邪馬台国 下関

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zoom RSS 飛鳥は 下関市有冨上 自治会長の中野さん宅あたり

<<   作成日時 : 2016/10/14 12:57   >>

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記紀・万葉の飛鳥
奈良県の明日香村ではなく下関市の有冨上 字「中村畔」 中野さん宅の周囲。
ここが履中記の遠つ飛鳥である。 ハンドウ山を登って山頂から平たい尾根を進んで行く先に石上、葛城がある。

文庫書紀D226-2
飛鳥浄御原宮 有冨 中村本家さんの家
宮中の御窟院 中村本家さんの便所の横、五輪塔が約20個もあった所。
家を建てた時、この場所から貝塚が出土したと中村さんの家族親類は言う。
「儀万の池」 が本当の飛鳥池か。

引田部の赤猪子 古事記
場所は大年池の山側の用水路で、青い軽トラのおばさんが畑仕事している。
大神=大賀だから、美和河は大賀さんの家前を流れるちょろちょろ用水路。

『ふるさと散歩みち』  川中地区まちづくり協議会 平成7年
P142 小字 こあざ
有冨 ハンドウ山の登山口 字「龍王田」 は「畜犬」(たき) 王田と記されている。
「畜犬」 で一字の合成漢字。 私見では犬は出雲系。 大物主神か。


万葉集1844
寒過 暖来良思 朝烏指 鹿能山尓 霞軽引
「滓」 より有冨の小字「金鋳ヶ谷」 か。
次の1845の末尾の「侶」 は太安万 だ。
「朝烏指」 の表記は朝烏が飛ぶ方向をいうので、
有冨交差点の電柱→ハンドウ山→大迫池横の有冨墓地→竹生山の東ヶ嶽

朝烏が飛ぶルートから春日山は竹生山の東峰〜有冨墓地の東尾根である。
朝烏指 滓鹿能山鳥見山 皇祖天神を祭りたまふ。 文庫書紀@242-8

「皇祖天神」 は何か
A案 有冨上八幡宮(岩谷さん宅の前) の末社である天御中主神社
B案 石原にあった大神宮
ハンドウ山の尾根は有冨と石原の境界である。
皇祖天神を祭る社があった所を推理すれば有冨墓地の東側尾根だ。

万葉集の関西読み 漢字を入れ換えて、ひらがな表記にして文法中心の研究。
万葉集が下関市有冨の歌集なら同時代の続日本紀は有冨の郷土史である。

文庫書紀D154
泊瀬 有冨古墳から少し登った所。 枕詞 隠国
迹驚淵 有冨古墳の横を流れる沢川
迹見駅家 遠山運送の裏、中野さんの畑にあった馬場

雩(あまごひ) の場所はハンドウ山

万葉集990 題詞 跡見 茂岡 重岡さん宅
万葉集988 市原王 有冨の字「市ヶ原」



『川中風土記』 昭和45年
P23
下有富石棺  秋本さん墓地
有富村字市ヶ原にあり、すでに破壊され、石材に朱塗のあとが鮮明に残存しているが、墳墓の全容を知る由もない。 土地の人達について事情を調査してみると、約30年くらい前に発掘され、そのとき曲玉など多くの出土品があったと伝えられている。 石組みもすでに解かれているが、石棺の原位置はほとんど移動していないらしく、専徳寺前の田の一隅にある、雑木林の中に積まれたままになっている。

字「市ヶ原」 にある下有冨石棺は箸墓かもしれない。

『塚の原遺跡』 発掘調査報告書
2003年 P18 下岡地区 石原156番地 L字状石杵 朱の精製


推古天皇 屍 古事記
大野の岡の上は大迫池の横にある有冨墓地
後に推古天皇の屍を移した科長の大陵は有冨古墳

(古墳の前の案内看板から)
有冨古墳  市指定記念物(史跡) 指定年月日 昭和54年8月7日
  綾羅木川を中心として広がる沖積層平野の北側丘陵には多くの遺跡が残っています。 特に綾羅木郷遺跡、梶栗浜遺跡、仁馬山古墳、上ノ山古墳は、本市の主要遺跡として知られています。
  有冨古墳は、この丘陵地の北東に接するハンドウ山のすそに位置し、明治32年(1899) の調査の際、有冨古墳群として5基の円形墳が発見されましたが、現在は2基を残して他は消滅しています。
  横穴式石室を持つ古墳は、墳丘、石室とも旧状をよく保っており、2段築成で墳丘が築かれています。
 玄室は胴張りがほとんどなく、石材は小さいものを使用し、奥壁は1枚の板石を使い鏡石としています。
  直径12メートル、高さ6メートルの規模を持つこの古墳は、6世紀末ごろに築造されたもので、本市でも代表的な円形墳としてその形状をとどめています。
   下関市教育委員会


有冨古墳の場所 下関市石原180‐1 アパート「シャーメゾン石原」 横の竹林の中に白い案内看板が見える。

長安線 (県道247号) は大正12年に開通した道である。 それまで有冨古墳裏の暗くて険しい山道が街道だった。 石原→有冨古墳の裏→有冨 重岡さん宅前 が大正時代までの道だった。 有冨古墳は旧街道沿いにあった点に着目。


持統天皇
万葉集160
燃火物 取而褁而 福路庭 入燈不言八面 智男雲
万葉集161
向南山 陳雲之 青雲之 離去 矣離而

大迫池の横の有冨墓地の上に火葬場があった。 雲が籠る場所だ。
万葉集160161 の場所は有冨墓地だ。
路庭 ・・・ 洞天
  ↓
有冨墓地から登る場所に桃源郷がある。
有冨墓地の東側は山桜の木が多く、春は咲きほこる。

向南山 ・・・ 竹生寺、いや大迫池の上の尾根か
星 ・・・ 妙見 天武天皇
月 ・・・ 竹取物語 月の国のお姫様である持統天皇


石上
万葉集664  大伴宿祢
石上 零十方雨二 将関哉 妹似相武登 言義之鬼尾

像見 ・・・「像」 は徐福祠か老子か。 皇祖天神(文庫書紀@242-8) か。
関 ・・・ 天関
義之 ・・・ 書道の王義之 東晋(呉の領域)
鬼 ・・・ 葛城一言主、斉明紀 住吉の松嶺 空飛ぶ仙人 唐人に似る

場所は大迫池の上の尾根。 大迫池の上を「大迫山」 と呼ぶことにする。
有冨墓地のコンクリート屋根付き小屋の墓(大隅さん墓) の所は「山門開き」 と呼ばれていた。 この「山門開き」 の地点から大迫山に登る道が昔あった。

山口県文書館 地下上申絵図 1263 有冨村地下図 によれば
大谷 (有冨墓地)
ふせぎが谷 (薬師池の上) 
かく石峠 (有冨墓地の東) 
石山 (石原の壁石山) 市宮 天万国万押磐尊 文庫書紀B112-3  
と書かれている。

「かく石峠」 は古事記の天迦久神だろう。
「大谷」 は 逸文 常陸国 大谷 榛


忍壁皇子
「忍壁」 は石原の小字「壁石」 で、砕石場の入口
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E5%A3%81%E7%9A%87%E5%AD%90
万葉集  仙人が住む仙境は岩山である。
194 題詞
235 左注  雷岳は雨乞いのハンドウ山
1682 題詞  仙人形 常之倍尓 山住人
 

太安万侶
たー坊at太安萬侶墓
ttps://www.youtube.com/watch?v=KgB_7Dfr918

奈良市の東部、すごい山奥地の此瀬町に太安万侶墓がある。
『奈良県の地名』 平凡社 日本歴史地名大系 P650上
昭和54年(1979) 1月偶然に発見され、発掘調査された。
被葬者は墓壙以外の所で火葬され、また遺存した骨・歯からやや小太りの壮年男子と推定された。


私見
太安万侶は「太=大」 の名から字「大迫」 の有冨墓地に住んでいた。
稗田阿礼による口承は文字を使わない老荘思想による。


『 山口県地名考 』 高橋文雄 著  昭和53年 
石原 イシハラ
イシハラ、イシワラという地名は県下に約百ヵ所ばかりあり、多くは文字通りらしいが「原」 をラというのは、単に訛りばかりでなく「集落」 を意味するものがあるという。
私見 石 イワレ

伊倉
また別の説に「火神」 のことともいう。
私見
「火」 は陰陽五行の方位で南。
火の山、火の見山の「火」 は五行配当の方位で南。


山水画の世界
有冨墓地の反対側は石原の砕石場である。
仙界は山水画の絵である。 山水画の岩山が砕石場となって無残に崩された。

Google 画像検索 【 山水画 】

山水画 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%B0%B4%E7%94%BB

下関市石原の山は中国の山水画の山である。 山水画は仙人の仙界を描いている。 山水画の山の上に竹取物語の月の都がある。
石原交差点近くの農協駐車場から有冨方面の岩山を見て、その岩山の上に記紀・万葉の天上人、天女たちが住んでいた。 これが明日香の高松塚古墳の壁画である。 高松塚の「高松」 とは、古くは松が生い茂る山だった有冨のハンドウ山のことで、ハンドウ山は雨乞いの雷山だった。

奈良県の古代遺跡に見られる神仙思想は下関市有冨がモデルとなっている。

下関市有冨 字「中村畔」 が倭京なら風水の大吉地なので、
韓国・中国・台湾から風水師を呼んで場所を見分すればよい。
中村本家さんの旧屋敷跡(空地) は倭京の明堂である。


在丘 雄略紀 歌謡
在富村 1610年の検知帳
雄略紀 歌謡 文庫書紀B38-7 在丘
在丘、榛の枝 の場所は有冨墓地の上か。
有冨墓地の上は現在でも猟犬で追いこんでイノシシを射止める猟場である。


寺、山号
竹生寺は「高山」 と号す。
万葉集の高山

専徳寺は「栄山」 と号す。
  ↓
文書


有冨の薬師寺−安岡の玄空寺
山田薬師(薬王寺) 安岡の玄空寺末
続日本紀B439-9
山村王  有冨の山村さん
池上女王  有冨の大年池

安岡の玄空寺に 百済人 鞍作止利 の仏像が伝わる。

Wikipedia によれば、蘇我入鹿の別名が林大臣、鞍作大郎である。
林は福江の字「林」 か、有冨の林さんか。 蘇我山田石川麻呂は蒲生野山田の倉光さんか。

『やすおか史誌』
P689
玄空寺には「太平真君一年」 ― 中国北魏 太武帝440年
と刻まれた青銅仏もある。
西安岡の人が所有する青銅仏に「普通六年」 の刻字あり。
「普通六年」 は中国梁の武帝の時代525年 ― 仏教渡来の10年前


石原の大神宮
石原は古くは有冨村内だった。
『村浦明細書』(安政5年) に「大神宮」という神社が載る。
手元にある古い広辞苑で「大神宮」 の意味は
皇大神宮(内宮) と豊受大神宮(外宮) の総称。 伊勢大神宮

有冨古墳から少し登った所にお稲荷さんがあった。 とても頭が良かったに未亡人が建てた民話がある。 天照大神、神功皇后、陰陽師安倍晴明の母「信太(しのだ)の森、白狐」 を連想させる。


有光文書 重要文化財
図説 日本の歴史 35
『図説 山口県の歴史』  河出書房新社 1998年
P109 正吉郷の中世史 
P113 中世の村世界  偽文書? 「伍位職補任状」

鎌倉後期、永田神社の裏に塩田があった。 山口県教育委員会の渡辺一雄氏(現梅光学院大学 考古学教授) が古式入り浜と命名された。
その絵図は山口県文書館にある国の重要文化財 有光文書である。

P113
永田郷の谷を支配していた鎌倉時代の地頭の名字や名前はわからない。
実際の支配は地頭代(地頭の代理人) だった。
この地頭代が発給した文書に、中世古文書学の常識を破る奇妙な物がある。
伍位職補任状」 と呼ぶべき文書である。
であり、五位などという位は、いうまでもなく天皇のみが与えることができる。 したがって、常識的にはこの文書は偽文書ということになる。
  中世史の専門家にこの文書の活字化されたものか、筆写したものをみせれば、10人中10人が偽文書と答えるはずだ。
ところが、現在山口県文書館に所蔵されているこの文書には、正吉郷入江塩浜絵図とともに有光文書として国指定重要文化財になっている。
偽文書も含めての指定というのもないことはないが、この文書は実物をみると、じつに下手な字であるが、間違いなく鎌倉時代のものであり、紙についても問題ない。 (文 木村忠夫)


私見 有光=有冨 だと思う。 鎌倉時代でも存続していた有冨の天皇家。


有冨の儀万さん
」 の意味を漢和辞典(角川 新字源) で調べると
宇宙のおおもと、天地または陰陽をいう。 「両儀」
  ↓
「儀万」 という珍しい名字は易による。

日本書紀、万葉集では「儀」 の訓みは「すがた」 である。


有冨の人斬り庄屋、儀万の話 
http://44051510.at.webry.info/201510/article_11.html

儀万さん宅の上に中村本家さん旧宅跡と岩谷さん宅がある。
『風水 気の景観地理学』 渡邊欣雄 著 人文書院 1994年
P155-14行 沖縄 与那国島の事例
自分の屋敷の後ろに家が2軒あると自分の家は栄えるという。


譲畔而耕
小字「中村畔」 漢字「畔」
http://44051510.at.webry.info/201605/article_17.html


奈良県の大型遺跡は真の老子ではない。
<kitunoの旅−飛鳥編−> 飛鳥亀型遺跡
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/8674/asuka.html

導水構造の亀形石造物
http://inoues.net/study/kamechan.html
飛鳥・酒船石遺跡
http://inoues.net/ruins/sakahuneisi.html

私見
奈良県の飛鳥池は老子の思想ではない。 似非道教だ。

道教の神仙境
下関市有冨と石原の境界である岩山の長い尾根続き。
ここが種子島 広田遺跡の貝札「山」 の場所である。


邪馬台国の位置
下関市 石原交差点近くの農協駐車場から有冨の山を見て山頂・尾根伝い
にあった。 有冨墓地の東側、春は山桜が咲きほこる尾根の上。

下関市有冨村の庄屋だった儀万という家 名字「儀万」 は易の「儀」 の意味による。 「万」 は万物。
仙人は霞を食って生きる。 霞が立つ場所は有冨墓地の東上である。

有冨のハンドウ山 登山口 の下が「遠つ飛鳥」
ハンドウ山の山頂から尾根を進んで石上神宮があり、
有冨墓地の東上が仙人の葛城山。





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