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zoom RSS ヤマト王権 「倭の五王」 は呉から来た

<<   作成日時 : 2016/09/26 20:20   >>

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リチャード・コシミズ_部落と在日
ttps://www.youtube.com/watch?v=rOLSzAsOrHM

『天皇陵の真相』 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 共著
三一新書 1994年
P51、52
住井 私は天皇家は中国系だと思っているんですがね。 飛鳥へ入ると中国系の村がね、完全に中国から渡来した村がありますよ。
飛鳥の人は、だいたい中国系だと思われるのは男でも足にも脛にも毛がないですよ。



『「神武」は呉からやって来た』 竹田昌暉 著 徳間書店 1997年
著者は東京大学医学部卒 虎ノ門病院 初代麻酔科部長を経て開業医

『徐福王国相模』 前田豊 著 彩流社 2010年
P30〜34
富士山麓 山梨県 山中湖 長生村
毎日新聞 昭和49年9月24日 の夕刊記事
「伝奇始皇帝の "金印" 富士山麓で見つけた」
  ↓
1991年、中国徐州博物館の李氏によって呉国 黄巾軍の大将の名と判明。


山梨県 八代町 狐塚古墳 呉の紀年鏡(238年) 出土

『三国志』 で陳寿が書かなかった孫権の外交戦略
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_04_26.htm
  ↓
■ 呉の紀年銘鏡の出土例はもう一面報告されている。
兵庫県宝塚市安倉南二丁目に築かれた古墳時代前期の円墳の安倉高塚(あくらたかつか)古墳から、昭和12年(1937)に赤烏7年の銘がある鏡が見つかっている。 やはり対置式神獣鏡である。 赤烏7年は西暦244年にあたる。


呉の鏡
山梨県 市川三郷町  鳥居原狐塚古墳 赤烏元年銘鏡
兵庫県 宝塚市  安倉高塚古墳 画文帯神獣鏡(赤烏七年)
熊本県 人吉盆地 免田町  才園古墳 鍍金鏡

沖田遺跡  下関市豊北町角島  
縄文時代終わり〜弥生時代初めの拠点集落 夜臼土器、陶塤
遠賀川・宗像地域と交流か。 関東の土器が出土。 


模擬講義 動画公開(文学部) 龍谷大学教授陣の研究を動画で視聴しよう
ttp://www.ryukoku.ac.jp/admission/movie/academic/let.html

龍谷大学 文献史学 生田敦司
「倭の五王と内政・外政」 下関市立考古博物館 講演レジメ 
百済・高句麗は長史(文官)を派遣、倭は司馬(武官
平西、征虜、冠軍、輔國將軍:中国三国時代に同じ将軍号
倭は朝鮮半島の南岸に拠点を築き、竹幕洞祭祀遺跡から黄海を渡っていた。
朝鮮半島海岸部に点在する倭遺跡を観察して、倭は百済を仲介させずに勝手に中国と往来していた。


私見
宋書の「倭の五王」 は呉の孫権が派遣した遠征軍の後裔である。
中国南朝からの冊封を求めている。 これが関西のヤマト王権である。

旧唐書 倭国
貞観2年 (648) 倭国王は新羅の来た使者にことづけて上表文を届けた。
旧唐書は倭国と日本国を分けて編集しており、倭国は新羅に上表文を預けて唐にあいさつした。

下関 邪馬台国  長崎県松浦市から渡海
関西 ヤマト王権 福岡県宗像市から渡海

万葉集865 松浦の
君を待つ松浦の浦の娘子らは常世の国の海人娘子かも
2002年頃、佐賀県浜玉町、七山村を2回訪れて役場の教育委員会から多くの郷土資料をいただいた。 実際に川を見て、この場所は記紀・万葉の松浦、玉島ではないと言える。

最近、『松浦市史』(1975年) を読んだ。 記紀・万葉の松浦は松浦市である。
筑紫(竺紫、竹斯) の場所は松浦市である。


魏志倭人伝、隋書俀国伝 ・・・ 王、家臣、官は倭名
狗奴国の王・官も倭名

宋書倭国伝 ・・・ 王、武官(司馬曹達) は大陸風の一文字名 


後漢書 地 会稽海外に東鯷人あり。

梁書 倭人は呉の太伯の後裔と自称している。

呉書 亶州に住んだ徐福の子孫は会稽に来て商売をした。
 ↓
土井ヶ浜遺跡から出土のシャコ貝製頸飾りは、南中国との密接な交流を物語る貴重な遺物で、国内には類例がない。
(山口県の古代遺跡〔T〕 古代遺跡教材化研究会 P77左)


山口県史だより  第20号 平成15年10月
北浦地方では親が子供を叱る時に 「そんな事をしよるとゴンゴチィーに連れて行かれるよ」 「ゴンゴーが出てきてかぶられるよ」 と言っていた。
北浦地方にある、恐ろしい化け物を連想させる「ゴンゴチィー」 や「ゴンゴー」 とは一体何なのでしょうか。
この地方では蒙古の兵士に由来すると理解されているようです。

※ 「北浦」 とは山口県の山陰沿岸のこと。 山口県の地元言葉

私見 「ゴンゴチィー」 は呉国の遠征軍来襲か。
孫権 Wikipedia
即位の翌年、衛温・諸葛直に1万を与え、夷州と亶州の捜査を行わせた。 夷州から数千人を連行するも、この捜査は失敗に終わり、孫権は、衛温・諸葛直を処刑した。

『徐福集団渡来と古代日本』 いき一郎 著 三一書房 1996年
P46 「万の兵が数千人しか帰らなかった」 とも読める。

「ゴンゴチィー」 から山口県の山陰沿岸が夷州か。


昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。
  ↓
記紀には織田信長のような戦国武将だった天皇はいない。

隋書 倭国は百済・新羅の東南にあり。 ・・・ 山口県西部
宋書 倭国は高麗の東南大海の中にあり。 ・・・ 関西

聖徳太子の仏教の師は高句麗の僧 恵慈であり、倭と高句麗は友好的な関係だった。(栗本慎一郎)
この倭は下関にあった倭である。

好太王碑文の倭は関西のヤマト王権である。

下関市と長門市西部には古代官道が通ってない。
この "謎" が邪馬台国の場所である。


『現代に息づく 陰陽五行』 増補改訂版 稲田義行著 日本実業出版社
P54 
孝謙天皇と聖武天皇には「皇帝」 の尊号が贈られた。 中国的だ。
「宝字称徳孝謙皇帝」
「勝宝感神聖武皇帝」

古田武彦史学の会
701年(大宝1) 九州王朝から近畿王朝への易姓革命があったと見る。


古代学協会
http://kodaigaku.org/index.html
研究題目 「近畿地方における初期農耕集落形成をめぐる考古学的研究」 班
に問題提起する私の見解 「倭の五王」 は孫権の遠征軍の後裔
をここに発表した。

弥生時代の開始 ― 徐福集団の渡来定着。 夷州、亶洲
古墳時代の開始 ― 呉国の遠征軍が襲来定着

呉の遠征軍は徐福の夷州、亶州に行った。 徐福東渡と呉の遠征は場所が同じ。

古墳に関して、騎馬民族の渡来よりも中国南朝 呉国遠征軍の襲来を重視する。


関西幕府、下関朝廷
宋から授けられた倭国王の称号は百済よりも位が低い。 倭は文官でなく武官を派遣している点から「幕府」 の観がある。
私見では関西は「王朝」 というより「幕府」 だったのではないか。 「東国の強兵」 は関東ではなく関西だった。

日本書記の「呉」 は関西のヤマト幕府だった。 熊本県宇土にも分国があった。 倭の朝廷は下関にあった。 「朝廷」 という言葉は 崇神紀 60年7月14日 の時から使われている。 文庫書紀@300-12

倭の朝廷が下関市域のどこにあったかは風水で解明する。

蓬莱山
前方後円墳=蓬莱山説  岡本健一
下関市域にある前方後円墳の形をした山、丘陵を探す。


沖ノ島祭祀とは何か
倭国  邪馬台国=下関朝廷
百済(ソウル) と国交があるので朝鮮半島の内陸部も通行できる。

魏志倭人伝によれば壱岐・対馬は倭の領地
渡海  松浦市−壱岐−対馬−狗邪韓国−半島縦断 可

関西のヤマト王権
壱岐・対馬は倭(下関の王朝) の領地なので寄港できない。
渡海  宗像市・福津市−沖ノ島−全羅南道の沿岸に無断でキャンプ

全羅道に前方後円墳がある。
在日は韓国の全羅道の出身者が多い。

現代の韓国内の地域対立が古代にもあった。
倭国(下関の王朝) ・・・ ソウルの百済と国交あり
関西のヤマト王権 ・・・ 全羅道との結びつき





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