鬼ヶ城山がある。
黒井、川棚は渡来人集落があって山に要塞があった。


  記紀・万葉の「島」 は吉母の御崎
文庫書紀A20-3 嶋浦 都怒我阿羅斯等 垂仁紀
文庫書紀D64-4 天智紀 歌謡
み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 傍も良き

野嶋  夏草、淡路

万葉集
304 遠朝廷 島門 
389 島伝い
1400 島伝う
3232 島伝い み吉野の瀧

筑紫 御崎の海岸
筑紫の防人、島守
筑紫娘子 遊行女婦

筑紫、長門、伊勢、伊予 など、みな御崎内 


私見
三韓の朝貢船は毘沙ノ鼻下の畳石に着岸していた。 ここが筑紫国の関門。
御津、三保の津、御大の御前 はここか。

御崎の海岸は波風が強いし岩場だから船を着けるには場所が悪い。

室津浦は元寇時に元の使者が来た港で、日本の玄関だった。
室津の阿弥陀院 山号 蓬莱山

わかった!!
吉母の大河原だ。





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