邪馬台国 下関

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zoom RSS 下関市域 伊勢

<<   作成日時 : 2016/10/24 02:02   >>

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吉野裕子(民俗学) の説によれば、西は死滅の地
下関市の西端は吉母・室津。 本州西端でもある。 毘沙ノ鼻

下関市域の伊勢神社 天照大神を祭る神社
石原にあった大神宮 場所、祭神とも不明  『村浦明細書』(安政5年)
  ↓
福江八幡宮
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吉見上にあった滝本神社 逸文 伊勢国 瀧原神宮か
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吉母 樋の口神社 明治期までは字「安常」 にあった。

垂仁紀 豊耜入姫の「耜」 は福江の鍬先山
「東の美濃」 は吉見の字「美野田」

風土記 伊勢国 逸文 の吉津島は下関市吉母の黒嶋である。
下関市吉母の黒嶋は前方後円墳の形をしている。
黒嶋は久留島とも呼ばれていたので牽島で引島か。

太平洋戦争時、黒嶋には人間魚雷基地があり、線路が敷かれたトンネルが2つ開いていた。 戦後、人間魚雷のトンネルは埋められた。

黒嶋観音  郷土史本 『汀の里』 P9
長門仏法大師新四国第69番札所
奈良時代、行基菩薩が聖武天皇の勅命を受けておとずれ、この地の風光と地形に霊を感じ、自ら十一面観音像を刻みまつられた。
黒嶋は現在陸続きとなっているが、古くは島で、黒嶋普門院観世音縁起によれば「久留島」 とも呼ばれていた。 この島には十一面観音像をまつる観音堂があり、毎年旧暦の6月17日には「十七夜祭」 で大般若経の転読が行われ夕方から多くの人が、無病息災を祈って参拝する。 境内には松尾芭蕉などの句碑24基がある。


地元の学術関係者は吉母の黒嶋に関心を示さないが、東京・京都から来た人は吉母の黒嶋を見たら前方後円墳の形をしていることに驚くはずだ。


吉母の漁業
http://44051510.at.webry.info/201209/article_110.html

吉母上には大仏が置かれた東光坊という寺があった。
廃寺になって大仏は豊浦町厚母郷の安養寺に移された。
この大仏は坂上田村麻呂が関与したとされ、重要文化財、戦前は国宝。

吉母上は宗像の海も見えて、海の見通しがきく場所だ。

【厚母大仏】 凄い力を感じる、山口県下関市郊外にひっそり鎮座する重要文化財
ttp://katsulog.net/150627-atsumo-daibutsu/
厚母大仏
ttp://www.shoai.ne.jp/chugoku-w/furusato.shiseki-atumodaibutu-yamaguchi.html


天照大神、最晩年の伊勢は下関市吉母である。
吉母 字「江良」 山本さん宅 西隣の竹藪は禁忌の場所とされる。

黒嶋先端の先にある岩礁「威勢」 に万葉集228434 の「難波姫島松原嬢子死」 と似た民話がある。 『よしみ史誌』 P711 地下上申 

御崎に「小松ヶ瀬」 がある。 "西" の河辺、久米は御崎か。
万葉集で「小松」 の場所は御崎の海岸である。

御崎が下関市吉母に編入されたのは昭和30年で、それまでは豊浦町室津上に属していた。 御崎は本来の吉母域ではない。 歴史的には「吉母の御崎」 ではなく「室津上の御崎」 である。
室津海岸の松林は「木ノ村」 といわれる。 吉母の御崎地区は古くは室津に属していたので「木の国」「紀伊国」 だ。


瀧、洞窟がある場所は御崎。
風土記 伊勢国 逸文 瀧原神宮は御崎神社か。

文庫書紀C210-1 伊勢阿部堅経 吉母御崎の阿部さん宅

万葉集3233 この芳野の瀧は御崎の淵ヶ谷

万葉集32343235
五十師の原 御崎 字「淵ヶ谷」  カルスト台地
御井 三井さん宅


文庫風土記下-193
逸文 伊勢国 伊勢国号、一説 石城
天日別命、勅を奉り、に入ること、幾百里。 其の邑に神あり、名を伊勢津彦と曰ふ。
伊勢津彦の神は、近く信濃国に住ましむ。
天日別命の封地の国と為し、宅地を大倭耳梨の村に賜ふ。


  又云ふ。 伊勢と云ふは、伊賀の安志(あなし) の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名、伊勢津彦命、又の名、天櫛玉命。 此の神、昔、石もて城を造り、其の地に坐す。 ここに、安倍志彦の神、来集ふ。 勝たずして還り却る。 因りて名を為すなり。


私見
東の伊勢 有冨上、または石原にあった大神宮
信濃 赤田代
大倭の耳梨 蒲生野山田か

内日の赤田代は垢田の人が移住した説がある。

垢田の字「沓」 は靴を履いた人が上陸した場所という。
垢田八幡宮近くの山の上に蓋弓帽の稗田地蔵堂遺跡がある。

蓋弓帽の稗田地蔵堂遺跡の近くに「秦屋敷」 という地名場所があるという。
稗田の小字「畑」(ハタ) は 稗田南町〜山の田の県住 といわれる。

稗田に石炭層があった。
稗田町 町民館 の坂入り口に「稗田のあゆみ」 看板があり、
第5幼稚園 と 旧川中中学校 の場所に石炭層があったと書かれている。
構造船の祭祀土器が出土した要須遺跡は石炭層にあったので墨江か。

鼻ヅラ海岸の黒ア妙見に天御中主尊が祭られていた。

山口県鹿野(かの)町
2003年 徳山市、新南陽市、熊毛町と合併し、新たに周南市となり消滅した。
鹿野町 鹿野下 字「天子」  建御名方神がここに逃げてきて住んだと伝わる。


伊勢 御崎の字「淵ヶ谷」 の海岸、岩の上に弁財天を祭る祠がある。
この場所は出雲でもある。
安倍志彦は御崎の阿部さん宅か。

万葉集で「留西」 (とまりにし) とは御崎か。
西、黄泉、出雲。

天照大神の黄泉である伊勢は五十師の原
黄泉の出雲は五十田狭の小汀


続日本紀から発想  作成日時 : 2011/11/27
不破の道 = 鈴鹿関  吉見 農免道路横の千石岩
美濃と尾張は場所がほとんど同じで吉見温泉センター
美濃の養老の泉  吉見温泉(アルカリ性単純温泉 25.1度)
岐蘇(吉蘇)  吉見峠
信濃  赤田代
5年前の思いつきなので今とは比定地が異なる。 「吉蘇」 は吉見峠だろう。


陰陽五行と幕の色彩
http://sansenshinbunsya.net/index.php?%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C%E3%81%A8%E5%B9%95%E3%81%AE%E8%89%B2%E5%BD%A9
  これは五行思想が伝わると共に世界認識軸に加わった「南北軸」 を表現していたのではないかと筆者は見ています。 五行思想が入ってくるまでの日本には、「南北」 という世界観がなく、「東西」 の区分けがすべてでした。 「東」 は「生命誕生」、「西」 は「死の方位」 で太陽が再生されるまでそこに籠もる「子宮・胎・」 の方位です。 ところが五行思想が日本に入ってくるなり、「南北」 という新しい世界軸が脚光を浴びます。 「南北軸」 は星を神聖化したもので、北には満天の星を司る「太一(たいいつ)」 という神が北極星に座し、向かい合う南には皇帝の祖先の霊をまつる「天廟」 と位置づけられる「南斗六星」 があり、天子の寿命を司るとされていました。 天を支配し、祖霊と寿命を司る北斗と南斗の軸は、当時の人にとっては太陽軸以上の存在になっていくのです。「赤」 は南、「黒」 は北。 現在ではあまり見ない「赤と黒」 の斑幄が宮中の行事などに盛んに使われたのは、その時代の流行だったのではないでしょうか。


下関市川中
 妙見 竹生寺の横にある妙見社
中央 有冨上 牛を祭る大年社、ハンドウ山の登山口、儀万さん宅
 皇帝の祖霊を祭る天廟があり天子の寿命を司る。
石棺に朱が塗ってあった下有冨石棺、方墳の上ヶ原古墳
伊倉の龍王田遺跡
熊野町の古墳

有冨上 大年池堤防の西にある大年社はかつては中村勝(まさる) さん家屋敷の北辺にあったものを家を建てた時に現在地に移動した。
この大年社は牛を祭るので、神武東征時の牛酒である。 文庫書紀@214-5
彦火火出見尊の軍が倭に入った時、倭には牛がいた。


字「大西」  東は誕生、西は死滅。
有冨の字「大西」 は有冨でも古い家々の墓地がある。

伊倉
伊倉の字「大西」 も古墳時代の埋葬地
字「龍王田」 遺跡あり
字「浅山」  風水の朝山か

孟宗竹は江戸中期に中国から伝来したとされる。
竹生寺縁起では、787年(延暦6) に寺を建てた時、この場所に生えていた竹は孟宗竹だったという。


磁針方位は 西偏約 7°
地図で知る真南だけでなく、方位磁石が指す南も重要である。





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