邪馬台国 下関

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help RSS 邪馬台国は山口県

<<   作成日時 : 2010/09/04 00:35   >>

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私の方法論は学問一途(学的構成に基づくアプローチ)のやり方でなく、下手な鉄砲(あてずっぽう)も数撃てば当たる式で真理真実の「邪馬台国の位置」に到達するやり方である。

以前は邪馬台国は鹿児島県の隼人と思っていたが、今の結論として「邪馬台国は山口県」である。
山口県を下関市から山陽は広島の宮島まで、山陰は田万川町まで調べて、記紀万葉の難波宮は長門市、吉野・淡海などは須佐町という結論に至った。
三隅川が明日香川で、奈良は秋吉台の長登銅山である。
長門市仙崎の江の川が難波の堀江である。

淡海は長門市の青海島付近とみていたが、山頂から海のカモメが見える霊山が万葉集の香具山なので、その香具山に値する崇める山を探して、これは須佐町の高山であり、淡海の「石走る」を高山のホルンフェルスに比定できた。

中国の使者は壱岐を出航して眼前の東松浦の呼子に着岸したのではなく、遠く流れて山口県山陰側の向津具か須佐町に着岸した。楽浪の海は須佐町の海、高山の海である。

隋書倭国伝は倭国は百済から仏教を取り入れるまで文字がなかったと書いてあるが、これは大陸気質の大雑把さと誇張表現の断言で、正しくは「中国と比べたら漢字が普及してなかった」である。地名で倭国(邪馬台国)の位置を見つけることができたので、倭の地には弥生時代中期には漢字を伴った地名や人名が広く定着していたといえよう。

越中に遠の朝廷があるはずがない。筑紫の遠の朝廷と越国の遠の朝廷は同じものである。
万葉集では淡海国は国津美神の浦だと書かれてある。
倭国の東北一千里に多婆那国があるのだから倭国は超巨大な国ではない。


古田武彦氏が説くように「記紀万葉は九州倭国の書」であるが、仲哀天皇・神功皇后の熊襲征伐で神功皇后は北九州市若松区の江川を通っているので、山口県方面から来ている。神功皇后は若松の江川を通ったことから、倭国は福岡県及び九州ではない。

景行天皇の熊襲征伐で、景行天皇は防府市の佐波から出航しているので、景行天皇の都は佐波付近にあったとみれる。


朝鮮正史 『三国史記』 新羅本紀 の多婆那国の場所を 私は 和名抄 阿武郡 多万郷(田万川町はその遺名) に比定する。
平凡社の地名辞典 山口県巻 須佐湾 P613中 の記述に「(須佐湾は)古くは朝鮮との交易に従事する船にとっての避難場所であったという」と載っている。

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