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zoom RSS 室津の光蓮寺 先祖は鎌足

<<   作成日時 : 2013/10/26 00:22   >>

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光蓮寺の由緒覚は必読である。

防長寺社由来 第7巻
P688上
光蓮寺  室津の字 「戸通」
藤原氏
白鳳元年辛酉天智天皇近江国志賀郡唐ア宮、人王ノ初(自)神武天皇38代云云、同8年彼御宇、于時家臣鎌足(改中臣)連姓初而賜於藤原姓内大臣大織冠、自天皇懐胎ノ一女御給於鎌足、則生男子、淡海公是也、為鎌子続藤原姓、旨趣見于系図 ・・・・・・
藤原末孫新兵衛尉与資法名妙善記之畢
永世7庚午3月吉日  妙善

光蓮寺由緒覚
先祖ハ大織冠鎌足



藤原不比等  Wikipedia
藤原 不比等 ふじわら の ふひと、
斉明天皇5年(659年) - 養老4年8月3日 (720年9月9日)
は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。
藤原鎌足の次男。
文献によっては史(ふひと) と記されている場合もある。

『興福寺縁起』 『大鏡』 『公卿補任』 『尊卑分脈』 などの史料では天智天皇の御落胤と書かれる。
諡号は文忠公、国公は淡海公



私見
光蓮寺の由緒にある淡海は淡海で、藤原不比等である。
藤原不比等は室津の光蓮寺、もしくはその付近で産まれた。
室津の警察交番、室津の郵便局の場所は古代は海で、土地を掘れば貝が出土する。
光蓮寺の前から甲山の方へ潟湖があり「淡海」 があった。
「楽浪の志賀の韓ア」 の淡海国は光蓮寺の前の田畑である。

室津は元寇の時に元の使者が偵察に訪れ上陸した場所なので、白村江の戦の時にも唐軍が上陸した所と推理できる。
室津・黒井・田耕の元寇民話は実は白村江の戦の唐軍上陸だった?


文庫書紀D50‐9
天智天皇 8年10月16日
藤原内大臣薨せぬ。
P51下 注13
家伝に
「16日辛酉、薨 於淡海之第。 時年50有6。 上哭之甚慟、廃朝5(9イ)日」。

室津の光蓮寺は藤原鎌足の私邸だった。

同上
内大臣、春秋50にして、私第に薨せぬ。
遷して山の南に殯す。

土製の馬が出土した室津の下岡田遺跡は藤原内大臣の殯跡かも。

P51上 注6
家伝には「死何有 労 於百姓」。
この云々は元々(百姓) の誤写とする説がある。

私見
中臣鎌足は神道の家なのに、仏教信者だったというのは変である。
中臣鎌足は関西あるいは北九州の出身だろう。

常陸国 鹿島神宮
下関市 新地 の厳島神社あたりに字「石」 がある。 中臣足の「鎌」
伊倉の要須遺跡の南隣は稗田の字「藤原」 である。
小倉南区に葛原(くずはら) があり、「ふじわら」 とも読める。

常陸国は奈良県か
奈良市  藤原鎌足 藤原不比等
春日大社
興福寺




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